(Translated by https://www.hiragana.jp/)
釈奠 - Wikipedia コンテンツにスキップ

しゃく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

しゃく(せきてん/しゃくてん/さくてん、しゃく)とは、孔子こうしおよび儒教じゅきょうにおける先哲せんてつ先師せんしさきひじりとしてまつ儀式ぎしきのこと。儒祭(じゅさい)、孔子こうしさい(こうしまつり)とも。

本来ほんらい学問がくもん教育きょういくにおいてひろさききよし学問がくもん体系たいけいした偉大いだい先哲せんてつ)・先師せんし学問がくもん発展はってん貢献こうけんした有道ありみち有徳うとく先哲せんてつ)をまつ儀式ぎしきした。中国ちゅうごくにおいて儒教じゅきょう国教こっきょうとしてあつかわれるようになると、儒教じゅきょうにおける孔子こうしなどをまつ祭祀さいしのことをとくしゃく奠とぶようになった。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

れい』「ぶんおう世子せいしへんにはつぎ一文いちぶんがある。「およがくにては、はるかん先師せんししゃく奠す、秋冬あきふゆまたたこのごとくす。およはじめてがくたてつるしゃは、かならさききよし先師せんししゃく奠す。ことくだりふにおよびて、かならぬさもってす。およしゃく奠するものは、かならごうすることるなり。くにればすなわいやず。およだいごうらくには、かならついろうやしなえふ」とあり、学校がっこうではぶしごとに先師せんしそなものをしてまつり、学生がくせいたちが歌舞かぶ敬老けいろうれい賢者けんじゃ長老ちょうろう接待せったい)をおこなうこと、あたらしく学校がっこう設置せっちする場合ばあいにはさききよし先師せんしたいしてぬさをもってまつることなどがしるされている。また、どうへんには略式りゃくしきしゃくさい儀式ぎしきのちにはまい省略しょうりゃくされ、一献いっこん儀式ぎしきおこなわれたことがしるされている。これは正式せいしきしゃく奠のにおいてはまいおこなわれるとともに、かみひとがともに飲食いんしょくおこなうために宴会えんかいせきもうけられていたことを意味いみしているとかんがえられている。こうした儀式ぎしき儒教じゅきょうかぎらず古代こだい中国ちゅうごく学問がくもんにおいてはひろおこなわれていた。また、学生がくせい入学にゅうがくにもしゃく奠がおこなわれ(『れいがつれいへん)、このほかにも臨時りんじおこなわれるしゃく奠としてとしわか天子てんし入学にゅうがくするさい(『りょ春秋しゅんじゅう』)、大学だいがくはじめきょうさい(『れいがくへん)などがげられている。

なお、しゃくの「しゃくしゃく)」も「奠」も本来ほんらいそなもの安置あんちならべるという意味いみである。とくに「しゃくしゃく)」はしゃくさい(せきさい・しゃくさい)を、「奠」を奠幣の意味いみ特定とくていすることがある。前者ぜんしゃ疏菜そなえるもので、奠幣・奠饌・さけそなえられない略式りゃくしき儀式ぎしきとしてもおこなわれた(『れい』「つきれいへん仲春ちゅうしゅう)。ただし、のちには儀式ぎしきとしてのしゃくさいしゃく奠の区別くべつおこなわれなくなり、今日きょうではしゃく奠の形式けいしきととのえていても「しゃくさい」の名称めいしょうもちいているれいもある(多久たく聖廟せいびょうなど)。後者こうしゃぬさきぬ帛)をそなえるものである。ただし、広義こうぎにおいては犠牲ぎせいひつじうしぶたなど)をささげる奠饌もふくめてかんがえられる場合ばあいもある。

中国ちゅうごく

[編集へんしゅう]

