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吐蕃

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吐蕃
བོད་ཆེན་པོ
ヤルルン王朝
シャンシュン王国
吐谷渾
618ねん - 842ねん グゲ王国
吐蕃の国旗
国旗こっき
吐蕃の位置
800ねんごろの吐蕃の版図はんと
公用こうよう チベット
首都しゅと ラサ
ツェンポ
630ねん - 650ねん ソンツェン・ガンポ
742ねん - 797ねんティソン・デツェン
変遷へんせん
建国けんこく 618ねん
西域せいいき覇権はけん確立かくりつ696ねん
長安ながやす占領せんりょう763ねん
仏教ぶっきょう国教こっきょう779ねん
滅亡めつぼう842ねん
チベット歴史れきし
ポタラ宮
この記事きじシリーズ一部いちぶです。
シャンシュン王国おうこく
吐蕃
分裂ぶんれつ時代じだい
サキャ時代じだい
パクモドゥパ政権せいけん
リンプンパ政権せいけん
ツァンパ政権せいけん
グシ・ハン王朝おうちょう
清国きよくにのチベット支配しはい
チベット独立どくりつ
現代げんだいチベット亡命ぼうめい政府せいふ

チベット ポータル

吐蕃(とばん、拼音TŭbōまたはTŭfānチベットབོད་ཆེན་པོワイリー転写てんしゃBod chen po)は、7世紀せいきはじめから9世紀せいきなかごろにかけてチベットにあった統一とういつ王国おうこく

名称めいしょう

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བོད་ཆེན་པོBod chen po)とは、「チベット」(བོདBod)と「偉大いだいな」(ཆེན་པོchen po)で構成こうせいされている。由来ゆらいは「偉大いだいなチベット」という意味いみである。

中国ちゅうごくでは、とう吐蕃んで以来いらい17世紀せいきなかごろまでチベットの総称そうしょうとして使用しようされつづけた。

日本にっぽんでは一般いっぱんてき中国ちゅうごくめいの「吐蕃」を王朝おうちょうめいとしたほか吐蕃王国おうこく吐蕃帝国ていこくなどの呼称こしょうもちいられており、呼称こしょうさだまっていない。

概要がいよう

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7世紀せいきはじめのソンツェン・ガンポによる統一とういつ以後いご[1]とうとは東部とうぶでは吐谷渾(とよくこん)帰属きぞく南東なんとうではみなみみことのり北方ほっぽうでは西域せいいき東西とうざい通商つうしょう支配しはいけんめぐって度々たびたびたたかった。から王室おうしつより公主こうしゅ皇族こうぞく女性じょせい)をむか和平わへいむすぶこともあったが[2]とうとはたびたび和平わへいこうそうかえした。安史やすしらん以降いこうとうたいして軍事ぐんじてき優位ゆういたもち、河西かさい、隴右地区ちくシルクロードだい部分ぶぶん支配しはいするにいたった[1]。9世紀せいきになるとティソン・デツェンおう仏教ぶっきょう国教こっきょうとする方針ほうしんをたて(791ねんサムイェーてら宗論しゅうろん)、やがて仏教ぶっきょう指導しどうしゃ国政こくせいおこなうようになり、大蔵経だいぞうきょう訳出やくしゅつなどが実施じっしされた[3]822ねんにはとうとのあいだで、対等たいとう平等びょうどう形式けいしき国境こっきょう画定かくてい和平わへいさだめた条約じょうやく締結ていけつした[4]。そのほどなく、国内こくない仏教ぶっきょうをめぐって対立たいりつこり、また王位おうい継承けいしょう問題もんだいから南北なんぼく分裂ぶんれつ、やがて滅亡めつぼうした。

歴史れきし

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チベット高原こうげん統一とういつ建国けんこく

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仏教ぶっきょうしょには釈迦しゃか一族いちぞく末裔まつえい王室おうしつ起源きげんとする神話しんわえがかれている。中国ちゅうごくきゅうとうしょでは中国ちゅうごく遼東りゃおとん地方ちほうより移住いじゅうした鮮卑つぶせばつ出身しゅっしん王家おうけを吐蕃王室おうしつ起源きげんとする、よりおそ年代ねんだい史書ししょではチベットのなみ地方ちほう出身しゅっしんとされることおおいが信憑しんぴょうせいうすい。吐蕃時代じだい金石かねいしぶんでは、ほぼ例外れいがい初代しょだいおうてんとしている。

ナムリ・ソンツェン中国語ちゅうごくごばん英語えいごばんおうラサ南東なんとうヤルルン渓谷けいこく英語えいごばんロカ地方ちほうなみ地方ちほう)を起点きてんとして、近隣きんりん部族ぶぞくのセンポやタボ、東部とうぶしょう部族ぶぞく征服せいふく勢力せいりょくをラサ地方ちほうばした。630ねん、ナムリ・ソンツェンおう[5]反逆はんぎゃくしゃによって毒殺どくさつされると、ソンツェン・ガンポおう在位ざいい630ねん - 650ねん)が即位そくいする。633ねん、ソンツェン・ガンポおうぜんおう死後しご反乱はんらんこした毗族中国語ちゅうごくごばん英語えいごばん(スムパ[6])、センポぞく、タボぞくだいひつじ反乱はんらん平定へいていしてラサさだめた。史書ししょではインドへひとって文字もじまなばせ、トンミ・サンボータチベットばん英語えいごばんすうめいインド仏教ぶっきょうそうとともにチベット文字もじ創成そうせいしたとかれている。

