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皇居こうきょ

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皇居こうきょ
The Imperial Palace
皇居こうきょ正門せいもん石橋いしばし
地図
分類ぶんるい 宮殿きゅうでん御所ごしょ宮内庁くないちょう宮中きゅうちゅうさん殿どのなど皇室こうしつ関連かんれん施設しせつ収容しゅうよう
所在地しょざいち
面積めんせき宮内庁くないちょう管理かんり部分ぶぶん
やく1.15㎢
そう面積めんせき皇居外苑こうきょがいえんふくむ)〉
やく2.30㎢
前身ぜんしん 江戸城えどじょう宮城みやぎ皇居こうきょ旧称きゅうしょう
現況げんきょう 皇居こうきょ
事務所じむしょ 宮内庁くないちょう管理かんり
事務所じむしょ所在地しょざいち 東京とうきょう千代田ちよだ千代田ちよだ1ばん1ごう
公式こうしきサイト 皇居こうきょ宮内庁くないちょう
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皇居こうきょ(こうきょ)は、日本にっぽん天皇てんのうおよ皇族こうぞく居所きょしょ東京とうきょう千代田ちよだ千代田ちよだ1ばん1ごう位置いちし、宮内庁くないちょう所在しょざいする[1]中央ちゅうおう立地りっちしており、そう面積めんせき千代田ちよだやく2わり相当そうとうする。

1888ねんより1948ねんまでは宮城みやぎ(きゅうじょう)と公称こうしょうされていた[2]。またすめらぎじょう(こうじょう)や皇宮こうぐう(こうぐう)などともしょうせられた。1948ねん宮内庁くないちょう告示こくじともない、正式せいしきに「皇居こうきょ」とばれるようになった[3][4]後述こうじゅつ)。

概要がいよう

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現在げんざい皇居こうきょ特別とくべつ史跡しせき江戸城えどじょうあと一帯いったい呼称こしょうでもあり、公式こうしき英語えいご表記ひょうきは「The Imperial Palace」である。天皇てんのう平常へいじょう住居じゅうきょである「御所ごしょ」や各種かくしゅ公的こうてき行事ぎょうじ政務せいむである「宮殿きゅうでん」、宮内庁くないちょう庁舎ちょうしゃなどがある。

平安京へいあんきょうへの遷都せんと794ねんのべれき13ねん〉)から東京とうきょう奠都てんと1869ねん明治めいじ2ねん〉)までは京都きょうとにあり、御所ごせ(ごしょ)[注釈ちゅうしゃく 1]禁中きんちゅう(きんちゅう)、禁裏きんり(きんり)、内裏だいり(だいり)などとばれていた。現在げんざい京都きょうと御所ごしょ京都きょうと上京かみぎょう)は、もとはさと内裏だいりとしてもちいられ(後述こうじゅつの「#皇居こうきょみや歴史れきし参照さんしょう)、南北なんぼくあさ時代じだい以後いご正式せいしき御所ごしょとなっていたもので、明治維新めいじいしん東京とうきょう行幸ぎょうこうともな留守るすとなり使つかわれなくなったが、荒廃こうはいした御所ごしょ様子ようすなげいた明治天皇めいじてんのう指示しじにより、隣接りんせつする京都きょうと仙洞せんとう御所ごしょ京都きょうと大宮おおみや御所ごしょとともに保存ほぞんされた。なお、行幸ぎょうこう首都しゅと機能きのう東京とうきょううつったさい明確めいかく遷都せんと法令ほうれいはっせられなかったので、京都きょうと御所ごしょ現在げんざい皇居こうきょとみなすきもある(詳細しょうさいは「東京とうきょう奠都てんと」を参照さんしょう)。しかし明治めいじ以降いこう京都きょうと御所ごしょ近代きんだいてき居住きょじゅう機能きのう付加ふかされることはなく、平安へいあん時代じだい様式ようしきつたえる最高さいこう格式かくしき紫宸殿ししんでん正殿せいでん)や日常にちじょう生活せいかつであるつね御殿ごてんなどが保存ほぞんされ、文化財ぶんかざいとなっている。

皇居こうきょは、史料しりょう古典こてん文学ぶんがく登場とうじょうするものの現在げんざいでは使つかわれない表現ひょうげんふくめると様々さまざまある。内裏だいり御所ごせ大内おおうち(おおうち)、大内山おおうちやま九重ここのえ(ここのえ)、宮中きゅうちゅう(きゅうちゅう)、禁中きんちゅう(きんちゅう)、禁裏きんり百敷ももしき(ももしき)、むらさきにわ(むらさきのにわ)、皇宮こうぐう(こうぐう)、すめらぎじょう(こうじょう)、宮城みやぎ大宮おおみやくもうえ雲居くもいなど非常ひじょうおおい。

現在げんざい皇居こうきょ

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東京とうきょう皇居こうきょ近辺きんぺん航空こうくう写真しゃしん
2019ねん撮影さつえい
国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい

明治めいじ以降いこう皇居こうきょは、幕末ばくまつまで徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ居城きょじょうとしていた江戸えど城跡じょうせきにある。江戸城えどじょう内郭ないかく内堀うちぼりない)には、本丸ほんまるまるさんまる西にしまるのほか、西にしりの部分ぶぶんには「吹上ふきあげ」とばれる庭園ていえんがあった。「吹上ふきあげ」はかつては屋敷やしきであったが、あかりれき大火たいか1657ねんあかりれき3ねん))以降いこう火除ひよとして、建物たてものてられないようになっていた。

皇室こうしつ関連かんれん施設しせつのうち、宮殿きゅうでん宮内庁くないちょう庁舎ちょうしゃなどはきゅう西にしまる位置いちするが、天皇てんのうまいである御所ごしょ江戸城えどじょうの「吹上ふきあげ」、現在げんざいの「吹上御苑ふきあげぎょえん」にてられている。きゅう西にしまる吹上御苑ふきあげぎょえん道灌どうかんほりというほりへだてられている[注釈ちゅうしゃく 2]皇居こうきょばれる区域くいきは、きゅう西にしまる地区ちく吹上御苑ふきあげぎょえん皇居こうきょひがし御苑ぎょえんからなる宮内庁くないちょう管理かんり用地ようち区域くいき場合ばあい[5][6]、この区域くいき環境省かんきょうしょう管轄かんかつ皇居外苑こうきょがいえんくわえた区域くいき場合ばあいがある[7]

皇居こうきょ東京とうきょう代表だいひょうてき観光かんこう名所めいしょであり、人工じんこう衛星えいせいパノラマ画像がぞうプログラムのGoogle Earthでは、世界せかいランドマークひとつとして登録とうろくされている。きゅう江戸城えどじょう本丸ほんまるまるさんまる一部分いちぶぶん皇居こうきょひがし御苑ぎょえんとして、1968ねん昭和しょうわ43ねん)10がつ1にち以降いこう宮中きゅうちゅう行事ぎょうじ支障ししょうのないかぎ一般いっぱん公開こうかいされている[8]皇居こうきょ制限せいげんエリアを一般人いっぱんじん訪問ほうもんできる機会きかいとしては、「皇居こうきょ一般いっぱん参観さんかん」のほか、毎年まいとし1がつ2にち天皇誕生日てんのうたんじょうびおこなわれる「一般いっぱん参賀さんが」やさくらごろの4がつ初旬しょじゅん紅葉こうよう見頃みごろの12月初旬しょじゅんおこなわれる「いぬいどおりのとおけ」などがある[9]。また、皇居こうきょ周囲しゅういかこむ12のほりほり)から皇居こうきょ外周がいしゅう地区ちく歩道ほどうは、都心としんにありながらみどりゆたかな場所ばしょであり、ジョギング皇居こうきょラン)や散策さんさくとしてもしたしまれている[10]

皇居こうきょ宮内庁くないちょう管理かんり部分ぶぶん住居じゅうきょ表示ひょうじは、東京とうきょう千代田ちよだ千代田ちよだ1ばん1ごう郵便ゆうびん番号ばんごう100-0001)で[1]居住きょじゅうしていなくても登録とうろくできる本籍ほんせきとして人気にんきたか住所じゅうしょになっている。また、国有こくゆう財産ざいさんとしての皇居こうきょ価値かちは、2146おく4487まんえんとなっている(財務省ざいむしょう資料しりょうもとづく、2009ねん5がつ時点じてん[11]

