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降嫁こうか

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降嫁こうか(こうか)とは、皇女おうじょ王女おうじょ皇族こうぞく王族おうぞく以外いがい男性だんせいとつぐことをいう。

中国ちゅうごく[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく王朝おうちょうでは古代こだいから近隣きんりん諸国しょこく関係かんけい維持いじするため、皇帝こうていのもとからとつぐいわゆるかずしげる公主こうしゅ降嫁こうかおこなわれた[1]

かずしげる公主こうしゅ降嫁こうかえびすじゅうろくこく北朝ほくちょう、さらにそれをけたずいとうにおいてはとく中国ちゅうごく皇帝こうていからの恩寵おんちょうとしてさかんに実施じっしされた[1]安史やすしらん以降いこうになると、中原なかはら王朝おうちょうではかずしげる公主こうしゅ降嫁こうか減少げんしょうしていく一方いっぽうちぎり西にしなつきむもとなどかん民族みんぞく王朝おうちょうでは、婚姻こんいんによる外交がいこう政策せいさく実施じっしさかんにられた[1]

ずい[編集へんしゅう]

ずいではぶんみかど時代じだいに4にんきたしゅうから養女ようじょとなった大義たいぎ公主こうしゅふくむ)、煬帝時代じだい2人ふたりが、突厥西にし突厥吐谷渾こうあきら降嫁こうかした[2]

とう[編集へんしゅう]

とうだい歴代れきだい中国ちゅうごく王朝おうちょうもっとかずしげる公主こうしゅ降嫁こうかさかんにおこなわれた[3]

かずしげる公主こうしゅ降嫁こうかともなって宗室そうしつ女性じょせい同行どうこうし、かずしげる公主こうしゅ帰国きこくあるいは逝去せいきょしたのち近隣きんりん諸国しょこくにとどまって影響えいきょうりょくおよぼしていた[3]。また、かずしげる公主こうしゅ降嫁こうかさいにはとうから金銭きんせん絹織物きぬおりものなど文化ぶんか誇示こじする品々しなじなたまものあずかされ、降嫁こうかさききみちょう臣下しんかにまでひろ分配ぶんぱいされた[3]

日本にっぽん[編集へんしゅう]

日本にっぽんでは皇族こうぞく女子じょし内親王ないしんのう女王じょおう皇族こうぞく臣下しんか)にとつ場合ばあいす。

歴史れきし[編集へんしゅう]

奈良なら時代じだい以前いぜん[編集へんしゅう]

婚姻こんいん制限せいげん規定きていは、天皇てんのう血縁けつえんてきみことせいたかめるためにもうけられたとかんがえられている[4]古代こだい社会しゃかい身分みぶんせいおいては血統けっとう重要じゅうようされていたため[4]、「天皇てんのう臣下しんか女子じょし」の子孫しそんたいし、「皇族こうぞく女子じょし臣下しんか男子だんし」の子孫しそんという、血縁けつえんてきみことせい類似るいじした系譜けいふしょうじることをふせ必要ひつようせいがあった[5]だい16だい仁徳天皇にんとくてんのう時代じだいに、すで異母いぼ兄妹きょうだいこんおおくみられることから、5世紀せいき初頭しょとうまでにすめらぎおや女子じょしこん規制きせいもうけられていたとかんがえられている[5]

内親王ないしんのう結婚けっこん相手あいて律令りつりょうの『継嗣けいしれい』では天皇てんのうもしくはよんせい以上いじょうすめらぎおやかぎるとされ、古代こだいには皇族こうぞくとの結婚けっこんはなかった。

また、それ以外いがいすめらぎおや女子じょし婚姻こんいんかんする規定きていもほぼおなじであり、当時とうじすめらぎおやとしての法的ほうてきあつかいの範囲はんいがいとされ、すめらぎおや女子じょし称号しょうごうであった「女王じょおう」を名乗なのることのみがゆるされていた「せいおう」(天皇てんのうから5せい子孫しそん)の女性じょせい臣下しんか婚姻こんいんみとめられるにぎなかった。なお、けいくも3ねん706ねん)2がつ16にちかくによって、せいおう臣下しんか婚姻こんいんきんじられている(『ぞく日本にっぽん』)。古代こだいにおいては、内親王ないしんのう保持ほじすることができた[6]。このように、8世紀せいき以前いぜんにおいては、6せい以降いこうすめらぎおや女子じょししか臣下しんかとの婚姻こんいんみとめられていなかった[7]

