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鮮卑

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
騎射きしゃをする慕容ゆみ騎兵きへい
きたたかしとなったつぶせばつ帝国ていこく (1–3世紀せいき)。

鮮卑(せんぴ、拼音: Xiānbēi)は、紀元前きげんぜん3世紀せいきから中国ちゅうごく北部ほくぶ東北とうほく存在そんざいした騎馬きば民族みんぞくえびすじゅうろくこく時代じだい南北なんぼくあさ時代じだいにはだい移動いどう南下なんかして漢人かんど国々くにぐに征服せいふくし、中国ちゅうごくきたたかしきたひとしきたあまねなどの王朝おうちょうてた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

まゆみせきえんじゅ登場とうじょうまえ[編集へんしゅう]

かんだいはじめ、匈奴きょうどおかせひたすらたんひがしえびすほろぼしたさい、そののこりががらす桓山と鮮卑やまのがれ、それぞれががらすと鮮卑になった。鮮卑はしばらく匈奴きょうどのもとにいたが、匈奴きょうど南北なんぼくかれそのちからおとろえてくると、勢力せいりょくかえすようになった。

たてたけし30ねん54ねん)、鮮卑の大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう)の於仇賁(おきゅうほん)は部族ぶぞくみんれて洛陽らくようのぼって朝貢ちょうこうをし、光武みつたけみかどからおうふうじられる。

ながひらた年間ねんかんに、まつり遼東りゃおとん太守たいしゅとなると、鮮卑にさそいをかけまいないおくって、かん命令めいれいしたがわないがらす桓の欽志賁(きんしほん)らのくびらせた。

えいはじめ6ねん94ねん)、鮮卑だいみやこまもるこうじょう抜廆(そばつかい)は、部族ぶぞくみんひきいてまもるがらす桓校じょうにんひさししたがい、みなみ匈奴きょうど反抗はんこうしゃたちを討伐とうばつした。そのこうにより、朝廷ちょうてい抜廆をりつしゅおうふうじた。

殤帝のべひらた元年がんねん106ねん)、鮮卑はひがしへの移動いどうはじめ、長城ちょうじょうなかはいってりょう太守たいしゅちょうあらわころした。

やすみかど時代じだい、鮮卑の大人おとなつばめ茘陽(えんれいよう)が入朝にゅうちょうした。朝廷ちょうていかれに鮮卑おう印綬いんじゅさづけた。これ以後いご、鮮卑は、あるときは反抗はんこうし、あるときは降伏ごうぶくし、あるときは匈奴きょうどがらす桓とあらそった。

やすみかどすえとし国境こっきょう地帯ちたいから歩兵ほへい騎兵きへい2まんあまりを徴用ちょうようして、要害ようがい駐屯ちゅうとん配備はいびさせた。のちに鮮卑の8000-9000の騎馬きばへいだいぐん馬城ばじょうとりでやぶって侵入しんにゅうし、ぐんけん主立おもだった役人やくにんたちを殺害さつがいした。朝廷ちょうていりょう将軍しょうぐん鄧遵(とうじゅん)を派遣はけんして、長城ちょうじょう追撃ついげきさせ、これをやぶった。鮮卑の大人おとながらすりん(うりん)・其至鞬(きしけん)ら7000余人よにんが鄧遵のもとに降伏ごうぶくもうれてきた。そこで朝廷ちょうていがらすりんおうふうじ、其至鞬にはほうあたえた。鄧遵がったあと、其至鞬はまたもや叛き、まもるがらす桓校じょう馬城ばじょう包囲ほういした。りょう将軍しょうぐん耿夔かそけしゅう刺史ししとが救援きゅうえんおもむき、包囲ほういくずした。其至鞬はこれ以後いごますますその勢力せいりょくさかんにし、長城ちょうじょう内部ないぶ侵入しんにゅうして、げんぐんの曼柏(まんはく)にかい、匈奴きょうどみなみたん于に攻撃こうげきをかけ、ひだり薁鞬逐王(さいくけんじつちくおう)をころした。

じゅんみかど時代じだいふたた長城ちょうじょう内部ないぶ侵入しんにゅうし、だいぐん太守たいしゅころした。朝廷ちょうてい長城ちょうじょう付近ふきんぐん駐屯ちゅうとんさせ、みなみたん于も1まん余人よにんひきい、かんぐん援助えんじょして鮮卑に攻撃こうげきくわえ、これをしりぞけた。こののち、まもるがらす桓校じょう耿曄は、がらす桓大じんじょうえびすまつ(じゅうまつかい)をひきいて長城ちょうじょうると鮮卑に攻撃こうげきをくわえ、鮮卑のなか首領しゅりょうかくものたちをおおった。その結果けっか、鮮卑の3まんあまり落は、遼東りゃおとんぐん役所やくしょ降服こうふくもうれてきた[1]

まゆみせきえんじゅ登場とうじょう[編集へんしゅう]

桓帝時代じだいとう鹿しかこう(とうろくこう)のまゆみせきえんじゅ大人おとなくらいくと、高柳たかやなぎきた、300あまりさとたまあせさん(だんかんさん)・すすかたきすい(せつきゅうすい)のほとりにその本拠ほんきょいた。ひがし西にし部族ぶぞく大人おとなたちはみなかれのもとに帰服きふくしてきた。その兵馬へいばいきおさかんで、みなみかん国境こっきょう地帯ちたい略奪りゃくだつはたらき、きたではひのとれい南下なんかはばみ、ひがしではおっとあまり撃退げきたいさせ、西にしではがらすまご攻撃こうげきをかけた。かつての匈奴きょうど版図はんとをまるまるものとし、東西とうざいは1まん2000あまりさと南北なんぼくは7000にわたって、広大こうだい地域ちいきをすっぽり手中しゅちゅうおさめた。かん朝廷ちょうていはこれをわずらえ、使つかい匈奴きょうどちゅうろうしょうちょうおくって討伐とうばつさせたが、つことができなかった。そこで今度こんど使者ししゃおく印綬いんじゅさづけて、まゆみせきえんじゅおうくらいふうじ、和親わしんつうじようとした。まゆみせきえんじゅ拒絶きょぜつしてらず、侵入しんにゅう略奪りゃくだつはますますはげしくなった。

