荀子

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荀子
荀子
プロフィール
出生しゅっしょう 紀元前きげんぜん313ねん紀元前きげんぜん298ねん?
死去しきょ 紀元前きげんぜん238ねん以降いこう
出身しゅっしん ちょう
職業しょくぎょう 中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだいすえ思想家しそうか儒学じゅがくしゃ
各種かくしゅ表記ひょうき
拼音 Xún zǐ
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荀子(『いたりせい先賢せんけん半身はんしんぞう』)

荀子(じゅんし、紀元前きげんぜん298ねん紀元前きげんぜん313ねん?) - 紀元前きげんぜん238ねん以降いこう)は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだいすえ思想家しそうか儒学じゅがくしゃ

いみなきょう荀況、じゅんきょう)。尊称そんしょうして荀卿(じゅんけい)ともばれる。かんだいにはまごきょう(そんけい)ともばれた[1]

人物じんぶつ来歴らいれき[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん4世紀せいきすえごろに、ちょうまれる。『史記しき』によると、50さいはじめてひとし遊学ゆうがくした。ひとしじょうおうつかえ、ひとし諸国しょこくからあつめた学者がくしゃたち(きび学士がくし)のまつりしゅ学長がくちょうしょく)ににんぜられる。きび学者がくしゃなかでは最年長さいねんちょうで、さんれつ大夫たいふ長官ちょうかんにんぜられた。のちに、讒言ざんげんのためひとしり、すわえ宰相さいしょうはるさるくんもちいられて、らんりょうれいとなり、にんしたのちもそのとどこおまった。こうかん荀彧荀攸はその末裔まつえいう。

ただしいれいけることを徹底てっていした「性悪説せいあくせつ」でられる。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

荀子および後学こうがく著作ちょさくぐんは、前漢ぜんかんすえりゅうむかいによって整理せいりされ、『まごきょう新書しんしょ』32へん12かんとしてまとめられた(かわひらた3ねん紀元前きげんぜん26ねん[2]。『漢書かんしょ芸文げいぶんこころざしに『まごきょう』としてている。とう楊倞中国語ちゅうごくごばん当時とうじ伝承でんしょうされていたテキストが混乱こんらんしていたのでこれを校訂こうていして注釈ちゅうしゃくくわえ、書名しょめいを『荀子』とあらため、りゅうむかいへん配列はいれつ一部いちぶあらためて内容ないようのまとまりのある順番じゅんばんならえ、32へん20かんとした(元和がんわ13ねん818ねん)。のちに『まごきょう新書しんしょ』はほろび佚し、現存げんそんするものはすべて楊倞ちゅうほん系統けいとうである。

出版しゅっぱんぶつとしてはじめて刊行かんこうされたのは、きたそうかみはじめ熙寧元年がんねん1068ねん)であり、みなみそうこうむねじゅん8ねん1181ねん)にうてなしゅうしゅうからなかとも復刻ふっこくした。このそうだい刊本かんぽんそうほんである。しかしこれは中国ちゅうごく散逸さんいつし、日本にっぽん金沢かなざわ文庫ぶんこいちさつのみのこされた。この写本しゃほんかげそううてなしゅうほんである。江戸えど文政ぶんせい時代じだい久保くぼあい久保くぼ筑水ちくすい)は、このかげそううてなしゅうほん参照さんしょうして『荀子ぞうちゅう』をあらわした(文政ぶんせい3ねん、1820ねん自序じじょ文政ぶんせい8ねん、1825かん)。よって、そうほん参照さんしょうした注釈ちゅうしゃくは、日本にっぽんの『荀子ぞうちゅう』が中国ちゅうごくよりはやい。中国ちゅうごくではおうさきけんきよしだい考証こうしょうがく成果せいかれ、日本にっぽんそうほん参照さんしょうして、『荀子しゅうかい』をあらわした(ひかりいとぐち17ねん1891ねん)。

構成こうせい[編集へんしゅう]

