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そう (春秋しゅんじゅう)

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そう
くにせい せい
爵位しゃくい 公爵こうしゃく
くに しょうおか
河南かなんしょうしょうおか睢陽
分封ぶんぽうしゃ たけおう
始祖しそ ほろけい
滅亡めつぼう原因げんいん ひとしにより滅亡めつぼう
史書ししょ記載きさい史記しき
まき38 そう
春秋しゅんじゅうひだりでん
かくれこう元年がんねんはつ
しゅうちょう諸侯しょこうこく一覧いちらん
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そう(そう、紀元前きげんぜん1100ねんごろ-紀元前きげんぜん286ねん)は、中国ちゅうごくしゅうだい春秋しゅんじゅう時代じだい戦国せんごく時代じだいわたって存在そんざいしたくにである。しょうおか

概要がいよう

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しゅうによってほろぼされたいんみかどからし(紂王)異母いぼけいほろけいふうじられたくにであったという。ただし、『史記しきそうほろによれば、ほろけい後継こうけいしゃ同母どうぼおとうとほろなかであり、ほろなかまではほろ領土りょうどとしていたとかんがえられる[1]

国力こくりょくはさほどでもなかったが、ぜん王朝おうちょうおうみつるつながるくにということで最高さいこう公爵こうしゃくあたえられていた。

じょうおおやけ時代じだいちからをつけ、ひとし桓公かんこうんだのち諸侯しょこうあつめてかいめいした。これをすわえなりおう不快ふかいおもい、かいめいにやってきたじょうおおやけ監禁かんきんした。一旦いったん謝罪しゃざい解放かいほうしてもらったじょうおおやけ雪辱せつじょくすべく泓水(おうすい)ですわえ決戦けっせんおこなった。

すわえぐんかわわたろうとしたとき、これを好機こうきそうぐん宰相さいしょう攻撃こうげき許可きょかもとめたがじょうおおやけ許可きょかしなかった。またすわえぐん隊列たいれつととのえているところをて、宰相さいしょうふたた攻撃こうげき許可きょかもとめたがまたしてもじょうおおやけ許可きょかしなかった。結果けっかかわわた隊列たいれつととのえたすわえぐんそうぐんはたきのめし、そう惨敗ざんぱいした(→泓水のたたか)。

のちに「何故なぜ許可きょかさなかったのか」とかれてじょうおおやけは「君子くんしひとよわみにんでたたかいにつようなことはしないものだ」とこたえたという。このはなしから程知ほどしらずのつまらないひとし宋襄そうじょうじんぶようになった。

紀元前きげんぜん350ねんごろそう周辺しゅうへん諸国しょこく

泓水のたたかいののちすすむ公子こうしであるじゅうみみそう亡命ぼうめいしてきた。じゅうみみ逸材いつざいであること見抜みぬいたじょうおおやけは、敗戦はいせんにもかかわらずじゅうみみおおいにもてなした。このおんじゅうみみわすれず、のちすすむ君主くんしゅになったのちそうすわえめられたとき大軍たいぐんはっしてこれを救援きゅうえんした。じゅうみみ死後しごもこの関係かんけいわらず、どんなにすわえいためつけられてもそうすすむたいする友誼ゆうぎてなかった。これによりすわえ北上ほくじょうし、すすむかえすという春秋しゅんじゅう時代じだい中期ちゅうきかたち出来上できあがっていくのである。

じょうおおやけのちひとしすわえすすむといった大国たいこくはさみあいだ地位ちい低下ていかした。ぶんこうからたいらこうにははなはじめこういぬ活躍かつやくられるが、最後さいごおうであるかんおう暴君ぼうくんであったために名声めいせいひくくかつてのなつになぞらえ桀宋とばれる有様ありさまであった。そのため、紀元前きげんぜん286ねんひとしによってほろぼされた。

そうかんする伝承でんしょう

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そうであるおとこ野良のら仕事しごとをしていた。するともりほうからうさぎんできてかぶくびをぶつけてんでしまった。おとこなにもしないでうさぎことよろこび、つぎからまたうさぎかぶにぶつけること期待きたいして、じっとかぶ見守みまもことにした。うさぎ二度にどとやってず、おとこはたけくさしげった」

