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黄河こうが

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黄河こうが
蘭州における黄河の流れ
あららぎしゅうにおける黄河こうがなが
くに 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
しゅう 青海あおみしょう, 四川しせんしょう, 甘粛かんせいしょう, やすしなつかいぞく自治じち, 内モンゴル自治うちもんごるじち, 山西さんせいしょう, 陝西せんせいしょう, 河南かなんしょう, 山東さんとうしょう
支流しりゅう
 - ひだり支流しりゅう 汾河ほか多数たすう支流しりゅうあり
 - みぎ支流しりゅう 洮河中国語ちゅうごくごばん, 渭水ほか多数たすう支流しりゅうあり
源流げんりゅう バヤンカラ山脈さんみゃく
 - 所在地しょざいち 玉樹たまきチベットぞく自治じちしゅう, 青海あおみしょう
 - 標高ひょうこう 4,800m (15,748ft)
 - 座標ざひょう 北緯ほくい3429ふん31びょう 東経とうけい9620ふん25びょう / 北緯ほくい34.49194 東経とうけい96.34028 / 34.49194; 96.34028
合流ごうりゅう 渤海
 - 所在地しょざいち 墾利けん, 山東さんとうしょう
 - 標高ひょうこう 0m (0ft)
 - 座標ざひょう 北緯ほくい3746ふん48びょう 東経とうけい11915ふん00びょう / 北緯ほくい37.78000 東経とうけい119.25000 / 37.78000; 119.25000座標ざひょう: 北緯ほくい3746ふん48びょう 東経とうけい11915ふん00びょう / 北緯ほくい37.78000 東経とうけい119.25000 / 37.78000; 119.25000
なが 5,464km (3,395mi)
流域りゅういき 753,000 km² (290,735 sq mi)
流量りゅうりょう
 - 平均へいきん 2,571 m3/s (90,794 cu ft/s)
中国ちゅうごく北部ほくぶながれる黄河こうがりゅう
黄河こうが流域りゅういき

黄河こうが(こうが、拼音: Huánghé、ホワンホー)は、中国ちゅうごく北部ほくぶながれ、渤海へとそそかわである。全長ぜんちょうやく5,464キロメートルで、中国ちゅうごくでは長江ながえ揚子江ようすこう)にいで2番目ばんめながく、アジアでは長江ちょうこうエニセイがわいで3世界せかいでは6番目ばんめながさである。

なお、かわという漢字かんじ本来ほんらい固有名詞こゆうめいしであり、中国ちゅうごくで「かわ」といたときは黄河こうがす。これにたいし、「こう」といたときは長江ながえす。現在げんざい中国ちゅうごく文明ぶんめい直接ちょくせつ母体ぼたいである黄河こうが文明ぶんめいはぐくんだかわであり、中国ちゅうごく史上しじょうにおいて長江ながえなら巨大きょだい存在そんざいかんかわである。

地理ちり[編集へんしゅう]

上流じょうりゅう[編集へんしゅう]

青海あおみしょうながれる黄河こうが上流じょうりゅう
臨夏かいぞく自治じちしゅう黄河こうが上流じょうりゅう本流ほんりゅうもうけられているりゅうかいダム
黄河こうが中流ちゅうりゅうつぼこう瀑布ばくふ中国語ちゅうごくごばん山西さんせいしょうよしけん陝西せんせいしょうむべかわけんあいだ
甘粛かんせいしょうあららぎしゅう
黄河こうが下流かりゅう山東さんとうしょうすみ南市みなみいちかるらくこう浮橋うきはし遠方えんぽうおかかささぎさん中国語ちゅうごくごばん

黄河こうが流域りゅういき地理ちりてきにはいくつかにおおきく区分くぶんできる。チベット高原こうげん黄土おうど高原こうげんオルドスかわ」、華北かほく平原へいげんである。黄河こうが玉樹たまきチベットぞく自治じちしゅうひがしはしちか青海あおみしょうバヤンカラ山脈さんみゃく源流げんりゅうがあり、7つのしょうと2つの自治じちってながれる。バヤンカラ山脈さんみゃくはしはっした黄河こうがは、チベット高原こうげんなかおおきく蛇行だこうしながらきたへとながれ、青海あおみしょう三江みえげん国立こくりつ自然しぜん保護ほごうちにあるラムサール条約じょうやく登録とうろくである扎陵みずうみ中国語ちゅうごくごばん[1]鄂陵みずうみ中国語ちゅうごくごばん[2]ゾルゲ湿地しっち中国語ちゅうごくごばん西側にしがわ黄河こうがくびきょく湿地しっち一帯いったい[3]て、青海あおみしょう西部せいぶ黄土おうど高原こうげんなかはいる。甘粛かんせいしょうはいると甘粛かんせいさんかいばれるりゅうかいしおなべかいはちばんかいながれる。りゅうかいからはちばんかいまでは70キロほどしかないが、この3つの峡谷きょうこくにはそれぞれりゅうかい水力すいりょく発電はつでんしょ(1969ねん完成かんせい)・しおなべかい水力すいりょく発電はつでんしょ(1962ねん完成かんせい)・はちばんかい水力すいりょく発電はつでんしょ中国語ちゅうごくごばん(1980ねん完成かんせい)があり、発電はつでんおよび周辺しゅうへん地域ちいき灌漑かんがい利用りようされている[4]

この地域ちいきまでは黄河こうが基本きほんてきふかたにをなしながらながれ、灌漑かんがいなどにみず利用りようすることも中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつまではほぼおこなわれてこなかったが、この3つの峡谷きょうこくけたところで黄河こうがはじめてけた土地とちへとながむ。あららぎしゅう盆地ぼんちである。あららぎしゅう盆地ぼんち中心ちゅうしん都市としであるあららぎしゅう黄河こうがでもっとも上流じょうりゅう位置いちする大都市だいとしであり、黄河こうが渡河とか地点ちてんから発達はったつした都市としで、人口じんこうは300まんにん以上いじょうのぼり、中国ちゅうごく北西ほくせい中心ちゅうしん都市としである。あららぎしゅうからきたへときをえた黄河こうがけてしばらくするとふたたびったがけ周囲しゅういかこまれ、やすしなつはいると青銅せいどうかいばれる渓谷けいこくへとながむ。この渓谷けいこくにもダムが建設けんせつされ、やすしなつゆたかな農業のうぎょう生産せいさんささえている。

