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かい稽郡

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かい稽郡(かいけい-ぐん)は、中国ちゅうごくにかつて存在そんざいしたぐんはただいからとうだいにかけて設置せっちされた。

あげしゅう東部とうぶ長江ながえしも流域りゅういき設置せっちされ、六朝りくちょう時代じだいには政治せいじ文化ぶんか六朝りくちょう文化ぶんか)の中心ちゅうしんとして発展はってんした。その領域りょういき時代じだいによって変遷へんせんがあるが、現在げんざい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく浙江せっこうしょう紹興しょうこう付近ふきんがその中心ちゅうしんである。

さきはた時代ときよ[編集へんしゅう]

ぐんめいかい稽山による。伝承でんしょうではなつあさ時代じだいにはかい稽山の名称めいしょう使用しようされていた。死去しきょしたであるとしるされており、現在げんざいも禹をまつった禹王びょう位置いちする。地名ちめいは禹が死去しきょするさい諸侯しょこう一堂いちどうかいしその業績ぎょうせきはかったことから「かい稽(会計かいけいつうじる)」としょうされるようになった。

史記しき』によればなつしょうやすし庶子しょしであるかい稽にふうじられこし始祖しそになったとつたえられる。春秋しゅんじゅう時代じだいにはえつくにとして発展はってんしていた。当時とうじこしがこの地域ちいきにおいて対立たいりつしていたが、えつおう勾践くれおうおっとやぶれてかい稽山にみ、おっと下僕げぼくになるという屈辱くつじょくてき条件じょうけんによって和睦わぼくし、助命じょめいされたはなしつたわっている(『史記しき』のえつおう勾践)。のちに勾践はおっとってほろぼすのであるが、このはなしから、敗戦はいせん恥辱ちじょく他人たにんからけたがたいほどのはずかしめを意味いみする「会稽かいけいはじ」という故事こじ成語せいごまれている。

はた[編集へんしゅう]

そのこしすわえほろぼされるが、ぜん223ねんはた攻撃こうげきけたすわえ滅亡めつぼうする。翌年よくねんはたすすむおうによりかい稽郡が設置せっちされ、くれけんぐん設置せっちされた。管轄かんかつ範囲はんいえつ両国りょうこくであり、現在げんざい江蘇ちぁんすーしょう長江ながえ南岸なんがん安徽あんきしょう南東なんとう浙江せっこうしょう北部ほくぶおよ上海しゃんはい西部せいぶ相当そうとうした。

ぜん221ねん全国ぜんこくに36ぐん設置せっちしたさいかい稽郡西部せいぶには鄣郡設置せっちされている。ぜん210ねん始皇帝しこうていによるかい巡幸じゅんこうおこなわれた。

はたまつ項羽こううとその叔父おじこうはりかくんでいたのもかい稽である。かれらはここではた派遣はけんしたかいこおりまもるいんどおり殺害さつがいしてはた討伐とうばつぐんこし、咸陽けて行軍こうぐん開始かいししている。

前漢ぜんかん[編集へんしゅう]

かんはつかい稽郡はくれぐんしょうされた。

ぜん202ねん劉邦りゅうほうかんしんすわえおうふうじ、しんだいかい稽郡・東海とうかいぐん泗水しすいぐん薛郡ひねぐんすわえこく設置せっちした。しかし翌年よくねんにはかんしんはいされ淮陰こうとされ、わりにりゅうを荊王とし東陽とうようぐん鄣郡・くれぐんの53けん荊国設置せっちした。

ぜん196ねんりゅう賈が淮南ワイナンおうえいぬのへいによって殺害さつがいされると、翌年よくねんにはりゅうくれおうふうじられ荊国の継承けいしょうしている(こく)。ぜん154ねんすわえななこくらん発生はっせいするとりゅう濞ははいくれこくはいされている。

当時とうじかい稽郡の管轄かんかつけん下記かきとお

こうかん[編集へんしゅう]

こうかん成立せいりつすると冶県はひがし冶県あらためられけん西部せいぶにはほうかんけん設置せっちされた。

えいけん年間ねんかん羡県れいであったしゅうよしみひとしによりかい稽郡が広大こうだいであり地方ちほう行政ぎょうせい不便ふべんたしているとぐん分割ぶんかつ請求せいきゅうされた。129ねんえいけん4ねん)、かい稽郡北部ほくぶの13けんくれぐん設置せっち、それまでぐん設置せっちされていたくれけんくれぐん管轄かんかつとなったためぐん山陰さんいんけんうつされている。また138ねん永和えいわ3ねん)にはあきらやすけんひがし甌にえいやすしけん設置せっち山陰さんいん・鄮・がらすきずしょ曁・あまり曁・ふとしまつうえおそれ・剡・あまり姚・あきら・鄞・あきらやすひがし冶・えいやすしほうかんの15けん管轄かんかつするようになった。

