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インドにおける仏教の衰退 - Wikipedia コンテンツにスキップ

インドにおける仏教ぶっきょう衰退すいたい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

インドにおける仏教ぶっきょう衰退すいたい(インドにおけるぶっきょうのすいたい)は、仏教ぶっきょう誕生たんじょうインドえて繁栄はんえいするときも、様々さまざま理由りゆう発生はっせいした[1]現在げんざいのインドでは仏教徒ぶっきょうとめる人口じんこうは1%にたない。[よう出典しゅってん]

概要がいよう

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ナーランダ僧院そういん遺跡いせき。インドにおける仏教ぶっきょう衰退すいたい里程りていしるべとみなされている。

仏教ぶっきょうは、はじまった紀元前きげんぜん5世紀せいき前後ぜんこうから着実ちゃくじつ成長せいちょうし、紀元前きげんぜん3世紀せいきアショーカおう治下ちかマウリヤあさ国家こっか宗教しゅうきょうとして承認しょうにんされるときまで[2]安定あんていした成長せいちょうせてきた。仏教ぶっきょうは、紀元前きげんぜんすう世紀せいきにわたり繁栄はんえいつづけ、さらには中央ちゅうおうアジアインド大陸たいりくえつ中国ちゅうごく大陸たいりくにまでひろまった。[よう出典しゅってん]

しかし、グプタあさパーラあさ時代じだいのインドにおいて、仏教ぶっきょう着実ちゃくじつ衰退すいたいしていった。ほうあらわげんよしきよしとしせいそうくもといった、5世紀せいきから8世紀せいきあいだにこのたびした中国ちゅうごく僧侶そうりょたちは、とくはくフンぞく侵攻しんこうをきっかけとする、仏教徒ぶっきょうとそうとぎ衰退すいたいについて言及げんきゅうするようになった[3]

衰退すいたいは、12世紀せいきパーラあさ崩壊ほうかいとイスラーム勢力せいりょくインド大陸たいりくへの段階だんかいてき征服せいふくつづいた[3]。そのころまでに仏教ぶっきょうは、とく敵対てきたいてき支配しはいしゃたいして脆弱ぜいじゃくになっていた。それは、支持しじしゃたちだい部分ぶぶん禁欲きんよくてき共同きょうどうたいにいたので、社会しゃかいつよっていなかったからである[4]

ひがしベンガル(現在げんざいバングラデシュ)とネパールでは、古代こだい以来いらいちいさなコミュニティがのこり、インドでは19世紀せいきすえまでに事実じじつじょう絶滅ぜつめつした。最近さいきんでは、インドにおいてアナガーリカ・ダルマパーラクリパサランだい長老ちょうろう英語えいごばんビームラーオ・アンベードカルダライ・ラマ14せいらの影響えいきょう復興ふっこうせている。[よう出典しゅってん]

初期しょき受難じゅなん

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アショーカおう時代じだい仏教ぶっきょう伝播でんぱ紀元前きげんぜん260ねん - 紀元前きげんぜん218ねん

ゴータマ・ブッダの時代じだいは、都市としだけではなく中央ちゅうおう集権しゅうけんられた[5]仏教ぶっきょう拡大かくだい成功せいこうは、中央ちゅうおう集権しゅうけんされた組織そしきりょく変化へんかとともに、その時代じだい経済けいざい成長せいちょう依存いぞんしていた[6]

マウリヤあさにおいてアショーカおうは、仏教ぶっきょう慈悲じひ思想しそうとは反対はんたい殺生せっしょうともなヴェーダ犠牲ぎせいしききんじ、仏教ぶっきょうマガダこく領域りょういきえてひろまりはじめた[7]後継こうけい王朝おうちょうであるシュンガあさ犠牲ぎせいしき復活ふっかつした。かれらは、おおきなサーンチーストゥーパをシュンガあさちかくに建設けんせつした。インド全土ぜんど仏教ぶっきょう拡大かくだいし、それぞれの多様たよう地域ちいきはで、かく地域ちいきつづいている体制たいせいによって支援しえんされた[8]堅固けんご僧院そういん組織そしき仏教ぶっきょう宗教しゅうきょうセンターは、仏教ぶっきょうをインドの知的ちてき生活せいかつ宗教しゅうきょう中心ちゅうしんとした[9]。シュンガあさ初代しょだいおうプシャミトラはまえ188ねんにサーンチーに巨大きょだい仏舎利ぶっしゃりとうぐん建設けんせつした[10]つづカーンヴァあさでは、4にんおう仏教徒ぶっきょうとだった[10]

プシャミトラ在位ざいい紀元前きげんぜん185ねん - 紀元前きげんぜん151ねん)は仏教ぶっきょう敵対てきたいてきで、経典きょうてん仏教ぶっきょう寺院じいんやし、僧侶そうりょ虐殺ぎゃくさつした[11]。この問題もんだいは、現在げんざいでもおおくの議論ぎろんおこなわれており、ベルギーひと歴史れきしでありヒンドゥー研究けんきゅうでもあるクンラート・エルスト英語えいごばん以下いかのようにしるしている。

