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仏典ぶってん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ビルマのパーリ写本しゃほん

仏典ぶってん(ぶってん)とは、仏教ぶっきょう典籍てんせき略称りゃくしょうで、仏教ぶっきょう聖典せいてん総称そうしょうである。「律蔵りつぞう」「経蔵きょうぞう」「論蔵ろんぞう」という分類ぶんるい形態けいたいから三蔵さんぞうともばれる。言語げんごてきには、パーリサンスクリットなどのインドのものをはじめとして、漢語かんごチベットモンゴル満州まんしゅうのものがあり、西にしなつのものも一部いちぶ現存げんそんする。漢語かんごやパーリから日本語にほんごやくしたものもこれにじゅんじる。

おおきく原始げんし仏典ぶってん大乗だいじょう仏典ぶってんかれる。原始げんし仏典ぶってんにはパーリおよびかんやくおもね含経てんぐんがあり、その一部いちぶ釈尊しゃくそん言葉ことば比較的ひかくてき忠実ちゅうじつつたえているといわれる。Buddhavacana は「仏陀ぶっだ言葉ことば」という意味いみである。

大乗だいじょう仏教ぶっきょう代表だいひょうてき仏典ぶってんとしては、『般若はんにゃけい』、『維摩けい』、『涅槃ねはんけい』、『華厳経けごんきょう』、『法華ほっけさんけい』、『浄土じょうどさんけい』、『きむつよしいただきけい』などがげられる。大乗だいじょう仏典ぶってん西暦せいれき紀元きげん前後ぜんこう以降いこう大乗だいじょう仏教ぶっきょう教団きょうだんによってサンスクリットかたり編纂へんさんされた。歴史れきしじょう釈尊しゃくそんせつではないとする大乗だいじょう仏説ぶっせつもあるが、そのため抽象ちゅうしょうされた人間にんげんてき存在そんざいとしてのブッダせつすなわち仏説ぶっせつであるとしている。般若はんにゃ経典きょうてんぐん、『法華経ほけきょう』、『華厳経けごんきょう』そのがこれにふくまれる。

また大乗だいじょう仏教ぶっきょうではけいただしろんおよび、その注釈ちゅうしゃくしょなどは、大蔵経だいぞうきょうもしくは一切経いっさいきょうばれる叢書そうしょにまとめられた。この作業さぎょうは、中国ちゅうごくでは皇帝こうていめいおこなわれることがおおく、編入へんにゅうされる書物しょもつ基準きじゅん厳格げんかくで、入蔵いりくらろくばれる収録しゅうろく対象たいしょうとすべき仏典ぶってんのリスト(けいろく)とセットにされ、基準きじゅんがいのものはぞうがい(ぞうがい)としょうされた。昭和しょうわ9ねん1934ねん)に、日本にっぽん編纂へんさんされた大正たいしょうしんおさむ大蔵経だいぞうきょうは、より広範囲こうはんい中国ちゅうごく日本にっぽん撰述せんじゅつ典籍てんせきふくめている。

分類ぶんるい[編集へんしゅう]

仏典ぶってんは、ただしけいろんさん分類ぶんるいされ、ひとまとめにされたものが、それぞれ律蔵りつぞう経蔵きょうぞう論蔵ろんぞう総称そうしょうされる。この三種さんしゅ総称そうしょうして「三蔵さんぞう」と[1]

漢字かんじ文化ぶんかけんでは、大乗だいじょう仏教ぶっきょう経典きょうてんにせけい追加ついか段階だんかいてき伝播でんぱ翻訳ほんやく過程かていによって、元々もともとの「三蔵さんぞう」の枠組わくぐみがこわれてしまった。のちに『一切経いっさいきょう』『大蔵経だいぞうきょう』として仏典ぶってんぐんすべしゅう再編さいへんなおしたので、もっぱらこれが仏典ぶってん総称そうしょうとしてもちいられる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

結集けっしゅう作成さくせい[編集へんしゅう]

仏教ぶっきょう聖典せいてんは、釈迦しゃか時代じだい釈迦しゃか文書ぶんしょゆるさなかったため、暗記あんきによって保持ほじされたとつたえられる。この時代じだいインドでは、文字もじすで普及ふきゅうしていたが、その使用しよう商用しょうよう法規ほうき公布こうふなどにかぎられ、世俗せぞく用件ようけんもちいるものではなかった。ことに、くことで自分じぶんはなれるから、聖典せいてんたいする敬虔けいけんさをうしなうとかんがえられて、文字もじしるすのではなく、からだおぼえたわけである。

仏典ぶってん組織そしきてきまれたのは、釈迦しゃか入滅にゅうめつあいだもない時期じきである。釈迦しゃか入滅にゅうめつ一人ひとり比丘びくが「もうからとやかくいわれることもなくなった」と放言ほうげんしたことがきっかけで、これをいた訶迦が、釈迦しゃかきょうせつほうりつ)をただしく記録きろくすることの大切たいせつさを仲間なかま比丘びくたちにうったえ、聖典せいてん編纂へんさんした[2]

この編纂へんさん会議かいぎ結集けっしゅう(けつじゅう、サンスクリット:saṃgīti)と[2]。しかし、ここでは現在げんざい我々われわれにする仏典ぶってん成立せいりつではなく、かくともうべきものがつくられた。この編纂へんさん会議かいぎは、だいいち結集けっしゅうばれている[2]

ぞうひろ伝播でんぱ[編集へんしゅう]

