この項目 こうもく では、ユーラシア大陸 たいりく の東部 とうぶ 地域 ちいき を指 さ す、「中国 ちゅうごく 」という用語 ようご の意味 いみ と呼称 こしょう の変遷 へんせん について説明 せつめい しています。
中国 ちゅうごく (ちゅうごく、繁 しげる : 中國 ちゅうごく )は、ユーラシア大陸 たいりく (アジア大陸 たいりく )の東部 とうぶ を占 し める地域 ちいき 、及 およ びそこで成立 せいりつ した国家 こっか をさす用語 ようご 。日本 にっぽん では、1972年 ねん の日 にち 中 ちゅう 国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か 以降 いこう 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の略称 りゃくしょう としても使用 しよう されている[ 1] [ 2] [ 3] 。
紫 むらさき が中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の統治 とうち 下 か 、オレンジが中華民国 ちゅうかみんこく の統治 とうち 下 か (政治 せいじ 的 てき な問題 もんだい については中国 ちゅうごく 統一 とういつ 問題 もんだい を参照 さんしょう )。
本 ほん 記事 きじ では、「中国 ちゅうごく 」という用語 ようご の「意味 いみ 」の変遷 へんせん と「呼称 こしょう 」の変遷 へんせん について記述 きじゅつ する。中国 ちゅうごく に存在 そんざい した歴史 れきし 上 じょう の国家 こっか 群 ぐん については、当該 とうがい 記事 きじ および「中国 ちゅうごく の歴史 れきし 」を参照 さんしょう 。
1949年 ねん 以降 いこう は、「中国 ちゅうごく 」はアジア大陸 たいりく に存在 そんざい する中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく に対 たい する略称 りゃくしょう として用 もち いられ、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく とそれに付随 ふずい する島嶼 とうしょ にあたる。[要 よう 出典 しゅってん ]
この地 ち は中国 ちゅうごく 大陸 たいりく 最多 さいた の人口 じんこう を有 ゆう する漢 かん 民族 みんぞく を始 はじ めとして、長 なが い間 あいだ 中国 ちゅうごく 全土 ぜんど を支配 しはい していたモンゴル 等 ひとし の様々 さまざま な民族 みんぞく による複数 ふくすう の王朝 おうちょう が出現 しゅつげん と滅亡 めつぼう 、戦乱 せんらん と統一 とういつ を繰 く り返 かえ してきた。そのため、地域 ちいき の文明 ぶんめい や民族 みんぞく を広 ひろ く指 さ し、紀元前 きげんぜん からの文明 ぶんめい ・国家 こっか 群 ぐん の歴史 れきし の総体 そうたい をも含 ふく めて用 もち いられている。
清 きよし までの中国 ちゅうごく は、王朝 おうちょう の名前 なまえ が対外 たいがい ・対内 たいない 的 てき な呼称 こしょう として用 もち いられていた[要 よう 出典 しゅってん ] 。しかし、19世紀 せいき 半 なか ばから中国 ちゅうごく も「世界 せかい の一体化 いったいか 」の流 なが れに飲 の み込 こ まれると、「中国 ちゅうごく 」という用語 ようご が主権 しゅけん 国家 こっか の自称 じしょう として用 もち いられるようになり、中華民国 ちゅうかみんこく 建国 けんこく 後 ご は固有名詞 こゆうめいし としての性格 せいかく を濃 こ くしていった。 [要 よう 出典 しゅってん ]
日本 にっぽん では、伝統 でんとう 的 てき に黄河 こうが 流域 りゅういき の国家 こっか に対 たい し「唐 とう ・漢 かん ・唐土 とうど 」の文字 もじ を用 もち いて「とう・から・もろこし」と呼 よ び、玄奘三蔵 げんしょうさんぞう の訳業 やくぎょう が輸入 ゆにゅう されてからは、仏教 ぶっきょう 界 かい で「支 ささえ 那 な 」が利用 りよう され、明治 めいじ 時代 じだい に入 はい り「支 ささえ 那 な 」が一般 いっぱん 化 か した。
西暦 せいれき 紀元前 きげんぜん (西 にし 周 あまね 時代 じだい )にはすでに「中国 ちゅうごく 」の文字 もじ は文献 ぶんけん に現 あらわ れていた[ 4] 。
皇 すめらぎ 天 てん 既 すんで 付 づけ 中國 ちゅうごく 民 みん 越 えつ 厥疆土 ど 于先王 おう (皇 すめらぎ 天 てん 既 すで に中 ちゅう 國民 こくみん と厥疆の土地 とち を先 さき の王 おう に付 ふ す)
『詩経 しきょう 』の「大雅 たいが 」の「生 なま 民 みん 之 の 什」の章 しょう の中 なか の「民 みん 勞 ろう 」に現 あらわ れるもの
民 みん 亦 また 勞 ろう 止 どめ 汔可小康 しょうこう 惠 めぐみ 此中國 ちゅうごく 以綏四方 しほう (この中国 ちゅうごく に恵 めぐみ あれ、四方 しほう 安 やす らかに)
無 む 縱 たて 詭隨 以謹無 む 良 りょう 式 しき 遏寇虐 しいたげ 憯不畏 かしこ 明 あきら
柔 やわ 遠 とお 能 のう 邇 以定我 わが 王 おう
その後 ご の歴代 れきだい 王朝 おうちょう の正史 せいし 二 に 十 じゅう 四 よん 史 し でも使用 しよう され続 つづ けているが、その範囲 はんい と概念 がいねん は時代 じだい とともに変化 へんか している。
何 なに 尊 みこと に刻 きざ まれた銘文 めいぶん
1963年 ねん 出土 しゅつど した「何 なに 尊 みこと 」は西 にし 周 あまね 成 なり 王 おう 時代 じだい (紀元前 きげんぜん 11世紀 せいき )の青銅器 せいどうき で、銘文 めいぶん に武 たけ 王 おう の言葉 ことば として「余 よ 其宅茲中国 こく 、自 じ 之 これ 乂民」と刻 きざ まれている。