青銅せいどうかいけると、黄河こうがやすしなつ広大こうだい盆地ぼんちへとながれこむ。銀川ぎんかわ平原へいげん中国語ちゅうごくごばんやすしなつ平原へいげんともいう)は黄河こうがのほとりにひろがるひろオアシスであり、「天下てんか黄河こうがとみやすしなつ」(天下てんか黄河こうがやすしなつます)という言葉ことばどおり、ふるくからその肥沃ひよくさとみず豊富ほうふさでられ、「ふさがじょう江南こうなん」ともばれる。西にしなつ王朝おうちょうもこの銀川ぎんかわ本拠地ほんきょちいた。この地域ちいきかいぞく比較的ひかくてきおおく、やすしなつかいぞく自治じち形成けいせいしている。銀川ぎんかわ平原へいげん農業のうぎょう生産せいさんりょくたかいため、近年きんねんでは人口じんこうあつたかまっているやすしなつ南部なんぶ黄土おうど高原こうげん地帯ちたいから銀川ぎんかわ平原へいげんへの生態せいたい移民いみんおこなわれている[5]。このたか農業のうぎょう生産せいさんりょくささえているのは豊富ほうふ黄河こうがみずである。この地域ちいき黄河こうがからの直接ちょくせつ引水ひきのみず可能かのうであり、青銅せいどうかい灌区中国語ちゅうごくごばんばれる一大いちだい灌漑かんがい地域ちいきとなっている。この地域ちいきでの灌漑かんがい用水ようすいは、使用しようふたた黄河こうがへともどされる。

銀川ぎんかわ平原へいげんけると、黄河こうがオルドス高原こうげんなかをなおも北上ほくじょうしたのち、内モンゴル自治うちもんごるじちバヤンノールひがしへときをえ、つつみあたまさき今度こんどみなみへときをえる。この地域ちいきは「かわ」とばれ、屈曲くっきょく北端ほくたん平原へいげんかわ平原へいげんばれている。このかわ平原へいげん黄河こうがからの直接ちょくせつ引水ひきのみず可能かのうであり、バヤンノールきずかれた三盛みつもりこうダムから灌漑かんがい用水ようすい供給きょうきゅうされ、かわ套灌中国語ちゅうごくごばんばれる一大いちだい灌漑かんがい地域ちいきとなっている。この地域ちいきではコムギトウモロコシがおもに栽培さいばいされる。かわ套灌での灌漑かんがい用水ようすい黄河こうがへともどされず、がらすはりもとうみというみずうみへとながされる。よび和浩かずひろとくさきあたまどう拐で黄河こうがながれみなみへとてんずるが、このあたまどう拐までが黄河こうが上流じょうりゅうとされる[6]

中流ちゅうりゅう[編集へんしゅう]

あららぎしゅうから渭水との合流ごうりゅう地点ちてんまでは、黄河こうが漢字かんじの「几」ののようなかたちおおきく屈曲くっきょくする。この部分ぶぶんは「かわ套」(オルドス・ループ、Ordos Loop)とも黄河こうが屈曲くっきょくともばれる。この屈曲くっきょく北東ほくとうはしまでが上流じょうりゅうで、それよりみなみ中流ちゅうりゅうということになる。あたまどう拐からは黄河こうがはほぼみなみかい、黄土おうど高原こうげんのただなかをながれるが、黄河こうが土砂どしゃ供給きょうきゅうのかなりの部分ぶぶんはここからもたらされる。黄河こうがそのものの浸食しんしょくのほか、黄土おうど高原こうげん各地かくちながれる支流しりゅうや、せきちゅう盆地ぼんち中国語ちゅうごくごばんから流入りゅうにゅうする渭水も流域りゅういき黄土おうど大量たいりょうふくんでいるためである。この地域ちいきでは黄河こうがけわしい黄土おうど高原こうげんいたふかたにそこながれるため、黄河こうがみずはほぼ使用しよう不可能ふかのうである。あたまどう拐のすぐみなみには1999ねんまんいえ寨ダム中国語ちゅうごくごばん建設けんせつされ、灌漑かんがい土砂どしゃ調節ちょうせつなどにおおきな役割やくわりたしている。この地域ちいきでは黄河こうが西にし陝西せんせいしょうひがし山西さんせいしょうとのしょうさかいをなし、西にしからはていかわ中国語ちゅうごくごばんのべかわ中国語ちゅうごくごばんひがしからは汾河などがながれこむ。

陝西せんせいしょう潼関西にしからながれてきた渭水合流ごうりゅうしてほぼ直角ちょっかくながれれ、今度こんどはまっすぐひがしへとかう。ひがしへとかった黄河こうがは、三門さんもんかいダム小浪こなみそこダム中国語ちゅうごくごばんといったダムをけ、洛陽らくよう北方ほっぽう山岳さんがく地帯ちたいけて、広大こうだい華北かほく平原へいげんへとながむ。ここからはじまる黄河こうがしも流域りゅういき中原なかはらばれる。この黄河こうが文明ぶんめい発祥はっしょうであり、中国ちゅうごく文明ぶんめい中核ちゅうかく地域ちいきとして過去かこ歴代れきだい王朝おうちょうかれた。ていしゅうきた位置いちする花園はなぞのこう中国語ちゅうごくごばんまでが黄河こうがなか流域りゅういきぞくし、ここからは下流かりゅうとされる[7]ていしゅう一部いちぶ黄河こうが沿って東西とうざいはし幹線かんせんである隴海せんと、黄河こうがえて南北なんぼくはし幹線かんせんであるきょうひろせん結節けっせつてんであり、交通こうつう要所ようしょとしてさかえてきた。また、ていしゅうぞくする鞏義で、みなみからながれてきたらくかわわせる。

