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淡路あわじこく

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淡路あわじこく

-淡路あわじこく
-南海なんかいどう
別称べっしょう あわしゅう(たんしゅう)
所属しょぞく 南海なんかいどう
相当そうとう領域りょういき 兵庫ひょうごけん淡路島あわじしま沼島ぬしま
しょもと
国力こくりょく したこく
距離きょり 近国きんごく
ぐんさとかず 2ぐん17さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
淡路あわじ国府こくふ 兵庫ひょうごけんみなみあわじ
淡路あわじ国分寺こくぶんじ 兵庫ひょうごけんみなみあわじ淡路あわじ国分寺こくぶんじとうあと
淡路あわじ国分こくぶ尼寺あまでら推定すいてい兵庫ひょうごけんみなみあわじ
一宮いちのみや 弉諾神宮じんぐう兵庫ひょうごけん淡路あわじ
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淡路あわじこく(あわじのくに)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。南海なんかいどうぞくする。兵庫ひょうごけん淡路島あわじしま沼島ぬしまにあたる。

淡路あわじ」の名称めいしょう

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律令制りつりょうせい以前いぜんあわどう国造くにのみやつこ領域りょういきであり、「あわどう」の表記ひょうきであった。律令制りつりょうせいにおいてれいせいこくのひとつとなり「淡路あわじ」の表記ひょうきとなった。

沿革えんかく

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古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』の『くに神話しんわ』では、日本にっぽん列島れっとう最初さいしょまれたしまとされ、島内とうないには弉諾神宮じんぐうまつられている。

5世紀せいき仁徳天皇にんとくてんのう御代みよ設置せっちされたあわどう国造くにのみやつこ起源きげんつものと推定すいていされる(国造くにのみやつこ本紀ほんぎ)。ふるくは津名つなぐん三原みはらぐん構成こうせいされていた。

律令制りつりょうせいもとで、田畑たはた面積めんせきすくなくともいちこくとして成立せいりつした。しかし『延喜えんぎしき』や平城京へいじょうきょうなどから発見はっけんされた木簡もっかんによると租庸調そようちょうくわえ、にえ(にえ)とよばれた海産物かいさんぶつおもさかな)を直接ちょくせつ朝廷ちょうてい内膳ないぜん天皇てんのう朝廷ちょうてい食膳しょくぜん管理かんりした役所やくしょ)におさめていたことがかっている。このことにより、朝廷ちょうていにとって淡路あわじこく特殊とくしゅ位置いちにあったとするせつがある(しょくこく参照さんしょう)。

天平てんぴょうたから8ねん764ねん10月淳仁天皇じゅんにんてんのうはいして「淡路あわじこくおおやけ」として淡路あわじ配流はいるする。一院いちいん幽閉ゆうへいするが、その一院いちいんがどこであったかかっていない。そして、山稜さんりょうほうむられ、『延喜えんぎしきしょりょうりょうこうにそのりょうは「淡路あわじこく三原みはらぐんにあり」としるすが、その位置いちについては諸説しょせつあって確定かくていしていない。

応仁おうにんらん各国かっこく守護しゅごしょくもしだいに領主りょうしゅし、守護しゅご大名だいみょう変化へんかしていったがさら時代じだいにくだると、その守護しゅご大名だいみょう守護しゅごしょく家臣かしん守護しゅごだい国人くにびとうばられることおおくなったが、淡路あわじこく歴代れきだい守護しゅごであった細川ほそかわ場合ばあい守護しゅごだい小守こもりまもる国人くにびととも守護しゅごあつするほどには成長せいちょうしておらずで守護しゅごしょく士族しぞくうばられるということはなかったようである。しかし、最後さいご守護しゅごおもわれる細川ほそかわしょうはるは、三好みよしながによってころされた。その三好みよし勢力せいりょくて、四国しこく過程かてい羽柴はしば制圧せいあつされた。

戦国せんごく時代じだい江戸えど時代じだい初期しょきうつりふう

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元和がんわ元年がんねん1615ねん)、岡山おかやまはんあるじ早世そうせいしたあに池田いけだただしつぎのちいで忠雄ただお岡山おかやまはんうつったため、洲本すもとはんはいはん
大坂おおさかじん慶長けいちょう20ねん1615ねん))の報償ほうしょうとして、阿波あわ蜂須賀はちすか岩屋いわやのぞ淡路あわじ7まんせき加増かぞう寛永かんえい3ねん1617ねん)に岩屋いわや加増かぞう[3]幕末ばくまつまで家老がろう稲田いなだしま本城ほんじょうだいとして淡路あわじこく統治とうちする。

近世きんせい以降いこう沿革えんかく

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淡路あわじ
洲本すもと
みなみあわじ

など

国内こくない施設しせつ

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国府こくふ

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和名わみょうしょう』によれば、国府こくふ三原みはらぐんにあった。現在げんざいみなみあわじきゅう三原みはらぐん三原みはらまち神代かみしろ国衙こくがにあったと推定すいていされるが、遺跡いせきはまだつかっていない。

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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国分こくぶそうてらは、江戸えど時代じだい造営ぞうえいされた護国ごこく山国やまぐにぶんてらのあるみなみあわじ国分寺こくぶんじ寺内てらうち比定ひていされている。いまは、とうしんいしずえあとせきのこっているが、その礎石そせき創建そうけん当時とうじ位置いちたもっておらず、伽藍がらん遺構いこう確認かくにんされていない。諸国しょこく国分寺こくぶんじ唯一ゆいいつ創建そうけん当時とうじさくとみられる丈六じょうろく釈迦如来しゃかにょらい坐像ざぞうがある。

神社じんじゃ

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延喜えんぎ式内しきないしゃ
延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ22しゃ小社しょうしゃ1111しゃけい1313しゃ記載きさいされている。大社たいしゃ2しゃ以下いかしめすもので、いずれも名神めいしん大社たいしゃである。淡路あわじこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう
総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか

守護しゅごしょ

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みなみあわじ八木はちぼくやしなえよろしなか室町むろまち時代じだいやく180年間ねんかん守護しゅご大名だいみょう細川ほそかわ守護しゅごしょであった。鎌倉かまくら時代じだい守護しゅごしょ同所どうしょであったとされる。

地域ちいき

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ぐんめいは『延喜えんぎしき』による。

該当がいとう区域くいき面積めんせきは595.74k㎡、人口じんこうは14まん3589にん(2010ねん国勢調査こくせいちょうさ速報そくほう)。

江戸えど時代じだいはん

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人物じんぶつ

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国司こくし

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淡路あわじまもる

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守護しゅご

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鎌倉かまくら幕府ばくふ

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室町むろまち幕府ばくふ

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戦国せんごく大名だいみょう

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武家ぶけ官位かんいとしての淡路あわじまもる

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江戸えど時代じだい以前いぜん

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江戸えど時代じだい

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 間島まじま改易かいえきされた模様もよう
  2. ^ 稲田いなだ北海道ほっかいどう開拓かいたく兵庫ひょうごけん負担ふたんしたことによる。
  3. ^ 田村たむらは、淡路あわじこく一宮いちのみや弉諾神宮じんぐう祭主さいしゅ

出典しゅってん

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  1. ^ 太閤たいこう
  2. ^ 近江おうみ水口みずぐち加藤かとう文書ぶんしょ
  3. ^ しま本城ほんじょう歴史れきし

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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