遺物 いぶつ そのものにある「中国 ちゅうごく 」の用例 ようれい としては、現存 げんそん 最古 さいこ とされる。
中華 ちゅうか 思想 しそう における世界 せかい 観 かん
本来 ほんらい は特定 とくてい の国家 こっか や民族 みんぞく を指 さ す言葉 ことば ではない。西 にし 周 あまね 時代 じだい には広 ひろ く見積 みつ もって中原 なかはら 、または洛陽 らくよう 周辺 しゅうへん を指 さ していた[ 4] 。
ベトナム では阮朝 が自国 じこく を中国 ちゅうごく (チォンコック)と呼 よ び、日本 にっぽん でも自国 じこく に対 たい して葦原 よしわら 中国 ちゅうごく (あしはらのなかつくに)あるいは中国 ちゅうごく (なかつくに)という美称 びしょう を用 もち いている[ 注 ちゅう 1] 。
日本 にっぽん において朝貢 ちょうこう する異 こと 族 ぞく に対 たい し、自国 じこく を「中国 ちゅうごく 」と称 しょう した最古 さいこ の表記 ひょうき 例 れい は『続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き 』文武 ぶんぶ 天皇 てんのう 3年 ねん (699年 ねん )7月 がつ 19日 にち 条 じょう における「徳之島 とくのしま 人 ひと が中国 ちゅうごく に渡来 とらい するのは、この時 とき から始 はじ まった」の一文 いちぶん であり、中国 ちゅうごく に対 たい して「日本 にっぽん 」と初 はじ めて称 しょう した時期 じき とほぼ一致 いっち する。
一方 いっぽう 、黄河 こうが 流域 りゅういき で黄河 こうが 文明 ぶんめい を営 いとな んでいた漢 かん 民族 みんぞく の前身 ぜんしん となった都市 とし を持 も つ部族 ぶぞく 国家 こっか 連邦 れんぽう の民 みん の国際 こくさい 社会 しゃかい では、「中国 ちゅうごく 」という語 かたり は、王 おう や覇者 はしゃ を中心 ちゅうしん とした秩序 ちつじょ に基 もと づくものであった。その後 ご 、中華 ちゅうか 思想 しそう に基 もと づく「文化 ぶんか 的 てき 優越 ゆうえつ 性 せい を持 も った世界 せかい の中心 ちゅうしん 」という意味 いみ を帯 お び、秦 はた 始皇帝 しこうてい のこの地域 ちいき の諸 しょ 民族 みんぞく の統一 とういつ に発 はっ する中国 ちゅうごく 歴代 れきだい 王朝 おうちょう の政治 せいじ 的 てき ・軍事 ぐんじ 的 てき な境界 きょうかい を設定 せってい する中 なか で、徐々 じょじょ に形成 けいせい されていった漢 かん 民族 みんぞく 意識 いしき のアイデンティティを境界 きょうかい 付 つ ける自称 じしょう として拡張 かくちょう されていった。
「中原 なかはら 」とは、黄河 こうが 文明 ぶんめい の発祥 はっしょう 地 ち である黄河 こうが 中 ちゅう 下 か 流域 りゅういき に広 ひろ がる平原 へいげん のことであり、しばしば「中国 ちゅうごく 」と同義 どうぎ とされる。
「秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ は中国 ちゅうごく を防衛 ぼうえい するため長城 ちょうじょう を建 た てた」と文書 ぶんしょ に記載 きさい されている[ 5] 。漢書 かんしょ 溝 みぞ 恤志卷 まき 29では「中國 ちゅうごく 川原 かわら 以百數 すう 」(いにしえより中国 ちゅうごく には何 なん 百 ひゃく もの山 やま と原 はら があり)[ 6] 、前漢 ぜんかん 昭 あきら 帝 みかど 時代 じだい に書 か かれたとされる『塩 しお 鉄 てつ 論 ろん 』では、景 けい 帝 みかど 時代 じだい までの領土 りょうど 及 およ び地域 ちいき を「中国 ちゅうごく 」と称 しょう している[ 7] 。
また、武 たけ 帝 みかど が新規 しんき に征服 せいふく した領域 りょういき は「中国 ちゅうごく 」と対置 たいち する領域 りょういき として「辺境 へんきょう 」と各所 かくしょ で記 しる されてもいる[ 8] 。しかし、武 たけ 帝 みかど が新 あら たに征服 せいふく した領土 りょうど を含 ふく む領域 りょういき を「中国 ちゅうごく 」と表現 ひょうげん している箇所 かしょ もある。武 たけ 帝 みかど が支配 しはい した領域 りょういき 以外 いがい の地域 ちいき を「外国 がいこく 」[ 9] と表記 ひょうき し、「外国 がいこく 」が「中国 ちゅうごく 」と対置 たいち されている箇所 かしょ があるからである[ 10] 。このように、『塩 しお 鉄 てつ 論 ろん 』論争 ろんそう 当時 とうじ は、「中国 ちゅうごく 」の概念 がいねん は、武 たけ 帝 みかど 征服 せいふく 領土 りょうど を含 ふく む場合 ばあい と含 ふく まない場合 ばあい が見 み られ、辺境 へんきょう 郡 ぐん を中国 ちゅうごく に含 ふく むかどうかで論者 ろんしゃ による認識 にんしき のずれがあったようである。
周 しゅう 王朝 おうちょう 時代 じだい の領域 りょういき は「諸 しょ 夏 なつ 」[ 11] 、漢 かん 高祖 こうそ の平定 へいてい 領域 りょういき は「九州 きゅうしゅう 」[ 12] 、と各々 おのおの 使 つか い分 わ けて記載 きさい されている。この時代 じだい には、既 すで に「中国 ちゅうごく 」の領域 りょういき が「中原 なかはら 」よりも広 ひろ い地域 ちいき に拡大 かくだい し、自民 じみん 族 ぞく の伝統 でんとう 的 てき 領域 りょういき と認識 にんしき されている一方 いっぽう 、王朝 おうちょう の支配 しはい 領域 りょういき 全 すべ てが「中国 ちゅうごく 」と認識 にんしき されているわけではない用例 ようれい があることを窺 うかが い知 し ることができる。
