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陸奥みちのくこく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
陸奥みちのくこく

-陸奥みちのくこく
-東山ひがしやまみち
別称べっしょう 奥州おうしゅう(おうしゅう)
くがしゅう(りくしゅう、ろくしゅう)
所属しょぞく 東山ひがしやまみち
相当そうとう領域りょういき 青森あおもりけん岩手いわてけん宮城みやぎけん福島ふくしまけん秋田あきたけん北東ほくとう
しょもと
国力こくりょく 大国たいこく
距離きょり 遠国おんごく
ぐんさとかず 35ぐん193さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
陸奥むつ国府こくふ 1.宮城みやぎけん仙台せんだい郡山こおりやま官衙かんが遺跡いせき
2.宮城みやぎけん多賀城たがじょう多賀たが城跡じょうせき
陸奥みちのく国分寺こくぶんじ 宮城みやぎけん仙台せんだい陸奥みちのく国分寺こくぶんじあと
陸奥むつ国分こくぶ尼寺あまでら 宮城みやぎけん仙台せんだい陸奥むつ国分こくぶ寺跡てらあと
一宮いちのみや 鹽竈しおがま神社じんじゃ宮城みやぎけん塩竈しおがま
いにしえべつ神社じんじゃ福島ふくしまけん東白川ひがししらかわぐん棚倉たなぐらまちうちに2しゃ
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陸奥みちのくこく(むつのくに)は、かつて存在そんざいしたれいせいこくひとつ。東山ひがしやまみちぞくする。現在げんざい福島ふくしまけん宮城みやぎけん岩手いわてけん青森あおもりけん秋田あきたけん一部いちぶ鹿角かづのぐん)。等級とうきゅう区分くぶん大国たいこくひとつ。

明治維新めいじいしん出羽でわこくとともに分割ぶんかつされたのち陸奥みちのくこくについては、陸奥みちのくこく (1869-)参照さんしょう

概要がいよう

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当初とうしょは「みちおく」(みちのおく)とばれ、平安へいあん時代じだいまで「陸奥みちのく」(みちのく)ともばれた。そのは「陸奥みちのく」(むつ)とばれた。

畿内きないから山道さんどう(のちの東山ひがしやまみち)と海道かいどう(のちの東海道とうかいどう)のおく位置いちする。中央ちゅうおう政権せいけん新規しんき服従ふくじゅうした地域ちいき同国どうこくふくめていったため、時期じきによって範囲はんい変遷へんせんする。いま服従ふくじゅうしない北方ほっぽう蝦夷えぞ(えみし)とせっした。

明治めいじ元年がんねん12月7にち西暦せいれき1869ねん1がつ19にち)に5こく分割ぶんかつされ、その1つとして、青森あおもりけん岩手いわてけん二戸ふたどぐんにかけての地域ちいきあらたに「陸奥みちのくこく」(りくおうのくに・むつのくに)がかれた。

陸奥みちのく」の名称めいしょう由来ゆらい

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古事記こじき』には「みちおく」とあり、『日本書紀にほんしょき』は「陸奥みちのく」がおおいがふる時代じだいに「みちおく」もみられ、ともに「みちおく」を「みちのおく」とくんじる。『和名わみょうしょう』は「陸奥みちのく」を「みちのおく」とする。「みち」はふる時代じだいには「くに」と同義どうぎ使つかわれており、「みちおく」の語源ごげんは「からみてとおおく」にあるくにである。「みち」を「りく」にかえた積極せっきょくてき理由りゆうはわからないが、常陸ひたちこく場合ばあいおなじく、「りくみち」のであてたものであろう。平安へいあん時代じだい和歌わかで「陸奥みちのく」は「みちのく」としてまれていた。「みちのく」は「みちのおく」がなまってちぢまったものである。

「みちのく」が「むつ」にわった事情じじょうには、江戸えど時代じだいからせつある。ひとつはりくろく大字だいじとしてもちいられることをふまえて、りくろくき、それに訓読くんよみをあてて「むつ」にしたというもので、ほんきょ宣長のりながが『古事記こじきでん』でとなえた[1]くがしゅう古代こだい中世ちゅうせいによく使つかわれたりゃくかたで、「ろくおくこく」「ろくおくもり」「ろくこく」というかた平安へいあん時代じだいにはあった[2]。もうひとつは「みちのく」が「みちのくに」になり、「むつのくに」に転訛てんかしたというせつで、保田やすだ光則みつのり新撰しんせん陸奥みちのく風土記ふどき』にある[3]。「みちのくに」は『伊勢物語いせものがたり』などにえる。

