皇居(こうきょ)は、日本の天皇及び皇族の居所。東京都千代田区千代田1番1号に位置し、宮内庁も所在する[1]。区の中央部に立地しており、総面積は千代田区の約2割に相当する。
1888年より1948年までは宮城(きゅうじょう)と公称されていた[2]。また皇城(こうじょう)や皇宮(こうぐう)などとも称せられた。1948年の宮内庁告示に伴い、正式に「皇居」と呼ばれるようになった[3][4](後述)。
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現在の皇居は特別史跡「江戸城跡」一帯を指す呼称でもあり、公式の英語表記は「The Imperial Palace」である。天皇の平常時の住居である「御所」や各種公的行事や政務の場である「宮殿」、宮内庁庁舎などがある。
平安京への遷都(794年〈延暦13年〉)から東京奠都(1869年〈明治2年〉)までは京都にあり、御所(ごしょ)[注釈 1]や禁中(きんちゅう)、禁裏(きんり)、内裏(だいり)などと呼ばれていた。現在の京都御所(京都市上京区)は、もとは里内裏として用いられ(後述の「#皇居・宮の歴史」参照)、南北朝時代以後は正式な御所となっていたもので、明治維新後の東京行幸に伴い留守となり使われなくなったが、荒廃した御所の様子を嘆いた明治天皇の指示により、隣接する京都仙洞御所や京都大宮御所とともに保存された。なお、行幸後に首都機能が東京に移った際、明確な遷都の法令が発せられなかったので、京都御所を現在も皇居とみなす向きもある(詳細は「東京奠都」を参照)。しかし明治以降、京都御所に近代的居住機能が付加されることはなく、平安時代の様式を伝える最高格式の紫宸殿(正殿)や日常生活の場である常御殿などが保存され、文化財となっている。
皇居の呼び名は、史料や古典文学に登場するものの現在では使われない表現を含めると様々ある。内裏、御所、大内(おおうち)、大内山、九重(ここのえ)、宮中(きゅうちゅう)、禁中(きんちゅう)、禁裏、百敷(ももしき)、紫の庭(むらさきのにわ)、皇宮(こうぐう)、皇城(こうじょう)、宮城、大宮、雲の上、雲居など非常に多い。
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明治以降の皇居は、幕末まで徳川将軍家が居城としていた江戸城跡にある。江戸城の内郭(内堀内)には、本丸、二の丸、三の丸、西の丸のほか、西寄りの部分には「吹上」と呼ばれる庭園があった。「吹上」はかつては屋敷地であったが、明暦の大火(1657年(明暦3年))以降、火除け地として、建物が建てられないようになっていた。
皇室関連施設のうち、宮殿や宮内庁庁舎などは旧西の丸に位置するが、天皇の住まいである御所は江戸城の「吹上」、現在の「吹上御苑」に建てられている。旧西の丸と吹上御苑は道灌堀という堀で隔てられている[注釈 2]。皇居と呼ばれる区域は、旧西の丸地区・吹上御苑と皇居東御苑からなる宮内庁の管理用地の区域を指す場合と[5][6]、この区域に環境省管轄の皇居外苑を加えた区域を指す場合がある[7]。
皇居は東京の代表的な観光名所であり、人工衛星パノラマ画像プログラムのGoogle Earthでは、世界のランドマークの一つとして登録されている。旧江戸城の本丸、二の丸、三の丸の一部分は皇居東御苑として、1968年(昭和43年)10月1日以降、宮中行事に支障のない限り一般に公開されている[8]。皇居の制限エリアを一般人が訪問できる機会としては、「皇居一般参観」のほか、毎年1月2日と天皇誕生日に行われる「一般参賀」や桜が見ごろの4月初旬と紅葉が見頃の12月初旬に行われる「乾通りの通り抜け」などがある[9]。また、皇居の周囲を取り囲む12の濠(堀)から成る皇居外周地区の歩道は、都心にありながら緑豊かな場所であり、ジョギング(皇居ラン)や散策の場としても親しまれている[10]。
皇居の宮内庁管理部分の住居表示は、東京都千代田区千代田1番1号(郵便番号100-0001)で[1]、居住していなくても登録できる本籍地として人気が高い住所になっている。また、国有財産としての皇居の価値は、2146億4487万円となっている(財務省資料に基づく、2009年5月時点)[11]。