儒教じゅきょうである孔子こうしまつ儀式ぎしきとしてのしゃく奠の行事ぎょうじは、ふる時代じだいからあったとかんがえられている(『史記しき』によれば、孔子こうし没後ぼつごかれした門人もんじんくに人々ひとびと孔子こうしはかまわりにんで講義こうぎ各種かくしゅれいおこなったとある)。具体ぐたいてき記録きろくとして登場とうじょうするのは、前漢ぜんかん高祖こうそ時代じだい紀元前きげんぜん195ねん高祖こうそ孔子こうし故郷こきょうである魯(きょく)をおとずれたさいふとしろううしひつじぶたにくささげる重要じゅうよう祭祀さいし)の方式ほうしき孔子こうしまつったことがえる。こうかん光武みつたけみかどたてたけし5ねん西暦せいれき29ねん)に魯をおとずれたさいだいつかさむなしめいじて孔子こうしまつらせている。以後いごきょく阜で孔子こうしまつるのが慣例かんれいとされた。具体ぐたいてき手順てじゅんさだめたものとしては、あかりみかどながひらた2ねん59ねん)にこおりけんたいして学校がっこうにおいてさと飲酒いんしゅれいおこなって孔子こうしまつり、犠牲ぎせいいぬもちいることをめいじたとする『こう漢書かんしょ礼儀れいぎこころざしうえ記事きじ最初さいしょとされている。 たかしひとしおうかおるせいはじめ2ねん241ねん)にふとしつね派遣はけんしてふとしろうれいをもって洛陽らくよう辟雍ふとしがく施設しせつ)にまつった。以後いご天子てんし自身じしん、もしくはその名代なだいである皇太子こうたいし皇族こうぞく高官こうかんしゃく奠のれいくわわるようになる。とくとしわか天子てんしあるいは将来しょうらい皇位こうい皇太子こうたいし儒教じゅきょう重要じゅうよう儀式ぎしきであるしゃく奠にのぞむことは、儒教じゅきょう国家こっか統治とうち理念りねんとしてきた中国ちゅうごく王朝おうちょうでは重要じゅうようされていた。西にしすすむ元康もとやす3ねん293ねん)に国子くにこがく設置せっちされたさい天子てんし入学にゅうがくおこなわれ、儀式ぎしきしゃく奠)がおこなわれた(『みなみひとししょれいこころざし)。つづいてあずますすむ咸康元年がんねん335ねん)、なりみかどが『詩経しきょう』を習得しゅうとくしたことから同年どうねんしゃく奠にみずか参加さんかし、升平ますへい元年がんねん357ねん)、きよしみかどみずかしゃく奠に参加さんかしたうえ、『こうけい』を講義こうぎした。南北なんぼくあさ時代じだいしゃく奠については『文選ぶんせん』におさめられているかお延之のぶゆきの「皇太子こうたいししゃく奠会作詩さくし」のなかにその一端いったんえがかれている。このもとづけば、しゃく奠にさきだってしゃく奠の会場かいじょうとなるたいがく正殿せいでんにて経典きょうてん講義こうぎおよ論議ろんぎおこなわれていたこと、しゃく奠ののち宮殿きゅうでんない天子てんし主催しゅさい宴会えんかいひらかれていたことなどがることができ、講義こうぎしゃく奠→宴会えんかいしゃく奠の儀式ぎしき一連いちれんながれをつくっていたとかんがえられている。きたひとし春秋しゅんじゅうなかせい春秋しゅんじゅうなか(すなわち、はるあき真中まんなかつきである2がつと8がつ開催かいさいする)が確立かくりつされてしゃく奠の形式けいしきがほぼ完成かんせいしたが、祭祀さいし対象たいしょうであるさきひじり先師せんしだれ相当そうとうするのか、孔子こうしをどちらに位置付いちづけるのかについて議論ぎろんがあり、さきひじりしゅうこう先師せんし孔子こうしとするせつさきひじり孔子こうし先師せんしかおかいとするせつがあり、王朝おうちょうによってその対象たいしょうことなっていた。とう成立せいりつすると、国子くにこかん孔子こうしびょうてただけでなく、しゅうけんにも学校がっこうてさせてしゃく奠をおこなわせた。また、えい徽令ではせんひじりしゅうこうとするせつったが、ひらけもとれいでは孔子こうしさききよしかおかい先師せんしとするせつ採用さいようされてじょうせいになった。また、どうれい施行しこう直後ちょくごにはもと上奏じょうそうによってあなもんじゅうあきら先師せんしじゅんじてまつり、さら孔子こうしななじゅう弟子でしさきじゅうけんをもまつった。なお、とうしゃく奠として特筆とくひつされるてんとして「ひとしふとしおおやけしゃく奠」とばれるひとしふとしこうりょひさし)など兵学へいがくかんするさききよし先師せんしまつしゃく奠が別箇べっこ存在そんざいしたことがられている(『とうれい拾遺しゅうい』)。そうはいると、じゅうあきらふくまれていなかった曾子おもえ孟子もうし先師せんしとしてしたがえまつされるようになる。さら時代じだいくだるとそう儒など後世こうせいすぐれた儒学じゅがくしゃしたがえまつ対象たいしょうとなった。もとにおいてももと儒のしたがえまつ追加ついかおこなわれている。

あきらひろしたけ14ねん1380ねん)にしゃく奠のにおいて孔子こうしぞうまつることをはいし、よしみやすし9ねん1530ねん)に孔子こうしを「いたりせい先師せんし」にあらためるなどの変革へんかくなんおこなわれた。きよし孔子こうしぞう復活ふっかつさせるとともに、から以来いらいしゃく奠の形式けいしき再興さいこうした。きよしすえから中華民国ちゅうかみんこく前期ぜんきにかけての政治せいじてき混乱こんらんにもしゃく奠が継続けいぞくされたが、軍閥ぐんばつあいだ衝突しょうとつにちちゅう戦争せんそうおよ国共こっきょう内戦ないせん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつ文化ぶんかだい革命かくめいなどによって衰退すいたいした。

韓国かんこく

[編集へんしゅう]

大韓民国だいかんみんこくでは、5月と9がつの2かいなりひとしかんだい学校がっこううち大成たいせい殿どの各地かくちにある234のさとこうで「しゃく奠大さい」(석전대제)がおこなわれる。しゃく奠大さい1986ねん大韓民国だいかんみんこく指定してい重要じゅうよう無形むけい文化財ぶんかざいだい85ごう指定していされた[1]。2011ねんにはユネスコ無形むけい文化ぶんか遺産いさん候補こうほとして推薦すいせんしたが、充分じゅうぶん資料しりょう不足ふそくしているとして現在げんざいのところみとめられていない[2]

日本にっぽん

[編集へんしゅう]

歴史れきし

[編集へんしゅう]

古代こだい

[編集へんしゅう]

日本にっぽんにおけるしゃく奠にかんする最初さいしょ記録きろく大宝たいほう元年がんねん2がつ14にち701ねん3月27にち)のことである(『ぞく日本にっぽん』)。大宝たいほう律令りつりょうがくれいだい学寮がくりょうおよ国学こくがくにおいて、毎年まいとし春秋しゅんじゅうなか(すなわち、はるあき真中まんなかつきである2がつと8がつ)の上丁うえてい上旬じょうじゅんちょう十干じっかん))にさきせいあなせんちち孔子こうし)をしゃく奠すること規定きていされた。この規定きていもとづきだい学寮がくりょうでは毎年まいとししゃく奠が開催かいさいされるようになり、国学こくがくにおいても天平てんぺい8ねん736ねん)にはおこなわれていた記録きろくがある(同年どうねんの『薩摩さつまこくせいぜいちょう』にしゃく奠にかんする支出ししゅつ記事きじがある)。なお、『ひろじんしき』と『延喜えんぎしき』においてしゃく奠にかんする次第しだい様々さまざま規定きていしるされている。ひろじんしきのそれについてはあきらかではない部分ぶぶんおおいが中央ちゅうおうにおけるしゃく奠にかんする規定きていしかさだめられていなかったこと(『日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん2ねん12月8にちじょう)、延喜えんぎしき規定きていとうひらけもとれいはんとして規定きていされていたことがられている。

当初とうしょは、がくれい規定きてい祭祀さいし対象たいしょうさききよし孔子こうしのみとしたように、中国ちゅうごく制度せいど表面ひょうめんじょうなぞっただけのものにぎず、しゃく奠そのものが大宝たいほう元年がんねんつぎ確認かくにんされるのはけいくも2ねん705ねん)に大学だいがくすけ藤原ふじわら武智たけち麻呂まろ主導しゅどうによってひらかれたとされているものである(『ふじ家伝かでん』)。その養老ようろう4ねん720ねん)になってしゃく奠用のうつわ新造しんぞうおこなわれている(『ぞく日本にっぽん』)。