この[プシャミトラやぶふつ物語ものがたりは、どう時代じだいちかい(2世紀せいきごろの)ふたつの仏教ぶっきょう『アショーカーヴァダーナ』と『ディヴャーヴァダーナ』[12]事実じじつじょう根拠こんきょとしている。このふた物語ものがたりは、ほとんど逐語ちくごてき一致いっちし、共通きょうつう起源きげんつのがあきらかだ。プシャミトラが僧院そういんちょう寄進きしんするという(3世紀せいき以上いじょうあらわれるうたがわしい)物語ものがたりは、かれ僧院そういん建設けんせつ許可きょか援助えんじょし、その領土りょうど仏教ぶっきょう学院がくいん現存げんそんするサーンチー仏塔ぶっとう建設けんせつしたというよく検証けんしょうされた歴史れきしてき事実じじつ、この外的がいてき証拠しょうこによりありにくいものとなる。アショーカおう仏教ぶっきょう擁護ようごのち、シュンガあさ時代じだい仏教ぶっきょうしょ施設しせつは、苦難くなんむかえていたが、迫害はくがいまったべつ問題もんだいだということは充分じゅうぶんありえる。有名ゆうめい仏教ぶっきょう史家しかエティエンヌ・ラモット英語えいごばんは「資料しりょうから判断はんだんすると、プシャミトラ[のやぶふつ]は証拠しょうこくので無罪むざいとすべきである」[13]べている[14]

カーストしょ規則きそく権威けんい範囲はんい漸進ぜんしんてき拡大かくだいは、地方ちほう政治せいじ経済けいざいりょくおよび、集権しゅうけんなみくつがえしていた[15]。カースト制度せいど次第しだい社会しゃかい経済けいざい制裁せいさいしょ規則きそくとして世俗せぞく世界せかいひろまった。

おおくの研究けんきゅうしゃによれば、シュンガあさ諸王しょおうは、バールフットにあるストゥーパの建設けんせつ寄進きしんするなど、仏教ぶっきょう従順じゅうじゅんであるようにえる[16]マハーボーディーにあるブッダガヤ碑文ひぶんには、つぎのような寺院じいん建設けんせつ記録きろくがある:「ブラフマミトラおう(Brahmamitra)のつまナーガデーヴィー(Nagadevi)の寄進きしん」。碑文ひぶんは、「コシキ(Kosikiの息子むすこ)インドラニミトラおうつまける息子むすこたちははクランギ(Kurangi)の寄進きしん王家おうけ宮殿きゅうでん寺院じいんのスリマ(Srima)の寄進きしんでもある」[17][18]める。

インドじん影響えいきょうによる衰退すいたいせつ

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紀元前きげんぜん400ねん紀元きげん1000ねんあいだに、仏教ぶっきょう出費しゅっぴブラフマニズム(Brahmanism[19])により獲得かくとくされたものがられる。仏教ぶっきょうによるブラフマニズムてきイデオロギーの拡大かくだいはブラフマニズムの成長せいちょうにとって重要じゅうよう要因よういんであった[20]ガンジス平原へいげんでは、伝統でんとうてきブラフマニズムは仏教ぶっきょう政治せいじてき精神せいしんてき領域りょういき競合きょうごうするものであったと、何人なんにんもの著作ちょさく指摘してきしている[21][22]一方いっぽう仏教ぶっきょうバクトリアひと諸王しょおう領土りょうどでは繁栄はんえいした[22]

歴史れきしたちは仏教ぶっきょう衰退すいたいかんして、いくつかの可能かのう理由りゆう提案ていあんしている[23]歴史れきしS. R. Goyalによれば、インドにおける仏教ぶっきょう衰退すいたいバラモンたちの敵対てきたい理由りゆうがあったとしている。シヴァ支配しはいしゃであるガウダあさ英語えいごばん(590ねん - 626ねん)のシャシャーンカ英語えいごばんおう菩提樹ぼだいじゅいた[24]

シャンカラマーダヴァーチャーリヤ英語えいごばんラーマーヌジャようなブラフマニズムの哲学てつがくしゃ急増きゅうぞうとともに、ブラフマニズムが復興ふっこうし、インドから仏教ぶっきょう急速きゅうそく姿すがたはじめた[25]

グプタあさ

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仏教ぶっきょうグプタあさした短期間たんきかん復興ふっこうた。4世紀せいきから5世紀せいきにかけて、仏教ぶっきょうすで北部ほくぶインドでは衰退すいたいしており、中央ちゅうおうアジアに拡大かくだいげ、シルクロード沿いに中国ちゅうごくにまで到達とうたつしていた。シャーヒー英語えいごばん王国おうこく治下ちかガンダーラにおいては繁栄はんえいつづけていた。かれらはアジアへ仏教ぶっきょう布教ふきょう奨励しょうれいした。グプタあさ人口じんこう半分はんぶん仏教ぶっきょう支持しじし、五戒ごかい広範囲こうはんい観察かんさつされた[26]

ハルシャ王国おうこく崩壊ほうかい

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ハルシャ在位ざいいちゅう仏教ぶっきょう状況じょうきょうについて現代げんだいじんおおくは、中国ちゅうごくからの巡礼じゅんれいそうげんっている。かれひろ旅行りょこうし、旅行りょこうのこした。かれ仏教ぶっきょうがまださかえているおおくの地域ちいき目撃もくげきしたが、一方いっぽうジャイナきょうやバラモンの秩序ちつじょみちゆずるという、仏教ぶっきょう急激きゅうげきおどろくほどの衰退すいたい目撃もくげきした[27]