現行げんこうの『荀子』32へん以下いか構成こうせいである。

  • 1. 勧学かんがく
  • 2. 修身しゅうしん
  • 3.
  • 4. 栄辱えいじょく
  • 5. しょう
  • 6. じゅう
  • 7. なか
  • 8. 儒效
  • 9. 王制おうせい
  • 10. 富国ふこく
  • 11. おう
  • 12. くんどう
  • 13. しんどう
  • 14. 致士
  • 15. へい
  • 16. つよしこく
  • 17. てんろん
  • 18. 正論せいろん
  • 19. れいろん
  • 20. らくろん
  • 21. かい
  • 22. 正名まさな
  • 23. 性悪せいあく
  • 24. 君子くんし
  • 25. なりしょう
  • 26.
  • 27. 大略たいりゃく
  • 28. なだめすわ
  • 29. 子道しどう
  • 30. ほうぎょう
  • 31. あいこう
  • 32. 堯問

思想しそう[編集へんしゅう]

教育きょういくろん[編集へんしゅう]

勧学かんがくへんは、「がくもっやめ(や)むからず」のかたりからはじまる。人間にんげん終生しゅうせいまなつづけることによってみずからを改善かいぜんしなければならないとく。「あおこれあいよりりて、あいよりもせいし」は勧学かんがくへん言葉ことばであり、「あおあいよりあいよりあお」の成語せいご有名ゆうめいである。まなぶことは自分勝手じぶんがって学問がくもんではものにならず、信頼しんらいできるした体系たいけいてきまなび、かつただしいれいまなんでけた君子くんし目指めざさなければならない。荀子にとっての君子くんしは、礼法れいほうって社会しゃかいをこれにもとづいて指導しどうするものである。

統治とうち技術ぎじゅつとしてのれい[編集へんしゅう]

勧学かんがくへん君子くんしまなぶべき対象たいしょうは、「れい」であることがかれる。修身しゅうしんへんでは、君子くんしは「れい」にしたがって行動こうどうするべきことが強調きょうちょうされる。「れいほう大分おおいたるい綱紀こうきなり」(勧学かんがくへん)「れいなるものは、べんごくなり、強国きょうこくほんなり、ぎょうみちなり、功名こうみょうそう(そう)なり」(へいへん)と説明せつめいされるように、荀子はいにしえの時代じだいからがれた「れい」のなかに、国家こっか統治とうちするための公正こうせいほう精神せいしんがあるとかんがえる。国家こっかほう制度せいどは、「れい」のなかにある精神せいしんもとづいて制定せいていされる。王制おうせいへんでは王者おうじゃは「ひと」=輔佐ほさする人材じんざい、「せい」=れいせい、「りん」=身分みぶん秩序ちつじょ昇進しょうしん制度せいど、「ほう」=法律ほうりつ制定せいていするべきことがかれる。君子くんしれいけ、ほうしたがって統治とうちし、ほうさだめない案件あんけんについては「るい」=礼法れいほう原理げんりもとづいた判断はんだん適用てきようして行政ぎょうせいる。「そのほうものほうもっおこない、ほうしゃるいもっきょするは聴のつきなり」(王制おうせいへん)。

このように荀子は、君主くんしゅ頂点ちょうてんにあり、君子くんし礼法れいほうった官吏かんりとしてしたがい、人民じんみんほうもとづいて支配しはいされる、つまり法治ほうち国家こっか姿すがた描写びょうしゃして、その統治とうち原理げんりとして「れい」をくのである。孔子こうし孟子もうしも「れい」を個人こじん倫理りんりのみならず国家こっか統治とうち原理げんりとしてとらえる側面そくめん一応いちおうっていたが、荀子はそれを前面ぜんめんして「れい」を完全かんぜん国家こっか統治とうちするための技術ぎじゅつとしてとらえ、君子くんしが「れい」をまな理由りゆう明確めいかく国家こっか統治とうちしゃとなるためである。

荀子のえがいた国家こっか体制たいせいは、まずかれ弟子でしであるはた帝国ていこく皇帝こうてい頂点ちょうてんとする官僚かんりょう制度せいどとして実現じつげんし、つづかん帝国ていこく以降いこう中国ちゅうごく歴代れきだい王朝おうちょうでは官僚かんりょう儒学じゅがくまなんで修身しゅうしんする統治とうちしゃ倫理りんりくわわって、後世こうせい歴代れきだい王朝おうちょう国家こっか体制たいせいとして実現じつげんすることとなった。

実力じつりょく主義しゅぎ成果せいか主義しゅぎ[編集へんしゅう]

