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まごさく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
まごさく
こうかん
討逆将軍しょうぐんかい稽太もりくれこう
出生しゅっしょう 熹平4ねん175ねん)
あげしゅうくれぐんとみはるけん
死去しきょ たてやすし5ねん4がつ4にち[1]200ねん5月5にち
拼音 Sūn Cè
はく
諡号しごう ちょうすな桓王
別名べつめい 猘児[2]
主君しゅくん 袁術独立どくりつ勢力せいりょく
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まご さく[3](そん さく)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっき武将ぶしょうはく(はくふ)。あげしゅうくれぐんとみはるけん[4]ひと

わかくしてちちまごけんくし、19さいのとき、袁術将軍しょうぐんとなった。袁術ぐんまれていたまごけんへい1000にんあまりをまとめてぐん編成へんせいし、りゅうたおして勢力せいりょく拡大かくだい。その、袁術のもとから独立どくりつおおきく躍進やくしんするが、たてやすし5ねん(200ねん)に刺客しかく襲撃しゅうげきされたさいったきず原因げんいんで26さい死亡しぼう後継こうけいまごけんさだめた。のちまごけんによってちょうすなおうふうじられ、おくりなされた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

雌伏しふく時代じだい[編集へんしゅう]

ちちまごけん反乱はんらん鎮圧ちんあつ参加さんかしていた時期じきまごさく寿ことぶきはるおもおとうとたちとともらしていた。まごさくじゅうすうさいときに、こう淮一たい名声めいせいる。やがて名家めいか出身しゅっしんしゅうはそのき、かれたずねてきた。中平なかひら6ねん189ねん)、しゅう瑜のまねきによってははおとうとたちをれていおりぐん舒県に移住いじゅうした(『こうひょうでん』)。しゅう瑜はおおきな屋敷やしきまごさく一家いっかゆずり、家族かぞく同然どうぜんいをしたという。同地どうち太守たいしゅりくやすし謁見えっけんしたが、りくやすしまごさくたいして無礼ぶれい態度たいどったため、まごさく不満ふまんいていた。

はつたいら2ねん191ねん)にちちりゅうひょうとのたたかいで死去しきょした(じょうたたか、袁術の配下はいか遺族いぞくとしておとうとまごけんとともに袁術ぐんしたがって移動いどうした[5]一方いっぽう従兄じゅうけいまごまごけん軍勢ぐんぜいぎ、こののち主家しゅかすじにあたる袁術ぐん吸収きゅうしゅうされていた。その広陵こうりょう在住ざいじゅうちゅうちょうひろしい、自分じぶんははおとうとたちをかれたくしている(『くれれき』)。

はつたいら4ねん193ねん)、寿ことぶきはるに袁術の旗下きかはいった。このとき、自分じぶん旗下きかには、現地げんちったりょはんと、一族いちぞくであるまごかわのみがしたがっていた。まごさくは袁術のすすめで丹陽たんよう太守たいしゅけいたよ挙兵きょへいする。初陣ういじん丹陽たんよう一揆いっき首領しゅりょうろうめられ大敗たいはいしたが、けい建言けんげんしたがってまごかわりょはんらとともろう攻撃こうげき敗走はいそうさせた。のち袁術のもとかえった。

きょうひらた元年がんねん194ねん)、袁術にたいまごけんぐん返還へんかんもとめ、1000にんきょうへいる。かずこそすくなかったが、そのなかにはしゅおさむぶたかんとうほどひろしといった、まごけんぐん中核ちゅうかくした武将ぶしょうたちがそろっていた。また、うまにより上表じょうひょうされ、ふところこうじょう任命にんめいされた。袁術はまごさくってりくやすしめさせ、翌年よくねんには舒県を撃破げきはし、いおりた。しかし袁術は戦功せんこうみとめず、側近そっきんであるりゅういさおいおりこう太守たいしゅ任命にんめいした。