こうして勢力せいりょく拡大かくだいしたまゆみせきえんじゅは、みずからの領有りょうゆうする土地とちひがしなか西にしの3けた。みぎ北平きたひらから東方とうほう遼東りゃおとんおっとあまり濊貊(わいはく)とせっするあたりまでを東部とうぶとした。そこには20あまりがあり、その大人おとなは、わたる(びか)・厥機(けつき)・(そり)・えんじゅあたま(かいとう)とばれるしゃたちであった。みぎ北平きたひらから西方せいほう上谷うえたにいたるまでを中部ちゅうぶとした。そこには10あまりの邑があり、その大人おとなは、柯最(かさい)・闕居(けつきょ)・慕容(ぼよう)などとばれるしゃたちで、かれらはだいそち(たいすい、そう指揮しきかん)でもあった。上谷うえたにから西方せいほう敦煌とんこうまで、西方せいほうがらすまごせっするところまでを西部せいぶとした。そこには20あまりの邑があり、その大人おとなは、おけ鞬落(ちけんらくら)・にちりつ推演(じつりつすいえん)・うたげ茘游(えんれいゆう)などとばれるしゃたちで、かれらはだいそちであり、みなまゆみせきえんじゅ支配しはいけていた。

れいみかど時代じだいになると、かれらはかそけしゅう并州の2しゅうさかんに略奪りゃくだつおこない、国境こっきょう地帯ちたいしょぐんは、鮮卑からひど損害そんがいけないとしはなかった。

熹平6ねん177ねん)、まもるがらす桓校じょうなついく(かいく)・やぶ鮮卑ちゅうろうしょう(でんあん)・使つかい匈奴きょうどちゅうろうしょう臧旻(そうびん)を派遣はけんし、みなみたん于(ほふとくわかしかばね逐就たん)のぐんとともにかりもんふさがから長城ちょうじょうそとると、3たいかれて並行へいこうしてすすみ、2000あまりさとって遠征えんせいおこなった。まゆみせきえんじゅ配下はいか部族ぶぞく指揮しきして、これをむかった。臧旻らは敗走はいそうして、無事ぶじ帰還きかんできた兵馬へいばは10ぶんの1にすぎなかった。このころ、鮮卑の人口じんこう農耕のうこう牧畜ぼくちく狩猟しゅりょうだけでは、食糧しょくりょう十分じゅうぶん供給きょうきゅうすることができなくなり、かわぎょって食料しょくりょうとした[1]

まゆみせきえんじゅ死後しご[編集へんしゅう]

まゆみせきえんじゅが45さいぬと、息子むすこかずれんわってった。れんには父親ちちおやほどの素質そしつ能力のうりょくもなく、しかも貪欲どんよく淫乱いんらんで、さばきが不公平ふこうへいだったため、部下ぶか半数はんすうはその命令めいれいかなくなった。れいみかどすえとし、しばしば侵略しんりゃくおこない、北地きたじぐんめたが、北地きたじ庶民しょみんいしゆみたくみなものがおり、かずれんはそこで射殺しゃさつされた。れんの騫曼はおさなかったので、あにさきがけあたまわってった。さきがけあたまってしばらくして、騫曼が成長せいちょうすると、両者りょうしゃくにあらそい、部下ぶか離反りはんしてしまった。さきがけあたまぬと、おとうと歩度ほどわってった。まゆみせきえんじゅ死後しご大人おとなたちのくらいはみな世襲せしゅうされることになったのである[1]

鮮卑は、歩度ほど指導しどうしゃになってから、その部族ぶぞくいきおいがややおとろえ、かれ次兄じけいたる扶羅かんがまたべつすうまんしゅうようして大人おとなとなった。たてやすし年間ねんかんに、曹操そうそうかそけしゅう平定へいていすると、歩度ほど軻比のうらとともにまもるがらす桓校じょう閻柔つうじて、朝廷ちょうてい献上けんじょうぶつおくった。のちにだいぐん烏丸からすまのうしん(のうしんてい)らは、かん支配しはいに叛き、扶羅かんに、その配下はいかはいりたいと通知つうちした。扶羅かんは1まんしたがえてむかえにた。くわいぬいまでたとき、のうしん氐らははない、扶羅かん配下はいかかれ命令めいれい十分じゅうぶんふくしていないから、結局けっきょくはそこにけることはできないだろうということで、べつ使者ししゃおくり、軻比のう連絡れんらくった。軻比のうはすぐさま1まんひきいてやってくると、ともどもかいめいおこなうことになった。軻比のうはそのかいめい席上せきじょうで扶羅かんころし、扶羅かん泄帰どろとその配下はいかものはすべて軻比のう指揮しきはいった。軻比のう自分じぶんが泄帰どろ父親ちちおやころしていることから、泄帰どろには特別とくべつをかけた。歩度ほどは、こうしたことから軻比のう仇敵きゅうてきとみなすようになった。

ぶんみかど(曹丕)がかんより禅譲ぜんじょうけて即位そくいすると、まもるがらす桓校じょうにんぜられ、ぶし権限けんげんち、まもる鮮卑こうじょうねて、昌平しょうへい駐屯ちゅうとんした。歩度ほど使者ししゃおくってうま献上けんじょうし、みかど歩度ほどおうさづけた。のちしばしば軻比のう戦闘せんとうまじえたが、歩度ほど配下はいかはだんだんと弱体じゃくたいとなったため、その配下はいかの1まんひきいてふとしはらぐんかりかどぐんとにはいって安全あんぜんはかった。歩度ほどはそのあと使者ししゃおくり、泄帰どろさそいをかけ、泄帰どろはその部族ぶぞくみんたちをれて逃亡とうぼうし、歩度ほどのもとにいた。