沿革えんかく

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みちおくこく設置せっち当時とうじ領域りょういき

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7世紀せいきまつから712ねんまでの陸奥みちのくこく

はじみちおくみちのおく)といい、『常陸ひたちこく風土記ふどき』には孝徳天皇こうとくてんのう在位ざいいすえとし654ねん)に、足柄峠あしがらとうげ東方とうほう常陸ひたちこくはじめ8こくいたとの記述きじゅつがあり、この8こくなかみちおくふくまれるとほぐされている。現在げんざい東北とうほく地方ちほうのうち徐々じょじょ律令りつりょう国家こっか日本にっぽん編入へんにゅうされた地域ちいき、すなわち宮城みやぎけん松島まつしま以南いなんまでの広大こうだい領域りょういき暫定ざんていてきふく辺境へんきょう大国たいこくであった。

常陸ひたちこくから分離ぶんりされるかたち成立せいりつし、以後いご平安へいあん時代じだいまで陸奥みちのくみちのく)とばれた。7世紀せいき設置せっち範囲はんいは、およそ現在げんざい宮城みやぎけんなか南部なんぶ山形やまがたけん内陸ないりく福島ふくしまけんのほぼ全域ぜんいき茨城いばらきけん北西ほくせい相当そうとうし、内陸ないりく盆地ぼんちのみならず、阿武隈高地あぶくまこうち以東いとう位置いちする太平洋たいへいよう沿岸えんがんである福島ふくしまけんはまどおきゅういわぜんけん)や宮城みやぎけん沿岸えんがんふくまれていた。

6世紀せいきまでに存在そんざいした陸奥みちのく国造くにのみやつこは、みちおくきく国造くにのみやつこ(のちのきくおおぐん相当そうとう)、石城せきじょう国造くにのみやつこ磐城いわきぐん)、染羽そめば国造くにのみやつこしめぐん)、浮田うきた国造くにのみやつこ宇多うだぐん)、おもえ国造くにのみやつこおもえふとしあやまりか)、白河しらかわ国造くにのみやつこ白河しらかわぐんいし国造くにのみやつこいわぐん)、おもねしゃく国造くにのみやつこ安積あさかぐん)、信夫しのぶ国造くにのみやつこ信夫しのぶぐん)、久国ひさくにづくり伊具いぐぐん)の10国造くにのみやつこであり、いずれもなりつとむあさからおうしんあさかみべつ氏族しぞく派遣はけんされて設置せっちされたとえる(「国造くにのみやつこ本紀ほんぎ」)。孝徳たかのりあさ後半こうはんだい使者ししゃ派遣はけんされて、国造くにのみやつこせいひょうせいへとわり、みちおくこく(みちのおくくに)がもうけられた。

律令制りつりょうせい陸奥みちのくこく

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718ねんからすう年間ねんかん陸奥みちのくこく

大宝たいほう律令りつりょう成立せいりつ直後ちょくごされた賦役ふえきれい調しらべいさおぶつじょうかんするみんしょうしき(『れいしゅうかい所収しょしゅう)に記載きさいされた諸国しょこく配列はいれつ下野げやこくつぎ陸奥みちのくこく、すなわち東山ひがしやまどう位置いちかれている。このしき発令はつれい時期じきについては、大宝たいほう年間ねんかんせつ和銅わどう年間ねんかんせつがあるものの、おそくても8世紀せいき初頭しょとうには陸奥みちのくこく東山ひがしやまどう所属しょぞくしていることが判明はんめいする[5]

和銅わどう5ねん712ねん)に、最上川もがみがわ流域りゅういき最上もがみぐん最上さいじょう地方ちほうおよび村山むらやま地方ちほう)と置賜おきたまぐん置賜おきたま地方ちほう)を越後えちごこくから分離ぶんり独立どくりつした出羽でわこく現在げんざい庄内しょうない地方ちほう)にゆずったため、陸奥みちのくこく上述じょうじゅつ宮城みやぎ県域けんいき福島ふくしま県域けんいき茨城いばらき県域けんいきになった。

養老ようろう2ねん718ねん)に、陸奥みちのくこくは、陸奥みちのくこく石城せきじょうこくいしこくみっつに分割ぶんかつされた。この分割ぶんかつにより、阿武隈川あぶくまがわ下流かりゅう北岸ほくがんから宮城みやぎけん中部ちゅうぶまで(伊具いぐぐん刈田かりたぐん岩沼いわぬま以北いほく)のせま範囲はんいだけが陸奥みちのくこくとなった。阿武隈川あぶくまがわ下流かりゅう南岸なんがん以南いなん太平洋たいへいよう沿岸えんがんきくおおから亘理わたりまで)は石城せきじょうこく伊達だてぐん以南いなん阿武隈川あぶくまがわ流域りゅういき盆地ぼんちぐん現在げんざい福島ふくしまけん中通なかどお)と会津あいづ盆地ぼんちぐんいしこくとした。石城せきじょうこくは、分立ぶんりつするさい常陸ひたちこくからきくおおぐん編入へんにゅうした。

しかし、養老ようろう4ねん720ねん以降いこうかみひさし元年がんねん724ねん以前いぜんのいつかの時点じてんで、これら3こく陸奥みちのくこくさい編入へんにゅうされた。きくおおぐんはそのまま陸奥みちのくぞくした。