天平てんぺい7ねん735ねん)、とうから帰国きこくした吉備真備きびのまきびかられい130かんかえっており(『ぞく日本にっぽん』)、宝亀ほうき6ねん真備まびの薨伝には「大学だいがくしゃく奠、そのそなわらず……器物きぶつはじめておさめる」と、真備まびうつわ儀式ぎしき整備せいびしたとしている。『ぞく日本にっぽん天平てんぴょう20ねん記事きじに「しゃく奠のふく儀式ぎしき改定かいていす」とある。なお、前述ぜんじゅつ薩摩さつま国正くにまさぜいちょうにより孔子こうしだけではなく、かおかいまつられていることが確認かくにんできるのだが、前年ぜんねん真備まびかえったかられいしゅうこうまつるとされた『あらわけい(えい徽)れい』と想像そうぞうされ、かつどう時期じきほかしょ国正くにまさぜいちょうにはしゃく奠にかんする支出ししゅつ記事きじはまったくられず、薩摩さつまこくだけの特異とくいなものだった可能かのうせいつよい。いずれにせよ、真備まびおこなった整備せいび内容ないようについては不明ふめいてんおお[3]。なお、日本にっぽん歴史れきしじょう唯一ゆいいつ天皇てんのう親臨しんりん確認かくにんできる神護かんごけいくも元年がんねん2がつ7にち767ねん3月11にち)のしゃく奠が、吉備真備きびのまきび右大臣うだいじん任命にんめいされたのちおこなわれた最初さいしょしゃく奠であったことも注目ちゅうもくされる。なお、『延喜えんぎしき』におけるしゃく奠は『ひらくもとれい』にじゅんじて規定きていされていることがられている。また、『延喜えんぎしき』のしゃく関係かんけい規定きていだい学寮がくりょうしき範疇はんちゅうにはまらず、みや内省ないせいにえ殿どのしゃく奠用の魚介ぎょかいるい海藻かいそうるいを、大炊おおいりょう各種かくしゅ米穀べいこくを、内膳ないぜん野菜やさいるいを、造酒ぞうしゅさけを、しゅ殿しんがりりょうあぶら松明たいまつしゃく奠のために支給しきゅうし、大膳だいぜんしょくしゃく奠用の調理ちょうりおこなせんもん職員しょくいんを1めいくことがさだめられていた。

平安へいあん時代じだい儀式ぎしきしょによれば、次第しだい簡略かんりゃくされていくとともに日本にっぽん独自どくじ様式ようしき変容へんようしていく。すなわち、寛仁かんじんはれただしおこなわれたのをのぞいて、あめ略式りゃくしき)でおこなわれた(『こう次第しだい』)。ひろしひとし成立せいりつしたうちろん慣習かんしゅううけたまわはじまるななけい輪転りんてんこうしょおよびそのふくすうかいかれたうたげ日本にっぽん独自どくじのものである。また、これとはべつ問題もんだいとして、けが殺生せっしょうという神道しんとう仏教ぶっきょう由来ゆらいする観念かんねんによって、しゃく奠のにおいて動物どうぶつ犠牲ぎせいとしてささげるというかんがえがなかなか受容じゅようされなかったこともられている。日本にっぽんでも中国ちゅうごく同様どうようしゃく奠において動物どうぶつにくささげることが基本きほんとされてはいたものの、前述ぜんじゅつ薩摩さつま国正くにまさぜいちょうによればにく代替だいたいとして脯・ふぐなどの魚介ぎょかいるいもちいられ、くに祈年祭としごいのまつりとの重複じゅうふくまれてこれらと日程にってい重複じゅうふくする場合ばあいにはしゃく奠が中止ちゅうしされたこと(『日本にっぽんりゃくひろしじん11ねん2がつちょううしじょう)、とうの『ひらくもとれい』にしるされた「もう血豆ちまめ」の儀式ぎしき犠牲ぎせいとしてささげた動物どうぶついたときしょうじたししまめ(とう)とばれるうつわせてささげる)が日本にっぽんの『延喜えんぎしき』ではのぞかれていることなどがげられる。その一方いっぽう仁和にわ元年がんねん885ねん)にはだい学寮がくりょう申請しんせいもとづいてしゃく奠でもちいるさん牲(大鹿おおしか小鹿こじかいのこ)にかんする規則きそくさだめて、むをない場合ばあいにはふなこいによる代替だいたいみとめるもののあくまでもさん牲はそろえるべきものとさだめ、神事しんじとのいがかぎりは11世紀せいきはいってもこの規則きそくまもられた。さん牲がはいされたのは12世紀せいき前期ぜんきよしみうけたまわ2ねん1107ねん)に伊勢神宮いせじんぐう慣例かんれいならって鹿しか死骸しがいけがれさだめたこと(『ちゅう右記うきよしみうけたまわ2ねん5がつ19にちじょう)、これにつづいててんひさし3ねん1112ねん)にいのしし死骸しがい鹿しかじゅんじるとされたさい中原なかはらとおしゃく奠に参加さんかをするのはけがれにあたるのではないか、と指摘してきしたこと(『ちゅう右記うきてんなが3ねん2がつ4にちじょう)が関係かんけいしているとかんがえられている。記録きろくによれば、大治おおはる2ねん1127ねん)8がつ10日とおか殺生せっしょう禁断きんだん理由りゆうしゃく奠での牲をめられた(『百錬ひゃくれんしょう』)をおこなわれなくなった。なお、『古今ここん著聞ちょぶんしゅう』(まきだい1、神祇じんぎだいいち、12「あるひとゆめりてだい学寮がくりょうびょうきょういのしし鹿しかきょうへざるごと」)によれば、あるひとゆめ孔子こうしあらわれて「日本にっぽんでは伊勢いせ大神宮だいじんぐうへのれいしたがってけがれしょくきょうすべからず」とげたとする説話せつわせられている[4]。それ以外いがいにも天皇てんのう有力ゆうりょくしゃ服喪ふくも宮中きゅうちゅうにおけるけがれ発生はっせいなどを理由りゆうとしてしゃく奠が延期えんきされたり、しゃく奠後のうたげりやめられる措置そちられることもあった。

