(Translated by https://www.hiragana.jp/)
道明寺天満宮 - Wikipedia コンテンツにスキップ

道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう

拝殿はいでん
所在地しょざいち 大阪おおさか藤井寺ふじいでら道明寺どうみょうじ1丁目ちょうめ16-40
位置いち 北緯ほくい3434ふん9.5びょう 東経とうけい13537ふん3.4びょう / 北緯ほくい34.569306 東経とうけい135.617611 / 34.569306; 135.617611 (道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう)座標ざひょう: 北緯ほくい3434ふん9.5びょう 東経とうけい13537ふん3.4びょう / 北緯ほくい34.569306 東経とうけい135.617611 / 34.569306; 135.617611 (道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう)
主祭しゅさいしん 菅原すがわら道真みちざね
てんいのち
さとし寿ことぶき
社格しゃかくひとし きゅう郷社ごうしゃ
創建そうけん たれじん天皇てんのう32ねん
別名べつめい 土師はじ神社じんじゃ
札所ふだしょとう 菅公かんこう聖蹟せいせきじゅうはいだい8ばん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい58ばん大阪おおさかだい17ばん
例祭れいさい 梅花ばいかさい(2がつ25にち
おも神事しんじ はつ天神てんじんうそかえまつり1がつ25にち
菜種なたね御供ごくう大祭たいさい3月25にち
地図ちず
道明寺天満宮の位置(大阪府内)
道明寺天満宮
道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう
テンプレートを表示ひょうじ

道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう(どうみょうじてんまんぐう)は、大阪おおさか藤井寺ふじいでら道明寺どうみょうじにある神社じんじゃきゅう社格しゃかく郷社ごうしゃ境内けいだいには80しゅ800ほんうめがあり、うめ名所めいしょとしてられているとともに大阪おおさかみどりのひゃくせん選定せんていされている[1]

祭神さいじん

[編集へんしゅう]

歴史れきし

[編集へんしゅう]

埴輪はにわつくって殉死じゅんし風習ふうしゅうえた功績こうせきで、たれじん天皇てんのう32ねん野見のみ宿禰すくね土師はじしん(はじのおみ)のせいとこのあたえられた。そして、その子孫しそんである土師はじ野見のみ宿禰すくね遠祖えんそであるてんいのちまつ土師はじ神社じんじゃ建立こんりゅうした。仏教ぶっきょう伝来でんらい土師はじてらである土師はじてら土師はじ神社じんじゃ南側みなみがわ建立こんりゅうされ、やがて神宮寺じんぐうじとなった。伝承でんしょうでは推古天皇すいこてんのう2ねん594ねん)に聖徳太子しょうとくたいし発願ほつがんにより土師はじ八島やじまがそのやしき寄進きしんして土師はじてらとしたという。この土師はじからはやがて菅原すがわら大江おおえあきしの分流ぶんりゅうしていく。

平安へいあん時代じだい土師はじてらには菅原すがわら道真みちざねのおばにたるさとし寿ことぶきんでおり、道真みちざね時々ときどきこのてらおとずれている[2]。このてらのことを「故郷こきょう」とんだもある。あきらやすし4ねん901ねん)、道真みちざね大宰府だざいふ左遷させんされる途中とちゅう当社とうしゃって、さとし寿ことぶきとのわかれをしんだ[2]道真みちざね遺愛いあいしなつたえるすずりかがみとう神宝しんぽうとしてつたわり、6てん国宝こくほう指定していけている[2]

てんれき元年がんねん947ねん)には道真みちざねこくつたえるじゅういちめん観音かんのんぞうまつって土師はじてら道明寺どうみょうじ現在げんざい真言宗しんごんしゅう御室おむろ尼寺あまでら)と改称かいしょう道真みちざねごうである「道明みちあき」に由来ゆらい)し、同時どうじ土師はじ神社じんじゃない天満てんまみや創建そうけんされた。神仏しんぶつ習合しゅうごうすす時代じだいくだると道真みちざねゆかりのということで、道明寺どうみょうじ学問がくもんかみとしての信仰しんこうあつめるようになっていき、土師はじ神社じんじゃ天満宮てんまんぐう中心ちゅうしんとなっていった。

天正てんしょう3ねん1575ねん)、織田おだ信長のぶなが三好みよし康長やすながたたかった高屋たかやじょうたたか社殿しゃでん五重塔ごじゅうのとうなどを焼失しょうしつしたが、同年どうねんちゅう信長のぶながから寄進きしんける。天正てんしょう11ねん1583ねんいでぶんろく3ねん1594ねん)には豊臣とよとみ秀吉ひでよしから、のちには江戸えど幕府ばくふからも寄進きしんされている。社領しゃりょうは174せきである。

正徳まさのり6ねん1716ねん)には石川いしかわ氾濫はんらんしたため、道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう境内けいだい移転いてんし、道明寺どうみょうじ本堂ほんどう天満宮てんまんぐう本殿ほんでんのすぐ西にしとなりてられるなど両者りょうしゃはやがて一体化いったいかしていった。