ソンツェン・ガンポおう領土りょうど拡張かくちょう

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ソンツェン・ガンポおうぞう

634ねん、ソンツェン・ガンポおうとう相互そうご使臣ししんつかわし、礼物れいもつおくりあう。さらに王国おうこくみなみ位置いちするネパールリッチャヴィあさ使者ししゃつかわし、ぜんおうアンシュ・ヴァルマー中国語ちゅうごくごばん英語えいごばん在位ざいい: 605ねん - 629ねん)のむすめティツン中国語ちゅうごくごばん英語えいごばん王女おうじょ(ブリクティ、ペルサ)をむかえる、仏教ぶっきょうこくであったネパールの影響えいきょうにより仏教ぶっきょうひろまった。さらに636ねんとうふとしむねのもとへむかえるため使者ししゃつかわすが、ふとしむね拒絶きょぜつされる。同年どうねんおうは20まんへいひきいてとうつよ影響えいきょうにあった青海あおみ吐谷渾出兵しゅっぺいはくらん中国語ちゅうごくごばんなどのぞく部落ぶらくとし、まつしゅうげん四川省松潘県)にせまるが(まつしゅうたたか中国語ちゅうごくごばん)、とうやぶれた。そのふたたふとしむねのもとへ求婚きゅうこん使者ししゃおくり、さらにガル・トンツェンユルスンチベット: མགར་སྟོང་བཙན་ཡུལ་སྲུང༌ ngar stong btsan yul srung別名べつめい祿ろくひがしさん ガル・トンツェン)をつかわし、かねせんりょう結納ゆいのうとしておくる。

638ねん、ソンツェン・ガンポの息子むすこグンソン・グンツェン中国語ちゅうごくごばん英語えいごばんが吐蕃のおう即位そくい。これらの外交がいこうみのり、641ねんから王室おうしつむすめである文成ふみなり公主こうしゅ(ギャサ)をグンソン・グンツェンのとしてむかえる。グンソン・グンツェンおう文成ふみなり公主こうしゅが赭面(しゃめん:かお赤土あかつちる)の風習ふうしゅういやがったためこれをきんじるなど公主こうしゅ丁重ていちょうあつかった。文成ふみなり公主こうしゅとうかられてきた工匠こうしょうたちにしょうあきらてら(ラモチェ)を建立こんりゅうさせ、釈迦牟尼しゃかむにぞうまつり、ティツン王女おうじょあか尊公そんこうぬし)の大昭たいしょうてら(ジョカンてらトゥルナンてら建立こんりゅう手伝てつだった。このように文成ふみなり公主こうしゅとの結婚けっこんとうでは降嫁こうかんだ)によりとうとのむすびつきをつよめた。さらにおう貴族きぞく子弟していとう長安ながやす留学りゅうがくさせ、とう参考さんこうにして吐蕃の軍事ぐんじ行政ぎょうせい制度せいどととのえた。643ねんにグンソン・グンツェンおうが23さい死去しきょ[7]、ソンツェン・ガンポがおう復位ふくいした。なお、同年どうねんシャンシュン王国おうこく併合へいごうし、ナレーンドラ・デーヴァNarendradeva在位ざいい:643ねんごろ - 679ねんころ)をリッチャヴィあさ君主くんしゅえている。

646ねん、ソンツェン・ガンポおうふとしむね高句麗こうくり遠征えんせいとう高句麗こうくり出兵しゅっぺい勝利しょうり祝賀しゅくがだいろんガル・トンツェンをつかわした。 647ねんヴァルダナあさおうハルシャ・ヴァルダナ(戒日おう)がくなり混乱こんらんしたヴァルダナあさ派兵はへいし、政権せいけん簒奪さんだつしたアラナシュ中国語ちゅうごくごばんおもねじゅん)をらえ、ヴァルダナこく属国ぞっこくとした。このときとう使者ししゃおうげんさく保護ほごしている。さら大軍たいぐんひきいて当時とうじ分裂ぶんれつ状態じょうたいおちいっていたガンジスがわ北岸ほくがん小国しょうこくいくつか帰服きふくさせて年賦ねんぷきんしたのち中部ちゅうぶインドのマガダこくまで侵攻しんこうすると、たいした抵抗ていこううことも仏教ぶっきょう寺院じいん略奪りゃくだつしておおくのせい遺物いぶつうばい、ガンジスがわ北岸ほくがん一帯いったい支配しはい帰還きかんしている。649ねんとうふとそう死去しきょこうはじめ即位そくいすると、おううまじょう公主こうしゅおっとける官位かんい)、西海さいかいぐんおう官位かんい多数たすう礼物れいもつける。さらにふとしむね霊前れいぜんじゅうしゅ金銀きんぎん珠玉しゅぎょくそなえ、さらにまろうどおう礼物れいもつおくられた。 またとうすぐれた工芸こうげい技術ぎじゅつ蚕種さんしゅ酒造しゅぞう製紙せいしせいすみ)をれるためとうから工匠こうしょう派遣はけんた。ソンツェン・ガンポおうは吐蕃を発展はってんさせたが、晩年ばんねん功臣こうしん処刑しょけいつづき、スムパぞく中国語ちゅうごくごばん英語えいごばん毗)平定へいてい大功たいこうのあったニャン・マンポジェシャンナン英語えいごばん中国語ちゅうごくごばんチベット: མྱང་མང་པོ་རེང་ཞང་སྣང་ nyang mang po rje shang snangなか: むすめ·すすきぬのすぐるなお)や、くらしげる帰順きじゅんみちびいたはかりごとしんキュンポプンサ英語えいごばん中国語ちゅうごくごばんチベット: ཁྱུང་པོ་ཕྲུང་སད khyung po spung sadなか: 瓊波·くにしょく)を粛清しゅくせいしている。649ねんすえやまいのため死去しきょした。

