(Translated by https://www.hiragana.jp/)
阿難 - Wikipedia コンテンツにスキップ

おもねがた

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
おもねなん

Ānanda(梵)

Ānanda(ともえ
尊称そんしょう 多聞たもんだいいち仏教ぶっきょうだいさん
生地きじ コーサラこくカピラじょう
宗派しゅうは 声聞しょうもん初期しょき仏教ぶっきょう
釈迦しゃか訶迦
テンプレートを表示ひょうじ

おもねがた(あなん、梵/ともえ:Ānanda आनन्द アーナンダ おもねなん)は、釈迦しゃかじゅうだい弟子でし一人ひとりであり、釈迦しゃか侍者じしゃとしてつね説法せっぽういていたことから多聞たもんだいいち(たもんだいいち)としょうせられた。禅宗ぜんしゅうでは訶迦あといで仏法ぶっぽうづけ法蔵ほうぞうだい3であるとする。[1]おもねなん陀は漢語かんご意訳いやくでは歓喜かんき慶喜よしのぶともしるされる。

なお各種かくしゅ仏典ぶってんには、仏弟子ぶつでし龍王りゅうおうをはじめとして、「-nanda(○○なん陀)」という名前なまえ頻繁ひんぱん登場とうじょうする。たとえばまご陀羅なんほんこうおもねなん陀と名前なまえているため、よく混同こんどうされるが別人べつじんである。

人物じんぶつ出身しゅっしん

[編集へんしゅう]
おもねなん彫像ちょうぞう
おもねなん彫像ちょうぞう

かれ出身しゅっしん仏典ぶってんによって諸説しょせつあり一致いっちしない(後述こうじゅつ)が、一般いっぱんてきには釈迦しゃか従弟じゅうていで、様々さまざま仏典ぶってん釈迦しゃかとその教団きょうだん違背いはいした悪人あくにんとしてえがかれているデーヴァダッタ(ひさげばばたちおとうとわれる。

かれは、釈迦しゃか成道じょうどうしたよるまれたといわれる。大智たいちろんによると、かれちちである斛飯おう(こくぼんのう、ドローノーダナ)が、釈迦しゃか実父じっぷであるシュッドーダナおうきよしめしおうのもとに使者ししゃおくり、おもねなん誕生たんじょうらせたとききよしめしおう非常ひじょうよろこんだので「アーナンダ(歓喜かんき)」とづけられたといい、また国民こくみんみな王子おうじ誕生たんじょうよろこび、それによってづけられたともいわれる。かれおもねりつ(アヌルッダ)などのしょ王子おうじとも釈迦しゃかぼとけもとおもむ仏弟子ぶつでしとなった。とき釈迦しゃかが55さいおもねなんが25さいといわれる(もしくは8さい沙彌さや年少ねんしょう修行しゅぎょうしゃとなったというせつもある)。

なお、『ふつほんぎょうしゅうけい』によると、出家しゅっけするとき釈迦しゃかふつからゆるしをず、おもねなんつつみばばたち2人ふたりだけは、雪山ゆきやま(ヒマラヤ)のふもとの長老ちょうろうゆう陀(ウバッダ)にいて出家しゅっけ具足ぐそく戒をけ、ゆるしをふつしょおもむいて弟子でしとなったとされる。

かれ美男びなんゆえに、女難じょなんこうむることが度々たびたびあったとわれるが、志操しそう堅固けんごにしてまも修行しゅぎょうまっとうした。また智慧ちえおおくしてしょけいしょうしていたが、しんせっするてんけ、じょうとし均等きんとうでなく、つきどおりおこりくことができず、ふつ入滅にゅうめつにはいまゆうがくひと阿羅漢あらかんはてていなかったとわれる。

釈迦しゃか養母ようぼ訶波闍波ひさげ(まか・はじゃはだい=マハー・プラジャパティー)たちが出家しゅっけするさい釈迦しゃか女人にょにん出家しゅっけをなかなかみとめなかったので、おもねなん釈迦しゃかほとけ説得せっとくし、釈迦しゃか女人にょにん出家しゅっけみとめるようになったことは特筆とくひつするてんである(ただし、釈迦しゃか女人にょにん出家しゅっけ躊躇ためらったとの逸話いつわ原始げんし仏典ぶってんとの矛盾むじゅんおおく、後世こうせい付加ふかされたものである可能かのうせいたかいと植木うえき雅俊まさとし主張しゅちょうしている[2])。

出家しゅっけ釈迦しゃかぬまで25年間ねんかんつね近侍きんじし、まわりの世話せわおこなっていた。そのため釈迦しゃか弟子でしなかきょうせつもっとおおきよく記憶きおくしていたので「多聞たもんだいいち」といわれ、だい1かい仏典ぶってん結集けっしゅうにはかれ参加さんかのぞまれたが、当時とうじ結集けっしゅうへの参加さんか資格しかくであった阿羅漢あらかんはていまていなかったので、釈迦しゃか後継こうけいしゃであった訶迦(まかかしょう)は、おもねなん参加さんかみとめなかった。そのためかれ熱誠ねっせいめて瞑想めいそう修行しゅぎょうつづけ、あるときそのつかれから寝具しんぐたおんだ拍子ひょうし忽然こつぜんさとり、ついに阿羅漢あらかんはてたっしたという。ときに仏典ぶってん結集けっしゅう当日とうじつあさのことであったという。