下流かりゅう[編集へんしゅう]

黄河こうがていしゅうけ、きたそうであった開封かいふう付近ふきんひがしから北東ほくとうへときをえ、あとは河口かこうまでほぼ北東ほくとうながれる。この部分ぶぶん黄河こうがは、上流じょうりゅう黄土おうど高原こうげんながんできた大量たいりょう黄土おうどふくまれている。黄河こうがながれおくする土砂どしゃ年間ねんかん16おくトンとわれ、この土砂どしゃ堆積たいせきによって、下流かりゅう天井川てんじょうがわとなる。このため、華北かほく平原へいげんには黄河こうがにそそぎ支流しりゅうはなく、本流ほんりゅうのぞいては華北かほく平原へいげん黄河こうが流域りゅういきとは厳密げんみつにはえない。黄河こうが堤防ていぼう分水嶺ぶんすいれいとなるため、華北かほく平原へいげん河川かせん黄河こうが以北いほくうみかわ黄河こうが以南いなん淮河流域りゅういきぞくする。しかし一方いっぽうで、うみかわ・淮河ともに黄河こうがかわどう変遷へんせん後述こうじゅつ)によって黄河こうが本流ほんりゅうとなったことがあり、また黄河こうがによってはこばれてきた黄土おうど華北かほく平原へいげんそのものを形成けいせいし、平原ひらはら全域ぜんいきおおっていることからかんがえても、華北かほく平原へいげん全域ぜんいき黄河こうが影響えいきょうにある地域ちいきであるといえる。また、山東さんとうしょう黄河こうが以北いほく位山くらいやま灌区中国語ちゅうごくごばんばれ、天井川てんじょうがわとなっている黄河こうがから灌漑かんがい用水ようすい引水ひきのみずして農業のうぎょういとなまれている。この位山くらいやま灌区は面積めんせきてきには青銅せいどうかいかわ套両灌区とほぼおな面積めんせきであるが、気候きこうてきふゆ小麦こむぎ裏作うらさく二毛作にもうさく可能かのうであり、黄河こうがみず供給きょうきゅう逼迫ひっぱくするなかでもその特性とくせいから灌漑かんがい区域くいき拡大かくだいしている。黄河こうが山東さんとうしょう西部せいぶにおいてだい運河うんが接続せつぞくするが、この付近ふきんにある東平とうへいはかつて黄河こうが下流かりゅうでは非常ひじょうめずらしい、黄河こうがなが水系すいけいをなしていた。しかしだい世界せかい大戦たいせんかわどう安定あんていともな黄河こうがかわどう土砂どしゃ堆積たいせきしたことで高低こうていがなくなり、現在げんざいでは黄河こうが氾濫はんらん遊水池ゆうすいちとしての役割やくわりたすのみとなっている。だい運河うんが自体じたい黄河こうがよりもひくく、だい運河うんが沿ってはしみなみ水北すいほく調ちょう導水どうすいひがしせん黄河こうがかわどうをトンネルでくぐってきたへとかう。

だい運河うんが接続せつぞくしたのち、黄河こうが山東さんとうしょうしょうすみ南市みなみいち北側きたがわとおり、渤海わんそそぐ。上流じょうりゅうからながれてくる膨大ぼうだいりょう土砂どしゃ堆積たいせきにより、山東さんとうしょう河口かこう付近ふきんには広大こうだいデルタ地帯ちたい形成けいせいしている。黄河こうがからうみ流入りゅうにゅうする土砂どしゃりょうは、としに16おくトン[8] から17おくトン以上いじょうにものぼる[9]。渤海は黄海こうかいぞくするが、黄海こうかい黄河こうがからなが黄土おうどなどによって海面かいめん黄色きいろにごってえることからつけられたである。黄河こうがデルタ中国語ちゅうごくごばん湿地しっちぐんは2013ねんにラムサール条約じょうやく登録とうろくとなった[10]

みず文学ぶんがくてき特徴とくちょう[編集へんしゅう]

黄河こうが上流じょうりゅう黄土おうどのただなかをながれるが、この黄土おうどシルトであり、粒子りゅうしこまかいため浸食しんしょくされやすい。そのため、黄河こうがには膨大ぼうだい土砂どしゃながみ、黄河こうがという名称めいしょうのもととなった。

黄河こうがみず文学ぶんがくてき特徴とくちょうとして、みずすくなくすなおおい、みずすな分布ぶんぷ均等きんとうしも流域りゅういき天井川てんじょうがわ川床かわどこ岸辺きしべよりたかくなっている)で洪水こうずい災害さいがい頻繁ひんぱんこるというてんがある[11]土砂どしゃりょうかんしては年間ねんかん16おくトンにのぼり、世界一せかいいち土砂どしゃ含有がんゆうりょうつ。この土砂どしゃりょうだい2ガンジスがわとし14.5おくトン)とかたならべ、だい3アマゾン川あまぞんがわ年間ねんかん9おくトンにぎないことからしても、ほかの河川かせんからは冠絶かんぜつしている。しかも、黄河こうが年間ねんかん水量すいりょうは468おくm3ぎず、これはガンジスがわ(3,710おくm3)の8ぶんの1であり、土砂どしゃ含有がんゆうりつにおいては世界せかいでもっともたかだい河川かせんである[8]