仏典ぶってん当初とうしょすうひゃく年間ねんかん口頭こうとう伝承でんしょうのみで継承けいしょうされた。仏典ぶってん文字もじ写本しゃほんとしてかれるようになったのは紀元前きげんぜん1世紀せいきごろからである。口伝くでんから写本しゃほんへという媒体ばいたい変化へんか大乗だいじょう仏教ぶっきょうんだ、というせつもある。

釈迦しゃかぜん463-まえ383)によって創始そうしされた仏教ぶっきょうは、その開祖かいそ入滅にゅうめつさんよんひゃくねんのあいだは、口頭こうとう伝承でんしょうのみによっておしえを継承けいしょうした。ところが、紀元前きげんぜんいち世紀せいきごろ文字もじ導入どうにゅうされると、おしえのことばが存在そんざいする地平ちへいは、写本しゃほんへとうつえられはじめた。このとき、けいばれる経典きょうてん伝承でんしょう専門せんもんたちは、書写しょしゃされた経典きょうてん口頭こうとう伝承でんしょうのための補助ほじょ手段しゅだんとしてもちいるにとどめるものと、書記しょき言語げんごとして結実けつじつするテクストの重要じゅうようせいづき、伝承でんしょうされた知識ちしき全体ぜんたいなおしにかかるものとに分岐ぶんきした。前者ぜんしゃは「伝統でんとう経典きょうてん」の継承けいしょうをつづけ、後者こうしゃ大乗だいじょう仏典ぶってんした――きょうせつ伝承でんしょう媒体ばいたい変化へんかをめぐって、およそこうした歴史れきしかびあがってくるのである。 ― 下田しもだ正弘まさひろ仏教ぶっきょうとエクリチュール』(東大出版会とうだいしゅっぱんかい、2020ねん)p.321

インドの仏教ぶっきょうると、釈迦しゃか出発しゅっぱつてんとする原始げんし仏教ぶっきょう時代じだい仏教ぶっきょう時代じだい大乗だいじょう仏教ぶっきょう時代じだいみっつの時代じだい、さらにインドから仏教ぶっきょう伝播でんぱしていく過程かていとおして、聖典せいてん作成さくせいされつづけた。釈迦しゃかおしえとして仮託かたくされて後世こうせいにつくられたため、その内容ないよう相互そうご矛盾むじゅんがある。梵文ぼんぶん原典げんてんチベットわけ見当みあたらず、かんやく仏典ぶってんにのみ存在そんざいし、中国ちゅうごく執筆しっぴつされたとみられる経典きょうてんにせけい)もおおい。日本にっぽん仏教ぶっきょうにおいても、したしんだ経典きょうてんなかにせけいとされるものはおおい(大乗だいじょう仏説ぶっせつ)。

仏典ぶってん研究けんきゅうする場合ばあいには出自しゅつじ調査ちょうさむずかしい場合ばあいおおい。ことに経典きょうてん一般いっぱん釈迦しゃか説法せっぽう記録きろく形式けいしきをとり、著作ちょさくしゃめいしるされることはない。具体ぐたいてきうと、現代げんだいじんからは釈迦しゃか死後しごすうひゃくねん経過けいかしてかれたことがあきらかな仏典ぶってんであっても、釈迦しゃかきょうせつただしく継承けいしょうしているという立場たちば標榜ひょうぼうし、「このようにわたしは(ふつから)いている」(かんやく仏典ぶってんでは「如是にょぜ我聞がもん」)というだしではじめられており、仏典ぶってん自身じしんには、いつ、どこで著述ちょじゅつされたかは、明記めいきされていない。したがって、古代こだいから近世きんせい人々ひとびとは、内容ないようとおじきせつであるとしんじて受容じゅようしていった。

伝承でんしょうすると利益りえきがあるという内容ないようおおく、研究けんきゅう対象たいしょうのみならず信仰しんこう対象たいしょうとしてかく仏典ぶってん仏教ぶっきょう伝播でんぱさきさかんに書写しょしゃされ、現代げんだいでは芸術げいじゅつひん文化財ぶんかざいとして重視じゅうしされるものもある(日本にっぽん平家ひらかおさむけいなど)。

きん現代げんだい[編集へんしゅう]

アジア各地かくち経典きょうてん西洋せいようじん収集しゅうしゅうされ、史料しりょう批判ひはんされた結果けっか大乗だいじょう仏説ぶっせつ登場とうじょうした。日本にっぽんでも近世きんせいには疑義ぎぎこっており、近代きんだい仏教ぶっきょうがく受容じゅようされたことにより、学問がくもんてきでは近代きんだい仏教ぶっきょうがく大乗だいじょう仏説ぶっせつ受容じゅようし、一般いっぱんてきでは釈尊しゃくそん直伝じきでんとする古典こてんてき教学きょうがく立脚りっきゃくすることがおおい。

大乗だいじょう経典きょうてん学術がくじゅつてき権威けんいおおきくそこねた一方いっぽう収集しゅうしゅう翻訳ほんやくすすみ、サンスクリットからの直接ちょくせつ翻訳ほんやく口語こうごやくなどもされるようになり、より身近みぢかなものにもなった。

原典げんてん問題もんだい[編集へんしゅう]

各国かっこく翻訳ほんやくされる以前いぜんの「原典げんてん」とぶべき聖典せいてんは、インドの言語げんごによる聖典せいてん中心ちゅうしんになる。釈迦しゃかもちいた言語げんごは、古代こだいマガダ推定すいていされる[よう出典しゅってん]ので、最初さいしょ仏典ぶってんもこの言語げんご使用しようしたとかんがえられる。