『塩 しお 鉄 てつ 論 ろん 』には一 いち 箇所 かしょ だけ「漢國 かんごく 」の表記 ひょうき があり[ 13] 、概 おおむ ね「漢 かん 」に支配 しはい される領土 りょうど は「中国 ちゅうごく 」と同義 どうぎ とみられる[ 注 ちゅう 2] 。
唐 から 王朝 おうちょう に入 はい ると「中国 ちゅうごく 」の領域 りょういき は更 さら に拡大 かくだい し、現在 げんざい 中国 ちゅうごく 本土 ほんど と呼 よ ばれる領域 りょういき が「中国 ちゅうごく 」と認識 にんしき されるようになっていた。例 たと えば「唐 から 興 きょう ,蠻夷 ばんい 更 さら 盛衰 せいすい ,嘗與中國 ちゅうごく 亢衡者 しゃ 有 ゆう 四 よん :突厥 、吐蕃 、回 かい 鶻 、雲南 うんなん 是也 これや 」とある[ 14] 。韓 かん 愈 いよいよ は論 ろん 仏 ふつ 骨 こつ 表 ひょう では「仏 ふつ というものは、後 こう 漢 かん 代 だい に中国 ちゅうごく に伝 つた わったものであり、その前 ぜん 中国 ちゅうごく にはまだ仏 ほとけ は居 い なかったのです」と記 しる している。
同時 どうじ に「中国 ちゅうごく 」は地理 ちり 的 てき な領域 りょういき 名 めい だけではなく、王朝 おうちょう が現時点 げんじてん で支配 しはい している領土 りょうど を意味 いみ するようにもなっていた[ 15] 。
「中国 ちゅうごく 」の領域 りょういき 認識 にんしき は支配 しはい 領域 りょういき の拡大 かくだい 縮小 しゅくしょう と連動 れんどう した。
通例 つうれい では清朝 せいちょう 末期 まっき 以前 いぜん は、「中国 ちゅうごく 」は通史 つうし 的 てき 意味合 いみあ いを持 も たないとされているが、通史 つうし 的 てき な用例 ようれい がまったくないわけではない。例 たと えば「宋 そう 史 ふみ 列傳 れつでん 194儒林五 ご /胡 えびす 安國 やすくに 」では「自 じ 古 こ 中國 ちゅうごく 強 きょう 盛 もり 如漢武 たけ 帝 みかど 、唐 から 太 ふとし 宗 むね 」(いにしえより中国 ちゅうごく は漢 かん 武 たけ 帝 みかど や唐 から 太 ふとし 宗 むね の如 ごと く強 つよ く盛 さか んであった)という記載 きさい があり、『魏 ぎ 志 こころざし 倭人 わじん 伝 でん 』には「自 じ 古 いにしえ 以來 いらい 其使詣 まい 中國 ちゅうごく 皆 みな 自稱 じしょう 大夫 たいふ 」(いにしえより以来 いらい 、その使者 ししゃ が中国 ちゅうごく に来 く ると皆 みな 自分 じぶん を大夫 たいふ と称 しょう した)と記 しる されている。
中華 ちゅうか (ちゅうか)あるいは華 はな 夏 なつ (かか)という用語 ようご は、「優 すぐ れた文化 ぶんか を持 も つ者 もの 」を意味 いみ し、漢 かん 民族 みんぞく の間 あいだ で「中国 ちゅうごく 」と同様 どうよう の自称 じしょう として用 もち いられた。
「中心 ちゅうしん の国 くに に住 す む優 すぐ れた文化 ぶんか の担 にな い手 て 」という意味 いみ の「中華 ちゅうか 」には、地理 ちり 的 てき な意味 いみ に加 くわ えて、「漢 かん 民族 みんぞく のアイデンティティ」と「華 はな 夏 なつ 文化 ぶんか の優越 ゆうえつ 性 せい 」という要素 ようそ が共存 きょうぞん していた。
中華 ちゅうか 思想 しそう においては、天 てん の意志 いし を代行 だいこう する皇帝 こうてい が、その徳 とく をもって統治 とうち し、もし徳 とく を失 うしな えば新 あら たな家系 かけい に替 か わる。「中国 ちゅうごく 」「中華 ちゅうか 」に対 たい して、その四方 しほう に居住 きょじゅう する周辺 しゅうへん 民族 みんぞく は「夷狄 いてき 」として対置 たいち される。
11世紀 せいき 以降 いこう の宋 そう から明 あかり にかけて、宋 そう 明 あきら 理学 りがく は大 おお いに流行 りゅうこう し、再 ふたた び華 はな 夷 えびす 秩序 ちつじょ が強調 きょうちょう されるようになった。また宋 そう や明 あかり では異国 いこく 文化 ぶんか を珍重 ちんちょう し、外国 がいこく 人 じん が宮廷 きゅうてい で登用 とうよう されることも珍 めずら しくなかった[ 16] 。
中国 ちゅうごく の皇帝 こうてい は西 にし アジアの「諸王 しょおう の王 おう 」に相当 そうとう し、中国 ちゅうごく 歴代 れきだい 王朝 おうちょう は、自 みずか らが人類 じんるい で唯一 ゆいいつ の皇帝 こうてい [ 注 ちゅう 3] であり、それ以外 いがい は中華 ちゅうか 世界 せかい における辺境 へんきょう に過 す ぎないという態度 たいど を取 と った。
対等 たいとう な国 くに が存在 そんざい しないのだから、対等 たいとう な関係 かんけい の外交 がいこう は存在 そんざい せず、周辺 しゅうへん 民族 みんぞく との関係 かんけい は全 すべ て朝貢 ちょうこう という形式 けいしき となる。逆 ぎゃく に夷狄 いてき の王 おう が中原 なかはら を征服 せいふく して中国 ちゅうごく に同化 どうか し、皇帝 こうてい となることも可能 かのう であった。五 ご 胡 えびす 十 じゅう 六 ろく 国 こく 時代 じだい の諸国 しょこく や南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい の北朝 ほくちょう 、五 ご 代 だい 十 じゅう 国 こく 時代 じだい の突厥 沙 すな 陀部系 けい 軍閥 ぐんばつ が中央 ちゅうおう 権力 けんりょく の要 よう を成 な した後半 こうはん 四 よん 代 だい がこの典型 てんけい である。