| この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "鍋島氏" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年7月) |
鍋島氏(なべしまし)は、武家・華族だった日本の氏族。戦国時代に龍造寺氏の重臣家として台頭し、近世に肥前国佐賀藩藩主家となり、維新後に華族の侯爵家に列する。
出自については諸説あり、不明。藤原秀郷流少弐氏の子孫とも伝えられる[2]。肥前国佐賀郡本庄村の土豪に出自する[3]。
主たる通字は「直」(なお)。その他、初期の当主が「経」(つね)、「清」(きよ)、「房」(ふさ)などを、鍋島直茂以降の佐賀藩主継承者が「茂」(しげ、鍋島重茂は例外的に「もち」)を用いている。
経秀の子経直は、肥前守護少弐教頼を支援し、娘の一人をその側室に配し、生まれた男子経房に鍋島氏を相続させた。その後、龍造寺氏に従って活躍する。とくに享禄3年(1530年)の田手畷の戦いでは、鍋島清久が龍造寺軍の危機を救う大活躍を示すと、その功績により清久の子の鍋島清房が、龍造寺氏の娘を娶り、血縁関係を結んだ。清房の次男直茂は、龍造寺隆信の副将として、龍造寺氏の発展・興隆に尽力する。
隆信の死後、龍造寺政家は、豊臣秀吉から肥前国7郡30万9902石を安堵されたが、朱印状は龍造寺高房宛となっている。鍋島直茂はうち3万石余(直茂・勝茂の合計高4万4500石)を与えられ[4] 、龍造寺氏領の支配を委任され実権を握った。
関ヶ原では西軍に与したが、同じ西軍の立花宗茂を攻略することで所領を安堵された。慶長12年(1607年)、政家の嫡男・高房 と政家が短期間で急死。徳川家康により鍋島氏が正式に佐賀藩(高直しで35万7千石)の藩主と認められ、龍造寺氏の大名としての地位を簒奪()する形になった。政家の遺領は信清が継ぎ、佐賀藩では龍造寺本家として扱われた。
鍋島氏は35万7千石の国持大名でありながらその実情は、3支藩(蓮池、小城、鹿島)・鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)と龍造寺4分家(多久、武雄、諫早、須古)の各自治領があったため、藩主の実質知行高は6万石程度であった[5]。
特に3支藩はしばしば独立色を出したがり、勝手に幕閣に城主格への昇進を運動したりした(これは例えば、蓮池藩鍋島家は5万2000石、小城鍋島家は7万3000石でありながら無城大名のため、はるかに石高の低い田原藩(城主)1万石の三宅氏よりも江戸城での席次が下だった為である)。
さらに、常広陣屋(のち鹿島陣屋)と下総の飛び地で2万5千石を持つ鹿島藩鍋島家は、従六位下[6]という旗本並みの官位に止め置かれ、昇進を妨害する佐賀藩本家と対立した。本家の理不尽さを幕府に訴えていた正茂は肥前の領地を捨てて、本当に下総矢作5000石のみの旗本となった(鹿島藩2万石には本家から直朝が入る)。
長崎警備を担い、重い財政負担に悩むが、幕末に至って10代藩主鍋島直正が抜本的な藩政改革を断行し、西洋技術の積極的な移入を果たした。これにより雄藩の一角を占め、早くから反幕勢力の中心となり、薩長土と並んで討幕軍に加わった[7]。
東京永田町にあった鍋島侯爵邸の西洋館
維新後11代鍋島直大が佐賀藩知事となり、廃藩置県後には家禄2万1373石が支給され、賞典禄のうち5000石分と合わせて1876年(明治9年)金禄公債の額は60万3598円に及び、この金額は第9位だった。1884年(明治17年)7月7日に華族令により華族が五爵制になると鍋島直大は侯爵に叙された。また支藩藩主だった鍋島家3家の当主(鍋島直柔、鍋島直虎、鍋島直彬)は子爵に列し、さらに一門や分家の当主3人(鍋島茂昌、鍋島直明、鍋島貞次郎)が男爵に叙されている。
初代侯爵の鍋島直大は駐イタリア全権公使、元老院議官、式部長官、貴族院議員、宮中顧問官などを歴任して長く明治天皇に側近として仕え、従一位勲一等に叙せられた。
鍋島侯爵家は東京永田町に後に首相官邸となる場所に2万坪の土地を所有し、そこに西洋館と日本館を建設した。特に西洋館の方は佐賀出身の建築家の坂本復経や辰野金吾らにより建設され「専門家の設計による国内最古の洋風大邸宅」と名高い[12]。1892年(明治25)年の落成記念の際には明治天皇夫妻の行幸を賜り、伊藤博文や徳川家達などの訪問もあった[12]。しかし1923年(大正12年)に関東大震災で西洋館が倒壊し、被害が少なかった和館の方も三井八郎右衛門に売却された(1927年(昭和2年)に拝島へ移築され三井家の別荘になっている)[12]。
