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ビルマのパーリ語 ご 写本 しゃほん
仏典 ぶってん (ぶってん)とは、仏教 ぶっきょう 典籍 てんせき の略称 りゃくしょう で、仏教 ぶっきょう の聖典 せいてん の総称 そうしょう である。「律蔵 りつぞう 」「経蔵 きょうぞう 」「論蔵 ろんぞう 」という分類 ぶんるい 形態 けいたい から三蔵 さんぞう とも呼 よ ばれる。言語 げんご 的 てき には、パーリ語 ご ・サンスクリット語 ご などのインドのものを初 はじ めとして、漢語 かんご 、チベット語 ご 、モンゴル語 ご 、満州 まんしゅう 語 ご のものがあり、西 にし 夏 なつ 語 ご のものも一部 いちぶ 現存 げんそん する。漢語 かんご やパーリ語 ご から日本語 にほんご に訳 やく したものもこれに準 じゅん じる。
大 おお きく原始 げんし 仏典 ぶってん と大乗 だいじょう 仏典 ぶってん に分 わ かれる。原始 げんし 仏典 ぶってん にはパーリ五 ご 部 ぶ および漢 かん 訳 やく の阿 おもね 含経典 てん 群 ぐん があり、その一部 いちぶ は釈尊 しゃくそん の言葉 ことば を比較的 ひかくてき 忠実 ちゅうじつ に伝 つた えているといわれる。Buddhavacana は「仏陀 ぶっだ の言葉 ことば 」という意味 いみ である。
大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう の代表 だいひょう 的 てき な仏典 ぶってん としては、『般若 はんにゃ 経 けい 』、『維摩経 けい 』、『涅槃 ねはん 経 けい 』、『華厳経 けごんきょう 』、『法華 ほっけ 三 さん 部 ぶ 経 けい 』、『浄土 じょうど 三 さん 部 ぶ 経 けい 』、『金 きむ 剛 つよし 頂 いただき 経 けい 』などが挙 あ げられる。大乗 だいじょう 仏典 ぶってん は西暦 せいれき 紀元 きげん 前後 ぜんこう 以降 いこう 、大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう 教団 きょうだん によってサンスクリット 語 かたり で編纂 へんさん された。歴史 れきし 上 じょう の釈尊 しゃくそん の説 せつ ではないとする大乗 だいじょう 非 ひ 仏説 ぶっせつ もあるが、そのため抽象 ちゅうしょう 化 か された非 ひ 人間 にんげん 的 てき 存在 そんざい としてのブッダ の説 せつ すなわち仏説 ぶっせつ であるとしている。般若 はんにゃ 経典 きょうてん 群 ぐん 、『法華経 ほけきょう 』、『華厳経 けごんきょう 』その他 た がこれに含 ふく まれる。
また大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう では経 けい ・律 ただし ・論 ろん および、その注釈 ちゅうしゃく 書 しょ などは、大蔵経 だいぞうきょう もしくは一切経 いっさいきょう と呼 よ ばれる叢書 そうしょ にまとめられた。この作業 さぎょう は、中国 ちゅうごく では皇帝 こうてい 名 めい で行 おこな われることが多 おお く、編入 へんにゅう される書物 しょもつ の基準 きじゅん が厳格 げんかく で、入蔵 いりくら 録 ろく と呼 よ ばれる収録 しゅうろく 対象 たいしょう とすべき仏典 ぶってん のリスト(経 けい 録 ろく )とセットにされ、基準 きじゅん 外 がい のものは蔵 ぞう 外 がい (ぞうがい)と称 しょう された。昭和 しょうわ 9年 ねん (1934年 ねん )に、日本 にっぽん で編纂 へんさん された大正 たいしょう 新 しん 脩 おさむ 大蔵経 だいぞうきょう は、より広範囲 こうはんい に中国 ちゅうごく ・日本 にっぽん 撰述 せんじゅつ の典籍 てんせき も含 ふく めている。
仏典 ぶってん は、律 ただし ・経 けい ・論 ろん に三 さん 分類 ぶんるい され、ひとまとめにされたものが、それぞれ律蔵 りつぞう 、経蔵 きょうぞう 、論蔵 ろんぞう と総称 そうしょう される。この三種 さんしゅ を総称 そうしょう して「三蔵 さんぞう 」と呼 よ ぶ[1] 。
漢字 かんじ 文化 ぶんか 圏 けん では、大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう 経典 きょうてん や偽 にせ 経 けい の追加 ついか 、段階 だんかい 的 てき な伝播 でんぱ ・翻訳 ほんやく 過程 かてい によって、元々 もともと の「三蔵 さんぞう 」の枠組 わくぐ みが壊 こわ れてしまった。後 のち に『一切経 いっさいきょう 』『大蔵経 だいぞうきょう 』として仏典 ぶってん 群 ぐん を総 すべ 集 しゅう ・再編 さいへん し直 なお したので、専 もっぱ らこれが仏典 ぶってん の総称 そうしょう として用 もち いられる。
結集 けっしゅう と作成 さくせい [ 編集 へんしゅう ]
仏教 ぶっきょう の聖典 せいてん は、釈迦 しゃか 時代 じだい は釈迦 しゃか が文書 ぶんしょ 化 か を許 ゆる さなかったため、暗記 あんき によって保持 ほじ されたと伝 つた えられる。この時代 じだい のインド では、文字 もじ は既 すで に普及 ふきゅう していたが、その使用 しよう は商用 しょうよう や法規 ほうき の公布 こうふ などに限 かぎ られ、世俗 せぞく の用件 ようけん に用 もち いるものではなかった。ことに、書 か くことで自分 じぶん を離 はな れるから、聖典 せいてん に対 たい する敬虔 けいけん さを失 うしな うと考 かんが えられて、文字 もじ に記 しる すのではなく、体 からだ で覚 おぼ えたわけである。
仏典 ぶってん が組織 そしき 的 てき に編 あ まれたのは、釈迦 しゃか の入滅 にゅうめつ 後 ご 間 あいだ もない時期 じき である。釈迦 しゃか の入滅 にゅうめつ 時 じ に一人 ひとり の比丘 びく が「もう師 し からとやかくいわれることもなくなった」と放言 ほうげん したことがきっかけで、これを聞 き いた摩 ま 訶迦葉 は が、釈迦 しゃか の教 きょう 説 せつ (法 ほう と律 りつ )を正 ただ しく記録 きろく することの大切 たいせつ さを仲間 なかま の比丘 びく たちに訴 うった え、聖典 せいてん を編纂 へんさん した[2] 。
この編纂 へんさん 会議 かいぎ を結集 けっしゅう (けつじゅう、サンスクリット :saṃgīti)と呼 よ ぶ[2] 。しかし、ここでは現在 げんざい 我々 われわれ が目 め にする仏典 ぶってん の成立 せいりつ ではなく、核 かく とも言 い うべきものが作 つく られた。この編纂 へんさん 会議 かいぎ は、第 だい 一 いち 結集 けっしゅう と呼 よ ばれている[2] 。
