東 あずま 周 あまね
紀元前 きげんぜん 770年 ねん 頃 ごろ (建国 けんこく 時 じ )の周 しゅう の領土 りょうど
東 あずま 周 あまね (とうしゅう、[ 1] 、拼音 : Dōngzhōu 、紀元前 きげんぜん 770年 ねん - 紀元前 きげんぜん 256年 ねん [ 2] )は、中国 ちゅうごく の歴史 れきし 上 うえ の王朝 おうちょう 。洛 らく 邑への遷都 せんと 後 ご の周 しゅう 朝 ちょう の便宜 べんぎ 的 てき な呼称 こしょう で、鎬京 に首都 しゅと を置 お いていた時代 じだい の周 しゅう を西 にし 周 あまね と呼 よ ぶ。東 あずま 周 あまね の時代 じだい の始 はじ まりは「春秋 しゅんじゅう 時代 じだい 」の開始 かいし でもある。
周 しゅう は紀元前 きげんぜん 770年 ねん に、鎬京(現在 げんざい の陝西 せんせい 省 しょう 西安 しーあん 市 し )から洛 らく 邑 (現在 げんざい の河南 かなん 省 しょう 洛陽 らくよう 市 し )に遷都 せんと した。これが東 ひがし 周 しゅう の始 はじ まりで、25人 にん の王 おう が即位 そくい し、515年間 ねんかん 続 つづ いた。
申 さる 侯 こう の乱 らん により、西 にし 周 しゅう 12代 だい 王 おう の幽 かそけ 王 おう が亡 な くなると、諸侯 しょこう らは元々 もともと の太子 たいし であった宜 むべ 臼 うす を王 おう とした[ 3] [ 4] (平 ひら 王 おう )。即位 そくい して二 に 年 ねん 、鎬京は戦火 せんか により破壊 はかい され、犬 いぬ 戎 えびす が侵攻 しんこう し略奪 りゃくだつ されていた。そのため洛 らく 邑に遷都 せんと した(平 ひら 王 おう 東遷 とうせん )。これ以後 いご の周 しゅう を「東 あずま 周 あまね 」と呼 よ び、以前 いぜん を西 にし 周 あまね と呼 よ んだ。東 ひがし 周 しゅう の前半 ぜんはん 期 き 、二 に 百 ひゃく 数 すう 十 じゅう 年 ねん ほど、諸侯 しょこう が覇 は を争 あらそ った。この時代 じだい は歴史 れきし 書 しょ 春秋 しゅんじゅう に因 ちな み「春秋 しゅんじゅう 時代 じだい 」と呼 よ ばれる。東 ひがし 周 しゅう の後半 こうはん 期 き 、二 に 百 ひゃく 数 すう 十 じゅう 年 ねん は、周 しゅう の天子 てんし の権威 けんい が漸 やや 失 しっ された。この時代 じだい を戦国 せんごく 策 さく に因 ちな み「戦国 せんごく 時代 じだい 」と呼 よ ぶ[ 5] 。
平 たいら 王 おう の東遷 とうせん 以後 いご は、管轄 かんかつ する領域 りょういき は大幅 おおはば に減少 げんしょう し、一 ひと つの小国 しょうこく へと成 な り下 さ がった。戦国 せんごく 時代 じだい には徐 じょ 州 しゅう 相 しょう 王 おう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) で、魏 たかし の恵 めぐみ 王 おう [ 6] と斉 ひとし の威 い 王 おう [ 7] が王 おう 号 ごう を自称 じしょう した。続 つづ けて、大 だい 規模 きぼ な諸侯 しょこう が王 おう 号 ごう を唱 とな えた。秦 はた の恵 めぐみ 文 ぶん 王 おう や韓 かん の宣 せん 恵 めぐみ 王 おう が[ 8] 、その後 ご も燕 つばめ の易 えき 王 おう [ 9] ・宋 そう の康 かん 王 おう [ 10] ・中山 なかやま の王 おう サク が自称 じしょう した[ 注 ちゅう 1] [ 注 ちゅう 2] 。王 おう 号 ごう 自称 じしょう は周 しゅう 王 おう の権威 けんい 低下 ていか を表 あらわ した。また、短期間 たんきかん ではあるが斉 ひとし の湣王 と秦 はた の昭 あきら 襄 じょう 王 おう はともに帝 みかど 号 ごう を名乗 なの って いる。
襄 じょう 王 おう 十 じゅう 七 なな 年 ねん (紀元前 きげんぜん 635年 ねん )には王子 おうじ 帯 たい による反乱 はんらん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) が発生 はっせい したが、襄 じょう 王 おう は鎮圧 ちんあつ することができず、春秋 しゅんじゅう 五 ご 覇 は の晋 すすむ の文 ぶん 公 こう に救 すく いを求 もと め、鎮圧 ちんあつ した[ 13] 。襄 じょう 王 おう 二 に 十 じゅう 年 ねん (紀元前 きげんぜん 632年 ねん )、襄 じょう 王 おう は晋 すすむ の文 ぶん 公 こう によって河陽 かわよう で践土の会 かい 盟 めい (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) を行 おこな った[ 14] 。
定 てい 王 おう 元年 がんねん (紀元前 きげんぜん 606年 ねん )には、春秋 しゅんじゅう 五 ご 覇 は の楚 すわえ の荘 そう 王 おう が陸 りく 渾の戎 えびす を討伐 とうばつ した。そして周 しゅう の九 きゅう 鼎 かなえ の軽重 けいちょう を問 と うた[ 15] [ 注 ちゅう 3] 。