かん旧来きゅうらい制度せいどにしがみついているもの批判ひはんするのに使つかった伝承でんしょうである。ここから臨機応変りんきおうへん物事ものごと処理しょりできないもののことを「守株しゅしゅ」とうようになった。かぶ(くいぜ)をまもる、とも。このはなしもと北原きたはら白秋はくしゅうが『ちぼうけ』のつくっている。

この伝承でんしょう先述せんじゅつ宋襄そうじょうじんなど、そうかんする伝承でんしょうには非合理ひごうりてき奇妙きみょう判断はんだんをそしるものがおおいが、一説いっせつしゅう系統けいとう勢力せいりょく異質いしつ体質たいしつ古代こだいなつ王朝おうちょう系統けいとう文化ぶんか[2]いんしょう系統けいとうそう文化ぶんか蔑視べっしされていたため、偏見へんけん誇張こちょうされた部分ぶぶんおおかったのではないかともわれている。

歴代れきだい君主くんしゅ

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  1. ほろけいけい
  2. ほろなか(衍)
  3. そうこう(稽)
  4. ちょうこうさる
  5. 湣公とも
  6. 煬公(熙)
  7. 厲公ふなまつ):? — 紀元前きげんぜん859ねん
  8. 釐公きょ):紀元前きげんぜん859ねん紀元前きげんぜん831ねん
  9. めぐみおおやけ(覵):紀元前きげんぜん831ねん紀元前きげんぜん801ねん
  10. あいこう:紀元前きげんぜん801ねん紀元前きげんぜん800ねん
  11. 戴公しろ):紀元前きげんぜん800ねん紀元前きげんぜん766ねん
  12. たけこうつかさそら):紀元前きげんぜん766ねん紀元前きげんぜん748ねん
  13. せんこうちから):紀元前きげんぜん748ねん紀元前きげんぜん729ねん
  14. きよしおおやけ):紀元前きげんぜん729ねん紀元前きげんぜん720ねん
  15. 殤公あずかえびす):紀元前きげんぜん720ねん紀元前きげんぜん711ねん
  16. そうこう(馮):紀元前きげんぜん711ねん紀元前きげんぜん692ねん
  17. 湣公とし):紀元前きげんぜん692ねん紀元前きげんぜん682ねん
  18. そうゆうゆう):紀元前きげんぜん682ねん
  19. 桓公かんこう(禦説):紀元前きげんぜん682ねん紀元前きげんぜん651ねん
  20. じょうおおやけ(茲甫):紀元前きげんぜん651ねん紀元前きげんぜん637ねん
  21. なりこうおうしん):紀元前きげんぜん637ねん紀元前きげんぜん620ねん
  22. そうくん(禦):紀元前きげんぜん620ねん
  23. あきらおおやけ杵臼きなうす):紀元前きげんぜん620ねん紀元前きげんぜん611ねん
  24. ぶんこうあわびかわ):紀元前きげんぜん611ねん紀元前きげんぜん589ねん
  25. きょうおおやけきず):紀元前きげんぜん589ねん紀元前きげんぜん576ねん
  26. たいらこうなり):紀元前きげんぜん576ねん紀元前きげんぜん532ねん
  27. もとおおやけ):紀元前きげんぜん532ねん紀元前きげんぜん517ねん
  28. けいこう(欒):紀元前きげんぜん517ねん紀元前きげんぜん469ねん
  29. そうこうけいけい):紀元前きげんぜん469ねん
  30. あきらおおやけとく):紀元前きげんぜん469ねん紀元前きげんぜん404ねん
  31. 悼公(購由):紀元前きげんぜん404ねん紀元前きげんぜん385ねん
  32. きゅうこう):紀元前きげんぜん385ねん紀元前きげんぜん363ねん
  33. 桓公かんこう(辟兵):紀元前きげんぜん363ねん紀元前きげんぜん350ねん?
  34. 剔成くん):紀元前きげんぜん350ねん? — 紀元前きげんぜん329ねん
  35. かんおう(偃):紀元前きげんぜん329ねん紀元前きげんぜん286ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 佐藤さとう信弥しんやあまね理想りそうされた古代こだい王朝おうちょう」(中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2016ねん
  2. ^ 杞憂きゆうとう表現ひょうげん