あずまあまね

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あずまあまね
西周 (王朝) ぜん770ねん - ぜん256ねん 秦朝
東周の位置
紀元前きげんぜん770ねんごろ建国けんこく)のしゅう領土りょうど
公用こうよう 古代こだい中国語ちゅうごくご
首都しゅと らく
(紀元前きげんぜん770ねんぜん256ねん)
おう
ぜん770ねん - ぜん720ねん ひらおう
ぜん314ねん - ぜん256ねん赧王
人口じんこう
ぜん273ねんやく30,000,000にん
変遷へんせん
らく邑へ遷都せんと ぜん770ねん
滅亡めつぼうぜん256ねん
通貨つうか刀銭とうせん
中国歴史
中国ちゅうごく歴史れきし
先史せんし時代じだい中国語ちゅうごくごばん
ちゅう石器せっき時代じだい中国語ちゅうごくごばん
しん石器せっき時代じだい
さんすめらぎみかど
いにしえこく時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい
長江ながえ文明ふみあき
りょうかわ文明ぶんめい
なつ
いん
しゅう西にしあまね
しゅう
あずまあまね
春秋しゅんじゅう時代じだい
戦国せんごく時代じだい
はた
かん前漢ぜんかん
しん
かんこうかん

孫呉そんご
かん
しょくかん
たかし
曹魏
すすむ西にしすすむ
すすむあずますすむ じゅうろくこく
そうりゅうそう たかしきたたかし
ひとしみなみひとし
りょう たかし
(西にしたかし)
たかし
(あずまたかし)
ひね りょう
(こうはり)
しゅう
(きたあまね)
ひとし
(きたひとし)
ずい
とう  
しゅうたけあまね
 
だいじゅうこく ちぎり
そう
きたそう
なつ
(西にしなつ)
りょう
そう
みなみそう
きむ
もと
あきら もと
(北元きたもと)
あきら
南明なんめい
じゅん 後金あときん
 
きよし
 
中華民国ちゅうかみんこく まんしゅう
 
中華ちゅうか人民じんみん
共和きょうわこく
中華ちゅうか
みんこく

台湾たいわん

あずまあまね(とうしゅう、[][1]拼音: Dōngzhōu紀元前きげんぜん770ねん - 紀元前きげんぜん256ねん[2])は、中国ちゅうごく歴史れきしうえ王朝おうちょうらく邑への遷都せんとしゅうちょう便宜べんぎてき呼称こしょうで、鎬京首都しゅといていた時代じだいしゅう西にしあまねぶ。あずまあまね時代じだいはじまりは「春秋しゅんじゅう時代じだい」の開始かいしでもある。

しゅう紀元前きげんぜん770ねんに、鎬京(現在げんざい陝西せんせいしょう西安しーあん)かららく現在げんざい河南かなんしょう洛陽らくよう)に遷都せんとした。これがひがししゅうはじまりで、25にんおう即位そくいし、515年間ねんかんつづいた。

さるこうらんにより、西にししゅう12だいおうかそけおうくなると、諸侯しょこうらは元々もともと太子たいしであったむべうすおうとした[3][4]ひらおう)。即位そくいしてねん、鎬京は戦火せんかにより破壊はかいされ、いぬえびす侵攻しんこう略奪りゃくだつされていた。そのためらく邑に遷都せんとした(ひらおう東遷とうせん)。これ以後いごしゅうを「あずまあまね」とび、以前いぜん西にしあまねんだ。ひがししゅう前半ぜんはんひゃくすうじゅうねんほど、諸侯しょこうあらそった。この時代じだい歴史れきししょ春秋しゅんじゅうちなみ「春秋しゅんじゅう時代じだい」とばれる。ひがししゅう後半こうはんひゃくすうじゅうねんは、しゅう天子てんし権威けんいややしっされた。この時代じだい戦国せんごくさくちなみ「戦国せんごく時代じだい」と[5]

たいらおう東遷とうせん以後いごは、管轄かんかつする領域りょういき大幅おおはば減少げんしょうし、ひとつの小国しょうこくへとがった。戦国せんごく時代じだいにはじょしゅうしょうおう中国語ちゅうごくごばんで、たかしめぐみおう[6]ひとしおう[7]おうごう自称じしょうした。つづけて、だい規模きぼ諸侯しょこうおうごうとなえた。はためぐみぶんおうかんせんめぐみおう[8]、そのつばめえきおう[9]そうかんおう[10]中山なかやまおうサク自称じしょうした[ちゅう 1][ちゅう 2][11]おうごう自称じしょうしゅうおう権威けんい低下ていかあらわした。また、短期間たんきかんではあるがひとし湣王はたあきらじょうおうはともにみかどごう名乗なのっている[12]