仏典 ぶってん は当初 とうしょ の数 すう 百 ひゃく 年間 ねんかん は口頭 こうとう 伝承 でんしょう のみで継承 けいしょう された。仏典 ぶってん が文字 もじ で写本 しゃほん として書 か かれるようになったのは紀元前 きげんぜん 1世紀 せいき ごろからである。口伝 くでん から写本 しゃほん へという媒体 ばいたい の変化 へんか が大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう を生 う んだ、という説 せつ もある。
釈迦 しゃか (
前 ぜん 463-
前 まえ 383)によって
創始 そうし された
仏教 ぶっきょう は、その
開祖 かいそ の
入滅 にゅうめつ 後 ご 、
三 さん 、
四 よん 百 ひゃく 年 ねん のあいだは、
口頭 こうとう 伝承 でんしょう のみによって
教 おし えを
継承 けいしょう した。ところが、
紀元前 きげんぜん 一 いち 世紀 せいき 頃 ごろ に
文字 もじ が
導入 どうにゅう されると、
教 おし えのことばが
存在 そんざい する
地平 ちへい は、
写本 しゃほん へと
移 うつ し
替 か えられはじめた。このとき、
経 けい 師 し と
呼 よ ばれる
経典 きょうてん 伝承 でんしょう の
専門 せんもん 家 か たちは、
書写 しょしゃ された
経典 きょうてん を
口頭 こうとう 伝承 でんしょう のための
補助 ほじょ 手段 しゅだん としてもちいるにとどめるものと、
書記 しょき 言語 げんご として
結実 けつじつ するテクストの
重要 じゅうよう 性 せい に
気 き づき、
伝承 でんしょう された
知識 ちしき 全体 ぜんたい の
見 み なおしにかかるものとに
分岐 ぶんき した。
前者 ぜんしゃ は「
伝統 でんとう 経典 きょうてん 」の
継承 けいしょう をつづけ、
後者 こうしゃ は
大乗 だいじょう 仏典 ぶってん を
生 う み
出 だ した――
教 きょう 説 せつ 伝承 でんしょう の
媒体 ばいたい の
変化 へんか をめぐって、およそこうした
歴史 れきし が
浮 う かびあがってくるのである。 ―
下田 しもだ 正弘 まさひろ 『
仏教 ぶっきょう とエクリチュール』(
東大出版会 とうだいしゅっぱんかい 、2020
年 ねん )p.321
インドの仏教 ぶっきょう 史 し を見 み ると、釈迦 しゃか を出発 しゅっぱつ 点 てん とする原始 げんし 仏教 ぶっきょう 時代 じだい 、部 ぶ 派 は 仏教 ぶっきょう 時代 じだい 、大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう 時代 じだい の三 みっ つの時代 じだい 、さらにインドから仏教 ぶっきょう が伝播 でんぱ していく過程 かてい を通 とお して、聖典 せいてん は作成 さくせい され続 つづ けた。釈迦 しゃか の教 おし えとして仮託 かたく されて後世 こうせい につくられたため、その内容 ないよう は相互 そうご に矛盾 むじゅん がある。梵文 ぼんぶん 原典 げんてん やチベット語 ご 訳 わけ が見当 みあ たらず、漢 かん 訳 やく 仏典 ぶってん にのみ存在 そんざい し、中国 ちゅうごく で執筆 しっぴつ されたとみられる経典 きょうてん (偽 にせ 経 けい )も多 おお い。日本 にっぽん 仏教 ぶっきょう においても、慣 な れ親 した しんだ経典 きょうてん の中 なか に偽 にせ 経 けい とされるものは多 おお い(大乗 だいじょう 非 ひ 仏説 ぶっせつ )。
仏典 ぶってん を研究 けんきゅう する場合 ばあい には出自 しゅつじ 調査 ちょうさ は難 むずか しい場合 ばあい が多 おお い。ことに経典 きょうてん は一般 いっぱん に釈迦 しゃか の説法 せっぽう の記録 きろく の形式 けいしき をとり、著作 ちょさく 者 しゃ 名 めい が記 しる されることはない。具体 ぐたい 的 てき に言 い うと、現代 げんだい 人 じん からは釈迦 しゃか の死後 しご 数 すう 百 ひゃく 年 ねん を経過 けいか して書 か かれたことが明 あき らかな仏典 ぶってん であっても、釈迦 しゃか の教 きょう 説 せつ を正 ただ しく継承 けいしょう しているという立場 たちば を標榜 ひょうぼう し、「このように私 わたし は(仏 ふつ から)聞 き いている」(漢 かん 訳 やく 仏典 ぶってん では「如是 にょぜ 我聞 がもん 」)という出 で だしで始 はじ められており、仏典 ぶってん 自身 じしん には、いつ、どこで著述 ちょじゅつ されたかは、明記 めいき されていない。したがって、古代 こだい から近世 きんせい の人々 ひとびと は、内容 ないよう の通 とお り直 じき 説 せつ であると信 しん じて受容 じゅよう していった。
伝承 でんしょう すると利益 りえき があるという内容 ないよう も多 おお く、研究 けんきゅう の対象 たいしょう のみならず信仰 しんこう 対象 たいしょう として各 かく 仏典 ぶってん は仏教 ぶっきょう の伝播 でんぱ 先 さき で盛 さか んに書写 しょしゃ され、現代 げんだい では芸術 げいじゅつ 品 ひん や文化財 ぶんかざい として重視 じゅうし されるものもある(日本 にっぽん の平家 ひらか 納 おさむ 経 けい など)。
アジア各地 かくち で経典 きょうてん が西洋 せいよう 人 じん に収集 しゅうしゅう され、史料 しりょう 批判 ひはん された結果 けっか 、大乗 だいじょう 非 ひ 仏説 ぶっせつ が登場 とうじょう した。日本 にっぽん でも近世 きんせい には疑義 ぎぎ が起 お こっており、近代 きんだい 仏教 ぶっきょう 学 がく が受容 じゅよう されたことにより、学問 がくもん 的 てき な場 ば では近代 きんだい 仏教 ぶっきょう 学 がく ・大乗 だいじょう 非 ひ 仏説 ぶっせつ を受容 じゅよう し、一般 いっぱん 的 てき な場 ば では釈尊 しゃくそん 直伝 じきでん とする古典 こてん 的 てき な教学 きょうがく に立脚 りっきゃく することが多 おお い。
大乗 だいじょう 経典 きょうてん が学術 がくじゅつ 的 てき 権威 けんい を大 おお きく損 そこ ねた一方 いっぽう 、収集 しゅうしゅう と翻訳 ほんやく が進 すす み、サンスクリット語 ご からの直接 ちょくせつ 翻訳 ほんやく 、口語 こうご 訳 やく などもされるようになり、より身近 みぢか なものにもなった。
各国 かっこく 語 ご に翻訳 ほんやく される以前 いぜん の「原典 げんてん 」と呼 よ ぶべき聖典 せいてん は、インドの言語 げんご による聖典 せいてん が中心 ちゅうしん になる。釈迦 しゃか の用 もち いた言語 げんご は、古代 こだい マガダ語 ご と推定 すいてい される[要 よう 出典 しゅってん ] ので、最初 さいしょ 期 き の仏典 ぶってん もこの言語 げんご を使用 しよう したと考 かんが えられる。