しかし、遼 りょう ・金 きむ ・元 もと ・清 きよし の4王朝 おうちょう は、漢 かん 民族 みんぞく を支配 しはい して中華 ちゅうか 帝国 ていこく の系統 けいとう に属 ぞく する王朝 おうちょう を作 つく ったが、自民 じみん 族 ぞく の統治 とうち 制度 せいど や文化 ぶんか も保持 ほじ し続 つづ け、版図 はんと の一部 いちぶ を構成 こうせい するに過 す ぎない漢 かん 民族 みんぞく 地域 ちいき に対 たい しては、征服 せいふく 王朝 おうちょう として振 ふ る舞 ま った。漢 かん 民族 みんぞく が直面 ちょくめん したこのような現実 げんじつ に対 たい して、宋 そう 学 まなぶ では華 はな 夷 えびす 秩序 ちつじょ が強調 きょうちょう されるようになった。それに基 もと づく、清 きよし の法律 ほうりつ にも「外国 がいこく 人 じん に対 たい しては自分 じぶん を中国 ちゅうごく と呼 よ ぶ必要 ひつよう がある」と規定 きてい したことがある[ 17] 。
日本 にっぽん でも、江戸 えど 時代 じだい 以前 いぜん に大陸 たいりく を「中国 ちゅうごく 」と呼 よ んだ事例 じれい は見 み られない(幕末 ばくまつ 、「満 まん 洲 しゅう 夷 えびす 」が自分 じぶん たち自身 じしん を「中国 ちゅうごく 」と呼 よ んでいると紹介 しょうかい されることはあった[ 18] )。
この節 ふし は中立 ちゅうりつ 的 てき な観点 かんてん に基 もと づく疑問 ぎもん が提出 ていしゅつ されているか、議論 ぎろん 中 ちゅう です 。
そのため、中立 ちゅうりつ 的 てき でない偏 かたよ った観点 かんてん から記事 きじ が構成 こうせい されているおそれがあり、場合 ばあい によっては記事 きじ の修正 しゅうせい が必要 ひつよう です。議論 ぎろん はノート を参照 さんしょう してください。 (2015年 ねん 11月 )
清 きよし 代 だい 後半 こうはん になると、近代 きんだい 化 か を果 は たした欧米 おうべい 列強 れっきょう の圧倒的 あっとうてき 国力 こくりょく が中国 ちゅうごく 周辺 しゅうへん にも波及 はきゅう し、中国 ちゅうごく は諸 しょ 外国 がいこく と対等 たいとう な国際 こくさい 社会 しゃかい の一員 いちいん として自己 じこ を再 さい 定義 ていぎ する必要 ひつよう に迫 せま られた。「中国 ちゅうごく 」という用語 ようご の近代 きんだい 的 てき な主権 しゅけん 国家 こっか の概念 がいねん での使用 しよう は、1842年 ねん に阿片 あへん 戦争 せんそう の敗北 はいぼく で清朝 せいちょう がイギリス と結 むす んだ南京 なんきん 条約 じょうやく で、漢文 かんぶん の「中国 ちゅうごく 」が使 つか われた近代 きんだい 的 てき な国際 こくさい 条約 じょうやく が最初 さいしょ であると知 し られている。
1689年 ねん に調印 ちょういん されたネルチンスク条約 じょうやく では、清朝 せいちょう の外交 がいこう 使臣 ししん が自 みずか らの身分 みぶん を称 しょう する時 とき に「中国 ちゅうごく 」という用語 ようご を満 まん 洲 しゅう 語 ご で使 つか った。ここでいう中国 ちゅうごく とは、満 まん 洲 しゅう 人 じん の故郷 こきょう である満 まん 洲 しゅう と旧 きゅう 明 あかり 領 りょう を皇帝 こうてい 直轄 ちょっかつ 地 ち として統治 とうち したことから、この領域 りょういき を「真 ま ん中 なか の国 くに 」という意味 いみ として中国 ちゅうごく (満 まん 洲 しゅう 語 ご :ᡩᡠᠯᡳᠮᠪᠠᡳ ᡤᡠᡵᡠᠨ ドゥリンバイ・グルン、dulimbai gurun)と呼 よ んだものである。
清朝 せいちょう 政府 せいふ が主権 しゅけん 国家 こっか 体制 たいせい と国籍 こくせき 条例 じょうれい の重要 じゅうよう 性 せい を認識 にんしき し、国籍 こくせき 法 ほう に国名 こくめい は「中国 ちゅうごく 」を定 さだ めている[ 19] 。20世紀 せいき 初期 しょき 、梁 りょう 啓 あきら 超 ちょう は『中国 ちゅうごく 史 し 叙 じょ 論 ろん 』において、自国 じこく の主権 しゅけん 国家 こっか の国名 こくめい をどうするか悩 なや み、「支 ささえ 那 な 」は外国 がいこく 人 じん が呼 よ んだもので自 みずか ら命名 めいめい したものではなく、「中華 ちゅうか 」「中国 ちゅうごく 」は自尊 じそん 自大 じだい で非難 ひなん される、といずれも欠点 けってん があるとした上 うえ で、その中 なか から便宜 べんぎ 的 てき に「中国 ちゅうごく 」の国名 こくめい 使用 しよう を提案 ていあん した[ 20] [ 21] 。
「中国 ちゅうごく 」や「中国人 ちゅうごくじん 」の範囲 はんい をどのように設定 せってい するかについては20世紀 せいき に入 はい っても議論 ぎろん が続 つづ いた。たとえば共和 きょうわ 革命 かくめい のイデオローグ章 あきら 炳麟 は「中華民国 ちゅうかみんこく 解 かい 」[ 22] で中国 ちゅうごく の範囲 はんい を「先 さき 漢 かん の郡 ぐん 県 けん が設置 せっち された領域 りょういき 」、中国人 ちゅうごくじん を「黄 き 帝 みかど の子孫 しそん 」と定義 ていぎ 、朝鮮 ちょうせん (漢 かん 代 だい に楽 らく 浪 なみ 郡 ぐん ・帯 おび 方 かた 郡 ぐん が置 お かれた)やベトナム を「中華民国 ちゅうかみんこく が絶対 ぜったい 回復 かいふく すべき領域 りょういき 」、ビルマ を「ややこれに次 つ ぐ領域 りょういき 」とする一方 いっぽう 、モンゴル (蒙 こうむ 古 いにしえ )やチベット (西蔵 とりぞう )、東 ひがし トルキスタン (回 かい 部 ぶ )は、漢 かん 代 だい に郡 こおり 県 けん は置 お かれず、「三 さん 荒 あら 服 ふく の地 ち 」であったことから、中華民国 ちゅうかみんこく に参加 さんか するのも自立 じりつ するのも、彼 かれ ら自身 じしん に任 まか せるべき、としている。