蝦夷えぞ(えみし)の領域りょういきせっする陸奥みちのくこくには、陸奥みちのく出羽でわ両国りょうこく統括とうかつする陸奥むつ按察使かれた。陸奥みちのく国府こくふには鎮守ちんじゅかれ、他国たこくからおくられた鎮兵の統括とうかつ任務にんむとし、鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんのち鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん)が両国りょうこく軍事ぐんじてき統括とうかつした。大同だいどう3ねん808ねん以前いぜんには、陸奥みちのく出羽でわ按察使鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんとも、陸奥むつまもる兼任けんにんすることがおおかった。のべれき21ねん802ねん)に胆沢いさわしろ造営ぞうえいされると、鎮守ちんじゅはここにうつされた。こののち鎮官[注釈ちゅうしゃく 1]国司こくしべつにんじられるようになり、胆沢いさわじょうしろに鎮官をてた。国府こくふ多賀城たがじょう胆沢いさわしろ鎮守ちんじゅ後方こうほうからまも役割やくわりになった。[6]

陸奥みちのくこくは、蝦夷えぞとの戦争せんそうをへて次第しだい領域りょういききた拡大かくだいし、最終さいしゅうてき突出とっしゅつして面積めんせきおおきなくにになった。版図はんと拡大かくだいにはしろしがらみ設置せっちする政策せいさくがとられた。689ねんもちすべ3ねん)にゆう嗜曇ひょうしがらみ(のち出羽いずはこく置賜おきたまぐん)、724ねんかみひさしもと)に多賀城たがじょう宮城みやぎけん多賀城たがじょう)、737ねん天平てんぴょう9ねん)に玉造たまつくりしがらみ宮城みやぎけん大崎おおさきせいかん官衙かんが遺跡いせきあるいは宮沢みやざわ遺跡いせきか)、同年どうねん新田しんでんしがらみ宮城みやぎけん大崎おおさき大嶺おおみね八幡やはた遺跡いせき)、同年どうねん牡鹿おじかしがらみ宮城みやぎけん東松島ひがしまつしま赤井あかい遺跡いせきか)、同年どうねん色麻しかましがらみ、759ねん天平てんぴょうたから3ねん)に桃生ものうしろ宮城みやぎけん石巻いしのまき)、767ねん神護かんごけいくももと)にじょう宮城みやぎけん栗原くりはら)、780ねん宝亀ほうき11ねん)にさとしうえぬさしたぎょじょう造営ぞうえいか)、802ねんのべれき21ねん)に胆沢いさわしろ岩手いわてけん奥州おうしゅう)、803ねんのべれき22ねん)に志波しばしろ岩手いわてけん盛岡もりおか)、804ねんのべれき23ねん)までに中山なかやましがらみ宮城みやぎけん遠田えんたぐんきゅう小田おだぐん)、812ねんひろしじん3ねん)にとくじょう岩手いわてけん矢巾やはばまち)、遺跡いせきとして7世紀せいき中頃なかごろ仙台せんだい郡山こおりやま遺跡いせき宮城みやぎけん仙台せんだい)、8世紀せいき前半ぜんはん城生じょうのうしがらみ宮城みやぎけん加美かみまち)の15しがらみがつくられた。

和名わみょう類聚るいじゅうしょうによる面積めんせきは、5まん1440まち3たん99延喜えんぎしきによる租稲(税収ぜいしゅう)は158まん2715たばへのみつぎ進物しんもつ昆布こぶ昆布こぶさく昆布こぶほそ昆布こぶこう昆布こぶ薬草やくそうとして甘草かんぞうはたにかわ大黄だいおう石斛せっこく人参にんじん附子ふしいのあぶらふでれいひつじかく交易こうえきざつぶつには鹿しかかわどく犴(ラッコまたはいぬ)のかわ砂金いさご昆布こぶさく昆布こぶほそ昆布こぶがあった。また、特産とくさんぶつかね名馬めいば毛皮けがわ羽根はね貴族きぞく珍重ちんちょうされた。

延喜えんぎしきでの租稲配分はいぶん
名目めいもく 支出ししゅつたば
せいぜい 60まん3000
おおやけ 80まん3715
うち国司こくしりょう (64まん1200)
うち鎮官りょう (16まん2515)
国分寺こくぶんじりょう 4まん0000
文殊もんじゅかいりょう 2000
救急きゅうきゅうりょう 12まん0000
まつり塩竃しおがましんりょう 1まん0000
学生がくせいりょう 4000
けい 158まん2715

平安へいあん時代じだい

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陸奥みちのくこく南西なんせい岩代いわしろこく)の会津あいづ地方ちほうでは、807ねん大同だいどう2ねん創建そうけん伝承でんしょうめぐみにちてら強大きょうだい勢力せいりょくち、11世紀せいきから12世紀せいき最盛さいせいむかえて陸奥みちのくこくから北陸ほくりく地方ちほう北部ほくぶまで影響えいきょうりょくった。