じょうおうじゅうななねん紀元前きげんぜん635ねん)には王子おうじたいによる反乱はんらん中国語ちゅうごくごばん発生はっせいしたが、じょうおう鎮圧ちんあつすることができず、春秋しゅんじゅうすすむぶんこうすくいをもとめ、鎮圧ちんあつした[13]じょうおうじゅうねん紀元前きげんぜん632ねん)、じょうおうすすむぶんこうによって河陽かわよう践土のかいめい中国語ちゅうごくごばんおこなった[14]

ていおう元年がんねん紀元前きげんぜん606ねん)には、春秋しゅんじゅうすわえそうおうりく渾のえびす討伐とうばつした。そしてしゅうきゅうかなえ軽重けいちょううた[15][ちゅう 3][16]

赧王時代じだいには、あずまあまね国勢こくせい益々ますますおとろえ、同時どうじ内部ないぶでのあらそいがえなかった。しゅうひがししゅうこく西にししゅうこくかれていて、赧王は西にししゅう遷都せんとした[17]。赧王はちねん紀元前きげんぜん307ねん)、はたりょうしゅうみちりてかんめようとしたが、しゅうじんみちさなかった[18][19]。赧王ろくじゅうねん紀元前きげんぜん256ねん)には西にししゅうこくはたによって滅亡めつぼうし、赧王もした[20]。これにより中国ちゅうごく王朝おうちょうもっとながい790ねんつづいたしゅう王朝おうちょう滅亡めつぼうした。ななねんには、ひがししゅうこくはたによって滅亡めつぼう[21]しゅう王室おうしつ祭祀さいし完全かんぜん途絶とだえた[11]

歴史れきし[編集へんしゅう]

西にしあまね滅亡めつぼう東遷とうせん[編集へんしゅう]

かそけおう3ねん紀元前きげんぜん780ねん)、美女びじょ褒姒にゅうみやし、かそけおう寵愛ちょうあいて、はくふく中国語ちゅうごくごばんんだ。かそけおう正室せいしつさるきさき太子たいしむべうすはいし、褒姒を正室せいしつとしそのはくふく太子たいしとした[22]

褒姒はわらわなかったために、かそけおうわらわせる方法ほうほうかんがえた。多数たすう方法ほうほうかんがえたが、成功せいこうしなかった。最終さいしゅうてきに「烽火ほうかおどけ諸侯しょこう中国語ちゅうごくごばん」という方法ほうほうかんがえた。あるかそけおう緊急きんきゅう事態じたいらせの烽火ほうかげさせ、太鼓たいこらした。しょしょうはさっそくけつけたが、てみるとなにごともい。右往左往うおうさおうするしょしょうた褒姒は、そのときはじめてれやかにわらった。かそけおうは褒姒をわらわせるために、次々つぎつぎ烽火ほうかげために、しょしょう狼煙のろし信用しんようしなくなった[23][24]

かそけおう佞臣ねいしん虢石ちち任用にんようしたため、国人くにびとうらみをった。虢石ちちはよくへつらってこのんだ。さるきさきちち太子たいし祖父そふたるさるこうはこのことに憤怒ふんぬした。紀元前きげんぜん771ねんさるこうは繒やいぬえびすとともにしゅう侵攻しんこうした。かそけおう烽火ほうか救援きゅうえんもとめたが、諸侯しょこう援軍えんぐんさなかった。かそけおうはくふくてい桓公かんこうらは驪山ころされた[25]、褒姒はいぬえびすられ[26]の鎬京はあらされた。さるこうほうもとぶんこうひらおうむべうす)を擁立ようりつし、天王てんのうしょうした[27]。鎬京かららく東遷とうせんした。

中期ちゅうき[編集へんしゅう]

あずまあまねは、往時おうじするべくもないほどまで没落ぼつらくした。たいらおうまごである桓王王権おうけんさい強化きょうかはかったが、繻葛のたたか中国語ちゅうごくごばんぜん707ねん)でいち諸侯しょこうぎないていやぶれたこと諸侯しょこうたいする統制とうせいりょく喪失そうしつした。

さらに、王室おうしつない幾度いくど王位おうい継承けいしょうあらそいが発生はっせいしたためにしゅう王室おうしつちから弱体じゃくたい[28]らく邑(王城おうじょうなるしゅう周辺しゅうへんのみを支配しはいする小国しょうこくとなっていった。現代げんだい湖北こほくしょうずいしゅう付近ふきんにあった中国語ちゅうごくごばん春秋しゅんじゅう時代じだいほうはかおさめられていた青銅器せいどうき銘文めいぶんには、「しゅうしつすんで卑(しゅうしつすでにひくく)」とかれている[29]。それでも権威けんいだけは保持ほじしており、諸侯しょこうたちはその権威けんい利用りようして諸侯しょこうあいだ主導しゅどうけんにぎろうとした(春秋しゅんじゅう)。しゅう王室おうしつがわ覇者はしゃをはじめとする諸侯しょこうたいして、西にしあまね以来いらい伝統でんとう権威けんい強調きょうちょうすることで祭祀さいし主催しゅさいする立場たちば維持いじはかった[30]