宮殿きゅうでん

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宮殿きゅうでんしん宮殿きゅうでん
宮殿きゅうでんひがしにわから長和ながわ殿どの
皇居の位置(東京都区部内)
皇居
情報じょうほう
用途ようと 国事こくじ行為こうい皇室こうしつ行事ぎょうじ外国がいこく元首げんしゅ歓迎かんげい行事ぎょうじ とう
設計せっけいしゃ 吉村よしむら順三じゅんぞう
施工しこう 宮殿きゅうでん造営ぞうえい工事こうじ共同きょうどう企業きぎょうたい
建築けんちくぬし 宮内庁くないちょう
事業じぎょう主体しゅたい 宮内庁くないちょう臨時りんじ皇居こうきょ造営ぞうえい
管理かんり運営うんえい 宮内庁くないちょう管理かんり
宮殿きゅうでん管理かんりかん
構造こうぞう形式けいしき 鉄骨てっこつ鉄筋てっきんコンクリートづくり
地下ちか駐車ちゅうしゃじょうおよ設備せつび管制かんせいしょ鉄筋てっきんコンクリートづくり
敷地しきち面積めんせき 64,640 m²
建築けんちく面積めんせき 15,643 m²
のべゆか面積めんせき 35,789.89 m²
階数かいすう 地上ちじょう2かい地下ちか1かい
たか 20.19m
戸数こすう 7(正殿せいでん豊明とよあき殿どの長和ながわ殿どのれんみどり千鳥ちどり千草ちぐさあいだおもて御座所ござしょきたとうおもて御座所ござしょみなみとう
駐車ちゅうしゃ台数だいすう 大型おおがた乗用車じょうようしゃ120だいひがしにわ地下ちか駐車ちゅうしゃじょう
着工ちゃっこう 1964ねん昭和しょうわ39ねん)6がつ
竣工しゅんこう 1968ねん昭和しょうわ43ねん)11月14にち
開館かいかん開所かいしょ 1969ねん昭和しょうわ44ねん)4がつ
所在地しょざいち 100-0001
東京とうきょう千代田ちよだ千代田ちよだ1
座標ざひょう 北緯ほくい3540ふん57びょう 東経とうけい13945ふん10びょう / 北緯ほくい35.68250 東経とうけい139.75278 / 35.68250; 139.75278 (宮殿きゅうでんしん宮殿きゅうでん)座標ざひょう: 北緯ほくい3540ふん57びょう 東経とうけい13945ふん10びょう / 北緯ほくい35.68250 東経とうけい139.75278 / 35.68250; 139.75278 (宮殿きゅうでんしん宮殿きゅうでん)
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宮殿きゅうでん(きゅうでん)は、天皇てんのう国事こくじ行為こうい皇室こうしつ行事ぎょうじなどの儀式ぎしきおこな施設しせつ明治めいじ宮殿きゅうでん跡地あとち皇居こうきょ西にしまる地区ちく建設けんせつされ、1969ねん昭和しょうわ44ねん)4がつから使用しようされている。焼失しょうしつした明治めいじ宮殿きゅうでんたいしてしん宮殿きゅうでん(しんきゅうでん)ともしょうする。

鉄骨てっこつ鉄筋てっきんコンクリートづくりで、地上ちじょう2かい地下ちか1かい宮殿きゅうでんぜん施設しせつのべゆか面積めんせきは、3まん5,789.89平方へいほうメートル基本きほん設計せっけい吉村よしむら順三じゅんぞう正殿せいでん(せいでん)、豊明とよあき殿どの(ほうめいでん)、れんみどり(れんすい)、長和ながわ殿どの(ちょうわでん)、千草ちぐさあいだ千鳥ちどりあいだおもて御座所ござしょきたとうおもて御座所ござしょみなみとうの7むねからなり、これらの建物たてものめんして中庭なかにわ(ちゅうてい)、ひがしにわ(とうてい)、南庭なんてい(なんてい)がある。

宮殿きゅうでん空中くうちゅう写真しゃしん

正殿せいでん

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まつあいだたけあいだうめあいださん部屋へやからなる。

まつあいだ
宮殿きゅうでんないもっと格式かくしきたか部屋へやで、板張いたばりである。新年しんねん祝賀しゅくが信任しんにんじょう捧呈ほうていしき内閣ないかく総理そうり大臣だいじん任命にんめいしき親任しんにんしき)、認証官にんしょうかん任命にんめいしき勲章くんしょう親授しんじゅしきこうしょはじめ歌会うたかいはじめひとし主要しゅよう通年つうねん儀式ぎしき使用しようされるほか朝見ちょうけん即位そくいれい中心ちゅうしんてき儀式ぎしきである即位そくいれい正殿せいでんなどの皇室こうしつ重要じゅうよう儀式ぎしきでも使用しようされる。昭和しょうわ天皇てんのう大喪たいそうさいして殯宮ひんきゅうもうけられた。左右さゆう報道ほうどうしつがある。
たけあいだ
おもに、天皇てんのう皇后こうごう外国がいこく元首げんしゅ政府せいふ要人ようじん会見かいけんし、また皇居こうきょおとずれた日本にっぽん政府せいふ関係かんけいしゃおよ民間みんかんじん引見いんけんするひとし儀式ぎしきならびに行事ぎょうじ使用しようされる。
うめあいだ
おもに、皇后こうごう関係かんけい儀式ぎしき行事ぎょうじ皇后こうごう誕生たんじょう祝賀しゅくが皇后こうごう引見いんけんとうとう使用しようされる。

豊明とよあき殿どの

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宮殿きゅうでんのホールでは最大さいだい規模きぼほこる。立食りっしょく形式けいしきでは、最大さいだい600めいせき設置せっちすることが可能かのうである。宮中きゅうちゅう晩餐ばんさんかい天皇誕生日てんのうたんじょうび宴会えんかいや、即位そくいれい饗宴きょうえんとう多人数たにんずう宴会えんかい使用しようされる。東側ひがしがわ廊下ろうか奏楽そうがくしつ転用てんようでき、宮中きゅうちゅう晩餐ばんさんかいとう宮内庁くないちょうらくなま演奏えんそう披露ひろうする。

れんみどり

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午餐ごさんかい茶会ちゃかいひとししょう人数にんずう宴会えんかい使用しようされる。

長和ながわ殿どの

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南北なんぼく163メートルにおよぶ細長ほそなが建物たてもので、参内さんだいしゃきゅうしょもてなし拝謁はいえつとう多目的たもくてき使用しようされる。部屋へやめいきたからみなみじゅんに、きたためきたあいだ石橋いしばし(しゃっきょう)のあいだ春秋しゅんじゅうあいだ松風まつかぜあいだなみあいだみなみため一般いっぱん参賀さんがおこなわれるひがしにわめんしており、一般いっぱん参賀さんがさいには皇族こうぞく長和ながわ殿どのベランダ中央ちゅうおうつ。ベランダの天井てんじょうにはスポットライトが設置せっちされている。

1969ねん昭和しょうわ44ねん1がつ2にちしん宮殿きゅうでん完成かんせいはつ皇居こうきょ一般いっぱん参賀さんが昭和しょうわ天皇てんのうらが長和ながわ殿どのベランダにったさいスリングショットパチンコだままれる事件じけん発生はっせいした。皇族こうぞく負傷ふしょうしなかったが、この事件じけんのち長和ながわ殿どのベランダ中央ちゅうおうには防弾ぼうだんガラスもうけられた。

春秋しゅんじゅうあいだ
宮内くないでは豊明とよあき殿どのいでひろ大広間おおひろまで、各国かっこく賓客ひんきゃく歓迎かんげいかい拝謁はいえつとうもちいられる。平成へいせいはいってからは、各種かくしゅレセプションに使用しようされる機会きかいおおくなった。
石橋いしばしあいだ松風まつかぜあいだ
春秋しゅんじゅうあいだ隣接りんせつした広間ひろまで、参殿さんでんしゃきゅうしょとうとして利用りようされる。
きたあいだなみあいだ
参殿さんでんしゃきゅうしょとうとして利用りようされる部屋へや
きたためみなみため
きた車寄くるまよせみなみ車寄くるまよせにつながる玄関げんかんホール。きたため記帳きちょうしょとして利用りようされることもある。なみあいだ正殿せいでんあいだにはながさ70メートルほどの回廊かいろうがあり、国賓こくひんひとしみなみためから回廊かいろう正殿せいでんかう。
車寄くるまよせ
きた車寄くるまよせみなみ車寄くるまよせちゅう車寄くるまよせがある。きた車寄くるまよせ長和ながわ殿どの北端ほくたんみなみ車寄くるまよせ長和ながわ殿どの南端なんたんちゅう車寄くるまよせ長和ながわ殿どの地下ちかにある。とくみなみ車寄くるまよせ宮殿きゅうでん正面しょうめん玄関げんかんであり、国賓こくひん外交がいこう使節しせつむかえるさい使用しようされるほか、祝賀しゅくがれつなどの即位そくいれいにも使用しようされた。長和ながわ殿どのひがしにわ地下ちかは、参殿さんでんしゃのための地下ちか駐車ちゅうしゃじょうとなっており、大型おおがた乗用車じょうようしゃ120だいぶん駐車ちゅうしゃできる。

千草ちぐさ千鳥ちどりあいだ

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参殿さんでんしゃきゅうしょとう使用しようされる。本来ほんらいは「千草ちぐさあいだ」、「千鳥ちどりあいだ」と別々べつべつ部屋へやだが、仕切しきりをっていち部屋へやとして使用しようされる。