こんこう広道ひろみち研究けんきゅうによれば、8世紀せいきにおいても3れいすめらぎおや女子じょし臣下しんか婚姻こんいんがあるが、上記じょうき規定きていないまたはかろうじて抵触ていしょくする程度ていどすうすめらぎおや女子じょしであった[8]あきらかに抵触ていしょくするれいとしては、まめりょう女王じょおう舎人親王とねりしんのう孫娘まごむすめ三世さんぜおう)と藤原ふじわらひさ麻呂まろ婚姻こんいんがある[4]。これは、ひさ麻呂まろちち藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ権勢けんせいによって、強引ごういん成立せいりつさせられたものとかんがえられている[4]。また、やまおうむすめ藤原ふじわら巨勢こせ麿まろ婚姻こんいんも、やまおうちち長屋王ながやおう失脚しっきゃくやまおう臣籍しんせきくだり「藤原ふじわらおとうとさだ」となりしんなか麻呂まろとしてなか麻呂まろとの関係かんけいふかめるために画策かくさくされたとかんがえられ、その時期じき天平てんぴょうかちたから9さい以降いこうであり、適法てきほうであるとかんがえられている[4]

以上いじょうのことから、まめりょう女王じょおう藤原ふじわらひさ麻呂まろ婚姻こんいんのぞき、規定きてい厳格げんかく運用うんようされていた[4]

平安へいあん時代じだい[編集へんしゅう]

9世紀せいきいたり、のべれき12ねん9がつ1にちだい50だい桓武かんむ天皇てんのうみことのりによって、大臣だいじん良家りょうけ子孫しそんには「さんせいおう」(天皇てんのう曾孫そうそん以下いかとの婚姻こんいん許容きょようされるようになった[9]とくに、桓武かんむ天皇てんのう擁立ようりつ貢献こうけんがあった藤原ふじわらたいしては例外れいがいてきに「せいおう」(天皇てんのうまご)との婚姻こんいんゆるすことになった(『日本にっぽんりゃく』)。桓武かんむ天皇てんのうはもともと天智天皇てんぢてんのうけい傍系ぼうけいであったため、血統けっとう意識いしき歴代れきだい天皇てんのうよりひくかったため、このようなおおきな方針ほうしん転換てんかん可能かのうであったとかんがえられている[9]

もっとも長年ながねん伝統でんとうてき観念かんねんひろ貴族きぞく社会しゃかいのこり、やまおうむすめすう不明ふめい)と藤原ふじわら葛野くずの麿まろ婚姻こんいん大庭おおばおうむすめよんろくせいおう)と藤原ふじわらふゆ婚姻こんいんおこなわれたが、いずれも天皇てんのうからの血縁けつえんとおく、またわらわであった[10]

おおきな転換てんかんてんは、史上しじょうはじめて天皇てんのう皇女おうじょ臣下しんか婚姻こんいんれいである、だい52だい嵯峨天皇さがてんのう皇女おうじょみなもときよしひめ藤原ふじわらりょうぼうである。きよしひめは5さいたまものせい降下こうかしており、14さいぼう婚姻こんいんした[10]臣籍しんせき降下こうか桓武かんむあさ以降いこうおこなわれるようになったが、女子じょしたいしておこなわれるようになったのは嵯峨さがちょう以降いこうである[11]。しかし、そのだい57だい陽成ようぜい天皇てんのうまでにたまものせい降下こうかした女子じょし25めいちゅう臣下しんか婚姻こんいんしたもの皆無かいむであり、降下こうかすめらぎおや女子じょし同様どうよう臣下しんかとの婚姻こんいん困難こんなんであった[12]きよしひめつぎれいは、やく100ねんみなもと順子じゅんこだい59だい宇多天皇うだてんのう皇女おうじょとされる)である[12]

どう時代じだい文学ぶんがく作品さくひんである『源氏物語げんじものがたり』においても、大宮おおみや左大臣さだいじん正室せいしつあたま中将ちゅうじょうあおいじょうはは)、おんなさんみや光源氏ひかるげんじ正室せいしつ)、落葉らくようみや柏木かしわぎ正室せいしつ、のちゆうきり再婚さいこん)、おんな二宮にのみやかおる正室せいしつ)などのれいられる。

中世ちゅうせい近世きんせい[編集へんしゅう]

女院にょいん増加ぞうか内親王ないしんのう宣下せんげ減少げんしょうなどにより、平安へいあん後期こうきから鎌倉かまくら室町むろまち時代ときよにかけて、内親王ないしんのう降嫁こうかほとん途絶とだえる。江戸えど時代じだいはい五摂家ごせっけへの降嫁こうか復活ふっかつ、また幕末ばくまつには和宮かずのみや親子おやこ内親王ないしんのう将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもちし、唯一ゆいいつ武家ぶけへの降嫁こうかれいとなった。