そして、日本にっぽんしゃく奠にかんして特筆とくひつすべきは、中国ちゅうごくにおいてはしばしばおこなわれていた皇帝こうていによるしゃく親臨しんりんが、日本にっぽん天皇てんのうかんしては神護かんごけいくも元年がんねんしかられていないこと、これにじゅんじるものとされた皇太子こうたいし参加さんか恒貞親王つねさだしんのう仁明天皇にんみょうてんのう皇太子こうたいし)がしたしくしゃく奠にのぞんだこと(『恒貞親王つねさだしんのうでん』)以外いがいには確認かくにんできない。『延喜えんぎしき』には『ひらくもとれい』にもとづいて皇太子こうたいし参加さんか想定そうていして規定きていさだめられているものの、『ひらくもとれい』のしゃく奠における皇太子こうたいし主催しゅさいしゃであり学生がくせい一人ひとりとして講読こうどくおこなうことが想定そうていされていたのにたいして、『延喜えんぎしき』のしゃく奠における皇太子こうたいし参加さんかしゃからは超越ちょうえつした立場たちば賓客ひんきゃくであった(わりにうえきょう主催しゅさいする)。そして、平安へいあん時代じだい以後いごにおいてしゃく奠翌内裏だいりにてひらかれたうちろん慣習かんしゅう自体じたい儒教じゅきょう思想しそう相反あいはんする側面そくめんゆうしていた。それは、儒教じゅきょうにおいては天子てんしと雖もたいしては北面ほくめん臣下しんかれい)をり(『れいがくへん・『りょ春秋しゅんじゅう孟夏もうか勧学かんがくへん)、しゃく奠の儀式ぎしきもそれを前提ぜんていにしておこなわれたのにたいして、日本にっぽん天皇てんのう天子てんし北面ほくめんするしゃく奠への参加さんか事実じじつじょう拒否きょひして、うちろんというかたち学者がくしゃたちを召還しょうかんすることで南面なんめん主君しゅくんれい)をつづけたのであった。これは律令りつりょうほう超越ちょうえつする存在そんざいとされていた日本にっぽん天皇てんのう中国ちゅうごく皇帝こうていとはちがった立場たちば由来ゆらいするとかんがえられている。

中世ちゅうせい

[編集へんしゅう]

しゃく奠の簡略かんりゃく日本にっぽんすすむとともに、しゃく奠そのものは儒教じゅきょう祭祀さいしとしての色合いろあいをうすめ、公家くげ政権せいけんにおける文芸ぶんげい学芸がくげいにまつわる重要じゅうよう公事こうじの1つとして定着ていちゃくをみた。安元やすもと3ねん1177ねん)の太郎たろう焼亡しょうぼうにおいてだい学寮がくりょうけたさいにはけむりなかからしゃく奠に必要ひつよう孔子こうしかげだけははこしたほどおもんじられた。どう火災かさいだい学寮がくりょう事実じじつじょう消滅しょうめつしたのち場所ばしょうつしてつづけられ、藤原ふじわら定家さだいえも『しゃく次第しだい』をあらわしてしゃく奠における儀礼ぎれい作法さほうのこしている。中世ちゅうせいはいるとおおくのあさ廃絶はいぜつしていくなかで、しゃく奠は南北なんぼくあさ混乱こんらん一時いちじてき中断ちゅうだんはさみながらも、15世紀せいき応仁おうにんらんころまで継続けいぞくされていた。そのも、地方ちほうにおいては足利あしかが学校がっこう九州きゅうしゅう菊池きくち聖堂せいどうなどで独自どくじしゃく奠がおこなわれたほか公家くげ社会しゃかいでも三条西さんじょうにし実隆さねたかなどがしゃく奠のわりとなるかいひらいており、しゃく奠の伝統でんとう完全かんぜん途絶とだえたわけではなかった。

近世きんせい

[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいはいると、徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ朱子学しゅしがく重視じゅうし政策せいさくによって林家はやしや主導しゅどうした復興ふっこうされることになった。寛永かんえい9ねん1632ねん)、尾張おわりはん支援しえんけたはやし道春どうしゅんによって江戸えど上野うえのしのぶおかにある林家はやしや私邸していちゅうさききよし殿どのしのぶおか聖堂せいどう)が建設けんせつされ、よく寛永かんえい10ねん1633ねん)2がつ10日とおかはじめてのしゃく奠が実施じっしされた。当初とうしょ林家はやしや私的してき行事ぎょうじとしての位置いちづけであったが、同年どうねん10がつには将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつしのぶおか訪問ほうもんけて以後いご江戸えど幕府ばくふによってさききよし殿どの補修ほしゅう費用ひようされることとなった。寛永かんえい12ねん1635ねん)にははやし道春どうしゅんによってしゃく奠におけるこうけい復興ふっこうされ、万治まんじ2ねん1659ねん)にははやしはるときによって春秋しゅんじゅう2かいしゃく奠がおこなわれるようになり、寛文ひろふみ4ねん1664ねん)にはおなじくはやしはるときによってしゃく奠における奏楽そうがく復興ふっこうされた。寛文ひろふみ10ねん1670ねん)にははやしはるとき幕命ばくめいによって編纂へんさんしていた『本朝ほんちょうどおりかん』が完成かんせいし、同年どうねん8がつにはその報告ほうこくねただい規模きぼしゃく奠が実施じっしされた。このときしゃく奠が以後いご林家はやしやにおけるしゃく奠の作法さほうとして確立かくりつされ、はるときはこのとき次第しだいもとに『かのえいぬしゃくさい』をあらわした。つぎ寛文ひろふみ11ねん1671ねん)2がつしゃく奠ではちちである大老たいろう酒井さかい忠清ただきよいのちけた厩橋うまやばしはん世子せいし酒井さかい忠明ただあき参観さんかんし、以後いごまくかくふくめた大名だいみょう子弟していしゃく奠を参観さんかんする風潮ふうちょうあらわれるようになった。それは地方ちほう藩校はんこうにおけるしゃく実施じっし普及ふきゅうにも影響えいきょうあたえたとされている。