袁術ぐん一角いっかくとして異彩いさいはなはじめたまごさくであったが、袁術からはその才覚さいかくゆえに危険きけんされた。きゅう太守たいしゅいおりこう太守たいしゅ約束やくそく反故ほごにされながら、まごさく江東こうとう自立じりつする機会きかいをうかがっていた(太守たいしゅ約束やくそく反故ほごにされたとあるが、まごさく出仕しゅっししたばかりである)。そのあいだまごさく人材じんざいるための時間じかんくことはしまなかった。なかでもちょうあきらちょうひろしはたまつちんはしといった知謀ちぼうや、蔣欽しゅうやすしちんたけししのげみさおといった武勇ぶゆうほこ猛者もさたことは、ますますまごさく人材じんざいそうゆたかにした。

りゅう繇をたお[編集へんしゅう]

袁術とあげしゅう刺史ししであるりゅう繇は、あげしゅう支配しはいをめぐって対立たいりつしていた。補佐ほさやくであったしゅおさむすすめもあり、まごさくは袁術にたいし、りゅう繇と対峙たいじしている叔父おじけい援軍えんぐんおもむくことをもうる。袁術は寡兵かへいであるまごさく江東こうとう独立どくりつできるとはおもっておらず、これを承諾しょうだくした。れきけいぐん合流ごうりゅうしたまごさくは、ここでしゅう瑜との再会さいかいたす。しゅう瑜はまごさく兵力へいりょく情報じょうほう提供ていきょうし、とも江東こうとう制覇せいは尽力じんりょくした。まごさくぐん到達とうたつするまでにおおくのへいまごさくぐんくわわり、最初さいしょ1000にんきょうしかいなかったまごさくぐんは5せんにん以上いじょうふくがっていた。

きょうひらめ2ねん195ねん)、りゅう繇の部将ぶしょうちょうすぐるまもとう利口りこう于糜樊能まもよこ江津ごうつ制圧せいあつして長江ながえわたり、りゅう繇がこもっていたぎゅうなぎさ要塞ようさい陥落かんらくさせ、大量たいりょう食料しょくりょう軍需ぐんじゅ物資ぶっしうばった。やぶれたりゅう繇はきょくおもね逃走とうそうした。さらまごさくりゅう繇をめ、りゅう繇の部将ぶしょう笮融薛礼交戦こうせんし、薛礼がまもまぐさりょうじょうけんぎょう)を制圧せいあつした。そのあいだうしなぎさを樊能・于糜にうばわれたが、すぐに奪還だっかんした。ふたた長江ちょうこうくだって笮融をめたが、ふとももにたり負傷ふしょうし、後退こうたいした。まごさくんだとおもった笮融は部将ぶしょう于茲追撃ついげきさせたが、まごさく伏兵ふくへいもちいて于茲に大勝たいしょうした。そのまごさく堅固けんごな笮融の軍営ぐんえいけ、りゅう繇に服属ふくぞくするしょけん攻略こうりゃくしていった。

あるとき、りゅう繇の部将ぶしょうであるふとしがただ1まごさくぐん偵察ていさつしていると、かんとうそうけんぶたら13したがえたまごさく遭遇そうぐうした。たい慈はかたなまえかまえ、まごさく正面しょうめんからちかかった。まごさくふとし慈のうまし、ふとし慈がうなじにいていた戟をつかると、ふとし慈はまごさくかぶとった。このときりょうぐん騎兵きへい殺到さっとうすると2にんぐんとともにがった。

やがてりゅう繇は拠点きょてんであったきょくおもねてて逃亡とうぼうする。あるじのいなくなったきょくおもねとしたまごさくは、ここを拠点きょてんとして勢力せいりょく拡大かくだいはかった[6]。また、りゅう繇をうしなったふとし慈は反乱はんらんぐん糾合きゅうごうし、丹陽たんよう太守たいしゅ自称じしょうしてまごさく対抗たいこうする。

袁術からの独立どくりつ[編集へんしゅう]

地盤じばん確保かくほしたまごさくであったが、袁術との関係かんけい維持いじするため、袁術からけたへいのうち、叔父おじけい従兄じゅうけいまごぐんかえす。また、しゅう瑜も一旦いったん叔父おじである丹陽たんよう太守たいしゅしゅうしょうのもとにかえった。しゅう瑜は丹陽たんようにおけるまごさく支配しはいをより強固きょうこなものにしていった。