なお内親王ないしんのう女王じょおう皇族こうぞく結婚けっこんしても、本人ほんにん皇族こうぞくとしての身分みぶんはそのままであり、皇族こうぞくはなれてとつさきせい名乗なのることはなかった。

きん現代げんだい皇室こうしつ典範てんぱん制定せいてい[編集へんしゅう]

1889ねん明治めいじ22ねん)2がつ11にち大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう同日どうじつ公布こうふされた皇室こうしつ典範てんぱん(いわゆるきゅう皇室こうしつ典範てんぱん)において、外国がいこく王室おうしつとの婚姻こんいんふせぐため、皇族こうぞく女子じょし婚姻こんいん相手あいて皇族こうぞく華族かぞく限定げんていされた[13]。ただし、制定せいていいた議論ぎろんなか西洋せいようの「プリンセス」が婚姻こんいん称号しょうごう維持いじできることとし、降嫁こうかによって内親王ないしんのう女王じょおう喪失そうしつすることが不当ふとうであるとの主張しゅちょうもあり、特旨とくしによりその保持ほじする余地よちのこされた[6]。1920ねん大正たいしょう9ねん)4がつに、王族おうぞく婚姻こんいんした梨本なしもとみやいえ方子のりこ女王じょおうが、大正天皇たいしょうてんのうの「御沙汰ごさた」によって、婚姻こんいん女王じょおう保持ほじしている[14]

このきゅう皇室こうしつ典範てんぱんにおいては、「内親王ないしんのう降嫁こうか事例じれい存在そんざいしなかった[注釈ちゅうしゃく 1]女王じょおうおおくが、華族かぞく当主とうしゅまたは継嗣けいしとの婚姻こんいんおこなった。

1947ねん昭和しょうわ22ねん)5がつ3にち日本国にっぽんこく憲法けんぽう同日どうじつ施行しこうされた皇室こうしつ典範てんぱんにより、皇族こうぞく女子じょし皇族こうぞく男子だんし以外いがい婚姻こんいんした場合ばあいは、例外れいがいなく皇室こうしつはなれることとされ、保持ほじ余地よちもなくなった。こうみや和子かずこ内親王ないしんのう鷹司たかつかさ平通ひらどおり婚姻こんいんすることで、文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)の和宮かずのみや降嫁こうか以来いらい89ねんぶりの「内親王ないしんのう降嫁こうか事例じれい発生はっせいした。鷹司たかつかさは、五摂家ごせっけきゅう公爵こうしゃくであったが、華族かぞく制度せいど廃止はいしにより「平民へいみん」となっていた。そのいもうと清宮きよみや貴子たかこ内親王ないしんのうにおいては華族かぞく出身しゅっしんではあったが継嗣けいしではない(佐土原さどわらはん主家しゅか次男じなんである)島津しまつ久永ひさなが婚姻こんいん、より狭義きょうぎの「平民へいみん」に相当そうとうする人物じんぶつ内親王ないしんのうとのはつ婚姻こんいん事例じれいとなる。

その三笠みかさみや家出いえで容子ようす内親王ないしんのうはじめて、皇族こうぞく華族かぞく直接ちょくせつかない広義こうぎ平民へいみん出身しゅっしんしゃであるせん宗室そうしつ[注釈ちゅうしゃく 2]婚姻こんいん紀宮のりのみや清子きよこ内親王ないしんのう同様どうよう天皇てんのう皇女おうじょとしてははじめてきゅう華族かぞくではない平民へいみん出身しゅっしんしゃである黒田くろだけいじゅ婚姻こんいんしている。

皇室こうしつ典範てんぱんにおける規定きてい[編集へんしゅう]

現行げんこう[編集へんしゅう]

皇室こうしつ典範てんぱんだいじゅうじょう
皇族こうぞく女子じょしは、天皇てんのうおよ皇族こうぞく以外いがいもの婚姻こんいんしたときは、皇族こうぞく身分みぶんはなれる。

きゅう[編集へんしゅう]

引用いんよう註:()ない現代げんだいかなづかい・しん字体じたいあらため、句読点くとうてんおぎなったもの
きゅう皇室こうしつ典範てんぱんだいよんじゅうよんじょう
皇族こうぞく女子じょし臣籍しんせきよめシタル者ハ皇族こうぞくれつざいラスただし特旨とくしリ仍內親王しんのう女王じょおうしょうゆうセシムルコトアルヘシ
皇族こうぞく女子じょし臣籍しんせきしたるものは、皇族こうぞくれつらず。ただし、特旨とくしり、なお内親王ないしんのう女王じょおうしょうゆうせしむることあるべし)