赧王 の時代 じだい には、東 あずま 周 あまね の国勢 こくせい は益々 ますます 衰 おとろ え、同時 どうじ に内部 ないぶ での争 あらそ いが絶 た えなかった。周 しゅう は東 ひがし 周 しゅう 国 こく と西 にし 周 しゅう 国 こく に分 わ かれていて、赧王は西 にし 周 しゅう に遷都 せんと した[ 17] 。赧王八 はち 年 ねん (紀元前 きげんぜん 307年 ねん )、秦 はた が両 りょう 周 しゅう の道 みち を借 か りて韓 かん を攻 せ めようとしたが、周 しゅう 人 じん は道 みち を貸 か さなかった[ 18] [ 19] 。赧王六 ろく 十 じゅう 年 ねん (紀元前 きげんぜん 256年 ねん )には西 にし 周 しゅう 国 こく が秦 はた によって滅亡 めつぼう し、赧王も死 し した[ 20] 。これにより中国 ちゅうごく の王朝 おうちょう で最 もっと も長 なが い790年 ねん 続 つづ いた周 しゅう 王朝 おうちょう は滅亡 めつぼう した。七 なな 年 ねん 後 ご には、東 ひがし 周 しゅう 国 こく も秦 はた によって滅亡 めつぼう し[ 21] 、周 しゅう 王室 おうしつ の祭祀 さいし は完全 かんぜん に途絶 とだ えた。
幽 かそけ 王 おう 3年 ねん (紀元前 きげんぜん 780年 ねん )、美女 びじょ の褒姒 が入 にゅう 宮 みや し、幽 かそけ 王 おう の寵愛 ちょうあい を得 え て、子 こ の伯 はく 服 ふく (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) を産 う んだ。幽 かそけ 王 おう は正室 せいしつ の申 さる 后 きさき と子 こ の太子 たいし 宜 むべ 臼 うす を廃 はい し、褒姒を正室 せいしつ としその子 こ の伯 はく 服 ふく を太子 たいし とした[ 22] 。
褒姒は笑 わら わなかったために、幽 かそけ 王 おう は笑 わら わせる方法 ほうほう を考 かんが えた。多数 たすう の方法 ほうほう を考 かんが えたが、成功 せいこう しなかった。最終 さいしゅう 的 てき に「烽火 ほうか 戯 おどけ 諸侯 しょこう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 」という方法 ほうほう を考 かんが えた。ある日 ひ 、幽 かそけ 王 おう は緊急 きんきゅう 事態 じたい の知 し らせの烽火 ほうか を上 あ げさせ、太鼓 たいこ を打 う ち鳴 な らした。諸 しょ 将 しょう はさっそく駆 か けつけたが、来 き てみると何 なに ごとも無 な い。右往左往 うおうさおう する諸 しょ 将 しょう を見 み た褒姒は、そのときはじめて晴 は れやかに笑 わら った。幽 かそけ 王 おう は褒姒を笑 わら わせるために、次々 つぎつぎ に烽火 ほうか を上 あ げために、諸 しょ 将 しょう は狼煙 のろし を信用 しんよう しなくなった[ 24] 。
幽 かそけ 王 おう は佞臣 ねいしん の虢石父 ちち を任用 にんよう したため、国人 くにびと の怨 うら みを買 か った。虢石父 ちち はよくへつらって利 り を好 この んだ。申 さる 后 きさき の父 ちち で太子 たいし の祖父 そふ に当 あ たる申 さる 侯 こう はこのことに憤怒 ふんぬ した。紀元前 きげんぜん 771年 ねん 、申 さる 侯 こう は繒や犬 いぬ 戎 えびす とともに周 しゅう へ侵攻 しんこう した。幽 かそけ 王 おう は烽火 ほうか を上 あ げ救援 きゅうえん を求 もと めたが、諸侯 しょこう は援軍 えんぐん を出 だ さなかった。幽 かそけ 王 おう や伯 はく 服 ふく ・鄭 てい の桓公 かんこう らは驪山 で殺 ころ された[ 25] 、褒姒は犬 いぬ 戎 えびす に連 つ れ去 さ られ[ 26] 、都 と の鎬京は荒 あら された。申 さる 侯 こう や魯 侯 ほう 、許 もと の文 ぶん 公 こう は平 ひら 王 おう (宜 むべ 臼 うす )を擁立 ようりつ し、天王 てんのう と称 しょう した。鎬京から洛 らく 邑 に東遷 とうせん した。
東 あずま 周 あまね は、往時 おうじ と比 ひ するべくもない程 ほど まで没落 ぼつらく した。平 たいら 王 おう の孫 まご である桓王 は王権 おうけん の再 さい 強化 きょうか を図 はか ったが、繻葛の戦 たたか い (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) (前 ぜん 707年 ねん )で一 いち 諸侯 しょこう に過 す ぎない鄭 てい に敗 やぶ れた事 こと で諸侯 しょこう に対 たい する統制 とうせい 力 りょく を喪失 そうしつ した。
さらに、王室 おうしつ 内 ない で幾度 いくど も王位 おうい 継承 けいしょう 争 あらそ いが発生 はっせい したために周 しゅう 王室 おうしつ の力 ちから は弱体 じゃくたい 化 か し、洛 らく 邑(王城 おうじょう ・成 なる 周 しゅう )周辺 しゅうへん のみを支配 しはい する小国 しょうこく となっていった。現代 げんだい の湖北 こほく 省 しょう 随 ずい 州 しゅう 市 し 付近 ふきん にあった曽 そ (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) の春秋 しゅんじゅう 時代 じだい の侯 ほう の墓 はか に納 おさ められていた青銅器 せいどうき の銘文 めいぶん には、「周 しゅう 室 しつ 既 すんで 卑(しゅうしつすでにひくく)」と書 か かれている。それでも権威 けんい だけは保持 ほじ しており、諸侯 しょこう たちはその権威 けんい を利用 りよう して諸侯 しょこう の間 あいだ の主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ ろうとした(春秋 しゅんじゅう 五 ご 覇 は )。周 しゅう 王室 おうしつ 側 がわ も覇者 はしゃ をはじめとする諸侯 しょこう に対 たい して、西 にし 周 あまね 以来 いらい の伝統 でんとう と権威 けんい を強調 きょうちょう することで祭祀 さいし を主催 しゅさい する立場 たちば の維持 いじ を図 はか った。
