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四諦したい

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仏教ぶっきょう用語ようご
四諦したい(したい)
パーリ चत्तारि अरियसच्चानि
(cattāri ariyasaccāni)
チベット འཕགས་པའི་བདེན་པ་བཞི་
(Wylie: 'phags pa'i bden pa bzhi
THL: pakpé denpa shyi
)
ビルマ သစ္စာလေးပါး
(IPA: [θしーたɪʔsà lé bá])
中国ちゅうごく 四聖しせいたい(T) / よん圣谛(S)
(拼音sìshèngdì)
日本語にほんご 四諦したい
(マ字まじ: shitai)
朝鮮ちょうせん 사성제(四聖しせいたい)
(sa-seong-je)
英語えいご Four Noble Truths
モンゴル Хутагт дөрвөн үнэн
(Khutagt durvun unen)
シンハラ චතුරාර්ය සත්ය
タイ อริยสัจสี่
(ariyasat sii)
ベトナム Tứ Diệu Đế (よん妙諦みょうてい)
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四諦したい釈迦しゃか(サンスクリット写本しゃほん

四諦したい(したい、: catur-ārya-satya[1], チャトゥル・アーリヤ・サティヤ)または四聖しせいたい(ししょうたい、ともえ: cattāri ariya-saccāni[2], チャッターリ・アリヤ・サッチャーニ、4つの・せいなる・真理しんりたい))とは、仏教ぶっきょうく4しゅ基本きほんてき真理しんり[3][4]たいしゅうたいめつたいみちたいのこと[3][4]よん真諦しんたい[5]しゅうめつどう[6]

  • たい(くたい) - まよいのこの一切いっさい(ドゥッカ)であるという真実しんじつ[4][5][7]
  • しゅうたい(じったい) - 原因げんいん煩悩ぼんのう妄執もうしゅうもとめてかない愛執あいしゅうであるという真実しんじつ[4][5][7]
  • めつたい(めったい) - 原因げんいんめつという真実しんじつ[4]無常むじょうえ、執着しゅうちゃくつことが、くるしみをほろぼしたさと境地きょうちであるということ[4][7]
  • みちたい(どうたい) - さとりにみちび実践じっせんという真実しんじつ[4]さとりにいたるためにははち正道せいどうによるべきであるということ[4][5][7]

たいあつまりたいは、迷妄めいもう世界せかいはていんとをしめし、めつたいみちたいは、あかしさとる世界せかいはていんとをしめ[5]

四諦したいおおむね、じゅう縁起えんぎせつあらわ意味いみ教義きょうぎてき組織そしきしたものであり、原始げんし仏教ぶっきょう教義きょうぎ大綱たいこうしめされているとされる[5]原始げんし仏教ぶっきょう経典きょうてんにかなりふるくからかれ、とく初期しょきから中期ちゅうきにかけてのインド仏教ぶっきょうにおいてもっと重要じゅうようされ、その代表だいひょうてききょうせつとされた[7]

伝統でんとう仏教ぶっきょうでは、四諦したい釈迦しゃか最初さいしょ説法せっぽういたとされている(はつてん法輪ほうりん[5][7]。ただしきん現代げんだい仏教ぶっきょう研究けんきゅうによれば、四諦したいさい古層こそう経典きょうてんにはられず、つぎ古層こそう経典きょうてん段階だんかいから「五根ごこん」よりおくれて「はち正道せいどう(はちひじりどう)」とともにかれるようになったことが判明はんめいしている(仏教ぶっきょう#釈迦しゃか修行しゅぎょうほう)。

よっつの真理しんり[編集へんしゅう]

Maggānaṭṭhaṅgiko seṭṭho, saccānaṃ caturo padā;
Virāgo seṭṭho dhammānaṃ, dvipadānañca cakkhumā.

あらゆるみちなかはち正道せいどうもっとすぐれている。
あらゆるたい(サティヤ)のなか四諦したいもっとすぐれている。
あらゆる状態じょうたいなかはなれよくもっとすぐれている。
あらゆる両足りょうあしものなか具眼ぐがんしゃ仏陀ぶっだ)がもっとすぐれている。

パーリ仏典ぶってん, ダンマパダ 273, Sri Lanka Tripitaka Project

たい[編集へんしゅう]