のべたから8ねん1680ねん)に将軍しょうぐんいた徳川とくがわ綱吉つなよし儒学じゅがく愛好あいこうして、しのぶおか聖堂せいどう度々たびたびおとずれた。元禄げんろく元年がんねん1688ねん)2がつしゃく奠には綱吉つなよししゃく奠に使つか供物くもつけんじかん主宰しゅさいしゃ)であるはやし鳳岡ほうこうおくり、また尾張おわりはん主導しゅどう建設けんせつされたしのぶおか聖堂せいどうわる幕府ばくふ主導しゅどうによるあたらしい聖堂せいどう建設けんせつもうた。元禄げんろく4ねん1691ねん)、2がつあらたな湯島ゆしま聖堂せいどう完成かんせいし、直後ちょくごの2がつ11にちあたらしい聖堂せいどうにおいて幕府ばくふ主催しゅさいするはじめてのしゃく奠がおこなわれた。しかも、このときには将軍しょうぐん綱吉つなよし老中ろうじゅう側近そっきんなどをれて参列さんれつし、しゃく奠後の経書けいしょ講読こうどくみずからのおこなった。さらにそのにおいてしゃく奠などの湯島ゆしま聖堂せいどうでの祭祀さいし経費けいひとして1000いし寄進きしんし、さら火災かさいとうそなえて聖堂せいどう火消役ひけしやく設置せっちめた。翌年よくねん2がつしゃく奠にも綱吉つなよし参列さんれつして『論語ろんごがく而編を講義こうぎしている。綱吉つなよししゃく参列さんれつはこのときかぎりであったが、以後いごほぼ毎年まいとし1かいのペースで聖堂せいどう参詣さんけいしてしょ大名だいみょう林家はやしや学生がくせいなどを対象たいしょう講読こうどくおこなったりしている。綱吉つなよししょ大名だいみょうたいして積極せっきょくてき自己じこ湯島ゆしま聖堂せいどう参詣さんけい春秋しゅんじゅうしゃく奠に参加さんかさせ、儒学じゅがく重視じゅうし風潮ふうちょう諸国しょこくにもひろめようとしたのである。

ところが、宝永ほうえい6ねん1706ねん)に綱吉つなよし死去しきょすると、湯島ゆしま聖堂せいどうしゃく奠もおおきな影響えいきょうけることになる。しん将軍しょうぐん徳川とくがわ家宣いえのぶ側近そっきんであった儒学じゅがくしゃ新井あらい白石はくせきは、日本にっぽん古来こらいからのしゃく奠にあかりなどの歴代れきだい中国ちゅうごく王朝おうちょうしゃく奠作ほうちこんでつくげられた林家はやしやしゃく奠作ほう批判ひはんてきであった。これまでのしゃく奠のやりかたにも批判ひはんくわえて『しゃく奠儀ちゅう』とばれる著作ちょさく家宣いえのぶ提出ていしゅつし、翌年よくねん8がつ4にちしゃく奠に家宣いえのぶ参列さんれつしたときにはすべてこの同書どうしょせつしたがってしゃく奠がおこなわれ、林家はやしや作法さほう完全かんぜん否定ひていされて参列さんれつのみをゆるされたはやし鳳岡ほうこう面目めんぼくうしなった。白石しらいしによるしゃく改革かいかく徳川とくがわ吉宗よしむね将軍しょうぐん就任しゅうにんともな失脚しっきゃくによって撤回てっかいされたが、とおる7ねん1722ねん)2がつ6にちには吉宗よしむね直々じきじきはやし鳳岡ほうこうたいしてしゃく奠の豪華ごうかぶりを批判ひはんして今後こんご規模きぼ縮小しゅくしょうし、さき綱吉つなよし寄進きしんした1000せきすべての祭祀さいしまかなうようにめいじたのである。吉宗よしむね新井あらい白石はくせきのようにしゃく奠の作法さほう非難ひなんすることはかったものの、実学じつがく重視じゅうし観点かんてんからしゃく奠のような儒教じゅきょう祭祀さいし意義いぎみとめていなかったのである。くわえて、はやし鳳岡ほうこう没後ぼつご林家はやしや当主とうしゅ早世そうせい相次あいつぎ、その喪中もちゅう徳川とくがわ将軍家しょうぐんけでの不幸ふこう火災かさいともな湯島ゆしま聖堂せいどう破損はそんなどでしゃく奠が度々どど中止ちゅうしされ、儒学じゅがくそのものの衰退すいたいかさなり、湯島ゆしま聖堂せいどう廃止はいしろんすらてくる状況じょうきょうとなった(『甲子きのえね夜話やわ』)。

松平まつだいら定信さだのぶ寛政かんせい改革かいかくおこなうと、あらためて朱子学しゅしがくが「せいがく」として位置いちづけられ、その復興ふっこうはかるために寛政かんせいことがくきんし、つづいて幕府ばくふによる朱子学しゅしがく教育きょういく組織そしき中核ちゅうかくとして荒廃こうはいした湯島ゆしま聖堂せいどう再建さいけん組織そしき改革かいかく意図いとされるようになった。おりしも寛政かんせい5ねん1793ねん)に定信さだのぶ方針ほうしん懐疑かいぎてきであった林家はやしや当主とうしゅしんけい急逝きゅうせいして家系かけい断絶だんぜつすると、その養子ようし縁組えんぐみ関与かんよし、さら慣例かんれいであった喪中もちゅうによる中止ちゅうしみとめずに一門いちもんから大学だいがくあたま代理だいりててしゃく奠を実施じっしさせた。そして、寛永かんえい9ねん1797ねん)5がつにははやし大学だいがくあたまおよびその名代なだい一門いちもん)に故障こしょうがある場合ばあいには幕府ばくふ儒官じゅかんけんじかんとしてしゃく奠を仕切しき方針ほうしん決定けっていされ、幕府ばくふ林家はやしや事情じじょう考慮こうりょすることなくしゃく奠を実施じっしできるようになった。同年どうねん12がつには林家はやしや私塾しじゅくとして運営うんえいされてきた湯島ゆしま聖堂せいどう学問がくもんしょ幕府ばくふ直轄ちょっかつとされて聖堂せいどうから分離ぶんりされた(昌平しょうへいざか学問がくもんしょ)。以後いご湯島ゆしま聖堂せいどうにおけるまつりしゅ大学だいがくあたま)としての林家はやしや地位ちい維持いじされたものの、学問がくもんしょ運営うんえいおよしゃく奠の実施じっし権限けんげん幕府ばくふ掌握しょうあくし、まつりしゅはその命令めいれい実務じつむおこなうだけの存在そんざいとなった。さら文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)にはまつりしゅうえ学問がくもんしょ奉行ぶぎょう設置せっちされてさら権限けんげん縮小しゅくしょうされた。こうした状況じょうきょうにおいて、寛政かんせい12ねん1800ねん)にはあらたなしゃく奠の作法さほうしょとして『しゃく私儀わたくしぎ』が作成さくせいされた。これは、古来こらい延喜えんぎしきもとづくしゃく奠を時代じだいわせて一部いちぶ手直てなおしをくわえながら再興さいこうさせることを意図いとしたものであった。寛政かんせいことがくきん学問がくもん吟味ぎんみ導入どうにゅう昌平しょうへいざか学問がくもんしょ設置せっち湯島ゆしま聖堂せいどうだい改築かいちくつづいたせいがく復興ふっこう最後さいごしゃく奠の再興さいこうによってめくくるものとしたい幕府ばくふがわと、この改革かいかく伝統でんとうてき権威けんいおおくを否定ひていされながらもしゃく奠のにおける主導しゅどうけん維持いじしたい林家はやしやがわとの思惑おもわく合致がっち産物さんぶつであった。また、同年どうねん2がつしゃく奠からは前日ぜんじつ将軍しょうぐん使者ししゃ代参だいさんして太刀たち黄金おうごんなどの献上けんじょうおこなわれて、幕末ばくまつまで継続けいぞくされている。