しかし、その権威 けんい も春秋 しゅんじゅう 時代 じだい 後半 こうはん からは低下 ていか していった。例 たと えば春秋 しゅんじゅう 時代 じだい の秦 はた の景 けい 公 こう の墓 はか の出土 しゅつど 品 ひん の銘文 めいぶん では秦 はた の君主 くんしゅ を本来 ほんらい 周 しゅう 王 おう の称号 しょうごう であったはずの「天子 てんし 」と称 しょう している。また孔子 こうし の登場 とうじょう 以降 いこう 、西 にし 周 あまね の時代 じだい を理想 りそう 化 か した礼 れい 制 せい の整備 せいび が儒家 じゅか や諸侯 しょこう によって行 おこな われていくが、それらに対 たい して周 しゅう 王室 おうしつ は全 まった く主導 しゅどう 権 けん を発揮 はっき しておらず、祭祀 さいし を主催 しゅさい する立場 たちば すら失 うしな っていた。
戦国 せんごく 時代 じだい に入 はい ると、かつての覇者 はしゃ ・晋 すすむ や太公望 たいこうぼう の子孫 しそん である斉 ひとし (姜 きょう 斉 ひとし ) といった周 しゅう 王室 おうしつ と歴史 れきし 的 てき に結 むす びつきが強 つよ い諸侯 しょこう が滅 ほろ び、周 しゅう 王 おう の権威 けんい や存在 そんざい 意義 いぎ はますます低下 ていか していった。魏 たかし の惠 めぐみ 王 おう は「夏 なつ 王 おう 」・「天子 てんし 」を称 しょう し、周 しゅう 王朝 おうちょう に取 と って代 か わる意思 いし を示 しめ すほどであった。東 ひがし 周 しゅう 23代目 だいめ の王 おう 顕 あらわ 王 おう は秦 はた に対 たい して春秋 しゅんじゅう 時代 じだい に覇者 はしゃ に対 たい して行 い っていた儀礼 ぎれい を行 おこな うことで、秦 はた の保護 ほご を受 う けようとしたが、既 すで に春秋 しゅんじゅう 時代 じだい に天子 てんし を称 しょう していた秦 はた の恵 めぐみ 文 ぶん 王 おう は王 おう を称 しょう し、後 のち には七 なな 雄 ゆう の諸侯 しょこう のみならず小国 しょうこく の宋 そう や北辺 ほくへん の中 ちゅう 山国 やまぐに の君主 くんしゅ までもが王 おう を称 しょう するようになった。秦 はた の昭 あきら 襄 じょう 王 おう と田 た 斉 ひとし の湣王 に至 いた っては一時 いちじ 「西 にし 帝 みかど 」「東 ひがし 帝 みかど 」と帝 みかど 号 ごう を称 しょう した。
周 しゅう 王室 おうしつ の力 ちから は上述 じょうじゅつ のように衰微 すいび し、影響 えいきょう 力 りょく はわずかに王 おう 畿(現在 げんざい の洛陽 らくよう 附近 ふきん )に限定 げんてい されていた。ただでさえ衰 おとろ えていた周 しゅう 王室 おうしつ であるが、末期 まっき には貞 さだ 定 てい 王 おう の末子 まっし 掲(桓公 かんこう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) )を始祖 しそ とする西 にし 周 しゅう 公 こう (武 たけ 公 こう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) )とそこから分裂 ぶんれつ した東 あずま 周 あまね 君 くん (昭文 あきふみ 君 くん )の勢力 せいりょく によって分裂 ぶんれつ していた。周 しゅう 王朝 おうちょう 最後 さいご の王 おう である赧王 は西 にし 周 しゅう の武 たけ 公 こう を頼 たよ って西 にし 周 あまね (河南 かなん )に遷都 せんと し、元 もと の成 なり 周 しゅう は東 あずま 周 あまね 君 くん が支配 しはい した。周 しゅう 王室 おうしつ の領土 りょうど は東西 とうざい に分裂 ぶんれつ し、狭 せま い範囲 はんい で互 たが いに争 あらそ い合 あ う有様 ありさま であった。
赧王の在位 ざいい は59年 ねん に及 およ んだが紀元前 きげんぜん 256年 ねん 、西 にし 周 あまね は諸侯 しょこう と通 つう じて韓 かん と交戦 こうせん 中 ちゅう の秦 はた 軍 ぐん を妨害 ぼうがい したため秦 はた の将軍 しょうぐん 楊摎 の攻撃 こうげき を受 う けた。西 にし 周 しゅう の文 ぶん 公 こう (武 たけ 公 こう の子 こ )は秦 しん へおもむき謝罪 しゃざい しその領土 りょうど を秦 はた に献上 けんじょう した。このため赧王は秦 はた の保護 ほご 下 か に入 はい ったがまもなく崩御 ほうぎょ し、程 ほど なくして西 にし 周 しゅう の文 ぶん 公 こう も死去 しきょ した。西 にし 周 しゅう の文 ぶん 公 こう が死去 しきょ すると、その民 みん は堰 せき を切 き ったように東 ひがし 周 しゅう へ逃亡 とうぼう し、秦 はた は九 きゅう 鼎 かなえ と周 しゅう 王室 おうしつ の宝物 ほうもつ を接収 せっしゅう し、文 ぶん 公 こう の子 こ を移 うつ した。こうして、秦 はた が王 おう 畿を占拠 せんきょ したことで、西 にし 周 あまね と周 しゅう 王室 おうしつ 本家 ほんけ は滅亡 めつぼう することとなった。