たてやすし元年がんねん196ねん)、きょくおもねはじめとする丹陽たんようぐん手中しゅちゅうにしたまごさくは、くれぐんかい稽郡攻略こうりゃくかる。くれぐん太守たいしゅであったもとみつぎにはしゅおさむ派遣はけんして勝利しょうりし、かい稽太もりであったおうあきらには当初とうしょ苦戦くせんしたがまごせいさくにより勝利しょうりした。たたかいにやぶれたもとみつぎ抵抗ていこう勢力せいりょくであったいむとらのもとへ逃亡とうぼうし、おうあきらまごさく降伏ごうぶくした。また、独立どくりつ勢力せいりょくとなっていたふとし慈をやぶり、みずからの部下ぶかとしてむかえた。

けんやす2ねん197ねん)、まごさく勢力せいりょく強大きょうだいするのをこわれた袁術は、一族いちぞく袁胤丹陽たんよう太守たいしゅにんじ、まごさくへのそなえとしようとした。これにたいし、まごさく武力ぶりょくをもって袁胤を追放ついほうし、ついに袁術にたいして独立どくりつ宣言せんげんする。まごさく独立どくりつおうじ、一時いちじ袁術の配下はいかにいたしゅう瑜は魯粛れてまごさくもと合流ごうりゅうする。また、けいまご賁も袁術を見限みかぎり、まごさくしたがこととなった。

これにいきどおった袁術やちん丹陽たんようぐんそう一揆いっき首領しゅりょうろうらを扇動せんどうしてまごさくめさせたが、まごさくまごほどひろしりょはんらとともにろうたたかい、激戦げきせんすえろうりにした。ろうまごさく部下ぶかとなり、門下もんかぞく曹に任命にんめいされた。

躍進やくしん[編集へんしゅう]

江東こうとう支配しはい宣言せんげんしたまごさくは、みずからの体制たいせいととのえるべく人材じんざい登用とうよう積極せっきょくてきった。そのなかにはりょこうむや、もとおうあきら配下はいかであったおそれこぼしふくまれていた。また、みずかかい太守たいしゅしょうするとともに、江東こうとう周辺しゅうへんぐん太守たいしゅ任命にんめいした。

まごさく電撃でんげきてき江東こうとう一帯いったい制覇せいはしたが、その苛烈かれついきおいがゆえに怨恨えんこんいだかれ、各地かくち根強ねづよ抵抗ていこう勢力せいりょくかかえることになった。江東こうとう抵抗ていこう勢力せいりょくかかえるかぎ中原なかはらへの進出しんしゅつ実現じつげんできないため、まごさく抵抗ていこう勢力せいりょく粛清しゅくせいした。これによりいむとらをはじめとして、抵抗ていこう勢力せいりょくである江東こうとう各地かくち地元じもと豪族ごうぞくおうあきら・鄒他・ぜにどうらその一族いちぞく地方ちほう宗教しゅうきょう勢力せいりょく粛清しゅくせいされた。このとき、かつてくれぐん太守たいしゅであったもとみつぎは「まごさくいきおいは項羽こううる」と朝廷ちょうてい上奏じょうそうしようとしたが、これをったまごさくいかり、粛清しゅくせい対象たいしょうとしてもとみつぎ殺害さつがいした。

やがて袁術が皇帝こうてい僭称せんしょうはじめると、まごさくはん袁術の姿勢しせい鮮明せんめいにするため、けんじみかどようする曹操そうそうちかづく。根強ねづよ抵抗ていこう勢力せいりょくおお存在そんざいする江東こうとう支配しはいするためにも朝廷ちょうてい権威けんい必要ひつようであった。しかし両者りょうしゃ関係かんけい微妙びみょうなものであり、袁術の契機けいきくずれてしまうことになる。

けんやす4ねん199ねん)、袁術が失意しついのうちに死去しきょすると、きゅう袁術ぐんはこぞってりゅういさおのもとにせることになった。ほろびたとはいえ多勢たぜいの袁術残党ざんとうりゅういさお南北なんぼく割拠かっきょする気鋭きえいまごさく曹操そうそうには魅力みりょくてきであり、双方そうほうともこの兵力へいりょく自軍じぐんむべく工作こうさくはかった。

