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大多喜おおたきはん

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大多喜おおたきはん(おおたきはん)は、上総かずさこく現在げんざい千葉ちばけん夷隅いすみぐん存在そんざいしたはんはんちょう大多喜おおたきしろ跡地あとち大多喜おおたきまち大多喜おおたきよんはちいち)にいた。

歴史れきし

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大多喜藩の位置(千葉県内)
千葉
千葉ちば
木更津
木更津きさらづ
館山
館山たてやま
久留里
久留里くるり
大多喜
大多喜おおたき
万喜
まん
関連かんれん地図ちず千葉ちばけん[注釈ちゅうしゃく 1]

天正てんしょう18ねん1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつ関東かんとう入部にゅうぶした徳川とくがわ家康いえやすは、徳川とくがわ四天王してんのう一人ひとり本多ほんだ忠勝ただかつ上総かずさこくに10まんせきあたえた。忠勝ただかつ当初とうしょまんじょう入城にゅうじょうしたが、おそくとも天正てんしょう19ねん(1591ねん)までに居城きょじょう大多喜おおたきじょううつした[1]。これが大多喜おおたきはん起源きげんである。忠勝ただかつ武田たけだ信玄しんげん織田おだ信長のぶながにもその武勇ぶゆうみとめられ、「家康いえやすぎたるもの」とまでわれた武将ぶしょうである。忠勝ただかつ慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかでは家康いえやす本隊ほんたいぞくして本戦ほんせん出陣しゅつじんし、武功ぶこうげたため、戦後せんご伊勢いせこく桑名くわなはんうつされた。忠勝ただかつ本家ほんけ長男ちょうなん忠政ただまさ予定よていだったため、大多喜おおたきには5まんせき次男じなんちゅうあさのこった。ちゅうあさ領内りょうない検地けんち実施じっしして藩政はんせいかために専念せんねんしたが、大坂おおさかなつじん戦死せんしした。家督かとくおい政朝まさともまましいだが、元和がんわ3ねん1617ねん)9がつ播磨はりまこく龍野たつのはんうつされ、わって武蔵むさしこく鳩ヶ谷はとがやはんから阿部あべ正次まさつぐが3まんせきはいった。元和がんわ5ねん1619ねん)9がつ正次まさつぐ相模さがみこく小田原おだわらはんうつされたため、大多喜おおたきはん一時いちじてきはいはんとなった。

元和がんわ9ねん1623ねん)10がつ青山あおやま忠俊ただとし徳川とくがわ家光いえみつ勘気かんきこうむって老中ろうじゅう罷免ひめんされ、武蔵むさしこく岩槻いわつきはんからげんうつりふうとなって2まんせき大多喜おおたきはいる。寛永かんえい2ねん1625ねん)、忠俊ただとし改易かいえきされ下総しもうさこく網戸あみど蟄居ちっきょとなったため、大多喜おおたきはんはいはんとなった。

一方いっぽう阿部あべ正次まさつぐ小田原おだわら武蔵むさしこく岩槻いわつきはんてんふうするあいだ上総かずさ夷隅いすみぐん所領しょりょう保持ほじしていたが、寛永かんえい15ねん1638ねん)4がつまご阿部あべただしれい正能しょうのうが1まんせき分与ぶんよされ、大多喜おおたきはんさいだてはんした。正次まさつぐ死後しご岩槻いわつきはその重次しげつぐいでいたが、重次しげつぐ慶安けいあん4ねん1651ねん)に将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつさいして殉死じゅんしした。重次しげつぐ死後しご正能しょうのうは6せんせき分与ぶんよされて1まん6せんせきりょうする大名だいみょうとなる。翌年よくねん正能しょうのう武蔵むさしこくにんはんあるじ阿部あべ忠秋ただあき養子ようしとなったため、6せんせき阿部あべじょうだか返還へんかんしている。そして正能しょうのう寛文ひろふみ11ねん1671ねん)5がつ25にち武蔵むさしにんはんぐこととなり、わって大多喜おおたきには同年どうねん12がつ岩槻いわつき藩主はんしゅであった阿部あべただしはるが1まん6せんせきはいった。せいはる元禄げんろく15ねん1702ねん)9がつ7にち三河みかわこく刈谷かりやはんうつされる。なお、阿部あべ時代じだい大多喜おおたきはん岩槻いわつきはんささえはんてき存在そんざいであったが、せいはるわって岩槻いわつき藩主はんしゅいだ阿部あべ正邦まさくに天和てんわ元年がんねん1681ねん)に丹後たんごこく宮津みやづはんうつりふうされたことで分離ぶんりしている。