平安へいあん時代じだい後期こうきになって中央ちゅうおうからの統制とうせい弛緩しかんすると、俘囚ふしゅうなが安倍あべ陸奥みちのく北部ほくぶ現在げんざい岩手いわてけん青森あおもりけん)、おくろくぐんから下北半島しもきたはんとう、さらにじゅうさんみなと[注釈ちゅうしゃく 2]からの大陸たいりく交易こうえきいた多大ただい権益けんえきちからつようになった。安倍あべ国司こくししたがわず、ぜんきゅうねんやくたたかって滅亡めつぼうした。このとき出羽でわこくから参戦さんせんした清原きよはら陸奥みちのく出羽でわ両国りょうこく勢威せいいったが、こうさんねんやく滅亡めつぼうした。これにわって平泉ひらいずみ本拠地ほんきょちとする奥州おうしゅう藤原ふじわら陸奥みちのく出羽でわ支配しはいしゃになった。かれらはいずれも陸奥みちのく出羽でわ地元じもとちからばした一族いちぞくで、から派遣はけんされた国司こくし統治とうちするという律令制りつりょうせいだい原則げんそく侵食しんしょくし、奥州おうしゅう藤原ふじわらにいたって自治じちてき領域りょういききずくようになった。奥州おうしゅう藤原ふじわら勢力せいりょくけん陸奥みちのくこく全域ぜんいきにおよび、現在げんざい福島ふくしまけん中通なかどおでは、信夫しのぶ佐藤さとう信夫しのぶぐん現在げんざい福島ふくしま)を本拠地ほんきょちとして宮城みやぎけん南西なんせい山形やまがたけん南部なんぶ中通なかどお中部ちゅうぶのちめぐみにちてら衰退すいたい会津あいづ支配しはいした。中通なかどお南部なんぶは、ぜんきゅうねんやく従軍じゅうぐんしたのち石川いしかわぐん定住ていじゅうした清和せいわはじめ石川いしかわ統治とうちした。またはまどお南部なんぶ桓武かんむたいら岩城いわき統治とうちしていた。しかし、信夫しのぶ佐藤さとう石川いしかわ岩城いわきのいずれも、平泉ひらいずみ藤原ふじわら服属ふくぞくしていた。

奥州おうしゅう藤原ふじわらりく中国ちゅうごくいき岩手いわてけん)にあたる平泉ひらいずみ本拠ほんきょに、たいら政権せいけんのもとでもはん独立どくりつ状態じょうたい維持いじした。しかし1189ねんみなもと頼朝よりとも攻撃こうげきけて滅亡めつぼうした。

なお、平安へいあん時代じだい陸奥みちのくこくおよび出羽いずはこくは、きた東北とうほく領域りょういき境界きょうかい不明瞭ふめいりょうなことがおおく、平安へいあん末期まっきには、奥州おうしゅう藤原ふじわら勢力せいりょく範囲はんい秋田あきたけん領域りょういき仙北せんぼくさんぐんなど)も陸奥みちのくこくなされていたようである(→出羽でわこく)。

鎌倉かまくら時代ときよ

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鎌倉かまくら時代じだいから1868ねんまでの陸奥みちのくこく

頼朝よりともは、陸奥みちのくこく関東かんとう武士ぶし地頭じとうとして配置はいちした。奥州おうしゅう土着どちゃく武士ぶし衰退すいたいし、鎌倉かまくら以来いらい武士ぶし戦国せんごく時代じだいまで陸奥みちのくこく割拠かっきょした。そのなかで、葛西かさい清重きよしげ葛西かさい下総しもふさこく葛西かさいぐん現在げんざい東京とうきょう葛飾かつしか)から石巻いしのまき転入てんにゅうし、平泉ひらいずみ統治とうちまかされ、「奥州おうしゅうそう奉行ぶぎょうしょく就任しゅうにんした。守護しゅごかれなかった。このほかにも、あしめい安藤あんどう石川いしかわ工藤くどう熊谷くまがい相馬そうま戸沢とざわ南部なんぶ和賀わが、などがあった。