かつては「現在げんざいのこ聖典せいてんで、もっとふるいのは、パーリ聖典せいてんである。パーリ仏典ぶってん経蔵きょうぞうかんやく大蔵経だいぞうきょうおもね含部と共通きょうつうしていて、根本こんぽん分裂ぶんれつ以前いぜんもっとふる文献ぶんけん保持ほじしていることがかっている。[よう出典しゅってん]」という上座かみざ仏教ぶっきょう信仰しんこうりそった言説げんせつ漠然ばくぜんしんじられていた。しかし、現在げんざい活用かつようできるパーリ仏典ぶってん写本しゃほんは18世紀せいき以降いこうあたらしいものばかりで来歴らいれき不明ふめいなものがおおいため、現存げんそんのパーリ仏典ぶってん内容ないよう本当ほんとうにそれほどふるいものなのか、学術がくじゅつてき証明しょうめいすることは困難こんなんである。むしろ近年きんねん学界がっかいでは、古代こだいインドの仏教ぶっきょう学術がくじゅつてき考察こうさつするうえで、パーリ仏典ぶってん歴史れきし資料しりょうとしての価値かちかぎられている、という認識にんしきひろまりつつある[3]

かんやく仏典ぶってんは、4世紀せいきしゃくみちやす整理せいりおこなって以来いらい文献ぶんけん成立せいりつ年代ねんだい伝承でんしょう来歴らいれきがはっきりしている。その意味いみでは、学術がくじゅつ研究けんきゅう歴史れきし資料しりょうとしてはむしろパーリ仏典ぶってんより価値かちがある、とする見解けんかいもある[3]かんやく仏典ぶってん大半たいはんはサンスクリット原典げんてんから訳出やくしゅつされたものだが、サンスクリット原典げんてんのこっていないことがおおいうえ、現存げんそんするサンスクリット原典げんてん写本しゃほんかんやくよりふる時代じだいのものはすくない。その理由りゆうとしては、

  • 中国ちゅうごく、インドいずれでも王朝おうちょう交替こうたい宗教しゅうきょう思想しそう変遷へんせんによりあらたな支配しはいそうにとって不都合ふつごう記述きじゅつのある原典げんてん言論げんろん思想しそう統制とうせい意図いとてき破棄はきされた。
  • 中国ちゅうごくではかんやく仏典ぶってん写本しゃほんにより流布るふしたが、サンスクリット原典げんてんかん民族みんぞく社会しゃかいでは需要じゅようがないため保存ほぞんされなかった。
  • 写本しゃほんによらず、わけけいそうくら諳していた聖典せいてんかんやくしたため、もとから原本げんぽん存在そんざいしなかったケースの存在そんざい

かんがえられる。いずれにしても梵本は、中国ちゅうごくではもちいられなかった。

上座かみざ仏教ぶっきょう[編集へんしゅう]

釈迦しゃか入滅にゅうめつおしえをただしくつたえるために、弟子でしたちは聖典せいてん編集へんしゅう集会しゅうかい結集けっしゅう)をひらき、仏典ぶってん整理せいり開始かいしした[2]。ところが、ふつ滅後めつご100-200ねんころには教団きょうだんおおくの分裂ぶんれつし、それぞれの各自かくじ三蔵さんぞうつてするようになった。それらはインドの各地かくち言語げんごによっていたとおもわれる。

仏教ぶっきょう三蔵さんぞう現存げんそんするもの)[4]
上座かみざ大寺おおてら 法蔵ほうぞう せつ一切いっさいゆう 大衆たいしゅう
ほう(Dharma) 長部おさべ
中部ちゅうぶ
相応そうおう
ぞう支部しぶ
- ながおもね含経 ながおもね含経
ちゅうおもね含経
ざつおもね含経
-
りつ(Vinaya) パーリりつ ふんりつ よんふんりつ じゅう誦律
根本こんぽんせつ一切いっさいゆうりつ
訶僧祇律

完全かんぜんかたち現存げんそんするのは、スリランカつたえられた上座かみざけいパーリ仏典ぶってんのみで、現在げんざい、スリランカ、タイ、ミャンマーなど東南とうなんアジアの仏教ぶっきょうこくひろもちいられている。その内容ないようつぎとおりである。

  1. 律蔵りつぞうけい分別ふんべつ戒律かいりつ本文ほんぶん解説かいせつ)、犍度(けんど、教団きょうだん制度せいど規定きてい)、付録ふろく
  2. 経蔵きょうぞう長部おさべ中部ちゅうぶ相応そうおうぞう支部しぶ小部こべの5ぜん4かんやくおもね含経』に相当そうとうする。
  3. 論蔵ろんぞうほうしゅうろん分別ふんべつろんさかいろんひと施設しせつろんろんごとそうろんはつおもむきろんの7

これらは紀元前きげんぜん2世紀せいき-紀元前きげんぜん1世紀せいきころまでに徐々じょじょ形成けいせいされたもので、紀元前きげんぜん1世紀せいきころにスリランカにつたえられたといわれ、以後いごおおくのぞうがい注釈ちゅうしゃくしょ綱要こうようしょ史書ししょとうつくられた。1881ねんロンドンにパーリ聖典せいてん協会きょうかい (Pāli Text Society) が設立せつりつされて原典げんてん校訂こうてい出版しゅっぱんとうがなされ、日本にっぽんでは若干じゃっかんぞうがい文献ぶんけんふくめて『みなみでん大蔵経だいぞうきょう』65かん1935ねん-1941ねん)に完訳かんやくされている。