かつては「現在 げんざい 残 のこ る聖典 せいてん で、最 もっと も古 ふる いのは、パーリ語 ご の聖典 せいてん である。パーリ仏典 ぶってん は経蔵 きょうぞう が漢 かん 訳 やく 大蔵経 だいぞうきょう の阿 おもね 含部と共通 きょうつう していて、根本 こんぽん 分裂 ぶんれつ 以前 いぜん の最 もっと も古 ふる い文献 ぶんけん を保持 ほじ していることが分 わ かっている。 [要 よう 出典 しゅってん ] 」という上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう の信仰 しんこう に寄 よ りそった言説 げんせつ が漠然 ばくぜん と信 しん じられていた。しかし、現在 げんざい 活用 かつよう できるパーリ仏典 ぶってん の写本 しゃほん は18世紀 せいき 以降 いこう の新 あたら しいものばかりで来歴 らいれき も不明 ふめい なものが多 おお いため、現存 げんそん のパーリ仏典 ぶってん の内容 ないよう は本当 ほんとう にそれほど古 ふる いものなのか、学術 がくじゅつ 的 てき に証明 しょうめい することは困難 こんなん である。むしろ近年 きんねん の学界 がっかい では、古代 こだい インドの仏教 ぶっきょう を学術 がくじゅつ 的 てき に考察 こうさつ するうえで、パーリ仏典 ぶってん の歴史 れきし 資料 しりょう としての価値 かち は限 かぎ られている、という認識 にんしき が広 ひろ まりつつある[3] 。
漢 かん 訳 やく 仏典 ぶってん は、4世紀 せいき の釈 しゃく 道 みち 安 やす が整理 せいり を行 おこな って以来 いらい 、文献 ぶんけん の成立 せいりつ 年代 ねんだい や伝承 でんしょう の来歴 らいれき がはっきりしている。その意味 いみ では、学術 がくじゅつ 研究 けんきゅう の歴史 れきし 資料 しりょう としてはむしろパーリ仏典 ぶってん より価値 かち がある、とする見解 けんかい もある[3] 。漢 かん 訳 やく 仏典 ぶってん の大半 たいはん はサンスクリット原典 げんてん から訳出 やくしゅつ されたものだが、サンスクリット原典 げんてん が残 のこ っていないことが多 おお いうえ、現存 げんそん するサンスクリット原典 げんてん の写本 しゃほん も漢 かん 訳 やく より古 ふる い時代 じだい のものは少 すく ない。その理由 りゆう としては、
中国 ちゅうごく 、インドいずれでも王朝 おうちょう の交替 こうたい や宗教 しゅうきょう 、思想 しそう の変遷 へんせん により新 あら たな支配 しはい 層 そう にとって不都合 ふつごう な記述 きじゅつ のある原典 げんてん が言論 げんろん ・思想 しそう 統制 とうせい で意図 いと 的 てき に破棄 はき された。
中国 ちゅうごく では漢 かん 訳 やく 仏典 ぶってん は写本 しゃほん により流布 るふ したが、サンスクリット原典 げんてん は漢 かん 民族 みんぞく 社会 しゃかい では需要 じゅよう がないため保存 ほぞん されなかった。
写本 しゃほん によらず、訳 わけ 経 けい 僧 そう が暗 くら 諳していた聖典 せいてん を漢 かん 訳 やく したため、元 もと から原本 げんぽん が存在 そんざい しなかったケースの存在 そんざい 。
が考 かんが えられる。いずれにしても梵本は、中国 ちゅうごく では用 もち いられなかった。
上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう [ 編集 へんしゅう ]
釈迦 しゃか の入滅 にゅうめつ 後 ご 、教 おし えを正 ただ しく伝 つた えるために、弟子 でし たちは聖典 せいてん 編集 へんしゅう の集会 しゅうかい (結集 けっしゅう )を開 ひら き、仏典 ぶってん 整理 せいり を開始 かいし した[2] 。ところが、仏 ふつ 滅後 めつご 100-200年 ねん ころには教団 きょうだん は多 おお くの部 ぶ 派 は に分裂 ぶんれつ し、それぞれの部 ぶ 派 は が各自 かくじ の三蔵 さんぞう を伝 つて 持 じ するようになった。それらはインドの各地 かくち の言語 げんご によっていたと思 おも われる。
完全 かんぜん な形 かたち で現存 げんそん するのは、スリランカ に伝 つた えられた上座 かみざ 部 ぶ 系 けい のパーリ語 ご 仏典 ぶってん のみで、現在 げんざい 、スリランカ、タイ、ミャンマーなど東南 とうなん アジアの仏教 ぶっきょう 国 こく で広 ひろ く用 もち いられている。その内容 ないよう は次 つぎ の通 とお りである。
律蔵 りつぞう :経 けい 分別 ふんべつ (戒律 かいりつ の本文 ほんぶん 解説 かいせつ )、犍度(けんど、教団 きょうだん の制度 せいど 規定 きてい )、付録 ふろく 。
経蔵 きょうぞう :長部 おさべ 、中部 ちゅうぶ 、相応 そうおう 部 ぶ 、増 ぞう 支部 しぶ 、小部 こべ の5部 ぶ 。前 ぜん 4部 ぶ は漢 かん 訳 やく 『阿 おもね 含経 』に相当 そうとう する。
論蔵 ろんぞう :法 ほう 集 しゅう 論 ろん 、分別 ふんべつ 論 ろん 、界 さかい 論 ろん 、人 ひと 施設 しせつ 論 ろん 、論 ろん 事 ごと 、双 そう 論 ろん 、発 はつ 趣 おもむき 論 ろん の7部 ぶ 。
これらは紀元前 きげんぜん 2世紀 せいき -紀元前 きげんぜん 1世紀 せいき ころまでに徐々 じょじょ に形成 けいせい されたもので、紀元前 きげんぜん 1世紀 せいき ころにスリランカに伝 つた えられたといわれ、以後 いご 、多 おお くの蔵 ぞう 外 がい の注釈 ちゅうしゃく 書 しょ 、綱要 こうよう 書 しょ 、史書 ししょ 等 とう が作 つく られた。1881年 ねん ロンドンにパーリ聖典 せいてん 協会 きょうかい (Pāli Text Society) が設立 せつりつ されて原典 げんてん の校訂 こうてい 出版 しゅっぱん 等 とう がなされ、日本 にっぽん では若干 じゃっかん の蔵 ぞう 外 がい 文献 ぶんけん も含 ふく めて『南 みなみ 伝 でん 大蔵経 だいぞうきょう 』65巻 かん (1935年 ねん -1941年 ねん )に完訳 かんやく されている。
注意 ちゅうい が必要 ひつよう なのは、パーリ仏典 ぶってん が必 かなら ずしも古 ふる い形 かたち を残 のこ しているとは限 かぎ らない点 てん である。漢 かん 訳 やく の『阿 おもね 含経 』には上座 かみざ 部 ぶ に伝 つた わったより古 ふる い形態 けいたい のものがあったり、あきらかにサンスクリット語 ご からの漢 かん 訳 やく と考 かんが えられるものがある。その意味 いみ で、パーリ仏典 ぶってん が原初 げんしょ の形態 けいたい を伝 つた えていると考 かんが えることは、間違 まちが いではないが正確 せいかく な表現 ひょうげん ではない。
