(Translated by https://www.hiragana.jp/)
金剛寺 (河内長野市) - Wikipedia コンテンツにスキップ

金剛寺こんごうじ (河内長野かわちながの)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
金剛寺こんごうじ
金堂こんどうひだり修復しゅうふくまえ)と食堂しょくどう(じきどう)
所在地しょざいち 大阪おおさか河内長野かわちながの天野あまのまち996
位置いち 北緯ほくい3425ふん46.42びょう 東経とうけい13531ふん44.57びょう / 北緯ほくい34.4295611 東経とうけい135.5290472 / 34.4295611; 135.5290472座標ざひょう: 北緯ほくい3425ふん46.42びょう 東経とうけい13531ふん44.57びょう / 北緯ほくい34.4295611 東経とうけい135.5290472 / 34.4295611; 135.5290472
山号さんごう 天野山あまのさん
宗旨しゅうし 真言宗しんごんしゅう
宗派しゅうは 真言宗しんごんしゅう御室おむろ
寺格じかく 大本山だいほんざん
本尊ほんぞん 大日如来だいにちにょらい坐像ざぞう国宝こくほう
創建そうけんねん つて天平てんぺい年間ねんかん729ねん – 748ねん
開山かいさん つて行基ぎょうき
開基かいき 聖武天皇しょうむてんのう勅願ちょくがん
正式せいしきめい 天野山あまのさん金剛寺こんごうじ
別称べっしょう 天野あまの山寺やまでら天野あまの行宮あんぐう女人にょにん高野たかの
札所ふだしょとう しん西国さいこくさんじゅうさん箇所かしょだい7ばん
かわいずみじゅうよん地蔵じぞう霊場れいじょうだい12ばん
河内かわうち飛鳥あすか社寺しゃじ霊場れいじょうだい8ばん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい55ばん大阪おおさかだい14ばん
文化財ぶんかざい 延喜えんぎしきかみめいちょう延喜えんぎしきだいじゅうざんまきだいじゅうよんだいじゅうろくかみほんちょしょく日月じつげつ四季しき山水さんすいけん 無銘むめい木造もくぞう大日如来だいにちにょらい坐像ざぞう木造もくぞう不動ふどうくださんせい明王みょうおう坐像ざぞう 3国宝こくほう
楼門ろうもん金堂こんどうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
法人ほうじん番号ばんごう 6120105005422 ウィキデータを編集
地図
テンプレートを表示ひょうじ
現存げんそん最古さいこ多宝塔たほうとう修復しゅうふくまえ
あまいん表門おもてもん
庭園ていえん
鎮守ちんじゅ丹生たんじょう高野たかのあきら神社じんじゃ本殿ほんでん

金剛寺こんごうじ(こんごうじ)は、大阪おおさか河内長野かわちながの天野あまのまちにある真言宗しんごんしゅう御室おむろ大本山だいほんざん寺院じいん山号さんごう天野山あまのさん(あまのさん)。本尊ほんぞん大日如来だいにちにょらい仏堂ぶつどうしん西国さいこくさんじゅうさん箇所かしょだい7ばん札所ふだしょ本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのんである。

境内けいだい多宝塔たほうとう平安へいあん時代じだい後期こうき建立こんりゅうで、日本にっぽん最古さいこ多宝塔たほうとうであると同時どうじ大阪おおさか最古さいこ木造もくぞう建築けんちくぶつである[1]

高野山こうのやま女人にょにん禁制きんせいだったのにたいして女性じょせい参詣さんけいができたため、「女人にょにん高野たかの」ともばれる。奥河内おくがわうち観光かんこうひとつ。大阪おおさかみどりのひゃくせん選定せんていされている[2]。また日本にっぽん遺産いさん中世ちゅうせいえるまち 〜せんねんにわたりまもられてきた中世ちゅうせい文化ぶんか遺産いさん宝庫ほうこ〜』の構成こうせい文化財ぶんかざいのひとつでもある。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ時代じだい1336ねん - 1392ねん)には、南朝なんちょうさい重要じゅうよう拠点きょてんひとつとして、枢要すうよう地位ちいにあった。のべもと元年がんねん/たてたけし3ねん(1336ねん10月1にちには、後醍醐天皇ごだいごてんのうによって勅願ちょくがんてら指定していされた。さらに、正平しょうへい9ねん/文和ふみかず3ねん1354ねん10月28にちから正平しょうへい14ねん/のべぶん4ねん1359ねん)12がつまで、南朝なんちょうだい2だい後村上天皇ごむらかみてんのう行宮あんぐうかり皇居こうきょ)がかれている。また、正平しょうへい12ねん/のべぶん2ねん1357ねん)に後醍醐ごだいごこう村上むらかみりょうみかど腹心ふくしん南朝なんちょう最大さいだい高僧こうそうそう文観もんかんぼうひろしん入滅にゅうめつしたでもある。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