しかし、その権威けんい春秋しゅんじゅう時代じだい後半こうはんからは低下ていかしていった。たとえば春秋しゅんじゅう時代じだいはたけいこうはか出土しゅつどひん銘文めいぶんでははた君主くんしゅ本来ほんらいしゅうおう称号しょうごうであったはずの「天子てんし」としょうしている[31]。また孔子こうし登場とうじょう以降いこう西にしあまね時代じだい理想りそうしたれいせい整備せいび儒家じゅか諸侯しょこうによっておこなわれていくが、それらにたいしてしゅう王室おうしつまった主導しゅどうけん発揮はっきしておらず[32]祭祀さいし主催しゅさいする立場たちばすらうしなっていた。

戦国せんごく時代じだいはいると、かつての覇者はしゃすすむ太公望たいこうぼう子孫しそんであるひとしきょうひとし)といったしゅう王室おうしつ歴史れきしてきむすびつきがつよ諸侯しょこうほろび、しゅうおう権威けんい存在そんざい意義いぎはますます低下ていかしていった。たかしめぐみおうは「なつおう」・「天子てんし」をしょうし、しゅう王朝おうちょうってわる意思いししめすほどであった[33]ひがししゅう23代目だいめおうあらわおうはたたいして春秋しゅんじゅう時代じだい覇者はしゃたいしてっていた儀礼ぎれいおこなうことで、はた保護ほごけようとしたが、すで春秋しゅんじゅう時代じだい天子てんししょうしていたはためぐみぶんおうおうしょうし、のちにはななゆう諸侯しょこうのみならず小国しょうこくそう北辺ほくへんちゅう山国やまぐに君主くんしゅまでもがおうしょうするようになった。はたあきらじょうおうひとし湣王いたっては一時いちじ西にしみかど」「ひがしみかど」とみかどごうしょうした[34]

滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

しゅう王室おうしつちから上述じょうじゅつのように衰微すいびし、影響えいきょうりょくはわずかにおう畿(現在げんざい洛陽らくよう附近ふきん)に限定げんていされていた。ただでさえおとろえていたしゅう王室おうしつであるが、末期まっきにはさだていおう末子まっし掲(桓公かんこう中国語ちゅうごくごばん)を始祖しそとする西にししゅうこうたけこう中国語ちゅうごくごばん)とそこから分裂ぶんれつしたあずまあまねくん昭文あきふみくん)の勢力せいりょくによって分裂ぶんれつしていた。しゅう王朝おうちょう最後さいごおうである赧王西にししゅうたけこうたよって西にしあまね河南かなん)に遷都せんとし、もとなりしゅうあずまあまねくん支配しはいした。しゅう王室おうしつ領土りょうど東西とうざい分裂ぶんれつし、せま範囲はんいたがいにあらそ有様ありさまであった[35]

赧王の在位ざいいは59ねんおよんだが紀元前きげんぜん256ねん西にしあまね諸侯しょこうつうじてかん交戦こうせんちゅうはたぐん妨害ぼうがいしたためはた将軍しょうぐん楊摎攻撃こうげきけた。西にししゅうぶんこうたけこう)はしんへおもむき謝罪しゃざいしその領土りょうどはた献上けんじょうした。このため赧王ははた保護ほごはいったがまもなく崩御ほうぎょし、ほどなくして西にししゅうぶんこう死去しきょした。西にししゅうぶんこう死去しきょすると、そのみんせきったようにひがししゅう逃亡とうぼうし、はたきゅうかなえしゅう王室おうしつ宝物ほうもつ接収せっしゅうし、ぶんこううつした。こうして、はたおう畿を占拠せんきょしたことで、西にしあまねしゅう王室おうしつ本家ほんけ滅亡めつぼうすることとなった[36]

その昭文あきふみくんひがししゅうは7年間ねんかん存続そんぞくしたが、紀元前きげんぜん249ねんはたりょによってほろぼされた。『史記しき』のはた本紀ほんぎでは昭文あきふみくんころされたとつたえられているが、あずまあまねくん土地とちあたえてしゅう祭祀さいしつづけさせたともかれており、この場合ばあい昭文あきふみくんふうじられたとかんがえられる[37]