げん奘はハルシャおう保護ほご賞賛しょうさんしている。仏教ぶっきょう現在げんざいウッタル・プラデーシュしゅうにあるカナウジ人気にんきがあると、かれしるしている。カナウジでは「仏教徒ぶっきょうと異教徒いきょうと半々はんはん」であるとしるし、ひゃくあまり僧院そういんいちまんあまりそうひゃくあまり神殿しんでん異教徒いきょうとすうせんにんあまり、と記載きさいしている[28]かれ現在げんざいオリッサしゅうUdraでどう程度ていど繁栄はんえいしているひとびとをている。ナーガールジュナ祖国そこくであるコーサラや、今日きょうアーンドラ・プラデーシュしゅうであるアーンドラ[よう曖昧あいまい回避かいひ]や、今日きょうタミル・ナードゥしゅうドラヴィダでは、異教徒いきょうと雑居ざっきょしている、と記載きさいしている[29]

南部なんぶマハーラーシュトラしゅうコールハープルかんがえられる、げん奘がコンカナプラ(Konkanapura)と地方ちほう北部ほくぶマハーラーシュトラでは、かれおおくの仏教徒ぶっきょうとが、仏教徒ぶっきょうとおな程度ていど共存きょうぞんしているのをつけた。シンドでは、おおくのせいりょう(Sammitiya)と上座かみざ仏教ぶっきょう人々ひとびとている。かれげんパキスタンののこりの地域ちいきでかなりの仏教徒ぶっきょうと報告ほうこくしている[30]

今日きょうヴィジャヤワーダ近郊きんこうにある古代こだいダナカタカ(げんダラニコタ英語えいごばん)では、おおくのひとびとがジャイナきょうなど異教徒いきょうととなっている印象いんしょうてき衰退すいたい遭遇そうぐうしている。ビハールにおいては、おおくの重要じゅうよう名所めいしょで、印象いんしょうてき衰退すいたいわずかな仏教徒ぶっきょうとくらべ、ジャイナ教徒きょうととヒンドゥー教徒きょうと優勢ゆうせいをも目撃もくげきしている。ベンガルカーマルーパ英語えいごばん、あるいは現在げんざいアッサムではほとんど仏教徒ぶっきょうとはおらず、コンゴーダ英語えいごばんでは仏教徒ぶっきょうとがおらず、タミル地域ちいきチョーラグジャラートラージャスターンでは少数しょうすうで、例外れいがいとしてカーティヤーワール半島はんとうヴァラビー英語えいごばんおおくの上座かみざ仏教徒ぶっきょうとがいたとしている[31]

チャールキヤあさ領域りょういきにおいて、げん奘はおおくの仏教徒ぶっきょうとストゥーパ廃墟はいきょとなり、破壊はかいされているのを目撃もくげきしている。仏教ぶっきょう共感きょうかんっていたアーンドラあさパッラヴァあさ前代ぜんだい支配しはいしゃたちの領域りょういき建設けんせつされたものである。これらの領域りょういき当時とうじひがしチャールキアあさヴィシュヌ統制とうせいにあり、ひがしチャールキアあさ仏教ぶっきょう好感こうかんっておらず、宗教しゅうきょう支援しえんしもしなかった[32]げん奘の旅行りょこうは7世紀せいきにおけるベンガルのゴウダ王国おうこく英語えいごばんシャシャンカ英語えいごばんおうにも言及げんきゅうしている(当時とうじベンガルでは、グプタあさ滅亡めつぼう、このおう支配しはい影響えいきょう拡大かくだいしていた)。おうげん奘や仏教ぶっきょう史料しりょうThanesar仏教徒ぶっきょうとおうRajyavardhanaが殺害さつがいされたことを非難ひなんしている。げん奘は、ブッダガヤにある菩提樹ぼだいじゅをシャシャーンカおうってき、ふつあしせきこわそうとした[33]記載きさいしている。しかしラメーシュ・チャンドラ・マジュンダル英語えいごばんは、げん奘はハルシャおうのような仏教徒ぶっきょうとおう好感こうかんをもち、仏教徒ぶっきょうととしての偏見へんけんがあり、見解けんかい仏教ぶっきょうりにかたよっている、と主張しゅちょうしている[34]。しかし一方いっぽう、マジュンダルの主張しゅちょう論争ろんそうとなっていて、バラモン教ばらもんきょうによる仏教徒ぶっきょうと迫害はくがい無罪むざい主張しゅちょうしようとするVeradiによって反論はんろんされている[35]

みなみインドにおける仏教ぶっきょう

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みなみインドにおいては、仏教徒ぶっきょうと迫害はくがいはなかった。禅宗ぜんしゅう開祖かいそ達磨だるまクシャトリア出身しゅっしん[36]で、大乗だいじょう仏教ぶっきょう哲学てつがくしゃナーガールジュナみなみインドのバラモンだった。

サータヴァーハナあさのヒンドゥーのかみ々と同様どうようにブッダも崇拝すうはいしていた[37]。Amaravatiおう支配しはい歴史れきしDurga Prasadは、ブッダがヴィシュヌとして崇拝すうはいされているとしるしている[38]