大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう [ 編集 へんしゅう ]
中国 ちゅうごく における仏典 ぶってん の漢 かん 訳 やく 事業 じぎょう は2世紀 せいき 後半 こうはん から始 はじ まり、11世紀 せいき 末 すえ までほぼ間断 かんだん なく継続 けいぞく された。漢 かん 訳 やく 事業 じぎょう の進行 しんこう に伴 ともな い、訳 わけ 経 けい の収集 しゅうしゅう や分類 ぶんるい 、仏典 ぶってん の真偽 しんぎ の判別 はんべつ が必要 ひつよう となり、4世紀 せいき 末 すえ には釈 しゃく 道 みち 安 やす によって最初 さいしょ の経 けい 録 ろく である『綜理衆 しゅ 経 けい 目録 もくろく 』(亡 ほろび 佚)が、6世紀 せいき 初 はじ めには僧 そう 祐 ゆう によって『出 で 三 さん 蔵 ぞう 記 き 集 しゅう 』が作成 さくせい された。これらの衆 しゅう 経 へ ないし三蔵 さんぞう を、北朝 ほくちょう の北 きた 魏 たかし で「一切経 いっさいきょう 」と呼 よ び、南朝 なんちょう の梁 りょう で「大蔵経 だいぞうきょう 」と呼 よ んだといい、隋 ずい ・唐 とう 初 はつ に及 およ んで両者 りょうしゃ の名称 めいしょう が確立 かくりつ し、写経 しゃきょう の書式 しょしき も1行 ぎょう 17字 じ 前後 ぜんこう と定着 ていちゃく した。
隋 ずい ・唐 から 時代 じだい にも道 みち 宣 せん の『大 だい 唐 から 内典 ないてん 録 ろく 』等 とう の多 おお くの経 けい 録 ろく が編纂 へんさん されたが、後代 こうだい に影響 えいきょう を与 あた えたのは730年 ねん (開 ひらく 元 もと 18)に完成 かんせい した智 さとし 昇 のぼり 撰 せん 『開 ひらけ 元 もと 釈教 しゃっきょう 録 ろく 』20巻 かん である。ここでは、南北 なんぼく 朝 あさ 以来 いらい の仏典 ぶってん 分類 ぶんるい 法 ほう を踏襲 とうしゅう して大乗 だいじょう の三蔵 さんぞう と小乗 しょうじょう の三蔵 さんぞう および聖賢 せいけん 集 しゅう 伝 でん とに三大別 さんたいべつ し、そのうち大乗 だいじょう 仏典 ぶってん を『般若 はんにゃ 』、『宝積 ほうしゃく 』、『大 だい 集 しゅう 』、『華厳 けごん 』、『涅槃 ねはん 』の五 ご 大部 たいぶ としたうえで、当時 とうじ 実在 じつざい しており、大蔵経 だいぞうきょう に編入 へんにゅう すべき仏典 ぶってん の総数 そうすう を1076部 ぶ 5048巻 かん と決定 けってい した。ここに収載 しゅうさい された5048巻 かん の経 けい 律 りつ 論 ろん は、北 きた 宋 そう 以後 いご の印刷 いんさつ 大蔵経 だいぞうきょう (一切経 いっさいきょう )の基準 きじゅん となった。
漢 かん 訳 やく 仏典 ぶってん は、古 こ 写本 しゃほん も豊富 ほうふ に残 のこ っている。日本 にっぽん 国内 こくない に限 かぎ っても、奈良 なら 時代 じだい に書写 しょしゃ された仏教 ぶっきょう 経典 きょうてん が一 いち 千 せん 数 すう 百 ひゃく 巻 かん 、その奈良 なら 時代 じだい のものから転写 てんしゃ したと想定 そうてい される平安 へいあん 時代 じだい から鎌倉 かまくら 時代 じだい の古 こ 写経 しゃきょう が一 いち 万 まん 巻 かん 以上 いじょう も現存 げんそん しており、これらの古 こ 写経 しゃきょう は敦煌 とんこう の仏教 ぶっきょう 文献 ぶんけん 群 ぐん に比肩 ひけん する重要 じゅうよう な資料 しりょう 群 ぐん と評価 ひょうか されている[5] 。
テキストの形態 けいたい は、初期 しょき は巻物 まきもの 状 じょう の写本 しゃほん (巻子本 かんすぼん )であったが、北 きた 宋 そう の『開 ひらき 宝蔵 ほうぞう 』以降 いこう は木版 もくはん 印刷 いんさつ の版木 はんぎ 、刊本 かんぽん の形 かたち となった。近年 きんねん では電子 でんし データ化 か された大蔵経 だいぞうきょう も利用 りよう できるようになっている。収録 しゅうろく される仏典 ぶってん は、三蔵 さんぞう (経 けい 律 りつ 論 ろん )におさまる漢 かん 訳 やく 文献 ぶんけん と、中国 ちゅうごく 側 がわ の注釈 ちゅうしゃく 書 しょ 、独立 どくりつ 作品 さくひん 、僧 そう の伝記 でんき 、目録 もくろく などの著作 ちょさく 群 ぐん からなる。[6]
最初 さいしょ の大蔵経 だいぞうきょう 刊本 かんぽん は、北 きた 宋 そう の太 ふとし 祖 そ ・太 ふとし 宗 むね の治世 ちせい 、971年 ねん - 977年 ねん (開 ひらき 宝 たから 4 - 太平 たいへい 興国 こうこく 2)にかけて蜀 しょく (四川 しせん 省 しょう )で版木 はんぎ が彫 ほ られ、983年 ねん (太平 たいへい 興国 こうこく 8)に、都 と の開封 かいふう に建 た てられた「印 しるし 経 けい 院 いん 」で印刷 いんさつ された。これは古 ふる くは『蜀 しょく 版 ばん 大蔵経 だいぞうきょう 』と呼 よ ばれていたが、現在 げんざい では開 ひらけ 版 ばん の年号 ねんごう をとって『開 ひらき 宝蔵 ほうぞう 』、あるいは太 ふとし 祖 そ の詔勅 しょうちょく に基 もと づいて開 ひらき 版 ばん されたため『勅 みことのり 版 ばん 』と呼 よ ぶのが一般 いっぱん 的 てき である。『開 ひらけ 元 もと 釈教 しゃっきょう 録 ろく 』によって編纂 へんさん される。当時 とうじ の「蜀 しょく 大字 だいじ 本 ほん 」の規格 きかく の文字 もじ により、毎 まい 行 くだり 14字 じ の巻子本 かんすぼん 形式 けいしき であった。これは宋朝 そうちょう の功徳 くどく 事業 じぎょう で、西 にし 夏 なつ 、高 こう 麗 うらら 、日本 にっぽん などの近隣 きんりん 諸国 しょこく に贈与 ぞうよ された。983年 ねん に入 にゅう 宋 そう した東大寺 とうだいじ 僧 そう の奝然 は、新撰 しんせん の大蔵経 だいぞうきょう 481函 はこ 5048巻 かん と新訳 しんやく 経典 きょうてん 40巻 かん などを下賜 かし され、日本 にっぽん に持 も ち帰 かえ ったが、藤原 ふじわら 道長 みちなが が建立 こんりゅう した法成寺 ほうじょうじ に施 ほどこせ 入 いれ したために、寺 てら と共 とも に焼失 しょうしつ してしまった。ただ、新 あたら しく請来 しょうらい (招来 しょうらい )された大蔵経 だいぞうきょう ということで盛 さか んに書写 しょしゃ されたため、その転写 てんしゃ 本 ほん が各地 かくち に幾 いく らか残 のこ っている。『開 ひらき 宝蔵 ほうぞう 』の原本 げんぽん は、世界 せかい で12巻 かん が確認 かくにん されており、日本 にっぽん では京都 きょうと ・南禅寺 なんぜんじ および東京 とうきょう ・台東 たいとう 区立 くりつ 書道 しょどう 博物館 はくぶつかん に1巻 かん ずつ、計 けい 2巻 かん が所蔵 しょぞう されている。