皇族こうぞく降嫁こうかした皇族こうぞく女子じょし[編集へんしゅう]

皇女おうじょ降嫁こうかはつれいとしてよくげられるのは、嵯峨天皇さがてんのう皇女おうじょみなもときよしひめ藤原ふじわらりょうぼう婚姻こんいんであるが、きよしひめ場合ばあい結婚けっこんまえすでみなもとせいたまわ臣籍しんせきくだっており[注釈ちゅうしゃく 3]内親王ないしんのう臣下しんか結婚けっこんしたはつれい醍醐天皇だいごてんのう皇女おうじょつとむ内親王ないしんのう藤原ふじわらである。ただしこのときちち天皇てんのう許可きょかていなかった[注釈ちゅうしゃく 4]られ、天皇てんのうにより内親王ないしんのう降嫁こうか裁可さいかされたのは、三条さんじょう天皇てんのう皇女おうじょ禔子内親王ないしんのうれい最初さいしょとされる。

古代こだい中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

近世きんせい[編集へんしゅう]

きん現代げんだい[編集へんしゅう]

名前なまえ 降嫁こうか 続柄つづきがら 日付ひづけ 事由じゆう
あきこ/安喜子あきこ女王じょおう(あきこ) いけだ/池田いけだ安喜子あきこ くに/久邇くにみや朝彦親王あさひこしんのうだい3王女おうじょ 1890ねん明治めいじ23ねん)12月24にち 池田いけだ侯爵こうしゃく継嗣けいし池田いけだかいせい婚姻こんいん[15]
あやこ/絢子あやこ女王じょおう(あやこ) たけのうち/竹内たけうち絢子あやこ くに/久邇くにみや朝彦親王あさひこしんのうだい5王女おうじょ 1892ねん明治めいじ25ねん)12月26にち 竹内たけうち子爵ししゃく当主とうしゅ竹内たけうちおもんみただし婚姻こんいん[16]
もとこ/素子そし女王じょおう(もとこ) せんごく/仙石せんごく素子もとこ くに/久邇くにみや朝彦親王あさひこしんのうだい6王女おうじょ 1893ねん明治めいじ26ねん)11月15にち 仙石せんごく子爵ししゃく継嗣けいし仙石せんごくまさしけい婚姻こんいん[17]
さかこ/栄子えいこ女王じょおう(さかこ) ひがしぞの/東園ひがしぞの栄子えいこ くに/久邇くにみや朝彦親王あさひこしんのうだい2王女おうじょ 1899ねん明治めいじ32ねん)9がつ26にち 東園ひがしぞの子爵ししゃく当主とうしゅ東園ひがしぞのもとあい婚姻こんいん[18]
さちこ/禎子さだこ女王じょおう(さちこ) やまうち/山内やまうち禎子さだこ ふしみ/伏見ふしみみやさだあい親王しんのうだい1王女おうじょ 1901ねん明治めいじ34ねん04がつ6にち 山内やまうち侯爵こうしゃく当主とうしゅ山内やまうちゆたかけい婚姻こんいん[19]
あつこ/純子じゅんこ女王じょおう(あつこ) おだ/織田おだ純子じゅんこ くに/久邇くにみや朝彦親王あさひこしんのうだい9王女おうじょ 1901ねん明治めいじ34ねん)11月27にち 織田おだ子爵ししゃく当主とうしゅ織田おだ秀実ひでみ婚姻こんいん[20]
さだこ/貞子さだこ女王じょおう(さだこ) ありま/有馬ありま貞子さだこ きたしらかわ/北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのうだい2王女おうじょ 1903ねん明治めいじ36ねん)2がつ6にち 有馬ありま伯爵はくしゃく継嗣けいし有馬ありま頼寧よりやす婚姻こんいん[21]
みつこ/滿子みつこ女王じょおう(みつこ) かんろじ/甘露かんろてら滿子みつこ きたしらかわ/北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのうだい1王女おうじょ 1904ねん明治めいじ37ねん)11月14にち 甘露かんろてら伯爵はくしゃく継嗣けいし甘露かんろてら受長婚姻こんいん[22]
すずこ/篶子女王じょおう(すずこ) みぶ/壬生みぶ篶子 くに/久邇くにみや朝彦親王あさひこしんのうだい8王女おうじょ 1906ねん明治めいじ39ねん)10がつ28にち 壬生みぶ伯爵はくしゃく当主とうしゅ壬生みぶ基義もとよし婚姻こんいん[23]
みえこ/實枝子みえこ女王じょおう(みえこ) とくがわ/徳川とくがわ實枝子みえこ ありすがわ/有栖川ありすがわみやたけしじん親王しんのうだい2王女おうじょ 1908ねん明治めいじ41ねん)11月8にち 徳川とくがわ公爵こうしゃく慶喜よしのぶ継嗣けいし徳川とくがわ慶久よしひさ婚姻こんいん[24]