孫 まご 文 ぶん ら革命 かくめい 派 は は、清 きよし の他 た 族 ぞく は既 すで に漢 かん 民族 みんぞく に同化 どうか しており[ 23] 、満 まん 洲 しゅう や蒙 こうむ 古 ふる も服属 ふくぞく すると主張 しゅちょう した[ 24] 。一方 いっぽう 、梁 りょう 啓 あきら 超 ちょう ら立憲 りっけん 派 は は、各 かく 民族 みんぞく を一 ひと つにすることで、清 きよし の現在 げんざい の領土 りょうど を維持 いじ すべきと反論 はんろん した[ 25] [ 26] [ 27] 。双方 そうほう の論争 ろんそう の中 なか で主張 しゅちょう は接近 せっきん し、清 きよし の現行 げんこう 領土 りょうど を保 たも ったうえで各 かく エスニックグループ を融合 ゆうごう して「中華 ちゅうか 民族 みんぞく 」という一 ひと つの民族 みんぞく を作 つく り上 あ げる構想 こうそう ができた[ 27] 。
歴史 れきし 学 がく においては清 きよし を中国 ちゅうごく とするかについても議論 ぎろん がある。新 しん 清史 きよし は1990年代 ねんだい 半 なか ばに始 はじ まる歴史 れきし 学 がく 的 てき 傾向 けいこう であり、清 きよし 王朝 おうちょう の満 まん 洲 しゅう 人 じん 王朝 おうちょう としての性質 せいしつ を強調 きょうちょう している。以前 いぜん の歴史 れきし 観 かん では中国 ちゅうごく (中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく )の歴史 れきし 家 か を中心 ちゅうしん に漢人 かんど の力 ちから を強調 きょうちょう し、清 きよし は中華 ちゅうか 王朝 おうちょう として満 まん 洲 しゅう 人 じん と漢人 かんど が同化 どうか したこと、つまり「漢 かん 化 か 」が大 おお きな役割 やくわり を果 は たしたとされていた。しかし1980年代 ねんだい から1990年代 ねんだい 初頭 しょとう にかけて、日本 にっぽん やアメリカの学者 がくしゃ たちは満 まん 洲 しゅう 語 ご やモンゴル語 ご 、チベット語 ご やロシア語 ご 等 ひとし の漢字 かんじ 文献 ぶんけん 以外 いがい の文献 ぶんけん と実地 じっち 研究 けんきゅう を重視 じゅうし し、満 まん 洲 しゅう 人 じん は満 まん 洲 しゅう 語 ご や伝統 でんとう である騎射 きしゃ を保 たも ち、それぞれの地域 ちいき で異 こと なった体制 たいせい で統治 とうち していたため長期 ちょうき 的 てき 支配 しはい が行 おこな えたとし、中華 ちゅうか 王朝 おうちょう よりも中央 ちゅうおう ユーラシア的 てき な体制 たいせい を強調 きょうちょう している。満 まん 洲 しゅう 人 じん の母語 ぼご はアルタイ系 けい 言語 げんご である満 まん 洲 しゅう 語 ご であったこと、広大 こうだい な領域 りょういき を有 ゆう した領土 りょうど の4分 ぶん の3が非 ひ 漢字 かんじ 圏 けん であったことなど「清朝 せいちょう は秦 はた ・漢 かん 以来 いらい の中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう の伝統 でんとう を引 ひ き継 つ ぐ最後 さいご の中華 ちゅうか 王朝 おうちょう である」という一般 いっぱん に流布 るふ している視点 してん は正確 せいかく ではないとしており、[ 28] 中華 ちゅうか 王朝 おうちょう という意味 いみ の中国 ちゅうごく はあくまで清 きよし の一部 いちぶ であり清 きよし は中国 ちゅうごく ではないとしている。
中国 ちゅうごく 国内 こくない では「新 あたらし 清史 きよし 」の学術 がくじゅつ 的 てき 成果 せいか は認 みと められつつあるものの、「漢 かん 化 か 」を否定 ひてい する主張 しゅちょう については反対 はんたい が根強 ねづよ くある。2016年 ねん においても劉 りゅう 文 ぶん 鵬 おおとり が「内陸 ないりく 亜 あ 洲 しゅう 視野 しや 下 か 的 てき “新 あたらし 清史 きよし ”研究 けんきゅう 」で「『新 あたらし 清史 きよし 』は内陸 ないりく アジアという地理 ちり 的 てき 、文化 ぶんか 的 てき 概念 がいねん を政治 せいじ 的 てき 概念 がいねん に置 お き換 か えたことにより中国 ちゅうごく の多 た 民族 みんぞく 的 てき 国家 こっか の正統 せいとう 性 せい を批判 ひはん している」としていることからも、現在 げんざい の中国 ちゅうごく においては新 しん 清 しん 史 し の学術 がくじゅつ 的 てき 価値 かち は認 みと められつつも、その主張 しゅちょう には依然 いぜん として反対 はんたい する流 なが れに変化 へんか は無 な いようである[ 29] 。
(New Qing History も参照 さんしょう )
辛 からし 亥 い 革命 かくめい では、「中華民国 ちゅうかみんこく 」と呼称 こしょう されていたが[ 30] 、共和 きょうわ 勢力 せいりょく による政権 せいけん 獲得 かくとく が現実 げんじつ のものとなっていくのに伴 ともな い、支 ささえ 那 な の独立 どくりつ という理想 りそう 論 ろん は影 かげ を潜 ひそ め、清朝 せいちょう が1912年 ねん の段階 だんかい まで連合 れんごう していた「支 ささえ 那 な ・満 まん 洲 しゅう ・モンゴル ・チベット ・東 ひがし トルキスタン 」の範囲 はんい をそのまま枠組 わくぐ みとする「中国 ちゅうごく 」で、近代 きんだい 的 てき な国民 こくみん 国家 こっか の形成 けいせい が目指 めざ されることとなった。しかし、そのような議論 ぎろん はモンゴルやチベット、東 ひがし トルキスタンの人々 ひとびと の意思 いし とは無関係 むかんけい に決 き められており[ 20] 、実際 じっさい には漢 かん 民族 みんぞく との連携 れんけい を重視 じゅうし し始 はじ めた清朝 せいちょう に対 たい する反発 はんぱつ と諸 しょ 外国 がいこく の影響 えいきょう を受 う けて支 ささえ 那 な 地域 ちいき 以外 いがい では自立 じりつ の動 うご きがみられ、これらの地域 ちいき の再 さい 統合 とうごう は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の成立 せいりつ 後 ご に持 も ち越 こ される事 こと になる。