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宮殿(きゅうでん)は、天皇が国事行為や皇室行事などの儀式を行う施設。明治宮殿跡地の皇居西の丸地区に建設され、1969年(昭和44年)4月から使用されている。焼失した明治宮殿に対して新宮殿(しんきゅうでん)とも称する。
鉄骨鉄筋コンクリート造で、地上2階、地下1階、宮殿全施設の延床面積は、3万5,789.89平方メートル。基本設計は吉村順三。正殿(せいでん)、豊明殿(ほうめいでん)、連翠(れんすい)、長和殿(ちょうわでん)、千草の間・千鳥の間、表御座所北棟、表御座所南棟の7棟からなり、これらの建物に面して中庭(ちゅうてい)、東庭(とうてい)、南庭(なんてい)がある。
宮殿の空中写真
松の間、竹の間、梅の間の三部屋からなる。
- 松の間
- 宮殿内で最も格式の高い部屋で、板張りである。新年祝賀の儀、信任状捧呈式、内閣総理大臣任命式(親任式)、認証官任命式、勲章親授式、講書始の儀、歌会始の儀等の主要な通年の儀式に使用される他、朝見の儀や即位の礼の中心的儀式である即位礼正殿の儀などの皇室の重要儀式でも使用される。昭和天皇の大喪儀に際して殯宮が設けられた。左右に報道室がある。
- 竹の間
- 主に、天皇・皇后が外国の元首や政府要人と会見し、又は皇居を訪れた日本政府関係者及び民間人を引見する等の儀式並びに行事に使用される。
- 梅の間
- 主に、皇后関係の儀式・行事(皇后誕生日祝賀、皇后引見等)等に使用される。
宮殿のホールでは最大の規模を誇る。立食の形式では、最大600名の席を設置することが可能である。宮中晩餐会、天皇誕生日の宴会の儀や、即位の礼の饗宴の儀等、多人数の宴会に使用される。東側廊下は奏楽室に転用でき、宮中晩餐会等で宮内庁楽部が生演奏を披露する。
午餐会や茶会等の小人数の宴会に使用される。
南北163メートルにおよぶ細長い建物で、参内者の休所やもてなし、拝謁等多目的に使用される。部屋名は北から南へ順に、北溜、北の間、石橋(しゃっきょう)の間、春秋の間、松風の間、波の間、南溜。一般参賀の行なわれる東庭に面しており、一般参賀の際には皇族は長和殿ベランダの中央部に立つ。ベランダの天井にはスポットライトが設置されている。
1969年(昭和44年)1月2日、新宮殿完成後初の皇居一般参賀で昭和天皇らが長和殿ベランダに立った際、スリングショットでパチンコ玉を撃ち込まれる事件が発生した。皇族は負傷しなかったが、この事件の後、長和殿ベランダ中央部には防弾ガラスが設けられた。
- 春秋の間
- 宮内では豊明殿に次いで広い大広間で、各国賓客の歓迎会や拝謁等に用いられる。平成に入ってからは、各種レセプションに使用される機会も多くなった。
- 石橋の間、松風の間
- 春秋の間に隣接した広間で、参殿者の休所等として利用される。
- 北の間、波の間
- 参殿者の休所等として利用される部屋。
- 北溜、南溜
- 北車寄、南車寄につながる玄関ホール。北溜は記帳所として利用されることもある。波の間と正殿の間には長さ70メートルほどの回廊があり、国賓等は南溜から回廊を経て正殿に向かう。
- 車寄
- 北車寄、南車寄、中車寄がある。北車寄は長和殿の北端、南車寄は長和殿の南端、中車寄は長和殿の地下にある。特に南車寄は宮殿の正面玄関であり、国賓や外交使節を迎える際に使用されるほか、祝賀御列の儀などの即位の礼にも使用された。長和殿と東庭の地下は、参殿者のための地下駐車場となっており、大型乗用車120台分を駐車できる。
参殿者の休所等に使用される。本来は「千草の間」、「千鳥の間」と別々の部屋だが、仕切りを取って一部屋として使用される。
正殿と長和殿を結び、豊明殿に相対する。天皇と国賓がここを進んで正殿での会見に臨む。
- 中庭
- 正殿、豊明殿、回廊、長和殿に四方を囲まれた庭園。即位礼正殿の儀の際、威儀物奉持者が居並び、旛旗が立てられる。
- 東庭
- 東庭は外国元首が栄誉礼を受ける場や、新年及び天皇誕生日の一般参賀の場として使用される。「松の塔」がある。地下は参殿者のための駐車場となっている。