その後 ご も昭文 あきふみ 君 くん の東 ひがし 周 しゅう は7年間 ねんかん 存続 そんぞく したが、紀元前 きげんぜん 249年 ねん 、秦 はた の呂 りょ 不 ふ 韋 によって攻 せ め滅 ほろ ぼされた。『史記 しき 』の秦 はた 本紀 ほんぎ では昭文 あきふみ 君 くん は殺 ころ されたと伝 つた えられているが、東 あずま 周 あまね 君 くん に土地 とち を与 あた えて周 しゅう の祭祀 さいし を続 つづ けさせたとも書 か かれており、この場合 ばあい 昭文 あきふみ 君 くん の子 こ が封 ふう じられたと考 かんが えられる。
この時点 じてん で、周 しゅう 朝 ちょう の諸侯 しょこう 国 こく は秦 はた ・楚 すわえ ・斉 ひとし ・燕 つばめ ・趙 ちょう ・韓 かん ・魏 たかし ・越 こし ・衛 まもる ・魯 のみが生 い き残 のこ っていた[ 注 ちゅう 4] 。紀元前 きげんぜん 236年 ねん の鄴の戦 たたか い を皮切 かわき りに[ 38] [ 39] [ 40] 、秦 はた は本格 ほんかく 的 てき に統一 とういつ 戦争 せんそう を開始 かいし した。紀元前 きげんぜん 230年 ねん には韓 かん を滅 ほろ ぼした[ 41] 。紀元前 きげんぜん 228年 ねん に趙 ちょう [ 41] 、紀元前 きげんぜん 225年 ねん に魏 ぎ [ 45] 、紀元前 きげんぜん 223年 ねん に楚 すわえ 、紀元前 きげんぜん 222年 ねん に燕 つばめ [ 46] と越 こし 、紀元前 きげんぜん 221年 ねん に斉 ひとし を滅 ほろ ぼし[ 46] 、中華 ちゅうか 統一 とういつ を成 な し遂 と げた。
秦 はた の始皇帝 しこうてい の死後 しご 、すなわち楚 すわえ 漢 かん 戦争 せんそう 期 き には、各地 かくち で戦国 せんごく 諸侯 しょこう の王族 おうぞく が再 ふたた び擁立 ようりつ されたが、周 しゅう の末裔 まつえい を擁立 ようりつ して周 しゅう 王室 おうしつ を復興 ふっこう しようという動 うご きはなかった。
前漢 ぜんかん の武 たけ 帝 みかど 以降 いこう 、儒学 じゅがく が尊重 そんちょう されるようになると、周 しゅう 王室 おうしつ の子孫 しそん も尊重 そんちょう されるようになり、姫 ひめ 嘉 よしみ (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) という人物 じんぶつ が周子 かねこ 南君 なぎみ (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) に封 ふう じられた。姫 ひめ 嘉 よしみ の子孫 しそん は元 もと 帝 みかど の時代 じだい には周 しゅう 承 うけたまわ 休 きゅう 侯 こう へ昇格 しょうかく され、平 ひら 帝 みかど の時 とき には鄭 てい 公 こう に、後 こう 漢 かん の光武 みつたけ 帝 みかど の時代 じだい には衛 まもる 公 おおやけ に封 ふう じられている。
春秋 しゅんじゅう 時代 じだい の名 な の由来 ゆらい は、孔子 こうし が編纂 へんさん した歴史 れきし 書 しょ 《春秋 しゅんじゅう 》に因 ちな む。
春秋 しゅんじゅう の記述 きじゅつ の始 はじ まりは、周平 しゅうへい 王 おう 五 ご 十 じゅう 年 ねん (紀元前 きげんぜん 722年 ねん )である。周 しゅう 敬 たかし 王 おう 四 よん 十 じゅう 三 さん 年 ねん (紀元前 きげんぜん 477年 ねん )或 ある いは四 よん 十 じゅう 四 よん 年 ねん (紀元前 きげんぜん 476年 ねん )に記述 きじゅつ は終 お わる。然 しか し、歴史 れきし 学者 がくしゃ らは春秋 しゅんじゅう 時代 じだい の終 お わりは晋 すすむ の智 さとし 氏 し の趙 ちょう 氏 し ・魏 たかし 氏 し ・韓 かん 氏 し による滅亡 めつぼう (紀元前 きげんぜん 453年 ねん )や、三 さん 家 いえ 分 ぶん 晋 すすむ (紀元前 きげんぜん 403年 ねん )としている。原因 げんいん 是 ぜ 即 そく 使 し 到 いた 三 さん 家 いえ 分 ぶん 晋 すすむ ,除 じょ 秦 はた ・楚 すわえ ・斉 ひとし 等 とう 國外 こくがい ,還 かえ 有 ゆう 其他大小 だいしょう 王國 おうこく 。
春秋 しゅんじゅう 時代 じだい には周 しゅう 王 おう は政治 せいじ の実権 じっけん は握 にぎ っていなかったが、依然 いぜん として精神 せいしん 面 めん の中心 ちゅうしん であり、諸侯 しょこう は王 おう に次 つ ぐ2番目 ばんめ の地位 ちい たる覇者 はしゃ となろうとしていた。
春秋 しゅんじゅう 戦国 せんごく 時代 じだい の古 こ 剣 けん
三 さん 家 いえ 分 ぶん 晋 すすむ によって、春秋 しゅんじゅう 時代 じだい は結束 けっそく した。斉 ひとし を秦 はた が滅 ほろ ぼし 、中華 ちゅうか 統一 とういつ する紀元前 きげんぜん 221年 ねん までの時代 じだい を、一般 いっぱん 的 てき に戦国 せんごく 時代 じだい と呼 よ ばれる。戦国 せんごく 時代 じだい の名 な の由来 ゆらい は歴史 れきし 書 しょ ・戦国 せんごく 策 さく である。
春秋 しゅんじゅう 時代 じだい に対 たい して戦国 せんごく 時代 じだい は、諸侯 しょこう 自 みずか らがそれぞれ「王 おう 」を称 しょう して争 あらそ うようになり、残 のこ っていた周 しゅう 王 おう の権威 けんい は殆 ほとん ど無 な くなった。
東 あずま 周 あまね 王朝 おうちょう は戦国 せんごく 時代 じだい 後期 こうき (紀元前 きげんぜん 256年 ねん )に秦 はた によって滅亡 めつぼう した。その後 ご も45年間 ねんかん 、戦国 せんごく 時代 じだい が続 つづ いているため、必 かなら ずしも戦国 せんごく 時代 じだい と東 あずま 周 あまね の代 だい が同 おな じというわけではない。