回廊かいろう

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正殿せいでん長和ながわ殿どのむすび、豊明とよあき殿どの相対そうたいする。天皇てんのう国賓こくひんがここをすすんで正殿せいでんでの会見かいけんのぞむ。

庭園ていえん

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中庭なかにわ
正殿せいでん豊明とよあき殿どの回廊かいろう長和ながわ殿どの四方しほうかこまれた庭園ていえん即位そくいれい正殿せいでんさい威儀いぎぶつたてまつしゃ居並いならび、旛旗がてられる。
ひがしにわ
ひがしにわ外国がいこく元首げんしゅ栄誉えいよれいけるや、新年しんねんおよ天皇誕生日てんのうたんじょうび一般いっぱん参賀さんがとして使用しようされる。「まつとう」がある。地下ちか参殿さんでんしゃのための駐車ちゅうしゃじょうとなっている。
南庭なんてい

おもて御座所ござしょ

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きたとうみなみとうがある。天皇てんのう日常にちじょう執務しつむをするほか、侍従じじゅう部屋へやなどがある。

皇居こうきょない施設しせつ

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御所ごせ 車寄くるまよせ
御所ごせ 広間ひろま
宮内庁くないちょう庁舎ちょうしゃ
  • 生物せいぶつがく研究所けんきゅうじょ
    • 1928ねん昭和しょうわ3ねん)、昭和しょうわ天皇てんのう生物せいぶつがく研究けんきゅうおこなうために建設けんせつされた施設しせつ
    • 現在げんざい上皇じょうこう明仁あきひとハゼはじめとする魚類ぎょるいがく研究けんきゅうおこなったり、そのとし新嘗祭にいなめさいおこなさいもちいられる新穀しんこくまい栽培さいばいしたりするなど多岐たきわたって供用きょうようされている。べい栽培さいばい職員しょくいんりつつも、たねまきから田植たう稲刈いねかまでをみずかおこなっている。
    • かつては「生物せいぶつがく研究所けんきゅうじょ」ともしょうされたが、2008ねん平成へいせい20ねん)10がつ明仁あきひと天皇てんのう当時とうじ)の意向いこうにより、「」がはずされてげん名称めいしょう統一とういつされている。なお明仁あきひと天皇てんのう自身じしんたんに「研究所けんきゅうじょ」とんでいる。
  • 紅葉山もみじやま養蚕ようさんしょ
    • 1914ねん大正たいしょう3ねん)に貞明皇后ていめいこうごういのちによりてられ、以来いらい歴代れきだい皇后こうごうかいこ飼育しいくしている施設しせつである。
      養蚕ようさんしょわれるかいこから出来でききぬ製品せいひんは、おも皇室こうしつ儀典ぎてんよう衣裳いしょうとう用立ようだてられる。
  • 皇居こうきょひがし御苑ぎょえん
    だい嘗宮
    • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)10がつ1にちから宮中きゅうちゅう行事ぎょうじ支障ししょうのないかぎ一般いっぱん公開こうかいされている。平成へいせい以降いこう大嘗祭だいじょうさい会場かいじょうとなる「だい嘗宮」(悠紀ゆき殿どのしゅはじめ殿どの)はえんない本丸ほんまる地区ちく設営せつえいされている[16][17]
  • さんまるなお蔵館くらだて
    • 皇室こうしつがれた美術びじゅつひん1989ねん平成へいせい元年がんねん)6がつくに寄贈きぞうされたことから、これを保管ほかん展示てんじ研究けんきゅうするためにてられた。1993ねん平成へいせい5ねん11月3にち開館かいかんした。
  • 桃華ももか楽堂がくどう
    桃華ももか楽堂がくどう
    • こうじゅん皇后こうごう還暦かんれき記念きねんしててられた今井いまい兼次けんじ設計せっけい音楽おんがくどう1966ねん昭和しょうわ41ねん)2がつてられる。内装ないそうおよび、外装がいそうには8種類しゅるいモザイク壁画へきがえがかれる。名称めいしょうこうじゅん皇后こうごうしるしもも」やごうももえん」にちなむ。
  • 皇宮警察こうぐうけいさつ本部ほんぶ庁舎ちょうしゃ
皇宮警察こうぐうけいさつ本部ほんぶ庁舎ちょうしゃ
宮内庁くないちょうしょりょう
宮内庁くないちょうらく

ギャラリー

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皇居こうきょ自然しぜん環境かんきょう

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皇居こうきょひがし御苑ぎょえん
生物せいぶつ宝庫ほうこである下道げどう灌濠
ほり

江戸えど時代じだい以降いこう開発かいはつすすんだ東京とうきょう都心としん地区ちくことなり、皇居こうきょ江戸城えどじょう以降いこう自然しぜんのこり、貴重きちょう生態せいたいけい維持いじされている。皇居こうきょもり中心ちゅうしんとする広大こうだい緑地りょくちと、水中すいちゅう生物せいぶつかくれやすい石垣いしがき水草みずくさおおほりほり)が一体いったいとなっているうえ、など人間にんげんによる活動かつどう制限せいげんされているため、植物しょくぶつ昆虫こんちゅうるい魚介ぎょかいるい鳥類ちょうるい哺乳類ほにゅうるいふく陸上りくじょう動物どうぶつなどのあいだ食物しょくもつ連鎖れんさ成立せいりつし、絶滅ぜつめつ危惧きぐしゅふく生物せいぶつ多様たようせい[18]保全ほぜんされている。

吹上御苑ふきあげぎょえん道灌どうかんほり周辺しゅうへんおこなわれた国立こくりつ科学かがく博物館はくぶつかんによる1996 - 2000年度ねんどと2009 - 2013年度ねんどかい調査ちょうさで、植物しょくぶつ2077しゅ動物どうぶつ6375しゅ生息せいそく確認かくにんされている。フキアゲニリンソウ(くさ)やニホンコシアカハバチ(はち)のような新種しんしゅ発見はっけんされたほか、イシカワモズク()やヒロクチコギセル(かい)といった絶滅ぜつめつ危惧きぐしゅ保全ほぜんされている。一方いっぽうで、アカボシゴマダラ(ちょう)やスズミグモ(蜘蛛くも)のような外来がいらいしゅ侵入しんにゅう確認かくにんされた。

大型おおがた動物どうぶつとしては、タヌキが1990年代ねんだいなかばから宮内庁くないちょう皇宮警察こうぐうけいさつ職員しょくいん目撃もくげきされるようになった。明仁あきひと天皇てんのう発案はつあんで、宮内庁くないちょう国立こくりつ科学かがく博物館はくぶつかんが2006年度ねんどからくそ分析ぶんせきによるえさ解明かいめいや、6ひき一時いちじ捕獲ほかくして発信はっしんけての行動こうどう追跡ついせきといった調査ちょうさおこない、2008ねんと2016ねん明仁あきひと天皇てんのう共同きょうどう執筆しっぴつしゃとする論文ろんぶんにまとめられている[19]

こうした調査ちょうさから、太田おおた道灌どうかん遺徳いとくしの道灌どうかん時代じだい遺構いこうくわえなかった伝承でんしょう信憑しんぴょうせいや、あかりれき大火たいか防火ぼうかたいとして整備せいびした庭園ていえんふる生態せいたいけいめられたこと、2003ねんはじまった東京とうきょうによるディーゼルしゃ規制きせい条例じょうれい効果こうかあらわれている可能かのうせい地球ちきゅう温暖おんだんヒートアイランド)が進行しんこうしていることなどが示唆しさされた[20]

皇居こうきょ周辺しゅうへんほりでは、管理かんりする環境省かんきょうしょうさくら並木なみき手入ていれ、ヘイケボタル放流ほうりゅうといった環境かんきょう保全ほぜん改善かいぜんすすめている[21][22]

また、皇居こうきょ自然しぜんれることにより国民こくみん自然しぜんへの理解りかいふかめるため、宮内庁くないちょうではみどりの月間げっかん一環いっかんとして、吹上御苑ふきあげぎょえんないで「自然しぜん観察かんさつかい」を開催かいさいしている[23]

うちほり外濠そとぼり

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うちほり
外濠そとぼり

げん皇居こうきょ歴史れきし

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明治天皇めいじてんのう東京とうきょう行幸ぎょうこう聖徳せいとく記念きねん絵画かいがかん壁画へきが東京とうきょうちゃく輦」)

1868ねん明治めいじ元年がんねん)10がつ明治天皇めいじてんのう東京とうきょう行幸ぎょうこうにより江戸城えどじょう東京とうきょうじょう(とうけいじょう)としょうされ、東京とうきょう皇居こうきょとなる。1869ねん明治めいじ2ねん)、2度目どめ東京とうきょう行幸ぎょうこう天皇てんのう東京とうきょう滞在たいざい発表はっぴょうされ、東京とうきょうじょうすめらぎじょう(こうじょう)としょうされる(東京とうきょう奠都てんと)。1873ねん明治めいじ6ねん)、それまで天皇てんのう御座所ござしょとされていた江戸城えどじょう西にしまる御殿ごてん火災かさいのため焼失しょうしつ[24]一時いちじ赤坂あかさか離宮りきゅうかり皇居こうきょとした。