ガル一族いちぞく執権しっけんとうとの戦争せんそう

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ソンツェン・ガンポおうぬと、おうグンソン・グンツェン中国語ちゅうごくごばん英語えいごばん文成ふみなり公主こうしゅであるマンソン・マンツェン[7]在位ざいい650ねん - 676ねん)が8さい即位そくいし、だいろん宰相さいしょうガル・トンツェン在任ざいにん652ねん - 667ねん)が国政こくせいった。 663ねん吐谷渾大臣だいじんが吐蕃に投降とうこうしたのをにガル・トンツェンはへいひきいて吐谷渾をせいあっする。さらにとう制度せいど参考さんこうに吐蕃の行政ぎょうせい軍事ぐんじ租税そぜい登録とうろく徴発ちょうはつ制度せいどあらためて整備せいびした。

667ねんにガル・トンツェンが死去しきょすると、長子ちょうしガル・ツェンニャドムプ英語えいごばん中国語ちゅうごくごばんチベット: མགར་བཙན་སྙ་ལྡོབ་བུ)がだいろんいだ。おとうとガル・ティンリンチベット: མགར་ཁྲིང་འབྲིང་བཙན་བྲོད་)は積極せっきょくてきとう西域せいいき軍事ぐんじ行動こうどうおこない、670ねんとう安西あんざいみやこまもる管轄かんかつ安西あんざいよんかめ焉耆于闐疏勒)をとして天山てんざんみなみ遮断しゃだんした。とうは10まん大軍たいぐんひきいて反撃はんげきたが、ガル・ティンリンは40まん大軍たいぐんもちいて、青海湖おうみこみなみだいかわとうぐんおおいにやぶった(だいかわたたか中国語ちゅうごくごばん)。しかし、吐蕃は天山あまやまみなみしょ都市とし統治とうちせず、撤退てったいして東部とうぶでの戦争せんそうはじめる。とうはこの戦争せんそう痛手いたでけたうえしん反乱はんらんこした(とうしん戦争せんそう)。

676ねん、マンソン・マンツェンおう死去しきょし、ティドゥ・ソンツェン(ཁྲི༌འདུསསྲོང༌བཙན)[8]おう即位そくいすると、だいひつじねつ桑部くわべそむくも短期間たんきかんのうちに鎮圧ちんあつされた。とうはこのあいだふたたしんさつふうして東方とうほうかため、678ねん中書ちゅうしょれいたかしげん中国語ちゅうごくごばん英語えいごばんが18まんへい青海せいかい侵攻しんこうしてきたが、ガル・ティンリンはこれを撃退げきたいした。このときとうぜんぐんしょう捕虜ほりょとなっている。

680ねんとうと吐番の友好ゆうこう尽力じんりょくした文成ふみなり公主こうしゅが40ねん滞在たいざいて吐蕃にて死去しきょとうより使者ししゃつかわされ弔意ちょういあらわされる。

683ねんげん四川しせんしょうの柘州・つばさしゅう略奪りゃくだつはたらいて迎撃げいげきとうぐんやぶり、また隴右に転戦てんせんしてはん鎮のかわげんぐんやぶっている。よく684ねんにも吐谷渾の騒乱そうらん収拾しゅうしゅうするなど、ガル・ティンリンの威勢いせい東部とうぶいておう警戒けいかい[注釈ちゅうしゃく 1]されるほどとなった。

692ねんとうぐんこして西域せいいき侵攻しんこう安西あんざいよん鎮は陥落かんらくした。696ねんとうたいして勝利しょうりおさめた。

699ねん、ティドゥ・ソンツェンおう東部とうぶ割拠かっきょして国政こくせいおう二分にぶんしていたガル一族いちぞく排斥はいせき目論もくろみ、ぐんひきいてガル拠点きょてん襲撃しゅうげきだいろんのガル・ティンリンを自殺じさつんだ。この粛清しゅくせいげきにより、ガルおもて舞台ぶたいからえた。