初期しょき

[編集へんしゅう]

てらでんではインドアショーカおうおもねそだておう)がげた8まん4せん鉄塔てっとうのうちのひとつがこのちたとする。奈良なら時代じだい天平てんぺい年間ねんかん729ねん - 749ねん)に聖武天皇しょうむてんのう勅願ちょくがんによって行基ぎょうきひらいたとされる。弘法大師こうぼうだいし空海くうかい)も修行しゅぎょうをしたとされている。

平安へいあん時代じだい末期まっき高野山こうのやまそう阿観あかん(あかん)がじゅうすると、こう白河しらかわ上皇じょうこういもうとはちじょういんあつ帰依きえけたほかうけたまわ4ねん1180ねん)には地元じもと武士ぶしであるみなもと貞弘さだひろから土地とち寄進きしんされるなどし、金堂こんどう御影堂ごえどうなどを建立こんりゅうし、再興さいこうした。八条はちじょういん帰依きえけたほか、はちじょういん侍女じじょ大弐だいにきょくきよしさとしあま)といもうとろくじょうきょくさとしおもねあま)が阿観あかん弟子でしとなり、だいつづけて院主いんじゅとなるなどし、女性じょせい参詣さんけいができたため「女人にょにん高野たかの」とばれて有名ゆうめいとなった。

南北なんぼくあさ時代じだい

[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきには100ちか塔頭たっちゅうがあり、後醍醐天皇ごだいごてんのうちかしい関係かんけいきずき、南北なんぼくあさ時代じだいには観心寺かんしんじとも南朝なんちょうかた一大いちだい拠点きょてんとなった。のべもと元年がんねん/たてたけし3ねん1336ねん10月1にちには後醍醐天皇ごだいごてんのうによって勅願ちょくがんてらとされた[3]。もともと後醍醐天皇ごだいごてんのう河内かわうちこく真言宗しんごんしゅうしょ寺院じいんとはしたしく、また(すで故人こじんとなっていたが)武将ぶしょう楠木くすのき正成まさしげとの関係かんけいもあるとかんがえられている[3]。このとき綸旨りんじには「皇統こうとう長久ちょうきゅういのるべし」とあるが、すうひゃくつうある後醍醐天皇ごだいごてんのう綸旨りんじなかでこのような文言もんごんかれた綸旨りんじにはない。

正平しょうへい9ねん/文和ふみかず3ねん1354ねん)3にち22にち南朝なんちょうかんおう擾乱じょうらん末期まっき捕縛ほばくしていた北朝ほくちょうひかりげん上皇じょうこう光明こうみょう上皇じょうこうたかしこう上皇じょうこうはい太子たいしちょくじん親王しんのうを、大和やまとこく賀名かなせいからとうてら移動いどうさせるとかんぞういんをその行宮あんぐうかりまい)とした[4]10月28にちには後村上天皇ごむらかみてんのう自身じしん到来とうらいし、塔頭たっちゅうあまいん行宮あんぐうとして、南朝なんちょう本拠地ほんきょちさだめた[4]。また、食堂しょくどう政庁せいちょう天野あまの殿どの(あまのでん)とした。

このとき、後醍醐ごだいごこう村上むらかみりょうみかど腹心ふくしん護持ごじそう祈祷きとうによって天皇てんのう守護しゅごするそう)をつとめた文観もんかんぼうひろしんもまた、金剛寺こんごうじ居住きょじゅうした[4]。このときの金剛寺こんごうじ学頭がくとう寺務じむ統括とうかつする僧職そうしょく)は、膨大ぼうだい仏教ぶっきょうしょ書写しょしゃした学僧がくそうとして名高なだかぜんめぐみで、文観もんかん弟子でしりし「門弟もんてい随一ずいいち」をしょうしている[5]