はつ5ねん224ねん)になって、歩度ほど朝廷ちょうてい参内さんだい献上けんじょうぶつささげ、手厚てあつたまわものさずかった。これ以後いごはひたすら辺境へんきょうまもりにつとめて、侵入しんにゅう略奪りゃくだつおこなうことはなかった。一方いっぽう、軻比のう部族ぶぞくはますます勢力せいりょくつよめた。においてあかりみかど(曹叡)が即位そくいすると、民族みんぞくとの関係かんけいつとめて平和へいわにして軍事ぐんじ行動こうどうをなくそうとし、2つの部族ぶぞく名目めいもくてきたかし支配しはいつなめておくだけにとどまった。

あおりゅう元年がんねん233ねん)になって、軻比のうのほうからさそいかけて歩度ほど堅固けんご和親わしん関係かんけいむすんだ。このようにして歩度ほどは泄帰どろ部族ぶぞくみん全部ぜんぶひきいて軻比のう配下はいかせると、并州をおかして略奪りゃくだつはたらき、役人やくにん民衆みんしゅう殺害さつがい俘虜ふりょとしてった。みかど驍騎将軍しょうぐんはたあきら征伐せいばつかわせた。泄帰どろは軻比のうに叛いて、その部族ぶぞくみんひきいて朝廷ちょうてい降服こうふくすると、かえりおうさずかり、元通もとどおり并州に居住きょじゅうすることをゆるされた。歩度ほどは軻比のうころされた[2]

軻比のう登場とうじょう[編集へんしゅう]

軻比のうはもともと鮮卑のなかでも勢力せいりょくのない部族ぶぞく出身しゅっしんであったが、勇敢ゆうかんさばきが公平こうへいであり、財物ざいぶつむさぼることがなかったため、人々ひとびとかれして大人おとないただいた。たてやすし年間ねんかん、軻比のう閻柔つうじて、けんじぶつたてまつった。かん丞相じょうしょう曹操そうそう西方せいほうぐんうごかし、せきなかせいすると、ぎん河間こうま叛旗はんきひるがえした。軻比のうは3000れ閻柔にしたがってぎんめ、これをやぶった。のちにだいぐんがらす反乱はんらんこすと、軻比のう今度こんどがらす桓とちからあわせて侵攻しんこうし、かん損害そんがいあたえた。曹操そうそうは、鄢陵こう曹彰驍騎将軍しょうぐんにんじてきたませ、曹彰は軻比のうひどくやぶった。軻比のうげて長城ちょうじょうそとたが、のちにはまた使者ししゃおくり、けんじぶつをするようになった。

のべやすしはじめ(220ねん)、軻比のう使者ししゃおくってうま献上けんじょうし、ぶんみかどのほうでも軻比のうおうさづけた。

はつ2ねん221ねん)、軻比のうもので鮮卑のなかげてきているものたち500あまりおくかえして、だいぐん移住いじゅうさせた。つぎとし、軻比のうはその部族ぶぞく大人おとな配下はいかものたち、だいぐんがらす桓のおさむたけ(しゅうぶろ)など3000れ、うしうま7まんとうってやってくると、とのあいだ市場いちばひらいて交易こうえきおこなった。また、もの1000あまりおくかえして上谷うえたに移住いじゅうさせた。そののち、東部とうぶ鮮卑の歩度ほど配下はいかの3部族ぶぞくが軻比のうあらそいをこし、たがいに攻撃こうげきをかけあった。まもる鮮卑こうじょう調停ちょうていをして、たがいにおかせすることをやめさせた。

はつ5ねん224ねん)、軻比のうふたたもと攻撃こうげきをかけると、けい装備そうび騎兵きへいひきいてけつけ、背後はいごから牽制けんせいした。軻比のうちいさな部隊ぶたいえらんでその隊長たいちょうの瑣奴(さど)に攻撃こうげきふせがせたが、積極せっきょくてき攻撃こうげきをかけて、瑣奴を敗走はいそうさせた。このことがあって、軻比のう信頼しんらいしなくなったが、輔国将軍しょうぐん鮮于輔(せんうほ)のとりなしで両者りょうしゃ友好ゆうこう関係かんけいむすんだ。軻比のうはさらに勢力せいりょくし、部下ぶかからの信用しんようあつくなったが、かつてのまゆみせきえんじゅにはおよばなかった。

ふとし2ねん228ねん)、通訳つうやくなつしゃ軻比のうむすめ婿むこうつちく(うつちくけん)の部族ぶぞくのもとにかせたが、なつしゃうつちく鞬にころされた。そのあき西部せいぶ鮮卑のがまあたま泄帰どろひき長城ちょうじょううつちく鞬をち、これをひどくやぶった。その帰還きかん途上とじょう馬城ばじょうまでたとき、軻比のうみずから3まんひきいてぐん包囲ほういし、その包囲ほういは7にちおよんだ。上谷うえたに太守たいしゅ閻志は、閻柔おとうとで、もともと鮮卑たちの信頼しんらいけていた。その閻志がおこなってさとしたため、軻比のうはすぐさま包囲ほういいてげた。そののち、かそけしゅう刺史ししおうつよしは、こうじょうにんね、恩賞おんしょう信義しんぎとでもって鮮卑たちをいだかせた。軻比のうも、しばしば長城ちょうじょうはいり、かそけしゅう役所やくしょにやってきて献上けんじょうぶつささげた。

あおりゅう元年がんねん233ねん)になると、軻比のう歩度ほどさそいをかけて、并州支配しはいからさせ、和親わしん約束やくそくむすぶと、みずから1まんひきいてその妻子さいし眷族けんぞくを陘北(けいほく)までむかえにた。并州刺史しし畢軌(ひつき)は、将軍しょうぐんしょうただし(とうひつ)らをおくってこれに攻撃こうげきをかけさせた。軻比のう自分じぶん息子むすこ騎兵きへいれさせて派遣はけんし、しょうらとろうはん(ろうはん)において会戦かいせんし、その戦闘せんとうちゅうしょうただし弼を殺害さつがいした。あおりゅう3ねん235ねん)になって、おうつよしは、勇猛ゆうもうかんりゅうおくって軻比のう刺殺さしころさせると、わってそのおとうとてた[1]