この時点じてんで、しゅうちょう諸侯しょこうこくはたすわえひとしつばめちょうかんたかしこしまもるのみがのこっていた[ちゅう 4]紀元前きげんぜん236ねん鄴のたたか皮切かわきりに[38][39][40]はた本格ほんかくてき統一とういつ戦争せんそう開始かいしした。紀元前きげんぜん230ねんにはかんほろぼした[41][42][43]紀元前きげんぜん228ねんちょう[41][42][43]紀元前きげんぜん225ねん[44][45][43]紀元前きげんぜん223ねんすわえ紀元前きげんぜん222ねんつばめ[46]こし紀元前きげんぜん221ねんひとしほろぼし[46][43]中華ちゅうか統一とういつげた。

はた始皇帝しこうてい死後しご、すなわちすわえかん戦争せんそうには、各地かくち戦国せんごく諸侯しょこう王族おうぞくふたた擁立ようりつされたが、しゅう末裔まつえい擁立ようりつしてしゅう王室おうしつ復興ふっこうしようといううごきはなかった[47]

前漢ぜんかんたけみかど以降いこう儒学じゅがく尊重そんちょうされるようになると、しゅう王室おうしつ子孫しそん尊重そんちょうされるようになり、ひめよしみ中国語ちゅうごくごばんという人物じんぶつ周子かねこ南君なぎみ中国語ちゅうごくごばんふうじられた。ひめよしみ子孫しそんもとみかど時代じだいにはしゅううけたまわきゅうこう昇格しょうかくされ、ひらみかどときにはていこうに、こうかん光武みつたけみかど時代じだいにはまもるおおやけふうじられている[48]

春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

春秋しゅんじゅう時代じだい[編集へんしゅう]

春秋しゅんじゅう時代じだい由来ゆらいは、孔子こうし編纂へんさんした歴史れきししょ春秋しゅんじゅう》にちなむ。

春秋しゅんじゅう記述きじゅつはじまりは、周平しゅうへいおうじゅうねん紀元前きげんぜん722ねん)である。しゅうたかしおうよんじゅうさんねん紀元前きげんぜん477ねんあるいはよんじゅうよんねん紀元前きげんぜん476ねん)に記述きじゅつわる。しかし、歴史れきし学者がくしゃらは春秋しゅんじゅう時代じだいわりはすすむさとしちょうたかしかんによる滅亡めつぼう[49]紀元前きげんぜん453ねん)や、さんいえぶんすすむ紀元前きげんぜん403ねん)としている[50]原因げんいんそく使いたさんいえぶんすすむじょはたすわえひとしとう國外こくがいかえゆう其他大小だいしょう王國おうこく

春秋しゅんじゅう時代じだいにはしゅうおう政治せいじ実権じっけんにぎっていなかったが、依然いぜんとして精神せいしんめん中心ちゅうしんであり、諸侯しょこうおうぐ2番目ばんめ地位ちいたる覇者はしゃとなろうとしていた。

戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだいけん

さんいえぶんすすむによって、春秋しゅんじゅう時代じだい結束けっそくした。ひとしはたほろぼし中華ちゅうか統一とういつする[12]紀元前きげんぜん221ねんまでの時代じだいを、一般いっぱんてき戦国せんごく時代じだいばれる。戦国せんごく時代じだい由来ゆらい歴史れきししょ戦国せんごくさくである。

春秋しゅんじゅう時代じだいたいして戦国せんごく時代じだいは、諸侯しょこうみずからがそれぞれ「おう」をしょうしてあらそうようになり、のこっていたしゅうおう権威けんいほとんくなった。

あずまあまね王朝おうちょう戦国せんごく時代じだい後期こうき紀元前きげんぜん256ねん)にはたによって滅亡めつぼうした[11]。そのも45年間ねんかん戦国せんごく時代じだいつづいているため、かならずしも戦国せんごく時代じだいあずまあまねだいおなじというわけではない。

時代じだい区分くぶん[編集へんしゅう]

春秋しゅんじゅう時代じだいわり・戦国せんごく時代じだいはじまりについては諸説しょせつある。すすむ家臣かしんであったかんたかしちょうさんこく正式せいしき諸侯しょこうとしてみとめられた紀元前きげんぜん403ねんとするせつ紀元前きげんぜん453ねんかんたかしちょうさとしほろぼして独立どくりつ諸侯しょこうとしての実質じっしつ時点じてんる『どおりかんせつの2つが主流しゅりゅうである[50]。このほかに、『春秋しゅんじゅう』はあいこうじゅうよんねん紀元前きげんぜん481ねん)に「」(麒麟きりんた)の記述きじゅつ終了しゅうりょうするので、これをもって春秋しゅんじゅう時代じだいわりとするせつ、『史記しき』の『ろくこく年表ねんぴょう』がはじまる紀元前きげんぜん476ねんとするせつなどがある。主要しゅような7せつ列挙れっきょすると、