王制おうせいへん富国ふこくへんとうでは、せいにあたって実力じつりょく主義しゅぎ成果せいか主義しゅぎ有効ゆうこうせいいている。王制おうせいへんでは、王公おうこう大夫たいふ子孫しそんといえども礼儀れいぎにはげむことができなければ庶民しょみんおとし、庶民しょみん子孫しそんといえども文芸ぶんげい学問がくもんんでおこないをただして礼儀れいぎにはげむならばきょう大夫たいふにまで昇進しょうしんさせるべきことをく。

おうろん[編集へんしゅう]

王制おうせいへんで、天下てんか統一とういつする王者おうじゃがいない条件下じょうけんかでは、覇者はしゃ勝利しょうりすることをしめす。覇者はしゃ領地りょうち併合へいごうすることなく、諸侯しょこう友邦ゆうほうとして丁重ていちょうあつかい、弱国じゃっこくたすけて強暴きょうぼうくに禁圧きんあつし、ほろんだくに復興ふっこうさせてえたいえがせる。このような正義まさよし外交がいこうによって覇者はしゃ諸侯しょこうともとして、たんちからあるだけの強者きょうしゃ勝利しょうりするとく。それでも荀子はそのような現実げんじつてき覇者はしゃよりも、絶対ぜったい正義せいぎしめして天下てんかすべてを味方みかたにつけてたたかわず勝利しょうりするユートピアてき王者おうじゃ優位ゆういき、覇者はしゃではなく王者おうじゃ理想りそうとする。王者おうじゃ王道おうどう政治せいじ理想りそうとするのは、孟子もうしおなじく儒家じゅか基本きほん思想しそうである。

性悪説せいあくせつ社会しゃかい起源きげんろん[編集へんしゅう]

荀子は人間にんげんせいを「あく」すなわち利己りこてき存在そんざいみとめ、君子くんし本性ほんしょうを「にせ」(人為じんいてきなもの)、すなわち後天的こうてんてき努力どりょく(すなわち学問がくもんおさめること)によって修正しゅうせいしてぜんへとかい、統治とうちしゃとなるべきことをすすめた。この性悪説せいあくせつ立場たちばから、孟子もうし性善説せいぜんせつを荀子は批判ひはんした。

富国ふこくへんで、荀子は人間にんげんの「せい」(本性ほんしょう)は限度げんどのない欲望よくぼうだという前提ぜんていから、各人かくじん社会しゃかい秩序ちつじょなしに無限むげん欲望よくぼうたそうとすれば、うばい・ころいがしょうじて社会しゃかい混乱こんらんして窮乏きゅうぼうする、とかんがえた。それゆえに人間にんげんはあえて君主くんしゅ権力けんりょく服従ふくじゅうしてその規範きはん(すなわち「れい」)にしたがうことによって生命せいめい安全あんぜんとして窮乏きゅうぼうから脱出だっしゅつしたといた。このような思想しそうは、近代きんだい西欧せいおう先行せんこうした最古さいこ社会しゃかい契約けいやくせつであるとも評価ひょうかされる[3]。荀子は規範きはん(「れい」)の起源きげん社会しゃかい安全あんぜん経済けいざいてき繁栄はんえいのために制定せいていされたところに見出みいだし、高貴こうきもの一般いっぱん人民じんみんとの身分みぶんてき経済けいざいてき差別さべつは、人間にんげん欲望よくぼう実現じつげんちから差別さべつもう欲望よくぼう衝突しょうとつすることを防止ぼうしして、しい物資ぶっしになうべき労役ろうえき身分みぶんおうじて各人かくじん相応そうおう配分はいぶんされるために必要ひつよう制度せいどである、と正当せいとうする。そのためにらく音楽おんがく排斥はいせき)・ふしそう葬儀そうぎ簡略かんりゃく)・節用せつよう生活せいかつ倹約けんやく)を主張しゅちょうして君主くんしゅみずかはたらくことを主張しゅちょうするぼくを、倹約けんやく強制きょうせいすることは人間にんげん本性ほんしょうはんし、なおかつ上下じょうげ身分みぶん差別さべつをなくすことは欲望よくぼう衝突しょうとつまねき、結果けっか社会しゃかい混乱こんらんをもたらすだけであると批判ひはんした。