鎌倉かまくら時代じだい後期こうきには安藤あんどうらんきた。

南北なんぼくあさ室町むろまち時代ときよ

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後醍醐天皇ごだいごてんのうたてたけし新政しんせいには一時期いちじき親王しんのう任国にんごくとされ、義良親王のりながしんのう陸奥みちのく太守たいしゅとして赴任ふにんした。南北なんぼくあさ争乱そうらんにおいては、多賀城たがじょう南朝なんちょう北朝ほくちょう係争けいそうとして北畠きたばたけ顕信あきのぶ吉良きらさだはたけ山国やまくにらがあらそった。南朝なんちょう勢力せいりょく駆逐くちく奥州おうしゅう管領かんりょうが4にん並立へいりつする事態じたいとなるが、斯波しばがこのあらそいに勝利しょうりして大崎おおさき地方ちほう勢力せいりょく扶植ふしょく大崎おおさき名乗なのるようになる。その鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが氏満うじみつ支配しはいとなるが、足利あしかが満兼みつかねだいとなると篠川しのかわ御所ごしょ稲村いなむら御所ごしょ設置せっちするも伊達だてまさしむね反乱はんらんまねく。また、奥州おうしゅう在地ざいち領主りょうしゅ幕府ばくふ直接ちょくせつ主従しゅうじゅう関係かんけいむすび、京都きょうと扶持ふちしゅばれる関係かんけいきずいた。

鎌倉かまくら公方くぼう室町むろまち幕府ばくふ関係かんけい悪化あっかによって、幕府ばくふ奥州おうしゅう探題たんだいいた。当初とうしょ大崎おおさき奥州おうしゅう探題たんだい世襲せしゅうしていたが、南北なんぼくあさ争乱そうらん以降いこう在地ざいち領主りょうしゅ権限けんげんつよく、その権威けんい名目めいもくてきなもので、権威けんいおよ範囲はんいかぎられていた。戦国せんごく時代じだいになると陸奥みちのくこく南部なんぶ現在げんざい福島ふくしまけん北部ほくぶ)の伊達だて台頭たいとうし、伊達だて稙宗陸奥みちのくこく守護しゅごにんぜられ、大崎おおさき伊達だて勢力せいりょくまれるにいたって、奥州おうしゅう探題たんだい地位ちい伊達だてうばわれた。

また松島まつしまから気仙けせんぐんにかけての三陸さんりく沿岸えんがんは、石巻いしのまき本拠地ほんきょちとする葛西かさい統治とうちしていた。しかし、天正てんしょう時代じだい奥州おうしゅう仕置しおきにより、葛西かさい領土りょうど没収ぼっしゅうされ、きゅう葛西かさいりょう伊達だて領土りょうど編入へんにゅうされた。

さらに、現在げんざい茨城いばらき県域けんいき近代きんだいはじめに実施じっしされた太閤たいこう検地けんちにより、常陸ひたちこく編入へんにゅうした。

江戸えど時代じだい

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代表だいひょうてきはんとして弘前ひろさきはん盛岡もりおかはん仙台せんだいはん中村なかむらはん磐城いわきひらはん福島ふくしまはん二本松にほんまつはん白河しらかわはん米沢よねざわはん会津あいづはんなど。これらのうち、高地たかち以東いとう北上高地きたがみこうち以東いとう阿武隈高地あぶくまこうち以東いとう)の太平洋たいへいよう沿岸えんがんのみをりょうしたはんは、中村なかむらはん磐城いわきひらはんのみである。内陸ないりく盆地ぼんちのみのはん会津あいづはん福島ふくしまはん白河しらかわはん二本松にほんまつはんなどである。

明治めいじ陸奥みちのくこく

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1869ねん以降いこう陸奥みちのくこく(りくおう)

1869ねん1がつ19にち明治めいじ元年がんねん12月7にち)、戊辰戦争ぼしんせんそうけた奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいしょはんたいする処分しょぶんおこなわれた。同日どうじつ陸奥みちのくこく出羽いずはこく分割ぶんかつされ、陸奥みちのくこく(むつ)は、陸奥みちのくこく(りくおう)・りく中国ちゅうごく(りくちゅう)・陸前りくぜんこく(りくぜん)・岩代いわしろこく磐城いわきこくの5こく分割ぶんかつされた。陸奥みちのくこく(りくおう)は、現在げんざい青森あおもりけん岩手いわてけん西北せいほく二戸ふたどぐんくわえた範囲はんいとなり、結果けっかてき初期しょき陸奥みちのくこく(みちのく)から300kmはなれた土地とちすことになった。

分割ぶんかつの5こく
磐城国
拡大
拡大かくだい

Clip
磐城いわきこく

陸奥みちのくこく(りくおう)の領域りょういきにあったはん下記かきのとおりである。

明治めいじ政府せいふ地方ちほう支配しはい体制たいせいは、その廃藩置県はいはんちけん鎮台ちんだいなどによって実現じつげんされたため、明治めいじ元年がんねん陸奥みちのくこく分割ぶんかつは、政治せいじてきにも地域ちいきけん文化ぶんかけん成立せいりつにもほとんど意味いみさなかった。ただし、分割ぶんかつ国名こくめいは、鉄道てつどう駅名えきめい陸前高田りくぜんたかたなどの地名ちめい利用りようされている。また、陸奥みちのく陸中りくちゅう陸前りくぜんさんこく総称そうしょうした「三陸さんりく」の呼称こしょう三陸海岸さんりくかいがんはじ現在げんざい定着ていちゃくしている。