注意ちゅうい必要ひつようなのは、パーリ仏典ぶってんかならずしもふるかたちのこしているとはかぎらないてんである。かんやくの『おもね含経』には上座かみざつたわったよりふる形態けいたいのものがあったり、あきらかにサンスクリットからのかんやくかんがえられるものがある。その意味いみで、パーリ仏典ぶってん原初げんしょ形態けいたいつたえているとかんがえることは、間違まちがいではないが正確せいかく表現ひょうげんではない。

大乗だいじょう仏教ぶっきょう[編集へんしゅう]

かんやく仏典ぶってん[編集へんしゅう]

中国ちゅうごくにおける仏典ぶってんかんやく事業じぎょう2世紀せいき後半こうはんからはじまり、11世紀せいきすえまでほぼ間断かんだんなく継続けいぞくされた。かんやく事業じぎょう進行しんこうともない、わけけい収集しゅうしゅう分類ぶんるい仏典ぶってん真偽しんぎ判別はんべつ必要ひつようとなり、4世紀せいきすえにはしゃくみちやすによって最初さいしょけいろくである『綜理しゅけい目録もくろく』(ほろび佚)が、6世紀せいきはじめにはそうゆうによって『さんぞうしゅう』が作成さくせいされた。これらのしゅうないし三蔵さんぞうを、北朝ほくちょうきたたかしで「一切経いっさいきょう」とび、南朝なんちょうりょうで「大蔵経だいぞうきょう」とんだといい、ずいとうはつおよんで両者りょうしゃ名称めいしょう確立かくりつし、写経しゃきょう書式しょしきも1ぎょう17前後ぜんこう定着ていちゃくした。

ずいから時代じだいにもみちせんの『だいから内典ないてんろくとうおおくのけいろく編纂へんさんされたが、後代こうだい影響えいきょうあたえたのは730ねんひらくもと18)に完成かんせいしたさとしのぼりせんひらけもと釈教しゃっきょうろく』20かんである。ここでは、南北なんぼくあさ以来いらい仏典ぶってん分類ぶんるいほう踏襲とうしゅうして大乗だいじょう三蔵さんぞう小乗しょうじょう三蔵さんぞうおよび聖賢せいけんしゅうでんとに三大別さんたいべつし、そのうち大乗だいじょう仏典ぶってんを『般若はんにゃ』、『宝積ほうしゃく』、『だいしゅう』、『華厳けごん』、『涅槃ねはん』の大部たいぶとしたうえで、当時とうじ実在じつざいしており、大蔵経だいぞうきょう編入へんにゅうすべき仏典ぶってん総数そうすうを10765048かん決定けっていした。ここに収載しゅうさいされた5048かんけいりつろんは、きたそう以後いご印刷いんさつ大蔵経だいぞうきょう一切経いっさいきょう)の基準きじゅんとなった。

かんやく仏典ぶってんは、写本しゃほん豊富ほうふのこっている。日本にっぽん国内こくないかぎっても、奈良なら時代じだい書写しょしゃされた仏教ぶっきょう経典きょうてんいちせんすうひゃくかん、その奈良なら時代じだいのものから転写てんしゃしたと想定そうていされる平安へいあん時代じだいから鎌倉かまくら時代じだい写経しゃきょういちまんかん以上いじょう現存げんそんしており、これらの写経しゃきょう敦煌とんこう仏教ぶっきょう文献ぶんけんぐん比肩ひけんする重要じゅうよう資料しりょうぐん評価ひょうかされている[5]

大蔵経だいぞうきょう[編集へんしゅう]

テキストの形態けいたいは、初期しょき巻物まきものじょう写本しゃほん巻子本かんすぼん)であったが、きたそうの『ひらき宝蔵ほうぞう以降いこう木版もくはん印刷いんさつ版木はんぎ刊本かんぽんかたちとなった。近年きんねんでは電子でんしデータされた大蔵経だいぞうきょう利用りようできるようになっている。収録しゅうろくされる仏典ぶってんは、三蔵さんぞうけいりつろん)におさまるかんやく文献ぶんけんと、中国ちゅうごくがわ注釈ちゅうしゃくしょ独立どくりつ作品さくひんそう伝記でんき目録もくろくなどの著作ちょさくぐんからなる。[6]

中国ちゅうごく[編集へんしゅう]

きたそうばんけい[編集へんしゅう]

最初さいしょ大蔵経だいぞうきょう刊本かんぽんは、きたそうふとしふとしむね治世ちせい971ねん - 977ねんひらきたから4 - 太平たいへい興国こうこく2)にかけてしょく四川しせんしょう)で版木はんぎられ、983ねん太平たいへい興国こうこく8)に、開封かいふうてられた「しるしけいいん」で印刷いんさつされた。これはふるくは『しょくばん大蔵経だいぞうきょう』とばれていたが、現在げんざいではひらけばん年号ねんごうをとって『ひらき宝蔵ほうぞう』、あるいはふとし詔勅しょうちょくもとづいてひらきばんされたため『みことのりばん』とぶのが一般いっぱんてきである。『ひらけもと釈教しゃっきょうろく』によって編纂へんさんされる。当時とうじの「しょく大字だいじほん」の規格きかく文字もじにより、まいくだり14巻子本かんすぼん形式けいしきであった。これは宋朝そうちょう功徳くどく事業じぎょうで、西にしなつこううらら日本にっぽんなどの近隣きんりん諸国しょこく贈与ぞうよされた。983ねんにゅうそうした東大寺とうだいじそう奝然は、新撰しんせん大蔵経だいぞうきょう481はこ5048かん新訳しんやく経典きょうてん40かんなどを下賜かしされ、日本にっぽんかえったが、藤原ふじわら道長みちなが建立こんりゅうした法成寺ほうじょうじほどこせいれしたために、てらとも焼失しょうしつしてしまった。ただ、あたらしく請来しょうらい招来しょうらい)された大蔵経だいぞうきょうということでさかんに書写しょしゃされたため、その転写てんしゃほん各地かくちいくらかのこっている。『ひらき宝蔵ほうぞう』の原本げんぽんは、世界せかいで12かん確認かくにんされており、日本にっぽんでは京都きょうと南禅寺なんぜんじおよび東京とうきょう台東たいとう区立くりつ書道しょどう博物館はくぶつかんに1かんずつ、けい2かん所蔵しょぞうされている。