荀子の実力じつりょく主義しゅぎによる昇進しょうしん降格こうかく身分みぶんによる経済けいざい格差かくさ正当せいとうは、メリトクラシーとして表裏一体ひょうりいったいである。

天人てんにんぶん[編集へんしゅう]

てんろんへんでは、「てん」を自然しぜん現象げんしょうであるとして、従来じゅうらい天人てんにん相関そうかん思想しそう(「てん」が人間にんげん行為こうい感応かんおうして禍福かふくくだすという思想しそう)を否定ひていした。

流星りゅうせい日食にっしょくも、めずらしいだけの自然しぜん現象げんしょうであり、為政者いせいしゃ行動こうどうとは無関係むかんけいだし、吉兆きっちょう凶兆きょうちょうなどではない。これらをいぶかるのはよろしいが、おそれるのはよくない」。

てんとは自然しぜん現象げんしょうである。これをあがめて供物くもつささげるよりは、研究けんきゅうしてこれを利用りようするほうがい」。

また祈祷きとうひとしちょうつねてき効果こうか否定ひていしている。

雨乞あまごいの儀式ぎしきをしたらあめった。これはべつなにということもない。雨乞あまごいをせずにあめるのとおなじである」。

為政者いせいしゃは、うらないの儀式ぎしきをして重要じゅうよう決定けっていをする。これはべつうらないをしんじているからではない。無知むちみんしんじさせるためにうらないを利用りようしているだけのことである」。

後世こうせいへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

篆書てんしょによる『荀子』(きよし鄧石如ふで

中国ちゅうごくはたかんだい[編集へんしゅう]

荀子の弟子でしとしては、かん浮丘はくちんちょうあおなどが記録きろくあらわれる。かん斯は荀子の統治とうち思想しそう批判ひはんてき継承けいしょうした。かん斯は、外的がいてき規範きはんである「れい」の思想しそうをさらにすすめて「ほう」による人間にんげん制御せいぎょき、かん法家ほうか思想しそう大成たいせいしゃとなり、斯は法家ほうか実務じつむ完成かんせいしゃとなった。ただし、「法家ほうか思想しそう」そのものは荀子やかんまれるまえから存在そんざいしており、荀子の思想しそうから法家ほうか思想しそう誕生たんじょうした、というのはあやまりである。

浮丘はくかんだいに『詩経しきょう』の伝承でんしょういちである魯詩をつたえたさるこうである。ちょうあおかんだい初期しょき丞相じょうしょうであり、『経典きょうてんしゃくぶんじょろく』によればそのがくを荀子にまなんだ。荀子のがく漢学かんがく影響えいきょうしたものははなはだおおきく、『詩経しきょう』『しょけい』『春秋しゅんじゅう』のさんがくのごときは荀子の伝承でんしょうたものである[4]、荀子の名声めいせいは、かんだい儒者じゅしゃにおいておおきかった[5]

中国ちゅうごくとうだい以降いこう[編集へんしゅう]

とうだいに『荀子』を校訂こうていした楊倞中国語ちゅうごくごばんは、『孟子もうし』はとうだい君子くんしたちのおおくがんでいるのに『荀子』にはいまだ注釈ちゅうしゃくがなく、テキストが混乱こんらんして意味いみれなくなっているので自分じぶん校訂こうていして注釈ちゅうしゃくした、と『荀子』の自序じじょいている[6]。つまり、とうだいにはすでに『荀子』は『孟子もうし』にくらべてまれなくなっていた。

とうだいかんいよいよは『原道はらみち』で儒学じゅがく復興ふっこう提唱ていしょうしたが、そのなか古代こだい聖人せいじん道統どうとうべた。しゅんおうぶんおうたけおうしゅうこう聖人せいじんたちがつたえたみち孔子こうしがれ、その孟子もうこがれ、その死後しごみち断絶だんぜつしたとひょうした。そして荀子およびかんあげゆうは、「えらびてしらげ(くわ)しからず、かたりしょう(つまびら)かならず」(『原道はらみち』より)と聖人せいじんみちえらんでまさしくつたえることができなかったとひょうしたのであった。