1879ねん明治めいじ12ねん)、西にしまるしん宮殿きゅうでん造営ぞうえいすることがまり、1888ねん明治めいじ21ねん)に明治めいじ宮殿きゅうでん落成らくせいし、同年どうねん10月27にち以後いご宮城みやぎ(きゅうじょう)としょうされた[25]明治めいじ宮殿きゅうでんは、車寄くるまよせ正殿せいでんひがしため西にしため豊明とよあき殿どの千種ちくさあいだ鳳凰ほうおうあいだなど、儀式ぎしき応接おうせつ政務せいむおこなわれるおおやけであるおもて宮殿きゅうでんと、天皇てんのう住居じゅうきょにあたる奥宮おくのみや殿どのとが接続せつぞくしていた。おもて宮殿きゅうでん木造もくぞうで、外観がいかん和風わふう建築けんちくだが、内部ないぶ和風わふう格天井ごうてんじょうからシャンデリアげるなど和洋折衷わようせっちゅうとし、椅子いすとテーブルをもちいていた。

1935ねん昭和しょうわ10ねんごろみや内省ないせいだい2庁舎ちょうしゃ鋼鉄こうてつとびら防空ぼうくうしつ地下ちか金庫きんこしつ)がつくられた。だが、内部ないぶせま大型おおがたばくだんえられないことから、みや内省ないせい工匠こうしょうりょう設計せっけいで、吹上ふきあげ御所ごしょちかくにあらたに防空壕ぼうくうごうつくることになった。のち文庫ぶんこ命名めいめいされる大本営だいほんえい防空壕ぼうくうごう完成かんせいするまでのあいだ昭和しょうわ天皇てんのうこうじゅん皇后こうごう空襲くうしゅう警報けいほう発令はつれいたび宝剣ほうけん神璽しんじ三種さんしゅ神器じんぎのうちけんと璽)とともに地下ちか金庫きんこしつ避難ひなんしていた。

このほかみや内省ないせい1941ねん昭和しょうわ16ねん)の太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん直前ちょくぜん東京とうきょう南多摩みなみたまぐん鶴川つるかわむらげん町田まちだ)の多摩丘陵たまきゅうりょう一角いっかくで、空襲くうしゅう対策たいさくねた「柿生かきお離宮りきゅう新設しんせつ検討けんとうしてひそかに視察しさつかさねたが、宮内みやうち大臣だいじん松平まつだいら恆雄つねお判断はんだんりやめた[26]

文庫ぶんこ

皇居こうきょないでは1941ねん昭和しょうわ16ねん4がつ12にち文庫ぶんこ(おぶんこ)が極秘ごくひ着工ちゃっこうされ、1942ねん昭和しょうわ17ねん12月31にち完成かんせいした。施工しこう請負うけおったのは大林組おおばやしぐみ建築けんちくやく200まんえんであった。建坪たてつぼ1,320m2地上ちじょう1かい地下ちか1かい・2かいの3かいて。そこには昭和しょうわ天皇てんのうこうじゅん皇后こうごう寝室しんしつ居間いま書斎しょさい応接おうせつしつ皇族こうぞく休息きゅうそくしょ食堂しょくどう洗面せんめんしょ侍従じじゅうしつ女官にょかんしつ風呂ふろ便所べんじょなどがあった。このほか、映写えいしゃホール、ピアノ、玉突たまつたいなどもあった。屋根やねは1トンばくだんえるよう、コンクリート1mのうえすな1m、さらにそのうえにコンクリート1mのけい3mのあつさであった[27]昭和しょうわ天皇てんのう午前ごぜんちゅうおもて御座所ござしょ政務せいむしつ)、午後ごご文庫ぶんこごすのが日課にっかであった。

マリアナ諸島しょとう制圧せいあつしたべいぐんは、日本にっぽん本土ほんど航続こうぞく距離きょりおさめたB-29各地かくちへの空襲くうしゅう本格ほんかく東京とうきょうかえ爆撃ばくげきされ(東京とうきょうだい空襲くうしゅう)、1945ねん昭和しょうわ20ねん5月24にちから25にちにかけての空襲くうしゅうやまだい空襲くうしゅう)では、明治めいじ宮殿きゅうでん半蔵門はんぞうもん焼失しょうしつするなど皇居こうきょ炎上えんじょうした[28]皇居こうきょ防空ぼうくうのため1945ねん7がつまつ時点じてんきゅうはちしきじゅうみりめーとる高射こうしゃ機関きかんほうなど対空たいくうほう64もん配備はいびされた(千鳥ケ淵ちどりがふちには直径ちょっけい2メートルの砲座ほうざあと7現存げんそんする)が、きゅうはちしき迎撃げいげき可能かのう高度こうどは2000メートル程度ていどで、砲弾ほうだんがB-29の飛来ひらい高度こうどとどかず落下らっかするさまが近衛このえ連隊れんたい兵士へいしにも目撃もくげきされていた[29]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)6がつごろ戦況せんきょう悪化あっかしたため、さらに頑丈がんじょう文庫ぶんこ附属ふぞくしつ文庫ぶんこから90 mはなれた地下ちか10mに陸軍りくぐん工兵こうへいによって建設けんせつされた。ひろさ330 m2、56 m2会議かいぎしつ2つと2つの控室ひかえしつ通信つうしん機械きかいしつがあり、ゆか板張いたばり、各室かくしつともあつやく1 mの鉄筋てっきんコンクリートのかべ仕切しきられていた。50トンばくだんにもえるよう設計せっけいされ文庫ぶんことは地下道ちかどうむすばれていた[30]。この地下ちかごうではのちに、終戦しゅうせんポツダム宣言せんげん受諾じゅだく)をめる2御前ごぜん会議かいぎひらかれた。戦後せんご文庫ぶんこ附属ふぞく昭和しょうわ天皇てんのう意向いこう修理しゅうり保存ほぞんされることなくちるままになっている。しかし、定期ていきてき写真しゃしん映像えいぞうなどの記録きろくはとられており、戦後せんご70ねんにあたる2015ねん平成へいせい27ねん)8がつにはデジタル音源おんげんされた玉音ぎょくおん放送ほうそうとともに映像えいぞう写真しゃしん公開こうかいされた[31][32]

この玉音ぎょくおん放送ほうそう国民こくみんつたえられた日本にっぽん降伏ごうぶくめぐっては、阻止そしはかった陸軍りくぐん一部いちぶによるクーデター未遂みすいきた(宮城みやぎ事件じけん)。

敗戦はいせん1948ねん昭和しょうわ23ねん7がつ1にち宮城みやぎ名称めいしょう廃止はいしされ、皇居こうきょ(こうきょ)とばれるようになった[33]1952ねん昭和しょうわ27ねん)からは宮内庁くないちょう庁舎ちょうしゃ最上階さいじょうかい(3かい)を仮宮かりみや殿どのとした。

なお、日本にっぽん占領せんりょうした連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)の指令しれい日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうにより、戦前せんぜん戦中せんちゅう皇居こうきょ管理かんりしたみや内省ないせい宮内くない現在げんざい宮内庁くないちょう改組かいそされた。

皇居こうきょ警備けいび大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん近衛このえ師団しだんみや内省ないせい皇宮警察こうぐうけいさつから警視庁けいしちょう皇宮警察こうぐうけいさつ移管いかんされた。その1949ねん昭和しょうわ24ねん)1がつ国家こっか地方ちほう警察けいさつ本部ほんぶ外局がいきょくとして皇宮警察こうぐうけいさつ本部ほんぶ改組かいそされ、1954ねん昭和しょうわ29ねん7がつ1にち警察けいさつほう施行しこうともない、警察庁けいさつちょう附属ふぞく機関きかんとしての皇宮警察こうぐうけいさつ本部ほんぶとなり現在げんざいいたる。

戦後せんごしばらくのあいだ焼失しょうしつした宮殿きゅうでん再建さいけんおこなわれなかった。この理由りゆうについて、昭和しょうわ天皇てんのう侍従じじゅうちょうつとめた入江いりえしょうせいは、「おかみ昭和しょうわ天皇てんのう)は戦争せんそう終了しゅうりょう、『国民こくみん戦災せんさいためいえく、らしもままならぬときに、あたらしい宮殿きゅうでんつくることは出来できぬ』[34]と、国民こくみん生活せいかつ向上こうじょうさい優先ゆうせんとすべしというかんがえから、戦災せんさい消失しょうしつした宮殿きゅうでんなどの再建さいけんったをかけておられた」とべている。[よう出典しゅってん]