- 南庭
北棟と南棟がある。天皇が日常の執務をするほか、侍従の部屋などがある。
-
正殿
天皇の即位礼正殿の儀
-
正殿松の
間内閣総理大臣任命式
-
正殿松の間
即位礼正殿の儀
-
-
豊明殿2019
年(
令和元年)、
米国大統領ドナルド・トランプ、
同夫人メラニアを
招いての
宮中晩餐会
-
長和殿
天皇即位を祝っての一般参賀で天皇・皇族が揃う
-
表御座所公務を
行う
天皇在位中の
明仁
-
宮殿の地図
御所 御車寄
御所 広間
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- 御所
- 吹上大宮御所
- 生前の昭和天皇と香淳皇后の住居たる御所であり、「吹上御所」と称されていた。吹上御苑内にあり、昭和天皇の還暦を記念して1961年(昭和36年)に竣工した。2階建ての鉄筋コンクリート造で、外装は象牙色のタイル貼り、屋根は銅板葺。延床面積は4,088平方メートル。御文庫とつないで建てられている。
- 1階は居間や和室、食堂、書斎、書庫などで、2階は寝室や浴室となっている。「剣璽の間」は、寝室の隣に設けられていた[15]。
- 昭和天皇の崩御後は「吹上大宮御所」と改称され、皇太后となった香淳皇后の住居として使用されていた。2000年(平成12年)の香淳皇后が崩御した後は使用されておらず、建物は宮内庁が管理している。
- 宮中三殿
宮中三殿
- 宮内庁庁舎
宮内庁庁舎
皇宮警察本部庁舎
宮内庁書陵部
宮内庁楽部
皇居東御苑
生物の宝庫である下道灌濠
堀
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江戸時代以降に開発が進んだ東京都心の他地区と異なり、皇居は江戸城時以降の自然が残り、貴重な生態系が維持されている。皇居の森を中心とする広大な緑地と、水中生物が隠れやすい石垣や水草が多い堀(濠)が一体となっているうえ、釣りなど人間による採捕活動が制限されているため、植物と昆虫類、魚介類、鳥類、哺乳類を含む陸上動物などの間で食物連鎖が成立し、絶滅危惧種を含む生物多様性[18]が保全されている。
吹上御苑と道灌濠周辺で行われた国立科学博物館による1996 - 2000年度と2009 - 2013年度の二回の調査で、植物2077種、動物6375種の生息が確認されている。フキアゲニリンソウ(草)やニホンコシアカハバチ(蜂)のような新種が発見されたほか、イシカワモズク(藻)やヒロクチコギセル(貝)といった絶滅危惧種も保全されている。一方で、アカボシゴマダラ(蝶)やスズミグモ(蜘蛛)のような外来種の侵入も確認された。
大型動物としては、タヌキが1990年代半ばから宮内庁や皇宮警察の職員に目撃されるようになった。明仁天皇の発案で、宮内庁と国立科学博物館が2006年度から糞の分析による餌の解明や、6匹を一時捕獲して発信器を付けての行動追跡といった調査を行い、2008年と2016年に明仁天皇を共同執筆者とする論文にまとめられている[19]。
こうした調査から、太田道灌の遺徳を偲び道灌時代の遺構に手を加えなかった伝承の信憑性や、明暦の大火後に防火帯として整備した庭園に古い生態系が閉じ込められたこと、2003年に始まった東京都によるディーゼル車規制条例の効果が現れている可能性、地球温暖化(ヒートアイランド)が進行していることなどが示唆された[20]。
皇居周辺の堀では、管理する環境省が桜並木の手入れ、ヘイケボタルの放流といった環境保全・改善を進めている[21][22]。
また、皇居の自然に触れることにより国民の自然への理解を深めるため、宮内庁ではみどりの月間の一環として、吹上御苑内で「自然観察会」を開催している[23]。
- 内濠
- 外濠
明治天皇の東京行幸(聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」)![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/64/Question_book-4.svg/50px-Question_book-4.svg.png) | この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "皇居" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2024年5月) |