一方いっぽうしょはん藩校はんこうでも元禄げんろく年間ねんかん以後いご、『かのえいぬしゃくさい』や『しゃく私儀わたくしぎ』を手本てほんとしてしゃく奠がひらくところが増加ぞうかした。一方いっぽう朝廷ちょうていにおいては歴代れきだい天皇てんのうしゃく復活ふっかつこころざしいだきながらも、財政ざいせい事情じじょうなどからたすことなく幕末ばくまついたっている。とくこう光明こうみょう天皇てんのうときにはしゃく復興ふっこうのための方策ほうさく検討けんとうされたものの、天皇てんのう自身じしん早世そうせいによって実現じつげんしなかったという。

幕末ばくまつになると、湯島ゆしま聖堂せいどうしゃく奠もまた衰退すいたいするようになる。 とおる元年がんねん1801ねん)から慶応けいおう3ねん1867ねん)までの67年間ねんかん実施じっしされたしゃく奠は87かい中止ちゅうしされたしゃく奠は48かいとされる[5]。ただし、中止ちゅうし理由りゆうについては記録きろくのこっていないものもおおく、反対はんたい幕末ばくまつ政情せいじょう不安定ふあんていでもとし2かいしゃく奠が通常つうじょうどおおこなわれているとしもある。たとえば、慶応けいおう3ねん(1867ねん)は、2がつしゃく奠は前年ぜんねん将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもち喪中もちゅうのために5月にばされたものの実施じっしされ、8がつしゃく奠も26にち当時とうじだい坂城さかきにいた将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ使者ししゃ代参だいさんしてよく27にちには通常つうじょうどお実施じっしされている(『ぞく徳川とくがわ実紀みき』)。この慶応けいおう3ねん8がつ27にちしゃく奠が江戸えど幕府ばくふ主催しゅさいによる最後さいごしゃく奠となった。

戊辰戦争ぼしんせんそう優勢ゆうせいとなった官軍かんぐん明治めいじしん政府せいふぐん)は湯島ゆしま聖堂せいどうおよ昌平しょうへいざか学問がくもんしょ接収せっしゅうし、「だい学校がっこう」にあらためた。あらたに実権じっけんにぎった国学こくがくしゃ明治めいじ2ねん1869ねん)にしゃく奠をはいしてはち意思いしけんいのちまつる「がく神祭しんさい」を実施じっししたことから、しょはん藩校はんこう動揺どうようしてしゃく奠を廃止はいしするところが相次あいつぎ、存続そんぞくした藩校はんこうにおいても教育きょういく改革かいかくともなおおやけ私立しりつ学校がっこうへの転換てんかん過程かていにおいて廃絶はいぜつした。なお、1890年代ねんだいはいると「教育きょういく勅語ちょくご奉読ほうどく」がおこなわれるようになったことにより、教育きょういくにおける祭祀さいし崇敬すうけい対象たいしょう天皇てんのうへと集約しゅうやくされるようになったことで学校がっこう教育きょういくにおけるしゃく復活ふっかつ可能かのうせい消滅しょうめつし、きゅう藩校はんこうのこされていた孔子こうしびょうなかにはそのまま荒廃こうはい消滅しょうめつするものもあった。

きん現代げんだい

[編集へんしゅう]

近代きんだいはいると、儒教じゅきょう衰退すいたいなどによってしゃく奠はほとんどおこなわれなくなった。だが、孔子こうしびょうなどがのこされた地域ちいきでは有志ゆうしによってしゃく奠が再興さいこう継続けいぞくされている事例じれいもある。たとえば、湯島ゆしま聖堂せいどうでは明治めいじ40ねん1907ねん)に孔子こうしさいとして再興さいこうされ、だい1かいには昌平しょうへいざか学問がくもんしょまなんだ数少かずすくない生存せいぞんしゃであった教育きょういくしゃみなみ綱紀こうき講演こうえんおこない、昌平しょうへいざか学問がくもんしょ活動かつどう学生がくせい日常にちじょう生活せいかつかんする貴重きちょう証言しょうげんおこなった。現在げんざい斯文しぶんかい主催しゅさいにより毎年まいとし4がつだい4日曜日にちようび孔子こうしさい名称めいしょうひらかれている。

足利あしかが学校がっこうでは長年ながねん仏教ぶっきょう寺院じいん管理かんりにあった影響えいきょうで、江戸えど時代じだいには「しゃく奠」としょうしながら実際じっさいにはだい般若はんにゃけい講読こうどくおこなわれるなどといった異質いしつ状況じょうきょうにあったが、明治めいじ14ねん1881ねん)に儒教じゅきょう形式けいしきしゃく奠が再興さいこうされて現在げんざいでは毎年まいとし11がつ23にちおこなわれている。2018ねんには企画きかくてんしゃく奠~孔子こうしとその門弟もんていまつ儀式ぎしき」を開催かいさいした [6]

