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阿部あべ正能しょうのう

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阿部あべ 正能しょうのう(あべ まさよし、寛永かんえい4ねん1627ねん) - 貞享ていきょう2ねん4がつ13にち1685ねん5月15にち))は、江戸えど時代じだい前期ぜんき老中ろうじゅう上総かずさこく大多喜おおたきはんおも武蔵むさしこくにんはんおも忠秋ただあきけい阿部あべ2だい官位かんいしたがえよん播磨はりままもる

生涯しょうがい

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武蔵むさしこく岩槻いわつきはんおも阿部あべ正次まさつぐ長男ちょうなん阿部あべまさしきよし長男ちょうなんはは加藤かとう清正きよまさむすめもときよしいん同族どうぞくしたがえ叔父おじ)である阿部あべ忠秋ただあき養子ようしとなる。いみなははじめせいれい(まさよし)、のち正能しょうのうあらためた。正室せいしつ牧野まきの信成のぶなりむすめ阿部あべ正武まさたけ長男ちょうなん)、阿部あべ正明まさあき次男じなん)、阿部あべただしぼう三男さんなん)、阿部あべ正員せいいん四男よつお)、むすめ松井まつい松平まつだいらやすしかん正室せいしつ)。

誕生たんじょう翌年よくねん寛永かんえい5ねん1628ねん)、実父じっぷせいきよし死別しべつする。その10ねん寛永かんえい15ねん1638ねん)、祖父そふせいつぎから1まんせき分与ぶんよされて大多喜おおたきはんたてはんする。叔父おじ岩槻いわつき藩主はんしゅ阿部あべ重次しげつぐせいきよしわり正次まさつぐあといだ)の死後しごのこりょうから6000せき分与ぶんよされる。うけたまわおう元年がんねん1652ねん)、忠秋ただあき養子ようしとなり、重次しげつぐのこりょう重次しげつぐ阿部あべじょうだか返還へんかんした。寛文ひろふみ11ねん1671ねん)、忠秋ただあき隠居いんきょによりしのぶ藩主はんしゅぐ。大多喜おおたきにはわってじょうだかおとうと阿部あべただしはるはいった。なお、せいはる大多喜おおたき新田しんでんはんしゅ時代じだいからの自身じしん知行ちぎょうのみで大多喜おおたき藩主はんしゅとなっており、正能しょうのうせいつぎから分与ぶんよされた1まんせきしのべはんりょうくわえている。

のべたから元年がんねん1673ねん)に老中ろうじゅうとなったが、どう4ねん1676ねん)に辞任じにんした。よく5ねん1677ねん)に隠居いんきょし、長男ちょうなん正武まさたけ家督かとくゆずった。そのさい正武まさたけおとうと3にん上総かずさこく夷隅いすみぐんきゅう大多喜おおたきはんりょう分与ぶんよされ、旗本はたもと寄合よりあいれつした。貞享ていきょう2ねん(1685ねん死去しきょした。墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん

忠秋ただあきは、家督かとくゆずるにあたって自筆じひつ覚書おぼえがきしるし、藩主はんしゅとしての心得こころえおよび将軍家しょうぐんけへの奉公ほうこういている。

略歴りゃくれき

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  • 寛永かんえい15ねん1638ねん)4がつ祖父そふ正次まさつぐから1まんせき分与ぶんよされて大多喜おおたき藩主はんしゅとなる。
  • 慶安けいあん5ねん(1652ねん)6がつ25にち老中ろうじゅう阿部あべ忠秋ただあきちち従弟じゅうてい)の養子ようしとなる。
  • 寛文ひろふみ11ねん(1671ねん)5がつ25にち忠秋ただあきあとぐ。
  • のべたから元年がんねん(1673ねん)12月23にち老中ろうじゅうとなる。
  • のべたから4ねん(1676ねん)10がつ6にち老中ろうじゅうしょくす。
  • のべたから5ねん(1677ねん)7がつ隠居いんきょ長男ちょうなん正武まさたけ家督かとくゆずる。また息子むすこ正明まさあきせいぼう正員せいいんけい1まんせき分与ぶんよ旗本はたもととして分家ぶんけさせる。

系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ

子女しじょ