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西にしなつ

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西にしなつ
だいなつこく
𗴂𗹭𘜶𗴲𗂧
大白たいはくだかこく
北宋
タングート
1038ねん - 1227ねん モンゴル帝国
西夏の位置
11世紀せいき西にしなつあか
公用こうよう 西にしなつ中国ちゅうごく
首都しゅと きょうけい
皇帝こうてい
1038ねん - 1048ねん けいむね
1226ねん - 1227ねんすえみかど
面積めんせき
1100ねん1,000,000km²
人口じんこう
1038ねん2,430,000にん
1069ねん2,300,000にん
変遷へんせん
きたそう節度せつど使から西にしなつ 1038ねん
りょう臣従しんじゅう1049ねん
きむ臣従しんじゅう1123ねん
モンゴル帝国ていこくによって滅亡めつぼう1227ねん
通貨つうか銅銭どうせんてつぜにぎん
現在げんざい中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
中国歴史
中国ちゅうごく歴史れきし
先史せんし時代じだい中国語ちゅうごくごばん
ちゅう石器せっき時代じだい中国語ちゅうごくごばん
しん石器せっき時代じだい
さんすめらぎみかど
いにしえこく時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい
長江ながえ文明ふみあき
りょうかわ文明ぶんめい
なつ
いん
しゅう西にしあまね
しゅう
あずまあまね
春秋しゅんじゅう時代じだい
戦国せんごく時代じだい
はた
かん前漢ぜんかん
しん
かんこうかん

孫呉そんご
かん
しょくかん
たかし
曹魏
すすむ西にしすすむ
すすむあずますすむ じゅうろくこく
そうりゅうそう たかしきたたかし
ひとしみなみひとし
りょう たかし
(西にしたかし)
たかし
(あずまたかし)
ひね りょう
(こうはり)
しゅう
(きたあまね)
ひとし
(きたひとし)
ずい
とう  
しゅうたけあまね
 
だいじゅうこく ちぎり
そう
きたそう
なつ
(西にしなつ)
りょう
そう
みなみそう
きむ
もと
あきら もと
(北元きたもと)
あきら
南明なんめい
じゅん 後金あときん
 
きよし
 
中華民国ちゅうかみんこく まんしゅうこく
 
中華ちゅうか
みんこく

台湾たいわん
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

西にしなつ(せいか、西にしなつ文字もじ [*phiow¹-bjij²-lhjij-lhjij²]1038ねん - 1227ねん)は、タングート首長しゅちょう李元りげんひろし現在げんざい中国ちゅうごく西北せいほくやすしなつかいぞく自治じち)に建国けんこくした王朝おうちょう国号こくごうなつだが、中国ちゅうごく最古さいこ王朝おうちょうなつなどと区別くべつするため、通例つうれい西にし」のしてぶ。首都しゅときょうけい現在げんざい銀川ぎんかわ)。モンゴル帝国ていこくチンギス・カンによってほろぼされた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

起源きげん成立せいりつ[編集へんしゅう]

西にしなつ起源きげんとうはつにまでさかのぼることができる。この時期じき羌族なかタングートぞくがその勢力せいりょく拡大かくだいしていった。そのなかつぶせばつあか中国語ちゅうごくごばんとうり、せい下賜かしされ、ぞくじんれて慶州けいしゅう移住いじゅうひら西にしこうふうじられた。とうまつ発生はっせいしたらんではその子孫しそんであるつぶせばつおもえきょう中国語ちゅうごくごばん英語えいごばん反乱はんらん平定へいていおおきな功績こうせきのこし、それ以降いこうなつこくおおやけじょうなんぐん節度せつど使として当地とうち有力ゆうりょくはん勢力せいりょくとしての地位ちい確立かくりつした。