1868年(明治元年)10月、明治天皇の東京行幸により江戸城が東京城(とうけいじょう)と称され、東京の皇居となる。1869年(明治2年)、2度目の東京行幸で天皇の東京滞在が発表され、東京城は皇城(こうじょう)と称される(東京奠都)。1873年(明治6年)、それまで天皇の御座所とされていた江戸城西の丸御殿が火災のため焼失し[24]、一時、赤坂離宮を仮皇居とした。
1879年(明治12年)、西の丸に新宮殿を造営することが決まり、1888年(明治21年)に明治宮殿が落成し、同年10月27日以後は宮城(きゅうじょう)と称された[25]。明治宮殿は、御車寄、正殿、東溜、西溜、豊明殿、千種の間、鳳凰の間など、儀式・応接・政務が行われる公の場である表宮殿と、天皇の住居にあたる奥宮殿とが接続していた。表宮殿は木造で、外観は和風建築だが、内部は和風の格天井からシャンデリアを下げるなど和洋折衷とし、椅子とテーブルを用いていた。
1935年(昭和10年)頃、宮内省第2期庁舎に鋼鉄扉の防空室(地下金庫室)が作られた。だが、内部が狭く大型爆弾に耐えられないことから、宮内省工匠寮の設計で、吹上御所近くに新たに防空壕を作ることになった。後に御文庫と命名される大本営防空壕が完成するまでの間、昭和天皇・香淳皇后は空襲警報発令の度に宝剣神璽(三種の神器のうち剣と璽)とともに地下金庫室に避難していた。
このほか宮内省は1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦直前、東京府南多摩郡鶴川村(現・町田市)の多摩丘陵の一角で、空襲対策を兼ねた「柿生離宮」新設を検討して密かに視察を重ねたが、宮内大臣松平恆雄の判断で取りやめた[26]。
御文庫
皇居内では1941年(昭和16年)4月12日に御文庫(おぶんこ)が極秘に着工され、1942年(昭和17年)12月31日に完成した。施工を請負ったのは大林組。建築費は約200万円であった。建坪1,320m2。地上1階、地下1階・2階の3階建て。そこには昭和天皇・香淳皇后の寝室、居間、書斎、応接室、皇族御休息所、食堂、洗面所、侍従室、女官室、風呂、便所などがあった。このほか、映写ホール、ピアノ、玉突き台などもあった。屋根は1トン爆弾に耐えるよう、コンクリート1mの上に砂1m、さらにその上にコンクリート1mの計3mの厚さであった[27]。昭和天皇は午前中は表御座所(御政務室)、午後は御文庫で過ごすのが日課であった。
マリアナ諸島を制圧した米軍は、日本本土を航続距離に収めたB-29で各地への空襲を本格化。東京も繰り返し爆撃され(東京大空襲)、1945年(昭和20年)5月24日から25日にかけての空襲(山の手大空襲)では、明治宮殿や半蔵門が焼失するなど皇居も炎上した[28]。皇居防空のため1945年7月末時点で九八式二十粍高射機関砲など対空砲64門が配備された(千鳥ケ淵には直径2メートルの砲座跡7基が現存する)が、九八式の迎撃可能高度は2000メートル程度で、砲弾がB-29の飛来高度に届かず落下するさまが近衛連隊の兵士にも目撃されていた[29]。
1945年(昭和20年)6月頃に戦況が悪化したため、さらに頑丈な御文庫附属室が御文庫から90 m離れた地下10mに陸軍工兵部によって建設された。広さ330 m2、56 m2の会議室2つと2つの控室、通信機械室があり、床は板張り、各室とも厚さ約1 mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていた。50トン爆弾にも耐えるよう設計され御文庫とは地下道で結ばれていた[30]。この地下壕では後に、終戦(ポツダム宣言受諾)を決める2度の御前会議が開かれた。戦後、御文庫附属庫は昭和天皇の意向で修理・保存されることなく朽ちるままになっている。しかし、定期的に写真や映像などの記録はとられており、戦後70年にあたる2015年(平成27年)8月にはデジタル音源化された玉音放送とともに映像や写真が公開された[31][32]。