大磯と日光にも別荘を所有し、春夏はそこで過ごしていた。
直大の死後は鍋島直映が爵位を継承。貴族院侯爵議員として火曜会に所属した。また東京府多額納税者であった。
鍋島侯爵家は資産運用をうまくやり、大正末から昭和初期、実業家たちの発展に押されて旧大名華族は相対的に没落し、金満家大番付から旧大名華族の名前が徐々に消えていく時世の中でも前田侯爵家や山内侯爵家と並んで番付に名前を残し続けた家だった。
鍋島直大の孫で鹿島鍋島家出身の鍋島直紹は戦後に佐賀県知事・参議院議員となっている。
- 太字は当主、実線は実子、点線は養子。
鍋島氏系図(宗家)
- ^ 石井信忠の嫡男。
- ^ a b 旧鹿島藩主家・直縄の子、貞次郎の甥。
鍋島氏系図(鹿島藩主家)
- ^ 宗家・光茂の九男。
- ^ 信濃松本藩主・水野忠直の七男。
- ^ 信濃松本藩主・水野忠直の十男。
- ^ 宗家・宗茂の十男、佐賀藩主へ転出。
- ^ 小城藩主・直員の三男。
- ^ 小城藩主・直員の四男。
- ^ 宗家・治茂(直煕)の六男。
- ^ 宗家・斉直の五男。
- ^ 宗家・斉直の十三男。
- ^ 宗家・斉直の二十八男。
- ^ 宗家・直大の子。
鍋島氏系図(小城藩主家)
- ^ 多久家相続後藩主へ転出。
- ^ 宗家・直正の七男。
鍋島氏系図(蓮池藩主家)
- ^ 宗家・治茂の四男。後に廃嫡される。
- ^ 宗家・治茂の八男、川久保鍋島家相続後転出。
- ^ 宗家・直正の八男。
鍋島氏系図
- ^ 宗家・勝茂の十一男。
- ^ 宗家・光茂の次男、佐賀藩主へ転出。
- ^ 宗家・光茂の十五男、佐賀藩主へ転出。
- ^ 宗家・光茂の十八男。
- ^ 宗家・治茂の八男、蓮池藩主へ転出。
- ^ 宗家・斉直の三男。
- ^ 諫早茂洪の子。
鍋島氏系図
鍋島清久 | |
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清泰 | | | | 清房 |
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[姉川鍋島家] 清虎 | | | | [神代鍋島家] 信房 | | | |
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道虎 | [倉町鍋島家] 時重 | 茂昌 | |
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茂泰 | 貞村 | 茂貞 | |
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清良 | 直広 | 嵩就 | |
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清長 | 茂村 | 茂樹 | |
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清信[※ 1] | 茂敬 | 茂快 | |
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茂之[※ 2] | 敬意 | 茂英 | |
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茂親 | 敬近[※ 3] | 茂興 | |
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茂徂 | 恒広 | 茂真 | |
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茂郷 | 敬武 | 茂体 | |
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清央[※ 4] | 敬充 | 茂堯 | |
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清馨 | 敬文 | 茂蘇 | 茂坤 |
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| | | 敬哉 | 茂坤 | |
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| | | 文武[※ 5] | 茂元[※ 6] | |
- ^ 多久茂矩の子。
- ^ 宗家・光茂の十六男。
- ^ 川久保鍋島家・鍋島直贇の子。
- ^ 武雄鍋島家・鍋島茂順の子。
- ^ 藩主・斉直の二十九男。
- ^ 藩主・斉直の二十六男。
- 系譜参考