また、九州きゅうしゅう多久たく聖廟せいびょう佐賀さがけん多久たく)でも毎年まいとし4がつ18にちと10がつ最終さいしゅう日曜日にちようびしゃくさい名称めいしょうおこなわれている。江戸えど時代じだいには多久たく領主りょうしゅけんじかん主宰しゅさいしゃ)をつとめていたが、現在げんざいでは地域ちいき伝統でんとうてきまつりとして多久たく市長しちょうけんじかんつとめるならわしとなっている。

大阪おおさか道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐうでは明治めいじ36ねん1903ねん)に藤澤ふじさわ南岳みなみだけ首唱しゅしょうにより神道しんとうしきはじめられ、現在げんざいでもおこなわれている。

また岡山おかやまけん閑谷しずたに学校がっこうでは「しゃくさい」(せきさい)という名称めいしょうおこなわれている[7]

平安へいあん時代じだいしゃく

[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい中央ちゅうおうだい学寮がくりょう)におけるしゃく奠は、中国ちゅうごくのそれと同様どうよう斎戒さいかいひねしつらえ、饋享(ききょう)、講読こうどく饗宴きょうえんの5つによって構成こうせいされていた。ひねしつらえとは供物くもつそなえること、饋享は司祭しさいしゃ日本にっぽんでは大学だいがくあたま)が先師せんしさきひじり神前しんぜんおこな祭祀さいしす。時期じきによって多少たしょうことなりながらも以下いか手順てじゅんおこなわれていたとかんがえられている。

しゃく奠の当日とうじつうえきょうだい学寮がくりょうろうもん着座ちゃくざ召使めしつかい連絡れんらくによりだい学寮がくりょう廟堂びょうどうひらく。おうきょうらはおこり手水ちょうず用意よういされ、おうきょう壇上だんじょう西にしのぼしゅあらう。べんかん少納言しょうなごんだんにてあらう(斎戒さいかい)。参列さんれつしゃ廟堂びょうどうないはいり、着席ちゃくせきおこない、準備じゅんびととのえられる(ひねしつらえ)。つづいて、孔子こうしおよ孔子こうしじゅうあきら画像がぞう幣帛へいはくおよ酒食しゅしょくそなえて大学だいがくあたま祭文さいぶんんでみずか祭壇さいだんさけし、参列さんれつしゃ拝礼はいれいすると神人しんじん共食ともぐいのための三献さんこん振舞ふるまわれる(饋享)。それから参加さんかしゃ再拝さいはいはいびょう)ののち廟堂びょうどう西にしにあるどう移動いどうしてそこで一同いちどう列立れつりつ博士はかせらは礼服れいふく着用ちゃくようして参入さんにゅうする。おと博士はかせだいげると大学だいがくぞく如意にょいをとって問者もんじゃさづけ、問者もんじゃ登壇とうだんして7種類しゅるい儒教じゅきょう経典きょうてん(『こうけい』『れい』『詩経しきょう』『しょけい』『論語ろんご』『えきけい』『ひだりでん』)のうちから順次じゅんじ選定せんていされたテーマによって議論ぎろんおこなう(講読こうどく)。この議論ぎろんななけい輪転りんてん講読こうどくという。講読こうどくのちには饗宴きょうえんおこなわれたが、のちにはだい学寮がくりょう廟堂びょうどうおこなわれる5・6じゅん献杯けんぱいおこなりょうえんどう会場かいじょううつしておこなわれるひゃく(ももどのざ)に分離ぶんりした。ひゃくおよびその宴席えんせき日本にっぽん独自どくじ宴席えんせきであったが、のちりょうえん儀礼ぎれいするとともにななけい輪転りんてん講読こうどくまえおこなわれるようになる(『西宮にしのみや』や『北山きたやましょう』では講読こうどくのちりょうえんおこなわれたとあるが、『こう次第しだい』では講読こうどくまえりょうえんおこなわれたとしるされている)。ひゃく終了しゅうりょうおうきょう得業とくぎょうせいらが退出たいしゅつして、うたげ穏座ひらかれる。うたげには以上いじょう参列さんれつしゃ参加さんかし『論語ろんご』『こうけい』など儒教じゅきょう経典きょうてんかんする問答もんどうおこなわれていたが、のち儒教じゅきょうあかりけいどう)だけではなく、数学すうがくさんどう)と法学ほうがくあかりほうどう)の問答もんどうおこなわれるようになった。これをさんみちろんぶ。つづく穏座(おんのざ)はだいきょうふしかいのちの穏座と同様どうようにくつろいだうたげおこなわれ、紀伝きでんどう関係かんけいしゃによって儒教じゅきょう関連かんれんした話題わだいによる文人ぶんじんおこなわれる。平安へいあん時代じだいに8がつしゃく奠の翌日よくじつ内裏だいり議論ぎろんするうち論議ろんぎ殿上てんじょうろんよし後朝きぬぎぬろんよし)が恒例こうれいする。これはとうにおける天子てんし視学しがく代替だいたいてき行事ぎょうじであったとかんがえられているが、前述ぜんじゅつのように天子てんしみずか拝礼はいれいするという中国ちゅうごくにおけるしゃく奠のありかたとは反対はんたい性格せいかくゆうしていた。

現代げんだいしゃく

[編集へんしゅう]

湯島ゆしま聖堂せいどうでは、以下いか手順てじゅんしたがって孔子こうしさいしゃく奠)がおこなわれている。

  1. 参会さんかいしゃである祭主さいしゅもと林家はやしや当主とうしゅ現在げんざい斯文しぶんかい名誉めいよ会長かいちょうまたは会長かいちょうつとめる)・まつりかん神官しんかん現在げんざい神田かんだ明神みょうじん宮司ぐうじつとめる)・司式ししき司会しかいしゃ)・伶人れいじん雅楽ががく奏者そうしゃ)・その来賓らいひん)が着席ちゃくせき
  2. まつりかん参会さんかいしゃはらする「修祓しゅうばつ(しゅうふつ)」をおこなう。
  3. 伶人れいじんの「奏楽そうがく(そうがく)」」にわせて。まつりかん孔子こうしぞう到来とうらいつたえる「警蹕けいひつ(けいひつ)」とばれるうなごえげながら、孔子こうしぞう安置あんちされた厨子ずしとびらひらく(「ひらきとびら(かいひ)」)。
  4. まつりかんが奠幣(てんぺい)をささげる。奠幣の本来ほんらい形式けいしきは2たん4たけきぬ帛5ひきであるが、現在げんざい奉書ほうしょ代用だいようしている。
  5. 祭主さいしゅ祭文さいぶんげる。
  6. 来賓らいひん学者がくしゃ斯文しぶんかい会員かいいん)によるこうけいなどを閉会へいかい挨拶あいさつとなる。