このころ、吐蕃にちゃ喫茶きっさ習慣しゅうかんがもたらされ、陶器とうきつくられるようになる。

とうとの講和こうわみなみみことのりさつふう

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8世紀せいき後半こうはんの吐蕃と周辺しゅうへんこく

704ねん、ティドゥ・ソンツェンおうみなみみことのりおやせいちゅう戦死せんしすると継承けいしょうあらそいがきたが、712ねんティデ・ツクツェン[7]在位ざいい704ねん - 755ねん別名べつめい:メー・アクツォム)が即位そくいし、祖母そぼチマル英語えいごばんかたのブロ[9]政権せいけん掌握しょうあくしたが政権せいけん安定あんていせず、デレンパノナンジャチベット: ལྡེག་རེན་པའ་མནོནསྣང་གྲགས ldeg ren pah mnonsnang rjagsなか: 岱仁ともえみのり嚢扎)やケガドナンチベット: ཁེ་རྒད་མདོ་སྣང་ khe rgad mdo snangなか: ひらけかつら)が反乱はんらんこし、吐蕃王族おうぞく国王こくおういていた属国ぞっこくのネパールもそむいた。チマルはらん鎮圧ちんあつし、吐蕃はとうのり天武てんむきさきとして公主こうしゅもとめた。とうはこれにおうじ、吐蕃は710ねんちゅうむね養女ようじょである金城きんじょう公主こうしゅむかえる。大臣だいじんシャン・ツェントレレジンチベット: ཞང༌བཙན༌ཏོ༌རེ༌ལྷས༌བྱིན shang btsan to er lt sa ibynなか: なおさん)が公主こうしゅむかえに長安ながやすおもむいたとき、宮中きゅうちゅううまだま試合しあいおこなわれたという。

チマルの没後ぼつご712ねんだいろんバー・クリジシャンネン英語えいごばんチベット: དབའས་ཁྲི་གཟིགས་ཞང་ཉེན dbavs khri gsigs shang nyenなか: 韋·乞力じょしょうねん)が任命にんめいされ摂政せっしょうしたが、国威こくいるわなかった。713ねんには以前いぜんから要請ようせいしていた河西かさいきゅうきょくげん青海あおみしょうひがし南部なんぶ黄河こうがきょくどうじんけん周辺しゅうへん)を金城きんじょう公主こうしゅ斎戒さいかい沐浴もくよくとしてとうからおくられた。

722ねん、吐蕃はギルギットげん:パキスタン)を占領せんりょうしたが、710年代ねんだい-730年代ねんだい連年れんねんとうしょうかさ中国語ちゅうごくごばん英語えいごばん)とたたかうも反間はんかんけいかり歴戦れきせんだいろん宰相さいしょうバー・タクラ・コンロェ英語えいごばんチベット: དབའས་སྟག་སྒྲ་ཁོང་ལོད dbavs stag sgra khong lodなか: 韋·たち扎恭りゃく通称つうしょうなか: 悉諾邏恭ろく)を処刑しょけいしたこともあって、東部とうぶしょしろとされるなど軍事ぐんじてき劣勢れっせいつづき、度々たびたびとう講和こうわした。739ねん金城きんじょう公主こうしゅは吐蕃にて死去しきょする。

吐蕃・とう内乱ないらんとう弱体じゃくたい

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751ねんトゥーラーン支配しはいけんめぐってとうは、前年ぜんねんザーブ河畔かはんたたか英語えいごばん勝利しょうりして誕生たんじょうしたばかりのアッバースあさタラス河畔かはんたたかおこなったが、カルルクがアッバースぐん寝返ねがえり、やぶれたとう中央ちゅうおうアジア覇権はけんうしなった。同年どうねんとうけんみなみ節度せつど使鮮于仲通なかどおりみなみみことのり大敗たいはい752ねんとうめられたみなみみことのり国王こくおうかくおおとり中国語ちゅうごくごばんベトナムばんが吐蕃にたすけをもとめ、おうかくおおとりおうおとうととしてさつふうする。754ねんとう楊国ただし派遣はけんした姚州とくさむらいみなみみことのり攻撃こうげきしたさいには、へいおくみなみみことのりともとうぐんやぶった。

ティデ・ツクツェンおう時代じだいとう西域せいいきからふつそう拉致らちあるいまねき、また寺院じいん建造けんぞう度々たびたびおこなわれるなど積極せっきょくてき仏教ぶっきょう布教ふきょうされていたが、754ねんだいろん宰相さいしょう)であった功臣こうしんラン・ニェーシクチベット: ལང་མྱེསཟིགས lang myes zigsなか: ろううめしょく)とバル・ケサン・ドンツァブ英語えいごばんチベット: འབལ་སྐྱེས་ཟང་སྡོང་ཚབ vbal skyes zang ldong tshabなか: すえひがしそくぬの)が謀反ぼうほんし、755ねんにティデ・ツクツェンおう近衛このえへいによって殺害さつがいされスムパぞく中国語ちゅうごくごばん英語えいごばん毗)も反乱はんらんこした。ティデ・ツクツェンのティソン・デツェン[7]在位ざいい755ねん - 797ねん)はらん鎮圧ちんあつして毗族もほろぼし王位おういぐが、実権じっけんだいろん宰相さいしょうシャン・マシャン・ドムパ・ケ中国語ちゅうごくごばん英語えいごばんチベット: ཞང་མ་ཞང་གྲོམ་པ་སྐྱེས zhang ma zhang grom pa skyes、なか: 瑪祥なかともえすぐる)を筆頭ひっとうとする外戚がいせき[注釈ちゅうしゃく 2]にぎっており、仏教ぶっきょう崇拝すうはいしていたまえくん横死おうし理由りゆう外国がいこくじん高僧こうそう国外こくがい追放ついほう仏教ぶっきょう法律ほうりつきんじた。