春秋 しゅんじゅう 時代 じだい の終 お わり・戦国 せんごく 時代 じだい の始 はじ まりについては諸説 しょせつ ある。晋 すすむ の家臣 かしん であった韓 かん ・魏 たかし ・趙 ちょう の三 さん 国 こく が正式 せいしき に諸侯 しょこう として認 みと められた紀元前 きげんぜん 403年 ねん とする説 せつ 、紀元前 きげんぜん 453年 ねん に韓 かん ・魏 たかし ・趙 ちょう が智 さとし 氏 し を滅 ほろ ぼして独立 どくりつ 諸侯 しょこう としての実質 じっしつ を得 え た時点 じてん を採 と る『資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん 』説 せつ の2つが主流 しゅりゅう である。この他 ほか に、『春秋 しゅんじゅう 』は魯 哀 あい 公 こう 十 じゅう 四 よん 年 ねん (紀元前 きげんぜん 481年 ねん )に「獲 え 麟 」(麒麟 きりん を獲 え た)の記述 きじゅつ で終了 しゅうりょう するので、これをもって春秋 しゅんじゅう 時代 じだい の終 お わりとする説 せつ 、『史記 しき 』の『六 ろく 国 こく 年表 ねんぴょう 』が始 はじ まる紀元前 きげんぜん 476年 ねん とする説 せつ などがある。主要 しゅよう な7説 せつ を列挙 れっきょ すると、
紀元前 きげんぜん 481年 ねん (周 しゅう の敬 けい 王 おう 39年 ねん )
紀元前 きげんぜん 476年 ねん (周 しゅう の敬 けい 王 おう 44年 ねん [ 注 ちゅう 6] )
史記 しき の『六 ろく 国 こく 年表 ねんぴょう 』の記載 きさい が始 はじ まった年 とし [ 51] 。
紀元前 きげんぜん 475年 ねん (周 しゅう の元 もと 王 おう 元年 がんねん [ 注 ちゅう 7] )
前年 ぜんねん に周 しゅう の敬 けい 王 おう が在位 ざいい 44年 ねん で死去 しきょ し、周 しゅう の元 もと 王 おう 元年 がんねん を戦国 せんごく 時代 じだい の始 はじ めとする[ 52] 。
紀元前 きげんぜん 468年 ねん (周 しゅう の貞 さだ 定 てい 王 おう 元年 がんねん )
紀元前 きげんぜん 453年 ねん (周 しゅう の貞 さだ 定 てい 王 おう 16年 ねん )
紀元前 きげんぜん 441年 ねん (周 しゅう の哀 あい 王 おう 元年 がんねん )
紀元前 きげんぜん 403年 ねん (周 しゅう の威 い 烈 れつ 王 おう 23年 ねん )
三 さん 晋 すすむ が周 しゅう により正式 せいしき に諸侯 しょこう に認 みと められた年 とし 。一般 いっぱん 的 てき にはこの年 とし からを戦国 せんごく 時代 じだい とする。
代 だい
氏名 しめい
在職 ざいしょく 期間 きかん
1
平 ひら 王 おう
前 ぜん 770年 ねん - 前 ぜん 720年 ねん
2
桓王
前 ぜん 719年 ねん - 前 ぜん 697年 ねん
3
荘 そう 王 おう
前 ぜん 696年 ねん - 前 ぜん 682年 ねん
4
釐王
前 ぜん 681年 ねん - 前 ぜん 677年 ねん
5
恵 めぐみ 王 おう
前 ぜん 676年 ねん - 前 ぜん 652年 ねん
ー
弭叔頽 くずおれ
前 ぜん 675年 ねん - 前 ぜん 673年 ねん
6
襄 じょう 王 おう
前 ぜん 651年 ねん - 前 ぜん 619年 ねん
7
頃 ころ 王 おう
前 ぜん 618年 ねん - 前 ぜん 613年 ねん
8
匡 ただし 王 おう
前 ぜん 612年 ねん - 前 ぜん 607年 ねん
9
定 てい 王 おう
前 ぜん 606年 ねん - 前 ぜん 586年 ねん
10
簡王
前 ぜん 585年 ねん - 前 ぜん 572年 ねん
11
霊 れい 王 おう
前 ぜん 571年 ねん - 前 ぜん 545年 ねん
12
景 けい 王 おう
前 ぜん 544年 ねん - 前 ぜん 520年 ねん
13
悼王
前 ぜん 520年 ねん
14
敬 けい 王 おう
前 ぜん 519年 ねん - 前 ぜん 477年 ねん
15
元 もと 王 おう
前 ぜん 476年 ねん - 前 ぜん 469年 ねん
16
貞 さだ 定 てい 王 おう
前 ぜん 468年 ねん - 前 ぜん 441年 ねん
17
哀 あい 王 おう
前 ぜん 441年 ねん
18
思 おもえ 王 おう
前 ぜん 441年 ねん
19
考 こう 王 おう
前 ぜん 440年 ねん - 前 ぜん 426年 ねん
20
威 い 烈 れつ 王 おう
前 ぜん 425年 ねん - 前 ぜん 402年 ねん
21
安王 やすおう
前 ぜん 401年 ねん - 前 ぜん 376年 ねん
22
烈 れつ 王 おう
前 ぜん 375年 ねん - 前 ぜん 369年 ねん
23
顕 あらわ 王 おう
前 ぜん 368年 ねん - 前 ぜん 321年 ねん
24
慎 まき 靚王
前 ぜん 320年 ねん - 前 ぜん 315年 ねん
25
赧王
前 ぜん 314年 ねん - 前 ぜん 256年 ねん
周 しゅう 王室 おうしつ の系図 けいず (西 にし 周 あまね 含 ふく む)
春秋 しゅんじゅう 時代 じだい の諸侯 しょこう の勢力 せいりょく 図 ず
^ "Zhou" . Random House Webster's Unabridged Dictionary .
^ "...Eastern Zhou period (770–256 BC)" Early China - A Social and Cultural History, p. 10. Cambridge University Press.