たい(くたい、: duḥkha satya, ドゥッカ・サティヤ、ともえ: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ[6])とは、まよいの生存せいぞんであるという真理しんり[1]くるしみの真理しんり[8]人生じんせいであるということは、仏陀ぶっだ人生じんせいかん根本こんぽんであると同時どうじに、これこそ人間にんげん生存せいぞん自身じしんのもつ必然ひつぜんてき姿すがたとされる。このような人間にんげんしめすために、仏教ぶっきょうでは四苦八苦しくはっくく。

よんとは、根本こんぽんてきよっつのおもうがままにならないこと、出生しゅっしょうろうやまいである。これらに、したよっつのくわえて八苦はっくという。

  • 愛別離苦あいべつりく(あいべつりく) - あいする対象たいしょうわかれること
  • 怨憎かい(おんぞうえく) - にく対象たいしょう出会であうこと
  • もとめとく(ぐふとっく) - もとめてもられないこと
  • 五蘊ごうんもり(ごうんじょうく) - 五蘊ごうん身体しんたい感覚かんかく概念がいねん決心けっしん記憶きおく)に執着しゅうちゃくすること

非常ひじょうおおきなくるしみ、苦闘くとうするさまをあらわ慣用かんよう四苦八苦しくはっくはここからている。

しゅうたい[編集へんしゅう]

しゅうたい(じったい、じゅうたい、: samudaya satya, サムダヤ・サティヤ、ともえ: samudaya sacca, サムダヤ・サッチャ[6]またはしゅうたい(くじゅうたい)とは、欲望よくぼうきないことが生起せいきさせているという真理しんり[1]、つまり「には原因げんいんがある」という真理しんりくるしみの生起せいき真理しんり[8]しゅうたいとは「みなもと」、あらわれるもととなる煩悩ぼんのうをいうので、しゅうたいともいわれる。しゅう(じゅう(じふ))とは、まねあつめる意味いみで、まねあつめるものは煩悩ぼんのうであるとされる。

しゅうたい原語げんごsamudaya(サムダヤ)であり、一般いっぱんてきには「生起せいきする」「のぼる」という意味いみであり、いで「あつめる」「かさねる」などを意味いみし、さらに「結合けつごうする」などを意味いみする。したがって、しゅう意味いみは「起源きげん」「原因げんいん」「招集しょうしゅう」いずれとも解釈かいしゃくできる。

しゅうたいとは "duḥkha samudaya-satya" とあるので、「原因げんいんである煩悩ぼんのう」「まねあつめる煩悩ぼんのう」を内容ないようとしている。具体ぐたいてきには貪欲どんよく瞋恚しんに(しんに)、愚痴ぐちなどのしんのけがれをいい、その根本こんぽんである渇愛(かつあい, トリシュナー)をいう。これらは、欲望よくぼうもとめてやまない衝動しょうどうてき感情かんじょうをいう。

仏教ぶっきょうにおいて原因げんいん構造こうぞうしめしてあらわしているのは、じゅう縁起えんぎである。じゅう縁起えんぎとは、の12の原因げんいんとそのえんしめしている。は12の原因げんいんシステムであって、12あつまってそれ全体ぜんたいなのである。だから、無明むみょうも渇愛も、根本こんぽん原因げんいんであり、しゅうたいである。

めつたい[編集へんしゅう]

めつたい(めったい、: nirodha satya, ニローダ・サティヤ、ともえ: nirodha sacca, ニローダ・サッチャ[6]めつたい, くめつたい)とは、欲望よくぼうのなくなった状態じょうたいめつ理想りそう境地きょうちであるという真理しんり[1]くるしみの消滅しょうめつ真理しんり[8]修行しゅぎょうしゃ理想りそうのありかた[1]。なお、ニローダはせきめる、制止せいしする、の意味いみ[1]

みちたい[編集へんしゅう]

みちたい(どうたい、: mārga satya, マールガ・サティヤ、ともえ: magga sacca, マッガ・サッチャ[6]めつどうたい, くめつどうたい)とは、めつにいたるためには[1]ななさんじゅう七道しちどうひんといわれる修行しゅぎょうなかひとつの課程かていであるはち正道せいどうによらなければならないという真理しんり[1]くるしみの消滅しょうめついたみち真理しんり[8]。これが仏道ぶつどう、すなわち仏陀ぶっだ体得たいとくした解脱げだつへのみちである。

宗派しゅうはごとのあつか[編集へんしゅう]

ゆう教学きょうがくおさむしょうろん[編集へんしゅう]

大乗だいじょう仏教ぶっきょう[編集へんしゅう]

