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しゅれい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
しゅれい
たかし
こう将軍しょうぐんこうとうていこう
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
冀州清河きよかわこく鄃県
拼音 Zhū Líng
文博ふみひろ
諡号しごう こう
主君しゅくん 袁紹曹操そうそう曹丕曹叡
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しゅ れい(しゅ れい、? - 229ねん以降いこう)は、中国ちゅうごくこうかん時代じだい末期まっきからさんこく時代じだいにかけてのたかし武将ぶしょう文博ふみひろ冀州清河きよかわこく鄃県(現在げんざい山東さんとうしょうとくしゅうなつけん)のひと曹操そうそう曹丕曹叡の3だいつかえた歴戦れきせん将軍しょうぐんである。

生涯しょうがい

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袁紹陣営じんえい時代じだい

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はじめは袁紹配下はいかだった。清河きよかわというものが、鄃県をげて袁紹に叛き公孫こうそんいたため、袁紹はしゅれい雍を攻撃こうげきさせた。しゅれい家族かぞく城中じょうちゅうにあり、公孫こうそん瓚はしゅれいははおとうと城壁じょうへきいてしゅれい誘引ゆういんした。しかししゅれいなみだながし「おとこ一度いちどひとした以上いじょう、どうして家族かぞくかえりみることがあろうか」とい、力戦りきせんして雍を捕虜ほりょとしたが、家族かぞくのこらずころされた。

はつたいら4ねん193ねん)またはきょうひらた元年がんねん194ねん)、曹操そうそうじょしゅうとうけん討伐とうばつしたさいに、袁紹はしゅれいに3つの営をひきいさせて曹操そうそう救援きゅうえん派遣はけんし、しゅれい戦功せんこうてた。その部将ぶしょうたちは袁紹のした帰還きかんしたが、しゅれい曹操そうそう器量きりょうみ、その家臣かしんとなった。なおそのさい配下はいかへいかれしたがっており、兵卒へいそつからの信望しんぼうあつかったとかんがえられる。

曹操そうそうしたでの活躍かつやく

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たてやすし4ねん199ねん)、曹操そうそうりゅう袁術討伐とうばつさせるべく、しゅれいみち配下はいかいて派遣はけんしたが、戦闘せんとうまえに袁術は病死びょうしした。しゅれいらはじょしゅうりゅう備をのこし、そのまま曹操そうそうした帰還きかんした[1]

けんやす10ねん205ねんごろ、冀州を平定へいていした曹操そうそうは、しゅれいに冀州へい5000と騎馬きば1000をゆだね、もとみなみまもらせた。曹操そうそうは冀州へいあつかいについてしゅれい忠告ちゅうこくしていたが、翟にいたるとたしてちゅうろうしょうほどのぼる謀反ぼうほんした。しゅれいただちにこれをって曹操そうそう謝罪しゃざいしたが、曹操そうそう鄧禹故事こじいてとくつみわなかった。

けんやす13ねん208ねん)、曹操そうそう荊州征伐せいばつするさい于禁ちょうりょうちょうしゅれいのりみち招・馮楷の7将軍しょうぐんは、あきらりょう太守たいしゅみやこただしまもるぐんとなったちょうげん統括とうかつされた[2]

けんやす16ねん211ねんあき7がつ曹操そうそううまちょう討伐とうばつ従軍じゅうぐんした。このとき曹操そうそうひそかにじょあきらしゅれいめいじて、夜中よなかかばばんわたらせ、黄河こうが西にし陣営じんえいつくらせた。このため、うまちょう黄河こうが西にし進出しんしゅつすることができなかった[3]

なつほうふかしが隃麋・汧のぞく討伐とうばつすると、その配下はいかとして従軍じゅうぐんした。けんやす17ねん212ねん)1がつ曹操そうそう帰還きかんすると、なつほうふかし配下はいかとして長安ながやす駐屯ちゅうとんし、南山なんざんりゅうつよし撃破げきはしてそのへい降伏ごうぶくさせた[4]

けんやす20ねん215ねんはる3がつ曹操そうそうちょう討伐とうばつ従軍じゅうぐんした。曹操そうそうたけみやこぐん方面ほうめんかおうとすると、氐に進路しんろふさがれたため、ちょう郃・しゅれいめいじてこれを撃破げきはさせた[3]

しゅれい曹操そうそうからつねうらまれていた。そのため詳細しょうさい時期じき不明ふめいだが、曹操そうそうは于禁にしゅれい軍営ぐんえいげさせ、しゅれい自身じしんは于禁の部将ぶしょうとしている。このとき、于禁がみずからやってきて曹操そうそう命令めいれい執行しっこうしたが、しゅれいとその部下ぶかたちは、于禁の勢威せいいおそれてそのまま服従ふくじゅうした。

曹操そうそう死後しご活躍かつやく

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はつ元年がんねん(220ねん)、曹丕がぶんみかどとして即位そくいすると、曹操そうそう時代じだい以来いらい功績こうせきたたえられるかたちで、曹丕から鄃侯にふうじられ、りょう邑も加増かぞうされた。さらに曹丕からは、「その威光いこうしゅうせんおうけんしんほう邵虎よりうえであり、功績こうせきしゅう灌嬰よりもうえである」と絶賛ぜっさんけている。またしゅれいは、曹丕からのぞみのあたえるとわれたため、こうとうのぞんだところ、そのとおりにこうとうていこうふうじられた。

ふとし3ねん229ねんあき曹休賈逵らの討伐とうばつぐんくわわった。曹休がごうこえ攻撃こうげきして敗北はいぼくしたため、しゅれいはこれをなにとか救助きゅうじょした[5]。これが史書ししょにおけるしゅれい最後さいご事績じせきである。

名声めいせいじょあきららにぎ、官位かんいこう将軍しょうぐんにまでのぼった。死去しきょのちこうおくりなされた。

せいはじめ4ねん243ねんあき7がつ曹芳ひとしおう)は詔勅しょうちょくくだし、曹操そうそうびょうにわ功臣こうしん20にんまつった。そのなかにはしゅれいふくまれている[6]まつられたものなかで、しゅれいだけが『三国志さんごくし』につててられていない(じょあきらでん付随ふずいするかたち記述きじゅつ存在そんざいする)。

三国志さんごくし演義えんぎ

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、正史せいしほど活躍かつやくしていない。史実しじつどおりにみちあきら史実しじつみち招)共々ともどもりゅう備の袁術討伐とうばつ随行ずいこうするよう、曹操そうそうからめいじられる。しかしりゅう備の指示しじしたがい、ぐんのこしたままみちあきら2人ふたりだけでもと帰還きかんしてしまったため、曹操そうそういかりを処刑しょけいされそうになる。荀彧が諫言したために2人ふたりゆるされている。そのうまちょう討伐とうばつにもくわわり、史実しじつどおじょあきらとも黄河こうが西にし陣取じんどっている。これを最後さいごに『演義えんぎ』には登場とうじょうしなくなる。

出典しゅってん

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  • 三国志さんごくししょ17づけしゅれいでん
  • 三国志さんごくし演義えんぎ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 三国志さんごくししょくしょさきおもでん
  2. ^ 三国志さんごくししょちょうげんでん
  3. ^ a b 三国志さんごくししょたけみかど
  4. ^ 三国志さんごくししょなつこうふちでん
  5. ^ 三国志さんごくししょまんちょうつて
  6. ^ 三国志さんごくししょひとしおうおさむ