シヴァヴィシュヌらヒンドゥーきょう活発かっぱつなライバルは、仏教ぶっきょう急激きゅうげき衰退すいたいみちびいた[39]。それにもかかわらず、インドのほかのどの地域ちいきよりも、仏教ぶっきょうみなみインドにおいて、おそくとも1500ねんまで、減少げんしょうしてゆくそうとぎとともにながあいだちこたえたことは注目ちゅうもくあたいする[40]

パーラあさ

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パーラあさおおくの寺院じいん建設けんせつし、仏教ぶっきょう芸術げいじゅつせんもん学校がっこうつくった。[よう出典しゅってん]

しかし学者がくしゃ一部いちぶは、貨幣かへいおう名前なまえ語源ごげんがくなどによると、シヴァやうし表象ひょうしょうられることから、かれらはシヴァでもあったとしんじている[41]かれらはヴィシュヌの寺院じいんたてまつった[42]。ヴィシュヌの図像ずぞうはパーラ時代じだい非常ひじょうおおられるものである[43]

ブッダの図像ずぞうくわえて、ヴィシュヌやシヴァやサラスヴァティーもあった[44]

バクティ運動うんどう

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哲学てつがくてき収斂しゅうれん

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仏教ぶっきょう解体かいたいすることに貢献こうけんした要素ようそは、ヒンドゥーきょう勃興ぼっこうたいする仏教ぶっきょう独自どくじせい消滅しょうめつにあった。大乗だいじょう仏教ぶっきょう著述ちょじゅつたちはヒンドゥーきょうにまったく批判ひはんてきで、大乗だいじょう仏教ぶっきょうとヒンドゥーきょういのりの文化ぶんか信徒しんとにとってほとんどおなじようであり、りょう宗教しゅうきょうにおける密教みっきょう発展はってんていた[45]。そのうえ、ヒンドゥーきょう仏教ぶっきょう要素ようそけた。ヴィシュヌ本質ほんしつてき動物どうぶつきょう犠にまゆをひそめ、菜食さいしょく主義しゅぎ実践じっせんした。一方いっぽうシヴァは、宗教しゅうきょうてき実践じっせん無関係むかんけいにカーストの区別くべつ格下かくさげしてきた。さらに、8世紀せいき著名ちょめい哲学てつがくしゃシャンカラ仏教徒ぶっきょうとしき僧院そういん階層かいそう開発かいはつし、仏教ぶっきょうから概念がいねん導入どうにゅうした[45]

仏教ぶっきょうたいするシャンカラの関係かんけいは、古代こだい以来いらい議論ぎろん主題しゅだいだった。かれはインドにおいて、仏教ぶっきょう批判ひはん論客ろんかくとして賞賛しょうさんされ、その没落ぼつらく主要しゅよう設計せっけいしゃとなった。どう時代じだいにおいて、かれ仮面かめんこうむった仏教徒ぶっきょうととして描写びょうしゃされた。これらの意見いけん古代こだいだけではなく、現代げんだい学者がくしゃ哲学てつがくしゃ歴史れきし反対はんたいろんしゃなどにもひろまっている[46]

一方いっぽうシャンカラは、ヒンドゥー文学ぶんがくじょう仏教ぶっきょう敗北はいぼく理論りろんづけ、仏教ぶっきょうしょ地域ちいきにおける突出とっしゅつした地位ちいうしなって以降いこう現実げんじつ勢力せいりょくった。シャンカラが北部ほくぶ宗教しゅうきょう的中てきちゅう心地ごこちおとずれたときかれ過去かこ仏教徒ぶっきょうと哲学てつがくから形作かたちづくられた思想しそうおおくをけた[47]

文献ぶんけんてき証拠しょうこすう世紀せいきえ、ヒンドゥー文化ぶんかによる仏教ぶっきょう要素ようそ吸収きゅうしゅうしめしている[48]はん仏教ぶっきょうのプロパガンダもシャンカラが、仏教ぶっきょう僧団そうだん(サンガ)をモデルとして僧院そういんつくった8世紀せいき頂点ちょうてんたっした[48] 。11世紀せいき初頭しょとうきたインドにおいて、チャンデーラあさ宮廷きゅうていつかえた詩人しじんクリシュナ・ミシュラのサンスクリット寓話ぐうわげき『プラボーダチャンドローダヤ(さとるがつる)』[49] は、おおきな影響えいきょうあたえ、ヒンドゥー教徒きょうと急増きゅうぞうした。寓話ぐうわげきでは、仏教ぶっきょうとジャイナきょうなどが邪教じゃきょうとされ、ヴィシュヌにたいするバクティのみがただしい信仰しんこうとされている[48]きたインドでは、シヴァやヴィシュヌやシャクティ主流しゅりゅうとなった[48]。12世紀せいきまでに、仏教徒ぶっきょうと人口じんこう僧院そういん以外いがいにはほとんどいなくなり、農民のうみん浸透しんとうしたころには、区別くべつされたコミュニティとしてはほとんど認識にんしきされなくなっていた[50]

外部がいぶからの影響えいきょうによる衰退すいたいろん

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はくフン(エフタル)