「中国 ちゅうごく 」「中華 ちゅうか 」は中華民国 ちゅうかみんこく および中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく において、それぞれの国号 こくごう となった。「中国 ちゅうごく 」「中華 ちゅうか 」という用語 ようご が持 も っていた「漢 かん 民族 みんぞく のアイデンティティ」という要素 ようそ は、「多 た 民族 みんぞく の仲直 なかなお りと統一 とういつ 」という要素 ようそ として再 さい 構成 こうせい され、多 た 民族 みんぞく の構成 こうせい 員 いん が主体 しゅたい となって建設 けんせつ した「中国 ちゅうごく 文化 ぶんか の優越 ゆうえつ 性 せい 」だけが共通 きょうつう 分母 ぶんぼ として落 お ち着 つ くようになった。そしてその持 も ち主 ぬし という意味 いみ の「華人 かじん 」「華僑 かきょう 」という呼称 こしょう も生 う まれた。
今日 きょう の中国 ちゅうごく では、漢 かん 民族 みんぞく 以外 いがい の数 すう 多 おお くの少数 しょうすう 民族 みんぞく が居住 きょじゅう しており、その数 かず は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 政府 せいふ が公式 こうしき に認定 にんてい しているものだけでも55を数 かぞ える[ 31] 。なお、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 憲法 けんぽう では漢 かん 民族 みんぞく を含 ふく む全 すべ ての民族 みんぞく を「中華 ちゅうか 民族 みんぞく 」と規定 きてい している[ 32] 。
本節 ほんぶし では、他 た 地域 ちいき からの呼称 こしょう の変遷 へんせん について記載 きさい する。これらの呼称 こしょう は、地理 ちり 的 てき な意味合 いみあ いだけではなく、中華 ちゅうか 王朝 おうちょう ・政権 せいけん の名 な を越 こ えた通史 つうし 的 てき な呼称 こしょう としても利用 りよう された。
ヘレニズム文明 ぶんめい の時代 じだい 、ギリシアからみて北西 ほくせい がヨーロッパ 、南東 なんとう がアジア 、南西 なんせい がアフリカ 、北東 ほくとう がスキティア と呼 よ ばれたが、このアジアのさらに東 ひがし (インダス川 がわ の東 ひがし )にインディアがあり、インディアとスキティアのさらに東 ひがし が「セリカ」とされていた。これは絹 きぬ (絲 いと )を意味 いみ する「セーリコン」(σηρικον)に由来 ゆらい し、いわゆる中国 ちゅうごく の地 ち をさしていた。絹 きぬ をもたらした中国 ちゅうごく の商人 しょうにん は「セール」(σ しぐま η いーた ρ ろー )(複数 ふくすう 形 がた :「セーレス」(σηρεσ, Seres))と呼 よ ばれ、「セーリコン」は英語 えいご やロシア語 ご などで「絹 きぬ 」を表 あらわ す言葉 ことば の語源 ごげん ともなっている。その後 ご 、「セリカ」は後述 こうじゅつ する「チーナ」に由来 ゆらい する「スィーン」が伝 つた わるとその系統 けいとう の呼称 こしょう に取 と って代 か わられた。
漢字 かんじ 文化 ぶんか 圏 けん 以外 いがい からは、古 ふる くは秦 はた に由来 ゆらい すると考 かんが えられるチーナ、シーナという呼称 こしょう が一般 いっぱん 的 てき に用 もち いられ、古代 こだい インド ではチーナスタンとも呼 よ んだ。これが仏典 ぶってん において漢 かん 訳 やく され、「秦 はた 」「支 ささえ 那 な 」「震 ふるえ 旦 だん 」「真 ま 丹 に 」などの漢字 かんじ をあてられる[ 33] 。この系統 けいとう の呼称 こしょう はインドを通 つう じて中東 ちゅうとう に伝 つた わってアラビア語 ご などの中東 ちゅうとう の言語 げんご ではSīn ( スィーン ) となる。また、更 さら に後 のち にはインドの言葉 ことば から直接 ちょくせつ ヨーロッパの言葉 ことば に取 と り入 い れられ、China ( チャイナ ) (英語 えいご )、Chine ( シーヌ ) (フランス語 ふらんすご )などの呼称 こしょう に変化 へんか した。日本 にっぽん でも「秦 はた 」に由来 ゆらい して、「支 ささえ 那 な 」が仏教 ぶっきょう 文献 ぶんけん では古 ふる くから利用 りよう されてきた。「支 ささえ 那 な 」は明治 めいじ 時代 じだい に入 はい ると、欧米 おうべい の Sinology の訳語 やくご として取 と り入 い れられ、中華 ちゅうか 王朝 おうちょう ・政権 せいけん の名 な を越 こ えた通史 つうし 的 てき な呼称 こしょう として昭和 しょうわ の中期 ちゅうき まで利用 りよう された。