顕揚けんよう聖教せいきょうろんまきななでは、四諦したい内容ないよう分類ぶんるいしてはちたいとする[5]。また、小乗しょうじょうよん諦観ていかん不完全ふかんぜんであるとするのにたいして大乗だいじょうよん諦観ていかん完全かんぜんであるとする[5]小乗しょうじょうよん諦観ていかんゆうさく四諦したいと貶称し、大乗だいじょうよん諦観ていかんさく四諦したいしょうする[5]。この両方りょうほうわせてはちたいともいう[5]

法相ほうしょうむねでは、めつたいさんめつたいを、みちたいさんみちたいてる[5]天台宗てんだいしゅうではよんしゅ四諦したい生滅しょうめつ四諦したいせい四諦したい無量むりょう四諦したいさく四諦したい)をて、これらをぞうつうべつえんよんきょう配当はいとうする[5]

仏典ぶってんにおけるあつか[編集へんしゅう]

パーリ仏典ぶってん[編集へんしゅう]

パーリ仏典ぶってんでは釈迦しゃかはつてん法輪ほうりんにおいて、四諦したいそれぞれを以下いかさんてんからき(さんてんじゅうぎょうしょう, dvādasākāraṃ yathābhūtaṃ)[9][10]如実にょじつ知見ちけんたので、かみ々と人間にんげんふく衆生しゅじょうなかで「最上さいじょうただしい目覚めざ」に到達とうたつしたと宣言せんげんするにいたったとする[11][12]

  • しめせ(Saccañāṅa; これこそであるなどと四諦したいをそれぞれしめすこと)
  • すすむ(Kiccañāṅa; るべきものであるなどと四諦したい修行しゅぎょうすすめること)
  • あかし(Katañāṅa; わたしはすでにったなどと四諦したいあかしたことをあきらかにすること)

Yato ca kho me bhikkhave, imesu catusu ariyasaccesu evaṃ tiparivaṭṭaṃ dvādasākāraṃ yathābhūtaṃ ñāṇadassanaṃ suvisuddhaṃ ahosi. Athāhaṃ bhikkhave, sadevake loke samārake sabuhmake sassamaṇabrāhmaṇiyā pajāya sadevamanussāya anuttaraṃ sammāsambodhiṃ abhisambudadho paccaññāsiṃ

比丘びくたちよ、わたしはこれら四諦したいさん段階だんかい(tiparivaṭṭaṃ)じゅう側面そくめん(dvādasākāraṃ)の、如実にょじつ知見ちけん(ñāṇadassanaṃ)を清浄せいじょうとなったので、それゆえわたしは、てん悪魔あくま沙門しゃもん婆羅門ばらもん人々ひとびと天人てんにんらがたっしたことがない、上正かみしょうとうさとし(sammāsambodhiṃ)にいたったと宣言せんげんしたのである。

パーリ仏典ぶってん, 律蔵りつぞうだいひん犍度 1.だい犍度, Sri Lanka Tripitaka Project [12]
  • さんてんじゅうぎょうしょう: 真理しんり理解りかいする、真理しんりたいするアクションをしめす、そのアクションを実践じっせんする[9]
    • たい : せいであると真理しんりる。真理しんり理解りかい可能かのうである。真理しんり理解りかいする。
    • しゅうたい : 原因げんいんは渇愛だとる。渇愛はほろぼすべきとる。渇愛をめっすることを目指めざす。
    • めつたい : ほろぼした境地きょうち涅槃ねはんだとる。涅槃ねはん達成たっせいすべきとる。涅槃ねはん達成たっせいつとめる。
    • みちたい : 涅槃ねはんへのみちはち正道せいどうだとる。はち正道せいどう実践じっせんすべきとる。はち正道せいどう完成かんせい目指めざす。

パーリ経典きょうてん長部ながべの『沙門しゃもんはてけい』では、四諦したいは、沙門しゃもん出家しゅっけ修行しゅぎょうしゃ比丘びく比丘尼びくに)が、戒律かいりつ具足ぐそくなみひさげまた順守じゅんしゅによって清浄せいじょう生活せいかついとなみながら、止観しかん瞑想めいそう修行しゅぎょう精進しょうじんつづけることでられるろく神通じんずう最終さいしゅう段階だんかいつきどおり」にいたって、はじめてありのままにることができるとべられている[13][よう検証けんしょう]