まごさくりゅういさおたいして「うえ繚には宗教しゅうきょう勢力せいりょく闊歩かっぽしており、それらへの対応たいおうこまっています。協力きょうりょくしてりましょう。もしことができれば、宗教しゅうきょう勢力せいりょく兵力へいりょくにすることができるでしょう」といった内容ないようのへりくだった手紙てがみおくった。それ以前いぜんりゅうりゅういさおのもとへへいおくり、そのきゃくとなっていた。りゅう曄はりゅういさおたいしてまごさく手紙てがみ意図いと危険きけんせい説明せつめいしたが、りゅういさおはききいれず、まごさく信用しんようしてうえ綜へはいった。まごさくはこれを留守るすとなったりゅういさお本拠ほんきょである皖に急行きゅうこうしてこれを陥落かんらくさせ、きゅう袁術ぐんならびに楽隊がくたいや袁術の妻妾さいしょう子女しじょなどを一挙いっきょ手中しゅちゅうおさめることに成功せいこうした。のちみずからのわらわとしたはしこうむすめだいたかしや、おなじくはしこうむすめしゅう瑜のつまとなるしょうたかしほかにもまごけんつまとなる夫人ふじん袁夫じんもこのさい捕虜ほりょにしている。

進退しんたいきわまったりゅういさお西にしふさがやまじんき、なつこうたすけをもとめた。息子むすこしゃ援軍えんぐんてて西にしふさがやまかわせたが、まごさくはその救援きゅうえん到着とうちゃくするまえ早々そうそう西にしふさがやま陥落かんらくさせた。りゅういさお少数しょうすう部下ぶかとも曹操そうそうのもとへち、まごさくいおりれた。

大軍たいぐん手中しゅちゅうにしたまごさくは、つぎてきとしてりゅうおもて配下はいか攻撃こうげきける。ちちまごけんかたきであるため、まごさくあげしゅういおりにしたことではなさき勢力せいりょく同士どうしにもなった両者りょうしゃ対立たいりつ必至ひっしであった。りゅうひょう援軍えんぐんもとめ、りゅうひょうからはりゅうとららが増援ぞうえんとしておくられた。ははじめこれらの増援ぞうえんぐみしてみずからは後方こうほう支援しえんするかたちたたかったが、まごさくぐん先鋒せんぽうりゅうとらかんをすぐにやぶって斬首ざんしゅしたため、ぐん後退こうたいさせてなつこうにおいてせんもり体勢たいせいをとった。まごさく一時いちじ退却たいきゃくし、まずはあきら平定へいていすることを先決せんけつとした。のちに、への攻撃こうげきとし単位たんい執拗しつようつづけられ、けんやす13ねん208ねん)、ついにまごけんだいちち悔恨かいこんそそがれることになる。

まごさくはまずおそれこぼしあきら太守たいしゅはなもとおくって投降とうこうさせた。あきら南部なんぶいおりりょう太守たいしゅ名乗なのっていた僮芝にはあらたな太守たいしゅ派遣はけんして対立たいりつさせ、僮芝がやまいにかかったほうくとしゅう瑜をおくってこれを壊滅かいめつさせた。また、かんとう蔣欽しゅうやすしらを県令けんれい任命にんめいして抵抗ていこう勢力せいりょく鎮圧ちんあつまわらせ、りょはんを鄱陽、しゅう瑜をともえたかし派遣はけんして抵抗ていこう勢力せいりょく鎮圧ちんあつした。りゅうひょうおさえとしてはふとし慈をあきらぐん西部せいぶじょうにつけた。まごさくはここに江東こうとうぐんである江南こうなんだい部分ぶぶんをその支配しはいおさめた。

突然とつぜん[編集へんしゅう]