このため、黄河こうがにおいては「みずいちせきどろろく[12]ばれるほどおおくの土砂どしゃふくまれており、流量りゅうりょうすくなさと土砂どしゃそのもののおおさによって下流かりゅう堆積たいせきし、かわどう変遷へんせん要因よういんとなった。この土砂どしゃ流域りゅういき建設けんせつされたダムぐんにも堆積たいせきし、とく黄河こうが本流ほんりゅうはじめて建設けんせつされた大型おおがたダムである三門さんもんかいダムにおいては、この問題もんだい深刻しんこくなものとなった。1960ねん完成かんせい急速きゅうそくにダムみずうみ土砂どしゃ沈殿ちんでんし、1ねんほどで潼関にいたる広大こうだい地域ちいき土砂どしゃ堆積たいせきして、せきちゅう盆地ぼんち主要しゅよう洪水こうずい危機ききにさらされたため、2改修かいしゅうによって土砂どしゃ排出はいしゅつ機能きのう改善かいぜん余儀よぎなくされたのである。こうした堆積たいせき土砂どしゃ黄河こうがぜんダムに共通きょうつうしており、洪水こうずい抑制よくせい機能きのうがかなり減衰げんすいした状態じょうたいとなっている。小浪こなみそこダムにおいては、堆積たいせき土砂どしゃながすための放水ほうすいがたびたびおこなわれている[13]黄河こうがのこのにごりは恒常こうじょうてきなものであり、あてのないことをただひたすらつづける「ひゃくねん河清かせいを俟つ」という故事こじ成語せいごがあるほどである。562ねんには黄河こうがすみすいがともにんだため、当時とうじきたひとし王朝おうちょう年号ねんごうを「河清かせい」へと変更へんこうした[14]

黄河こうが土砂どしゃ蓄積ちくせき現在げんざい進行しんこうちゅうであり、水量すいりょう低下ていかによって土砂どしゃ運搬うんぱん能力のうりょく非常ひじょうちたためにむしろ加速かそくする傾向けいこうがある。黄河こうが流域りゅういきにおいては、だい規模きぼ堤防ていぼうつつみないにおいて水路すいろ周辺しゅうへんふたた土砂どしゃ蓄積ちくせきして天井川てんじょうがわし、天井川てんじょうがわなか天井川てんじょうがわ存在そんざいするといった状態じょうたいにまでなっている[15]。こうした土砂どしゃ流出りゅうしゅつおよび蓄積ちくせきふせぐためにさまざまな対策たいさくられている。土砂どしゃ流出りゅうしゅつのもっともおおきい黄土おうど高原こうげんにおいては、耕作こうさく植林しょくりんして森林しんりん造成ぞうせい土砂どしゃ流出りゅうしゅつ抑制よくせいする、いわゆる退すさたがやせかえはやし政策せいさくおこなわれている。また、上記じょうき小浪こなみそこダムのだい放水ほうすいはダムの堆積たいせき土砂どしゃのほか、三門さんもんかいダムやまんいえ寨ダムとも連携れんけいして放水ほうすいすることによって下流かりゅうかわどう堆積たいせきした土砂どしゃ一気いっきながすことも意図いとしている。

ながれ変遷へんせん治水ちすい[編集へんしゅう]

かく時期じきにおける下流かりゅうりゅう

黄河こうが流域りゅういき膨大ぼうだい土砂どしゃ堆積たいせきによって天井川てんじょうがわとなっているため、古来こらいよりたびたび氾濫はんらんし、おおきくながれえてきた。それらのもとりゅう黄河こうがみちばれている。黄河こうが治水ちすい歴代れきだい王朝おうちょう重大じゅうだい関心事かんしんじのひとつであった。古代こだいには現代げんだいかわどうくらべてかなり西にしりをながれており、渤海北部ほくぶ天津てんしん付近ふきん河口かこうがあったが、紀元前きげんぜん602ねん記録きろくされている最初さいしょかわどう変遷へんせんこり、黄河こうがきゅうかわどう現代げんだいかわどうのほぼちゅうあいだながれるようになった。春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだい沿岸えんがん諸国しょこく堤防ていぼう建設けんせつしたが、この堤防ていぼう黄河こうが本流ほんりゅうから十分じゅうぶん距離きょりをもって建設けんせつされており、氾濫はんらんしても堤防ていぼうないにてある程度ていど吸収きゅうしゅうすることが可能かのうであったため、黄河こうがはややおさまっていた。前漢ぜんかん時代じだいはいると、紀元前きげんぜん132ねん濮陽において黄河こうが決壊けっかいした。この決壊けっかいはそれまでられていた黄河こうが以北いほく河北かほく平野へいやにおける氾濫はんらんではなく、黄河こうが南側みなみがわ決壊けっかいして淮河へとながむものであり、当時とうじ経済けいざい中心ちゅうしんのひとつであった黄河こうが・淮河あいだ平野へいや(淮北平野へいや)に甚大じんだい被害ひがいをもたらした。この決壊けっかいは23ねん紀元前きげんぜん109ねんにふさがれたものの、以後いご黄河こうが氾濫はんらんかえすようになった。

これをふせぐため、紀元前きげんぜん7ねん賈譲中国語ちゅうごくごばんが「かわさく」をあらわした。これは黄河こうが治水ちすいさくとして、上策じょうさくかわどう変更へんこうちゅうさく分流ぶんりゅう下策げさくげんかわどう堤防ていぼうのかさげとしたもので、このあんは賈譲さんさくとしてられ[16]以後いご黄河こうが治水ちすいあん基礎きそとなるものだった。しかし、前漢ぜんかん王朝おうちょうはすでに衰退すいたいしており、このあん実行じっこううつ国力こくりょくはすでにうしなわれていた。