金 きむ の時代 じだい には、1147年 ねん - 1173年 ねん にかけての時期 じき に、『金 かね 版 ばん 』が作 つく られる。こちらも毎 まい 行 くだり 14字 じ 。長 なが らく幻 まぼろし の大蔵経 だいぞうきょう であったが、1933年 ねん に山西 さんせい 省 しょう の趙 ちょう 城 ぐすく 県 けん にある広勝 ひろかつ 寺 てら で発見 はっけん される。そのため、別名 べつめい 『趙 ちょう 城 しろ 蔵 ぞう 』とも呼 よ ばれている。1984年 ねん より、この蔵 ぞう 経 けい を底本 ていほん にして『中華 ちゅうか 大蔵経 だいぞうきょう 』(影印本 えいいんぼん )が発刊 はっかん される。また、元 もと の時代 じだい に数次 すうじ にわたって補 ほ 刻 こく が行 おこ なわれている(元 もと 代 だい 補修 ほしゅう 版 ばん )。
契 ちぎり 丹 に の990年 ねん - 1010年 ねん 頃 ころ に開 ひらけ 版 ばん された大蔵経 だいぞうきょう 。契 ちぎり 丹 に が後 こう 晋 すすむ から割譲 かつじょう された燕 つばめ 雲 くも 十 じゅう 六 ろく 州 しゅう の地方 ちほう で、この地 ち にあった隋 ずい 以来 いらい の房 ぼう 山 やま の『石経 いしきょう 』のテキストも参考 さんこう にして、国家 こっか 事業 じぎょう として行 おこ なわれた印刷 いんさつ 事業 じぎょう であった。この大蔵経 だいぞうきょう も金 かね 版 ばん と同様 どうよう に幻 まぼろし の大蔵経 だいぞうきょう であったが、1982年 ねん に山西 さんせい 省 しょう の応 おう 県 けん にある古刹 こさつ 、仏 ふつ 宮寺 みやでら の木 き 塔 とう に安置 あんち された仏像 ぶつぞう 内 ない から、12巻 かん の『契 ちぎり 丹 に 版 ばん 』が発見 はっけん され、房 ぼう 山 やま 雲居 くもい 寺 てら の『石経 いしきょう 』との関係 かんけい などが確認 かくにん され、毎 まい 行 くだり 17字 じ の標準 ひょうじゅん 形式 けいしき であったことが実証 じっしょう された。
南 みなみ 宋 そう 版 ばん 系 けい [ 編集 へんしゅう ]
南 みなみ 宋 そう から明代 あきよ にかけても各地 かくち で私版 しはん の大蔵経 だいぞうきょう の作成 さくせい が続 つづ いた。それは、福 ふく 州 しゅう (福建 ふっけん 省 しょう )等 とう 覚 さとし 禅 ぜん 院 いん で11世紀 せいき 末 すえ に開始 かいし された『等 とう 覚 さとし 禅 ぜん 院 いん 版 ばん 』(1075年 ねん - 1112年 ねん )に始 はじ まる。これは、北 きた 宋 そう 版 ばん 系 けい や契 ちぎり 丹 に 版 ばん 系 けい の国家 こっか 事業 じぎょう としての開 ひらき 版 ばん とは異 こと なり、信者 しんじゃ の寄進 きしん による私版 しはん の事業 じぎょう であった。以後 いご 、同 おな じく福 ふく 州 しゅう 「開 ひらき 元寺 もとてら 版 ばん 」(1112年 ねん - 1151年 ねん )や湖 みずうみ 州 しゅう の『思 おもえ 渓 けい 版 ばん 』(1126年 ねん - 1132年 ねん )、蘇州 そしゅう で開 ひらき 版 ばん された『磧砂版 ばん 』(1232年 ねん - 1305年 ねん )、杭州 こうしゅう の『普 ひろし 寧 やすし 版 ばん 』(1277年 ねん - 1290年 ねん )といった蔵 ぞう 経 けい の印刷 いんさつ が続 つづ いた。この系統 けいとう も、標準 ひょうじゅん 形式 けいしき である毎 まい 行 くだり 17字 じ である。
明 あきら 末 すえ になると、それまでの巻物 まきもの ではない新 あたら しい形式 けいしき の袋綴 ふくろと じ本 ほん の『万 まん 暦 こよみ 版 ばん 大蔵経 だいぞうきょう 』(徑 みち 山蔵 やまぞう )が出版 しゅっぱん された。清 きよし 朝 あさ の大蔵経 だいぞうきょう である『龍蔵 りゅうぞう 』や、後述 こうじゅつ の日本 にっぽん の『鉄 てつ 眼 め 版 ばん 』、『卍 まんじ 字 じ 藏 ぞう 』は、この系統 けいとう に属 ぞく する。
朝鮮半島 ちょうせんはんとう [ 編集 へんしゅう ]
高麗 こうらい では、1010年 ねん に『開 ひらき 宝蔵 ほうぞう 』の覆刻 ふっこく 版 ばん を出 だ し(『高麗 こうらい 初 はつ 雕本』)、その版木 はんぎ が元 もと 軍 ぐん による兵火 へいか で焼失 しょうしつ すると、1236年 ねん には『高麗 こうらい 再 さい 雕本』を完成 かんせい させた。この時 とき 、編纂 へんさん の責任 せきにん 者 しゃ であり、『高麗 こうらい 国 こく 新 しん 雕大蔵経 だいぞうきょう 校正 こうせい 別 べつ 録 ろく 』を撰 せん した守 まもり 其が、『契 ちぎり 丹 に 版 ばん 』によって『初 はつ 雕本』の誤 あやま りを改 あらた めている。今 いま も海 うみ 印 しるし 寺 てら に板木 はんぎ を収蔵 しゅうぞう する『再 さい 雕本』の『高麗 こうらい 大蔵経 だいぞうきょう 』は、当時 とうじ 誤 あやま 雕が少 すく なく古 ふる い姿 すがた をとどめる最良 さいりょう のテキストとされていたため、明治 めいじ ・大正 たいしょう 時期 じき の『縮刷 しゅくさつ 蔵 ぞう 経 けい 』や後述 こうじゅつ の『大正 たいしょう 新 しん 脩 おさむ 大蔵経 だいぞうきょう 』では、北 きた 宋 そう 版 ばん 系 けい と契 ちぎり 丹 に 版 ばん 系 けい との校合 きょうごう を「他 た 本 ほん に勝 まさ る所以 ゆえん である」として、底本 ていほん に採用 さいよう された。