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中央ちゅうおうアジアとインド北西ほくせいでは、仏教ぶっきょうはくフンぞく侵攻しんこう、6世紀せいきには弱体じゃくたいしていた。はくフンは、テングリマニきょうのような、かれ独自どくじ宗教しゅうきょうしたがっていた。かれらのヒンドゥーきょうシヴァおうミヒラクラ英語えいごばんかれは515ねん以降いこう支配しはいした)は、仏教ぶっきょう同様どうよう抑圧よくあつした。かれ現在げんざいアラハバード付近ふきんいた僧院そういん破壊はかいした[51]

ムハンマド・ビン・カーシム

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イスラームがわ資料しりょうである『チャチュ・ナーマ』によれば、711ねんウマイヤあさ太守たいしゅハッジャージ英語えいごばん派遣はけんされたムハンマド・ビン・カーシム英語えいごばんシンドたいするジハードをおこない、征服せいふく成功せいこうした。これにより、インドとイスラームの関係かんけいと、インドにおけるイスラームの浸透しんとうはじまることとなる[52]。なお、この遠征えんせい成功せいこうには、不人気ふにんきなヒンドゥーおうen:Dahir多数たすうである仏教徒ぶっきょうと支配しはいしていたこと、また、チャチュ英語えいごばん(632ねん - 671ねん)とその親戚しんせき仏教徒ぶっきょうとであるライ王朝おうちょう英語えいごばんしん王国おうこくとも、489ねん - 690ねん)から王位おうい簒奪さんだつしていたことを要因よういんであった[53][54]領内りょうないにおいてヒンドゥーきょう性格せいかく仏教徒ぶっきょうと実践じっせんが、拡散かくさんし、ぼやけてしまっていたとの見解けんかいっているひとびとによって、この資料しりょう見解けんかい疑問ぎもんをもたれている[55]とくにチャチュ自身じしん仏教徒ぶっきょうとだったとしんじているひとびとや、主家しゅかへの忠誠ちゅうせいしんといった双方そうほう観点かんてんにおいて疑問ぎもんをもたれている[56][57]。ムハンマド・ビン・カーシムのぐんはダヒールおうジャートじんやその地方ちほう知事ちじたちと同盟どうめいすることでやぶった[よう出典しゅってん]

『チャチュ・ナーマ』はまた、ネルンのような場所ばしょでストゥーパがモスク転用てんようされたおおくの事例じれい記録きろくしている[58]。そのうえ政府せいふ収入しゅうにゅうの3%がバラモンにてられる、というような支配しはい行政ぎょうせいへの宗教しゅうきょうエリートの協力きょうりょくもあった[53]全体ぜんたいとして、征服せいふくされた地域ちいきムスリムのひとびとはけいてんみんとしてあつかわれ、 人頭じんとうぜいジズヤ)を支払しはらうことで信仰しんこう実践じっせんする自由じゆうみとめられた[53]かれらは軍事ぐんじ奉仕ほうしやムスリム臣下しんかよって支払しはらわれるザカート支払しはらいを免除めんじょされた[59]。ジズヤは、エリートにはおもく、貧民ひんみんそうにはかるく、段階だんかいてきぜい体系たいけい強制きょうせいされた[59]

ガズニーあさのマフムード

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10世紀せいきまでにマフムードはヒンドゥーのカーブル・シャーヒー英語えいごばん勢力せいりょくやぶり、ヒンドゥーの影響えいきょうりょく効果こうかてき削減さくげんし、中央ちゅうおうアジアからパンジャーブまでの仏教徒ぶっきょうと自治じち終息しゅうそくさせた。かれ北西ほくせいインドを横切よこぎだい規模きぼ侵攻しんこうあいだにストゥーパと寺院じいん破壊はかいしたが、かれ支配しはい領域りょういきアフガニスタンうちにおいてはこれらをのこした。ビールーニーさえ預言よげんしゃ"Burxan"として仏陀ぶっだ記録きろくしている[60]。しかしおおくの仏教徒ぶっきょうと拠点きょてんがマフムードにより破壊はかいされ、マトゥラーなどではライバルのバラモン教ばらもんきょう最初さいしょ強制きょうせいてき転用てんようされた証拠しょうこしめしている[61]

マフムードは偶像ぐうぞう破壊はかい主義しゅぎしゃだったといわれている[62]。ヒンドゥー教徒きょうと仏教徒ぶっきょうと彫像ちょうぞう寺院じいん神殿しんでん略奪りゃくだつされ破壊はかいされ、おおくの仏教徒ぶっきょうとはチベットへ避難ひなんした[63]

ゴールあさのムハンマド

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ギヤースッディーン・ムハンマドインド大陸たいりく北西ほくせい地方ちほうすうにわたって攻撃こうげきした。のグジャラート地方ちほうは1197ねんにムハンマドの軍隊ぐんたいちた。ギヤースッディーン・ムハンマドの軍隊ぐんたいは、抵抗ていこうするそのころのインドの伝統でんとうてき軍隊ぐんたい対応たいおうした発展はってんげていた[64]

1200ねんクトゥブッディーン・アイバク将軍しょうぐん一人ひとりであるムハンマド・バフティヤール・ハルジーヴィクラマシーラにあるセーナあさぐんとりで征服せいふくし、おおくの仏教徒ぶっきょうと僧侶そうりょが、一連いちれん戦争せんそうけるためにネパールやチベット、みなみインド逃亡とうぼうした[65]