たけこ/武子たけし女王じょおう(たけこ) ほしな/保科ほしな武子たけこ きたしらかわ/北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのうだい3王女おうじょ 1911ねん明治めいじ44ねん)4がつ17にち 保科ほしな子爵ししゃく当主とうしゅ保科ほしなただしあきら婚姻こんいん[25]
しげこ/茂子しげこ女王じょおう(しげこ) くろだ/黒田くろだ茂子しげこ かんいん/閑院みやじん親王しんのうだい2王女おうじょ 1914ねん大正たいしょう3ねん)1がつ21にち 黒田くろだ侯爵こうしゃく継嗣けいし黒田くろだちょうれい婚姻こんいん[26]
ゆきこ/由紀子ゆきこ女王じょおう(ゆきこ) まちじり/町尻まちじり由紀子ゆきこ かや/賀陽かようみやくにけんおうだい1王女おうじょ 1915ねん大正たいしょう4ねん)4がつ30にち 町尻まちじり子爵ししゃくやしなえ継嗣けいし町尻まちじりりょうもと婚姻こんいん[27]
ひろこ/擴子女王じょおう(ひろこ) ふたら/二荒ふたあら擴子 きたしらかわ/北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのうだい5王女おうじょ 1915ねん大正たいしょう4ねん)7がつ20日はつか 二荒ふたあら伯爵はくしゃく当主とうしゅあら芳徳よしのり婚姻こんいん[28]
ゆきこ/恭子きょうこ女王じょおう(ゆきこ) あんどう/安藤あんどう恭子きょうこ かんいん/閑院みやじん親王しんのうだい1王女おうじょ 1915ねん大正たいしょう4ねん)9がつ3にち 安藤あんどう子爵ししゃく当主とうしゅ安藤あんどう信昭のぶあき婚姻こんいん[29]
やすこ/恭子きょうこ女王じょおう(やすこ) あさの/浅野あさの恭子きょうこ 伏見ふしみみやひろしきょうおうだい1王女おうじょ 1918ねん大正たいしょう7ねん)5がつ29にち 浅野あさの侯爵こうしゃく継嗣けいし浅野あさのちょう長男ちょうなん浅野あさの長武ながたけ婚姻こんいん[30]
まさこ/方子のりこ女王じょおう(まさこ) い/方子のりこ なしもと/梨本なしもと宮守みやもりただしおうだい1王女おうじょ 1920ねん大正たいしょう9ねん04がつ28にち おう世子せいし婚姻こんいん[31]
ただし、大正天皇たいしょうてんのう沙汰さたによって、女王じょおう保持ほじした[14]
やすこ/安子やすこ女王じょおう(やすこ) あさの/浅野あさの安子やすこ やましな/山階やましなみやきく麿まろおうだい1王女おうじょ 1920ねん大正たいしょう9ねん)11月9にち 浅野あさの侯爵こうしゃく継嗣けいし浅野あさのちょう長男ちょうなん浅野あさの長武ながたけ婚姻こんいん[32]
さとこ/智子さとこ女王じょおう(さとこ) おおたに/大谷おおや智子さとこ くに/久邇くにみや邦彦くにひこおうだい3王女おうじょ 1924ねん大正たいしょう13ねん05月3にち 大谷おおや伯爵はくしゃく継嗣けいし大谷おおやひかりとおる婚姻こんいん[33]
のぶこ/信子のぶこ女王じょおう(のぶこ) さんじょうにし/三条西さんじょうにし信子のぶこ くに/久邇くにみや邦彦くにひこおうだい2王女おうじょ 1924ねん大正たいしょう13ねん)12月9にち 三条西さんじょうにし伯爵はくしゃく継嗣けいし三条西さんじょうにし公正きみまさ婚姻こんいん[34]
あつこ/敦子あつこ女王じょおう(あつこ) きよす/きよし棲敦 ふしみ/伏見ふしみみやひろしきょうおうだい2王女おうじょ 1926ねん大正たいしょう15ねん)10がつ27にち きよし伯爵はくしゃく当主とうしゅきよし棲幸婚姻こんいん[35]
のりこ/規子のりこ女王じょおう(のりこ) ひろはし/広橋ひろはし規子のりこ なしもと/梨本なしもと宮守みやもりただしおうだい2王女おうじょ 1926ねん大正たいしょう15ねん)12月02にち 広橋ひろはし伯爵はくしゃく当主とうしゅ広橋ひろはし真光しんこう婚姻こんいん[36]
はなこ/華子はなこ女王じょおう(はなこ) かちょう/はないただき華子はなこ かんいん/閑院みやじん親王しんのうだい5王女おうじょ 1926ねん大正たいしょう15ねん)12月13にち はないただき侯爵こうしゃく当主とうしゅはないただき博信ひろのぶ婚姻こんいん[37]