しかし守 まもり 其が校合 きょうごう したのは、『開 ひらき 宝蔵 ほうぞう 』『高麗 こうらい 初 はつ 雕本』『契 ちぎり 丹 に 版 ばん 』の三 さん 者 しゃ のみであり、『開 ひらき 宝蔵 ほうぞう 』と『高麗 こうらい 初 はつ 雕本』とは原本 げんぽん と覆刻 ふっこく 版 ばん の関係 かんけい にあり、基本 きほん 的 てき に同 どう 一 いち 系統 けいとう のテキストである。つまり、北 きた 宋 そう 版 ばん 系 けい と契 ちぎり 丹 に 版 ばん 系 けい との間 あいだ で校合 きょうごう したのみに過 す ぎない。後 のち にテキスト・クリティークが進 すす むにつれ、「古 ふる い姿 すがた をとどめる最良 さいりょう のテキスト」という評価 ひょうか が「最初 さいしょ に印刷 いんさつ された大蔵経 だいぞうきょう 」であるということによる思 おも い込 こ みであったということがいわれるようになってきた。実際 じっさい 、北京 ぺきん を中心 ちゅうしん とした河北 かほく 省 しょう ・山西 さんせい 省 しょう の地域 ちいき のテキストである房 ぼう 山 さん 『石経 いしきょう 』『契 ちぎり 丹 に 版 ばん 』や、或 ある いは漢 かん 代 だい から唐 とう 代 だい の都 と 長安 ながやす の一切経 いっさいきょう 写本 しゃほん の系統 けいとう を引 ひ く、南 みなみ 宋 そう 版 ばん 『思 おもえ 渓 けい 資 し 福蔵 ふくぞう 』や元 もと 版 はん 『普 ひろし 寧 やすし 蔵 くら 』等 とう の大蔵経 だいぞうきょう の方 ほう がより良 よ いテキストである場合 ばあい が多 おお く、それに対 たい して『開 ひらき 宝蔵 ほうぞう (勅 みことのり 版 ばん )』『高麗 こうらい 版 ばん 』系統 けいとう のテキストは、蜀 しょく (四川 しせん 省 しょう )の地域 ちいき に流布 るふ していた写本 しゃほん 系列 けいれつ の一切経 いっさいきょう の姿 すがた をとどめているに過 す ぎないという説 せつ が出 だ されている。
しかし、仏教 ぶっきょう の中心 ちゅうしん であった長安 ながやす の方 ほう が写経 しゃきょう のたびに改編 かいへん され、テキストとして洗練 せんれん の度 たび を加 くわ えていったため、逆 ぎゃく に地方 ちほう 版 ばん である蜀 しょく 地 ち のテキストの方 ほう が原形 げんけい を留 と めているという説 せつ もある。例 たと えば鳩 ばと 摩 ま 羅 ら 什訳 わけ 『摩 ま 訶般若 わか 波羅蜜 はらみつ 経 けい 』の冒頭 ぼうとう 、開 ひらき 宝蔵 ほうぞう で『如是 にょぜ 我聞 がもん 一 いち 時 じ 佛 ふつ 住 じゅう …』が、「思 おもえ 渓 けい 資 し 福蔵 ふくぞう 」「普 ひろし 寧 やすし 蔵 くら 」や後 ご の「徑 みち 山蔵 やまぞう 」では『如是 にょぜ 我聞 がもん 一 いち 時 じ 婆 ばば 伽 とぎ 婆 ばば 住 じゅう …』になっている例 れい に見 み られるように、新 あたら しい時代 じだい 層 そう の漢 かん 訳 やく 経典 きょうてん のスタイルに合 あ わせて改変 かいへん されている場合 ばあい もある。
日本 にっぽん では、『日本書紀 にほんしょき 』で白 しろ 雉2年 ねん (651年 ねん )の記述 きじゅつ に「一切経 いっさいきょう 」が初 はじ めて現 あらわ れるが事実 じじつ とは考 かんが えられていない。その後 ご も「一切経 いっさいきょう 」はしばしば現 あらわ れ、仏典 ぶってん の収集 しゅうしゅう 、写経 しゃきょう 、読誦 とくしょう をしめす[7] 。竹内 たけうち 亮 あきら によれば、日本 にっぽん では「一切経 いっさいきょう 」の名前 なまえ は知 し られてはいたものの、「一切経 いっさいきょう 」を構成 こうせい する経 けい 録 ろく (リスト)である入蔵 いりくら 録 ろく の請来 しょうらい は奈良 なら 時代 じだい の玄 げん 昉 によるもの(後述 こうじゅつ )が初 はじ めてと推定 すいてい され、光明皇后 こうみょうこうごう がこれに基 もと づいて一切経 いっさいきょう の写経 しゃきょう を行 おこな おうとしたところ、一切経 いっさいきょう を構成 こうせい する全 すべ ての仏典 ぶってん が日本 にっぽん 国内 こくない に備 そな わっていないことが判明 はんめい したため、蔵 ぞう 外 がい である別 べつ 生 せい 経 けい や偽 にせ 経 けい 、章 あきら 疏(注釈 ちゅうしゃく 書 しょ )の類 るい までを書写 しょしゃ してこれに代 か えた(「五 ご 月 がつ 一 いち 日 にち 経 けい 」)と伝 つた えられていることから、日本 にっぽん では「一切経 いっさいきょう 」という言葉 ことば が"手 しゅ に入 はい る限 かぎ り一切 いっさい の(仏教 ぶっきょう )経典 きょうてん "という意味 いみ に読 よ み替 か えられていたのではないかと推測 すいそく している[8] 。
とくに、天平 てんぺい 7年 ねん (735年 ねん )玄 げん 昉 が請来 しょうらい (将来 しょうらい )した五 ご 千 せん 余 よ 巻 かん は、当時 とうじ の欽定 きんてい 大蔵経 だいぞうきょう と推定 すいてい される。底本 ていほん とされ大 だい 規模 きぼ な写経 しゃきょう がおこなわれた。
寛和 ひろかず 2年 ねん (986年 ねん )に奝然 は大蔵経 だいぞうきょう (開 ひらき 宝蔵 ほうぞう )を輸入 ゆにゅう し、確実 かくじつ な大蔵経 だいぞうきょう の請来 しょうらい として最 もっと も古 ふる い記録 きろく となる。奝然死後 しご に藤原 ふじわら 道長 みちなが に渡 わた り法成寺 ほうじょうじ 経堂 きょうどう に収 おさ められた(1021年 ねん )が火災 かさい で焼失 しょうしつ したとみられる[7] 。平安 へいあん 時代 じだい 末 まつ から鎌倉 かまくら 時代 じだい にかけては、栄西 えいさい 、重 じゅう 源 みなもと 、慶 けい 政 せい その他 た の入 にゅう 宋 そう 僧 そう の努力 どりょく で、『宋 そう 版 ばん 一切経 いっさいきょう 』が輸入 ゆにゅう された。室町 むろまち 時代 じだい には室町 むろまち 幕府 ばくふ や九州 きゅうしゅう 探題 たんだい 、大内 おおうち 氏 し の名義 めいぎ で朝鮮 ちょうせん に大蔵経 だいぞうきょう を求 もと め、日本 にっぽん に送 おく られた大蔵経 だいぞうきょう は寺院 じいん に寄進 きしん された(ただし、朝鮮 ちょうせん から請来 しょうらい (将来 しょうらい )された大蔵経 だいぞうきょう は高麗 こうらい 版 ばん に限 かぎ らず、宋 そう 版 ばん ・元 もと 版 はん が送 おく られた例 れい がある。また、寺院 じいん の要請 ようせい を受 う けて名義 めいぎ を貸 か す形 かたち で大蔵経 だいぞうきょう を求 もと める使者 ししゃ を出 だ した例 れい もある)[9] 。
慶安 けいあん 元年 がんねん (1648年 ねん )、天海 てんかい による『寛永寺 かんえいじ 版 ばん (天海 てんかい 版 ばん )』が徳川 とくがわ 幕府 ばくふ の支援 しえん をうけて完成 かんせい 。