正平しょうへい10ねん/文和ふみかず4ねん1355ねん)には光明こうみょう上皇じょうこう京都きょうとかえし、正平しょうへい12ねん/のべぶん2ねん1357ねん)2がつにはひかりげん上皇じょうこうたかしこう上皇じょうこうちょくじん親王しんのう京都きょうとかえされた。

正平しょうへい12ねん/のべぶん2ねん10月9にち1357ねん11月21にち)、文観もんかんとうてら大門おおもん往生おうじょういんにおいて入滅にゅうめつした[6]

正平しょうへい14ねん/のべぶん4ねん1359ねん)12月には、後村上天皇ごむらかみてんのう行宮あんぐう観心寺かんしんじうつった。

よく正平しょうへい15ねん/のべぶん5ねん1360ねん)、北朝ほくちょう畠山はたけやま国清くにきよ攻撃こうげきけて40あまりの塔頭たっちゅう焼失しょうしつする。さらに、文中ぶんちゅう2ねん/おうやす6ねん1373ねん)には、和平わへい反対はんたいする長慶天皇ちょうけいてんのう行在所あんざいしょとしていたとうてらに、和平わへいゆえに北朝ほくちょう寝返ねがえった楠木くすのき正儀まさよしがあえて攻撃こうげきくわえ、長慶天皇ちょうけいてんのうとうてらからのぞかせて、しばらくのあいだ占領せんりょうする事件じけんきた。

その

[編集へんしゅう]

その戦火せんかうこともなく、室町むろまち時代ときよえいとおる4ねん1432ねんごろからは銘酒めいしゅ天野あまのさけ」を販売はんばいして収入しゅうにゅうたりし、えいただし11ねん1514ねん)には依然いぜんとして塔頭たっちゅうが70から90もあって威勢いせいほこった。

慶長けいちょう10ねん1605ねん)から豊臣とよとみ秀頼ひでよりによって伽藍がらん整備せいびされ、金堂こんどう多宝塔たほうとう食堂しょくどう楼門ろうもん修理しゅうりされた。また、仏堂ぶつどう薬師堂やくしどう再建さいけんされ、護摩堂ごまどうほうぞうあまいん書院しょいん鎮守ちんじゅしゃ水分すいぶん明神みょうじんしゃ丹生たんじょう高野たかのあきら神社じんじゃ鎮守ちんじゅしゃ拝殿はいでん鎮守ちんじゅしゃ鐘楼しゅろう建立こんりゅうされている。

元禄げんろく13ねん1700ねん)には、江戸えど幕府ばくふ将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよしいのち岸和田きしわだはんおも岡部おかべちょうやすし奉行ぶぎょうとして伽藍がらん修理しゅうりふたたおこなわれたほかもとめ聞持どう開山かいさんどう建立こんりゅうされた。江戸えど時代じだい末期まっきには307せき寺領じりょうがあった。

しかし、明治めいじ時代じだいとなって廃仏毀釈はいぶつきしゃくのためもあり、塔頭たっちゅう減少げんしょうし、現在げんざいではあまいんかんぞういん吉祥院きっしょういんのこすのみである。とはいえ、主要しゅよう伽藍がらんなどは戦火せんかからなかったため、貴重きちょう文化財ぶんかざい数多かずおおのこされている。