その大人おとな[編集へんしゅう]

わたる厥機はそれぞれに大人おとなであったが、りょう西にしみぎ北平きたひらりょうなどのぐん長城ちょうじょうそとにいて、とおはなれていたために国境こっきょう地帯ちたい損害そんがいおよぼすことはえてなかった。しかしその部族ぶぞくみんかずは軻比のうよりもおおかった。たてやすし年間ねんかんかれらは閻柔をつうじてけんじぶつたてまつって、かんとの交易こうえきもとめてきた。曹操そうそうかれらをそれぞれに表彰ひょうしょう手厚てあつ待遇たいぐうして、おうさづけた。厥機がぬと、わってそのすなまつあせててしんかんおうさづけた。のべやすし初年しょねん220ねん)、かれらはまたそれぞれに使者ししゃおくってうま献上けんじょうしてきた。ぶんみかどは、わたるとをてておうさづけた。もとは、軻比のうたたかいをまじえた。ふとし2ねん228ねん)、んだ。息子むすこおさなかったので、おとうとなりりつおうて、わってその配下はいか統御とうぎょにあたらせた[2]

せいはじめ元年がんねん240ねん)、じゃくみず以南いなんの鮮卑めいおうたちはみな使つかいおくってけんじした[3]

せいはじめ5ねん244ねん)9がつ、鮮卑がうちしたので、遼東りゃおとん属国ぞっこくき、あきらはじむけん設置せっちしてかれらをそこにまわせた[4]

すすむ時代じだい[編集へんしゅう]

西にしすすむ時代じだい北方ほっぽう遊牧ゆうぼく民族みんぞく領域りょういき

やすしはじめ6ねん270ねん)6がつ禿かぶろかみ族長ぞくちょうであった禿かぶろかみじゅ機能きのうりょうしゅう民族みんぞくひきいて西にしすすむ反逆はんぎゃくし、まん斛堆のたたかいでしんしゅう刺史ししえびすれつった。271ねん禿かぶろかみじゅ機能きのうりょうしゅう刺史しし牽弘はいさせた(禿かぶろかみじゅ機能きのうらん)。

やすしはじめ9ねん273ねん)、鮮卑はこうやすしぐんあだし、5000にんころせりゃくした。

咸寧元年がんねん275ねん)6がつ、鮮卑つぶせばつちからほろ(りょくび)は沙漠さばくあせつかわして西にしすすむけんじした。同年どうねん西域せいいきつちのえおのれこうじょううま反乱はんらんこした鮮卑を討伐とうばつし、これをやぶってそのみぞそちる。

咸寧2ねん276ねん)7がつ、鮮卑のおもね(あらた)らが辺境へんきょうおかしたので、西域せいいきつちのえおのれこうじょううま循はふたたびこれをち、4000あまりきゅう斬首ざんしゅし、9000余人よにんった。

咸寧3ねん277ねん)1がつ西にしすすむたけみかどせいきた大将軍だいしょうぐんまもるめいじて鮮卑のちからほろ討伐とうばつさせた。同年どうねん3がつ西にしすすむ司馬しば駿しゅんぶん派遣はけんして、機能きのうやぶり、降伏ごうぶくさせた。

咸寧5ねん279ねん)1がつ禿かぶろかみじゅ機能きのうふたた西にしすすむ反逆はんぎゃくし、りょうしゅう占拠せんきょしたが、12月、西にしすすむうまたかし大敗たいはいし、ぼつこつのう殺害さつがいされた。りょうしゅううまたかし平定へいていされた。

ふとやすし2ねん281ねん)10がつ、鮮卑慕容慕容廆あきらはじむぐんあだす。11月、鮮卑はりょう西郡にしごおりあだし、たいらしゅう刺史しし鮮于嬰はこれをやぶる。

ふとしかん3ねん282ねん)3がつやすきた将軍しょうぐんいむは慕容廆をあきらはじむやぶり、すうまんにん殺傷さっしょうした。

ふとしかん7ねん286ねん)5がつ、慕容廆は遼東りゃおとんぐんあだす。

ふとしかん10ねん(289ねん)5がつ、慕容廆がすすむくだし、東夷あずまえびす11こくうちすることとなった[5]

これ以後いごは、えびすじゅうろくこく時代じだい突入とつにゅうし、つぶせばつ慕容宇文うぶんだんなどの部族ぶぞくたがいに抗争こうそうしたり、すすむあさのために匈奴きょうどかんぜんちょう)やこうちょうたたかったり、だいくにぜんつばめこうつばめ西にししんみなみすずかみなみつばめなどみずからのくに建国けんこくしたりしたが、最終さいしゅうてきつぶせばつきたたかし華北かほく統一とういつし、南北なんぼくあさ時代じだいむかえる。

言語げんご系統けいとう[編集へんしゅう]

鮮卑の戦士せんしぞう

鮮卑の言語げんごがらすおなじである[6]

鮮卑の言語げんご系統けいとうについて、ふるくは テュルクけいであるとするせつ[注釈ちゅうしゃく 1]があったが、近年きんねんになって鮮卑(とくつぶせばつ)の言語げんご鮮卑モンゴルけいであるというせつもあるがまだあきらかではない。近年きんねんにはおっとあまりとの共通きょうつうてん注目ちゅうもくされている[注釈ちゅうしゃく 2]

だが鮮卑の部族ぶぞくにはもとは匈奴きょうど参加さんかしていた部族ぶぞくもいるなど、鮮卑けい民族みんぞく参加さんかしていたため、鮮卑の部族ぶぞくすべての言語げんご特定とくていすることはむずかしい[7][8]

習俗しゅうぞく[編集へんしゅう]

