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かん

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かん
清朝時代の管輅の肖像
きよしあさ時代じだいかん輅の肖像しょうぞう
たかし
占師うらないし
出生しゅっしょう たてやすし14ねん209ねん
冀州平原ひらばらぐん
死去しきょ せいもと3ねん256ねん
拼音 Guǎn Lù
公明こうめい
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かん(かん ろ、209ねん - 256ねん)は、中国ちゅうごくさんこく時代じだい占師うらないし公明こうめい冀州平原ひらばらぐんひとおとうとかんたついちめい

経歴けいれき

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かん輅はうらないによってさき見通みとお能力のうりょくがあったとわれ、そのことは『三国志さんごくし』「かたわざでん」において記述きじゅつされている。

かん輅は幼少ようしょうからほしるのがきで、成人せいじんしてからえきけいなどの勉学べんがくはげんだ。そのため、占師うらないしとしての不思議ふしぎ能力のうりょくについたとわれている。だが、素性すじょうあやしいもの平気へいきいちめんがあったことから、かれした人物じんぶつすくなかったものの、いつも素直すなおしんひとせっしたので、けっしてきらわれていたわけではなかったという。また、犯罪はんざいこると犯人はんにんをいいあてたため、やがてかれまわりから犯罪はんざいえたという。さらにくつがえうつわなかものれて中身なかみてさせるあそび)をすると、ほとんど間違まちがいなく中身なかみをいいあてた。

ひと誕生たんじょう寿命じゅみょううらないによっていいあてることができた。りゅうたてまつはやしというものつまやまいおもくなり、正月しょうがつころにはかん葬送そうそう道具どうぐ一式いっしきそろえられたが、かん輅はうらなって「はちがつからしにちちゅう時刻じこくがご寿命じゅみょうです」とった。りゅうたてまつはやしがこれをしんじず、またつまやまい快方かいほうかったが、あきになってやまい再発さいはつし、結局けっきょくそのつまかん輅のった時刻じこくくなった。また鍾毓もとかん輅がおとずれたとき、鍾毓が自分じぶん誕生たんじょううらなわせると、かん輅はぴたりといいあいささかなくるいもしょうじさせなかった。このため鍾毓はおおいにおどろき、寿命じゅみょううらなわせることをしないようにさせたという。

せいはじめ9ねん248ねん12月28にち曹爽側近そっきんとして羽振はぶりをきかせていたなに招待しょうたいされた。なに晏は「三公みつきみ出世しゅっせできるか」とかれ質問しつもんし、さらに「はえすうじゅうひきはなあたまにたかって、はらってもげていかないというゆめた。これはなに意味いみしているのか」とうた。かん輅は「はなはあなたの地位ちいあらわすものですが、そこにはえという醜悪しゅうあくなものがってまいりました。これは、けわしいところ地位ちいめるものころがりち、他人たにんあなどり傲るものはほろびるというあかしです」と警告けいこくした。なに晏の側近そっきんが「そんなことは年寄としよどものいつものいぐさだ」と反論はんろんすると、かん輅は「年寄としよりというものは、せいえたものをることができます。ですからいつものいぐさのなかに、言葉ことばえたふか意味いみあらわれるのでございます」とこたえた。なに晏はこれらのやりりをいたのちかん輅に「としけたら、もう一度いちどおう」とった。

帰宅きたくしてからはは兄弟きょうだいなつ不明ふめい)にこのことをはなすと、なつは「発言はつげんぎている」とめた。かん輅が「死人しにんはなしをしているのに、なにおそれる必要ひつようがありましょうや」とったので、なついかり、「くるったのではないか」とおもった。ところが、としけてじゅうにちもしないうちなに晏たちが司馬しばころされたので[1]なつ敬服けいふくしたという。『かん輅別でん』によるとかん輅はなに晏について、裴冀しゅう裴徽)・鄧尚しょ鄧颺)・りゅうふとしつねりゅうまこと)・りゅう潁川(りゅうさとし)とともに「この5にんはなすと、精神せいしんきよらかに活動かつどうしてねむくなるひまもない」と評価ひょうかしていた。一方いっぽうで、なに誅殺ちゅうさつには「かれちいさなたくみさを才能さいのうにしていた」とひょうしている。

せいもと2ねん255ねん)、おとうとかんたつは「大将軍だいしょうぐん司馬しばあきら)はあなたに厚意こういっていますから、富貴ふうき身分みぶんのぞめますね」とった。しかし、かん輅は自分じぶん寿命じゅみょうが47さいか48さいころきるであろうと予言よげんした。そして予言よげんどおり、よく3ねん(256ねん)2がつ、48さいとき病死びょうしした[2]

三国志さんごくし演義えんぎ』におけるかん

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では神憑かみがかりの占師うらないしとして登場とうじょうし、19さい寿命じゅみょうきるおとこ(後述こうじゅつ)・魯粛曹操そうそう支配しはいであるもとあきらきむらの反乱はんらんきること・りゅうかんちゅう侵攻しんこうなつほうふかし戦死せんし、を予言よげんする。

演義えんぎ』でてくる有名ゆうめいはなしとしては、19さいになるちょうがおという若者わかものかおしょうて、ちょうがおがあと数日すうじつぬことをげるはなしがある。みずからのばしてもらおうとちょうがおかん輅に嘆願たんがんすると、「老人ろうじんにんくわしたにいるので、きょうして寿命じゅみょうばしてもらうようにたのめ」とつたえられる。ちょうがおがすがるおもいでその老人ろうじんにんい、かん輅にわれたとおりにし、寿命じゅみょうばしてもらうようにたのんでみると、その老人ろうじんじゅうきゅうかれたかみきゅうくわえてきゅうじゅうきゅうとする。するとちょうがお寿命じゅみょうび、数日すうじつ経過けいかしてもぬことがなくなったというのである。後日ごじつちょうがおかん輅ににん老人ろうじんのことについてくと「あの老人ろうじんたちつかさどる「北斗ほくと」と、せいつかさどる「みなみ」であったのだ」とつたえられたことになっている[3]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 正確せいかくには249ねん1がつ6にち司馬しばらがクーデターこし、10日とおかなに晏ら曹爽一派いっぱ処刑しょけいした。
  2. ^ ただし、かん輅伝の本文ほんぶんちゅうには「わたし運勢うんせいとらにあり、…」とも記述きじゅつされており、そのとおりであるならばかん輅はたてやすし15ねん210ねんまれであり、享年きょうねんが47になると裴松ちゅうべている
  3. ^ あずますすむたからさがせかみ』の「北斗ほくとみなみ桑下くわしもかこえ棋」にもととなるはなしがある。