1955ねんころこうにわげんしん宮殿きゅうでん

昭和しょうわ30年代ねんだいはいって、日本にっぽん復興ふっこう一段落いちだんらくしたころ宮殿きゅうでん再建さいけんうごきが活発かっぱつとなり、1959ねん昭和しょうわ34ねん)、皇居こうきょ造営ぞうえい審議しんぎかい答申とうしんもとづき、よく1960ねん昭和しょうわ35ねん)からあたらしい宮殿きゅうでん造営ぞうえいはじめられた。宮殿きゅうでん(いわゆるしん宮殿きゅうでん)は、明治めいじ宮殿きゅうでんのように天皇てんのう皇后こうごう住居じゅうきょである御所ごしょとは接続せつぞくさせず、御所ごしょ宮殿きゅうでん別々べつべつ造営ぞうえいすることとなった。まず1961ねん昭和しょうわ36ねん)、昭和しょうわ天皇てんのうこうじゅん皇后こうごう住居じゅうきょとして皇居こうきょない吹上ふきあげ地区ちく文庫ぶんこ隣接りんせつ組込くみこまれて建設けんせつされた吹上ふきあげ御所ごしょ(ふきあげごしょ)が完成かんせいした。しん宮殿きゅうでん明治めいじ宮殿きゅうでん跡地あとち1964ねん昭和しょうわ39ねん着工ちゃっこうし、1968ねん昭和しょうわ43ねん)10がつ竣工しゅんこう同年どうねん11月14にち落成らくせいしき挙行きょこうされ、よく1969ねん昭和しょうわ44ねん)4がつから使用しようされた[35]

なお、吹上ふきあげ御所ごしょは、1993ねん平成へいせい5ねん12月9にちに、皇太后こうたいごう良子りょうここうじゅん皇后こうごう)の住居じゅうきょとして吹上ふきあげ大宮おおみや御所ごしょ(ふきあげおおみやごしょ)と改称かいしょうされた[36]

天皇てんのう明仁あきひと皇后こうごう美智子みちこ(いずれも当時とうじ)は、1989ねん昭和しょうわ64ねん1がつ7にち即位そくいこうしばらくはつづ赤坂あかさか御所ごしょ居住きょじゅう[37]しながら皇居こうきょ宮殿きゅうでん通勤つうきんしていたが、皇居こうきょない吹上ふきあげ地区ちく一角いっかくあらたな御所ごしょ(ごしょ)が建設けんせつされ、だいいちすめらぎ女子じょし清子せいご内親王ないしんのう黒田くろだ清子きよこ)ととも1993ねん平成へいせい5ねん12月8にちから居住きょじゅうはじめた[38]

天皇てんのう退位たいいとうかんする皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれいほう施行しこうともなって2019ねんれい元年がんねん5月1にちより皇太子こうたいしとくじん親王しんのうへの譲位じょういにより上皇じょうこううえ皇后こうごうとなって(明仁あきひとからとくじんへの皇位こうい継承けいしょう)、2020ねんれい2ねん3月19にち赤坂あかさか用地ようちうち仙洞せんとうかり御所ごしょ高輪たかなわ皇族こうぞくていきゅう高松宮たかまつのみややしき)へ一時いちじ転居てんきょするまで吹上ふきあげ仙洞せんとう御所ごしょ(ふきあげせんとうごしょ)の名称めいしょうとなった[39][40][41]。その上皇じょうこう明仁あきひとうえ皇后こうごう美智子みちこ2022ねんれい4ねん4がつ26にち赤坂あかさか用地ようちない仙洞せんとう御所ごしょきゅう赤坂あかさか御所ごしょ)に入居にゅうきょした[42][43]

2019ねんれい元年がんねん)5がつ1にち即位そくいした天皇てんのうとくひとし皇后こうごう雅子まさこだいいちすめらぎ女子じょし愛子あいこ内親王ないしんのうは、2021ねんれい3ねん9月6にち赤坂あかさか御所ごしょきゅう東宮御所とうぐうごしょ)から皇居こうきょ転居てんきょし、上皇じょうこう明仁あきひとうえ皇后こうごう美智子みちこ居住きょじゅうしていた御所ごしょ入居にゅうきょした[44][45]

皇居こうきょみや歴史れきし

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みや(みや)はいえ(や「」)に尊称そんしょう(み「」)がついた言葉ことばである。身分みぶんたかひと住居じゅうきょという意味いみから出発しゅっぱつし、やがて天皇てんのう皇族こうぞく宮殿きゅうでん意味いみするようになった。古代こだいには、大王だいおう天皇てんのう)の住居じゅうきょ一世いっせいごとに移転いてんされ、皇居こうきょみや(みや)とばれる宮殿きゅうでんした。『古事記こじき』や『日本書紀にほんしょき』には、4世紀せいきから6世紀せいきにかけての宮殿きゅうでんおおくが、現代げんだい奈良盆地ならぼんち東南とうなんいとなまれたとしるされている。

飛鳥ひちょうみや

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592ねん推古天皇すいこてんのう即位そくいした豊浦とようらみやから694ねんもちすべ天皇てんのう藤原ふじわらきょう遷都せんとするまでのやく100年間ねんかんは、奈良ならみなみ飛鳥あすか周辺しゅうへん宮殿きゅうでん集中しゅうちゅうしたので「飛鳥あすかきょう」とぶことがある。このようなみやには、しょう墾田こんでんみや603ねん - 630ねん)、飛鳥あすか岡本おかもとみや630ねん - 636ねん)、飛鳥あすかいたぶたみや643ねん - 655ねん)、こう飛鳥あすか岡本おかもとみや656ねん - 672ねん)、飛鳥あすかきよしはらみや672ねん - 694ねん)などがある。そのころだい規模きぼ居館きょかんがいくつか発見はっけんされている。それらは地面じめんあなってはしら根本こんぽん固定こていする掘立柱ほったてばしら建物たてものである。これらの建物たてものうち7世紀せいき以降いこうでは、中心ちゅうしん建物たてものみなみ正面しょうめんとしているのが特徴とくちょうである。

のちには、中国ちゅうごく王朝おうちょう影響えいきょうきょう(みやこ)が造営ぞうえいされるようになり、天皇てんのうきょうなか内裏だいり(だいり)に定着ていちゃくし、これを皇居こうきょとした。国政こくせい中枢ちゅうすうであるちょうどういんはじめとする中央ちゅうおう官衙かんが内裏だいり併設へいせつされ、わせて宮城みやぎばれる。

きょうには、難波なんばきょう大阪おおさか)、藤原ふじわらきょう奈良ならけん橿原かしはら明日香あすかむら)、平城京へいじょうきょう奈良なら)、平安京へいあんきょう京都きょうと)などがある。

平安へいあん時代じだいから江戸えど時代じだい

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京都きょうと御所ごしょ正門せいもんたてあやもん

平安京へいあんきょうは、794ねんのべれき13ねん)に桓武かんむ天皇てんのうによってさだめられた。960ねん天徳てんとく4ねん)に内裏だいり焼失しょうしつし、再建さいけんされるまで冷泉れいせんいんかり皇居こうきょとした。976ねん貞元さだもと元年がんねん)にも内裏だいり被災ひさいし、藤原ふじわらけんどおり邸宅ていたくである堀河ほりかわ殿どのかり皇居こうきょとしている。平安京へいあんきょう内裏だいりはしばしば焼亡しょうぼうしたため、摂関せっかん外戚がいせきなど臣下しんか邸宅ていたくかり皇居こうきょさと内裏だいり)とすることもおおかった。平安へいあん時代じだい末期まっきからは、内裏だいりがあってもさと内裏だいり皇居こうきょとすることが一般いっぱんした。1227ねん安貞やすさだ元年がんねん)に宮城みやぎ大内裏だいだいり)が焼失しょうしつしてからは内裏だいり再建さいけんされず、さと内裏だいり転々てんてんとした。

南北なんぼくあさ時代じだい1331ねん元弘もとひろ元年がんねんもととく3ねん)、北朝ほくちょうひかりげん天皇てんのう土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの即位そくいしてからは、この御殿ごてん内裏だいりさだめられた。これが、現在げんざい京都きょうと御所ごしょ前身ぜんしんとなる。南北なんぼくあさ時代じだい南朝なんちょう歴代れきだい天皇てんのうは、大半たいはん時期じきにおいて京都きょうと北朝ほくちょう朝廷ちょうていとそれをささえる室町むろまち幕府ばくふさえられ、吉野よしの行宮あんぐうなどを転々てんてんとした(「#歴代れきだい皇居こうきょ」を参照さんしょう)。

明治めいじ時代じだい以後いご

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慶応けいおう4ねん7がつ17にち1868ねん9月3にち)に江戸えど東京とうきょうあらためられた。同年どうねん10月13にち(1868ねん11月26にち)、明治天皇めいじてんのう東京とうきょう行幸ぎょうこうして江戸城えどじょう西にしまる現在げんざい宮殿きゅうでんのみがっている。現在げんざい吹上ふきあげ御所ごしょとはべつ場所ばしょ)にはいったさい江戸城えどじょう東京とうきょうじょう改称かいしょうされ、天皇てんのう東幸ひがしさいわいちゅうかり皇居こうきょさだめられた。天皇てんのう一旦いったん京都きょうともどった。