きむ時代じだいには、1147ねん - 1173ねんにかけての時期じきに、『かねばん』がつくられる。こちらもまいくだり14ながらくまぼろし大蔵経だいぞうきょうであったが、1933ねん山西さんせいしょうちょうぐすくけんにある広勝ひろかつてら発見はっけんされる。そのため、別名べつめいちょうしろぞう』ともばれている。1984ねんより、このぞうけい底本ていほんにして『中華ちゅうか大蔵経だいぞうきょう』(影印本えいいんぼん)が発刊はっかんされる。また、もと時代じだい数次すうじにわたってこくおこなわれている(もとだい補修ほしゅうばん)。

ちぎりばんけい[編集へんしゅう]

ちぎり990ねん - 1010ねんころひらけばんされた大蔵経だいぞうきょうちぎりこうすすむから割譲かつじょうされたつばめくもじゅうろくしゅう地方ちほうで、このにあったずい以来いらいぼうやまの『石経いしきょう』のテキストも参考さんこうにして、国家こっか事業じぎょうとしておこなわれた印刷いんさつ事業じぎょうであった。この大蔵経だいぞうきょうかねばん同様どうようまぼろし大蔵経だいぞうきょうであったが、1982ねん山西さんせいしょうおうけんにある古刹こさつふつ宮寺みやでらとう安置あんちされた仏像ぶつぞうないから、12かんの『ちぎりばん』が発見はっけんされ、ぼうやま雲居くもいてらの『石経いしきょう』との関係かんけいなどが確認かくにんされ、まいくだり17標準ひょうじゅん形式けいしきであったことが実証じっしょうされた。

みなみそうばんけい[編集へんしゅう]

みなみそうから明代あきよにかけても各地かくち私版しはん大蔵経だいぞうきょう作成さくせいつづいた。それは、ふくしゅう福建ふっけんしょうとうさとしぜんいん11世紀せいきすえ開始かいしされた『とうさとしぜんいんばん』(1075ねん - 1112ねん)にはじまる。これは、きたそうばんけいちぎりばんけい国家こっか事業じぎょうとしてのひらきばんとはことなり、信者しんじゃ寄進きしんによる私版しはん事業じぎょうであった。以後いごおなじくふくしゅうひらき元寺もとてらばん」(1112ねん - 1151ねん)やみずうみしゅうの『おもえけいばん』(1126ねん - 1132ねん)、蘇州そしゅうひらきばんされた『磧砂ばん』(1232ねん - 1305ねん)、杭州こうしゅうの『ひろしやすしばん』(1277ねん - 1290ねん)といったぞうけい印刷いんさつつづいた。この系統けいとうも、標準ひょうじゅん形式けいしきであるまいくだり17である。

あきらすえになると、それまでの巻物まきものではないあたらしい形式けいしき袋綴ふくろとほんの『まんこよみばん大蔵経だいぞうきょう』(みち山蔵やまぞう)が出版しゅっぱんされた。きよしあさ大蔵経だいぞうきょうである『龍蔵りゅうぞう』や、後述こうじゅつ日本にっぽんの『てつばん』、『まんじぞう』は、この系統けいとうぞくする。

朝鮮半島ちょうせんはんとう[編集へんしゅう]

高麗こうらいでは、1010ねんに『ひらき宝蔵ほうぞう』の覆刻ふっこくばんし(『高麗こうらいはつ雕本』)、その版木はんぎもとぐんによる兵火へいか焼失しょうしつすると、1236ねんには『高麗こうらいさい雕本』を完成かんせいさせた。このとき編纂へんさん責任せきにんしゃであり、『高麗こうらいこくしん大蔵経だいぞうきょう校正こうせいべつろく』をせんしたまもり其が、『ちぎりばん』によって『はつ雕本』のあやまりをあらためている。いまうみしるしてら板木はんぎ収蔵しゅうぞうする『さい雕本』の『高麗こうらい大蔵経だいぞうきょう』は、当時とうじあやま雕がすくなくふる姿すがたをとどめる最良さいりょうのテキストとされていたため、明治めいじ大正たいしょう時期じきの『縮刷しゅくさつぞうけい』や後述こうじゅつの『大正たいしょうしんおさむ大蔵経だいぞうきょう』では、きたそうばんけいちぎりばんけいとの校合きょうごうを「ほんまさ所以ゆえんである」として、底本ていほん採用さいようされた。