  1. 紀元前きげんぜん481ねんしゅうけいおう39ねん
  2. 紀元前きげんぜん476ねんしゅうけいおう44ねん[ちゅう 6]
    • 史記しきの『ろくこく年表ねんぴょう』の記載きさいはじまったとし[51]
  3. 紀元前きげんぜん475ねんしゅうもとおう元年がんねん[ちゅう 7]
    • 前年ぜんねんしゅうけいおう在位ざいい44ねん死去しきょし、しゅうもとおう元年がんねん戦国せんごく時代じだいはじめとする[52]
  4. 紀元前きげんぜん468ねんしゅうさだていおう元年がんねん
  5. 紀元前きげんぜん453ねんしゅうさだていおう16ねん
  6. 紀元前きげんぜん441ねんしゅうあいおう元年がんねん
  7. 紀元前きげんぜん403ねんしゅうれつおう23ねん
    • さんすすむしゅうにより正式せいしき諸侯しょこうみとめられたとし一般いっぱんてきにはこのとしからを戦国せんごく時代じだいとする。

歴代れきだい君主くんしゅ[編集へんしゅう]

だい 氏名しめい 在職ざいしょく期間きかん
1 ひらおう ぜん770ねん - ぜん720ねん
2 桓王 ぜん719ねん - ぜん697ねん
そうおう ぜん696ねん - ぜん682ねん
4 釐王 ぜん681ねん - ぜん677ねん
5 めぐみおう ぜん676ねん - ぜん652ねん
弭叔くずおれ ぜん675ねん - ぜん673ねん
6 じょうおう ぜん651ねん - ぜん619ねん
7 ころおう ぜん618ねん - ぜん613ねん
8 ただしおう ぜん612ねん - ぜん607ねん
9 ていおう ぜん606ねん - ぜん586ねん
10 簡王 ぜん585ねん - ぜん572ねん
11 れいおう ぜん571ねん - ぜん545ねん
12 けいおう ぜん544ねん - ぜん520ねん
13 悼王 ぜん520ねん
14 けいおう ぜん519ねん - ぜん477ねん
15 もとおう ぜん476ねん - ぜん469ねん
16 さだていおう ぜん468ねん - ぜん441ねん
17 あいおう ぜん441ねん
18 おもえおう ぜん441ねん
19 こうおう ぜん440ねん - ぜん426ねん
20 れつおう ぜん425ねん - ぜん402ねん
21 安王やすおう ぜん401ねん - ぜん376ねん
22 れつおう ぜん375ねん - ぜん369ねん
23 あらわおう ぜん368ねん - ぜん321ねん
24 まき靚王 ぜん320ねん - ぜん315ねん
25 赧王 ぜん314ねん - ぜん256ねん
しゅう王室おうしつ系図けいず西にしあまねふくむ)

主要しゅよう国家こっか[編集へんしゅう]