境内けいだい

[編集へんしゅう]
  • 金堂こんどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - もとおう2ねん1320ねん再建さいけん慶長けいちょう10ねん1605ねん)には豊臣とよとみ秀頼ひでよりによりだい修理しゅうりされている。どうないには中央ちゅうおう本尊ほんぞん金剛こんごうかい大日如来だいにちにょらい坐像ざぞう国宝こくほう)、かってみぎ不動明王ふどうみょうおう坐像ざぞう国宝こくほう)、ひだりくださんせい明王みょうおう(ごうざんぜみょうおう)坐像ざぞう国宝こくほう)を安置あんちする(いずれも2017ねん国宝こくほう指定してい)。密教みっきょう曼荼羅まんだらひとつであるみことしょう曼荼羅まんだら立体りったいてきあらわしたものでありこの金剛寺こんごうじにしか存在そんざいしない。
    • 木造もくぞう大日如来だいにちにょらい坐像ざぞう - 平安へいあん時代じだい後期こうき
    • 木造もくぞう不動明王ふどうみょうおう坐像ざぞう - 鎌倉かまくら時代ときよ修理しゅうりぞうないめい確認かくにんされ、天福てんぷく2ねん1234ねん)に快慶かいけい弟子でしであるくだりこころよによって作成さくせいされたものと判明はんめいした[7]
    • 木造もくぞうくださんせい明王みょうおう坐像ざぞう - 鎌倉かまくら時代じだいくださんせい明王みょうおうぞう四面しめんはちひじさん立像りつぞうとしてあらわすのが通例つうれいだが、ほんぞういちめんひじ坐像ざぞう図像ずぞうてきめずらしい。ぞうないめいはないが作風さくふうから不動明王ふどうみょうおうぞう同様どうようぎょうかい工房こうぼうさく推定すいていされる[7]
  • 多宝塔たほうとう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 平安へいあん時代じだい後期こうき建立こんりゅう現存げんそんしている多宝塔たほうとうとしては日本にっぽん最古さいこであり、また大阪おおさか最古さいこ木造もくぞう建築けんちくぶつでもある[1]。ただし、慶長けいちょう11ねん1606ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりによりだい改修かいしゅうされている。上層じょうそうすみぎょうには日本にっぽん現存げんそん建築けんちく唯一ゆいいつかつ最多さいたとなるきゅう手先てさき組物くみものがある。
  • 経蔵きょうぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 宝蔵ほうぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 薬師堂やくしどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう年間ねんかん1596ねん - 1615ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより再建さいけん
  • 仏堂ぶつどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう年間ねんかん(1596ねん - 1615ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより再建さいけんしん西国さいこくさんじゅうさん箇所かしょだい7ばん札所ふだしょ千手観音せんじゅかんのんまつる。
  • もとめ聞持どう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 元禄げんろく13ねん1700ねん)に徳川とくがわ綱吉つなよしにより建立こんりゅう
  • 天野山あまのさんはちじゅうはちヶ所かしょめぐり - 四国八十八箇所しこくはちじゅうはっかしょ霊場れいじょう石仏いしぼとけぐんがある。
  • 閼伽重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 御影堂ごえどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう11ねん(1606ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより再建さいけん
  • 観月みづきてい重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう11ねん(1606ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより再建さいけん御影堂ごえどう接続せつぞくしている。
  • ほうぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう年間ねんかん(1596ねん - 1615ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより建立こんりゅう
  • 護摩堂ごまどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう年間ねんかん(1596ねん - 1615ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより建立こんりゅう
  • 開山かいさんどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 元禄げんろく13ねん(1700ねん)に徳川とくがわ綱吉つなよしにより建立こんりゅう
  • ひかりげん天皇てんのうりょう分骨ぶんこつしょ) - 宮内庁くないちょう管轄かんかつ
  • 北門きたもん
  • 鐘楼しゅろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 室町むろまち時代じだい前期ぜんき再建さいけん
  • 食堂しょくどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 室町むろまち時代じだい前期ぜんき再建さいけん南朝なんちょう政庁せいちょう天野あまの殿どの
  • みなみもん
  • てんあきらすめらぎ大神だいじんしゃ重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • はちだい龍王りゅうおう善女ぜんにょ龍王りゅうおうしゃ重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 弁財天べざいてんしゃ重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 築地つきじへい重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 楼門ろうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 鎌倉かまくら時代じだい後期こうき再建さいけん
  • あまいん - 塔頭たっちゅう南朝なんちょう行在所あんざいしょ
    • 書院しょいん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう年間ねんかん(1596ねん - 1615ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより再建さいけん
    • 表門おもてもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう年間ねんかん(1596ねん - 1615ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより再建さいけん
  • ほんぼう
    • 持仏堂じぶつどうくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • 茶室ちゃしつくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • 宝物ほうもつかん
    • 庫裏くり
    • 客殿きゃくでんくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • だい玄関げんかんくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • 渡廊下わたりろうかくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • 奥殿おくとのくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 北朝ほくちょう行在所あんざいしょ
    • 庭園ていえん - 蜂須賀はちすか家政いえまささくとされる。
    • 待合まちあいしょ
    • 稲荷いなりしゃ
    • 表門おもてもんくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい
  • みなみもん表門おもてもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 鎮守ちんじゅきょうくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - このはし天野川あまのがわかっており、ここをとおって鎮守ちんじゅしゃ参拝さんぱいする。
  • 無量むりょう寿ことぶきいん
    • 庫裏くり
    • かごどうくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • 表門おもてもんきゅうぶくいん表門おもてもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • だい講堂こうどうくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • だい講堂こうどう食堂しょくどうくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • 表門おもてもんきゅうおもむきいん表門おもてもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • かんぞういん - 塔頭たっちゅう北朝ほくちょう行在所あんざいしょ
  • 吉祥院きっしょういん - 塔頭たっちゅう
  • 天野山あまのさん会館かいかん
  • 総門そうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 水分すいぶん明神みょうじんしゃ重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 鎮守ちんじゅしゃ慶長けいちょう年間ねんかん(1596ねん - 1615ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより建立こんりゅう
  • 丹生たんじょう高野たかのあきら神社じんじゃ重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 鎮守ちんじゅしゃ慶長けいちょう年間ねんかん(1596ねん - 1615ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより建立こんりゅう
  • 鎮守ちんじゅしゃ拝殿はいでん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう年間ねんかん(1596ねん - 1615ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより建立こんりゅう
  • 鎮守ちんじゅしゃ鐘楼しゅろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう年間ねんかん(1596ねん - 1615ねん)に豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより建立こんりゅう
  • えびすしゃ