なお、多久たくのホームページには多久たく聖廟せいびょうしゃくさい模様もようこまかく紹介しょうかいされている。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 석전대제 (しゃく奠大さい)』문화재청 (文化財ぶんかざいちょう)http://www.cha.go.kr/korea/heritage/search/Culresult_Db_View.jsp?mc=NS_04_03_01&VdkVgwKey=17,00850000,11  朝鮮ちょうせん
  2. ^ Decision of the Intergovernmental Committee: 6.COM 13.43, UNESCO, (2011), http://www.unesco.org/culture/ich/en/Decisions/6.COM/13.43 
  3. ^ 彌永やなが貞三ていぞう吉備真備きびのまきびによるしゃく奠の改革かいかくいちおこなわれたものではなく、天平てんぴょうかちたから4ねん752ねん)から翌年よくねんにかけて遣唐使けんとうしとして派遣はけんされたさいにも『ひらくもとれい』などしゃく奠にかんするしん知識ちしきをもって帰国きこくしているとく。
  4. ^ 戸川とがわ、2018ねん、P65-71.
  5. ^ 須藤すとう敏夫としお、2001ねん、P176-180。ただし、48かいちゅうには『ぞく徳川とくがわ実紀みき』など文献ぶんけん史料しりょうかけしつ実施じっし有無うむそのものを確認かくにんできないものもふくむ。また、かずが67×2=134かいではないのは、よしみひさし3ねん1850ねん)には11月にも臨時りんじしゃく奠をおこなって同年どうねんのみとし3かい実施じっしされたことによる。
  6. ^ 孔子こうしまつる「しゃく奠」ひか足利あしかが学校がっこう企画きかくてん伝統でんとう儀式ぎしきおもいはせ/巻物まきもの祭器さいきなど貴重きちょう資料しりょう展示てんじ東京とうきょう新聞しんぶん朝刊ちょうかん2018ねん11月18にち(メトロポリタンめん)2018ねん12月3にち閲覧えつらん
  7. ^ きゅう閑谷しずたに学校がっこうで「しゃくさい岡山おかやまけん教育きょういく委員いいんかい(2018ねん12月3にち閲覧えつらん)。

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 高田たかだ良助りょうすけしゃく奠」(『東洋とうよう歴史れきしだい辞典じてん』(平凡社へいぼんしゃ、1937ねん/縮刷しゅくさつばん:臨川りんせん書店しょてん、1986ねんISBN 978-4-653-01472-0
  • 宇野うの精一せいいちしゃく奠」(『中国ちゅうごく思想しそう辞典じてん』(けんぶん出版しゅっぱん、1984ねんISBN 978-4-87636-043-7
  • 神谷かみやただしあきらしゃく奠」(『国史こくしだい辞典じてん 8』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1987ねんISBN 978-4-642-00508-1
  • 丸山まるやま裕美子ゆみこしゃく奠」(『日本にっぽんだい事典じてん 4』(平凡社へいぼんしゃ、1993ねんISBN 978-4-582-13104-8
  • 川口かわぐち久雄ひさお/石破いしばひろししゃく奠」(『平安へいあん時代じだい事典じてん』(角川書店かどかわしょてん、1994ねんISBN 978-4-040-31700-7
  • 中村なかむらひつじ一郎いちろうしゃく奠」(『日本にっぽん歴史れきしだい事典じてん 2』(小学館しょうがくかん、2000ねんISBN 978-4-09-523002-3
  • 溝川みぞかわ晃司こうじしゃく奠」(『日本にっぽん古代こだい事典じてん』(朝倉書店あさくらしょてん、2005ねんISBN 978-4-254-53014-8
  • 真瀬まなせ涼子りょうこしゃく奠」(『日本にっぽん中世ちゅうせい事典じてん』(朝倉書店あさくらしょてん、2008ねんISBN 978-4-254-53015-5
  • 工藤くどうわたるひらめしゃく奠」(『江戸えど幕府ばくふだい事典じてん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2009ねんISBN 978-4-642-01452-6
  • こうれんたかし論語ろんご孔子こうし事典じてん』(大修館書店たいしゅうかんしょてん、1996ねんISBN 978-4-469-03208-6
  • 西山にしやま松之助まつのすけ湯島ゆしま聖堂せいどう江戸えど時代じだい』(斯文しぶんかい、1990ねん
  • 彌永やなが貞三ていぞう古代こだいしゃく奠について」(初出しょしゅつ:『ぞく日本にっぽん古代こだい論集ろんしゅう 下巻げかん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1972ねん)/所収しょしゅう:彌永やなが日本にっぽん古代こだい政治せいじ史料しりょう』(高科たかしな書店しょてん、1988ねん))
  • 戸川とがわてんしゃく奠におけるさん牲」(初出しょしゅつ:とら俊哉としや へん律令りつりょう国家こっか政務せいむ儀礼ぎれい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1995ねん)/所収しょしゅう:戸川とがわ平安へいあん時代じだい政治せいじ秩序ちつじょ』(どうなりしゃ、2018ねん)) 2018ねん、P57-76.
  • 戸川とがわてんしゃく奠とけがれしょうこう」(初出しょしゅつ:ふくふじ早苗さなえ小嶋こじまさい温子あつこ増尾ますおしん一郎いちろう戸川とかわてん へん『ケガレの文化ぶんか-物語ものがたり・ジェンダー・儀礼ぎれい』(もりはなししゃ、2005ねん)/所収しょしゅう:戸川とがわ平安へいあん時代じだい政治せいじ秩序ちつじょ』(どうなりしゃ、2018ねん)) 2018ねん、P77-92.
  • 須藤すとう敏夫としお近世きんせい日本にっぽんしゃく奠の研究けんきゅう』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2001ねんISBN 978-4-7842-1070-1

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]