鮮卑はがらす桓と同族どうぞくなので習俗しゅうぞくはほぼおなじである(くわしくはがらす桓#習俗しゅうぞく参照さんしょう)。ただ、結婚けっこんのスタイルはがらす桓のものとことなり、まず婚姻こんいんまえに髠頭し、はるにょうらくすい作楽さくらすい)のほとりで開催かいさいされる大会たいかいで、酒盛さかもりをしたのちつまめと[9]

産業さんぎょう[編集へんしゅう]

その生息せいそくする動物どうぶつ中国ちゅうごくのものとことなり、はらひつじ、甪端うしがおり、甪端うしかくゆみ(甪端ゆみ)の材料ざいりょうとなる。また、てん、豽、鼲子も生息せいそくしており、その毛皮けがわはとてもやわらかく、上等じょうとうな裘(かわごろも)となった[10]おも放牧ほうぼく生業せいぎょうとするが、農耕のうこうすることもっている[11]

名称めいしょう[編集へんしゅう]

鮮卑のベルトバックル、3-4世紀せいき

「鮮卑」という名称めいしょうは、中国ちゅうごくがわ音訳おんやくであるが、その原音げんおんなにであったかは、かれらが文字もじたなかったため不明ふめいである。おうの『しょ』などでは「鮮卑・がらす桓なるぞくめいは、やま名前なまえよりいた」としるされている。『漢書かんしょ匈奴きょうどでんかおいにしえの註において、「さい毗(せいび、さいひ)とはえびすおびかぎなり、また鮮卑、ともいう」とあり、鮮卑じん着用ちゃくようするバックルをであるとする。『史記しきさくかくれ匈奴きょうどでんちゅうちょう晏説では「鮮卑・かく落、おびかみじゅうなり。ひがしえびすこのみてこれをふくす。」とあり、より正確せいかくにはバックルにえがかれてるかみじゅうトーテム)であるとする。東洋とうよう学者がくしゃ白鳥庫吉しらとりくらきちなどは、古代こだいトルコ・モンゴルおびかぎをいう särbi満州まんしゅう異人いじんをいうsabiが「鮮卑」の語源ごげんであるとし、ぎゃくに鮮卑さんという山名やまなは鮮卑 (särbi / sabi) ぞく根拠地こんきょちとしたために鮮卑やまばれるようになったと主張しゅちょうした[12]。「鮮卑」=はっきりといやしいという意味いみで「匈奴きょうど」「こうむいにしえ」「吐藩」などとともに、かん民族みんぞく周囲しゅうい地域ちいき民族みんぞくは、すべてネガティブな意味いみ漢字かんじてられている。

おもな指導しどうしゃ大人おとな)と鮮卑けい歴代れきだい君主くんしゅ[編集へんしゅう]

はじめ、鮮卑の各部かくぶ族長ぞくちょう大人おとな(たいじん)とばれていたが、匈奴きょうどのように統一とういつてき君主くんしゅごうがなかった。つぶせばつ時代じだいになってあせごう採用さいようされると、中央ちゅうおうユーラシア歴代れきだい王朝おうちょうあせ(カガン:Kakhan)を君主くんしゅごうとするが、中国ちゅうごく征服せいふくし、移住いじゅうした鮮卑けい王朝おうちょう中国ちゅうごくふうおう皇帝こうていしょうするようになった。

まゆみせきえんじゅ以前いぜん[編集へんしゅう]

大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう

[13]

まゆみせきえんじゅ鮮卑[編集へんしゅう]

大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう
  1. まゆみせきえんじゅ(155ねん? - 181ねん?)
  2. かずれん181ねん? - 189ねん?)…まゆみせきえんじゅ
  3. さきがけあたま(?とし - ?とし)…かずれんおい
    • 騫曼(?とし - ?とし)…かずれん
  4. 歩度ほど(?とし - 234ねん?)…さきがけあたまおとうと220ねん鮮卑おうふうじられる。
    • 扶羅かん(?とし - 218ねんころせ)…さきがけあたまおとうと歩度ほど次兄じけい
    • 泄帰どろ(218ねん - ?とし)…扶羅かんかえりおうふうじられる。

[13]

軻比のう鮮卑[編集へんしゅう]

大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう
  1. 軻比のう(?とし - 235ねんころせ)…220ねんおうふうじられる。
  2. 軻比のうおとうと(235ねん - ?とし)…苴羅こうとはべつ

[13]

東部とうぶ鮮卑[編集へんしゅう]

大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう
  • えんじゅあたま

もと鮮卑>

  1. (?とし - 228ねん)…220ねんかえりおうふうじられる。
  2. なりりつ228ねん - ?とし)…おとうと

<厥機鮮卑>

  1. 厥機(?とし - ?とし
  2. すなまつあせ(?とし - ?とし)…厥機のおやかんおうふうじられる。

わたる鮮卑>

  • わたる(?とし - ?とし)…220ねんかえりおうふうじられる。

[13]

中部ちゅうぶ鮮卑[編集へんしゅう]

大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう
  • 柯最
  • 闕居
  • 慕容

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西部せいぶ鮮卑[編集へんしゅう]

大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう
  • おけ鞬落
  • にちりつ推演
  • うたげ茘游
  • かばあたまあたま)(?とし - ?とし

[13]

慕容鮮卑[編集へんしゅう]

慕容大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう
  1. 莫護ばつ…慕容始祖しそりつおう拝命はいめいする
  2. 慕容のべ…莫護ばつひだりけんおう拝命はいめいする
  3. 慕容わたる(? - 283ねん)…のべ、鮮卑たん于を拝命はいめいする
  4. 慕容たい(刪)(283ねん - 285ねんころせ)…わたるかえりおとうと
  5. 慕容廆(285ねん - 333ねん)…わたるかえり次男じなん嫡子ちゃくし

[14]

ぜんつばめ[編集へんしゅう]