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん ・周 しゅう 本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん 》:西 にし 夷 えびす 犬 けん 戎 えびす 攻 おさむ 幽 かそけ 王 おう 。幽 かそけ 王 おう 挙 きょ 烽火 ほうか 徴兵 ちょうへい ,兵 へい 莫至。遂 とげ 殺 ころせ 幽 かそけ 王 おう 驪山下 か ,虜 とりこ 褒姒,尽 つき 取 ど 周 しゅう 賂 まいない 而去。
^ 《清華 せいか 簡・繋 つなぎ 年 ねん 》:幽 かそけ 王 おう 起 おこり 師 し ,回 かい 平 ひらめ 王 おう 于西申 さる ,申 さる 人 じん 弗 どる 畀,曾人乃降西戎 せいじゅう ,以攻幽 かそけ 王 おう ,幽 かそけ 王 おう 及伯盤 ばん 乃滅,周 しゅう 乃亡。邦 くに 君 くん 、諸 しょ 正 せい 乃立幽 かそけ 王 おう 之 の 弟 おとうと 余 あまり 臣 しん 于虢,是 ぜ 携恵王 おう 。立 たて 廿 にじゅう 又 また 一 いち 年 ねん ,晋 すすむ 文 ぶん 侯 こう 仇 かたき 乃殺恵 めぐみ 王 おう 于虢。周 しゅう 亡 ほろび 王 おう 九 きゅう 年 ねん ,邦 くに 君 くん 諸侯 しょこう 焉始不 ふ 朝 あさ 于周,晋 すすむ 文 ぶん 侯 こう 乃逆平 たいら 王 おう 于少鄂,立 だて 之 の 于京師 し 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん ・周 しゅう 本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん 》:平 ひら 王立 おうりつ ,東遷 とうせん 于洛邑,辟戎寇。平 たいら 王 おう 之 の 時 とき ,周 しゅう 室 しつ 衰微 すいび ,諸 しょ 侯 ほう 彊 つよし 併弱,斉 ひとし ・楚 すわえ ・秦 はた ・晋 すすむ 始 はじめ 大 だい ,政由 まさよし 方 かた 伯 はく 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん 十 じゅう 四 よん ・魏 ぎ 世 よ 家 か 第 だい 十 じゅう 四 よん 》:三 さん 十 じゅう 五 ご 年 ねん ,与 あずか 斉 ひとし 宣 せん 王 おう 会 かい 平 たいら 阿南 あなん 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん 十 じゅう 六 ろく ・田 た 敬 けい 仲 なか 完 かん 世 よ 家 か 第 だい 十 じゅう 六 ろく 》:于是斉 ひとし 最 さい 彊 つよし 于諸侯 こう ,自称 じしょう 為 ため 王 おう ,以令天下 でんか 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん 十 じゅう 五 ご ・韓 かん 世 よ 家 か 第 だい 十 じゅう 五 ご 》:十 じゅう 一 いち 年 ねん ,君 くん 号 ごう 為 ため 王 おう 。与 あずか 趙 ちょう 会 かい 区 く 鼠 ねずみ 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 三 さん 十 じゅう 四 よん ・燕 つばめ 召公世 よ 家 か 第 だい 四 よん 》:十 じゅう 年 ねん ,燕 つばめ 君 くん 為 ため 王 おう 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 三 さん 十 じゅう 八 はち ・宋 そう 微 ほろ 子 こ 世 よ 家 か 第 だい 八 はち 》:君 くん 偃十 じゅう 一 いち 年 ねん ,自立 じりつ 為 ため 王 おう 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん ・周 しゅう 本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん 》:初 はつ ,恵 めぐみ 后 きさき 欲 ほっ 立 りつ 王子 おうじ 帯 たい ,故 こ 以党開 ひらき 翟人,翟人遂 とげ 入 にゅう 周 しゅう 。襄 じょう 王 おう 出 いずる 餎鄭,鄭 てい 居 きょ 王 おう 于汜。子 こ 帯 たい 立 たて 為 ため 王 おう ,取 と 襄 じょう 王 おう 所 しょ 絀翟後 ご 与 あずか 居 きょ 温 ゆたか 。十 じゅう 七 なな 年 ねん ,襄 じょう 王 おう 告 つげ 急 きゅう 于晋,晋 すすむ 文 ぶん 公 こう 納 おさめ 王 おう 而誅叔帯。襄 じょう 王 おう 乃賜晋 すすむ 文 ぶん 公 こう 珪鬯弓矢 ゆみや ,為 ため 伯 はく ,以河内地 ないち 与 あずか 晋 すすむ 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん ・周 しゅう 本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん 》:二 に 十 じゅう 年 ねん ,晋 すすむ 文 ぶん 公 こう 召襄王 おう ,襄 じょう 王 おう 会 かい 之 の 河陽 かわよう ・践土,諸侯 しょこう 畢朝,書 しょ 諱 いみな 曰“天王 てんのう 狩 かり 于河陽 ひ ”。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん ・周 しゅう 本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん 》:定 てい 王 おう 元年 がんねん ,楚 すわえ 荘 そう 王 おう 伐 き 陸 りく 渾之戎 えびす ,次 じ 洛 らく ,使 つかい 人 じん 問 とい 九 きゅう 鼎 かなえ 。王 おう 使 し 王 おう 孫 まご 満 まん 応 おう 設 しつらえ 以辞,楚 すわえ 兵 へい 乃去。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん ・周 しゅう 本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん 》:赧王時 じ 東西 とうざい 周 しゅう 分 ぶん 治 ち ,赧王徙都西 にし 周 しゅう 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん ・周 しゅう 本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん 》:秦 はた 借 か 道 みち 両 りょう 周 しゅう 之 の 間 あいだ ,将 はた 以伐韓 かん ,周 しゅう 恐 おそれ 借 か 之 これ 畏 かしこ 于韓,不 ふ 借 か 畏 かしこ 于秦。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん ・周 しゅう 本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん 》:東 あずま 周 あまね 与 あずか 西 にし 周 しゅう 戦 せん ,韓 かん 救 すくい 西 にし 周 しゅう 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん ・周 しゅう 本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん 》:秦 はた 昭 あきら 王 おう 怒 いか ,使 つかい 将軍 しょうぐん 摎攻西 にし 周 しゅう 。西 にし 周 あまね 君 くん 餎秦,頓首 とんしゅ 受罪,尽 つき 献 けんじ 其邑三 さん 十 じゅう 六 ろく ,口 くち 三 さん 万 まん 。秦 はた 受其献 けんじ ,帰 かえり 其君于周。