この玉音放送で国民に伝えられた日本の降伏を巡っては、阻止を図った陸軍の一部によるクーデター未遂が起きた(宮城事件)。
敗戦後の1948年(昭和23年)7月1日に宮城の名称は廃止され、皇居(こうきょ)と呼ばれるようになった[33]。1952年(昭和27年)からは宮内庁庁舎の最上階(3階)を仮宮殿とした。
なお、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令や日本国憲法施行により、戦前・戦中に皇居を管理した宮内省は宮内府を経て現在の宮内庁に改組された。
皇居の警備は大日本帝国陸軍近衛師団と宮内省皇宮警察から警視庁皇宮警察部へ移管された。その後の1949年(昭和24年)1月、国家地方警察本部の外局として皇宮警察本部に改組され、1954年(昭和29年)7月1日の警察法施行に伴い、警察庁附属機関としての皇宮警察本部となり現在に至る。
戦後暫くの間、焼失した宮殿の再建は行われなかった。この理由について、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政は、「お上(昭和天皇)は戦争終了後、『国民が戦災の為に住む家も無く、暮らしもままならぬ時に、新しい宮殿を造ることは出来ぬ』[34]と、国民の生活向上を最優先とすべしという考えから、戦災で消失した宮殿などの再建に待ったをかけておられた」と述べている。[要出典]
1955年頃の広庭(現・新宮殿)
昭和30年代に入って、日本の復興が一段落した頃に宮殿再建の動きが活発となり、1959年(昭和34年)、皇居造営審議会の答申に基づき、翌1960年(昭和35年)から新しい宮殿の造営が始められた。宮殿(いわゆる新宮殿)は、明治宮殿のように天皇・皇后の住居である御所とは接続させず、御所と宮殿を別々に造営することとなった。まず1961年(昭和36年)、昭和天皇・香淳皇后の住居として皇居内吹上地区の御文庫に隣接・組込まれて建設された吹上御所(ふきあげごしょ)が完成した。新宮殿は明治宮殿跡地に1964年(昭和39年)着工し、1968年(昭和43年)10月竣工。同年11月14日に落成式が挙行され、翌1969年(昭和44年)4月から使用された[35]。
なお、吹上御所は、1993年(平成5年)12月9日に、皇太后良子(香淳皇后)の住居として吹上大宮御所(ふきあげおおみやごしょ)と改称された[36]。
天皇明仁と皇后美智子(いずれも当時)は、1989年(昭和64年)1月7日の即位後も暫くは引き続き赤坂御所に居住[37]しながら皇居宮殿に通勤していたが、皇居内吹上地区の一角に新たな御所(ごしょ)が建設され、第一皇女子の清子内親王(黒田清子)と共に1993年(平成5年)12月8日から居住し始めた[38]。
天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行に伴って2019年(令和元年)5月1日より皇太子徳仁親王への譲位により上皇・上皇后となって(明仁から徳仁への皇位継承)、2020年(令和2年)3月19日に赤坂御用地内の仙洞仮御所(高輪皇族邸、旧高松宮邸)へ一時転居するまで吹上仙洞御所(ふきあげせんとうごしょ)の名称となった[39][40][41]。その後、上皇明仁・上皇后美智子は2022年(令和4年)4月26日に赤坂御用地内の仙洞御所(旧赤坂御所)に入居した[42][43]。
2019年(令和元年)5月1日に即位した天皇徳仁・皇后雅子、第一皇女子の愛子内親王は、2021年(令和3年)9月6日に赤坂御所(旧東宮御所)から皇居に転居し、上皇明仁・上皇后美智子が居住していた御所に入居した[44][45]。
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宮(みや)は家(や「屋」)に尊称(み「御」)がついた言葉である。身分の高い人の住居という意味から出発し、やがて天皇や皇族の宮殿を意味するようになった。古代には、大王(天皇)の住居は一世ごとに移転され、皇居は宮(みや)と呼ばれる宮殿を指した。『古事記』や『日本書紀』には、4世紀から6世紀にかけての宮殿の多くが、現代で言う奈良盆地の東南の地に営まれたと記されている。