天和 てんわ 元年 がんねん (1681年 ねん )、鉄 てつ 眼 め 道 どう 光 こう が『黄檗 おうばく 版 ばん 大蔵経 だいぞうきょう (鉄 てつ 眼 め 版 ばん )』を完成 かんせい 。鉄 てつ 眼 め が艱難辛苦 かんなんしんく の後 のち に完成 かんせい させた大蔵経 だいぞうきょう として、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 前 まえ の日本 にっぽん の修身 しゅうしん の教科書 きょうかしょ にも採用 さいよう されて著名 ちょめい なものではあるが、歴代 れきだい の大蔵経 だいぞうきょう 中 ちゅう で最 もっと も誤字 ごじ が多 おお い。これは、明 あかり 版 ばん の大蔵経 だいぞうきょう の現物 げんぶつ をバラバラにして、それを裏返 うらがえ して元 もと 版 はん としたことによる。反面 はんめん 、鉄 てつ 眼 め の大蔵経 だいぞうきょう が刊行 かんこう されたことでこれまで特権 とっけん 的 てき な有力 ゆうりょく 寺院 じいん しか持 も ちえなかった大蔵経 だいぞうきょう が村落 そんらく の寺院 じいん でも所持 しょじ が出来 でき るようになった[9] 。
1885年 ねん 、『大 だい 日本 にっぽん 校訂 こうてい 大藏經 だいぞうきょう 縮刷 しゅくさつ 藏本 ぞうほん 』(縮刷 しゅくさつ 大蔵経 だいぞうきょう 、東京 とうきょう 弘 ひろ 教書 きょうしょ 院 いん )を刊行 かんこう 。底本 ていほん は『高麗 こうらい 大蔵経 だいぞうきょう 』
1902年 ねん 、『卍 まんじ 字 じ 藏 ぞう 』(京都 きょうと 藏 ぞう 經書 けいしょ 院 いん )刊行 かんこう 。
1912年 ねん 、『大 だい 日本 にっぽん 続 ぞく 蔵 ぞう 経 けい 』(日本 にっぽん 藏 ぞう 經 けい 院 いん )が完成 かんせい 。
今日 きょう から見 み れば校訂 こうてい 不備 ふび が多 おお しとの批判 ひはん はあるが、世界 せかい における仏教 ぶっきょう 界 かい や仏教 ぶっきょう 研究 けんきゅう に寄与 きよ しているのは、高楠 たかくす 順次郎 じゅんじろう ・渡辺 わたなべ 海 うみ 旭 あさひ 監修 かんしゅう の『大正 たいしょう 新 しん 脩 おさむ 大藏經 だいぞうきょう 』(大正 たいしょう 一切経 いっさいきょう 刊行 かんこう 会 かい )100巻 かん である。高麗 こうらい 海 うみ 印 しるし 寺 てら 本 ほん を底本 ていほん として諸 しょ 本 ほん と校合 きょうごう 、1924年 ねん から1934年 ねん にいたる歳月 さいげつ を費 つい やし、正蔵 しょうぞう (55巻 かん )、続 ぞく 蔵 ぞう (30巻 かん )、昭和 しょうわ 法 ほう 宝 たから 目録 もくろく (3巻 かん )、図像 ずぞう 部 ぶ (12巻 かん )を収 おさ める。
なお『大正 たいしょう 新 しん 脩 おさむ 大蔵経 だいぞうきょう 』には、底本 ていほん 『高麗 こうらい 大蔵経 だいぞうきょう 』テキストに対 たい する上記 じょうき 『思 おもえ 渓 けい 資 し 福蔵 ふくぞう 』(宋 そう 本 ほん )、『普 ひろし 寧 やすし 蔵 くら 』(元本 がんぽん )『徑 みち 山蔵 やまぞう 』(明 あきら 本 ほん )等 とう のテキストとの異同 いどう の校訂 こうてい 情報 じょうほう が載 の せられている。この校訂 こうてい は、『大 だい 日本 にっぽん 校訂 こうてい 縮刷 しゅくさつ 大蔵経 だいぞうきょう 』(縮 ちぢみ 蔵 ぞう )の宋 そう 本 ほん ・元本 がんぽん ・明 あきら 本 ほん (三 さん 本 ほん )との校勘 こうかん を引 ひ き継 つ ぎ、それに「宮内庁 くないちょう 書 しょ 陵 りょう 部 ぶ 蔵 ぞう 宋 そう 本 ほん 」(宮本 みやもと )や「聖 ひじり 語 ご 蔵 ぞう 」などのテキストとの校勘 こうかん を付加 ふか したものである。三本 みもと との校訂 こうてい に関 かん しては、原典 げんてん に当 あ たっていないと思 おも われるケースもあり、校勘 こうかん 情報 じょうほう にも本文 ほんぶん 同様 どうよう に誤謬 ごびゅう 、誤植 ごしょく が存在 そんざい する場合 ばあい もあるので、利用 りよう の際 さい には、この点 てん も考慮 こうりょ する必要 ひつよう がある。
大正 たいしょう 新 しん 脩 おさむ 大藏經 だいぞうきょう までの主要 しゅよう な漢 かん 訳 やく 大蔵経 だいぞうきょう 系列 けいれつ
漢 かん 訳 やく 経典 きょうてん の日本語 にほんご 訳 やく (読 よ み下 くだ し)も行 おこな われ、『國 くに 譯 やく 大藏經 だいぞうきょう 』、『国 くに 訳 やく 一切経 いっさいきょう 』、『昭和新 しょうわしん 修 おさむ 国 こく 訳 やく 大蔵経 だいぞうきょう 』などがある。また、近年 きんねん 東京大学 とうきょうだいがく の『大正 たいしょう 新 しん 脩 おさむ 大藏經 だいぞうきょう 』テキストデータベース (SAT) や、台北 たいぺい の中華 ちゅうか 電子 でんし 佛典 ぶってん 協會 きょうかい (CBETA) といったプロジェクトが大正 たいしょう 新 しん 脩 おさむ 大藏經 だいぞうきょう の電子 でんし テキスト化 か を推進 すいしん していて、一定 いってい の制約 せいやく 内 ない でその使用 しよう が開放 かいほう されている。
チベット語 ご 訳 やく 仏典 ぶってん [ 編集 へんしゅう ]
チベットにおける個別 こべつ の仏典 ぶってん 翻訳 ほんやく は、7世紀 せいき ソンツェン・ガンポ の命令 めいれい で、チベット語 ご 訳 やく は、トンミ・サンボータ(チベット語 ご 版 ばん 英語 えいご 版 ばん )によって始 はじ められたが、8世紀 せいき 末 まつ 、仏教 ぶっきょう が国教 こっきょう となるのにともない、仏典 ぶってん 翻訳 ほんやく は王国 おうこく の国家 こっか 事業 じぎょう となり、隣国 りんごく インドより網羅 もうら 的 てき 、体系 たいけい 的 てき に仏典 ぶってん を収集 しゅうしゅう し、翻訳 ほんやく する作業 さぎょう が開始 かいし され、数 すう 十 じゅう 年 ねん の短期間 たんきかん で一挙 いっきょ に完遂 かんすい された。サンスクリット語 ご の原典 げんてん を正確 せいかく に翻訳 ほんやく するためのチベット語 ご 文法 ぶんぽう と語彙 ごい の整備 せいび が行 おこな われ (Mahāvyutpatti )、シャン=イェシェデ、カワ=ペルツェク、チョクロ=ルイゲンツェンらが作業 さぎょう に従事 じゅうじ 、824年 ねん 、一応 いちおう の完成 かんせい をみた (dkar-chag ldan-dkar-ma [10] [11] [12] )。