しかしまもり其が校合きょうごうしたのは、『ひらき宝蔵ほうぞう』『高麗こうらいはつ雕本』『ちぎりばん』のさんしゃのみであり、『ひらき宝蔵ほうぞう』と『高麗こうらいはつ雕本』とは原本げんぽん覆刻ふっこくばん関係かんけいにあり、基本きほんてきどういち系統けいとうのテキストである。つまり、きたそうばんけいちぎりばんけいとのあいだ校合きょうごうしたのみにぎない。のちにテキスト・クリティークがすすむにつれ、「ふる姿すがたをとどめる最良さいりょうのテキスト」という評価ひょうかが「最初さいしょ印刷いんさつされた大蔵経だいぞうきょう」であるということによるおもみであったということがいわれるようになってきた。実際じっさい北京ぺきん中心ちゅうしんとした河北かほくしょう山西さんせいしょう地域ちいきのテキストであるぼうさん石経いしきょう』『ちぎりばん』や、あるいはかんだいからとうだい長安ながやす一切経いっさいきょう写本しゃほん系統けいとうく、みなみそうばんおもえけい福蔵ふくぞう』やもとはんひろしやすしくらとう大蔵経だいぞうきょうほうがよりいテキストである場合ばあいおおく、それにたいして『ひらき宝蔵ほうぞうみことのりばん)』『高麗こうらいばん系統けいとうのテキストは、しょく四川しせんしょう)の地域ちいき流布るふしていた写本しゃほん系列けいれつ一切経いっさいきょう姿すがたをとどめているにぎないというせつされている。

しかし、仏教ぶっきょう中心ちゅうしんであった長安ながやすほう写経しゃきょうのたびに改編かいへんされ、テキストとして洗練せんれんたびくわえていったため、ぎゃく地方ちほうばんであるしょくのテキストのほう原形げんけいめているというせつもある。たとえばばとわけ訶般わか波羅蜜はらみつけい』の冒頭ぼうとうひらき宝蔵ほうぞうで『如是にょぜ我聞がもんいちふつじゅう…』が、「おもえけい福蔵ふくぞう」「ひろしやすしくら」やの「みち山蔵やまぞう」では『如是にょぜ我聞がもんいちばばとぎばばじゅう…』になっているれいられるように、あたらしい時代じだいそうかんやく経典きょうてんのスタイルにわせて改変かいへんされている場合ばあいもある。

日本にっぽん[編集へんしゅう]

日本にっぽんでは、『日本書紀にほんしょき』でしろ雉2ねん(651ねん)の記述きじゅつに「一切経いっさいきょう」がはじめてあらわれるが事実じじつとはかんがえられていない。そのも「一切経いっさいきょう」はしばしばあらわれ、仏典ぶってん収集しゅうしゅう写経しゃきょう読誦とくしょうをしめす[7]竹内たけうちあきらによれば、日本にっぽんでは「一切経いっさいきょう」の名前なまえられてはいたものの、「一切経いっさいきょう」を構成こうせいするけいろく(リスト)である入蔵いりくらろく請来しょうらい奈良なら時代じだいげんによるもの(後述こうじゅつ)がはじめてと推定すいていされ、光明皇后こうみょうこうごうがこれにもとづいて一切経いっさいきょう写経しゃきょうおこなおうとしたところ、一切経いっさいきょう構成こうせいするすべての仏典ぶってん日本にっぽん国内こくないそなわっていないことが判明はんめいしたため、ぞうがいであるべつせいけいにせけいあきら疏(注釈ちゅうしゃくしょ)のるいまでを書写しょしゃしてこれにえた(「がついちにちけい」)とつたえられていることから、日本にっぽんでは「一切経いっさいきょう」という言葉ことばが"しゅはいかぎ一切いっさいの(仏教ぶっきょう経典きょうてん"という意味いみえられていたのではないかと推測すいそくしている[8]

とくに、天平てんぺい7ねん735ねんげん請来しょうらい将来しょうらい)したせんかんは、当時とうじ欽定きんてい大蔵経だいぞうきょう推定すいていされる。底本ていほんとされだい規模きぼ写経しゃきょうがおこなわれた。 寛和ひろかず2ねん(986ねん)に奝然大蔵経だいぞうきょうひらき宝蔵ほうぞう)を輸入ゆにゅうし、確実かくじつ大蔵経だいぞうきょう請来しょうらいとしてもっとふる記録きろくとなる。奝然死後しご藤原ふじわら道長みちながわた法成寺ほうじょうじ経堂きょうどうおさめられた(1021ねん)が火災かさい焼失しょうしつしたとみられる[7]平安へいあん時代じだいまつから鎌倉かまくら時代じだいにかけては、栄西えいさいじゅうみなもとけいせいそのにゅうそうそう努力どりょくで、『そうばん一切経いっさいきょう』が輸入ゆにゅうされた。室町むろまち時代じだいには室町むろまち幕府ばくふ九州きゅうしゅう探題たんだい大内おおうち名義めいぎ朝鮮ちょうせん大蔵経だいぞうきょうもとめ、日本にっぽんおくられた大蔵経だいぞうきょう寺院じいん寄進きしんされた(ただし、朝鮮ちょうせんから請来しょうらい将来しょうらい)された大蔵経だいぞうきょう高麗こうらいばんかぎらず、そうばんもとはんおくられたれいがある。また、寺院じいん要請ようせいけて名義めいぎかたち大蔵経だいぞうきょうもとめる使者ししゃしたれいもある)[9]