1872ねん明治めいじ5ねん神仏しんぶつ分離ぶんりおこなうこととなり、道明寺どうみょうじぼうのうちこれしつ神職しんしょくとなって6がつ天満宮てんまんぐう土師はじ神社じんじゃ改称かいしょうした。また、郷社ごうしゃれっせられている。よく1873ねん明治めいじ6ねん)9がつ道明寺どうみょうじ分離ぶんりし、みちへだてた西にしとなり移転いてんした。1877ねん明治めいじ10ねん)の明治天皇めいじてんのう行幸ぎょうこうさい当社とうしゃ行在所あんざいしょとなった。

1952ねん昭和しょうわ27ねん)に土師はじ神社じんじゃから道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう改称かいしょうする。現在げんざい学問がくもんかみとして地元じもと人々ひとびとしたしまれている。当社とうしゃみなみには五重塔ごじゅうのとうあと礎石そせきのこる。

宮司ぐうじ

[編集へんしゅう]

神仏しんぶつ分離ぶんりのあった1872ねん明治めいじ5ねん)、天満宮てんまんぐう主体しゅたいとなった二之にのしつ当時とうじ住持じゅうじ公家くげぼうじょう俊明としあきはちじょぼうじょうしゅんせいいもうと愛媛えひめ(得度とくどしてはる寿ことぶき)であったが、還俗げんぞくしてみなみぼうじょうあずさしょうし、公家くげ高倉たかくらひさしあずさ義兄ぎけい)の次男じなんりょうきょう次期じき神主かんぬしとしてみなみぼうじょういで平民へいみんとなり、以後いごみなみぼうじょう代々だいだい宮司ぐうじつとめた[3]りょうきょう大阪おおさか私塾しじゅくはくえん書院しょいん」にまなび、伯爵はくしゃく壬生みぶはじめおさむむすめ麻子あさこつまとして、道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう発展はってん寄与きよした[4][5]

境内けいだい

[編集へんしゅう]
梅園うめぞの
梅園うめぞの
神宝しんぽう陳列ちんれつかん

末社まっしゃ

[編集へんしゅう]
元宮もとみや土師はじしゃ

境内けいだいしゃ

[編集へんしゅう]

さかいがいしゃ

[編集へんしゅう]

祭事さいじ

[編集へんしゅう]
  • うそかえ神事しんじ(1がつ25にち
    菅原すがわら道真みちざね左遷させんさき大宰府だざいふ到着とうちゃくした神事しんじさい襲来しゅうらいした無数むすうはちいちぐんのうそとり飛来ひらいしてはちい、人々ひとびとすくったという故事こじにちなみ、参拝さんぱいしゃたちが授与じゅよされた木彫きぼりの「うそとり」のはいったふくろを「かえましょう、かえましょう」というごえとともに周囲しゅういひと交換こうかんしあう行事ぎょうじである[7]近年きんねんでは、縁起えんぎとして「いちねん凶事きょうじをウソにえる」や「ウソをまことえる」などのねがいもめられている[7]
  • 菜種なたね御供ごくう大祭たいさい(3がつ25にち
    大宰府だざいふへの左遷させんみことのりけた菅原すがわら道真みちざね道明寺どうみょうじったさいに、あたいちめんはないていたとされる。道真みちざね大宰府だざいふ下向げこうさとし寿ことぶき尼公にこう毎日まいにち陰膳かげぜんえていためしこなにしてうめかたちにした黄色おうしょく団子だんごをこしらえたところ、病気びょうき平癒へいゆこうがあるとして、参拝さんぱいしゃがこぞって団子だんごもとめたことに由来ゆらいしている[8]現在げんざいでは河内かわうちはるげる神事しんじとして、はなそなえられ稚児ちご行列ぎょうれつおこなわれる。また、うめかたちをしたはなしょく団子だんご参拝さんぱいしゃ授与じゅよされる[8]

文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]

国宝こくほう

[編集へんしゅう]
  • でん菅公かんこう遺品いひん[ちゅう 1]
    • ぎんそう革帯かわおび(ぎんそうかくたい) 1じょう
    • 玳瑁たいまいそうきばぐし(たいまいそうげくし) 1まい
    • きばしゃく(げしゃく) 1まい
    • さい角柄つのがらがたな(さいかくつかとうす) 1くち
    • はくきば弾琴だんきんきょう(はくがだんきんきょう) 1めん
    • あお白磁はくじえんすずり(せいはくじえんけん) 1めん

以上いじょうから時代じだいまたは平安へいあん時代じだい初期しょき。『週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』の解説かいせつは、すずりとう製品せいひんくしとうせい可能かのうせいたかく、おびかがみから製品せいひんした日本にっぽんせいとする[9]