テュルクひと遭遇そうぐうした仏教徒ぶっきょうと記録きろくはよくのこされている。ひとつの神話しんわによれば、ナーガールジュナほうりゅうつらなる大学だいがくしゃチャンドラキールティは、テュルクぐんはらうためにいし獅子ししったとされている[66]

モンゴル

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1215ねん チンギス・ハーンアフガニスタン征服せいふくし、ムスリムの世界せかい荒廃こうはいさせた。1227ねん死後しごかれ征服せいふく分割ぶんかつされた。チャガタイチャガタイあせこく建国けんこくし、1260ねんフレグイルあせこくをイラン高原こうげん建国けんこくした。かれ息子むすこアルグン仏教ぶっきょう国教こっきょうとし、同時どうじかれはイスラームにきびしくなり、おおくのストゥーパを建設けんせつするためにモスクを破壊はかいした。かれ息子むすこガザンはイスラームに1295ねん改宗かいしゅうし、国家こっか宗教しゅうきょうとした。一方いっぽう、チャガタイあせこく東西とうざい分裂ぶんれつした。分裂ぶんれつのチャガタイあせこくにおいて、タルマシリン(1331ねん - 1334ねん)がイスラームに改宗かいしゅうし、その仏教ぶっきょうや、モンゴルによるストゥーパの建設けんせつかんする言及げんきゅうは、アフガニスタンや中央ちゅうおうアジアではほとんどられなくなった[67]

ティムール

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14世紀せいきティムールはテュルク・モンゴルけい軍閥ぐんばつ子孫しそん[68][69][70][71]西にしアジアと中央ちゅうおうアジアのだい部分ぶぶん征服せいふくし、ティムール帝国ていこく建設けんせつした[よう出典しゅってん]

ティムールは仏教徒ぶっきょうと施設しせつ破壊はかいし、仏教徒ぶっきょうと繁栄はんえいしていた地域ちいき襲撃しゅうげきした[72][73]

ムスリムによる迫害はくがいイスラム教いすらむきょうへの改宗かいしゅう理論りろん

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この理論りろんによれば、ムスリムによるインド征服せいふく段階だんかいで、西北にしきたインドにおいて仏教ぶっきょうはすでに存在そんざいかんうしなっており、仏教徒ぶっきょうと統制とうせいにある地方ちほう政権せいけん存在そんざい示唆しさする証拠しょうこのこされていない、としている[74]イスラム教いすらむきょう到来とうらいしてから13世紀せいきまでの7世紀せいきあいだ、この理論りろんは、ヒンドゥーきょう農村のうそん共同きょうどうたい堅固けんご組織そしきともなおおくの場所ばしょにおいて、おおきな国際こくさいてき貿易ぼうえき宗教しゅうきょうとしてイスラームが仏教ぶっきょうえた、と主張しゅちょうしている[74][75]。17世紀せいきのチベットじん学僧がくそうターラナータ英語えいごばんは、どう時代じだいのインドじん学僧がくそうからおしえをけたものだが、ターラナータの著作ちょさくにはつぎのような内容ないようしるされている(以下いかは『ターラナータ印度いんど仏教ぶっきょう邦訳ほうやくp341-42の要約ようやく)。

  • 最初さいしょにセーナあさおう時代じだいにタジクじん大食たいしょく:イスラーム教徒きょうと意味いみする)が沢山たくさんあらわれた。当時とうじ、オーダンタプリーとヴィクラマシーラ僧院そういんは、おうのために城郭じょうかく種類しゅるい減少げんしょうさせられていたため、軍隊ぐんたいいてまもっていたが、オーダンタプリー僧院そういんそうころされ、僧院そういんこわされタジクじんとりでつくえられた。より北東ほくとうにあるヴィクラマシーラ同様どうようはらわれた[76]
しかしながら一方いっぽうでは、仏教ぶっきょう僧院そういん破壊はかいかんするどう時代じだい証拠しょうこは、ほとんど存在そんざいしていない[74]
ヴィクラマシーラ大学だいがく遺跡いせき

みじかいムスリムの記録きろくと、1230年代ねんだいのチベット旅行りょこうしゃチャクやく伝記でんきが、テュルクおうによって軍営ぐんえいとして利用りようされている僧房そうぼうについてかたっている[74]ターラナータ英語えいごばんのような歴史れきし伝説でんせつは、伝説でんせつてき材料ざいりょうと「テュルクおうがマガダ全土ぜんど征服せいふくし、おおくの僧院そういん破壊はかいし、ナーランダーに打撃だげきあたえ、おおくの僧侶そうりょ外国がいこく逃亡とうぼうした」という要約ようやくわせて、僧房そうぼう破壊はかいとともに仏教ぶっきょう突然とつぜん消滅しょうめつがもたらされたのだ、とした[74]仏教ぶっきょうみなみアジアよりはイランでなが居座いすわり、公式こうしきてきにはモンゴル征服せいふくの55年間ねんかんつづいたとされている[74]。1295ねんのガザン・ハンのイスラームへの改宗かいしゅうおおくの仏教徒ぶっきょうと礼拝れいはい拠点きょてん破壊はかいという反動はんどうてき結果けっかをもたらし僧侶そうりょたちはとおくカシミールへと移住いじゅうしていった[74]

