田原本たわらもとはん

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田原本たわらもとはん(たわらもとはん)は、大和やまとこく十市とおいちぐん田原本たわらもと現在げんざい奈良ならけん磯城しきぐん田原本たわらもとまち田原本たわらもと)の田原本たわらもと陣屋じんやはんちょういたはん。ただし、正式せいしきはん大名だいみょう所領しょりょう)であったのは明治維新めいじいしんのごく短期間たんきかんであり、江戸えど時代じだいつうじては交代こうたい寄合よりあい参勤交代さんきんこうたいおこな格式かくしき旗本はたもと平野へいや知行ちぎょうであった。平野ひらの鎌倉かまくら幕府ばくふ執権しっけん北条ほうじょうの庶流の子孫しそんという。

概要がいよう[編集へんしゅう]

田原本たわらもとはん藩主はんしゅ平野ひらのである。ただし、はんとしての成立せいりつ慶応けいおう4ねん1868ねん)7がつ14にちしん政府せいふはからいによって1まんせき大名だいみょうとなってからであり、いわば「維新いしんりつはん」によるものであった。平野ひらのであるちょうやすし豊臣とよとみ秀吉ひでよしつかえ、天正てんしょう11ねん1583ねん)の賤ヶだけたたか戦功せんこうげて「賤ヶだけななほんやり」の一人ひとりとなり、大和やまと国内こくないに5000せき知行ちぎょうあたえられた。そのちょうやすし表立おもてだった活躍かつやくはあまりられないが、領内りょうないにおいては支配しはい体制たいせいかため、善政ぜんせいき、とく領内りょうないにおける寺内てらうちまちは「大和やまと大坂おおさか」とばれ、おおいなるにぎわいをせたという。

ちょうやすし死後しごあといだちょうまさるは、陣屋じんや構築こうちくなどに尽力じんりょくしている。しかししょう領主りょうしゅのため次第しだい財政ざいせい悪化あっかして、江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう領民りょうみん用金ようきんすこともすくなくなかった。平野ひらのは9だいにわたったが、実際じっさい正式せいしき藩主はんしゅだった期間きかん石高こくだかが1まんせきとなって大名だいみょうになっていたちょうひろしのわずか3年間ねんかんだけであった。

歴代れきだい領主りょうしゅ[編集へんしゅう]

平野へいや

交代こうたい寄合よりあいひょう御礼おれいしゅ 5000せき→1まんせき

  1. 平野ひらのちょうやすし(ながやす)
  2. 平野へいやちょうかち(ながかつ)
  3. 平野ひらの長政ながまさ(ながまさ)
  4. 平野ひらの長英ちょうえい(ながふさ)
  5. 平野へいやちょうあかつき(ながあき)
  6. 平野ひらの長里ながさと(ながさと)
  7. 平野ひらのちょうじゅん(ながずみ)
  8. 平野へいやちょうきょう(ながおき)
  9. 平野へいやちょうはつ(ながゆき)
  10. 藩主はんしゅ 平野ひらのちょうひろし(ながひろ)

幕末ばくまつ領地りょうち[編集へんしゅう]

先代せんだい
大和やまとこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1868ねん - 1871ねん 田原本たわらもとはん田原本たわらもとけん
次代じだい
奈良ならけんだい1