とうとの戦争せんそうとサムイェーてら宗論しゅうろん

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755ねんとう安史やすしらんこるととう朝廷ちょうてい支援しえんもう使者ししゃ内情ないじょうさぐらせるととも連年れんねんとう領土りょうど略奪りゃくだつかえしていたが、761ねんにティソン・デツェンおう外戚がいせきせんよこ抑制よくせいして親政しんせいはじめるととも仏教ぶっきょう禁令きんれいき、今度こんどはインドから高僧こうそうまねき、四川しせんからきたはじめ禅僧ぜんそうきむ和尚おしょう英語えいごばん招聘しょうへいのちにこの両派りょうは対立たいりつし、サムイェーてら宗論しゅうろんこす。763ねんNganlam Takdra Lukhong英語えいごばん大軍たいぐんひきいて本格ほんかくてきからりょうぐんすすめるとたいした抵抗ていこうけることから西部せいぶ河西かさい、隴右地区ちくげん青海あおみしょう東部とうぶおよび甘粛かんせいしょう)の6しゅう降伏ごうぶく占領せんりょうした。763ねんとう首都しゅと長安ながやすへいすすめると、ここでも戦闘せんとうまじえること長安ながやす占領せんりょうした。763ねん10月、とう長安ながやす占領せんりょう金城きんじょう公主こうしゅ兄弟きょうだいうけたまわひろし中国語ちゅうごくごばん英語えいごばん帝位ていいえるが、陣中じんちゅう疫病えきびょう流行はやとう反撃はんげきると、半月はんつき長安ながやすから撤退てったいした(この戦役せんえき記念きねんするために「ゾルのそといしぶみ」がてられる)。これ以降いこう、吐蕃は西域せいいきとうたいして優勢ゆうせいたもった。

774ねんおうはインドから高僧こうそうシャーンタラクシタパドマサンバヴァまねいて仏教ぶっきょう復興ふっこうさせた。779ねん、吐蕃と属国ぞっこくみなみみことのり牟尋中国語ちゅうごくごばんベトナムばん在位ざいい779ねん - 808ねんおうは20まん大軍たいぐんをもって四川しせん成都せいと侵攻しんこうしたが、統制とうせい回復かいふくしていたとうぐん撃退げきたいされた。同年どうねん修行しゅぎょう寺院じいんであるサムイェーてら落成らくせいし、経典きょうてん解説かいせつ説法せっぽうなどの活動かつどう開始かいしされおおくの仏典ぶってん翻訳ほんやくされた。おうは、等級とうきゅうおうじて僧侶そうりょ食物しょくもつ生活せいかつ用品ようひん支給しきゅう、さらに王子おうじ后妃こうひ臣民しんみんまえ永遠えいえん仏法ぶっぽうおこなうことを誓約せいやくし、王子おうじたちには仏法ぶっぽうまなぶことが義務ぎむづけられ、仏教ぶっきょうあつ保護ほごされた。

781ねんから長年ながねんにわたるすなしゅう敦煌とんこう包囲ほういすえ786ねん占領せんりょう成功せいこうする。その高僧こうそう訶衍を吐蕃に招聘しょうへいした。787ねんシャーンタラクシタ死去しきょすると、インド仏教ぶっきょうけいそう中国ちゅうごくけい仏教ぶっきょう禅宗ぜんしゅうとの関係かんけい悪化あっか禅宗ぜんしゅう禁教きんきょうにさせることに成功せいこうした。790ねん、ジュンガル盆地ぼんちしろ突厥やカルルクとみなみシベリアのキルギスさそって、とう・ウイグル連合れんごうぐんきたにわみやこまもる占拠せんきょすると、ウイグル・から連合れんごうぐんとの50ねんわた戦争せんそう突入とつにゅう791ねん訶衍が皇后こうごうぼつ)を出家しゅっけさせると、792ねん訶衍はティソン・デツェンおう勅命ちょくめいによって、チベットのでの布教ふきょう許可きょかされた。また、ぜん信徒しんと抵抗ていこう794ねん禁教きんきょう解除かいじょされた。これに危機ききかんつのらせたインドけい仏教ぶっきょうはインドから高僧こうそうカマラシーラ招聘しょうへいした。おう訶衍とカマラシーラにめいじて、サムイェーてらで“さとり”について法論ほうろんたたかわせた(サムイェーてら宗論しゅうろん792ねん - 794ねん)。その結果けっかやぶれた中国ちゅうごくけい仏教ぶっきょう禅宗ぜんしゅうひたすら門派もんぱおしえがきんじられた。797ねんころ訶衍は敦煌とんこう放逐ほうちくされた。