おおくの場所ばしょ破壊はかいされ、名前なまええられた。たとえば、オーダンタプリーの僧院そういんぐんは1197ねんムハンマド・バフティヤール・ハルジーにより破壊はかいされ、まち改名かいめいさせられた[77]。ターラナータは、1608ねん著書ちょしょ『インド仏教ぶっきょう縁起えんぎ[78]において、とく東部とうぶインドの仏教ぶっきょう最後さいごすう世紀せいきあつかっている。

インドにおける仏教ぶっきょう再興さいこう

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Entrance to Jana Baha, Kel Tol

チベット学僧がくそうターラナータ英語えいごばん(1575ねん - 1634ねん[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]は、インドのおおくの地域ちいき非常ひじょう衰退すいたいし、消滅しょうめつしているものの、局所きょくしょてき仏教ぶっきょうのこっていると言及げんきゅうしている。20世紀せいき初頭しょとう仏教ぶっきょうはインドのおおくの地域ちいき絶滅ぜつめつ非常ひじょうちか状況じょうきょうにあった。いくつかの部族ぶぞくみん現在げんざいのインド、ネパール、バングラデシュなどの領域りょういき仏教ぶっきょうおこないをつづけてらしている。[よう出典しゅってん]

Procession of Jana Baha Dyah Jatra, the Bodhisattva of compassion in Kathmandu

ベンガルでは、 吟遊詩人ぎんゆうしじんバウルたちが、仏教ぶっきょうからのつよ影響えいきょうけたヒンドゥーきょうシンクレティズム宗教しゅうきょう混交こんこう)の形式けいしきをいまだにっている。インドじん上座かみざ仏教徒ぶっきょうとちいさな共同きょうどうたいが、ベンガルのチッタゴンの丘陵きゅうりょう地帯ちたいBarua先住民せんじゅうみんチャクマじん英語えいごばんあいだ現在げんざいまで継続けいぞくてき存在そんざいしている[79]かれらは多数たすうめるベンガルはなすイスラーム教徒きょうと移住いじゅうしゃからの圧力あつりょく増大ぞうだいにあり、ひがしパキスタン時代じだいにイスラーム主義しゅぎしゃにより、チャクマじん仏教徒ぶっきょうとだい虐殺ぎゃくさつがあった[80]。チャクマじん精神せいしんてき行動こうどう規範きはん仏教ぶっきょうとヴィシュヌわさったものである[81]

ひがしインドにおいては仏教徒ぶっきょうと施設しせつは、イスラームきょう侵入しんにゅうまで繁栄はんえいしていた。仏教ぶっきょうはまだBaruaのこっていた(ヴィシュヌ要素ようそ実践じっせんしていたが)[82][83]、ベンガルじんのマガダの共同きょうどうたい末裔まつえいチッタゴン移住いじゅうした。インドじん仏教徒ぶっきょうとはネパールのネワールぞくあいだにものこっている。[よう出典しゅってん]

仏教ぶっきょうギルギットバルティスターンで13世紀せいきから14世紀せいきまでのこっていた。おそらくスワット峡谷きょうこく英語えいごばん近郊きんこうかすかにながのこっていた。カシミール峡谷きょうこく隣接りんせつするラダック地方ちほうでは、チベット仏教ぶっきょう今日きょうまでのこっている。[よう出典しゅってん]ジャンムー・カシミール北部ほくぶ領域りょういき言及げんきゅうしている上記じょうき歴史れきしてき流行りゅうこうとティベット仏教ぶっきょう歴史れきしは、1150/1ねん記載きさいされたカルハナ英語えいごばんラージャタランギニー英語えいごばん記録きろくされている。カシミール峡谷きょうこくではイスラームに改宗かいしゅうしたカシミールおうLadakhi Rinchanaによって1323ねんにイスラームが紹介しょうかいされるまでのこっていたが、それをえて、15世紀せいきザイヌル・アービディーン(1419ねん - 1470ねん時代じだいになお、仏教徒ぶっきょうと宰相さいしょうがいた。[よう出典しゅってん]

タミール・ナードゥケーララでは、仏教ぶっきょうは15世紀せいきから16世紀せいきまでのこっていた。その証人しょうにんは『文殊もんじゅ利根りこんほん軌経』の写本しゃほん[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]である。

タミル・ナードゥのナーガパッティナムでは、仏教徒ぶっきょうとひじりぞうがこの時代じだいまでに鋳造ちゅうぞうされきざまれた。[よう出典しゅってん]Chudamani Vihara僧院そういん廃墟はいきょイエズスかいが1867ねん破壊はかいするまでっていた[84]南部なんぶ拠点きょてんではよりながのこったようである。[独自どくじ研究けんきゅう?]