そうはつちょうただしたねはん鎮の軍事ぐんじけん弱体じゃくたい政策せいさく推進すいしんしたが、これがなつこくこう不満ふまんこした。当初とうしょ宋朝そうちょう恭順きょうじゅんであったひら西にしこうであるが、次第しだい対立たいりつみぞふかめ、1032ねん徳明のりあきつぶせばつおもえきょうおとうとつぶせばつおもえちゅう末裔まつえい)のである李元りげんひろしなつこくこう地位ちい継承けいしょうすると、次第しだいそう支配しはいから離脱りだつする行動こうどうるようになった。李元りげんひろしからあさから下賜かしされたせいて、みずから嵬名名乗なのり、即位そくい翌年よくねん以降いこうそう年号ねんごうである明道みょうどうを、ちちいみなけるためにあらわどう改元かいげんし、西にしなつ独自どくじ年号ねんごう使用しよう開始かいししている。そのすうねんうち宮殿きゅうでん建設けんせつし、文武ぶんぶはん制度せいど確立かくりつ兵制へいせい整備せいびするとともに、チベット・ビルマタングート表記ひょうきするための独自どくじ文字もじである西にしなつ文字もじ制定せいていした。

即位そくい翌年よくねんからは、長年ながねん宿敵しゅくてきであるあおとうのチベットけい勢力せいりょくあおから王国おうこく1032ねん - 1104ねん)をめて決定的けっていてき打撃だげきあたえ、さらに1036ねんにはそう支配しはいであった、河西かさい地方ちほう西部せいぶ粛州ふりしゅうすなしゅうへいすすめて制圧せいあつした。またチベットけいをさらに牽制けんせいするため、あららぎしゅう近郊きんこうへいおくった。そして1038ねん10月11にち皇帝こうていしょうし、国号こくごうだいなつとして名実めいじつともに建国けんこくするにいたった。

建国けんこく初期しょきから全盛期ぜんせいき[編集へんしゅう]

西にしなつ建国けんこくりょう同盟どうめいそう対抗たいこうする政策せいさく採用さいようし、しばしばそうないへいすすめている。この軍事ぐんじ対立たいりつ1044ねん和議わぎ成立せいりつけいれきやく)までつづいた。そうとの和議わぎではそう西にしなつ地位ちい承認しょうにんするととも西にしなつそう臣従しんじゅうする代償だいしょうとして莫大ばくだいとしぬさ獲得かくとくした。しかし、同年どうねん西にしなつりょうあいだ武力ぶりょく衝突しょうとつ発生はっせいすると、西にしなつそうりょう対等たいとう地位ちい獲得かくとくするにいたった。ただ、そうとの和議わぎ成立せいりつもたびたび局地きょくちてき戦闘せんとうつづき、そう西にしなつとの国境こっきょう軍隊ぐんたい常駐じょうちゅうさせていた。

李元りげんひろし死後しご、2さいにもたない息子むすこりょう即位そくいし、そのははであるぼつぞうによる摂政せっしょうおこなわれた。この時期じきりょうによる西にしなつ攻撃こうげきおこなわれ、西にしなつ敗北はいぼくりょう臣従しんじゅうする立場たちばとなった。

1063ねん吐蕃禹蔵はなあさ西にしなつ帰属きぞくした。皇帝こうていである秉常ははであるりょうはこの時期じきそうたいする軍事ぐんじ行動こうどうるが失敗しっぱい国政こくせい秉常のもと帰属きぞくするようになった。しかし秉常の死後しごに3さい息子むすこであるいぬいじゅん即位そくいすると、りょうふたた摂政せっしょう開始かいしそうりょうたいする軍事ぐんじ行動こうどうこしている。いぬいじゅん親政しんせい開始かいしされたのちりょうそうとの和平わへい政策せいさく転換てんかんし、軍事ぐんじ行動こうどう年々ねんねん減少げんしょう西にしなつ社会しゃかい経済けいざい発展はってんしていくこととなった。