192ねんはつたいら3ねん)にはしんやすけん長山ながやまけんを、195ねんきょうひらた2ねん)にはやすしけんを、196ねんたてやすし元年がんねん)には松陽しょうようけんたてやすしけんかんおきけん南平なべらけんを、200ねんけんやす4ねん)には豊安とよやすけんを、205ねんけんやす10ねん)にはけんたいらけんを、218ねんけんやす23ねん)にはとげあきらけんおよていけん新設しんせつし、こうかんまつには26けん管轄かんかつしていた。

袁術部将ぶしょうまごさくあげしゅう侵攻しんこうすると、かい稽太もりであったおうあきらはその攻撃こうげきえられずに降伏ごうぶく以降いこうまごさくかい太守たいしゅ自称じしょうした。まごさくのちに袁術から自立じりつかんちょう帰服きふくもうたが、中原なかはら戦乱せんらんくるしむのちかんちょう支配しはいあげしゅう方面ほうめんにまではおよばず、まごさく死後しごおとうとまごけんかい稽太もり地位ちい継承けいしょうされた。まごけん208ねん曹操そうそうたかしたけみかど)をあかかべたたかやぶり、創始そうししゃ大帝たいてい)となる。

すすむ南北なんぼくあさ[編集へんしゅう]

首都しゅとまごけん時代じだいあげしゅう丹陽たんようぐんけんぎょううつったが、かい稽郡は丹陽たんようぐんくれぐんともさんこく時代じだいでのちょう中心ちゅうしんてき地域ちいきとなっていった。また、山越やまこし征伐せいばつをたびたび実施じっしし、かんぞく支配しはい領域りょういきひろめていき、南朝なんちょうのさきがけとなる。

さんこく時代じだいにはかい稽郡にはじめやすしけんえいやすしけん新設しんせつされた。257ねん太平たいへい2ねん)には東部とうぶ臨海りんかい地域ちいき臨海りんかいぐんを、260ねん永安えいあん3ねん)にはぐん南部なんぶたてやすしぐんを、266ねんたからかなえ元年がんねん)にはしょ曁・剡両けん以南いなん東陽とうようぐん設置せっちした。

こころざし倭人わじんでんにおいてやまと位置いちしめ記述きじゅつなかかい稽のてくる。そこでは、やまとは「けい其道さととうざいかい稽東冶之ひがし」(そのみちさとはかるに、まさにかい稽、ひがしひがしにあるべし)としるされている。

すすむだいになるとかい稽郡の管轄かんかつけん山陰さんいんうえおそれあまり姚・あきら・鄞・鄮・はじめやすし・剡・しょ曁・永興りょうご266ねん曁県より改称かいしょう)の10けんとなり、現在げんざい紹興しょうこうやすしなみだい部分ぶぶんおよび杭州こうしゅうしょうやま一帯いったいとなった。

あずますすむ以降いこうすすむせいが沿襲名しゅうめいされたが、南朝なんちょうはりひねではかい稽郡東部とうぶあげしゅう587ねんくれしゅう改称かいしょう)が一時いちじてき設置せっちされている。

あずますすむ書家しょか王羲之おうぎし南朝なんちょうそう詩人しじんしゃれいうんなどがこの移住いじゅうした。しゃれいうんは、詩作しさくはげんだのみでなく、この地域ちいき農地のうち開発かいはつにもつとめた。

ずいとう[編集へんしゅう]

589ねんひらきすめらぎ9ねん)、きゅうかい稽郡はくれしゅう改編かいへん山陰さんいんうえおそれはじめやすし永興りょうご4けん統合とうごうかい稽県姚・鄞・鄮3けん統合とうごうあきらけん設置せっちされた。605ねん大業おおわざ元年がんねん)にくれしゅうこししゅう改称かいしょう607ねん大業おおわざ3ねん)にはかい稽郡あらためられ、かい稽・あきらしょ曁・剡の4けん管轄かんかつした。

からあさ成立せいりつすると621ねん武徳ぶとく4ねん)、かい稽郡が廃止はいしとなりこししゅうさい設置せっちかい稽・しょ曁・山陰さんいんの3けん管轄かんかつした。624ねん武徳ぶとく7ねん)、姚州より姚県が、その翌年よくねんには鄞州の廃止はいしにともない鄮県、嵊州の廃止はいしともない剡県がえつしゅう編入へんにゅうされると同時どうじ山陰さんいんけん廃止はいしとなっている。

677ねんおおとり2ねん)、かい稽県およしょ曁県の一部いちぶ永興りょうごけん(742ねんしょう山県やまがた改称かいしょう)がさい設置せっち686ねんたれ2ねん)にはかい稽県より山陰さんいんけん分割ぶんかつされている。

742ねん天宝てんぽう元年がんねん)、こししゅうかい稽郡改称かいしょうされ、かい稽・山陰さんいんしょ曁・あまり姚・剡・しょうやまうえおそれの7けん管轄かんかつした。758ねんいぬいはじめ元年がんねん)にふたたこししゅう改編かいへんかい稽郡の行政ぎょうせい区画くかく消滅しょうめつしている。