春秋しゅんじゅう時代じだい諸侯しょこう勢力せいりょく
くに 姓氏せいし 領域りょういき くに 爵位しゃくい 存在そんざいねん 初代しょだい君主くんしゅ 最後さいご君主くんしゅ めつこくしゃ
戦国せんごくななゆう
はた 嬴姓ちょう 陝西せんせいしょうちゅう南部なんぶ甘粛かんせいしょう東部とうぶ四川しせんしょう重慶たーちん河南かなんしょう西部せいぶ湖北こほくしょう西部せいぶなど。ぜん221ねん中華ちゅうか統一とういつした[54][55] はた邑・汧邑・汧渭のかいたいらよう中国語ちゅうごくごばん[56][56]くぬぎ[56]咸陽中国語ちゅうごくごばん[56] なかはくぜん770ねん受封)→おうぜん325ねん自称じしょう[11])→みかどぜん288ねん西にしみかど自称じしょう[12])→おうふくしょう)→皇帝こうていぜん221ねん全国ぜんこく統一とういつ改称かいしょう ぜん770ねん - ぜん206ねん じょうおおやけ紀元前きげんぜん777ねん - 紀元前きげんぜん766ねん はた王政おうせい紀元前きげんぜん246ねん[57] - 紀元前きげんぜん221ねん[58][ちゅう 8] 西にしすわえかん
つばめ 姞姓 遼寧りょうねいしょう南部なんぶ北京ぺきん天津てんしん河北かほくしょう北部ほくぶ あざみ[59]ふく:した[59] ほうおうぜん323ねん自称じしょう[11] ぜん1046ねん - ぜん221ねん[ちゅう 9][60] つばめほうかつ召公奭 つばめおう[60]紀元前きげんぜん254ねん[60] - 紀元前きげんぜん222ねん[60] はた[60]
つばめ滅亡めつぼう[60]
すわえ 羋姓くま 湖北こほくしょう湖南こなんしょう北部ほくぶ安徽あんきしょう西部せいぶ江西えにししょう西部せいぶ河南かなんしょう南部なんぶ江蘇ちぁんすーしょう浙江せっこうしょう 丹陽たんよう[16]ひね[16]寿ことぶきはる[16] おうぜん704ねん自称じしょう[11] いんだい - ぜん223ねん[61] 鬻熊中国語ちゅうごくごばん [62]紀元前きげんぜん227ねん - 紀元前きげんぜん223ねん[62][ちゅう 10] はた[61]
すわえ滅亡めつぼう[61]
ちょう 嬴姓ちょう 河北かほくしょう西部せいぶ山西さんせいしょう北部ほくぶ内モンゴル自治うちもんごるじち南部なんぶ 邯鄲かんたん[64] ほうおうぜん296ねん自称じしょう ぜん403ねん[ちゅう 11] - ぜん228ねん[ちゅう 12][65] 列侯れっこう紀元前きげんぜん408ねん - 紀元前きげんぜん400ねん かそけ繆王紀元前きげんぜん235ねん - 紀元前きげんぜん228ねん[66][ちゅう 13] はた[65]
ちょう滅亡めつぼう[65]
たかし ひめせいたかし 山西さんせいしょう南部なんぶ河南かなんしょう北部ほくぶ陝西せんせいしょう東部とうぶ河北かほくしょう一部いちぶ やす[67]だいはり[67] ほうおうぜん344ねん自称じしょう ぜん403ねん[ちゅう 11] - ぜん225ねん[68] ぶんこう紀元前きげんぜん445ねん - 紀元前きげんぜん396ねん おうかり[49]紀元前きげんぜん227ねん - 紀元前きげんぜん225ねん はた[68]
滅亡めつぼう[68]
かん ひめせいかん 河南かなんしょう しんてい[67] ほうおうぜん324ねん自称じしょう[69] ぜん403ねん[ちゅう 11] - ぜん230ねん[69] けいこう紀元前きげんぜん408ねん - 紀元前きげんぜん400ねん おうやすし[69]紀元前きげんぜん238ねん[69] - 紀元前きげんぜん230ねん[69] はた[69]
かん滅亡めつぼう[69]
ひとしひとし 嬀姓 山東さんとうしょう東部とうぶ河北かほくしょう南部なんぶ 臨淄[70] ほうおうぜん334ねん自称じしょう[11])→みかど[12]おう ぜん386ねん[71] - ぜん221ねん[12] ふとしおおやけ紀元前きげんぜん386ねん - 紀元前きげんぜん385ねん おうけん紀元前きげんぜん265ねん - 紀元前きげんぜん221ねん[12] はた[12]
ひとし滅亡めつぼう[12]
その諸侯しょこうこく
くに 姓氏せいし 領域りょういき 爵位しゃくい 存在そんざいねん めつこくしゃ
ひとしきょうひとし きょうせいりょ 山東さんとうしょう東部とうぶ河北かほくしょう南部なんぶ ほう ぜん1046ねん - ぜん379ねん[71][72] ひとし
ひめせい魯氏 山東さんとうしょうきょく阜市 ほう ぜん1046ねん - ぜん256ねん すわえ
まもる ひめせいまもる 河南かなんしょう淇県濮陽 ほうくんぜん330ねん改称かいしょう ぜん1040ねん - ぜん209ねん はた
そう せいそうせい戴氏 河南かなんしょうしょうおかつうもとけん おおやけおうぜん323ねん自称じしょう ぜん1040ねん - ぜん286ねん ひとしすわえそう滅亡めつぼう
すすむ ひめせい 山西さんせいしょう河南かなんしょう北部ほくぶ陝西せんせいしょう東部とうぶ河北かほくしょう東部とうぶ ほう ぜん1033ねん - ぜん349ねん かんちょうたかし
こし 姒姓 浙江せっこうしょう中心ちゅうしん山東さんとうしょう南部なんぶ福建ふっけんしょう北部ほくぶ おう自称じしょう ぜん2032ねん - ぜん222ねん はた
てい ひめせいてい 河南かなんしょうしんてい はく ぜん806ねん - ぜん375ねん かん
中山なかやま ひめせい 河北かほくしょう中部ちゅうぶふとしあるきさんひがしふもと ほう ぜん507ねん - ぜん406ねん たかし
中山なかやま ひめせい 河北かほくしょう中部ちゅうぶふとしあるきさんひがしふもと ほうおうぜん323ねん自称じしょう ぜん380ねんごろ - ぜん296ねん ちょう
しょく 四川しせんしょう中部ちゅうぶ しゅうさつふうけていないため爵位しゃくい ? - ぜん316ねん はた
ともえ中国語ちゅうごくごばん ひめせい 重慶たーちん四川しせんしょう東部とうぶ ? - ぜん316ねん はた
ひね 嬀姓 あておか ぜん1046ねん - ぜん478ねん すわえ
ひめせい蔡氏 うえしんしも ぜん1046ねん - ぜん447ねん すわえ
ひめせい とうたかし ぜん1046ねん - ぜん487ねん そう