曹操そうそうまごさく懐柔かいじゅうのため、自分じぶんめいまごただしとつがせ、まご賁のむすめ息子むすこよめとしてむかえていた。しかしけんやす5ねん200ねん)、まごさく曹操そうそう主力しゅりょくきた袁紹かっているすきねらい、曹操そうそう本拠ほんきょであるもと攻略こうりゃく計画けいかくする[7]。ただし裴松まごもりによれば、まごさく本当ほんとう標的ひょうてきもとではなく、長江ながえ・淮水流域りゅういき非常ひじょう人望じんぼうあつくかねてから江南こうなん併合へいごう野望やぼういていたちんのぼるだったという。しかしまごさく単騎たんき外出がいしゅつした長江ながえのほとりに潜伏せんぷくしていたもとみつぎ客人きゃくじん3にん遭遇そうぐうし、まごさく1人ひとり射殺しゃさつしたが、のこ2人ふたりはなった一本いっぽんほおつらぬいた。『三国志さんごくし』討逆でんによれば、一族いちぞくひね瑀があげしゅう侵攻しんこうしたけん以前いぜんよりまごさく対立たいりつしていたちんのぼる報復ほうふくとしていむとらもとみつぎ残党ざんとう扇動せんどうまごさく背後はいごかせようとし、まごさくはそれにいかちんのぼる討伐とうばつかったが途上とじょうりの最中さいちゅうもとみつぎ残党ざんとうおそわれた、とある。

重傷じゅうしょう死期しきむかえたまごさくまごけん指名しめいし、その補佐ほさやくとしてちょうあきら指名しめいして26さい死亡しぼうさいして、ちょうあきら幕臣ばくしんにはまごけん補佐ほさたのみ、まごけんには「へいひきいて戦場せんじょうけ、天下てんかあらそいにくみするようなことにおいてはおまえおれにはおよばないが、才能さいのうあるものもちい、江東こうとうたもっていくことについては、おまえほううえだ」と、臣下しんかげんおもんじ江東こうとうかたことそそぐよういいのこしたとされる。

りゅう元年がんねん229ねん)、皇帝こうていとなったまごけんにより、ちょうすな桓王おくりなされた。まごけんけんぎょうにある朱雀すざくきょうみなみまごさくびょうてた。

まごけんみかどごうであるのにたいしてまごさくおうごうである理由りゆう不明ふめいであるが、ともあれまごけんまごさくなつかしんでいるようで、皇太子こうたいしであるまご派遣はけんして桓王びょう参籠さんろうさせたこと[8] および、あかがらす3ねん240ねん)にまごさくはか再度さいど整備せいび措置そちほどこした。碑石ひせきには「だいくれちょうすな桓王はか あかがらすさんねん」との文字もじきざまれている[9][10]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

おしゃれや笑話しょうわこの闊達かったつ性格せいかくであったとわれる。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

かくよしみは「まごさくあらたに江東こうとう併呑へいどんしたばかりですが、誅殺ちゅうさつされたのはみな英雄えいゆう豪傑ごうけつであり、ひと死力しりょくられるしゃたちでありました。しかしまごさく軽率けいそつそなえもく、ひゃくまん軍兵ぐんびょうがあろうとも原野げんやひとりであるいているのとことなりません。もし刺客しかくひそませていたならば、ただ一人ひとりてきとするだけであります。こうしたことからわたしるに、かならずや匹夫ひっぷぬことでしょう」とひょうしている。

ちん寿ひさしは「まごさく傑出けっしゅつした英気えいきそなえ、その勇猛ゆうもうさと鋭敏えいびんさはならものがないほどであり、すぐれた人物じんぶつ登用とうようしてもちい、こころざし中国ちゅうごく全土ぜんど圧倒あっとうするほどだった。しかし、まごさく軽佻けいちょうはて躁(=けいはずみで思慮しりょりぬ)だったので、ほろぼしてしまった」とひょうしている。

家系かけい[編集へんしゅう]

まご
 
まご
 
まご
 
まご
 
まごふるえ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まご
 
 
 
 
 
 
まご
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まごけん
 
まごさく
 
まご
 
まごたてまつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(1)大帝たいていまごけん
 
せん太子たいしまごとう
 
まごえい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まごおもんばか
 
 
(4)すえみかどまご
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(おい)ぶんみかどまご
 
 
まごけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まごしゅん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
魯王まご
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひとしおうまご
 
 
あきらおうまご𩅦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(3)けいみかどまごきゅう
 
 
なんじみなみおうまご𩃙
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(2)廃帝はいていまごあきら
 
 
はりおうまご
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まご
 
まごまつ
 
 
ひねおうまご𠅨
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まごただし
 
まごやすし
 
まごしゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まごろう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まごせい
 