国内こくない施設しせつ

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すべての座標ざひょうしめした地図ちず - OSM
ぜん座標ざひょう出力しゅつりょく - KML

国府こくふ

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  1. 郡山こおりやま官衙かんが遺跡いせき宮城みやぎけん仙台せんだい太白たいはく北緯ほくい3813ふん20.38びょう 東経とうけい14053ふん34.38びょう / 北緯ほくい38.2223278 東経とうけい140.8928833 / 38.2223278; 140.8928833 (郡山こおりやま官衙かんが遺跡いせき初期しょき陸奥みちのく国府こくふあとか))) - くに史跡しせき史跡しせき仙台せんだい郡山こおりやま官衙かんが遺跡いせきぐん 郡山こおりやま官衙かんが遺跡いせき 郡山こおりやま廃寺はいじあと」のうち)。かみひさし元年がんねん724ねん以前いぜん
  2. 多賀城たがじょう宮城みやぎけん多賀城たがじょう北緯ほくい3818ふん23.8びょう 東経とうけい14059ふん18びょう / 北緯ほくい38.306611 東経とうけい140.98833 / 38.306611; 140.98833 (多賀たが城跡じょうせき陸奥みちのく国府こくふあと)) - くに特別とくべつ史跡しせきかみひさし元年がんねん(724ねん)から10世紀せいき
  3. 多賀たが国府こくふ宮城みやぎけん仙台せんだい北東ほくとう推定すいてい) - 10世紀せいき以降いこう

当初とうしょ国府こくふ郡山こおりやま遺跡いせき推定すいていされており、名取なとりぐんにあったとされる。かみひさし元年がんねん724ねん)に宮城みやぎぐん多賀たが現在げんざい宮城みやぎけん多賀城たがじょう)に多賀城たがじょう建設けんせつされると同時どうじ国府こくふもここにうつされた。遺跡いせき調査ちょうさからこの国府こくふ10世紀せいき廃絶はいぜつしたことがわかっているが、文献ぶんけん史料しりょうからはその多賀たが国府こくふ鎌倉かまくら時代じだい南北なんぼくあさ時代じだい存在そんざいしたことがわかっている。場所ばしょはやや西にし岩切いわきりえき現在げんざい仙台せんだい北東ほくとう付近ふきんうつったと推測すいそくされている[7]

過去かこには、多賀城たがじょう多賀たが国府こくふ岩切いわきり利府りふにあったとするせつもあり、多賀城たがじょう位置いちさだまったのは明治めいじはいってからである[8]。そのも、歌枕うたまくらの「武隈たけくままつ」から武隈たけくま現在げんざい宮城みやぎけん岩沼いわぬま)に国府こくふ一時期いちじきあったとするせつや、現在げんざい福島ふくしまけん国府こくふかれた時期じきもあったとする推定すいていもなされたが[9]、いずれも発掘はっくつ調査ちょうさ進展しんてんにより否定ひていされている。

陸奥みちのく府中ふちゅう

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旧称きゅうしょう げんしょう 現在地げんざいち
北宮きたみや 北宮きたみや神社じんじゃ 北緯ほくい3820ふん45.7びょう 東経とうけい14059ふん51びょう / 北緯ほくい38.346028 東経とうけい140.99750 / 38.346028; 140.99750 (北宮きたみや神社じんじゃ春日かすが神社じんじゃ境内けいだいしゃ陸奥みちのく府中ふちゅう北境きたざかい)
東宮とうぐう 東宮とうぐう神社じんじゃ 北緯ほくい3818ふん48.2びょう 東経とうけい1412ふん55.9びょう / 北緯ほくい38.313389 東経とうけい141.048861 / 38.313389; 141.048861 (東宮とうぐう神社じんじゃ陸奥みちのく府中ふちゅう東境ひがしさかい)
西宮にしのみや かんむりかわ神社じんじゃ 北緯ほくい3818ふん20びょう 東経とうけい14056ふん45.4びょう / 北緯ほくい38.30556 東経とうけい140.945944 / 38.30556; 140.945944 (かんむりかわ神社じんじゃ八坂神社やさかじんじゃ境内けいだいしゃ陸奥みちのく府中ふちゅう西境にしさかい)
南宮なんぐう 南宮なんぐう神社じんじゃ 北緯ほくい3818ふん20.9びょう 東経とうけい14058ふん15.6びょう / 北緯ほくい38.305806 東経とうけい140.971000 / 38.305806; 140.971000 (南宮なんぐう神社じんじゃ陸奥みちのく府中ふちゅう南境みなみざかい)