仏教ぶっきょう国教こっきょうめぐ対立たいりつはいふつれい

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797ねん、ティソン・デツェンおう死去しきょ。そのムネ・ツェンポ中国語ちゅうごくごばん英語えいごばん[10]おう即位そくいおう臣民しんみんボンきょう寺院じいん僧侶そうりょへの布施ふせめいじ、貧富ひんぷ平均へいきんはかるが、成功せいこうしないまま在位ざいいねんらずで死去しきょする。これはははツェパン・サ・マギャルドンカ英語えいごばんチベット: ཚེས་པང་ཟམོ་རྒྱལ་ལྡོང་སྐར tse spang ma rgyal ldong skarなか: 蔡邦·瑪加ひがしかく)による毒殺どくさつとされている。798ねん、ムネ・ツェンポおう死後しご、そのおとうとティデ・ソンツェン[11]別名べつめい:セナレク)が王位おういいだ。810ねんころ、ティデ・ソンツェンおう仏教ぶっきょうあつく、王妃おうひ同盟どうめい小国しょうこく王子おうじ大臣だいじんたちを召集しょうしゅうし、子々孫々ししそんそん仏法ぶっぽうほうじ、今後こんごあらたにめと王妃おうひには仏教ぶっきょう信仰しんこう誓約せいやくさせることを規定きていした。さらに、僧侶そうりょなかからタンボという僧官そうかんえら寺院じいん管理かんりまかせ、高僧こうそうニャンティンエシン英語えいごばんチベット: མྱང་ཏིང་ངེ་འཛིན་なか: むすめ·ていほこりぞう)をバンチェンポチベット: བང་ཆེན་པོ་なか: 缽闡ぬの)としてだいろん宰相さいしょう)のうえき、国政こくせいつかさどらせた。

ヤアクービーつたえるところによれば、吐蕃がトランスオクシアナ中心ちゅうしん都市としサマルカンド占領せんりょうした。811ねん、ウイグル・とうぐんによる2度目どめきたにわみやこまもる奪還だっかんとジュンガル盆地ぼんち制圧せいあつによりカルルクがウイグルに服属ふくぞく次第しだい旗色はたいろわるくなる。トルキスタン(現在げんざいのアルタイ山脈さんみゃくパミール高原こうげん以西いせい、アムかわ以北いほく中央ちゅうおうアジア東部とうぶ)を支配しはいする吐蕃からアッバースあさカリフマアムーン黄金おうごんおくものがあり、のちメッカカアバおくられた[12]

814ねん、ティデ・ソンツェンおうは、インド,西域せいいき漢土かんどから仏教ぶっきょう高僧こうそうまねいて仏典ぶってん翻訳ほんやくさせ、訳語やくご統一とういつし、チベット語句ごく整理せいりし、声明せいめいがく合致がっちすべきこと、仏教ぶっきょう経典きょうてん意味いみ合致がっちすべきこと、吐蕃じんにとって理解りかいしやすいこと、という仏典ぶってん翻訳ほんやくさんだい原則げんそくめた。815ねんにティデ・ソンツェンおう死去しきょした。

そのティツク・デツェン[11]別名べつめい:レルパチェン)おう王位おういいだ。821ねん、吐蕃は長安ながやす使節しせつおくり、とう大臣だいじんたちと和解わかい盟約めいやく長慶ちょうけいかいめい)をおこなう。822ねんとう使節しせつりゅうもとかなえがラサにいたり、吐蕃のだいろん宰相さいしょう)たちと盟約めいやくおこない、翌年よくねん、ラサの大昭たいしょうてらまえからしげるかいめい建立こんりゅうした。これによって吐藩ととうあいだ和解わかい成立せいりつする。

このころ、チベットは仏教ぶっきょう国教こっきょうとしはじめ、828ねん、ティツク・デツェンおう命令めいれいにより大蔵経だいぞうきょう(一切経いっさいきょう)をチベット翻訳ほんやく編纂へんさんはじめた。これらの大蔵経だいぞうきょう目録もくろくはサムイェー、パンタンとう保存ほぞんされている。これがチベットでの仏教ぶっきょう経典きょうてん収集しゅうしゅう整理せいりのはじまりになった。さらに、ななみん僧侶そうりょいちにんやしない、そう不敬ふけいはたらもの厳罰げんばつしょ命令めいれいくだした。しかし、これは民衆みんしゅう不満ふまんこした。

840ねんころには河西かさい・隴右・西域せいいき全域ぜんいき奪還だっかんされ、ウイグルと講和こうわしたが、吐蕃の支配しはいそう内紛ないふん発生はっせいした。841ねん、ティツク・デツェンおうだいろん宰相さいしょうバー・ギャルトレ英語えいごばんチベット: དབས་རྒྱལ་ཏོ་རེ dbavs rgyal to reなか: 韋・きのえねつ別名べつめいむすぶ ウェイダナジェン)らに絞殺こうさつされ、その兄弟きょうだいラン・ダルマおう即位そくいする。843ねん、ラン・ダルマおう仏教ぶっきょう反対はんたいするだいろん宰相さいしょう)ウェイダナジェンに扇動せんどうされはいふつれいくだし、仏寺ぶつじ仏像ぶつぞう封鎖ふうさ破壊はかいそう還俗げんぞくせまり、反抗はんこうする高僧こうそう殺害さつがい経典きょうてん文物ぶんぶつ焼却しょうきゃくした。これにたい仏教ぶっきょう信仰しんこうする人々ひとびと不満ふまんたかまらせた。

