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十勝とかちこく

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十勝とかちこく範囲はんい(1869ねん8がつ15にち

十勝とかちこく(とかちのくに)は、大宝たいほう律令りつりょうくにぐんさとせい踏襲とうしゅうして戊辰戦争ぼしんせんそうはこかん戦争せんそう終結しゅうけつ直後ちょくご制定せいていされた日本にっぽん地方ちほう区分くぶんくにひとつである。別称べっしょうじゅうしゅう(じっしゅう)。畿八どうのうち北海道ほっかいどう (れいせい)ふくまれた。道東どうとう位置いちし、領域りょういき現在げんざい十勝とかち総合そうごう振興しんこうきょく管内かんないから足寄あしょろぐん大半たいはん足寄あしょろまちのうちきゅう足寄あしょろむらぞくする利別川としべつがわ以東いとうおよび陸別りくべつまち、いずれも釧路くしろこく)をのぞいた部分ぶぶんにあたる。

名称めいしょう由来ゆらい[編集へんしゅう]

現在げんざい十勝とかちがわ由来ゆらいするアイヌの「トカㇷ゚チ(tokapchi)」というかたり由来ゆらいし、幕末ばくまつ明治めいじにかけて活躍かつやくした探検たんけん松浦まつうら武四郎たけしろう1870ねん明治めいじ2ねん)に明治めいじ政府せいふ提出ていしゅつした「国名こくめい建議けんぎしょ」において、「元名もとなトウカプ。わけちちこれ。此川東西とうざいくちわかれ、ちちごとたやせぬがゆえごうしと申伝もうしつたこう」と提案ていあんし、採用さいようされたものである[1]

十勝とかち」の原義げんぎについて[編集へんしゅう]

十勝とかち(トカㇷ゚チ)」の名称めいしょうはこのように十勝とかちがわしも流域りゅういき地名ちめいからしょうじた地名ちめいかんがえられているが、松浦まつうら武四郎たけしろう自身じしんも『むくいのぼりさとし日誌にっし』(未刊みかん)の冒頭ぼうとうで「土人どじんをトウカブチとうんり。いずれの原名げんめいなるやをしらず」とくなど、発祥はっしょう原義げんぎわすれられており、上記じょうきふく様々さまざませつされている[1]

アイヌ研究けんきゅうしゃ山田やまだ秀三しゅうぞうは、はた麻呂まろ上原うえはら熊次郎くまじろう松浦まつうら武四郎たけしろうの3しゃ記述きじゅつしたせつもと下記かきの2せつ考案こうあんしている[1]

  • 「トカプシ(tokap-usi)」(乳房ちぶさ・あるところ)
  • 「トカ(オ)ㇷ゚チ(to-ka〔-o〕-p-chi)」(ぬまあたり〔・にある〕・しょれる)

また、永田ながた方正ほうせいは「トゥカㇷ゚チ(tokapchi)」は幽霊ゆうれい、としているが、これについて山田やまだは「トカㇷ゚チは十勝とかちアイヌがほこりをもっんでいた」「地方ちほうのアイヌが、語呂合ごろあわせみたいに悪名あくめいにしていった言葉ことばであろう」として否定ひていてき見解けんかいしめしている[1]。また、永田ながたは「トカㇷ゚チ」は本来ほんらいのアイヌめいを「シアンルㇽ(shi-an-rur)」(とお彼方かなた海浜かいひん)である、としているが、これについても山田やまだは「ひとんだ」であるとしている[1]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

ここでは十勝とかちこく成立せいりつまでについても記述きじゅつする。

鎌倉かまくら時代ときよから室町むろまち時代ときよにかけて、蝦夷えぞ沙汰さたしょく蝦夷えぞ管領かんりょうは、北海道ほっかいどう太平洋たいへいようがんにおりもと[注釈ちゅうしゃく 1]ばれる蝦夷えぞ(えぞ)を統括とうかつしていた(『諏訪すわ大明神だいみょうじん絵詞えことば』)。

江戸えど時代じだい松前まさきはんによって場所ばしょばれる知行ちぎょうひらかれ松前まさきはん家臣かしん蝦夷えぞとの交易こうえきおこなわれた。はん出先でさき機関きかん機能きのうそなえた運上うんじょうでは、撫育ぶいく政策せいさくとしてオムシャなどもおこなわれた。制度せいどてき詳細しょうさいしょうじょう場所ばしょ知行ちぎょうせいおよび場所ばしょ請負うけおいせいを、漁場ぎょじょう状況じょうきょうについては北海道ほっかいどうにおけるニシンりょう参照さんしょうされたい。十勝とかちこくいきにはトカチ場所ばしょひらかれていた。