しん王朝おうちょう時代じだい11ねんにはついに決壊けっかいしてかわどうがさらにひがしへとてんじ、現在げんざいかわどうよりややきたをほぼげんかわどう並行へいこうするようにながれるようになった。この氾濫はんらん決壊けっかい黄河こうが流域りゅういき甚大じんだい被害ひがいあたつづけたが、69ねんから70ねんにかけてこうかんおうけいによる治水ちすい工事こうじおこなわれ、黄河こうが安定あんていもどした。このおうけい治水ちすいさくは2てんからなり、ひとつは華北かほく平野ひらの当時とうじもっとひくく、なおかつ渤海へ最短さいたん距離きょり到達とうたつするかわどう選択せんたくすることで勾配こうばいをつけ土砂どしゃながしやすくすることと、河北かわきた平野へいやへの分流ぶんりゅうもう黄河こうがいきおいをそぐことを根幹こんかんとしていた。このあんは60ねんほどまえ提案ていあんされた賈譲の上策じょうさくおよびなかさくとほぼ一致いっちするものだった。この治水ちすい効果こうか劇的げきてきなもので、これ以降いこう黄河こうがとう時代じだいにいたるまで800ねん以上いじょうほぼ安定あんていしたままで推移すいいし、かわどう変遷へんせんにいたってはきたそう時代じだい1034ねんにいたるまできなかった。このかわどう安定あんてい理由りゆうとしては、おうけい治水ちすい計画けいかく非常ひじょうすぐれたものであったことと、もっとも土砂どしゃ流出りゅうしゅつりょうおおなか流域りゅういき黄土おうど高原こうげんが、中国ちゅうごく王朝おうちょう統治とうち能力のうりょく減退げんたいによって北方ほっぽう遊牧民ゆうぼくみんがこの地域ちいき進出しんしゅつ牧草ぼくそうしたことで土砂どしゃ流出りゅうしゅつがある程度ていど抑制よくせいされたことがあげられる。このため、ふたた黄土おうど高原こうげん農民のうみん進出しんしゅつ耕地こうちいちじるしくなったとうだい以降いこう黄河こうが洪水こうずい徐々じょじょ増加ぞうかしていった。

きたそうはいると、黄河こうがふたたあばがわとなり、1034ねん決壊けっかいからはほぼ10ねんごとにかわどう変転へんてんする事態じたいとなった。このかわどう変遷へんせんは、かん時代じだいまでの変遷へんせん徐々じょじょひがしかうかたちだったのとは反対はんたいに、かわどう徐々じょじょ西にしへとかい、古代こだいかわどうのようにきたへとながれる傾向けいこうしめした。しかし、朝廷ちょうていないでは黄河こうがかわどうひがしけるきたける対立たいりつし、治水ちすい遅々ちちとしてすすまなかった。

黄河こうがかわどうはこのときまではすべて渤海にそそいでいたが、みなみそう初期しょきにこれをおおきくえる出来事できごときた。1128ねんみなみそう将軍しょうぐんであるもりたかしきむぐん南下なんかふせぐため、黄河こうが南岸なんがん堤防ていぼう決壊けっかいさせたのである。これにより黄河こうがおおきくみなみうつしてみなみの淮河に合流ごうりゅうし、黄海こうかいへとながむようになった[17]。この黄河こうがみなみりゅう1855ねんふたた黄河こうがきたながし、現在げんざいりゅうながれるようになるまで700ねんちかつづいた。当初とうしょきゅうかわどうとおって渤海へとなが水流すいりゅうのこっていたが、1150ねん途絶とぜつし、黄河こうがはすべてみなみりゅうすることとなった。このみなみりゅう黄河こうがかわどう一本いっぽんされておらず、なんほんかにかれて淮河へと流入りゅうにゅうしていたが、淮河のかわどう黄河こうがぜん水量すいりょうけられるほどひろくなかったため、今度こんどは淮河流域りゅういき洪水こうずい頻発ひんぱつするようになった。また、淮河からあふれたみずとみりょうみずうみ白水しろみず塘といったそれまでに存在そんざいしたちいさなみずうみみ、中国ちゅうごく4ひろさを淡水たんすいみずうみであるひろしさわ形成けいせいした。さらにひろしさわからあふれたみずこう郵湖、邵伯といったみずうみつくり、みなみ長江ちょうこうながむようになってしまった。やがて明朝みんちょう後半こうはんには、黄河こうがながれを一本いっぽんたばりゅう)して、その水量すいりょう土砂どしゃながす(おさむすな)という、いわゆる「たばりゅうあんはん馴によって提唱ていしょうされ、主流しゅりゅうとなった。このあん円滑えんかつ運用うんようには、りゅう堆積たいせきする膨大ぼうだいりょう土砂どしゃのぞくための定期ていきてき浚渫しゅんせつ不可避ふかひであったが、きよし王朝おうちょう後期こうきにはこの河川かせん管理かんりくずれ、黄河こうがふたた水害すいがい頻発ひんぱつさせはじめた。

1855ねん黄河こうがだい洪水こうずいこし、みなみりゅうをやめてほぼ700ねんぶりにきたへとかい、渤海へとむようになった。このときのりゅうが、ほぼ現在げんざい黄河こうがかわどうである。黄河こうが現在げんざいりゅうにはもともとすみすいだい清河きよかわ)とばれる大河たいがながれており、すみ南市みなみいちめいはこのすみすいみなみ位置いちしていたことからきたものだが、このりゅう変更へんこうによってすみすいかわどうのほとんどは黄河こうが本流ほんりゅうとなってしまった。このときは黄河こうがかわどうもともどしてほしいしんりゅうである山東さんとうしょうグループと、黄河こうがかわどう変更へんこう恒常こうじょうさせたい淮河流域りゅういきグループとの対立たいりつによってかわどう改修かいしゅう固定こていおくれ、結局けっきょく1875ねんげんりゅうながれ固定こていされることとなった。また、にちちゅう戦争せんそうなか1938ねんには日本にっぽんぐん侵攻しんこう阻止そししようとした中国ちゅうごく国民党こくみんとうによって堤防ていぼう爆破ばくはされ、りゅうわった(黄河こうが決壊けっかい事件じけん)。1947ねん堤防ていぼう修復しゅうふく完了かんりょうし、河口かこう現在げんざい位置いちになった。