このかんいよいよ評価ひょうかが、そうだい儒学じゅがく道統どうとう標準ひょうじゅんとなり、孟子もうしのちあらわれた荀子は排斥はいせきされるみち辿たどった。きたそうは『荀卿ろん』をあらわして、おうやすしせきあん批判ひはんするために荀子をげ、弟子でし斯のあやまちがの荀子に由来ゆらいすると批判ひはんした。その中国ちゅうごく思想しそう支配しはいした朱子学しゅしがくにおいては、荀子は四書ししょいちである『中庸ちゅうよう』『孟子もうし』をいたおもえ孟子もうし批判ひはんし、孟子もうし性善説せいぜんせつ否定ひていして性悪説せいあくせつ異端いたんとして、とおざけられてしまった。孔子こうしびょうでは、きたそうかみはじめ時代じだいから、孟子もうしより下位かい脇役わきやくとしてあげゆうかんいよいよとともにしたがえまつされたが、あきらよしみやすしみかど時代じだいにやはり異端いたんとして排除はいじょされた[7]

しんだい考証こうしょうがくさかんになると、『荀子』もさきしん文献ぶんけんとして研究けんきゅうされるようになり、ひろしなからにさい評価ひょうかされた。清末きよすえにはおうさきけんが『荀子しゅうかい』をあらわした。

日本にっぽん江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

『荀子』楊倞ちゅう江戸えど時代じだい刊本かんぽん[8]

江戸えど時代じだい、荀子に一定いってい評価ひょうかあたえたのは、荻生おぎゅう徂徠そらいで、徂徠そらいは「荀子ははじめおもえ孟子もうし)の忠臣ちゅうしんなり」とい、かれうところによれば荀子はおもえ孟子もうし理論りろんてきあやまちをただした忠臣ちゅうしんといえる存在そんざいであり、荀子のほうが孔子こうしつたえようとした先王せんおうみちおもえ孟子もうし儒家じゅかしゃりゅう倫理りんりではなく、先王せんおう制定せいていした礼楽れいがくけいせい統治とうち制度せいど)をよく叙述じょじゅつしていた。徂徠そらいは『読荀』で『荀子』の初期しょき注釈ちゅうしゃくおこなった。

江戸えど後期こうきの『荀子』研究けんきゅう成果せいかでは、久保くぼあい久保くぼ筑水ちくすい)が、片山かたやま片山かたやま兼山けんざん)をぎ『荀子ぞうちゅう』をあらわした。その冢田大峯おおみね猪飼いかい敬所けいしょ萩原はぎはら大麓だいろく古屋ふるやむかしらの研究けんきゅうがある[9]

江戸えど時代じだいつう日本にっぽん儒学じゅがく主流しゅりゅう朱子学しゅしがく、あるいはそれに対抗たいこうした陽明学ようめいがくであり、いずれも孔子こうし孟子もうし評価ひょうかしたが、荀子への評価ひょうかたかいとはいえなかった。久保くぼあいも『荀子ぞうちゅうじょ』においてこのしょ天下てんかものすくない、となげいている。

中国ちゅうごく現代げんだい[編集へんしゅう]

近代きんだい成立せいりつした中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくにも影響えいきょうあたえており、建国けんこくちちである毛沢東もうたくとうによる批林批孔運動うんどうでの「儒法闘争とうそう」でもさい評価ひょうか対象たいしょうであった[10]

とく習近ひらたは荀子にふか傾倒けいとうしているとし、文化ぶんかだい革命かくめい陝西せんせいしょう下放かほうされたさい全巻ぜんかん読破どくはしたともわれる[11]もっと引用いんようしているのもその弟子でしかんであり[12]社会しゃかい信用しんようシステムのような習近たいら徹底てっていしたメリトクラシーてき統治とうち方法ほうほう法家ほうかたとえられている[13][14][15]

新出にいで文献ぶんけんとの関係かんけい[編集へんしゅう]

うまおううずたか帛書かくてんすわえふくまれる新出にいで文献ぶんけんぎょう』は、『荀子』じゅうへん言及げんきゅうされるおもえはじめ学派がくはの「ぎょうせつについて、解明かいめいするがかりとなった[16]

そのほか、かくてんすわえ簡『きゅうたち以時』は「天人てんにんぶん」について[17]かくてんすわえ簡『せいいのち』やうえひろしすわえ性情せいじょうろん』は「せい」について[18]、荀子の思想しそう背景はいけいがかりとなっている。