きくこ/紀久子きくこ女王じょおう(きくこ) なべしま/鍋島なべしま紀久子きくこ あさか/朝香あさかみやばと彦王だい1王女おうじょ 1931ねん昭和しょうわ6ねん)5がつ12にち 鍋島なべしま侯爵こうしゃく継嗣けいし鍋島なべしまただしやすし婚姻こんいん[38]
みねこ/美年子みねこ女王じょおう(みねこ) たちばな/立花たちばな美年子みねこ きたしらかわ/北白川きたしらかわ宮成みやなりひさおうだい1王女おうじょ 1933ねん昭和しょうわ8ねん)1がつ17にち 立花たちばな子爵ししゃく継嗣けいし立花たちばなたねかち婚姻こんいん[39]
あやこ/禮子あやこ女王じょおう(あやこ) さの/佐野さの禮子あやこ たけだ/竹田たけだみや恒久こうきゅうおうだい1王女おうじょ 1934ねん昭和しょうわ9ねん)3がつ26にち しん華族かぞく佐野さの伯爵はくしゃく継嗣けいし佐野さの常光じょうこう婚姻こんいん[40]
さわこ/佐和子さわこ女王じょおう(さわこ) ひがしその/東園ひがしぞの佐和子さわこ きたしらかわ/北白川きたしらかわ宮成みやなりひさおうだい2王女おうじょ 1935ねん昭和しょうわ10ねん)1がつ7にち 東園ひがしぞの子爵ししゃく当主とうしゅ東園ひがしぞのもとぶん婚姻こんいん[41]
くにこ/恭仁子くにこ女王じょおう(くにこ) にじょう/二条にじょう恭仁子くにこ たかおう/多嘉たかおうだい3王女おうじょ 1939ねん昭和しょうわ14ねん)4がつ2にち じょう公爵こうしゃく当主とうしゅじょう弼基婚姻こんいん[42]
たえこ/多惠子たえこ女王じょおう(たえこ) とくがわ/徳川とくがわ多恵子たえこ きたしらかわ/北白川きたしらかわ宮成みやなりひさおうだい3王女おうじょ 1941ねん昭和しょうわ16ねん04がつ14にち 徳川とくがわ公爵こうしゃく水戸みと当主とうしゅ徳川とくがわ圀順二男じなん徳川とくがわ圀禎と婚姻こんいん[43]
きよこ/たたえ子女しじょおう(きよこ) おぎゅう/だいきゅうたたえ あさか/朝香あさかみやばと彦王だい2王女おうじょ 1941ねん昭和しょうわ16ねん)11月7にち 大給おぎゅう伯爵はくしゃく当主とうしゅ大給おぎゅうりゅう婚姻こんいん[44]
みちこ/美智子みちこ女王じょおう(みちこ) とくだいじ/徳大寺とくだいじ美智子みちこ かや/賀陽かようみやつねけんおうだい1王女おうじょ 1943ねん昭和しょうわ18ねん)12月29にち 徳大寺とくだいじ公爵こうしゃく当主とうしゅ徳大寺とくだいじみのるあつし二男じなん徳大寺とくだいじ斉定なりさだ婚姻こんいん[45]
まさこ/正子まさこ女王じょおう(まさこ) たつた/龍田たつた正子まさこ くに/久邇くにみやちょうとおるおうだい1王女おうじょ 1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ22にち 龍田たつた伯爵はくしゃく当主とうしゅ龍田たつた徳彦とくひこ婚姻こんいん[46]
たかのみや かずこ/こうみや和子かずこ内親王ないしんのう
(たかのみや かずこ)
たかつかさ/鷹司たかつかさ和子かずこ /124th_昭和しょうわ天皇てんのうだい3皇女おうじょ 1950ねん昭和しょうわ25ねん)5がつ20日はつか 鷹司たかつかさきゅう公爵こうしゃく継嗣けいし鷹司たかつかさ平通ひらどおり婚姻こんいん[47]
よりのみや あつこ/じゅんみや厚子あつこ内親王ないしんのう
(よりのみや あつこ)
いけだ/池田いけだ厚子あつこ /124th_昭和しょうわ天皇てんのうだい4皇女おうじょ 1952ねん昭和しょうわ27ねん)10がつ10日とおか 池田いけだきゅう侯爵こうしゃく継嗣けいし池田いけだたかしせい婚姻こんいん
すがのみや たかこ/清宮きよみや貴子たかこ内親王ないしんのう
(すがのみや たかこ)
しまづ/島津しまつ貴子たかこ /124th_昭和しょうわ天皇てんのうだい5皇女おうじょ 1960ねん昭和しょうわ35ねん)3がつ10日とおか 島津しまつきゅう伯爵はくしゃく島津しまつ久範ひさのり次男じなん島津しまつ久永ひさなが婚姻こんいん