戦後せんご三門さんもんかいダムなどだい規模きぼダム建設けんせつされ、だい水害すいがい減少げんしょうした。しかし、1970年代ねんだい以降いこうこう農業のうぎょう用水ようすい需要じゅよう増大ぞうだいともなって、下流かりゅう流量りゅうりょう不足ふそくになり、河口かこう付近ふきんでは長期ちょうきにわたってだんりゅうするなどの問題もんだいきている(1999ねん以降いこうだんりゅう発生はっせいしていない)[† 1][18]2001ねんには三門さんもんかいダムの下流かりゅう小浪こなみそこダムが建設けんせつされ、黄河こうが水位すいい調節ちょうせつおこなうようになってだんりゅう発生はっせいしなくなった[19]。とはいえ、黄河こうが根本こんぽんてき水量すいりょう不足ふそく解消かいしょうしたわけではなく、これを解決かいけつするためにみなみ水北すいほく調ちょう計画けいかく開始かいしされ、西にしせんこうでは水量すいりょう豊富ほうふ長江ながえ上流じょうりゅう地域ちいきから黄河こうが上流じょうりゅうへとみずながし、黄河こうが水量すいりょう増加ぞうかによって甘粛かんせいやすしなつうちモンゴル、陝西せんせいしょうなどの水不足みずぶそく解消かいしょうする計画けいかくてられたが、この西にしせんこうは3,000メートルきゅうけわしい山岳さんがく地帯ちたい位置いちし、非常ひじょう困難こんなん予想よそうされるため、ほかの2こうちがいまったく着工ちゃっこうがなされず、計画けいかく段階だんかいにとどまっている。この計画けいかくひがしせんではだい運河うんが沿ったルートで華北かほくへ、中央ちゅうおうせんではかんすいつくられたダムから河北かほくしょう西部せいぶへとみずおくられ、黄河こうが水系すいけいみず負担ふたんらすことが期待きたいされているものの、このりょうルートではそれぞれ黄河こうがをトンネルによってくぐってみず輸送ゆそうするものとされ、黄河こうがそのものにはこのりょうルートからのみずながまない。また、みなもと流域りゅういきのチベット高原こうげんでは放牧ほうぼく道路どうろ建設けんせつなどによって重要じゅうよう水源すいげんとなる湿原しつげん消失しょうしつつづいており、長江ちょうこう黄河こうがといっただい河川かせん水量すいりょうへの影響えいきょう懸念けねんされている[20]

環境かんきょう[編集へんしゅう]

さい上流じょうりゅうのチベット高原こうげんみずうみツンドラ湿地しっちにはアカハジロソウゲンワシプシバルスキーガゼル英語えいごばんオグロヅルセーカーハヤブサクチジロジカノヤク英語えいごばんヤク野生やせいしゅ)、ユキヒョウコビトジャコウジカ英語えいごばんヤマジャコウジカ英語えいごばんドールキガシラウミワシおよびChuanchia labiosa英語えいごばんGymnocypris eckloni英語えいごばんGymnodiptychus pachycheilus英語えいごばんなどの固有こゆうしゅ魚類ぎょるい生息せいそくしている[1][2][3][21]

黄河こうが流域りゅういきには1おく1,000まんにん以上いじょう人々ひとびとみ、事実じじつじょう黄河こうが流域りゅういき一体化いったいかしている華北かほく平原へいげん人口じんこうくわえるとさらにすうばいとなる。この膨大ぼうだい人口じんこうささえるため、黄河こうがみず高度こうど利用りようされており、2000ねんから2002ねんにかけての黄河こうがみず利用りようりつは84.2%にたっし、河口かこうには15.8%しかとどかない。このため、すこしでも降水こうすいりょう減少げんしょうした場合ばあい黄河こうがみず河口かこうまでとどかず、20世紀せいきちゅうには頻繁ひんぱんだんりゅうこした。だんりゅうこらなくなったあとも利用りようりつたかさはわらず、黄河こうが下流かりゅう慢性まんせいてき流量りゅうりょう不足ふそく状態じょうたいにある。また、とくちゅう下流かりゅうにおいては人口じんこう稠密ちゅうみつ地域ちいきながれているため、沿岸えんがん工場こうじょう都市としから汚染おせん物質ぶっしつ黄河こうがへとながされ、流量りゅうりょう減少げんしょうあいまって深刻しんこく水質すいしつ悪化あっかまねいている。1985ねんには黄河こうが本流ほんりゅうの92.1%の区間くかん飲料いんりょうすいとして利用りよう可能かのうだったものが、2004ねんには34.4%にまで減少げんしょうしてしまい、汚染おせん区域くいきなかでもどのようにも利用りようできない高度こうど汚染おせん水域すいいき全体ぜんたいの25%をえるようになった[22]。さらに、流量りゅうりょう減少げんしょうによってヨシはらおお河口かこうのデルタ地域ちいき生態せいたいけい[10]深刻しんこく影響えいきょうがもたらされたほか、だんりゅうには黄河こうが流域りゅういきしょ都市とし工業こうぎょう農業のうぎょう用水ようすい供給きょうきゅう減少げんしょうし、深刻しんこく水不足みずぶそくおちいった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