文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]
日月じつげつ四季しき山水さんすい屏風びょうぶ みぎせき
日月じつげつ四季しき山水さんすい屏風びょうぶ ひだりせき
伽藍がらん西にしからる。右手みぎておく多宝塔たほうとう左手ひだりておく金堂こんどう手前てまえひだりからほうぞう御影堂ごえどう仏堂ぶつどう、その手前てまえいししがらみかこわれた区域くいき)はひかりげん天皇陵てんのうりょう

国宝こくほう

[編集へんしゅう]
中世ちゅうせいやまと屏風びょうぶ代表だいひょうさくとして名高なだか作品さくひん。この屏風びょうぶかんする史料しりょうほとんのこっておらず、制作せいさく時期じきも15世紀せいきなかばとするせつから、16世紀せいき後半こうはんとする意見いけんもある。どう時期じき洗練せんれんされたやまと屏風びょうぶにあまりられない工芸こうげいてき手法しゅほうや、仏画ぶつがつうじるなみえがかた泥臭どろくさささえかんじる素朴そぼく表現ひょうげんから、大和やまと絵師えしではなく仏師ぶっしえがいた可能かのうせいがある[12]さんまつなみなどがうごさんばかりに誇張こちょうされ、その特異とくい迫力はくりょくある造形ぞうけいから美術びじゅつしょなどの表紙ひょうしにしばしば使つかわれ、日本にっぽん画家がか加山かやままたみやつこ山本やまもと太郎たろうなどがほんさく下敷したじきにした作品さくひん発表はっぴょうしている。