1115ねんきむ成立せいりつするとりょうたい侵攻しんこう開始かいしした。1123ねんりょうてん祚帝敗戦はいせんにより西にしなつ亡命ぼうめい同時どうじかね使者ししゃ来朝らいちょういぬいじゅんたいりょうみかど引渡ひきわたしをもとめた。いぬいじゅんりょう復興ふっこう困難こんなん判断はんだんきん要求ようきゅう受諾じゅだく、これにより西にしなつかね服属ふくぞくすることとなった。そしてかねによりきたそうほろぼされると、西にしなつ機会きかいじょう広大こうだい領土りょうど獲得かくとくすることとなった。

いぬいじゅん死後しご息子むすこ仁孝にんこう即位そくいした。この時期じき西にしなつ国内こくないでは地震じしん深刻しんこく飢饉ききん発生はっせい民心みんしんみだれ、各地かくち農民のうみん蜂起ほうき発生はっせいした。これにたいひとしこう国内こくない各種かくしゅ改革かいかくおこない、社会しゃかい経済けいざい発展はってんと、社会しゃかい安定あんていつとめた。

衰退すいたい滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

ひとしこう死後しご息子むすこじゅんたすく即位そくいしたが、この時期じきになると政治せいじ腐敗ふはいすすみ、国勢こくせい凋落ちょうらく一途いっと辿たどっていた。その状況じょうきょう1206ねん親族しんぞく安全あんぜん帝位ていい簒奪さんだつじゅんたすく殺害さつがい、それまでかね依存いぞんした外交がいこう政策せいさく見直みなおし、当時とうじ強大きょうだい勢力せいりょくほこったモンゴルぞく依存いぞんする政策せいさく採用さいようした。

安全あんぜんかねたいじゅうねんおよ軍事ぐんじ行動こうどう発動はつどうした。この軍事ぐんじ行動こうどうかねのみならず西にしなつ国力こくりょく疲弊ひへいさせるものであり、また飢饉ききんなどで貧困ひんこんつづいていた民衆みんしゅう離反りはんまねき、また政治せいじ腐敗ふはいのみならず、皇帝こうていみずからが酒色しゅしょくおぼ朝政ちょうせいかえりみない状況じょうきょう国内こくない一層いっそう不安定ふあんていなものとなっていた。またモンゴルに依拠いきょした外交がいこう政策せいさくも、西にしなつ安全あんぜん保障ほしょうするものでなく、1205ねんにはモンゴルは西にしなつ侵攻しんこう開始かいし1209ねんまでに3わた西にしなつ出兵しゅっぺいですでに国力こくりょく限界げんかいたっした。

1211ねん西にしなつ宮廷きゅうていクーデターが発生はっせい遵頊帝位ていい簒奪さんだつした。しかし中興ちゅうこう影響えいきょうあたえるものでなく、西にしなつ国力こくりょく下降かこうせん一途いっと辿たどった。1216ねん西にしなつチンギス・カン出兵しゅっぺい要請ようせい拒否きょひする。その行為こういはモンゴルがわいかりをまねき、1217ねんだい4西にしなつ遠征えんせいおこなわれるにいたった。1223ねん遵頊はみずからが亡国ぼうこく君主くんしゅになることをけるため、太子たいしいさお譲位じょういした。

西にしなつ安全あんぜん遵頊の治世ちせい滅亡めつぼう寸前すんぜん国力こくりょくとなっており、いさお旺の登場とうじょう復興ふっこうできる状態じょうたいではなかった。いさお旺はモンゴルに対抗たいこうするため、チンギスが西にしせいした機会きかいねらってモンゴルを攻撃こうげきしようとしたが、事前じぜん情報じょうほうがモンゴルがわれ、1224ねんにモンゴルぐんによりきょうけい包囲ほういされるとモンゴルぐん投降とうこう人質ひとじちおくることで滅亡めつぼうすることはわずかにまぬかれることができた。1226ねんいさお旺が病死びょうしし、おい皇帝こうてい推挙すいきょされたが、1227ねん睍はモンゴルに投降とうこうし、まもなく、睍は西にしなつ君民くんみんとともにモンゴルの太子たいしオゴデイふとしむね)によって殺害さつがいされ、ついに西にしなつ滅亡めつぼうした。

滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

西にしなつ滅亡めつぼうも、西にしなつ西にしなつ文字もじは300ねんちかくにわたって使用しようされつづけていた。

あきらすえ反乱はんらん指導しどうしゃであったなりは、西にしなつ建国けんこくであるつぎ末裔まつえいしょうしているが、どの西にしなつ皇族こうぞく系統けいとうかはあきらかになっていない[よう出典しゅってん]

勢力せいりょく皇帝こうてい[編集へんしゅう]

西にしなつ位置いちみどり

なつこくおおやけ[編集へんしゅう]

つぎ遷と徳明のりあき皇帝こうてい即位そくいしていないが、西にしなつ建国けんこく皇帝こうていごう追贈ついぞうされた。1038ねんもとひろし皇帝こうてい即位そくい

びょうごう 諡号しごう かんめい 西にしなつめい 一般いっぱん通称つうしょう 在位ざいい期間きかん 元号げんごう
ふとし 神武じんむ皇帝こうてい つぎ つぎ 991ねん-1004ねん     
ふとしむね ひかりせい皇帝こうてい 徳明のりあき おもねうつり   徳明のりあき 1004ねん-1032ねん     
けいむね たけれつ皇帝こうてい げんひろし 曩霄 李元りげんひろし 1032ねん-1038ねん
(1038ねん皇帝こうてい即位そくい
あらわどう
開運かいうん
こううん
大慶たいけい

なつ皇帝こうてい[編集へんしゅう]

びょうごう 諡号しごう かんめい 西にしなつめい 一般いっぱん通称つうしょう 在位ざいい期間きかん 元号げんごう
けいむね たけれつ皇帝こうてい げんひろし 曩霄 李元りげんひろし 1038ねん-1048ねん 天授てんじゅ礼法れいほうのべ
あつしむね 昭英あきひで皇帝こうてい りょう やすしれいりょう りょう 1048ねん-1067ねん のべ嗣寧こく
天祐てんゆうたれきよし
ぶくきよしうけたまわみち
奲都
拱化
めぐみむね かんやすし皇帝こうてい 秉常 秉常 1068ねん-1086ねん いぬいみち
てんたまものれいもりこくけい
大安たいあん
てんやすれいじょう
たかしむね せいぶん皇帝こうてい いぬいじゅん いぬいじゅん 1086ねん-1139ねん てん治平じへい
天祐てんゆうみんやす
永安えいあん
さだかん
雍寧
もととく
正徳まさのり
大徳だいとく
じんむね 聖徳せいとく皇帝こうてい 仁孝にんこう 仁孝にんこう 1139ねん-1193ねん 大慶たいけい
ひとけい
てんもり
いぬいゆう
桓宗 あきら皇帝こうてい じゅんたすく じゅんたすく 1193ねん-1206ねん てんけい
じょうむね たかしきよし皇帝こうてい 安全あんぜん 安全あんぜん 1206ねん-1211ねん おうてん
すめらぎけん
かみはじめ 英文えいぶん皇帝こうてい 遵頊 遵頊 1211ねん-1223ねん ひかりじょう
けんじむね とく いさお 1223ねん-1226ねん いぬいじょう
すえぬし 1226ねん-1227ねん たからよし

系図けいず[編集へんしゅう]

 
 
 
 
 
 
 
 
(おい)ふとし
つぎ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(おい)ふとしむね
徳明のりあき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(1)けいむね
李元りげんひろし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
やすしれい
 
(2)あつしむね
りょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(3)めぐみむね
秉常
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(4)たかしむね
いぬいじゅん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(5)じんむね
仁孝にんこう
 
えつおう
ひとしとも
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひとしおう
彦宗
 
(6)桓宗
じゅんたすく
 
(7)じょうむね
安全あんぜん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(8)かみはじめ
遵頊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はい太子たいし
いさおにん
 
(9)けんじむね
いさお
 
きよしひらおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(10)南平みなみだいらおう
 
 
 
 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]


関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]