592年に推古天皇が即位した豊浦宮から694年持統天皇が藤原京へ遷都するまでの約100年間は、奈良の南の地飛鳥周辺に宮殿が集中したので「飛鳥京」と呼ぶことがある。このような宮には、小墾田宮(603年 - 630年)、飛鳥岡本宮(630年 - 636年)、飛鳥板蓋宮(643年 - 655年)、後飛鳥岡本宮(656年 - 672年)、飛鳥浄御原宮(672年 - 694年)などがある。その頃の大規模な居館がいくつか発見されている。それらは地面に穴を掘って柱の根本を固定する掘立柱建物である。これらの建物の内、7世紀以降では、中心建物は南を正面としているのが特徴である。
後には、中国王朝の影響で京(みやこ)が造営されるようになり、天皇は京の中の内裏(だいり)に定着し、これを皇居とした。国政の中枢である朝堂院を始めとする中央官衙は内裏に併設され、合わせて宮城と呼ばれる。
京には、難波京(大阪市)、藤原京(奈良県橿原市・明日香村)、平城京(奈良市)、平安京(京都市)などがある。
京都御所の正門・建礼門。
平安京は、794年(延暦13年)に桓武天皇によって定められた。960年(天徳4年)に内裏が焼失し、再建されるまで冷泉院を仮の皇居とした。976年(貞元元年)にも内裏が被災し、藤原兼通の邸宅である堀河殿を仮皇居としている。平安京の内裏はしばしば焼亡したため、摂関や外戚など臣下の邸宅を仮皇居(里内裏)とすることも多かった。平安時代末期からは、内裏があっても里内裏を皇居とすることが一般化した。1227年(安貞元年)に宮城(大内裏)が焼失してからは内裏は再建されず、里内裏を転々とした。
南北朝時代の1331年(元弘元年、元徳3年)、北朝の光厳天皇が土御門東洞院殿で即位してからは、この御殿が内裏に定められた。これが、現在の京都御所の前身となる。南北朝時代の南朝歴代天皇は、大半を時期において京都を北朝朝廷とそれを支える室町幕府に押さえられ、吉野行宮などを転々とした(「#歴代の皇居」を参照)。
慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸は東京と改められた。同年10月13日(1868年11月26日)、明治天皇が東京に行幸して江戸城西の丸(現在は宮殿のみが建っている。現在の吹上御所とは別の場所)に入った際、江戸城も東京城と改称され、天皇の東幸中の仮皇居と定められた。天皇は一旦京都に戻った。
翌明治2年3月28日(1869年5月9日)、再び東京に行幸し、1877年(明治10年)には京都御所が保存され今に至る(「東京奠都」参照)。
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歴代の皇居(宮都)の一覧。飛鳥時代以前の宮号は『日本書紀』(一部『古事記』)を典拠とする。
- 皇居の大きさは、宮内庁管理部分の敷地が約115万m2で[46]、東京ドーム約25個分である[47]。濠の面積も含む東京都千代田区千代田の面積は1,425,500m2[48]、皇居外苑も含めた総面積は約230万m2となる[7]。
- 皇居周辺は1周が約5kmで歩道に信号機がなく、森・街路樹や濠の景観も楽しめることから、手軽なランニングコースになっている(皇居ランニング)[49]。高低差は約26メートル。初心者から上級者まで、幅広く走れる[50]。
- 外国人観光客の東御苑などへの来訪が増えているため、宮内庁は2017年5月16日、スマートフォン向けに皇居や京都御所について日英中韓仏西6か国語の音声で案内するアプリの提供を始めた[51]。
- 皇居近くには、勤皇の忠臣とされる2人(文武二忠臣)の銅像が立っている[52]。皇居外苑の楠木正成像と大手濠の和気清麻呂像である。
- ^ 「御所」は天皇だけでなく、由緒ある武家・公家の邸宅への尊称としても広く用いられる。
- ^ 現在は上・中・下道灌濠の3つの濠に分かれている。
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