  • 慶安けいあん元年がんねん1648ねん)、天海てんかいによる『寛永寺かんえいじばん天海てんかいばん)』が徳川とくがわ幕府ばくふ支援しえんをうけて完成かんせい
  • 天和てんわ元年がんねん1681ねん)、てつどうこうが『黄檗おうばくばん大蔵経だいぞうきょうてつばん)』を完成かんせいてつ艱難辛苦かんなんしんくのち完成かんせいさせた大蔵経だいぞうきょうとして、だい世界せかい大戦たいせんまえ日本にっぽん修身しゅうしん教科書きょうかしょにも採用さいようされて著名ちょめいなものではあるが、歴代れきだい大蔵経だいぞうきょうちゅうもっと誤字ごじおおい。これは、あかりばん大蔵経だいぞうきょう現物げんぶつをバラバラにして、それを裏返うらがえしてもとはんとしたことによる。反面はんめんてつ大蔵経だいぞうきょう刊行かんこうされたことでこれまで特権とっけんてき有力ゆうりょく寺院じいんしかちえなかった大蔵経だいぞうきょう村落そんらく寺院じいんでも所持しょじ出来できるようになった[9]
  • 1885ねん、『だい日本にっぽん校訂こうてい大藏經だいぞうきょう縮刷しゅくさつ藏本ぞうほん』(縮刷しゅくさつ大蔵経だいぞうきょう東京とうきょうひろ教書きょうしょいん)を刊行かんこう底本ていほんは『高麗こうらい大蔵経だいぞうきょう
  • 1902ねん、『まんじぞう』(京都きょうとぞう經書けいしょいん刊行かんこう
  • 1912ねん、『だい日本にっぽんぞくぞうけい』(日本にっぽんぞうけいいん)が完成かんせい

今日きょうかられば校訂こうてい不備ふびおおしとの批判ひはんはあるが、世界せかいにおける仏教ぶっきょうかい仏教ぶっきょう研究けんきゅう寄与きよしているのは、高楠たかくす順次郎じゅんじろう渡辺わたなべうみあさひ監修かんしゅうの『大正たいしょうしんおさむ大藏經だいぞうきょう』(大正たいしょう一切経いっさいきょう刊行かんこうかい)100かんである。高麗こうらいうみしるしてらほん底本ていほんとしてしょほん校合きょうごう1924ねんから1934ねんにいたる歳月さいげつついやし、正蔵しょうぞう(55かん)、ぞくぞう(30かん)、昭和しょうわほうたから目録もくろく(3かん)、図像ずぞう(12かん)をおさめる。

なお『大正たいしょうしんおさむ大蔵経だいぞうきょう』には、底本ていほん高麗こうらい大蔵経だいぞうきょう』テキストにたいする上記じょうきおもえけい福蔵ふくぞう』(そうほん)、『ひろしやすしくら』(元本がんぽん)『みち山蔵やまぞう』(あきらほんとうのテキストとの異同いどう校訂こうてい情報じょうほうせられている。この校訂こうていは、『だい日本にっぽん校訂こうてい縮刷しゅくさつ大蔵経だいぞうきょう』(ちぢみぞう)のそうほん元本がんぽんあきらほんさんほん)との校勘こうかんぎ、それに「宮内庁くないちょうしょりょうぞうそうほん」(宮本みやもと)や「ひじりぞう」などのテキストとの校勘こうかん付加ふかしたものである。三本みもととの校訂こうていかんしては、原典げんてんたっていないとおもわれるケースもあり、校勘こうかん情報じょうほうにも本文ほんぶん同様どうよう誤謬ごびゅう誤植ごしょく存在そんざいする場合ばあいもあるので、利用りようさいには、このてん考慮こうりょする必要ひつようがある。

大正たいしょうしんおさむ大藏經だいぞうきょうまでの主要しゅようかんやく大蔵経だいぞうきょう系列けいれつ

かんやく経典きょうてん日本語にほんごやくくだし)もおこなわれ、『くにやく大藏經だいぞうきょう』、『くにやく一切経いっさいきょう』、『昭和新しょうわしんおさむこくやく大蔵経だいぞうきょう』などがある。また、近年きんねん東京大学とうきょうだいがくの『大正たいしょうしんおさむ大藏經だいぞうきょう』テキストデータベース (SAT) や、台北たいぺい中華ちゅうか電子でんし佛典ぶってん協會きょうかい (CBETA) といったプロジェクトが大正たいしょうしんおさむ大藏經だいぞうきょう電子でんしテキスト推進すいしんしていて、一定いってい制約せいやくないでその使用しよう開放かいほうされている。

チベットやく仏典ぶってん[編集へんしゅう]

チベットにおける個別こべつ仏典ぶってん翻訳ほんやくは、7世紀せいきソンツェン・ガンポ命令めいれいで、チベットやくは、トンミ・サンボータ(チベットばん 英語えいごばん)によってはじめられたが、8世紀せいきまつ仏教ぶっきょう国教こっきょうとなるのにともない、仏典ぶってん翻訳ほんやく王国おうこく国家こっか事業じぎょうとなり、隣国りんごくインドより網羅もうらてき体系たいけいてき仏典ぶってん収集しゅうしゅうし、翻訳ほんやくする作業さぎょう開始かいしされ、すうじゅうねん短期間たんきかん一挙いっきょ完遂かんすいされた。サンスクリット原典げんてん正確せいかく翻訳ほんやくするためのチベット文法ぶんぽう語彙ごい整備せいびおこなわれ (Mahāvyutpatti)、シャン=イェシェデ、カワ=ペルツェク、チョクロ=ルイゲンツェンらが作業さぎょう従事じゅうじ824ねん一応いちおう完成かんせいをみた (dkar-chag ldan-dkar-ma[10][11][12])。

チベット仏教ぶっきょうにおける仏典ぶってん分類ぶんるいは、仏教ぶっきょうけんとも共通きょうつうする「けいただしろん」のさん分類ぶんるいよりも、「仏説ぶっせつ(カンギュル)」、「ろん疏部(テンギュル)」の2分類ぶんるい重視じゅうしされる。カンギュルとは釈尊しゃくそんのことばそのものである「カー」をチベットに「ギュル」(翻訳ほんやく)したもの、テンギュルとは、りゅういつきらインドの仏教ぶっきょう学者がくしゃたちが「カー」にたいしてほどこした注釈ちゅうしゃくである「テン」をチベットに「ギュル」したもの、の意味いみである。