周 あまね 君 くん 赧王卒 そつ ,周 しゅう 民 みん 遂 とげ 東 ひがし 亡 ほろび 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん ・周 しゅう 本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん 》:後 こう 七 なな 歳 さい ,秦荘 はたしょう 襄 じょう 王 おう 滅 めつ 東 ひがし 周 しゅう 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん ・周 しゅう 本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん 》:三 さん 年 ねん ,幽 かそけ 王 おう 嬖愛褒姒。褒姒生子 おいご 伯 はく 服 ふく ,幽 かそけ 王 おう 欲 よく 廢 はい 太子 たいし 。太子 たいし 母 はは 申 さる 侯 こう 女 おんな ,而為后 きさき 。後 ご 幽 かそけ 王 おう 得 とく 褒姒,愛 あい 之 の ,欲 よく 廢 はい 申 さる 后 きさき ,並 なみ 去 さ 太子 たいし 宜 むべ 臼 うす ,以褒姒為后 きさき ,以伯服 ふく 為 ため 太子 たいし 。周太 しゅうた 史 し 伯 はく 陽 ひ 讀史 どくし 記 き 曰:「周 しゅう 亡 ほろび 矣。」昔 むかし 自 じ 夏 なつ 后 きさき 氏 し 之 の 衰 おとろえ 也,有 ゆう 二神龍止於夏帝庭而言曰:「余 よ ,褒之二 に 君 くん 。」夏 なつ 帝 みかど 卜 ぼく 殺 ころせ 之 の 與 あずか 去 ざ 之 これ 與 あずか 止 とめ 之 の ,莫吉。卜 ぼく 請其漦而藏 ぞう 之 の ,乃吉。於是布 ぬの 幣 ぬさ 而策告 つげ 之 の ,龍 りゅう 亡 ほろび 而漦在 ざい ,櫝而去之 の 。夏 なつ 亡 ほろび ,傳 つて 此器殷 いん 。殷 いん 亡 ほろび ,又 また 傳 つて 此器周 しゅう 。比 ひ 三 さん 代 だい ,莫敢發 はつ 之 の ,至 いたり 厲王之 の 末 すえ ,發 はつ 而觀之 の 。漦流於庭,不可 ふか 除 じょ 。厲王使 し 婦人 ふじん 裸 はだか 而譟之 の 。漦化為 ため 玄 げん 黿,以入王 おう 後宮 こうきゅう 。後宮 こうきゅう 之 の 童 わらわ 妾 わらわ 既 すんで 齔而遭之,既 すんで 笄而孕,無 む 夫 おっと 而生子 こ ,懼而棄之。宣 せん 王 おう 之 これ 時 じ 童女 どうじょ 謠 うたい 曰:「檿弧箕 み 服 ふく ,實 じつ 亡 ほろび 周 しゅう 國 こく 。」於是宣 せん 王 おう 聞之,有 ゆう 夫婦 ふうふ 賣 うり 是 ぜ 器 き 者 しゃ ,宣 せん 王 おう 使 し 執 と 而戮之 の 。逃於道 どう ,而見郷 きょう 者 しゃ 後宮 こうきゅう 童 わらわ 妾 わらわ 所 しょ 棄妖子 こ 出 で 於路者 しゃ ,聞其夜啼 よなき ,哀 あい 而収之 の ,夫婦 ふうふ 遂 とげ 亡 ほろび ,餎於褒。褒人有罪 ゆうざい ,請入童 わらわ 妾 わらわ 所 しょ 棄女子 じょし 者 しゃ 於王以贖罪 しょくざい 。棄女子 じょし 出 で 於褒,是 ぜ 為 ため 褒姒。當 とう 幽 かそけ 王 おう 三 さん 年 ねん ,王 おう 之 の 後宮 こうきゅう 見 み 而愛之 の ,生子 おいご 伯 はく 服 ふく ,竟廢申 さる 后 きさき 及太子 たいし ,以褒姒為后 きさき ,伯 はく 服 ふく 為 ため 太子 たいし 。太 たい 史 し 伯 はく 陽 ひ 曰:「禍 わざわい 成 なり 矣,無 む 可 か 奈何 いかん !」
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん ・周 しゅう 本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん 》:褒姒不 ふ 好 こう 笑 わらい ,幽 かそけ 王 おう 欲 よく 其笑萬 まん 方 ぽう ,故 こ 不 ふ 笑 わらい 。幽 かそけ 王 おう 為 ため 烽燧大 だい 鼓 こ ,有 ゆう 寇至則 そく 挙 きょ 烽火 ほうか 。諸侯 しょこう 悉至,至 いたり 而無寇,褒姒乃大笑 わらい 。幽 かそけ 王 おう 悦 えつ 之 の ,為 ため 数 すう 挙 きょ 烽火 ほうか 。其後不信 ふしん ,諸侯 しょこう 益 えき 亦 また 不 ふ 至 いたり 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん 十 じゅう 二 に ・鄭 てい 世 よ 家 か 第 だい 十 じゅう 二 に 》:二 に 歳 さい ,犬 いぬ 戎 えびす 殺 ころせ 幽 かそけ 王 おう 於驪山下 やました ,並 なみ 殺 ころせ 桓公 かんこう 。
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん ・周 しゅう 本紀 ほんぎ 第 だい 四 よん 》:幽 かそけ 王 おう 以虢石 せき 父 ちち 為 ため 卿 きょう ,用事 ようじ ,国人 くにびと 皆 みな 怨。石 いし 父 ちち 為 ため 人 じん 佞巧善 ぜん 諛好利 り ,王 おう 用 よう 之 の 。又 また 廢 はい 申 さる 后 きさき ,去 さ 太子 たいし 也。申 さる 侯 こう 怒 いか ,與 あずか 繒・西 にし 夷 えびす 犬 けん 戎 えびす 攻 おさむ 幽 かそけ 王 おう 。幽 かそけ 王 おう 挙 きょ 烽火 ほうか 徴兵 ちょうへい ,兵 へい 莫至。遂 とげ 殺 ころせ 幽 かそけ 王 おう 驪山下 か ,虜 とりこ 褒姒,盡 つき 取 ど 周 しゅう 賂 まいない 而去。於是諸侯 しょこう 乃即申 さる 侯 こう 而共立 きょうりつ 故 こ 幽 かそけ 王 おう 太子 たいし 宜 むべ 臼 うす ,是 ぜ 為平 ためひら 王 おう ,以奉周 しゅう 祀 まつ 。
^ (中国 ちゅうごく 語 ご ) 秦 はた 滅 めつ 趙 ちょう 之 の 戦 たたかえ [Qin's conquest of Zhao] (wiki), Hudong Baike, http://www.hudong.com/wiki/秦 はた 灭赵之 の 战
^ 《史記 しき ・巻 まき 四 よん 十 じゅう 三 さん ・趙 ちょう 世 よ 家 か 第 だい 十 じゅう 三 さん 》:九 きゅう 年 ねん ,趙 ちょう 攻 おさむ 燕 つばめ ,取 と 貍、陽 ひ 城 じょう 。兵 へい 未 み 罷 やめ ,秦 はた 攻 おさむ 鄴,抜之。
^ 《史記 しき ・巻 まき 六 ろく ・秦 はた 始 はじめ 皇 すめらぎ 本紀 ほんぎ 第 だい 六 ろく 》:十 じゅう 一 いち 年 ねん ,王 おう 翦、桓齮、楊端和 かず 攻 おさむ 鄴,取 と 九 きゅう 城 しろ 。王 おう 翦攻閼與、轑陽,皆 みな 併為一軍 いちぐん 。翦將十 じゅう 八 はち 日 にち ,軍 ぐん 歸 き 斗 と 食 しょく 以下 いか ,什推二人從軍取鄴安陽,桓齮将 しょう 。
^ a b “秦 はた 滅 めつ 韓 かん 和 かず 破 やぶ 趙 ちょう ”. 中華 ちゅうか 文化 ぶんか 信 しん 息 いき 网. 2015年 ねん 9月 がつ 23日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2014年 ねん 1月 がつ 3日 にち 閲覧 えつらん 。
^ (中国 ちゅうごく 語 ご ) 秦 はた 滅 めつ 魏 ぎ 之 の 戦 たたかえ [Qin's conquest of Wei] (wiki), Hudong Baike, http://www.hudong.com/wiki/秦 はた 灭魏之 の 战
^ a b 秦 はた 滅 めつ 燕 つばめ 、趙 ちょう 和 かず 破 やぶ 斉 ひとし Archived 2015-09-23 at the Wayback Machine .