復興ふっこう

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1891ねんブッダガヤへの巡礼じゅんれいしゃにおいて、スリランカ仏教ぶっきょう指導しどうしゃアナガーリカ・ダルマパーラは、仏教ぶっきょう寺院じいんがシヴァ聖職せいしょくしゃわたっていることを衝撃しょうげきけた。ブッダの彫像ちょうぞうはヒンドゥーきょうひじりぞう変換へんかんされ、仏教徒ぶっきょうと礼拝れいはいきんじられていた[85]仏教徒ぶっきょうとはそのときからインドで復興ふっこう運動うんどう開始かいしし、かれだい菩薩ぼさつ協会きょうかい英語えいごばん組織そしきした[85][86]

初期しょき組織そしき努力どりょくはインドの仏教ぶっきょうさい構築こうちくと、ブッダガヤサルマートクシナガラにおける古代こだい仏教徒ぶっきょうと寺院じいん再建さいけん目的もくてきとしていた[87]。アナガーリカ・ダルマパーラにより発足ほっそくした仏教徒ぶっきょうとルネッサンスは、かれのマハーボーディー運動うんどう保守ほしゅてきとも描写びょうしゃされるように、今日きょうのヒンドゥー教徒きょうと仏教徒ぶっきょうと兄弟きょうだい関係かんけいのムードにあって、インドにおける仏教ぶっきょう崩壊ほうかい責任せきにんはムスリムのインド支配しはい責任せきにんする、というものだった[88]初期しょき組織そしき努力どりょくは、ヒンドゥーきょう管理かんりした放置ほうちされてきた多様たよう仏教徒ぶっきょうと寺院じいん回復かいふくすることにあり、ムスリムの侵略しんりゃくによって破壊はかいされた公共こうきょう多様たよう仏教徒ぶっきょうと拠点きょてん寺院じいんにもひらかれていた。[よう出典しゅってん]

Deekshabhoomi Stupa in Nagpur, a replica of the Sanchi stupa, where Ambedkar became a Buddhist.

1950年代ねんだい後半こうはん、ビームラーオ・アンベードカルはインドで不可ふかさわみんのためにしん仏教ぶっきょう運動うんどう開拓かいたくした。アンベードカルはイスラームとキリストきょうへの改宗かいしゅうて、それらがインドのナショナリズムさまたげの要因よういんとなっているとかんがえた[89]。インドにおける仏教ぶっきょう復興ふっこう運動うんどうは、仏教ぶっきょう不可ふかさわみん平等びょうどうるための唯一ゆいいつみちであると主張しゅちょうする一連いちれん記事きじ書籍しょせき出版しゅっぱんし、おおくの変革へんかく実施じっしし、1956ねん10がつ14にちディークシャーブーミでアンベードカルは公式こうしき改宗かいしゅうし、そのとき一斉いっせい改宗かいしゅうしきでは38まんにん以上いじょう不可ふかさわみん参加さんかした。以来いらいおおくのほかのこのような一斉いっせい改宗かいしゅうしき組織そしきされ、政治せいじ問題もんだいすることになった[90]

アンベードカルの改宗かいしゅう以来いらいことなったカーストからのおおくの人々ひとびと仏教ぶっきょう改宗かいしゅうした。おおくのひとびとが、アンベードカルの改宗かいしゅうはじまった仏教徒ぶっきょうと運動うんどうを“アンベードカル仏教ぶっきょう”という用語ようご採用さいようするようにわった [91]

このような改宗かいしゅう頻発ひんぱつは、ヒンドゥーきょう自身じしん改革かいかく努力どりょく導師どうしおおやけ不可ふかさわみんのための支援しえんくちにしはじめたために縮小しゅくしょうしている。もうひとつ、改宗かいしゅう低下ていか理由りゆうは、政府せいふ貧困ひんこん緩和かんわ削減さくげんプログラムの執行しっこうにあり、不可ふかさわみんふくめたおおくの社会しゃかいそう状況じょうきょうおおきく改善かいぜんした。[よう出典しゅってん]

1959ねんダライ・ラマ14せいチベットからインドへ脱出だっしゅつし、インドのダラムサラチベット亡命ぼうめい政権せいけん発足ほっそくさせた[92]そこはしばしチベットの首都しゅとして"しょうラサ"とばる。追放ついほうされたすうせんにんのチベットじんがそのまち移住いじゅうした。追放ついほうしゃ大半たいはんうえダラムサラやマックロード・ガンジにみ、そこに僧院そういん寺院じいん学校がっこうつくった。ダラムサラのまち世界せかい仏教ぶっきょう中心ちゅうしんひとつとなっている。[よう出典しゅってん]

2019ねん現在げんざい不可ふかさわみん中心ちゅうしんに、政府せいふとどけることなく、ヒンズひんずきょうから仏教ぶっきょう改宗かいしゅうするものが爆発ばくはつてきつづけ、現在げんざい仏教徒ぶっきょうとはインド国内こくないで1おくせんまんにんにものぼるとされる。インドの不可ふかさわみんは2おく6せんまんにんいることから、今後こんごもこの改宗かいしゅう傾向けいこうつづくものとられている。[よう出典しゅってん]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Promsak, pg.14
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  6. ^ Richard Gombrich, : A Global Theory of Intellectual Change. Harvard University Press, 2000, page 184.
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  19. ^ 日本語にほんごでは通常つうじょうバラモン教ばらもんきょうやヴェーダきょうやくされるが、ここでは宗教しゅうきょうとして成立せいりつするまえの「バラモン思想しそう」という意味いみ英語えいごの「ブラフマニズム」としるしている
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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