やすこ/甯子内親王ないしんのう (やすこ) このえ/近衛このえ甯子 みかさ/三笠みかさみやたかしじん親王しんのうだい1王女おうじょ 1966ねん昭和しょうわ41ねん)12月18にち 近衛このえきゅう公爵こうしゃく当主とうしゅ近衛このえまもる婚姻こんいん
まさこ/容子ようす内親王ないしんのう (まさこ) せん/せん容子ようこ みかさ/三笠宮崇仁親王第2王女おうじょ 1983ねん昭和しょうわ58ねん)10がつ14にち 裏千家うらせんけわか宗匠そうしょうせん宗之むねゆき婚姻こんいん
のりのみや さやこ/紀宮のりのみや清子きよこ内親王ないしんのう
(のりのみや さやこ)
くろだ/黒田くろだ清子きよこ /125th_上皇じょうこう明仁あきひとだい1皇女おうじょ 2005ねん平成へいせい17ねん)11月15にち 黒田くろだけいじゅ婚姻こんいん
のりこ/典子のりこ女王じょおう (のりこ) せんげ/千家せんげ典子のりこ たかまど/高円宮たかまどのみや憲仁のりひと親王しんのうだい2王女おうじょ 2014ねん平成へいせい26ねん)10がつ5にち 千家せんげきゅう男爵だんしゃく継嗣けいし千家せんげこく麿まろ婚姻こんいん[48]
あやこ/絢子あやこ女王じょおう (あやこ) もりや/守谷もりや絢子あやこ たかまど/高円宮たかまどのみや憲仁のりひと親王しんのうだい3王女おうじょ 2018ねん平成へいせい30ねん)10がつ29にち 守谷もりやとし婚姻こんいん
まこ/眞子しんじ内親王ないしんのう (まこ) こむろ/小室こむろ眞子しんじ あきしの/秋篠宮あきしののみやぶんじん親王しんのうだい1王女おうじょ 2021ねんれい3ねん)10がつ26にち 小室こむろけい婚姻こんいん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ だい122だい明治天皇めいじてんのう皇女おうじょのうち成人せいじんした4めい全員ぜんいん皇族こうぞく男子だんし婚姻こんいんだい123だい大正天皇たいしょうてんのうには皇女おうじょなし。だい124だい昭和しょうわ天皇てんのうだい1皇女おうじょあきらみや成子しげこ内親王ないしんのう皇族こうぞく男子だんし婚姻こんいんだい3皇女おうじょ以下いかは、げん皇室こうしつ典範てんぱん婚姻こんいん
  2. ^ ただし、江戸えどからつづ裏千家うらせんけ家元いえもとである。
  3. ^ もっとも、つとむ内親王ないしんのう藤原ふじわら輔の婚姻こんいん以前いぜん臣籍しんせき降下こうかした皇女おうじょ臣下しんかへの降嫁こうかした事例じれいみなもときよしひめ藤原ふじわらりょうぼうおよみなもと順子じゅんこ藤原ふじわら忠平ちゅうへいれいしか存在そんざいしておらず、ともに当時とうじとしては破格はかく待遇たいぐうであった。
  4. ^ つとむ内親王ないしんのう藤原ふじわら輔の婚姻こんいん成立せいりつ時期じき不明ふめいであるが、延長えんちょう8ねん930ねん)に醍醐天皇だいごてんのうぼっしており、それ以後いごであった可能かのうせいがある。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 藤野ふじの 月子げっしちぎりにおける中原なかはら王朝おうちょうとの婚姻こんいんもとづいた外交がいこう政策せいさくたいする認識にんしきについて」『ふみふちだい151かん九州大学きゅうしゅうだいがく、2014ねん、1-26ぺーじhdl:2324/1468019NAID 120005475480 
  2. ^ 菅沼すがぬまあいずいだいかずしげる公主こうしゅ北方ほっぽう西方せいほうたいするずい外交がいこう戦略せんりゃく」『たていのちかん東洋とうよう史學しがくだい38かんたていのちかん東洋とうよう學會がっかい、2015ねん8がつ、41-76ぺーじdoi:10.34382/00006215hdl:10367/12239ISSN 1345-1073NAID 120006711211 
  3. ^ a b c 藤野ふじの月子げっしとうだいかずしげる公主こうしゅこう : 降嫁こうか付随ふずいして移動いどうしたヒトとモノ」『九州大学きゅうしゅうだいがく東洋とうよう論集ろんしゅうだい41かん九州大学きゅうしゅうだいがく文学部ぶんがくぶ東洋とうよう研究けんきゅうかい、2013ねん3がつ、78-101ぺーじdoi:10.15017/27523hdl:2324/27523ISSN 0286-5939NAID 120005341727 