^ 「秦 はた 既 すんで 得意 とくい ,焼 やき 天下 でんか 《詩 し 》・《書 しょ 》,諸侯 しょこう 史記 しき 尤 ゆう 甚,為 ため 其有所 しょ 刺 とげ 譏 そし 也……独 どく 有 ゆう 《秦 しん 記 き 》,又 また 不 ふ 載 の 日月 じつげつ ,其文略 りゃく 不具 ふぐ 。然 しか 戦国 せんごく 之 これ 権 けん 変 へん 亦 また 有可 ゆか 頗采者 しゃ 。……余 あまり 於是因 いん 《秦 しん 記 き 》,踵 かかと 《春秋 しゅんじゅう 》之 これ 後 ご ,起 おこし 周 しゅう 元 もと 王 おう ,表 ひょう 六 ろく 国 こく 時事 じじ ,訖二 に 世 せい ,凡二 に 百 ひゃく 七 なな 十 じゅう 年 ねん ,著 しる 諸 しょ 所 ところ 聞興壊之端 はし 」《史記 しき 六 ろく 国 こく 年表 ねんぴょう 》
^ 《左 ひだり 伝 でん 哀 あい 公 こう 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん 》:冬 ふゆ ,叔青如京師 し ,敬 けい 王 おう 崩 くずし 故 こ 也。
^ 「前 ぜん 453年 ねん 由 よし 三家瓜分晋国的局面便已形成,但 ただし 直 ちょく 到 いた 前 ぜん 403年 ねん ,韓 かん ・趙 ちょう ・魏 ぎ 三 さん 家 いえ 才 ざい 敢封侯 こう ,因 いん 此考量 こうりょう 到 いた 以周王 おう 元年 がんねん 為 ため 断 だん 代 だい 点 てん 此一条件 じょうけん ,自然 しぜん 以周哀 あい 王 おう 元年 がんねん ,也即前 まえ 441年 ねん 為 ため 戦国 せんごく 時代 じだい 的 てき 起点 きてん 為 ため 最 さい 適当 てきとう 的 てき 選擇 せんたく 」《孫子 まごこ 兵法 ひょうほう 論 ろん 正 ただし 》
^ “諸子 しょし 百 ひゃく 家 いえ 中國 ちゅうごく 哲學 てつがく 書 しょ 電子 でんし 化 か 計 けい 劃 『史書 ししょ 』秦 はた 本紀 ほんぎ 70 ” (漢文 かんぶん ). 網 あみ 站的設計 せっけい 與 あずか 内容 ないよう . 2011年 ねん 12月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ a b Duiker, William J. Spielvogel, Jackson J. Edition:5, illustrated. (2006). World History:Volume I:To 1800 . Thomson Higher Education publishing. ISBN 0495050539 , 9780495050537. pg 78.
^ a b 《史記 しき ・巻 まき 四 よん 十 じゅう 六 ろく ・田 た 敬 けい 仲 なか 完 かん 世 よ 家 か 第 だい 十 じゅう 六 ろく 》:康 かん 公 こう 貸 かし 立 だて 十 じゅう 四 よん 年 ねん ,太 ふとし 公 おおやけ 遷康公 こう 于海上 じょう 。明年 みょうねん ,魯敗斉 ひとし 平 ひら 陸 りく 。三 さん 年 ねん (康 かん 公 こう 十 じゅう 八 はち 年 ねん 、紀元前 きげんぜん 387年 ねん ),太 ふとし 公 おおやけ 与 あずか 魏 ぎ 文 ぶん 侯 こう 会 かい 濁澤 にごりさわ ,求 もとめ 為 ため 諸侯 しょこう 。魏 ぎ 文 ぶん 侯 こう 乃使使 し 言 げん 周 しゅう 天子 てんし 及諸侯 こう ,請立斉 ひとし 相田 あいだ 和 かず 為 ため 諸侯 しょこう 。周 しゅう 天子 てんし 許 もと 之 の 。康 かん 公 こう 之 の 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん ,田和 たわ 立 たて 為 ため 斉 ひとし 侯 ほう ,列 れつ 于周室 しつ ,紀元 きげん 年 ねん 。
Li, Bo; Zheng, Yin (2001) (中国 ちゅうごく 語 ご ), 《中華 ちゅうか 五 ご 千 せん 年 ねん 》 [5000 years of Chinese History] , Inner Mongolian People's publishing, ISBN 7-204-04420-7
佐藤 さとう 信弥 しんや 『周 あまね -理想 りそう 化 か された古代 こだい 王朝 おうちょう 』中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 、2016年 ねん 。
島崎 しまざき 晋 すすむ 『春秋 しゅんじゅう 戦国 せんごく の英傑 えいけつ たち』双葉社 ふたばしゃ 、2019年 ねん 。
寺田 てらだ 隆信 たかのぶ 『物語 ものがたり 中国 ちゅうごく の歴史 れきし 』中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 、1997年 ねん 。
許 もと 倬雲 著 ちょ ,鄒水傑 すぐる 譯 やく :《中国 ちゅうごく 古代 こだい 社会 しゃかい 史論 しろん ——春秋 しゅんじゅう 戦国 せんごく 時期 じき 的 てき 社会 しゃかい 流動 りゅうどう 》(桂 かつら 林 りん :広西 ひろせ 師範 しはん 大学 だいがく 出版 しゅっぱん 社 しゃ ,2006)