ぜんつばめ歴代れきだい君主くんしゅ
  • 高祖こうそせんみかど
  1. ふとし文明ぶんめいみかど)(つばめおう337ねん - 348ねん)…慕容廆の三男さんなん
  2. れつけいあきらみかど)(つばめおう348ねん - 352ねん皇帝こうてい352ねん - 360ねん)…慕容皝の次男じなん
  3. かそけみかど)(360ねん - 370ねん)…慕容儁の三男さんなん

[14]

こうつばめ[編集へんしゅう]

こうつばめ歴代れきだい君主くんしゅ
  1. なりたけみかどたれ)(つばめおう384ねん - 386ねん皇帝こうてい386ねん - 396ねん)…慕容皝のなん
  2. れつそうめぐみ愍帝(たから)(396ねん - 398ねん)…慕容たれよんなん
  3. ちゅうそう昭武あきたけみかどもり)(398ねん - 401ねん)…慕容たから長男ちょうなん
  4. 昭文あきふみみかど)(401ねん - 407ねん)…慕容たれ末子まっし

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西燕にしつばめ[編集へんしゅう]

西燕にしつばめ歴代れきだい君主くんしゅ
  1. すみきたおう慕容泓)(384ねん)…慕容暐のおとうと
  2. みかど慕容おき)(384ねん - 386ねん)…慕容泓のおとうと
  3. つばめおうだんずい)(386ねん)…慕容おき配下はいか
  4. つばめおう慕容凱)(386ねん)…むべおう慕容桓)の
  5. つばめみかど慕容よう)(386ねん)…慕容おき
  6. つばめみかど慕容ただし)(386ねん)…慕容泓の
  7. 河東かわとうおう慕容ひさし)(386ねん - 394ねん)…慕容うんまご

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みなみつばめ[編集へんしゅう]

みなみつばめ歴代れきだい君主くんしゅ
  1. むねけんじたけみかどとく)(つばめおう398ねん - 400ねん皇帝こうてい:400ねん - 405ねん)…慕容皝の
  2. 慕容ちょう(405ねん - 410ねん)…慕容とくおい

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吐谷渾[編集へんしゅう]

吐谷渾歴代れきだい君主くんしゅ
  1. 慕容吐谷渾(285ねん? - 317ねん)…慕容わたるの庶長子ちょうし
  2. 吐延(317ねん - 329ねん)…吐谷渾の長子ちょうし
  3. のべ(329ねん - 351ねん)…吐延の長子ちょうし
  4. 辟奚(碎奚)(351ねん - 375ねん)…のべ長子ちょうし
  5. れん(375ねん? - 390ねん)…辟奚の
  6. ひぐま(390ねん - 400ねん)…れん長子ちょうし
  7. がらす紇提だい孩)(400ねん - 405ねん)…れん次男じなん
  8. らく(405ねん - 417ねん)…ひぐま長子ちょうし
  9. おもね(417ねん - 426ねん)…ひぐま次男じなん
  10. 慕璝(426ねん - 436ねん)…がらす紇提の長子ちょうし
  11. 慕利のべ(436ねん - 452ねん)…がらす紇提の次男じなん
  12. ひろえとら(452ねん - 481ねん)…らく
  13. えきこう(481ねん - 490ねん)…じつとら
  14. ふくれん(490ねん - 529ねん)…えきこう
  15. ふつ中国語ちゅうごくごばん(529ねん - 534ねん)…ふくれん籌の
  16. くつ中国語ちゅうごくごばん(534ねん - 540ねん)…ふつ輔の
  17. 夸呂(540ねん - 591ねん)…ふくれん籌の
  18. ふく(591ねん - 597ねん)…夸呂の
  19. ふくまこと(597ねん - 635ねん)…ふくおとうと
  20. 趉胡りょがらすあままめあせ慕容じゅん)(635ねん - 636ねん)…ふくまこと
  21. がらす地野ちの抜勤まめあせだく曷鉢)(636ねん - 666ねん)…慕容じゅん

とう亡命ぼうめい青海せいかいこく)〉

  1. がらす地野ちの抜勤まめあせだく曷鉢)(666ねん - 688ねん
  2. 慕容ただし(688ねん - 698ねん)…だく曷鉢の
  3. がらす地野ちの抜勤まめあせ慕容せんちょう)(698ねん - ?)…慕容ちゅう
  4. 慕容曦光(? - 738ねん)…慕容せんちょう
  5. 慕容ちょう(738ねん - 739ねん)…慕容曦光の
  6. 慕容曦輪(739ねん - 749ねん)…慕容せんちょう
  7. 慕容ふく(798ねん - ?)

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宇文うぶん鮮卑(匈奴きょうどけい[編集へんしゅう]

宇文うぶん大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう
  • かずらがらすうさぎ(?とし - ?とし
  • ひろしかい(?とし - ?とし
  • 莫那(?とし - ?とし)…ひろしかい

-すうだいりゃく-

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きたあまね[編集へんしゅう]

きたあまね歴代れきだい君主くんしゅ
  1. こう閔帝宇文うぶんさとし)(556ねん - 557ねん) …宇文うぶんたい三男さんなん
  2. むねあかりみかど宇文うぶん毓)(557ねん - 560ねん) …宇文うぶんたい長男ちょうなん
  3. 高祖こうそたけみかど宇文うぶん邕)(560ねん - 578ねん) …宇文うぶんたいよんなん
  4. せんみかど宇文うぶん贇)(578ねん - 580ねん) …たけみかど
  5. せいみかど宇文うぶん闡)(580ねん - 581ねん)…せんみかど

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だん鮮卑[編集へんしゅう]

だん大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう
  1. にちりく(?とし - ?とし
  2. 乞珍(?とし - ?とし)…にちりく眷のおとうと
  3. つとむ勿塵つとむちり)(?とし - ?とし)…乞珍の303ねんりょう西にしこうふうじられ、だいたん于を拝命はいめい
  4. やましりく(就ろく眷)(?とし - 318ねん)…つとむ勿塵の
  5. わたるふくたつ(318ねんころせ)…つとむ勿塵のおとうと
  6. すえなみすえはい)(318ねん - 325ねん)…やましりく眷の従弟じゅうてい
  7. きば325ねん - ?とし)…すえおとうと
  8. まもるりょう(?とし - 338ねんころせ)…にちりく眷のまご331ねん、驃騎将軍しょうぐんとなる。
  9. うつらん(338ねん - ?とし)…まもるりょうおとうと
  10. がん(?とし - 357ねんころせ)…うつらん