よく明治めいじ2ねん3月28にち1869ねん5月9にち)、ふたた東京とうきょう行幸ぎょうこうし、1877ねん明治めいじ10ねん)には京都きょうと御所ごしょ保存ほぞんされいまいたる(「東京とうきょう奠都てんと参照さんしょう)。

歴代れきだい皇居こうきょ

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歴代れきだい皇居こうきょみや)の一覧いちらん飛鳥あすか時代ときよ以前いぜんみやごうは『日本書紀にほんしょき』(一部いちぶ古事記こじき』)を典拠てんきょとする。

みやごう 天皇てんのう 所在地しょざいち推定すいていふくむ) 期間きかん
畝傍うねび橿原かしはらみや 初代しょだい神武じんむ天皇てんのう 奈良ならけん橿原かしはら畝傍うねびまち 神武じんむ天皇てんのう元年がんねん1がつ -
葛城かつらぎ高丘たかおかみや だい2だい綏靖天皇てんのう 奈良ならけん御所ごしょ森脇もりわき 綏靖天皇てんのう元年がんねん1がつ -
片塩かたしお浮孔うきあなみや だい3だい安寧天皇あんねいてんのう 奈良ならけん大和高田やまとたかだ三倉みくらどう
または奈良ならけん橿原かしはら四条しじょうまち
安寧天皇あんねいてんのう2ねん -
けいきょくかいみやけいさかい岡宮おかみや だい4だい懿徳天皇てんのう 奈良ならけん橿原かしはら白橿しらかしまち 懿徳天皇てんのう2ねん1がつ -
掖上わきがみ池心ちしんみや葛城かつらぎわき上宮かみみや だい5だい孝昭たかあき天皇てんのう 奈良ならけん御所ごしょ池之内いけのうち 孝昭たかあき天皇てんのう元年がんねん7がつ -
しつ秋津島あきつしまみや だい6だい孝安たかやす天皇てんのう 奈良ならけん御所ごしょしつ 孝安たかやす天皇てんのう2ねん10がつ -
黒田くろだいおり戸宮とみや だい7だいこうれい天皇てんのう 奈良ならけん磯城しきぐん田原本たわらもとまち黒田くろだ 孝安たかやす天皇てんのう102ねん12月 -
けい境原さかいはらみや だい8だいこうもと天皇てんのう 奈良ならけん橿原かしはら見瀬みせまち こうもと天皇てんのう4ねん3がつ -
春日しゅんじつりつ川宮かわみや だい9だい開化かいか天皇てんのう 奈良ならけん奈良なら本子守ほんこもりまち 開化かいか天皇てんのう元年がんねん10がつ -
磯城しき瑞籬みずがきみや だい10代たかしかみ天皇てんのう 奈良ならけん桜井さくらい金屋かなや たかしかみ天皇てんのう3ねん9がつ -
まといこうたまじょうみや玉垣たまがきみや だい11だいたれじん天皇てんのう 奈良ならけん桜井さくらい穴師あなし たれじん天皇てんのう2ねん10がつ -
まとい向日むこうだいみや だい12だいけいぎょう天皇てんのう 奈良ならけん桜井さくらい穴師あなし けいぎょう天皇てんのう4ねん11月 -
志賀しがだかあなみや だい12だいけいぎょう天皇てんのう
- だい13だいなりつとむ天皇てんのう
滋賀しがけん大津おおつ穴太あのう けいぎょう天皇てんのう58ねん2がつ -
あなもん豊浦とようらみや だい14だい仲哀ちゅうせつ天皇てんのう 山口やまぐちけん下関しものせき長府宮ちょうふみやうちまち 仲哀ちゅうせつ天皇てんのう2ねん9がつ -
橿かし日宮ひのみや 福岡ふくおかけん福岡ふくおかひがし香椎かしい 仲哀ちゅうせつ天皇てんのう8ねん1がつ -
いわあまりやや桜宮さくらみや 神功じんぐう皇后こうごう 奈良ならけん桜井さくらいたに
または桜井さくらい池之内いけのうち
神功じんぐう皇后こうごう摂政せっしょう3ねん1がつ -
けいしま豊明とよあきみやけいしまあきらみや だい15だい応神天皇おうじんてんのう 奈良ならけん橿原かしはら大軽おおがるまち 遷都せんと年次ねんじ不明ふめい
難波なんば大隅おおすみみや 大阪おおさか大阪おおさか東淀川ひがしよどがわ大隅おおすみ 応神天皇おうじんてんのう22ねん3がつ -
難波なんば高津たかつみや だい16だい仁徳天皇にんとくてんのう 大阪おおさか大阪おおさか天王寺てんのうじ餌差えさしまち
または大阪おおさか中央ちゅうおう法円坂ほうえんざか
仁徳天皇にんとくてんのう元年がんねん1がつ -
いわあまりやや桜宮さくらみや だい17だい履中天皇りちゅうてんのう 奈良ならけん桜井さくらいたに
または桜井さくらい池之内いけのうち
履中天皇りちゅうてんのう元年がんねん2がつ -
丹比たんぴしばませみや だい18だいはんせい天皇てんのう 大阪おおさか松原まつばら上田うえだ はんせい天皇てんのう元年がんねん10がつ -
とお飛鳥あすかみや だい19だい允恭天皇いんぎょうてんのう 奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすかむら飛鳥あすか 遷都せんと年次ねんじ不明ふめい
石上いしがみあなみや だい20だい安康天皇あんこうてんのう 奈良ならけん天理てんり田町たまち 允恭天皇いんぎょうてんのう42ねん12月 -
とまりせら朝倉あさくらみや だい21だい雄略天皇ゆうりゃくてんのう 奈良ならけん桜井さくらい岩坂いわさか
または桜井さくらい脇本わきもと黒崎くろさき
安康天皇あんこうてんのう3ねん11月 -
いわあまり栗宮くりみや だい22だいせいやすし天皇てんのう 奈良ならけん橿原かしはら東池尻ひがしいけじりまち せいやすし天皇てんのう元年がんねん1がつ -
忍海おしみかくとげみや 飯豊青皇女いいとよあおのひめみこ 奈良ならけん葛城かつらぎ忍海おしみ せいやすし天皇てんのう5ねん1がつ -
きん飛鳥ひちょう八釣やつりみやきん飛鳥あすかみや だい23だい顕宗けんそう天皇てんのう 奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすかむら八釣やつり
または大阪おおさか羽曳野はびきの飛鳥あすか
顕宗けんそう天皇てんのう元年がんねん1がつ -
石上いしがみ広高ひろたかみや だい24だい仁賢天皇にんけんてんのう 奈良ならけん天理てんり石上いしがみまち
または天理てんり嘉幡かばたまち
仁賢天皇にんけんてんのう元年がんねん1がつ -
とまりれつじょうみや だい25だいたけれつ天皇てんのう 奈良ならけん桜井さくらい出雲いずも 仁賢天皇にんけんてんのう11ねん12月 -
樟葉くずはみや だい26だいつぎたい天皇てんのう 大阪おおさか枚方ひらかた楠葉くずはたかし つぎたい天皇てんのう元年がんねん507ねん?)2がつ -
筒城つつきみや 京都きょうと京田辺きょうたなべ多々羅たたらたに つぎたい天皇てんのう5ねん511ねん?)10がつ -
弟国おうぐにみや 京都きょうと長岡京ながおかきょう今里いまさと つぎたい天皇てんのう12ねん518ねん?)3がつ -
いわあまり玉穂たまほみや 奈良ならけん桜井さくらい池之内いけのうち つぎたい天皇てんのう20ねん526ねん?)9がつ -
勾金まがりかねきょうみや だい27だい安閑天皇あんかんてんのう 奈良ならけん橿原かしはら曲川まがりかわまち 安閑天皇あんかんてんのう元年がんねん534ねん?)1がつ -
ひのきくまいおり入野いりのみや だい28だいせん天皇てんのう 奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすかむら檜前ひのくま せん天皇てんのう元年がんねん536ねん?)1がつ -
磯城しきとう金刺かなざしみや だい29だい欽明天皇てんのう 奈良ならけん桜井さくらい金屋かなや外山とやま 欽明元年がんねん540ねん?)7がつ -
百済くだら大井おおいみや だい30だいさとしたち天皇てんのう 奈良ならけん桜井さくらい大福おおふく
または奈良ならけん北葛城きたかつらぎぐん広陵こうりょうまち百済くだら
さとしたち天皇てんのう元年がんねん572ねん?)4がつ
- さとしたち天皇てんのう4ねん575ねん?)
訳語やくご田幸たこう玉宮たまみや
田宮たみやいわあまり訳語やくご田宮たみや
奈良ならけん桜井さくらい戒重かいじゅう さとしたち天皇てんのう4ねん(575ねん?) -
いわあまり池辺いけべそうけやきみや だい31だいよう明天めいてんすめらぎ 奈良ならけん桜井さくらい阿部あべ さとしたち天皇てんのう14ねん585ねん?)9がつ -
倉梯くらはしみやくら柴垣しばがきみや だい32だいたかしたかし天皇てんのう 奈良ならけん桜井さくらい倉橋くらはし よう明天めいてんすめらぎ2ねん587ねん?)8がつ -
豊浦とようらみや桜井さくらいひとしゆかりみや だい33だい推古天皇すいこてんのう 奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすかむら豊浦とようら たかしたかし天皇てんのう5ねん592ねん)12月
- 推古天皇すいこてんのう11ねん603ねん)10がつ