チベットでは、仏典ぶってんは、信仰しんこうしんしるわすものとしてながらく写本しゃほん流布るふしていたが、中国ちゅうごく明朝みょうちょう永楽えいらくみかど中国ちゅうごく使者ししゃ派遣はけんするチベット諸侯しょこう教団きょうだんへの土産みやげとして、1410ねん木版もくはんによる大蔵経だいぞうきょうひらけばん、この習慣しゅうかんがチベットにもれられ、以後いごなに種類しゅるいかがひらけばんされることになった。

また中国ちゅうごくでは、1990年代ねんだいより、洋装ようそうほん形式けいしき刊行かんこうされる中華ちゅうか大蔵経だいぞうきょう事業じぎょう一部いちぶとして、過去かこしょ写本しゃほんしょはんおおくを校合きょうごうしたテンギュルの編纂へんさんすすめられている。

以上いじょうしょはん収録しゅうろくされている教典きょうてんぐん大蔵経だいぞうきょうには、大乗だいじょう経論きょうろん、ことに原典げんてんかんやく現存げんそんしないインド後期こうき仏教ぶっきょう文献ぶんけんおおふくまれており、インド後期こうき仏教ぶっきょう研究けんきゅうにも重要じゅうよう意味いみをもっている。チベットやくがサンスクリットの逐語ちくごやくちかく、原形げんけい還元かんげんしやすいので、原典げんてんのないかんやく仏典ぶってん原型げんけいさぐるためにも重要じゅうようされている。

チベットのよんだい宗派しゅうはのひとつニンマでは、ある時期じき埋蔵まいぞうされた経典きょうてん(テルマ gter-ma)が、ときて、しかるべきさだめをびたテルトン(埋蔵まいぞう経典きょうてん発掘はっくつしゃ)によって発見はっけんされたとするけいろん多数たすうゆうし、同派どうは特徴とくちょうとなっている。テルマ(埋蔵まいぞう経典きょうてん)の出現しゅつげんは、中世ちゅうせい以来いらい現代げんだいいたるまで継続けいぞくしており、いぬいとし学者がくしゃから発掘はっくつしゃによる創作そうさくだとなされることがある。この上記じょうきしょはんことなるタントラ集成しゅうせい(ニンマ・ギューブム)をゆうしている。

日本語にほんごやく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 馬場ばばきの寿ひさし初期しょき仏教ぶっきょう――ブッダの思想しそうをたどる』〈岩波いわなみ新書しんしょ〉2018ねん、83ぺーじISBN 978-4004317357 
  2. ^ a b c d 馬場ばばきの寿ひさし初期しょき仏教ぶっきょう――ブッダの思想しそうをたどる』〈岩波いわなみ新書しんしょ〉2018ねん、59-60ぺーじISBN 978-4004317357 
  3. ^ a b 下田しもだ正弘まさひろ「『せいてん概念がいねんとインド仏教ぶっきょう』を再考さいこうする―直線ちょくせんてき歴史れきしかんからの解放かいほう―」、日本にっぽん印度いんどがく仏教ぶっきょう学会がっかい印度いんどがく佛敎ぶっきょうがく硏究けんきゅう だい68かん だい2ごうれい2ねん3がつ、pp.1043-1035
  4. ^ 馬場ばばきの寿ひさし初期しょき仏教ぶっきょう――ブッダの思想しそうをたどる』〈岩波いわなみ新書しんしょ〉2018ねん、83ぺーじISBN 978-4004317357 
  5. ^ 日本にっぽん写経しゃきょう研究所けんきゅうじょ公式こうしきサイト https://www.icabs.ac.jp/research/koshakyo 閲覧えつらん2023ねん9がつ21にち
  6. ^ 船山ふなやまとおる仏典ぶってんはどうかんやくされたのか―スートラが経典きょうてんになるとき』 ISBN 4000246917
  7. ^ a b 末木すえきぶん日本にっぽん仏教ぶっきょう入門にゅうもん』KADOKAWA/角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん、2014ねん3がつ21にちISBN 4047035378 
  8. ^ 竹内たけうちあきら大寺おおてらせい成立せいりつ都城みやこのじょう」『日本にっぽん古代こだい寺院じいん社会しゃかい』(はなわ書房しょぼう、2016ねんISBN 978-4-8273-1280-5 P96-98
  9. ^ a b 須田すだ牧子まきこ大蔵経だいぞうきょう輸入ゆにゅうとその影響えいきょう」『中世ちゅうせいあさ関係かんけい大内おおうち』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2011ねんISBN 978-4-13-026227-9はら論文ろんぶん:2007ねん
  10. ^ Yoshimura, Shyuki 芳村よしむらおさむもと (1950). The Denkar-ma: An Oldest Catalogue of the Tibetan Buddhist Canons. Kyoto: Ryukoku University.
  11. ^ 川越かわごええいしん『パンタン目録もくろく』(Karchag Phangthangma 英文えいぶん)の研究けんきゅう A Study of dKar chag 'Phang thang ma.、日本にっぽん西蔵にしくら学会がっかい会報かいほう、51: 115 – 131.
  12. ^ Kawagoe Eishin 川越かわごええいしん (2005b). Dkar chag ʼPhang thang ma. Sendai: 東北とうほくインド・チベット研究けんきゅうかいTōhoku Indo-Chibetto Kenkyūkai.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]