日本語にほんごやく注解ちゅうかい[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 史記しき孟子もうし・荀卿列伝れつでんにつけられた司馬しばさだ史記しきさくかくれ』によると、かんせんみかどいみなである「詢」をけたもの。
  2. ^ ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:荀卿新書しんしょじゅうかんさんじゅうへん
  3. ^ じゅうさわ俊郎としおしゅうかん思想しそう研究けんきゅう大空おおぞらしゃ、1998ねん2がつISBN 4756805779 
  4. ^ 服部はっとり 宇之きち荀子解題かいだい漢文かんぶん叢書そうしょ有朋ありともどう書店しょてん、1923ねん8がつ18にちhttps://www.aozora.gr.jp/cards/001577/card52720.html 
  5. ^ 楊倞ちゅう(とう) 、 やま璠正へん(日本にっぽん) 、久保くぼあいぞうちゅう(日本にっぽん) 、土屋つちやがた重訂じゅうてい(日本にっぽん)『荀子ぞうちゅう須原すはら茂兵衛もへい ひとし江戸えど後期こうきNCID BB18274889 
  6. ^ 『荀子ちゅうじょ
  7. ^ しんきょう中国語ちゅうごくごばんしる工藤くどう卓司たくしやく「荀子――孔子こうしびょうしたがえまつ欠席けっせきしゃ」『孔子こうしびょう帝国ていこく――国家こっか権力けんりょく宗教しゅうきょう しんきょう著作ちょさく選集せんしゅう)』東方とうほう書店しょてん、2020ねんISBN 9784497220189。195fぺーじ
  8. ^ NDLJP:2546260/2
  9. ^ しゅうづる中国語ちゅうごくごばん文化ぶんかにおけるこくほん漢籍かんせき意義いぎ」『東西とうざい学術がくじゅつ研究所けんきゅうじょ紀要きようだい45かん、2012ねん、9ぺーじ 
  10. ^ 竹内たけうちみのるちょ)「現代げんだい中国ちゅうごくにおける古典こてんさい評価ひょうかとそのながれ」『中国ちゅうごく古典こてん名著めいちょそう解説かいせつ』(自由じゆう國民こくみんしゃ、2001ねん6がつISBN 4426602084
  11. ^ 中国ちゅうごく支配しはいしゃ・習近へい引用いんようする奇妙きみょう古典こてん”. ジセダイ (2015ねん4がつ23にち). 2019ねん7がつ17にち閲覧えつらん
  12. ^ Ryan Mitchell, The Diplomat. "Is 'China's Machiavelli' Now Its Most Important Political Philosopher?". The Diplomat. January 16, 2015
  13. ^ "Leader Taps into Chinese Classics in Seeking to Cement Power". The New York Times. 12 October 2014.
  14. ^ “China’s New Legalism,” The National Interest, Number 143, May-June 2016,
  15. ^ A Déjà Vu? The Social Credit System and fajia (Legalism)”. verfassungsblog (2019ねん6がつ28にち). 2019ねん7がつ17にち閲覧えつらん
  16. ^ 近藤こんどう浩之ひろゆき西にし信康のぶやすさきしん~はたかんだい (特集とくしゅう 学界がっかい時評じひょう)」『中国ちゅうごく研究けんきゅうしゅうかんだい56ごう大阪大学おおさかだいがく中国ちゅうごく学会がっかい、2013ねん、9-12ぺーじdoi:10.18910/58716 
  17. ^ 橋本はしもとたかし明治めいじ以降いこうの『荀子』研究けんきゅう : せいせつ天人てんにんろん」『広島大学ひろしまだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう論集ろんしゅうだい69かんだい2ごう広島大学ひろしまだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう、2009ねんNAID 120002723271https://doi.org/10.15027/30741 40ぺーじ
  18. ^ 西山にしやま尚志ひさし諸子しょしひゃくいえはどう展開てんかいしたか」『地下ちかからのおくもの しん出土しゅつど資料しりょうかたるいにしえの中国ちゅうごく中国ちゅうごく出土しゅつど資料しりょう学会がっかい東方とうほう書店しょてん、2014ねん、93ぺーじISBN 978-4497214119

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]