しょう墾田こんでんみや 奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすかむらかみなり 推古天皇すいこてんのう11ねん(603ねん)10がつ
- 推古天皇すいこてんのう36ねん628ねん)3がつ
飛鳥あすか岡本おかもとみや高市たかいち岡本おかもとみや だい34だい舒明天皇てんのう 奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすか村岡むらおか 舒明天皇てんのう2ねん630ねん)10がつ
- 舒明天皇てんのう8ねん636ねん)6がつ
田中たなかみや 奈良ならけん橿原かしはら田中たなかまち 舒明天皇てんのう8ねん(636ねん)6がつ -
百済くだらみや 奈良ならけん桜井さくらい吉備きび
または奈良ならけん北葛城きたかつらぎぐん広陵こうりょうまち百済くたら
舒明天皇てんのう12ねん640ねん)10がつ
- 舒明天皇てんのう13ねん641ねん)10がつ
飛鳥あすかいたぶたみや だい35だいすめらぎごく天皇てんのう
- だい37だいひとし明天めいてんすめらぎ
奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすか村岡むらおか すめらぎごく天皇てんのう2ねん643ねん)4がつ
- ひとし明天めいてんすめらぎ元年がんねん655ねんふゆ
難波なんば長柄ながらゆたか碕宮 だい36だい孝徳天皇こうとくてんのう
- だい40だい天武天皇てんむてんのう
大阪おおさか大阪おおさか中央ちゅうおう法円坂ほうえんさか しろ2ねん652ねん)12月
- 朱鳥あすか元年がんねん686ねん)1がつ
飛鳥あすか川原かわはらみや だい37だいひとし明天めいてんすめらぎ 奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすかむら川原かわはら ひとし明天めいてんすめらぎ元年がんねん655ねんふゆ
- ひとし明天めいてんすめらぎ2ねん656ねん
こう飛鳥あすか岡本おかもとみや だい37だいひとし明天めいてんすめらぎ
- だい38だい天智天皇てんぢてんのう
奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすか村岡むらおか ひとし明天めいてんすめらぎ2ねん(656ねん
- 天智天皇てんぢてんのう6ねん667ねん)3がつ
朝倉あさくらたちばなこうにわみや だい37だいひとし明天めいてんすめらぎ 福岡ふくおかけん朝倉あさくら須川すがわ
または朝倉あさくら杷木はき志波しわ
ひとし明天めいてんすめらぎ7ねん661ねん)5がつ - 7がつ
近江おうみ大津おおつみや だい38だい天智天皇てんぢてんのう
- だい39だい弘文天皇こうぶんてんのう
滋賀しがけん大津おおつ錦織にしきおり 天智天皇てんぢてんのう6ねん(667ねん)3がつ
- 天武天皇てんむてんのう元年がんねん672ねん)7がつ
飛鳥あすかきよしはらみや だい40だい天武天皇てんむてんのう
- だい41だいもちすべ天皇てんのう
奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすか村岡むらおか 天武天皇てんむてんのう元年がんねん(672ねんふゆ
- もちすべ天皇てんのう8ねん694ねん)12月
藤原ふじわらみや だい41だいもちすべ天皇てんのう
- だい43だい元明もとあき天皇てんのう
奈良ならけん橿原かしはら高殿たかどのまちなど もちすべ天皇てんのう8ねん(694ねん)12月
- 和銅わどう3ねん710ねん)3がつ
平城ひらじろみや寧楽ねいらくみや だい43だい元明もとあき天皇てんのう
- だい50だい桓武かんむ天皇てんのう
奈良ならけん奈良なら佐紀さきまち北緯ほくい3441ふん31.37びょう 東経とうけい13547ふん49.85びょう / 北緯ほくい34.6920472 東経とうけい135.7971806 / 34.6920472; 135.7971806 (平城ひらじろみやあと) 和銅わどう3ねん(710ねん)3がつ
- 天平てんぺい12ねん740ねん)12月
天平てんぴょう17ねん745ねん)5がつ
- のべれき3ねん784ねん)11月
難波なんばみや だい45だい聖武天皇しょうむてんのう
- だい50だい桓武かんむ天皇てんのう
大阪おおさか大阪おおさか中央ちゅうおう法円坂ほうえんさか 天平てんぴょう6ねん734ねん)3がつ
- のべれき3ねん(784ねん)11月
だいやしなえとくきょうひとし大宮おおみやきょうじんみや だい45だい聖武天皇しょうむてんのう 京都きょうと木津川きづがわ加茂かもまち例幣れいへいなど 天平てんぴょう12ねん(740ねん)12月
- 天平てんぴょう16ねん744ねん)2がつ
むらさきかおりらくみや信楽しがらきみや甲賀こうがみや 滋賀しがけん甲賀こうが信楽しがらきまちみやまち 天平てんぴょう17ねん745ねん)1がつ - 5月
保良ぼらみや だい47だい淳仁天皇じゅんにんてんのう 滋賀しがけん大津おおつ国分こくぶ 天平てんぴょうたから5ねん761ねん)10がつ
- 天平てんぴょうたから8ねん764ねん)9がつ
よしみや だい48だいしょうとく天皇てんのう 大阪おおさか八尾やお八尾木よおぎ都塚みやこづか 神護かんごけいくも3ねん769ねん)10がつ
- たからひさし元年がんねん770ねん)8がつ
長岡ながおかみや だい50だい桓武かんむ天皇てんのう 京都きょうと向日むこう鶏冠井かいでまちなど のべれき3ねん(784ねん)11月
- のべれき13ねん794ねん)10がつ
平安へいあんみや だい50だい桓武かんむ天皇てんのう
- だい122だい明治天皇めいじてんのう
京都きょうと京都きょうと上京かみぎょう(北緯ほくい3501ふん13.1びょう 東経とうけい13544ふん36.9びょう / 北緯ほくい35.020306 東経とうけい135.743583 / 35.020306; 135.743583) のべれき13ねん(794ねん)10がつ
- 明治めいじ2ねん1869ねん)3がつ
福原ふくはらみや だい81だい安徳天皇あんとくてんのう 兵庫ひょうごけん神戸こうべ兵庫ひょうご荒田あらだまちなど うけたまわ4ねん1180ねん)6がつ - 11月
南朝なんちょう 吉野よしの行宮あんぐう だい96だい後醍醐天皇ごだいごてんのう
- だい99だいこう亀山天皇かめやまてんのう
奈良ならけん吉野よしのぐん吉野よしのまち吉野山よしのやま のべもと元年がんねん1336ねん)12月
- 正平しょうへい3ねん1348ねん)1がつ
正平しょうへい23ねん1368ねん)12月
- 正平しょうへい24ねん1369ねん)4がつ
文中ぶんちゅう2ねん1373ねん)8がつ
- 天授てんじゅ5ねん1379ねんごろ
もとなか2ねん1385ねんごろ
- もとなか9ねん1392ねん)10がつ
賀名かななま行宮あんぐう だい97だい後村上天皇ごむらかみてんのう 奈良ならけん五條ごじょう西吉野にしよしのまち賀名かなせい
または五條ごじょう西吉野にしよしのまち黒渕くろぶち
正平しょうへい3ねん(1348ねん)9がつ
- 正平しょうへい7ねん1352ねん)2がつ
正平しょうへい7ねん(1352ねん)5がつ
- 正平しょうへい9ねん1354ねん)10がつ
天野あまの行宮あんぐう だい97だい後村上天皇ごむらかみてんのう
- だい98だい長慶天皇ちょうけいてんのう
大阪おおさか河内長野かわちながの天野あまのまち 正平しょうへい9ねん(1354ねん)10がつ
- 正平しょうへい14ねん1359ねん)12月
正平しょうへい24ねん(1369ねん)4がつ
- 文中ぶんちゅう2ねん(1373ねん)8がつ
観心寺かんしんじ行宮あんぐう だい97だい後村上天皇ごむらかみてんのう 大阪おおさか河内長野かわちながの寺元てらもと 正平しょうへい14ねん(1359ねん)12月
- 正平しょうへい15ねん1360ねん)9がつ
住吉すみよし行宮あんぐう だい97だい後村上天皇ごむらかみてんのう
- だい98だい長慶天皇ちょうけいてんのう
大阪おおさか大阪おおさか住吉すみよし墨江すみえ 正平しょうへい15ねん(1360ねん)9がつ
- 正平しょうへい23ねん(1368ねん)12月
栄山さかえやま行宮あんぐう だい98だい長慶天皇ちょうけいてんのう
- だい99だいこう亀山天皇かめやまてんのう
奈良ならけん五條ごじょう小島こじままち 天授てんじゅ5ねん(1379ねんごろ
- もとなか2ねん(1385ねんごろ
宮城みやぎ皇居こうきょ だい122だい明治天皇めいじてんのう - 東京とうきょう千代田ちよだ千代田ちよだ1-1(北緯ほくい3540ふん57びょう 東経とうけい13945ふん7.56びょう / 北緯ほくい35.68250 東経とうけい139.7521000 / 35.68250; 139.7521000 明治めいじ2ねん(1869ねん)3がつ - 現在げんざい