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]
建造けんぞうぶつ
  • 楼門ろうもん むねさつ(1まい
  • 金堂こんどう むねさつ(1まい
  • 御影堂ごえどう御影堂ごえどう観月かんげつていからなる) むねさつ(1まい
  • 多宝塔たほうとう
  • 食堂しょくどう天野あまの殿どの
  • 鐘楼しゅろう
  • 金剛寺こんごうじ建造けんぞうぶつ)22むね[13][14]
    • 仏堂ぶつどう 須弥壇しゅみだん1むねさつ(1まい
    • 薬師堂やくしどう
    • 閼伽
    • 護摩堂ごまどう
    • ほうぞう
    • もとめ聞持どう(ぐもんじどう)
    • 開山かいさんどう 石造せきぞう三重みえとう 2
    • 宝蔵ほうぞう
    • 経蔵きょうぞう
    • 弁財天べざいてん社本しゃもと殿どの
    • 八大龍王善女龍王社本殿
    • てんあきらすめらぎ大神おおがみ社本しゃもと殿どの(てんしょうこうたいじんじゃほんでん)
    • 築地つきじへい(2しょ
    • 鎮守ちんじゅ水分すいぶん明神みょうじん社本しゃもと殿どの(ちんじゅみくまりみょうじんしゃほんでん) むねさつ3まい
    • 鎮守ちんじゅ丹生たんじょう高野たかのあきら神社じんじゃ本殿ほんでん むねさつ3まい蟇股かえるまた部材ぶざい4てん
    • 鎮守ちんじゅしゃ拝殿はいでん
    • 鎮守ちんじゅしゃ鐘楼しゅろう
    • きゅうおもむきいん表門おもてもんもと登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい[15]
    • きゅうぶくいん表門おもてもんもと登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい[15]
    • みなみもん南大門なんだいもん
    • 総門そうもん
  • あまいん 4むね[注釈ちゅうしゃく 2]所有しょゆうしゃあまいん
    • 書院しょいん 化粧けしょう野地やちばん1まいむねさつ1まい
    • 表門おもてもん
    • 築地つきじへい(2しょ
彫刻ちょうこく
絵画かいが
工芸こうげいひん
金銅かなどう香炉こうろつけ 金銅かなどう牡丹ぼたんぶんとおるぶた
腹巻はらまき及膝よろいのうちくろ韋威腹巻はらまき
腹巻はらまき及膝よろいのうち腹巻はらまき2りょう
  • 蓮花れんげ蒔絵まきえけい筥 - 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 腹巻はらまき及膝よろい でんくすのき一族いちぞく所用しょよう 20りょう、1そう明細めいさいこう)※「腹巻はらまき」はよろい一種いっしゅ
  • 白銅はくどうきょう花鳥かちょう文様もんよう
  • 野辺のべすずめ蒔絵まきえ手箱てばこ - 京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 金銅かなどう香炉こうろ 金銅かなどう牡丹ぼたんぶんとおるぶた - 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 金銅かなどうそう戒体ばこ - 奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • はちす唐草からくさ螺鈿らでんちょうがたさんそくたく
書跡しょせき典籍てんせき古文書こもんじょ
  • たから篋印陀羅尼だらにけい
  • 梵漢ひろしけんぎょうねがいさん
  • 紺紙金泥こんしこんでい法華経ほけきょう まきだいはち 藤原基衡ふじわらのもとひらねがいけい
  • かみ本金ほんきんどろたから篋印陀羅尼だらにけい 料紙りょうし消息しょうそく及歌しゅうきり - 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • だい般涅槃経 12かん 各巻かくかん正平しょうへいじゅうよんねん後村上天皇ごむらかみてんのう加筆かひつ奥書おくがき
  • ゆう仙窟せんくつ 1じょう げんとおる元年がんねん加点かてん奥書おくがき[18][注釈ちゅうしゃく 3]
  • 楠木くすのき文書ぶんしょ 1かん

典拠てんきょ:2000ねんまでに指定してい国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざいについては『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん』(所有しょゆうしゃべつ総合そうごう目録もくろく名称めいしょうそう索引さくいん統計とうけい資料しりょう)(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000)による。2001ねん以降いこう新規しんき指定してい追加ついか指定していとうについては個別こべつちゅうした。

くに指定してい史跡しせき

[編集へんしゅう]
  • 金剛寺こんごうじ境内けいだい

くに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]

以下いか建造けんぞうぶつ12けんが2017ねん6がつ28にちけでくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい登録とうろくされた[19][注釈ちゅうしゃく 4]

  • ほんぼう持仏堂じぶつどう
  • ほんぼう客殿きゃくでん
  • ほんぼうだい玄関げんかん
  • ほんぼう奥殿おくとの
  • ほんぼう渡廊下わたりろうか
  • ほんぼう茶室ちゃしつ
  • ほんぼう表門おもてもん
  • 無量むりょう寿ことぶきいんかごどう
  • 天野川あまのがわ東岸とうがんきゅういん築地つきじへい
  • だい講堂こうどう
  • だい講堂こうどう食堂しょくどう
  • 鎮守ちんじゅきょう

重要じゅうよう美術びじゅつひん

[編集へんしゅう]
  • どうせいかりぶんきょう
  • どうせいみずはなそうおしどりぶんはちりょうきょう
  • かみほん墨書ぼくしょ清水寺きよみずでら仮名がな縁起えんぎ

大阪おおさか指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]
  • 木造もくぞう薬師やくし如来にょらい立像りつぞう
  • どうせいせんひろし俶塔
  • 金剛寺こんごうじ一切経いっさいきょう 4461かん24じょう2まい - 2022ねんれい4ねん)3がつ15にち指定してい

大阪おおさか指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ

[編集へんしゅう]
  • 金剛寺こんごうじスギ

河内長野かわちながの指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]

河内長野かわちながの指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]
  • 天野山あまのさん金剛寺こんごうじせい御影みかげきょう百味ひゃくみ飲食いんしょく

