(Translated by https://www.hiragana.jp/)
鹿島藩 - Wikipedia コンテンツにスキップ

鹿島かしまはん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

鹿島かしまはん(かしまはん)は、佐賀さがはんささえはん藩主はんしゅ鹿島かしま鍋島なべしま鹿島かしま佐賀さがけん鹿島かしま周辺しゅうへん領有りょうゆうした。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

佐賀さがはん初代しょだい藩主はんしゅ鍋島なべしま勝茂かつしげおとうとちゅうしげる慶長けいちょう16ねん1610ねん)、佐賀さがはんより2まんせき分与ぶんよされ、ただししげる元々もともとりょうしていた下総しもうさこく香取かとりぐんうちの5000せきくわえ、2まん5000せきだてはんし、常広つねひろじょう拠点きょてんとした。寛永かんえい19ねん1642ねん)、だい2だい藩主はんしゅせいしげるとき佐賀さが藩主はんしゅ勝茂かつしげ自身じしんきゅうなんちょくあさ[ちゅう 1]嗣子ししのないせいしげる養子ようしえようとしたがこばまれたため、鹿島かしま領地りょうち2まんせき返還へんかんさせた。以後いごせいしげる下総しもうさ香取かとり5000せき旗本はたもとかえした。同年どうねん結局けっきょく勝茂かつしげちょくあさにその領地りょうち2まんせき佐賀さがはん内高うちだかとなる)をあたえた。9だい藩主はんしゅちょく文化ぶんか4ねん1821ねん)に鹿島かしまじょうきずき、居城きょじょうとしている。

明治めいじ4ねん(1871ねん)、廃藩置県はいはんちけんにより鹿島かしまけんとなる。その伊万里いまりけん佐賀さがけん三潴みずまけん長崎ながさきけん佐賀さがけん編入へんにゅうされた。

藩主はんしゅ鍋島なべしま明治めいじ2ねん(1869ねん)に華族かぞくれっし、明治めいじ17ねん(1884ねん)の華族かぞくれい子爵ししゃくじょせられた。

陣屋じんやは、赤門あかもん正門せいもん)と大手おおてもん土塀どべい現存げんそんする。また常広つねひろじょう城門じょうもん個人こじんたく移築いちくされている。

歴代れきだい鹿島かしま藩主はんしゅ

[編集へんしゅう]
  1. ちゅうしげる
  2. せいしげる
  3. ちょくあさ
  4. ちょくじょう
  5. ちょくけん
  6. ちょくさと
  7. ちょく
  8. じきよろし
  9. ちょく
  10. ちょくひさし
  11. ちょくはれ
  12. ちょくけん
  13. ちょくあきら

鹿島かしまはん家老がろう

[編集へんしゅう]

田中たなか納富のうとみ愛野あいのはら

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ ちょくあさについては「きゅうなん」とする文献ぶんけん資料しりょう[1]と「五男いつお」とする文献ぶんけん資料しりょう[2][3]がある。しるし古館ふるたて資料しりょうでは鍋島なべしま勝茂かつしげの「成人せいじんした子女しじょのみ」をかぞえると「なななんろくじょ」となりちょくあさなん記載きさいしている[3]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 黒田くろだ安雄やすお佐賀さがはん家臣かしんだん構造こうぞうさん」『ふみふちだい116かん九州大学きゅうしゅうだいがく文学部ぶんがくぶ、1979ねん3がつ31にち、59-83ぺーじdoi:10.15017/2232304 
  2. ^ 佐賀さが:だいかん近世きんせいへん佐賀さが、1977ねん7がつ29にち、15ぺーじhttps://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34624_20130321052852.pdf 
  3. ^ a b 初代しょだい佐賀さが藩主はんしゅ 鍋島なべしま勝茂かつしげおおやけの13にん子供こどもたちと、2だい藩主はんしゅになったまご”. しるし古館ふるたて. 2024ねん8がつ25にち閲覧えつらん

関連かんれんリンク

[編集へんしゅう]
先代せんだい
佐賀さがはん一部いちぶ
行政ぎょうせい変遷へんせん
1642ねん以降いこう - 1871ねん 鹿島かしまはん鹿島かしまけん
次代じだい
伊万里いまりけん