最初 さいしょ の統一 とういつ 王朝 おうちょう ながら短命 たんめい に終 お わった秦 はた 王朝 おうちょう に代 か わって400年間 ねんかん に渡 わた って中国 ちゅうごく を支配 しはい した漢 かん 王朝 おうちょう (前漢 ぜんかん と後 こう 漢 かん )の時代 じだい に、漢 かん 民族 みんぞく を中心 ちゅうしん とする中国 ちゅうごく の版図 はんと は定着 ていちゃく していった。そのため、「漢 かん 民族 みんぞく 」や「漢字 かんじ 」のような言葉 ことば に漢 かん の字 じ が使 つか われている。また、日本 にっぽん では「から」の音 おと を「漢 かん 」の字 じ にあてる例 れい もある。
7世紀 せいき 末 すえ から8世紀 せいき 初頭 しょとう の突厥 (第 だい 二 に 突厥帝国 ていこく )の人々 ひとびと が残 のこ した古 こ テュルク文字 もじ の碑文 ひぶん において中国 ちゅうごく の人々 ひとびと を指 さ して使 つか われている呼称 こしょう に「タブガチュ (タブガチ、Tabgach、Tabγ がんま ač)」があり、北 きた 中国 ちゅうごく に北 きた 魏 たかし を建 た てた鮮卑 の拓 つぶせ 跋 ばつ 部 ぶ 、拓 つぶせ 跋 ばつ 氏 し に由来 ゆらい すると考 かんが えられている(白鳥庫吉 しらとりくらきち やポール・ペリオ らの説 せつ 。桑原 くわばら 隲蔵 は唐 から 家子 いえこ に由来 ゆらい するとの説 せつ 、つまり唐 から 由来 ゆらい 説 せつ を唱 とな えた)。
タブガチュの系統 けいとう の呼称 こしょう は、1069年 ねん のクタドゥグ・ビリグ におけるタフカチやTamghaj、Tomghaj、Toughajなど突厥以後 いご も中央 ちゅうおう アジア で広 ひろ く使 つか われた。1220年 ねん - 1224年 ねん に西方 せいほう を旅 たび した丘 おか 長春 ちょうしゅん (長春 ちょうしゅん 真人 しんじん )は「桃 もも 花石 はないし 」と記録 きろく している。11世紀 せいき - 12世紀 せいき のカラハン朝 あさ (Qarakhanid dynasty ) においては数 すう 人 にん の可 か 汗 あせ がTabghach (Tavghach) という名 な である。しかしモンゴル帝国 ていこく の時代 じだい 前後 ぜんこう に後述 こうじゅつ するキタイに取 と って代 か わられた。
なお、古 こ テュルク文字 もじ 碑文 ひぶん 以前 いぜん 、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の歴史 れきし 家 か テオフィラクトス・シモカッタ の7世紀 せいき 前半 ぜんはん に書 か かれたとみられる突厥による柔 やわ 然 しか 滅亡 めつぼう (552年 ねん )関連 かんれん の記事 きじ にタウガス (Taugas) との記載 きさい があり、これも同 どう 系統 けいとう の呼称 こしょう と思 おも われる。記事 きじ が書 か かれた時期 じき は隋 ずい 末 すえ - 唐 から 初期 しょき と思 おも われ、柔 やわ 然 しか の滅亡 めつぼう は西 にし 魏 たかし から北 きた 周 あまね 、東 あずま 魏 たかし から北 きた 斉 ひとし への禅譲 ぜんじょう と同 どう 時期 じき となる。
江戸 えど 時代 じだい 以前 いぜん の日本 にっぽん の人々 ひとびと は、しばしば遣唐使 けんとうし を通 つう じて長 なが く交渉 こうしょう を持 も った唐 とう の国号 こくごう をもって中国 ちゅうごく を呼 よ んだ。日本 にっぽん の古語 こご では、外国 がいこく を意味 いみ する「から」の音 おと を「唐 とう 」の字 じ にあてる例 れい も多 おお い。中国 ちゅうごく を「唐土 とうど (もろこし)」と呼称 こしょう したり、日本 にっぽん に来航 らいこう する中国 ちゅうごく 商人 しょうにん は「唐人 とうじん (からびと、とうじん)」と呼 よ ばれ、文語 ぶんご の中国語 ちゅうごくご を「漢文 かんぶん 」というのに対 たい して口語 こうご の中国 ちゅうごく 語 ご は「唐 とう 語 ご (からことば)」と呼 よ ばれた。また、かつて東南 とうなん アジア (台湾 たいわん 含 ふく む)などの華人 かじん も祖国 そこく を「唐山 からやま 」と呼 よ んだ。
11世紀 せいき 頃 ごろ に中国 ちゅうごく の北辺 ほくへん を支配 しはい したキタイ(契 ちぎり 丹 に )人 にん の遼 りょう 王朝 おうちょう から、12世紀 せいき から13世紀 せいき の、モンゴル高原 こうげん のモンゴル人 じん は、中国 ちゅうごく をキタイ と呼 よ び、モンゴル帝国 ていこく による征服 せいふく 活動 かつどう の結果 けっか として、内陸 ないりく ユーラシアのテュルク語 ご や東 ひがし スラヴ語 ご などでは、中国 ちゅうごく のことをキタイに基 もと づく呼称 こしょう で呼 よ ぶようになった。13世紀 せいき 後半 こうはん に、元朝 がんちょう 統治 とうち 下 か の中国 ちゅうごく をマルコ・ポーロ は、北 きた 中国 ちゅうごく のことをカタイという名 な で記録 きろく した。ロシア やウクライナ 、ブルガリア 、カザフスタン では現在 げんざい も中国 ちゅうごく のことを Китай (Kitaj) 、ウズベキスタン ではXitoyと呼 よ んでいる。西 にし ヨーロッパ にはCathayとして伝 つた わり、キャセイパシフィック航空 こうくう の社名 しゃめい などに使 つか われているが、Chinaに比 くら べるとあまり広汎 こうはん に用 もち いられる呼称 こしょう ではない。
^ 例 たと えば軍人 ぐんじん 勅 みことのり 諭 さとし には、「昔 むかし 神武 じんむ 天皇 てんのう 自 みずか ら大伴 おおとも 物部 ものべ の兵 へい どもを率 りつ ゐ、中国 ちゅうごく のまつろはぬものどもを討 う ち平 たい らげ給 きゅう ひ…」とある。
^ 西域 せいいき 都 みやこ 護 まもる の領域 りょういき が「中国 ちゅうごく 」と認識 にんしき されていたかどうかについては別途 べっと 出典 しゅってん を要 よう する