郡山こおりやま遺跡いせき時代じだい陸奥みちのく国府こくふの「府中ふちゅう」の範囲はんい不明ふめいだが、多賀城たがじょう多賀たが国府こくふ時代じだいの「府中ふちゅう」の範囲はんいはおおよそかっている[10]。すなわち、府中ふちゅう東西とうざい南北なんぼく境界きょうかいには、東宮とうぐう(とうぐう)・西宮にしのみや(さいぐう)・南宮なんぐう(なんぐう)・北宮きたみや(ほくぐう)とばれる神社じんじゃまつられており、これら4しゃかこむエリアの内外ないがい国府こくふ国府こくふ役人やくにんやその家族かぞくおよび家来けらい商人しょうにんなどがまち寺院じいん神社じんじゃ街道かいどう河川かせん河川かせんこう)・国府津こうづ海港かいこう)などが集中しゅうちゅうし、陸奥みちのくこく政治せいじ経済けいざい中心ちゅうしんとして室町むろまち時代ときよまでつづいた[10][11]

現在げんざい東宮とうぐう七ヶ浜しちがはままち東宮とうぐう神社じんじゃとしてのこり、南宮なんぐう多賀城たがじょう南宮なんぐう神社じんじゃとしてのこ[10]北宮きたみや北宮きたみや神社じんじゃ(きたみや)として利府りふまち春日しゅんじつ神社じんじゃ境内けいだいしゃとしてのこ[10]西宮にしのみや江戸えど時代じだいかんむりかわ明神みょうじんばれ、明治めいじ鹽竈しおがま神社じんじゃ別宮べつく合祀ごうしされて志波彦神社しわひこじんじゃとなったが、分霊ぶんれいかんむりかわ神社じんじゃとしてもと所在地しょざいちにある八坂神社やさかじんじゃ境内けいだいしゃとしてもどった[10]。4しゃいずれも鹽竈しおがま神社じんじゃさかいがい末社まっしゃとなっている。

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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陸奥みちのく国分寺こくぶんじ宮城みやぎけん仙台せんだい

定額ていがくてら

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  • 菩提寺ぼだいじ福島ふくしまけん福島ふくしま比定ひてい)-てんちょう7ねん830ねん[12]
  • 極楽寺ごくらくじ岩手いわてけん北上ほくじょう比定ひてい)-857ねん[13]

神社じんじゃ

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延喜えんぎ式内しきないしゃ

延喜えんぎしきかみめいちょうには、大社たいしゃ1515しゃ小社しょうしゃ8585しゃけい100100しゃ記載きさいされている(「陸奥みちのくこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ15しゃ以下いかしめすもので、すべ名神めいしん大社たいしゃである。

総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか

中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』にもとづく一宮いちのみや以下いか一覧いちらん[14]

なお、陸奥みちのくこく一宮いちのみやしょうする神社じんじゃとしていし和気わき神社じんじゃ福島ふくしまけん石川いしかわぐん石川いしかわまち)があり、上記じょうき2しゃおなじくこちらも全国ぜんこくいちみやかい加盟かめいしている。

安国寺あんこくじ利生りしょうとう

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利生りしょうとうしょう

地域ちいき

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平安へいあん中期ちゅうき930年代ねんだい)の『和名わみょうしょう』には36ぐん160さとがあげられているがその次第しだいえ、『太平たいへい』では「奥州おうしゅうじゅうよんぐんあたかも日本にっぽんはんこくおよべり」といわれ、以来いらい陸奥みちのくこくといえば54ぐんといわれるようになった。しかし実際じっさいには陸奥みちのくこくぐんすう時代じだいによって増減ぞうげんしており一定いっていではない。この54というぐんすう鎌倉かまくら時代じだいさい末期まっき状態じょうたい反映はんえいしたものである。以下いかのリストに「じゅうよんぐん」にふくまれないぐんは16ぐんあり、すべてかぞえるとわせて70ぐんとなる。

人口じんこう

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  • 1721ねんとおる6ねん) - 196まん2836にん
  • 1750ねん寛延かんえい3ねん) - 183まん6134にん
  • 1756ねんたかられき6ねん) - 180まん6192にん
  • 1786ねん天明てんめい6ねん) - 156まん3719にん
  • 1792ねん寛政かんせい4ねん) - 156まん8218にん
  • 1798ねん寛政かんせい10ねん)- 158まん9108にん
  • 1804ねん文化ぶんか元年がんねん)- 160まん2948にん
  • 1822ねん文政ぶんせい5ねん) - 165まん0629にん
  • 1828ねん文政ぶんせい11ねん)- 168まん0102にん
  • 1834ねん天保てんぽう5ねん) - 169まん0509にん
  • 1840ねん天保てんぽう11ねん)- 150まん6193にん
  • 1846ねんひろし3ねん) - 160まん7881にん
  • 1872ねん明治めいじ5ねん) - 229まん4915にんきゅう陸奥みちのくこく5こく合計ごうけい
ぶんこく明治めいじ5ねん陸奥みちのくこく人口じんこう人口じんこう47まん3244にんであった。