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つぶせばつ鮮卑[編集へんしゅう]

つぶせばつ大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう

さんふん統治とうち

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だい[編集へんしゅう]

だい歴代れきだい君主くんしゅ

さい統一とういつ

  1. きよしみかどつぶせばつ猗盧)(308ねん - 316ねん)…315ねんだいおうとなる
  2. 文平ぶんぺいみかどつぶせばつひろし)(316ねん)…猗㐌の
  3. めい不明ふめい)(316ねん)…ひろし
  4. ふとし平文へいぶんみかどつぶせばつうつりつ)(317ねん - 321ねん)…どる
  5. めぐみみかどつぶせばつ)(321ねん - 325ねん)…猗㐌の中子なかご
  6. 煬帝(つぶせばつ紇那)(325ねん - 329ねん)…猗㐌の少子しょうし
  7. れつみかどつぶせばつかげえんじゅ)(329ねん - 335ねん)…うつりつ長男ちょうなん
  8. 煬帝(つぶせばつ紇那)(335ねん - 337ねん復位ふくい
  9. れつみかどつぶせばつかげえんじゅ)(337ねん - 338ねん復位ふくい
  10. 高祖こうそあきらなりみかどつぶせばつ什翼犍)(338ねん - 376ねん)…うつりつ次男じなん

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きたたかし[編集へんしゅう]

きたたかし歴代れきだい皇帝こうてい
  1. ふとしみちたけみかどつぶせばつ珪)(398ねん - 409ねん)…けんじあきらみかどつぶせばつまこと)の
  2. ふとしむね明元あけもとみかどつぶせばつ嗣)(409ねん - 423ねん
  3. ふとしたけみかどつぶせばつ燾)(423ねん - 452ねん
  4. みなみやすかくれおうつぶせばつあまり)(452ねん
  5. こうはじめ文成ふみなりみかどつぶせばつ濬)(452ねん - 465ねん
  6. あらわけんじぶんみかどつぶせばつひろし)(465ねん - 471ねん
  7. 高祖こうそ孝文たかふみみかど元宏もとひろ)(471ねん - 499ねん
  8. せんみかどげんつとむ)(499ねん - 515ねん
  9. 粛宗孝明たかあきみかどもと詡)(515ねん - 528ねん
  10. けいむねこうそうみかど元子もとこ攸)(528ねん - 530ねん
  11. 東海とうかいおうもと曄)(530ねん - 531ねん
  12. ふし閔帝げんきょう)(531ねん
  13. 安定あんていおうもとろう)(531ねん - 532ねん
  14. こうたけみかどげんおさむ)(532ねん - 534ねん

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西にしたかし[編集へんしゅう]

西にしたかし歴代れきだい皇帝こうてい
  1. ぶんみかどもとたから炬)(535ねん - 551ねん
  2. 廃帝はいていもと欽)(551ねん - 554ねん
  3. きょうみかどつぶせばつくるわ)(554ねん - 556ねん

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あずまたかし[編集へんしゅう]

あずまたかし皇帝こうてい

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禿かぶろかみ鮮卑[編集へんしゅう]

禿かぶろかみ大人おとな(たいじん:部族ぶぞくちょう
  1. 禿かぶろかみ寿ことぶき(? - ?)…ひき
  2. 禿かぶろかみじゅ機能きのう(? - 279ねん)…寿ことぶき闐のまご
  3. 禿かぶろかみつとむまる(? - ?)…機能きのう従弟じゅうてい
  4. 禿かぶろかみ推斤(? - ?)…つとむまるまご
  5. 禿かぶろかみおもえふく(? - ?)…推斤の
  6. 禿かぶろかみがらす(? - 397ねん)…おもえふく鞬の

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みなみすずか[編集へんしゅう]

みなみすずか歴代れきだい君主くんしゅ
  1. れつたけおう禿かぶろかみがらす)(397ねん - 399ねん
  2. かんおう禿かぶろかみ鹿しか)(399ねん - 402ねん)…がらすおとうと
  3. けいおう禿かぶろかみ傉檀)(402ねん - 414ねん)…とぎ鹿しかおとうと

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乞伏鮮卑[編集へんしゅう]

乞伏歴代れきだい君主くんしゅ

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西にししん[編集へんしゅう]

西にししん歴代れきだい君主くんしゅ
  1. れつせんれつおうくにじん)(385ねん - 388ねん
  2. 高祖こうそたけしもとおういぬい)(388ねん - 400ねん410ねん - 412ねん)…くにじんおとうと
  3. ふとし文昭ふみあきおうおきいわ)(412ねん - 428ねん)…いぬい長子ちょうし
  4. こうぬしくれまつ)(428ねん - 431ねん)…おきいわ次子じし

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著名ちょめいな鮮卑じん[編集へんしゅう]

高句麗こうくり将軍しょうぐんであるおつささえ文徳ふみのりは、高句麗こうくり帰化きかしていた鮮卑の出自しゅつじとする学説がくせつがある[15][16][17]