^ そもそも中国 ちゅうごく 大陸 たいりく には近代 きんだい まで「国家 こっか 」という概念 がいねん はなく、皇帝 こうてい は中華 ちゅうか 思想 しそう のもと自 みずか らを地上 ちじょう で唯一 ゆいいつ の天子 てんし だと考 かんが えた。そして、各 かく 時代 じだい において民衆 みんしゅう は、その圧制 あっせい から逃 のが れるために万里 ばんり の長城 ちょうじょう を越 こ えて周辺 しゅうへん 地域 ちいき に移 うつ り住 す み、それを中央 ちゅうおう が再度 さいど 取 と り込 こ み膨張 ぼうちょう していったのが中国 ちゅうごく (概念 がいねん )であり、その過程 かてい において近代 きんだい になって注目 ちゅうもく され始 はじ めたのがチベットやウイグル、モンゴルなどで見 み られる民族 みんぞく 宗教 しゅうきょう の問題 もんだい である。
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^ 『塩 しお 鉄 てつ 論 ろん 』「五 ご 二 に 功業 こうぎょう について」p250で南越 なんごし 王国 おうこく の征服 せいふく のくだりで、「南越 なんごし は中国 ちゅうごく に従 したが った」と記載 きさい がある
^ 邦訳 ほうやく 『塩 しお 鉄 てつ 論 ろん 』「十 じゅう 四 よん 物価 ぶっか の安定 あんてい について(輕重 けいちょう 第 だい 十 じゅう 四 よん )」p76-77(辺境 へんきょう の郡 ぐん (邊 あたり 郡 ぐん )が中國 ちゅうごく に対置 たいち されている。
辺 あたり 郡 ぐん とは辺境 へんきょう の郡 ぐん のことであり、郡 ぐん とは行政 ぎょうせい 機構 きこう の郡 ぐん であるから、辺 あたり 郡 ぐん とは武 たけ 帝 みかど が新規 しんき に征服 せいふく した「中国 ちゅうごく 」の外部 がいぶ の地域 ちいき であると考 かんが えられる。「十 じゅう 六 ろく 領土 りょうど の拡張 かくちょう について(地 ち 廣 ひろ 第 だい 十 じゅう 六 ろく )」p85でも辺境 へんきょう の郡 ぐん は中国 ちゅうごく に対置 たいち されている。
他 た に「四 よん 四 よん 秦 はた の評価 ひょうか について(誅秦第 だい 四 よん 十 じゅう 四 よん )」p216などがある。
^ 邦訳 ほうやく 『塩 しお 鉄 てつ 論 ろん 』「二 に 農業 のうぎょう に力 ちから を入 い れることについて(力 ちから 耕 こう 第 だい 二 に )」p12-13、「六 ろく 復古 ふっこ について(復古 ふっこ 第 だい 六 ろく )p33」、「十 じゅう 六 ろく 領土 りょうど の拡張 かくちょう について」p88、など
^ 「三 さん 七 なな 礼 れい をとうとぶことについて(崇 たかし 禮 れい 第 だい 三 さん 十 じゅう 七 なな )」p189
^ 東洋文庫 とうようぶんこ 『塩 しお 鉄 てつ 論 ろん 』39章 しょう p199の訳 わけ では「中 ちゅう 夏 なつ 」
^ 「四 よん 三 さん 和議 わぎ をむすぶことについて(結 ゆい 和 わ 第 だい 四 よん 十 じゅう 三 さん )」p211
^ 「五 ご 二 に 功業 こうぎょう について(論功 ろんこう 第 だい 五 ご 十 じゅう 二 に )」p218「今 いま 、漢 かん の領土 りょうど は広 ひろ く(今 こん 以漢國 こく 之 の 大 だい )」
^ 新 しん 唐 とう 書 しょ 卷 まき 215上 じょう 突厥上 じょう , 6023頁 ぺーじ
^ 新 しん 唐 から 書巻 しょかん 220列伝 れつでん 第 だい 145高 だか 麗 うらら 伝 でん に「遼東 りゃおとん 故 こ 中國 ちゅうごく 郡 ぐん 縣 けん 」(遼東 りゃおとん は今 いま は高句麗 こうくり の領土 りょうど であるが嘗 かつ ては中国 ちゅうごく の郡 ぐん 県 けん であった)という文章 ぶんしょう があり、明 あかり 史 し 巻 まき 320列伝 れつでん 第 だい 209「外国 がいこく 二 に /安 やす 南 みなみ 」の記載 きさい にも「安 あん 南本 みなみもと 中國 ちゅうごく 地 ち 」(安 やす 南 みなみ (ベトナム社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく の中 なか 北部 ほくぶ )は、もとは中国 ちゅうごく の地 ち であった)とある。
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^ この訳語 やくご は、「中国 ちゅうごく 」という言葉 ことば と一致 いっち しない、という見解 けんかい があるが、新 しん 唐 とう 書 しょ 列傳 れつでん 第 だい 146上 じょう /西域 せいいき 上 じょう /天竺 てんじく 國 こく には、当時 とうじ のインドの用語 ようご 「シナ」を唐 とう 側 がわ では「中国 ちゅうごく 」と理解 りかい していた用例 ようれい が残 のこ っている。唐 とう から当時 とうじ 北 きた インドを支配 しはい していたヴァルダナ朝 あさ マガダ国 こく に使者 ししゃ が送 おく られ、唐 から 使 つかい を迎 むか えたマガダ王 おう が家臣 かしん に「いにしえよりマハーチーナ(大 だい シナという意味 いみ )の使者 ししゃ がわが国 くに に来 き たことはあったのか?」と問 と い、家臣 かしん が「ありません」と回答 かいとう した文章 ぶんしょう に続 つづ いて、「戎 えびす (えびす)の言葉 ことば では中国 ちゅうごく をマハーチーナ為 な す」との解説 かいせつ が付 ふ されている。原文 げんぶん は以下 いか 「「自 じ 古 ふる 亦 また 有 ゆう 摩 ま 訶震旦 だん 使者 ししゃ 至 いたり 吾 われ 國 こく 乎?」皆 みな 曰:「無 む 有 ゆう 。」戎 えびす 言 げん 中國 ちゅうごく 為 ため 摩 ま 訶震旦 だん 」