関連かんれんする作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ こしすわえの3こく春秋しゅんじゅう時代じだいおうごう自称じしょうしていた[11]
  2. ^ どう時期じきちょうたけれいおう時期じき尚早しょうそうであるとかんがえ、おうごう自称じしょうしなかった。おうごう自称じしょうしたのはめぐみぶんおうである。
  3. ^ これがかなえ軽重けいちょう由来ゆらいである。
  4. ^ こしすわえの、まもる属国ぞっこくとなっている。魯はひがししゅうこく同年どうねんすわえによって滅亡めつぼうした。
  5. ^ 記載きさいあいこうじゅうよんねん紀元前きげんぜん481ねん)に「」(麒麟きりんた)
  6. ^ 史記しき』ではしゅうもとおう元年がんねん
  7. ^ 史記しき』ではしゅうもとおう2ねん
  8. ^ しゅうちょう諸侯しょこうこくとしての在位ざいい最後さいご君主くんしゅである。はた王政おうせい皇帝こうていとしての在位ざいい紀元前きげんぜん210ねんまでである[58]。また、最後さいご君主くんしゅとなる。
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  10. ^ 昌平しょうへいくん紀元前きげんぜん223ねん)とも[63]
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出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  3. ^ 史記しきまきよんしゅう本紀ほんぎだいよん》:西にしえびすけんえびすおさむかそけおうかそけおうきょ烽火ほうか徴兵ちょうへいへい莫至。とげころせかそけおう驪山とりこ褒姒,つきしゅうまいない而去。
  4. ^ 清華せいか簡・つなぎねん》:かそけおうおこりかいひらめおう于西さるさるじんどる畀,曾人乃降西戎せいじゅう,以攻かそけおうかそけおう及伯ばん乃滅,しゅう乃亡。くにくんしょせい乃立かそけおうおとうとあまりしん于虢,携恵おうたて廿にじゅうまたいちねんすすむぶんこうかたき乃殺めぐみおう于虢。しゅうほろびおうきゅうねんくにくん諸侯しょこう焉始あさ于周,すすむぶんこう乃逆たいらおう于少鄂,だて于京
  5. ^ 史記しきまきよんしゅう本紀ほんぎだいよん》:ひら王立おうりつ東遷とうせん于洛邑,辟戎寇。たいらおうときしゅうしつ衰微すいびしょほうつよし併弱,ひとしすわえはたすすむはじめだい政由まさよしかたはく
  6. ^ 史記しきまきよんじゅうよんだいじゅうよん》:さんじゅうねんあずかひとしせんおうかいたいら阿南あなん
  7. ^ 史記しきまきよんじゅうろくけいなかかんだいじゅうろく》:于是ひとしさいつよし于諸こう自称じしょうためおう,以令天下でんか
  8. ^ 史記しきまきよんじゅうかんだいじゅう》:じゅういちねんくんごうためおうあずかちょうかいねずみ
  9. ^ 史記しきまきさんじゅうよんつばめ召公だいよん》:じゅうねんつばめくんためおう
  10. ^ 史記しきまきさんじゅうはちそうほろだいはち》:くんじゅういちねん自立じりつためおう
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  13. ^ 史記しきまきよんしゅう本紀ほんぎだいよん》:はつめぐみきさきほっりつ王子おうじたい以党ひらき翟人,翟人とげにゅうしゅうじょうおういずる餎鄭,ていきょおう于汜。たいたてためおうじょうおうしょ絀翟あずかきょゆたかじゅうななねんじょうおうつげきゅう于晋,すすむぶんこうおさめおう而誅叔帯。じょうおう乃賜すすむぶんこう珪鬯弓矢ゆみやためはく,以河内地ないちあずかすすむ
  14. ^ 史記しきまきよんしゅう本紀ほんぎだいよん》:じゅうねんすすむぶんこう召襄おうじょうおうかい河陽かわよう・践土,諸侯しょこう畢朝,しょいみな曰“天王てんのうかり于河”。
  15. ^ 史記しきまきよんしゅう本紀ほんぎだいよん》:ていおう元年がんねんすわえそうおうりく渾之えびすらく使つかいじんといきゅうかなえおう使おうまごまんおうしつらえ以辞,すわえへい乃去。
  16. ^ a b c d 島崎しまざきすすむ 2019, p. 43.
  17. ^ 史記しきまきよんしゅう本紀ほんぎだいよん》:赧王東西とうざいしゅうぶん,赧王徙都西にししゅう
  18. ^ 史記しきまきよんしゅう本紀ほんぎだいよん》:はたみちりょうしゅうあいだはた以伐かんしゅうおそれこれかしこ于韓,かしこ于秦。