中国ちゅうごく英雄えいゆうてき女性じょせい木蘭もくれんは、鮮卑だったというのが学界がっかい主流しゅりゅう見解けんかいである[18][19][20]木蘭もくれんは、とうだい以降いこう漢人かんど社会しゃかい概念がいねん加味かみした口承こうしょう物語ものがたりとしてかんじんつたえられたが、その作品さくひん改編かいへん木蘭もくれん遊牧民ゆうぼくみん出自しゅつじ消去しょうきょされ、明代あきよにはじょの『めす木蘭もくれん』に、きたたかしえびすぞくがおこなっていなかった纏足てんそくというストーリーが加味かみされた[21]2020ねん考古こうこ学者がくしゃのChristine LeeとYahaira Gonzalezは、モンゴルから出土しゅつどした女性じょせい遺骨いこつ関節かんせつえん骨格こっかく外傷がいしょう筋肉きんにく付着ふちゃく痕跡こんせきなどからから判断はんだんして、生前せいぜんに「ゆみ武術ぶじゅつけていた」可能かのうせいのある鮮卑の女性じょせいであることを特定とくていし、匈奴きょうど突厥よりも鮮卑の女性じょせいほう騎乗きじょうしていたことを発見はっけんし、鮮卑の平民へいみん女性じょせい騎兵きへいとして常時じょうじ戦争せんそうおもむいていたのではないかと推測すいそくしている[22]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ Boodberg (1936)Bazin (1950) は、ひがしえびす子孫しそんである鮮卑ぞくとくひらけばつ言語げんごturkish ないし proto-turkish original であるとした。《『騎馬きば民族みんぞく1』p9 ちゅう15、p218 ちゅう2》
  2. ^ Pullyblank (1962)Ligeti (1970) によると、鮮卑とくひらけ跋語ばつご)の特徴とくちょうモンゴルであるという。《『騎馬きば民族みんぞく1』p9 ちゅう15、p218 ちゅう2》

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 三国志さんごくし』鮮卑でんおう沈『しょ』)より。
  2. ^ a b 三国志さんごくし』鮮卑でんより。
  3. ^ すすむしょみかどだいいちより。
  4. ^ 三国志さんごくし』三少帝紀第四より。
  5. ^ すすむしょみかどだいさんより。
  6. ^ 三国志さんごくし』鮮卑でんおう沈『しょ』)「其言習俗しゅうぞくあずか烏丸からすまどう。」、『こう漢書かんしょ』鮮卑でん「其言習俗しゅうぞくあずかがらす桓同。」
  7. ^ 沢田さわだ 1996,p13
  8. ^ 内田うちだぎんふうは「つぶせばつ鮮卑がりゅうはりよびのべとう匈奴きょうどぞくその鮮卑ぞく有力ゆうりょく連合れんごう部族ぶぞくとして包括ほうかつしていたことをかんがえれば(姚薇もと北朝ほくちょうえびすせいこう科學かがく出版しゅっぱんしゃ、1958ねんNCID BN11992288全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:60010685https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001008538-00 うま長寿ちょうじゅがらす桓与鮮卑』1962ねん p31)、つぶせばつ言語げんごをもって古代こだいの鮮卑烏丸からすま大体だいたい推定すいていすることはできても、これを厳密げんみつ細別さいべつてき断定だんていすることは不可能ふかのうといわねばなるまい。」としている。《内田うちだ 1975,p4》
  9. ^ こう漢書かんしょ』鮮卑でん其言習俗しゅうぞくあずかがらす桓同。ただ婚姻こんいんさき髠頭,以季春月しゅんげつ大會たいかい于饒らく水上すいじょういん晏畢,しかこう配合はいごう
  10. ^ 三国志さんごくし』鮮卑でんおう沈『しょ』)「其獸中國ちゅうごくしゃはらひつじ,甪端うし。甪端うしかくためゆみせいいい甪端ゆみしゃ也。またゆうてん,豽,鼲子,かわやわ蠕,天下てんか以為めい裘。」、『こう漢書かんしょ』鮮卑でんまた禽蓋中國ちゅうごくしゃはらひつじ,甪端うし,以角ためゆみぞくいい甪端ゆみしゃまたゆうてん,豽,鼲子,かわやわ蠕,天下てんか以為めい裘。
  11. ^ 三国志さんごくし日本語にほんごやく)』鮮卑でん、ちくま
  12. ^ 内田うちだ 1975,p7
  13. ^ a b c d e f 三国志さんごくし』および『こう漢書かんしょ
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r しょ』および『すすむしょ
  15. ^ “을지문덕”. 韓国かんこくコンテンツ振興しんこういん. https://www.culturecontent.com/content/contentView.do?search_div=CP_THE&search_div_id=CP_THE003&cp_code=cp0607&index_id=cp06070272&content_id=cp060702720001&search_left_menu 2021ねん9がつ21にち閲覧えつらん 
  16. ^ “을지문덕(おつささえ文德ふみのり)”. 韓国かんこく民族みんぞく文化ぶんかだい百科ひゃっか事典じてん. http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/SearchNavi?keyword=을지문덕&ridx=0&tot=13 2021ねん9がつ23にち閲覧えつらん 
  17. ^ “을지문덕 おつささえ文德ふみのり,?~?”. 斗山とさん世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん. https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000855607 2021ねん9がつ23にち閲覧えつらん 
  18. ^ Lan, Feng (2003). The Female Individual and the Empire: A Historicist Approach to Mulan and Kingston's Woman Warrior. Comparative Literature, 55(3). p. 232 
  19. ^ “The Controversial Origins of the Story Behind Mulan”. タイム. (2020ねん9がつ11にち). オリジナルの2021ねん5がつ12にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210512190419/https://time.com/5881064/mulan-real-history/ 
  20. ^ ちん三平さんぺい木蘭もくれんあずか麒麟きりんはちはた文化ぶんか、2019ねん5がつ15にち、2ぺーじhttps://www.google.co.jp/books/edition/木蘭もくれんあずか麒麟きりん/AnMWEAAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&pg=PT2&printsec=frontcover 
  21. ^ 蔡娪嫣 (2020ねん9がつ10日とおか). せんねん傳說でんせつてき中國ちゅうごく」:花木はなきらん如何いかしたがえこうむおんな戰士せんし變成へんせい漢人かんど」?”. ふうでんなかだち. オリジナルの2021ねん5がつ31にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210531150946/https://www.storm.mg/article/3019137?mode=whole 
  22. ^ Katherine J. Wu (2020ねん4がつ29にち). “Researchers Uncover New Evidence That Warrior Women Inspired Legend of Mulan”. Smithsonian Magazine 

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]