黄河こうが流域りゅういきには紀元前きげんぜん7000ねんごろに黄河こうが文明ぶんめい成立せいりつした。黄河こうが文明ぶんめいはやがてみなみ長江ちょうこう流域りゅういき成立せいりつした長江ながえ文明ふみあき一体化いったいかし、中国ちゅうごく文明ぶんめいとなるが、黄河こうが流域りゅういき基本きほんてき中国ちゅうごく文明ぶんめい中心ちゅうしんでありつづけた。黄河こうが治水ちすいふるくより中国ちゅうごく文明ぶんめいにおいてのおも大事だいじであり、伝説でんせつじょう中国ちゅうごくはつ王朝おうちょうであるなつ王朝おうちょうの、黄河こうが治水ちすい事業じぎょう成功せいこうしてしゅんより禅譲ぜんじょうけたことにより成立せいりつしたという伝説でんせつも、その一端いったんしめしている。紀元前きげんぜん17世紀せいきごろには確認かくにんできる中国ちゅうごく最古さいこ王朝おうちょうであるいん成立せいりつした。以後いご歴代れきだい統一とういつ王朝おうちょうは、基本きほんてき西にしあまねしたせきちゅう盆地ぼんち長安ながやす周辺しゅうへんか、中原なかはらはしにあるあずまあまねした洛陽らくようのいずれかにいた。一方いっぽう明確めいかく中原なかはらしょ王朝おうちょう支配しはいにあった地域ちいき黄河こうが屈曲くっきょくなかほどまでであり、それ以北いほく北方ほっぽう遊牧ゆうぼく民族みんぞくしょ王朝おうちょう勢力せいりょくにあることがおおかった。屈曲くっきょく北端ほくたんであるかわ地域ちいき黄河こうが遊水地ゆうすいちてき湿地しっちたいで、牧畜ぼくちく必要ひつようゆたかなくさみずひろがるだい牧草ぼくそうとして遊牧民ゆうぼくみんにも重要じゅうよう土地とちのひとつとなっていた。しかしこの地域ちいきはどちらの根拠地こんきょちからもとおはなれており、りょう勢力せいりょく係争けいそうとなることがおおかった。戦国せんごく時代じだいにはこの地域ちいきちょう進出しんしゅつし、かわ套のきた長城ちょうじょうきずいてくもちゅうきゅうはら支配しはいした。ちょうほろぼしたはたもこの地域ちいき支配しはい継続けいぞくし、きゅうげんけんいたが、はたかん交代こうたいにこの地域ちいき支配しはいくずれ、あたま曼単于侵攻しんこうによって屈曲くっきょく北部ほくぶ匈奴きょうど領域りょういきとなった。以後いご100ねんちかくこの支配しはいつづいたが、たけみかど即位そくいすると匈奴きょうど圧迫あっぱくされはじめ、紀元前きげんぜん127ねんには屈曲くっきょくが、紀元前きげんぜん121ねんにはそれまで中国ちゅうごくしょ王朝おうちょう進出しんしゅつしていなかったあららぎしゅうなどの黄河こうが上流じょうりゅうおよびその西にしつらなる連山れんざんふもとまでを支配しはいき、ここに河西かさいよんぐんいた。しかしこうかん王朝おうちょう以降いこう徐々じょじょ屈曲くっきょく中国ちゅうごく王朝おうちょう支配しはい減退げんたいし、さらにすすむ衰退すいたいによって北方ほっぽう遊牧ゆうぼく民族みんぞく中国ちゅうごく北部ほくぶ侵入しんにゅうえびすじゅうろくこく時代じだいはじまると、黄河こうが流域りゅういき全体ぜんたい遊牧ゆうぼく民族みんぞく支配しはいかれるようになった。こうした状況じょうきょうきたたかしによって華北かほく統一とういつされてもつづき、黄河こうが流域りゅういき北朝ほくちょう長江ちょうこう流域りゅういき南朝なんちょうとが対峙たいじする、いわゆる南北なんぼくあさ時代じだいながつづいた。この状況じょうきょうは、北朝ほくちょうずい南朝なんちょうひねほろぼして中国ちゅうごくさい統一とういつするまでつづいた。

政治せいじてきにはりょう大河たいが流域りゅういき統一とういつされたものの、経済けいざいてきにはこのりょう河川かせん分離ぶんりしたままだった。これを統一とういつするため、610ねんにはずい煬帝によってだい運河うんが完成かんせいし、黄河こうが長江ながえ水運すいうんによって直結ちょっけつされた。これにより、だい運河うんが黄河こうがとの結節けっせつてんにあたる開封かいふう経済けいざいてきだい繁栄はんえいし、だいからきたそうにかけてのとなった。一方いっぽう軍事ぐんじてき弱体じゃくたいそう黄河こうが屈曲くっきょく十分じゅうぶん勢力せいりょくばすことができず、かわ套はりょう支配しはいはいり、銀川ぎんかわ平野へいやタングートぞく李元りげんひろしおこした西にしなつ王国おうこく本拠地ほんきょちとなった。歴史れきしじょう銀川ぎんかわ平野へいや独立どくりつ王朝おうちょう割拠かっきょしたのはこれが唯一ゆいいつのことである。きたそうきむやぶみなみうつすると、華北かほく支配しはいするようになったかね中原なかはら北端ほくたんちかなか北京ぺきん)にき、以後いご王朝おうちょう北京ぺきんまたは南京なんきんくようになって、黄河こうが流域りゅういきかれなくなった。もと時代じだいにはだい運河うんががより直線ちょくせんてきになるよう東側ひがしがわにルートが変更へんこうされ、これによって水運すいうん結節けっせつてんでなくなった開封かいふう経済けいざいてき重要じゅうようせい低落ていらくした。

気候きこう流域りゅういき産業さんぎょう[編集へんしゅう]

黄河こうが流域りゅういき降水こうすいりょう全般ぜんぱんすくなく、年間ねんかん降水こうすいりょうが1,000ミリをえるところはほとんどない。とくうえ流域りゅういきでは降水こうすいりょうすくなく、ほとんどがステップ気候きこうぞくし、一部いちぶには砂漠さばく気候きこう地域ちいきもある。下流かりゅうひやたいぞくする。黄河こうが流域りゅういき長江ちょうこう流域りゅういきはだいたいはたみね・淮河せんによって分割ぶんかつされるが、このせん年間ねんかん降水こうすいりょう1,000ミリせんとほぼ一致いっちしており、そのためこのせん南北なんぼく、すなわち黄河こうが流域りゅういき長江ちょうこう流域りゅういきではしゅこく農作物のうさくもつといった農業のうぎょう全般ぜんぱん、さらには文化ぶんか全般ぜんぱんにいたるまで、さまざまなちがいがある。長江ちょうこう流域りゅういき稲作いなさく基盤きばんとした区域くいきであるのにたいし、黄河こうが流域りゅういき畑作はたさく基盤きばんとし、コムギおもこくとして栽培さいばいする。コムギは華北かほく平原へいげんにおいてはふゆきであるが、やすしなつ甘粛かんせいなどの上流じょうりゅうにおいてははるきコムギが一般いっぱんてきである[23]。なお、コムギは後代こうだいつたわってきた作物さくもつであり、黄河こうが文明ぶんめいからの黄河こうが流域りゅういき基幹きかん作物さくもつアワであった。21世紀せいきにおいても、アワはこの地域ちいきにおいて二義的にぎてきではあるものの重要じゅうよう作物さくもつのひとつとなっている。ダイズ綿花めんかなどの栽培さいばいさかんであり、また果物くだものではリンゴ生産せいさん黄河こうが流域りゅういき中心ちゅうしんとなっている[24]えずたびをするという意味いみの「南船北馬なんせんほくば」という言葉ことばあらわとおり、黄河こうが流域りゅういきでは舟運しゅううんよりもうまなどを利用りようした陸運りくうんがどちらかとえば歴史れきしてきさかんであった。とはいえ、だい運河うんがなどが開削かいさくされたことからもかるように、舟運しゅううんがまったく利用りようされなかったわけではなかった。