内閣ないかく統計とうけいきょくへん速水はやみとおる復刻ふっこくばん監修かんしゅう解題かいだい、『国勢調査こくせいちょうさ以前いぜん日本人にっぽんじんこう統計とうけい集成しゅうせいまき1(1992ねんおよ別巻べっかん1(1993ねん)、東洋とうよう書林しょりん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ (ちんかん)鎮守ちんじゅ鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんふく将軍しょうぐんぐんかん軍曹ぐんそうなどの官職かんしょく
  2. ^ 12世紀せいきにはすでに遺構いこう存在そんざいすることが国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんなどの調査ちょうさによってられている。
  3. ^ 階上かいじょうを「しなのえ」とんで宮城みやぎぐん一部いちぶとするせつもある。気仙けせんぐん旧称きゅうしょうだとするせつでは「はしかみ」とむ。

出典しゅってん

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  1. ^ ほんきょ宣長のりなが古事記こじきでん』20かん筑摩書房ちくましょぼうほんきょ宣長のりなが全集ぜんしゅうだい10かん449-450ぺーじ)。
  2. ^ 高橋たかはし富雄とみお蝦夷えぞ』190ぺーじ
  3. ^ 保田やすだ光則みつのり新撰しんせん陸奥みちのく風土記ふどき歴史れきし図書としょしゃ、1ぺーじ
  4. ^ 大子だいごまちあゆみホームページ
  5. ^ かねこう宏之ひろゆき七道しちどうせい日本にっぽん律令制りつりょうせい国家こっか運営うんえい」『律令制りつりょうせい諸国しょこく支配しはい成立せいりつ展開てんかい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2023ねんISBN 978-4-642-04672-5 P186-187・191.
  6. ^ 今泉いまいずみ隆雄たかお律令りつりょうこく蝦夷えぞ」55ページ(渡辺わたなべ信夫しのぶ今泉いまいずみ隆雄たかお大石おおいし直正なおまさ難波なんば信雄のぶお宮城みやぎけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 1999ねん3がつ
  7. ^ 『みちのくの 多賀城たがじょう松島まつしま』、『中世ちゅうせい陸奥みちのく国府こくふ研究けんきゅう所収しょしゅうしょ論文ろんぶんによる。
  8. ^ 豊田とよだたけしへん東北とうほく歴史れきし上巻じょうかん91ぺーじ工藤くどう雅樹まさき執筆しっぴつ多賀城たがじょう」)。
  9. ^ 大塚おおつか徳郎よしお古代こだいおよび中世ちゅうせい宮城みやぎけん」、『宮城みやぎけん地理ちり歴史れきしだい2かん71ぺーじ
  10. ^ a b c d e 仙台せんだい 通史つうしへん2 古代こだい中世ちゅうせい』(仙台せんだいへんさん委員いいんかい 2000ねん) P.237-P.244
  11. ^ 『せんだい 歴史れきしまど』(菅野かんの正道せいどう ちょ河北かわきた新報しんぽう出版しゅっぱんセンター、2011ねん10がつ30にち ISBN 978-4-87341-262-7) P.75-77
  12. ^ 類聚るいじゅう国史こくし
  13. ^ 文徳ふみのり天皇てんのう実録じつろく
  14. ^ 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい研究けんきゅうかいへん岩田いわた書院しょいん、2000ねん、pp. 306-310。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 大塚おおつか徳郎よしお古代こだいおよび中世ちゅうせい宮城みやぎけん」、東北大学とうほくだいがく教育きょういく教養きょうよう学部がくぶ歴史れきし研究けんきゅうしつ地域ちいき社会しゃかい研究けんきゅうかい宮城みやぎけん地理ちり歴史れきしだい2かん東北大学とうほくだいがく教育きょういく教養きょうよう学部がくぶ歴史れきし研究けんきゅうしつ地域ちいき社会しゃかい研究けんきゅうかい、1956ねん
  • 入間田いりまだ宣夫のりお大石おおいし直正なおまさへん『みちのくの 多賀城たがじょう松島まつしま』、平凡社へいぼんしゃ、1992ねん
  • 入間田いりまだ宣夫のりお大石おおいし直正なおまさとう中世ちゅうせい陸奥みちのく国府こくふ研究けんきゅう』、ヨークベニマル、1994ねん
  • 高橋たかはし富雄とみお蝦夷えぞ』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1963ねん
  • 豊田とよだたけし東北とうほく歴史れきし上巻じょうかんだい4はん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1973ねん
  • ほんきょ宣長のりなが古事記こじきでん』。大野おおのすすむへんほんきょ宣長のりなが全集ぜんしゅうだい10かん古事記こじきでんにあてるのは9から11かん)、筑摩書房ちくましょぼう、1968ねん
  • 保田やすだ光則みつのり新撰しんせん陸奥みちのく風土記ふどき万延まんえん元年がんねん1860ねん)。歴史れきし図書としょしゃ、1980ねん(1913ねん刊本かんぽん復刻ふっこくばん)。

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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