河内長野かわちながの選定せんてい保存ほぞん地域ちいき

[編集へんしゅう]
  • 金剛寺こんごうじヒノキはやし

前後ぜんご札所ふだしょ

[編集へんしゅう]
しん西国さいこくさんじゅうさん箇所かしょ
6 宝亀ほうきいん - 7 金剛寺こんごうじ - きゃくばん 観心寺かんしんじ
かわいずみじゅうよん地蔵じぞう霊場れいじょう
11 あかりにんてら - 12 金剛寺こんごうじ - 13 善正ぜんしょう地蔵寺じぞうじ
河内かわうち飛鳥あすか社寺しゃじ霊場れいじょう
7 西琳寺さいりんじ - 8 金剛寺こんごうじ - 9 延命寺えんめいじ
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
54 七宝しっぽう瀧寺たきでら - 55 金剛寺こんごうじ - 56 観心寺かんしんじ

アクセス

[編集へんしゅう]
  • 南海なんかいバス天野山あまのさんせん天野山あまのさんバス停ばすてい下車げしゃすぐ。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ (つけたり)の天蓋てんがいは2012ねん追加ついか指定してい平成へいせい24ねん9がつ6にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい135ごう
  2. ^ 1965ねんに「あまいん書院しょいん1むね」として指定してい。2019ねん表門おもてもん築地つきじへい2しょ化粧けしょう野地やちばんむねさつ追加ついか指定していれい元年がんねん12がつ27にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい114ごう)。
  3. ^ 2019ねん官報かんぽう告示こくじ追加ついか指定してい名称めいしょう変更へんこうおこなわれている。(追加ついか指定していまえ)「ゆう仙窟せんくつざんまき 1じょう」⇒(追加ついか指定してい)「ゆう仙窟せんくつ 1じょう」(れい元年がんねん7がつ23にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい28ごう
  4. ^ おなじ2017ねん6がつ28にちけで登録とうろくされたきゅうおもむきいん表門おもてもんきゅうぶくいん表門おもてもんについては、2019ねん重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされたことにともない、登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざいとしての登録とうろく抹消まっしょうされている(れい元年がんねん12がつ27にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい115ごう)。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b 金剛寺こんごうじ多宝塔たほうとう文化ぶんか遺産いさんオンライン”. 文化庁ぶんかちょう. 2016ねん12月23にち閲覧えつらん
  2. ^ 大阪おおさかみどりのひゃくせん”. 大阪おおさか. 2016ねん12月23にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 内田うちだ 2006, p. 206.
  4. ^ a b c 内田うちだ 2006, p. 270.
  5. ^ 内田うちだ 2006, pp. 270–278.
  6. ^ 内田うちだ 2006, pp. 270–278, 351.
  7. ^ a b 『なら仏像ぶつぞうかん名品めいひん図録ずろく』(奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん、2012)、pp.14 - 15
  8. ^ 平成へいせい29ねん9がつ15にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい113ごう
  9. ^ 国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していについて文化庁ぶんかちょうサイト)
  10. ^ 文化ぶんか審議しんぎかい答申とうしん国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の指定していについて〜」文化庁ぶんかちょうサイト、2018ねん3がつ9にち発表はっぴょう
  11. ^ 平成へいせい30 ねん10 がつ31にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい204ごう
  12. ^ いずみ万里ばんりひかりをまとう中世ちゅうせい絵画かいが ─やまと屏風びょうぶ角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん、2007ねん ISBN 978-4-04-702137-2
  13. ^ れい元年がんねん12がつ27にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい113ごう
  14. ^ 重要じゅうよう文化財ぶんかざい建造けんぞうぶつ)の指定していについて(2019ねん10がつ18にち”. 文化庁ぶんかちょう. 2019ねん10がつ22にち閲覧えつらん
  15. ^ a b 文化庁ぶんかちょうホームページ
  16. ^ 平成へいせい23ねん6がつ27にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい101ごう
  17. ^ 平成へいせい17ねん6がつ7にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい87ごう
  18. ^ 平成へいせい26ねん8がつ21にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい107ごう
  19. ^ 平成へいせい29ねん6がつ28にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい89ごう

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 内田うちだ啓一けいいち文観もんかんぼうひろしん美術びじゅつ法藏館ほうぞうかん、2006ねんISBN 978-4831876393 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]