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  8. ^ 栗原くりはら 2002 p.13-14
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  11. ^ 栗原くりはら 2002 p.18-19
  12. ^ a b 栗原くりはら 2002 p.19
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  16. ^ 官報かんぽうだい2851ごう明治めいじ25ねん12月27にち
  17. ^ 官報かんぽうだい3116ごう明治めいじ26ねん11月16にち
  18. ^ 官報かんぽうだい4873ごう明治めいじ32ねん9がつ27にち
  19. ^ 官報かんぽう号外ごうがい明治めいじ34ねん4がつ6にち
  20. ^ 官報かんぽう号外ごうがい明治めいじ34ねん11月27にち
  21. ^ 官報かんぽう号外ごうがい明治めいじ36ねん2がつ6にち
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  23. ^ 官報かんぽう号外ごうがい明治めいじ39ねん10がつ28にち
  24. ^ 官報かんぽう号外ごうがい明治めいじ41ねん11月8にち
  25. ^ 官報かんぽう号外ごうがい明治めいじ44ねん4がつ17にち
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  27. ^ 官報かんぽうだい822ごう大正たいしょう4ねん5がつ1にち
  28. ^ 官報かんぽうだい891ごう大正たいしょう4ねん7がつ21にち
  29. ^ 官報かんぽうだい928ごう大正たいしょう4ねん9がつ4にち
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  31. ^ 大正たいしょう9ねんみや内省ないせい告示こくじだい11ごう(『官報かんぽうだい2320ごう大正たいしょう9ねん4がつ29にち)(NDLJP:2954433/2
  32. ^ 官報かんぽうだい2483ごう大正たいしょう9ねん11がつ10日とおか
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  34. ^ 官報かんぽうだい3691ごう大正たいしょう13ねん12がつ10日とおか
  35. ^ 官報かんぽうだい4254ごう大正たいしょう15ねん10がつ28にち
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  37. ^ 官報かんぽうだい4293ごう大正たいしょう15ねん12月14にち
  38. ^ 官報かんぽうだい1308ごう昭和しょうわ6ねん5がつ13にち
  39. ^ 官報かんぽうだい1813ごう昭和しょうわ8ねん1がつ18にち
  40. ^ 官報かんぽうだい2168ごう昭和しょうわ9ねん3がつ27にち
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  46. ^ 官報かんぽうだい5480ごう昭和しょうわ20ねん4がつ24にち
  47. ^ 官報かんぽうだい7004ごう昭和しょうわ25ねん5がつ20日はつか和子かずこ内親王ないしんのう殿下でんか皇族こうぞく身分みぶんはなれられるけん昭和しょうわ25ねん宮内庁くないちょう告示こくじだい4ごう)」
  48. ^ 官報かんぽう特別とくべつ号外ごうがい だい19ごう平成へいせい26ねん10がつ5にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 栗原くりはらひろし藤原ふじわらりょうぼうみなもときよしひめ結婚けっこん意義いぎ」(『平安へいあん前期ぜんき家族かぞく親族しんぞく』(校倉あぜくら書房しょぼう、2008ねんISBN 978-4-7517-3940-2 だいだいさんしょう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]