わりで、徳川とくがわ綱吉つなよし政権せいけん若年寄わかどしよりつとめていた稲垣いながき重富しげとみが2まん5せんせきはいる。ところがわずか21日間にちかんで、しろせますぎるという理由りゆうから下野げやこく烏山からすやまはんうつった。わって相模さがみこく玉縄たまなわはんから大河内おおこうち長沢ながさわ松平まつへい松平まつだいら正久まさひさが2まんせきはいったことにより、ようやく藩主はんしゅ安定あんていした。最後さいご藩主はんしゅ松平まつだいらただししつは、幕末ばくまつ老中ろうじゅうかく若年寄わかどしより奏者そうしゃばんなどを歴任れきにんした。明治めいじ元年がんねん1868ねん)の戊辰戦争ぼしんせんそう緒戦しょせんである鳥羽とば伏見ふしみたたかでも幕府ばくふぐん指揮しきまかされたが、大敗たいはいきっして江戸えどのがれた。そのせいしつ戦犯せんぱんとしてしん政府せいふから官位かんい所領しょりょう没収ぼっしゅう宣告せんこくされ、佐倉さくらはん幽閉ゆうへいされた。大多喜おおたきじょう領地りょうち当初とうしょ佐倉さくらはんのち三河みかわ吉田よしだはん管理かんりかれていたが、請西じょうざいはんきゅう幕府ばくふ部隊ぶたい撤兵てっぺいたいゆうげきたい)などのさそいにおうじなかったことが評価ひょうかされて、同年どうねん8がつ宥免ゆうめんされてせいしつ所領しょりょう官位かんいともきゅうふくした。翌年よくねん版籍はんせき奉還ほうかんせいしつはんごととなり、明治めいじ4ねん1871ねん)の廃藩置県はいはんちけん大多喜おおたきはんはいはんとなって大多喜おおたきけんとなった。その木更津きさらづけん千葉ちばけん編入へんにゅうされた。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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本多ほんだ

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譜代ふだい 10まんせき→5まんせき

  1. 本多ほんだ忠勝ただかつ
  2. 本多ほんだただしあさ
  3. 本多ほんだ政朝まさとも

阿部あべ

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譜代ふだい 3まんせき

  1. 阿部あべ正次まさつぐ

青山あおやま

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譜代ふだい 2まんせき

  1. 青山あおやま忠俊ただとし
青山あおやま藩主はんしゅ時代じだい阿部あべ正次まさつぐ夷隅いすみぐん旧領きゅうりょう保持ほじし、後代こうだい阿部あべただしのう阿部あべただしはる阿部あべりょうから別個べっこぶんけており、青山あおやま時代じだい前後ぜんご阿部あべ家時いえときだいとではんりょうかさならない。

阿部あべ

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譜代ふだい 1まんせき→1まん6せんせき→1まんせき

  1. 阿部あべ正能しょうのう

譜代ふだい 1まん6せんせき

  1. 阿部あべただしはる
正能しょうのうせいはるとも正次まさつぐまごであるが、正能しょうのう大多喜おおたき藩主はんしゅ在任ざいにん継続けいぞくしながら正次まさつぐおい阿部あべ忠秋ただあき養子ようしとなり、忠秋ただあき隠居いんきょあといでにんはんてんふうした。せいはるはそのわりで岩槻いわつきはんからうたてふうじしてきている。また、正能しょうのう大多喜おおたきはん時代じだいの1まんせき保持ほじしたままうたてふうじしており(のちに正能しょうのう次男じなん三男さんなんよんなんがこの1まんせき分与ぶんよされ旗本はたもととして分家ぶんけした)、せいはるの1まん6せんせき大多喜おおたき新田しんでんはん時代じだいからの旧領きゅうりょうである。