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]
  • ささ蒔絵まきえきょうくしげ 1ごうささそうすずめきょう 1めん1941ねん7がつ3にち指定してい[10][ちゅう 2] - 鏡面きょうめん金泥きんでい種子しゅしがある。
ささそうすずめきょうは、白銅はくどうせいかがみみち20cmのえんきょうであり、かがみかがみくしげともに文様もんよう表現ひょうげん製作せいさく技法ぎほうから鎌倉かまくら時代じだいにつくられたと推定すいていされる[11]ささ蒔絵まきえきょうくしげかがみ背面はいめんとほぼおなささ散文さんぶんさま蒔絵まきえあらわされていることから、かがみはこ一対いっついのものとしてつくられたとみられる[11]

大阪おおさか指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]
  • 脇差わきざし めい秀光ひでみつ昭和しょうわ56ねん6がつ1にち指定してい
作者さくしゃは、備前びぜんこく長船おさふねながれをくむ秀光ひでみつであり、南北なんぼくあさ時代じだい作品さくひんかんがえられている[11]身幅みはばがやや細身ほそみであり、秀光ひでみつぞくした流派りゅうはであるしょうはん(こぞりは)の特色とくしょくがよくあらわれている美術びじゅつてき価値かちたか作品さくひんとされる[11]

藤井寺ふじいでら指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]

その

[編集へんしゅう]
  • うるしかわきょう筥 (平安へいあん時代じだい
  • うるしまるくしげそう時代ときよ
  • くしばこ江戸えど時代じだい
  • 蒔絵まきえ螺鈿らでんきょう筥 (江戸えど時代じだい
  • 道明寺どうみょうじ絵図えず江戸えど時代じだい
  • 太宰府天満宮だざいふてんまんぐう絵図えず江戸えど時代じだい
  • 天神てんじん縁起えんぎ絵巻えまき江戸えど時代じだい
  • わたりから天神てんじん画像がぞう ごくれいざいさんつたえ雪舟せっしゅうふで

かつての文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]

前後ぜんご札所ふだしょ

[編集へんしゅう]
菅公かんこう聖蹟せいせきじゅうはい
7 威徳いとく天満宮てんまんぐう - 8 道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう - 9 ふとしてん神宮じんぐう
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
57 あきらぶくてら - 58 道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう - 59 かずら井寺いてら

現地げんち情報じょうほう

[編集へんしゅう]

所在地しょざいち

交通こうつうアクセス

周辺しゅうへん

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 6てん一括いっかつ国宝こくほう指定してい。6てん配列はいれつ順序じゅんじょ国宝こくほう指定してい官報かんぽう告示こくじによる(昭和しょうわ28ねん7がつ16にち文化財ぶんかざい保護ほご委員いいんかい告示こくじだい66ごう指定してい昭和しょうわ28ねん3がつ31にちけ)。
  2. ^ 1941ねん昭和しょうわ16ねん)7がつ3にち当時とうじ国宝こくほう保存ほぞんほうによるきゅう国宝こくほう指定してい昭和しょうわ16ねん7がつ3にち文部省もんぶしょう告示こくじだい722ごう参照さんしょう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション、5コマ)。なお、文化財ぶんかざい保護ほごほう(1950ねん施行しこう附則ふそくだい3じょう規定きていもとづき、国宝こくほう保存ほぞんほうによるきゅう国宝こくほう指定していは、文化財ぶんかざい保護ほごほうによる重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していとみなされている。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 大阪おおさかみどりのひゃくせん”. 大阪おおさか. 2016ねん12月23にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c 道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう - OSAKA-INFO2019ねん1がつ3にち 閲覧えつらん
  3. ^ 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい』:だい28かん [1] p1057 1986
  4. ^ 壬生みぶはじめおさむ人事じんじ興信録こうしんろく初版しょはん [明治めいじ36(1903)ねん4がつ]
  5. ^ 国府こくふ遺跡いせき発掘はっくつ道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐうみなみぼうじょう光興みつおき 阡陵 : 関西大学かんさいだいがく博物館はくぶつかん彙報いほう まき50 2005-03-31
  6. ^ a b 神社じんじゃ博物館はくぶつかん事典じてんWEBばん - 道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう宝物ほうもつかん - 國學院大學こくがくいんだいがく2019ねん1がつ3にち 閲覧えつらん
  7. ^ a b うそかえまつり 【2018ねん1がつ25にち)】 - わくわく南河内みなみごうち2019ねん1がつ3にち 閲覧えつらん
  8. ^ a b 道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐう 菜種なたね御供ごくう大祭たいさい - OSAKA-INFO2019ねん1がつ3にち 閲覧えつらん
  9. ^ 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』35ごう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1997)、pp.140 - 141。解説かいせつ執筆しっぴつ関根せきね俊一しゅんいち
  10. ^ 指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらん国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい重要じゅうよう無形むけい文化財ぶんかざい”. 藤井寺ふじいでら. 2020ねん3がつ2にち閲覧えつらん
  11. ^ a b c d 道明寺どうみょうじ天満宮てんまんぐうささそうすずめきょう脇差わきざし - 藤井寺ふじいでら2019ねん1がつ3にち 閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]
  • 道明寺どうみょうじ - さとし寿ことぶき尼公にこう乾燥かんそうした糯米もちごめこなにした由来ゆらいから名前なまえがついている。

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]