こうしておうしゃじょうななようくつにておこなわれただい1かい仏典ぶってん結集けっしゅうれて参加さんかしたおもねむずかしは、記憶きおくもとづいて釈迦しゃかおしえを口述こうじゅつし、仏典ぶってん編纂へんさんされたという[3]かんやく仏典ぶってん冒頭ぼうとうの「如是にょぜ我聞がもん」という定型ていけいは、「仏陀ぶっだからこのようにいた」という意味いみであるが、この「」とはおおくがおもねがたであるとされる。

ふつ入滅にゅうめつ前後ぜんごには悲嘆ひたん慟哭どうこくしたので、おもねりつから制止せいしされたといわれ、また仏典ぶってん結集けっしゅうさいにも仏典ぶってん以外いがい戒律かいりつなどは細部さいぶてんおぼえておらず、弟子でししゅ訶迦から「なぜ釈迦しゃかぼとけこまかいてん質問しつもんしなかったのか?」とめられたというはなしつたわっている。

おもねそだておう経巻きょうかん7、おもねいくおうつたえまき4、ほうあらわふつこく、またげんだいから西域せいいきなどによると、かれマガダこくやヴェーサリーこくはなれしゃぞく(リッチャヴィ=ヴァッジこくぞく人々ひとびとからあつ信頼しんらいされていたといい、かれ自分じぶん死後しご遺骨いこつ争奪そうだつされることをうれい、ガンジスかわ中洲なかすにおいて、マガダこくおもね闍世(アジャータサットゥ)おうはなれしゃぞくあいきたしたのちに、ふねちゅうから虚空こくう上昇じょうしょうし、こう三昧ざんまいはいって120さいにてぼっし、その遺骨いこつをそれぞれ二分にぶんしてりょうきしとしたという伝説でんせつがある。各国かっこくおうは、その遺骨いこつほうとう建立こんりゅうしたといわれる。

チベット仏教ぶっきょうでは、グル・パドマサンバヴァ出家しゅっけするさい授戒じゅかいした偉大いだいとしてもられている。

出身しゅっしん諸説しょせつについて

[編集へんしゅう]

おもねがたおよ釈迦しゃかぞく系図けいず仏典ぶってんによって様々さまざまであり、一致いっちしないがここではおもだったせつしるす。

  • しろめしおう(はくぼんのう、シュクローダナ)のあにおもねがたおとうとつつみばばたちふんりつせつ
  • 斛飯おうあにつつみばばたちおとうとおもねなんとする(大智たいちろんせつ
  • 甘露かんろめしおう(かんろぼんのう、アムリトーダナ)のあにおもねがたおとうとつつみばばたちおこりけいしゅうもと訶帝けいせつ
  • しろめしおうあに:アーナンダ、次男じなん:ウパダーナ、三男さんなん:デーヴァダッタ(マハーヴァストゥせつ

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

登場とうじょう作品さくひん

[編集へんしゅう]
  • 西遊せいゆう』にも釈迦如来しゃかにょらい弟子でしとして迦葉とともに登場とうじょうしている。もっとも、二人ふたり三蔵さんぞう法師ほうし賄賂わいろもとめるというキャラクターになっている。
  • 手塚てづか治虫おさむの『ブッダ』にも主要しゅようキャラクターとして登場とうじょうするが、そのキャラクターは史実しじつとはいささかことなる。くわしくは「ブッダ」のこう参照さんしょう
  • ギャグ漫画まんがきよし☆おにいさん』でもじゅうだい弟子でし一人ひとりとして登場とうじょうする。キリストきょう使徒しとヨハネとなかい。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ これは日本にっぽん曹洞宗そうとうしゅう顕著けんちょである。禅宗ぜんしゅうでも正法しょうぼうおもねなんづけほうしたとすることもある。つうきょうてきには仏教ぶっきょうジャイナきょうのジナと同様どうよう過去かこほとけななふつともよんふつともされる)と釈迦しゃかとの直接的ちょくせつてき関係かんけいいておらず、づけほうについて論議ろんぎされることはない。
  2. ^ 植木うえき雅俊まさとし差別さべつ超克ちょうこく――原始げんし仏教ぶっきょう法華経ほけきょう人間にんげんかん講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2018ねん原著げんちょ2004ねん)、175, 179ぺーじ 
  3. ^ 馬場ばばきの寿ひさし初期しょき仏教ぶっきょう――ブッダの思想しそうをたどる』〈岩波いわなみ新書しんしょ〉2018ねん、55-59ぺーじISBN 978-4004317357 

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]
  • [1] 仏教ぶっきょう夜話やわ28・30・31、 仏弟子ぶつでしぐんぞう、アーナンダ(うえ)(なか)(した
先代せんだい
だい迦葉
仏教ぶっきょう
だい3
次代じだい
しょうかずおさむ