仏教ぶっきょう学者がくしゃ三枝さえぐさたかしとくは、スッタニパータをはじめとする詩句しく表現ひょうげんするパーリには異同いどうられるとし、調査ちょうさによって、①しゅうめつどうのみで四諦したいかたりがない→②しゅうめつどう四諦したいかたりもある→③四諦したいかたりのみあり、のじゅん発展はってんして、四諦したいかたりひろられてからは、とくにしゅうめつどう必要ひつようせいえた[14]推測すいそくしている。

だい般涅槃経[編集へんしゅう]

大乗だいじょうの『だい般涅槃経』の四諦したいひん(したいぼん)では、通常つうじょう四諦したいあたらしい大乗的だいじょうてき解釈かいしゃくくわえた、涅槃ねはん教理きょうりてき四聖しせいたいいている。

ひじりたい
このあきらかにてっし、如来にょらい常住じょうじゅう真理しんり会得えとくすること。また常住じょうじゅうほうしんじないことが生死せいし根源こんげんであるとること。
しゅうひじりたい
根源こんげん煩悩ぼんのう妄執もうしゅうであることをてっし、それにたいして如来にょらいふかほう常住じょうじゅうにして不変ふへんえきであり、きわまりないとあかしすること。またほうさきとし正法しょうぼう断滅だんめつすることが生死せいし苦悩くのうあつめる原因げんいんであるとること。
めつひじりたい
原因げんいんである一切いっさい煩悩ぼんのうのぞき、めっすることがさとりの境地きょうちであるが、如来にょらい秘密ひみつぞう(ひみつぞう)をまさしくおさむさとし(しゅち)すれば、煩悩ぼんのうがあってものぞくことができる。また、衆生しゅじょう一人ひとりいちにん自己じこ内蔵ないぞうする如来にょらいぞう(にょらいぞう)(仏性ぶっしょう)をしんずる一念いちねんめっするということ。
みちひじりたい
仏道ぶつどう修行しゅぎょうとおして一体いったい三宝さんぼう仏法僧ぶっぽうそう差別さべつなく一体いったいである)と解脱げだつ涅槃ねはん常住じょうじゅう不変ふへんえきり、修習しゅうしゅうすること。また如来にょらい常住じょうじゅう不変ふへんえきであるから、三宝さんぽう一体いったい解脱げだつ涅槃ねはんけいの2つも常住じょうじゅう不変ふへんえきであるとること。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h 岩波いわなみ仏教ぶっきょう辞典じてん 1989, p. 360.
  2. ^ 水野みずのひろしもと増補ぞうほ改訂かいていパーリ辞典じてん春秋しゅんじゅうしゃ、2013ねん3がつ増補ぞうほ改訂かいていばんだい4さつ、p.124
  3. ^ a b 中村なかむらはじめ 『こうせつ佛教ぶっきょうだい辞典じてんちゅうまき 東京書籍とうきょうしょせき、2001ねん6がつ、680ぺーじ
  4. ^ a b c d e f g h 中村なかむらはじめ 『こうせつ佛教ぶっきょうだい辞典じてんちゅうまき 東京書籍とうきょうしょせき、2001ねん6がつ、670ぺーじ
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m 総合そうごう仏教ぶっきょうだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかい 『総合そうごう仏教ぶっきょうだい辞典じてん』 法蔵館ほうぞうかん、1988ねん1がつ、550-551ぺーじ
  6. ^ a b c d e アルボムッレ・スマナサーラ 2015, Kindleばん位置いちNo.ぜん2025ちゅう 134 / 7%.
  7. ^ a b c d e f 四諦したい(シタイ)とは - コトバンク”. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. 2017ねん7がつ23にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c d 今枝いまえだ 2015, p. 92.
  9. ^ a b アルボムッレ・スマナサーラ『テーラワーダ仏教ぶっきょうみずかたしかめる」ブッダのおしえ』(kindle)Evolving、2018ねん、Chapt.22。ISBN 978-4804613574 
  10. ^ 岩波いわなみ仏教ぶっきょう辞典じてん 1989, p. 325.
  11. ^ パーリ仏典ぶってん, 律蔵りつぞうだいひん犍度 1.だい犍度, Sri Lanka Tripitaka Project
  12. ^ a b 中村なかむらはじめ『ゴータマ・ブッダ : 釈尊しゃくそん生涯しょうがい春秋しゅんじゅうしゃ、1969ねん 
  13. ^ 長尾ながお雅人まさと責任せきにん編集へんしゅう) 『世界せかい名著めいちょ 1 バラモン経典きょうてん 原始げんし仏典ぶってん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1969ねん、503-537ぺーじ
  14. ^ 三枝さえぐさ 2009, p. 197~198.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]