江戸えど時代じだいから明治めいじ時代じだい初頭しょとう交通こうつうについて、陸上りくじょう交通こうつう[2]は、渡島ととうこくはこかんからせん島国しまぐに方面ほうめんいたみち沿岸えんがん広尾ひろおぐんから十勝とかちぐん東端ひがしばたまで国道こくどう336ごう前身ぜんしん釧路くしろこくとの国境こっきょう付近ふきんからは国道こくどう38ごう前身ぜんしん)の途上とじょうであったが、一部いちぶ地形ちけいけわしい難所なんしょがあったため、寛政かんせい10ねん幕吏ばくり近藤こんどう重蔵しげぞうによって広尾ひろおぐん西にしすみにあたるビタタヌンケとルベシベツのあいだ2(7.9km)にルベシベツ山道さんどう開削かいさくされた。十勝とかち神社じんじゃには、重蔵じゅうぞう従者じゅうしゃ下野げやげんすけ山道さんどう開削かいさくについて記録きろくし、蝦夷えぞつくった碑文ひぶん奉納ほうのうされたが、この碑文ひぶん現在げんざい広尾ひろおまちタニイソトンネル北側きたがわ坑口こうこううみがわいしぶみることができる。また十勝とかち国内こくない河川かせんにははんせい時代じだいからはい使おけけんまでのあいだ6箇所かしょ渡船場とせんばすうがありわたぶねなども運行うんこうされていた。

江戸えど時代じだい初期しょき寛文ひろふみ9ねん6がつ日高ひだかこくいき中心ちゅうしん蝦夷えぞ蜂起ほうきしたシャクシャインのたたかによって十勝とかちこく域内いきないでも和人わじんころされた。また、蝦夷えぞアイヌ同士どうしによるたたかいもおこなわれており、いまからひゃくねんほどまえじゅうしょう侵入しんにゅうした北見きたみアイヌ(または日高ひだかアイヌ)と十勝とかちアイヌのたたかいがチョマトー河西かさいぐんいきげん帯広おびひろ)でおこなわれたという伝説でんせつがある。また、蝦夷えぞ人々ひとびとあいだではふるくから芽登めとう温泉おんせんられていたという。

江戸えど時代じだい後期こうき十勝とかちこくいきひがし蝦夷えぞぞくしていた。国防こくぼうのため寛政かんせい11ねんひがし蝦夷えぞおおやけ御料ごりょう幕府ばくふ直轄ちょっかつりょう)とされたが、文政ぶんせい4ねんには一旦いったん松前まさきはんりょうふくしたものの、安政あんせい2ねんふたたおおやけ御料ごりょうとなり仙台せんだいはん警固けいご担当たんとうした。その安政あんせい4ねんには上川かみかわぐんいき十勝とかちだけ噴火ふんか安政あんせい噴火ふんか)。安政あんせい6ねんには6はんぶんりょう十勝とかちこく領国りょうごくくわえた仙台せんだいはんによって広尾ひろお出張しゅっちょう陣屋じんやのひとつトカチ陣屋じんや築城ちくじょうされている。

領域りょういき[編集へんしゅう]

1869ねん明治めいじ2ねん)の制定せいてい領域りょういきは、現在げんざい北海道ほっかいどう十勝とかち総合そうごう振興しんこうきょく管内かんないから下記かきのぞいた区域くいき相当そうとうする。

国内こくない施設しせつ[編集へんしゅう]

神社じんじゃ[編集へんしゅう]

十勝とかち神社じんじゃ寛文ひろふみ6ねんよりもまえ創建そうけん十勝とかちぐん稲荷いなり神社じんじゃ文政ぶんせい11ねん創建そうけんされた。

十勝とかち神社じんじゃ御朱印ごしゅいんは「十勝とかちこく一ノ宮いちのみや十勝とかち神社じんじゃ」となっており、きゅう社格しゃかくけんしゃであった。

地域ちいき[編集へんしゅう]

ぐん[編集へんしゅう]

十勝とかちこく以下いかの7ぐん構成こうせいされた。

江戸えど時代じだいはん[編集へんしゅう]

ぶんりょう支配しはいはん
  • 鹿児島かごしまはんりょう、1869ねん広尾ひろおぐんとうえんぐん河西かさいぐん
  • 静岡しずおかはんりょう、1869ねん-1871ねん上川かみかわぐん中川なかがわぐん河東かとうぐん十勝とかちぐん
ぶんりょう支配しはい上記じょうきのうち鹿児島かごしまはんりょうのちに2華族かぞくりょうとなった。

人口じんこう[編集へんしゅう]

1872ねん明治めいじ5ねん)の調査ちょうさでは、人口じんこう1464にんかぞえた。

十勝とかちこく合戦かっせん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ メナシクル祖先そせんにあたる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 山田やまだ秀三しゅうぞう北海道ほっかいどう地名ちめい』(2はんくさふうかん浦安うらやす〈アイヌ地名ちめい研究けんきゅう 山田やまだ秀三しゅうぞう著作ちょさくしゅう 別巻べっかん〉、2018ねん11月30にち、286ぺーじISBN 978-4-88323-114-0 
  2. ^ 北海道ほっかいどう道路どうろ北海道庁ほっかいどうちょう 大正たいしょう14ねん(1925ねん)6がつ10日とおか出版しゅっぱん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]