その

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  • 皇居こうきょおおきさは、宮内庁くないちょう管理かんり部分ぶぶん敷地しきちやく115まんm2[46]東京とうきょうドームやく25ぶんである[47]ほり面積めんせきふく東京とうきょう千代田ちよだ千代田ちよだ面積めんせきは1,425,500m2[48]皇居外苑こうきょがいえんふくめたそう面積めんせきやく230まんm2となる[7]
  • 皇居こうきょ周辺しゅうへんは1しゅうやく5kmで歩道ほどう信号しんごうがなく、もり街路がいろじゅほり景観けいかんたのしめることから、手軽てがるなランニングコースになっている(皇居こうきょランニング[49]高低こうていやく26メートル。初心者しょしんしゃから上級じょうきゅうしゃまで、幅広はばひろはしれる[50]
  • 外国がいこくじん観光かんこうきゃくひがし御苑ぎょえんなどへの来訪らいほうえているため、宮内庁くないちょうは2017ねん5がつ16にちスマートフォンけに皇居こうきょ京都きょうと御所ごしょについてにちえいちゅうかんふつ西にし6かこく音声おんせい案内あんないするアプリ提供ていきょうはじめた[51]
  • 皇居こうきょちかくには、勤皇きんのう忠臣ちゅうしんとされる2人ふたり文武ぶんぶ忠臣ちゅうしん)の銅像どうぞうっている[52]皇居外苑こうきょがいえん楠木くすのき正成まさしげぞう大手おおてほり和気清麻呂わけのきよまろぞうである。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 御所ごしょ」は天皇てんのうだけでなく、由緒ゆいしょある武家ぶけ公家くげ邸宅ていたくへの尊称そんしょうとしてもひろもちいられる。
  2. ^ 現在げんざいうえなか下道げどう灌濠の3つのほりかれている。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 所在地しょざいち 宮内庁くないちょう(2020ねん9がつ6にち閲覧えつらん
  2. ^ 皇居外苑こうきょがいえん歴史れきし” (PDF). 環境省かんきょうしょう. 2024ねん5がつ6にち閲覧えつらん
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  5. ^ 宮内庁くないちょう (2013ねん7がつ4にち). “皇居こうきょ全体ぜんたい”. 宮内庁くないちょう. 2018ねん2がつ2にち閲覧えつらん
  6. ^ 環境省かんきょうしょう (2017ねん11月20にち). “皇居外苑こうきょがいえん全域ぜんいき)の案内あんない”. 環境省かんきょうしょう. 2018ねん2がつ2にち閲覧えつらん
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  8. ^ 皇居こうきょ 宮内庁くないちょう(2023ねん12がつ10日とおか閲覧えつらん
  9. ^ 皇居こうきょいぬいどお一般いっぱん公開こうかいについて 宮内庁くないちょう(2018ねん10がつ30にち閲覧えつらん
  10. ^ 皇居こうきょ外周がいしゅう地区ちく”. デジタル大辞泉だいじせんコトバンク. 2021ねん1がつ24にち閲覧えつらん
  11. ^ 皇室こうしつ Our Imperial Family』43ごう扶桑社ふそうしゃ、2009ねん)15ぺーじ
  12. ^ 職員しょくいんまよ皇居こうきょ吹上御苑ふきあげぎょえん かつて9Hのゴルフじょう存在そんざいした”. NEWSポストセブン. 小学館しょうがくかん. 2024ねん5がつ26にち閲覧えつらん。 “ひがし御苑ぎょえん西側にしがわ位置いちする吹上御苑ふきあげぎょえんには、天皇てんのう皇后こうごう吹上ふきあげ御所ごしょがある。(中略ちゅうりゃく)かつて9ホールのゴルフじょうもありました。しかし、1937ねん昭和しょうわ天皇てんのうがゴルフをめると宣言せんげんされてから、その場所ばしょもやがてもりになりました。”
  13. ^ 本誌ほんし編集へんしゅう (2016ねん9がつ10日とおか). “天皇てんのう宮内庁くないちょう徹底てってい研究けんきゅう られざる皇居こうきょない建物たてもの”. 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 電子でんしばん. 文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう. 2024ねん5がつ26にち閲覧えつらん。 “御所ごしょは、上空じょうくうからると雁行がんこうがたで、一部いちぶが2かいて。”
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  29. ^ 戦跡せんせきあるく2022東京とうきょう】(2)千鳥ケ淵ちどりがふち高射こうしゃ機関きかんほう台座だいざあと 皇居こうきょ防衛ぼうえいつたえる遺構いこう毎日新聞まいにちしんぶん朝刊ちょうかん2022ねん8がつ18にち東京とうきょうめん
  30. ^ 入江いりえしょうまさしちょ入江いりえしょうせい日記にっきだい2かん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ
  31. ^ 文庫ぶんこ(おぶんこ)附属ふぞく(ふぞくこ)関係かんけい資料しりょう 宮内庁くないちょうとうちょう管理かんりするさき大戦たいせん関係かんけい資料しりょう公表こうひょうについて(戦後せんご70ねんたって)平成へいせい27ねん8がつ1にち(2020ねん9がつ6にち閲覧えつらん
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  34. ^ 皇室こうしつなごみエピソードしゅう/えられなかった御所ごしょ/昭和しょうわ天皇てんのう
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  36. ^ 平成へいせい5ねん12月9にち官報かんぽうだい1297ごう皇室こうしつ事項じこう皇太后こうたいごう陛下へいか在所ざいしょ名称めいしょう変更へんこう
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  41. ^ 上皇じょうこう夫妻ふさい皇居こうきょをご退去たいきょ 31にち転居てんきょさき高輪たかなわへ”. 産経新聞さんけいしんぶん. (2020ねん3がつ19にち). https://www.sankei.com/article/20200319-VSZVFKQBORIKXFIL2QQQ6USQ4M/ 2023ねん3がつ10日とおか閲覧えつらん 
  42. ^ ウィキソース出典 れい4ねん4がつ26にち内閣ないかく告示こくじだい1ごう 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん 岸田きしだ文雄ふみお上皇じょうこうじょう皇后こうごうりょう陛下へいか在所ざいしょ東京とうきょうみなと元赤坂もとあかさか丁目ちょうめ一番いちばんはちごう御所ごしょさだめられ、仙洞せんとう御所ごしょしょうするとうけん』。ウィキソースより閲覧えつらん 
  43. ^ 上皇じょうこう夫妻ふさい赤坂あかさかの「仙洞せんとう御所ごしょ」にご入居にゅうきょ. 産経新聞さんけいしんぶん. (2022ねん4がつ26にち). https://www.sankei.com/article/20220426-MPZZHGW3VVIVFAVNFPMQRBAVLY/ 2023ねん3がつ10日とおか閲覧えつらん 
  44. ^ ウィキソース出典 れい3ねん9がつ7にち内閣ないかく告示こくじだい2ごう 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん かんよしえら天皇てんのう皇后こうごうりょう陛下へいか皇居こうきょ移転いてんさだめられたけん (れいさんねん内閣ないかく告示こくじだいごう)』。ウィキソースより閲覧えつらん 
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  47. ^ 皇居こうきょってみよう 宮内庁くないちょう
  48. ^ 千代田ちよだ (2017ねん9がつ4にち). “千代田ちよだ行政ぎょうせい基礎きそ資料集しりょうしゅう平成へいせい29年版ねんばん”. 千代田ちよだ. 2018ねん2がつ2にち閲覧えつらん
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  50. ^ 皇居こうきょランニングポータルサイト
  51. ^ 宮内庁くないちょう参観さんかん音声おんせいガイドアプリの運用うんよう開始かいしについてのおらせ”. 宮内庁くないちょう. 2017ねん5がつ18にち閲覧えつらん
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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地図ちず外部がいぶリンク
皇居こうきょ
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