支流しりゅう[編集へんしゅう]

はし・トンネル・わた[編集へんしゅう]

黄河こうがにはおおくのはしわたぶね中国ちゅうごく渡口とぐち)がある。そのおもなものを、下流かりゅうから上流じょうりゅうかうじゅん列挙れっきょする。

山東さんとうしょう

河南かなんしょう

山西さんせいしょう河南かなんしょう

陝西せんせいしょう山西さんせいしょう

うちこうむ自治じち

やすしなつかいぞく自治じち

甘粛かんせいしょう

青海あおみしょう

黄河こうがしたくぐはじめてのトンネルとして、あららぎしゅう地下鉄ちかてつようトンネルが2014ねん着工ちゃっこうされている[25]

ダム[編集へんしゅう]

黄河こうが本流ほんりゅうには以下いかのダムが存在そんざいする。(建設けんせつじゅん

2000ねんには、これらのなかでもっとも発電はつでん能力のうりょくおおきいりゅうひつじかいダム、りゅうかい水力すいりょく発電はつでんしょかいダム、しおなべかい水力すいりょく発電はつでんしょはちばんかい水力すいりょく発電はつでんしょ大峡おおかいダム、青銅せいどうかい水力すいりょく発電はつでんしょの7つの発電はつでんしょでは、5,618メガワットのそう設備せつび容量ようりょうっていた[26]。これらのダムのおおくは落差らくさはげしいうえ流域りゅういきおよびちゅう流域りゅういき建設けんせつされているが、この地域ちいき潜在せんざいてき発電はつでん能力のうりょくおおきいものの電力でんりょく消費しょうひ経済けいざい開発かいはつすすんでいないためにそれほどおおくない。このため、中国ちゅうごく政府せいふ西部せいぶ電気でんき東部とうぶ沿海えんかいいきにまで送電そうでんする、いわゆる西にしでんひがしおくプロジェクトの一環いっかん黄河こうがじょう流域りゅういき位置いちづけられ、りゅうひつじかいダム、りゅうかい水力すいりょく発電はつでんしょの2つの発電はつでんしょ発電はつでんされた電気でんき北京ぺきん天津てんしんといった沿岸えんがん北部ほくぶ大都市だいとしや、工業こうぎょうさかんな山東さんとうしょう送電そうでんされている。このルートは、西にしでんひがしおくプロジェクトちゅう北部ほくぶ幹線かんせんルートとなっている。

観光かんこう[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

現在げんざい中国ちゅうごくしょうである河北かほくしょう河南かなんしょうは、それぞれ主要しゅよう地域ちいき黄河こうがきたみなみ位置いちしていることからつけられた名前なまえである。ただし、河北かほくしょう全域ぜんいき黄河こうがきた位置いちするのにたいし、河南かなんしょう北部ほくぶ一部分いちぶぶん黄河こうがきた位置いちする。また、河南かなんしょう省内しょうない黄河こうがながれるが、河北かわきた省内しょうないには黄河こうが本流ほんりゅうだけでなく、黄河こうが流域りゅういきすら存在そんざいしない。また、甘粛かんせいしょう西部せいぶ武威ぶいから敦煌とんこうにいたる900キロの細長ほそながいオアシス都市としぐん地域ちいき河西かさい回廊かいろうぶが、これはあららぎしゅうながれる黄河こうが西にし位置いちすることにちなむ。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1972ねん4がつ23にち山東さんとうしょうだんりゅう最初さいしょ観測かんそくされた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  4. ^ 大河たいが失調しっちょう 直面ちょくめんする環境かんきょうリスク」(叢書そうしょ 中国ちゅうごくてき問題もんだいぐん9)p21 上田うえだしん 岩波書店いわなみしょてん 2009ねん8がつ4にちだい1さつ
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  9. ^ 海洋かいようがく 原著げんちょだい4はん」p115 ポール・R・ピネちょ 東京大学とうきょうだいがく海洋かいよう研究所けんきゅうじょ監訳かんやく 東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい 2010ねん3がつ31にちだい1さつだい1はん発行はっこう
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  14. ^ 生命せいめいたい黄河こうが』の再生さいせいこくえい芦田あしだ和男かずお澤井さわい健二けんじすみ哲也てつや 編著へんちょ p5 京都きょうと大学だいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい 2011ねん5がつ20日はつか初版しょはんだい1さつ
  15. ^ 生命せいめいたい黄河こうが』の再生さいせいこくえい芦田あしだ和男かずお澤井さわい健二けんじすみ哲也てつや 編著へんちょ p154 京都きょうと大学だいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい 2011ねん5がつ20日はつか初版しょはんだい1さつ
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  20. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/2255509 「気候きこう変動へんどう中国ちゅうごく湿原しつげん減少げんしょう アジア全土ぜんど影響えいきょうおよぼすおそれ」AFPBB 2007ねん07がつ18にち 2015ねん2がつ25にち閲覧えつらん
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]