  19. ^ 史記しきまきよんしゅう本紀ほんぎだいよん》:あずまあまねあずか西にししゅうせんかんすくい西にししゅう
  20. ^ 史記しきまきよんしゅう本紀ほんぎだいよん》:はたあきらおういか使つかい将軍しょうぐん摎攻西にししゅう西にしあまねくん餎秦,頓首とんしゅ受罪,つきけんじ其邑さんじゅうろくくちさんまんはた受其けんじかえり其君于周。あまねくん赧王そつしゅうみんとげひがしほろび
  21. ^ 史記しきまきよんしゅう本紀ほんぎだいよん》:こうななさい秦荘はたしょうじょうおうめつひがししゅう
  22. ^ 史記しきまきよんしゅう本紀ほんぎだいよん》:さんねんかそけおう嬖愛褒姒。褒姒生子おいごはくふくかそけおうよくはい太子たいし太子たいしははさるこうおんな,而為きさきかそけおうとく褒姒,あいよくはいさるきさきなみ太子たいしむべうす,以褒姒為きさき,以伯ふくため太子たいし周太しゅうたはく讀史どくし曰:「しゅうほろび矣。」むかしなつきさきおとろえ也,ゆう二神龍止於夏帝庭而言曰:「,褒之くん。」なつみかどぼくころせあずかこれあずかとめ,莫吉。ぼく請其漦而ぞう,乃吉。於是ぬのぬさ而策つげりゅうほろび而漦ざい,櫝而去なつほろびつて此器いんいんほろびまたつて此器しゅうさんだい,莫敢はついたり厲王すえはつ而觀。漦流於庭,不可ふかじょ。厲王使婦人ふじんはだか而譟。漦化ためげん黿,以入おう後宮こうきゅう後宮こうきゅうわらわわらわすんで齔而遭之,すんで笄而孕,おっと而生,懼而棄之。せんおうこれ童女どうじょうたい曰:「檿弧ふくじつほろびしゅうこく。」於是せんおう聞之,ゆう夫婦ふうふうりしゃせんおう使而戮。逃於どう,而見きょうしゃ後宮こうきゅうわらわわらわしょ棄妖於路しゃ,聞其夜啼よなきあい而収夫婦ふうふとげほろび,餎於褒。褒人有罪ゆうざい,請入わらわわらわしょ女子じょししゃ於王以贖罪しょくざい。棄女子じょし於褒,ため褒姒。とうかそけおうさんねんおう後宮こうきゅう而愛生子おいごはくふく,竟廢さるきさき太子たいし,以褒姒為きさきはくふくため太子たいしたいはく曰:「わざわいなり矣,奈何いかん!」
  23. ^ 寺田てらだ隆信たかのぶ 1997, p. 28.
  24. ^ 史記しきまきよんしゅう本紀ほんぎだいよん》:褒姒こうわらいかそけおうよく其笑まんぽうわらいかそけおうため烽燧だいゆう寇至そくきょ烽火ほうか諸侯しょこう悉至,いたり而無寇,褒姒乃大わらいかそけおうえつためすうきょ烽火ほうか。其後不信ふしん諸侯しょこうえきまたいたり
  25. ^ 史記しきまきよんじゅうていだいじゅう》:さいいぬえびすころせかそけおう於驪山下やましたなみころせ桓公かんこう
  26. ^ 史記しきまきよんしゅう本紀ほんぎだいよん》:かそけおう以虢せきちちためきょう用事ようじ国人くにびとみな怨。いしちちためじん佞巧ぜん諛好おうようまたはいさるきさき太子たいし也。さるこういかあずか繒・西にしえびすけんえびすおさむかそけおうかそけおうきょ烽火ほうか徴兵ちょうへいへい莫至。とげころせかそけおう驪山とりこ褒姒,つきしゅうまいない而去。於是諸侯しょこう乃即さるこう共立きょうりつかそけおう太子たいしむべうす為平ためひらおう,以奉しゅうまつ
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 佐藤さとう信弥しんやあまね-理想りそうされた古代こだい王朝おうちょう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2016ねん 
  • 島崎しまざきすすむ春秋しゅんじゅう戦国せんごく英傑えいけつたち』双葉社ふたばしゃ、2019ねん 
  • 寺田てらだ隆信たかのぶ物語ものがたり 中国ちゅうごく歴史れきし中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、1997ねん 
  • もと倬雲 ちょ,鄒水すぐる やく:《中国ちゅうごく古代こだい社会しゃかい史論しろん——春秋しゅんじゅう戦国せんごく時期じきてき社会しゃかい流動りゅうどう》(かつらりん広西ひろせ師範しはん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ,2006)

研究けんきゅうしょ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

あずまあまね

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