まご
 
まご
 
まご
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まごちょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まごきょう
 
まごたかし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まご
 
まごわたるほか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まごこう
 
まごほか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まご
 
まごいちほか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まごけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 


親族しんぞく[編集へんしゅう]

このほか何人なんにんかの女子じょしがおり、けんによって一人ひとり顧邵とつぎ、一人ひとりりくへりくだとつぎ、もう一人ひとりしゅおさむしゅおさむ次子じし)にとついだ。

三国志さんごくし演義えんぎえがかれるまごさく[編集へんしゅう]

小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、「せいれつ如火」に気性きしょうはげしい性格せいかくとしてえがかれている。はじめは正史せいしまご賁の役割やくわりになっており、史実しじつよりはや時点じてん初陣ういじんむかえる。じょうたたかときはつ登場とうじょうし、弓矢ゆみやひねせい射殺しゃさつした。ちち死後しごはその軍勢ぐんぜいぎ、ちちかん故郷こきょうおくとどけると、袁術配下はいかになった。

まごさくつてこくたまを袁術にわたして独立どくりつためへいけ(正史せいしでは、袁術が皇帝こうてい僭称せんしょうするさい夫人ふじん拘留こうりゅうしてつて国璽こくじうばったという)、りゅう繇との交戦こうせんするさいに、りゅう繇の部将ぶしょう樊能まごさく大喝だいかつおどろいて落馬らくばしてしまう。なお、まごさく于糜うでかかえたまま自陣じじんもどるが、すでに窒息ちっそくしていることになっている。その大声おおごえ怪力かいりきであったため、「しょう覇王はおう」とばれている[12]りゅう繇軍のたい慈と互角ごかく一騎討いっきうちちをえんじる。

最期さいごについては『さがせかみ』の記述きじゅつをもとに、あらわれた道士どうし于吉れいによりまじなころされるという設定せっていになっている。于吉にみん人望じんぼうあつまることをにくみ、ねたんだまごさくは、于吉に難題なんだいしつけるが、于吉はそれをことごとくこなしていったため、いがかりをつけてかれ殺害さつがいしてしまう。そのまごさくいむとら残党ざんとうおそわれ負傷ふしょうするが、たいしたきずではなかった。しかし、んだはずの于吉がそのきず悪化あっかさせるように毎晩まいばんまごさくまえあらわれて、ついにそのきずふかくなり危篤きとくになったとしている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 三国志さんごくしまご策伝さくでんちゅうこころざしりん
  2. ^ 勇猛ゆうもうなる子犬こいぬ意味いみ。『くれろく』によると、曹公(曹操そうそう)聞策平定へいてい江南こうなん甚難つねよび「猘兒なんあずかそうほこさき也」
  3. ^ 簡体字かんたいじ表記ひょうき孙策拼音sūn cèラテン文字もじへのこぼし:Sun Ce。
  4. ^ 現在げんざい浙江せっこうしょう杭州こうしゅうとみ
  5. ^ こうかんまきじゅうななより
  6. ^ 三国志さんごくし演義えんぎ』などでは、まごさくはこれ以降いこうしょう覇王はおう」または「江東こうとう麒麟児きりんじ」とばれるようになったとされる。
  7. ^ 時期じき不明ふめいだが、『三国志さんごくしりょぬのつてちゅうく『先賢せんけん行状ぎょうじょう』では、まごさくじょしゅうんだが、ちんのぼるただしこもり、まごさくぐん撃退げきたいしたとしている。
  8. ^ たてやすし実録じつろく』『どおりかん』より
  9. ^ もとにはまごさくはか発見はっけんされると 、詩人しじんであるりくひとしらは『桓王』などおおくのつくってその様子ようす記録きろくしているという。
  10. ^ 江南こうなんとおるこころざしまきさんじゅうはちく『さんかのえこころざし』より
  11. ^ 三国志さんごくし演義えんぎ』ではだいたかしばれる。なお『三国志さんごくし』には正妻せいさいであったとはしるされていない。
  12. ^ 覇王はおう」とは項羽こううしょうである、力持ちからもちで有名ゆうめいになる。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]