チベット仏教 ぶっきょう における仏典 ぶってん の分類 ぶんるい は、他 た の仏教 ぶっきょう 圏 けん とも共通 きょうつう する「経 けい ・律 ただし ・論 ろん 」の三 さん 部 ぶ 分類 ぶんるい よりも、「仏説 ぶっせつ 部 ぶ (カンギュル)」、「論 ろん 疏部(テンギュル)」の2分類 ぶんるい が重視 じゅうし される。カンギュルとは釈尊 しゃくそん のことばそのものである「カー」をチベット語 ご に「ギュル」(翻訳 ほんやく )したもの、テンギュルとは、竜 りゅう 樹 いつき らインドの仏教 ぶっきょう 学者 がくしゃ たちが「カー」に対 たい してほどこした注釈 ちゅうしゃく である「テン」をチベット語 ご に「ギュル」したもの、の意味 いみ である。
チベットでは、仏典 ぶってん は、信仰 しんこう 心 しん を著 しる わすものとしてながらく写本 しゃほん で流布 るふ していたが、中国 ちゅうごく の明朝 みょうちょう の永楽 えいらく 帝 みかど は中国 ちゅうごく に使者 ししゃ を派遣 はけん するチベット諸侯 しょこう や教団 きょうだん への土産 みやげ として、1410年 ねん 木版 もくはん による大蔵経 だいぞうきょう を開 ひらけ 版 ばん 、この習慣 しゅうかん がチベットにも取 と り入 い れられ、以後 いご 、何 なに 種類 しゅるい かが開 ひらけ 版 ばん されることになった。
また中国 ちゅうごく では、1990年代 ねんだい より、洋装 ようそう 本 ほん の形式 けいしき で刊行 かんこう される中華 ちゅうか 大蔵経 だいぞうきょう 事業 じぎょう の一部 いちぶ として、過去 かこ の諸 しょ 写本 しゃほん 、諸 しょ 版 はん の多 おお くを校合 きょうごう したテンギュルの編纂 へんさん が進 すす められている。
以上 いじょう の諸 しょ 版 はん に収録 しゅうろく されている教典 きょうてん 群 ぐん 大蔵経 だいぞうきょう には、大乗 だいじょう の経論 きょうろん 、ことに原典 げんてん も漢 かん 訳 やく も現存 げんそん しないインド後期 こうき 仏教 ぶっきょう の文献 ぶんけん が多 おお く含 ふく まれており、インド後期 こうき 仏教 ぶっきょう の研究 けんきゅう にも重要 じゅうよう な意味 いみ をもっている。チベット語 ご 訳 やく がサンスクリットの逐語 ちくご 訳 やく に近 ちか く、原形 げんけい に還元 かんげん しやすいので、原典 げんてん のない漢 かん 訳 やく 仏典 ぶってん の原型 げんけい を探 さぐ るためにも重要 じゅうよう 視 し されている。
チベットの四 よん 大 だい 宗派 しゅうは のひとつニンマ派 は では、ある時期 じき に埋蔵 まいぞう された経典 きょうてん (テルマ gter-ma)が、時 とき を経 へ て、しかるべき定 さだ めを帯 お びたテルトン(埋蔵 まいぞう 経典 きょうてん 発掘 はっくつ 者 しゃ )によって発見 はっけん されたとする経 けい 、論 ろん を多数 たすう 有 ゆう し、同派 どうは の特徴 とくちょう となっている。テルマ(埋蔵 まいぞう 経典 きょうてん )の出現 しゅつげん は、中世 ちゅうせい 以来 いらい 、現代 げんだい に至 いた るまで継続 けいぞく しており、乾 いぬい 慧 とし 学者 がくしゃ から発掘 はっくつ 者 しゃ による創作 そうさく だと見 み なされることがある。この派 は は上記 じょうき の諸 しょ 版 はん と異 こと なる古 こ タントラ集成 しゅうせい (ニンマ・ギューブム)を有 ゆう している。
脚注 きゃくちゅう ・出典 しゅってん [ 編集 へんしゅう ]
^ 馬場 ばば 紀 きの 寿 ひさし 『初期 しょき 仏教 ぶっきょう ――ブッダの思想 しそう をたどる』〈岩波 いわなみ 新書 しんしょ 〉2018年 ねん 、83頁 ぺーじ 。ISBN 978-4004317357 。
^ a b c d 馬場 ばば 紀 きの 寿 ひさし 『初期 しょき 仏教 ぶっきょう ――ブッダの思想 しそう をたどる』〈岩波 いわなみ 新書 しんしょ 〉2018年 ねん 、59-60頁 ぺーじ 。ISBN 978-4004317357 。
^ a b 下田 しもだ 正弘 まさひろ 「『正 せい 典 てん 概念 がいねん とインド仏教 ぶっきょう 史 し 』を再考 さいこう する―直線 ちょくせん 的 てき 歴史 れきし 観 かん からの解放 かいほう ―」、日本 にっぽん 印度 いんど 学 がく 仏教 ぶっきょう 学会 がっかい 『印度 いんど 學 がく 佛敎 ぶっきょう 學 がく 硏究 けんきゅう 第 だい 68巻 かん 第 だい 2号 ごう 』令 れい 和 わ 2年 ねん 3月 がつ 、pp.1043-1035
^ 馬場 ばば 紀 きの 寿 ひさし 『初期 しょき 仏教 ぶっきょう ――ブッダの思想 しそう をたどる』〈岩波 いわなみ 新書 しんしょ 〉2018年 ねん 、83頁 ぺーじ 。ISBN 978-4004317357 。
^ 「日本 にっぽん 古 こ 写経 しゃきょう 研究所 けんきゅうじょ 」公式 こうしき サイト https://www.icabs.ac.jp/research/koshakyo 閲覧 えつらん 日 び 2023年 ねん 9月 がつ 21日 にち
^ 船山 ふなやま 徹 とおる 『仏典 ぶってん はどう漢 かん 訳 やく されたのか―スートラが経典 きょうてん になるとき』 ISBN 4000246917
^ a b 末木 すえき 文 ぶん 美 び 士 し 『日本 にっぽん 仏教 ぶっきょう 入門 にゅうもん 』KADOKAWA/角川 かどかわ 学芸 がくげい 出版 しゅっぱん 、2014年 ねん 3月 がつ 21日 にち 。ISBN 4047035378 。
^ 竹内 たけうち 亮 あきら 「大寺 おおてら 制 せい の成立 せいりつ と都城 みやこのじょう 」『日本 にっぽん 古代 こだい の寺院 じいん と社会 しゃかい 』(塙 はなわ 書房 しょぼう 、2016年 ねん ) ISBN 978-4-8273-1280-5 P96-98
^ a b 須田 すだ 牧子 まきこ 「大蔵経 だいぞうきょう 輸入 ゆにゅう とその影響 えいきょう 」『中世 ちゅうせい 日 び 朝 あさ 関係 かんけい と大内 おおうち 氏 し 』(東京大学 とうきょうだいがく 出版 しゅっぱん 会 かい 、2011年 ねん ) ISBN 978-4-13-026227-9 (原 はら 論文 ろんぶん :2007年 ねん )
^ Yoshimura, Shyuki 芳村 よしむら 修 おさむ 基 もと (1950). The Denkar-ma: An Oldest Catalogue of the Tibetan Buddhist Canons. Kyoto: Ryukoku University.
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基本 きほん 教義 きょうぎ 人物 じんぶつ 世界 せかい 観 かん 重要 じゅうよう な概念 がいねん 解脱 げだつ への道 みち 信仰 しんこう 対象 たいしょう 分類 ぶんるい /宗派 しゅうは 地域 ちいき 別 べつ 仏教 ぶっきょう 聖典 せいてん 聖地 せいち 歴史 れきし 美術 びじゅつ ・音楽 おんがく