842ねん846ねん?)、ラン・ダルマおうは、変装へんそうしてちかづいたふつそうラルン・パルギ・ドルジェ中国語ちゅうごくごばん英語えいごばんむねられて暗殺あんさつされる。

南北なんぼく分裂ぶんれつ民衆みんしゅう蜂起ほうき

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そのおうユムテン中国語ちゅうごくごばん[13]ウースン中国語ちゅうごくごばん[13]による王位おうい継承けいしょうあらそい(チベット: དབུ་གཡོར་འབྲུག་པやくたたか)が勃発ぼっぱつこく南北なんぼく分裂ぶんれつする。これをとうぐんはチベットにたいぐんすす安史やすしらんときに吐蕃が占領せんりょうした河西かさい隴右各地かくちとう奪回だっかいされる。851ねんすなしゅう敦煌とんこう)でちょうしおによる民衆みんしゅうぐんかえり義軍ぎぐん反乱はんらんき吐蕃の駐留ちゅうりゅうぐんされる。これによってふりしゅうすなしゅうしゅう粛州とう11しゅうとう復帰ふっきし、とうちょうしお義軍ぎぐん政権せいけん節度せつど使ふうじた。869ねん、吐蕃の地方ちほう貴族きぞく平民へいみんたちが、支配しはいそうたいする叛乱はんらんチベット: འབངས་ཀྱི་ཁེང་ལོག་རྣམས་རིམ་བར་བྱངなか: 各種かくしゅぞくみん奴隸どれいおこりよし)をこす。877ねんには叛乱はんらん勢力せいりょくロカ地方ちほうなみ地方ちほう)のヤルルン渓谷けいこく英語えいごばん占領せんりょうし、吐蕃は滅亡めつぼうした。チョンギェー地方ちほう歴代れきだいおうりょう英語えいごばんらされ、王家おうけ後裔こうえい四散しさんした(吐蕃の崩壊ほうかい英語えいごばん)。

歴代れきだいツェンポ

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佐藤さとうちょうおうみつるおもてなみ宰相さいしょうひょう[14]および山口やまぐち瑞鳳ずいほう「吐蕃王家おうけ[15]による。チベット統一とういつ時期じき以前いぜん伝説でんせつ時期じきふくめたヤルルン王家おうけ歴代れきだいについては吐蕃王朝おうちょう国王こくおう一覧いちらん参照さんしょう。吐蕃のおう自称じしょうとしてはせいたなかった。

代数だいすう[16] 名前なまえ(Wylieしき) なま没年ぼつねん 在位ざいい 新旧しんきゅうとうしょ』の表記ひょうき カナ表記ひょうき佐藤さとう[17] カナ表記ひょうき山口やまぐち[18] カナ表記ひょうき岩尾いわお[19]
- gnam ri srong btsan ??–630 ??-630 みなみまつさん ナムリソンツェン[5]
I srong btsan sgam po 581?,617?–649 594?,630?–649 棄宗ろうさん ソンツェンガムポ[20] ソンツェン・ガムポ[21] ティソンツェン,ソンツェンガムポ[22]
-- gung srong gung btsan  –  638–643[7]  –  グンソングンツェン[23] グンソン・グンツェン[10] グンソングンツェン[7]
II mang srong mang btsan  –  649–647[24]  –  マンソンマンツェン[25] マンルン・マンツェン[10] マンソンマンツェン[26]
III 'dus srong mang po rje  –  676–704[24] うつわいしゆみ悉弄 チドゥソン[25] ティ・ドゥーソン[10] ティドゥーソン[7]
-- lha bal po  –  704–704[7]  –   –   –  ラペルボ[7]
IV khri lde gtsug btsan  –  705ごろ–755ころ[7] 棄隸蹜賛、しゃくたいたま[27] チデツクツェン[28] ティデ・ツクツェン[10] ティデツクツェン[7]
V khri srong lde btsan  –  755ごろ–797 乞黎かごりょうさんしゃば悉籠りょうさん[27] チソンデツェン[29] ティソン・デツェン[10] ティソンデツェン[30]
VI mu ne btsan po  –  796ごろ–798[31]  –  ムネツェンポ[32] ムネ・ツェンポ[10] ムネツェンポ[31]
VII khri lde srong btsan  –  798–815 墀松とくさん チデソンツェン[32] ティデ・ソンツェン[10] ティデソンツェン[33]
VIII khri gtsug lde btsan  –  815–841  –  チツクデツェン、レーパチェン[32] ティツク・デツェン[10] レルパチェン、ティツクデツェン[33]
IX glang dar ma 'u dum btsan  –  841–842 達磨だるま[34] ダルマ、ラン・ダルマ・ウドゥムツェン[35] ダルマ・ウドゥムツェン[10] ウドゥムツェン,ダルマ,ランタルマ[36]

史跡しせき

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 敦煌とんこうからティドゥ・ソンツェンおうみずからの高貴こうきさとガル・ティンリンのおもがりをんだ一文いちぶんつかっている
  2. ^ 大半たいはんのチベットの歴史れきししょでは金城きんじょう公主こうしゅとされているが、発見はっけんされた文書ぶんしょのこ金城きんじょう公主こうしゅぼつ生誕せいたんとなるので、ティソン・デツェンを権威けんいけるためから帝室ていしつあやかったとみられる。