稲垣いながき

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譜代ふだい 2まん5せんせき

  1. 稲垣いながき重富しげとみ

松平まつだいら大河内おおこうち

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譜代ふだい 2まんせき改易かいえき→2まんせき

  1. 松平まつだいら正久まさひさ
  2. 松平まつだいらただしさだ
  3. 松平まつだいらただしあつし
  4. 松平まつだいらただします
  5. 松平まつだいら正路まさじ
  6. 松平まつだいらただしけい
  7. 松平まつだいら正義まさよし
  8. 松平まつだいら正和まさかず
  9. 松平まつだいらただししつ

幕末ばくまつ領地りょうち

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前述ぜんじゅつのように、大多喜おおたきはんとく阿部あべ家時いえときだいまで、しろのぞきほぼまるごと領地りょうちわるような変遷へんせんがあり、以下いかしめすのはあくまでも「きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょう」に記載きさいされている幕末ばくまつ時点じてん大河内おおこうち松平まつへい時代じだい)での領地りょうちである。(47むら・2まん2,246せきあまり

明治維新めいじいしんのちに、夷隅いすみぐん59むらきゅうはた本領ほんりょう7むらきゅう与力よりききゅう1むらきゅう久留里くるりはんりょう8むらきゅう吉井よしいはんりょう1むらきゅう岩槻いわつきはんりょう1むらきゅう高知こうち新田にったはんりょう1むらきゅう安房あわ上総かずさともけんごとりょう47むら内訳うちわけきゅうはた本領ほんりょう41むらきゅう幕府ばくふりょう2むらきゅう与力よりききゅう5むらきゅう久留里くるりはんりょう2むらきゅう吉井よしいはんりょう2むらきゅう岩槻いわつきはんりょう1むらきゅう高知こうち新田にったはんりょう1むらきゅう鶴牧つるまきはんりょう1むら】)がくわわり、上総かずさ国内こくない領地りょうち大幅おおはばわった。なお、あいきゅう存在そんざいするためむらすう合計ごうけい一致いっちしない。三河そうごこく飛地とびちりょう変遷へんせんは、「きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょう」ではすで額田ぬかたけん所属しょぞくとされているため詳細しょうさい不明ふめい

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 赤丸あかまる本文ほんぶんないはんりょうとして言及げんきゅうする土地とちあおまるはそれ以外いがい

出典しゅってん

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  1. ^ しば裕之ひろゆき豊臣とよとみ政権せいけん関東かんとう仕置しおき徳川とくがわ領国りょうごく-本多ほんだ忠勝ただかつ上総かずさまん入城にゅうじょうつうじて-」(佐藤さとう博信ひろのぶ へん中世ちゅうせい房総ぼうそう東国とうごく社会しゃかい 中世ちゅうせい東国とうごくろん:4』(岩田いわた書院しょいん、2012ねんISBN 978-4-87294-739-7

関連かんれん項目こうもく

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  • 大多喜おおたき新田しんでんはん - 1651ねんから1659ねんにかけて存在そんざいしたはん岩槻いわつきはん阿部あべささえはんで、三浦みうら阿部あべせいはる藩主はんしゅであった。はんりょう阿部あべただしはる時代じだい大多喜おおたきはん(1671ねん - 1702ねん)とほぼ同一どういつである。

外部がいぶリンク

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先代せんだい
上総かずさこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1638ねん - 1871ねん 大多喜おおたきはん大多喜おおたきけん
次代じだい
木更津きさらづけん