出典しゅってん

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  1. ^ a b 序章じょしょう 吐藩王国おうこくのチベット統一とういつ”. 人民じんみん中国ちゅうごく. 2017ねん12月12にち閲覧えつらん
  2. ^ 金子かねこ秀敏ひでとしむかし、CIAのにわだった=専門せんもん編集へんしゅう委員いいん金子かねこ秀敏ひでとし - 毎日まいにちjp毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2010ねん4がつ22にちオリジナルの2010ねん4がつ27にち時点じてんにおけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20100427070240/http://mainichi.jp/select/opinion/kaneko/ 
  3. ^ 仏教ぶっきょう文化ぶんか需要じゅよう発展はってん”. 人民じんみん中国ちゅうごく. 2017ねん12月12にち閲覧えつらん
  4. ^ 古代こだい歴史れきしダライ・ラマ法王ほうおう日本にっぽん代表だいひょう事務所じむしょ(チベットハウス・ジャパン)。オリジナルの2013ねん12月3にち時点じてんにおけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20131203200205/http://www.tibethouse.jp/history/bc127.html 
  5. ^ a b ざいゆずる 2010, 巻末かんまつ.
  6. ^ 山口やまぐち瑞鳳ずいほう 1988, p. 8.
  7. ^ a b c d e f g h i j k 岩尾いわお,2010,p.19
  8. ^ ざいゆずる 2010, p. 97.
  9. ^ 山口やまぐち瑞鳳ずいほう 1988, p. 31.
  10. ^ a b c d e f g h i j 山口やまぐち瑞鳳ずいほう 1988, p.27ひょう.
  11. ^ a b 山口やまぐち瑞鳳ずいほう 1988, pp. 27, 47.
  12. ^ Shakabpa, Tsepon W. D. Tibet: A Political History (1967), p. 48. Yale University Press, New Haven and London.
  13. ^ a b 山口やまぐち瑞鳳ずいほう 1988, p. 47.
  14. ^ 佐藤さとうちょう 1959, pp. 822–827.
  15. ^ 山口やまぐち瑞鳳ずいほう 1988, p. 27.
  16. ^ 佐藤さとうちょう,『古代こだいチベット研究けんきゅう下巻げかん,東洋とうよう研究けんきゅうかい1959,「おうみつるおもてなみ宰相さいしょうひょう」pp.823-827にもとづく
  17. ^ 佐藤さとうちょう 1958.
  18. ^ 山口やまぐち瑞鳳ずいほう 1988.
  19. ^ 岩尾いわお,2010
  20. ^ 佐藤さとうちょう 1958, p. 206.
  21. ^ 山口やまぐち瑞鳳ずいほう 1988, pp.11,27ひょう.
  22. ^ 岩尾いわお,2010,p.17ほか
  23. ^ 佐藤さとうちょう 1958, p. 20.
  24. ^ a b 山口やまぐち瑞鳳ずいほう 1988, p.27ひょう岩尾いわお,2010,p.19
  25. ^ a b 佐藤さとうちょう 1958, p. 300.
  26. ^ 岩尾いわお,2010,p.
  27. ^ a b きゅうとうしょつうかん佐藤さとう 1958, p. 20
  28. ^ 佐藤さとうちょう 1958, p. 389.
  29. ^ 佐藤さとうちょう 1958, pp. 391, 497.
  30. ^ 岩尾いわお,2010,p.20
  31. ^ a b 岩尾いわお,2010,p.34
  32. ^ a b c 佐藤さとうちょう 1959, p. 576.
  33. ^ a b 岩尾いわお,2010,p.35
  34. ^ しんとうしょ佐藤さとう 1959, p. 697
  35. ^ 佐藤さとうちょう 1959, pp. 696–697.
  36. ^ 岩尾いわお,2010,pp.40-41

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 沖本おきもと克己かつみへんしんアジア仏教ぶっきょう09 須弥山しゅみせん仏教ぶっきょう世界せかい佼成出版社こうせいしゅっぱんしゃ、2010ねん岩尾いわお一史かずし古代こだい王朝おうちょう時代じだい諸相しょそう」16-43ぺーじ 
  • 佐藤さとうおさむ古代こだいチベット研究けんきゅうじょう京都大学きょうとだいがく文学部ぶんがくぶ東洋とうよう研究けんきゅうかい東洋とうよう研究けんきゅうくさむらかん〉、1958ねん 
  • 佐藤さとうちょう古代こだいチベット研究けんきゅうした京都きょうと大学だいがく文学部ぶんがくぶ東洋とうよう研究けんきゅうかい東洋とうよう研究けんきゅうくさむらかん〉、1959ねん 
  • ロラン・デエ しる今枝いまえだ由郎よしろう わけ『チベット春秋しゅんじゅうしゃ、2005ねんISBN 978-4-393-11803-0 
  • 山口やまぐち瑞鳳ずいほう『チベット』 した東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1988ねんISBN 4-13-013034-X 
  • 山口やまぐちみずほおおとり『チベット』 改訂かいてい)、東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい、2004ねんISBN 978-4130130493 
  • ざいゆずる『吐蕃稿こう人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、2010ねんISBN 9787010087283 

関連かんれん項目こうもく

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