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律令制りつりょうせい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

律令制りつりょうせい(りつりょうせい)とは、中国ちゅうごく律令りつりょう律令りつりょうほうもとづく国家こっか法体ほうたいけい制度せいどす。

また古代こだい日本にっぽんにおいて、それをれた体系たいけい国家こっか制度せいど統治とうち制度せいどす。本稿ほんこうではおもにこの日本にっぽん制度せいどべる。

日本にっぽん律令制りつりょうせい[編集へんしゅう]

概要がいよう[編集へんしゅう]

日本にっぽん律令制りつりょうせいは、中国ちゅうごく制度せいど参考さんこうにし設立せつりつされ、7世紀せいき後期こうき飛鳥あすか時代ときよ後期こうき)から10世紀せいきころまで実施じっしされた。開始かいしやく100年間ねんかん(8世紀せいき後期こうきまで)は経済けいざい軍事ぐんじかんしてはほぼ設立せつりつ制度せいど忠実ちゅうじつしたがった国家こっか運営うんえいおこなわれた[1]律令りつりょう国家こっか律令りつりょう体制たいせい律令りつりょう時代じだい)。

制度せいど設立せつりつ背景はいけいは、7世紀せいき初頭しょとうからはじまった中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっか実現じつげん国力こくりょく増強ぞうきょうへのみがあった。また白村はくそんこうたたか663ねん)の大敗たいはいに、とう対峙たいじする危機きき意識いしき背景はいけいとし、とう仕組しくみをれ、強力きょうりょく国家こっか体制たいせい実現じつげん国民こくみんみな兵制へいせいによるだい規模きぼ国家こっか軍事ぐんじりょく設立せつりつ他国たこくしん、渤海)にたいする宗主そうしゅ位置付いちづ[注釈ちゅうしゃく 1]目指めざしたともかんがえられている。

特徴とくちょうとしておおやけ公民こうみんせい徹底てっていおこない、それまでの地方ちほう豪族ごうぞく領地りょうちおさむおおやけされた。ただしきわめてたか朝廷ちょうてい地位ちい身分みぶんさん以上いじょう)やだい寺社じしゃへは、公務こうむじゅんずるとして特例とくれい制度せいどもうけた[注釈ちゅうしゃく 2][注釈ちゅうしゃく 3]

また中央ちゅうおう集権しゅうけんてき官僚かんりょうせい全面ぜんめんてきには採用さいようせず、古代こだい日本にっぽん伝統でんとうもとづく氏族しぞくせいみと併用へいようした。これにより、それまでの古代こだいからの地方ちほう豪族ごうぞくは、国司こくし中央ちゅうおうかんじんれいせいこく派遣はけんされた)のもとで、郡司ぐんじ任命にんめい世襲せしゅうされはたらくこととなった。かれらは古代こだい村落そんらくないだい家族かぞく)を把握はあくし、その一人ひとりいちにん調査ちょうさ記録きろくし(戸籍こせき)、律令制りつりょうせいしょ制度せいど実質じっしつてきささえることとされた。

またその日本にっぽん歴史れきしで、観念かんねんじょう国家こっか秩序ちつじょ維持いじ根幹こんかん制度せいどとみなされ、朝廷ちょうてい統治とうち頂点ちょうてんつことが確立かくりつした。また生産せいさん手段しゅだん土地とちなど)・統治とうちけん軍事ぐんじけん正統せいとうせい(およびおさむおおやけ)の根拠こんきょとなった[注釈ちゅうしゃく 4]官僚かんりょう優越ゆうえつおよび軍事ぐんじ行動こうどう朝廷ちょうていいのちしたがうなどの観念かんねん成立せいりつした。藤原ふじわら制度せいど設立せつりつたずさわり、この制度せいどささえる朝廷ちょうていない独占どくせんてき氏族しぞくとなっていった。

しかし開始かいしやく100ねん経過けいかには、弥生やよい時代じだいより長期間ちょうきかんつづいていた農業のうぎょう生産せいさん向上こうじょう停滞ていたいしょう[注釈ちゅうしゃく 5][注釈ちゅうしゃく 6]。また、よりおおきい収入しゅうにゅうのぞ中央ちゅうおう貴族きぞく台頭たいとうともない、現実げんじつじょう経済けいざい制度せいどとして煩瑣はんさわりにはかれらの収入しゅうにゅうかならずしもおおきくはないなどと判断はんだんされ、奈良なら後期こうき平安へいあん初期しょきあらためられていった。古代こだいからの地方ちほう豪族ごうぞく伝統でんとうてき村落そんらく衰亡すいぼう解体かいたいすすみ、当初とうしょ律令制りつりょうせいささえることは困難こんなんとなった(ぞくする一人ひとりいちにん把握はあく困難こんなんとなった)。

朝廷ちょうていおよび中央ちゅうおう貴族きぞくは、より実質じっしつそくして制度せいど修正しゅうせい改革かいかくし、より効率こうりつてき統治とうちみずからの収入しゅうにゅう確保かくほできるよう、国家こっか軍事ぐんじりょく廃止はいし地方ちほうのインフラへの公的こうてき投資とうし縮小しゅくしょうかんどう国衙こくがなど)もすすめ、国司こくしにん税収ぜいしゅう中央ちゅうおうみつぎしんおもとなった。中央ちゅうおう貴族きぞく(および権門けんもん)は収入しゅうにゅう増加ぞうか成功せいこうする一方いっぽう淘汰とうたすすみ、氏族しぞく圧倒あっとうした藤原ふじわらきた朝廷ちょうてい独占どくせんてき地位ちいめ、貴族きぞく社会しゃかい王朝おうちょう国家こっか)の時代じだい移行いこうした。

発足ほっそく[編集へんしゅう]

日本書紀にほんしょき』によれば推古11ねん12月5にち604ねん1がつ11にち)にはじめてかんむりじゅうかい制定せいていなどのくにせい改革かいかく日本にっぽんおこなわれ、かんに12とうがあると『ずいしょ倭国わのくにでんしるされていることからも、身分みぶん秩序ちつじょさい編成へんせいし、官僚かんりょう制度せいどなか基礎きそつくるものであった[2]

646ねんから孝徳天皇こうとくてんのう中大兄皇子なかのおおえのおうじらがすすめた政治せいじ改革かいかく、いわゆる大化たいか改新かいしんにおいて、4つの施策しさく方針ほうしんしめされた。

  1. 豪族ごうぞく国造くにのみやつこ)らの私有地しゆうち廃止はいしし、人民じんみん所有しょゆう廃止はいしすること
  2. 中央ちゅうおう朝廷ちょうてい)による統一とういつてき地方ちほう統治とうち制度せいど創設そうせつすること
  3. 戸籍こせきけいとばりはんでんおさむ授法制定せいていすること
  4. 租税そぜい制度せいどさい編成へんせいすること

すなわち地方ちほう統治とうち制度せいどについては中央ちゅうおう政府せいふ朝廷ちょうてい)が、構成こうせいする諸国しょこく官僚かんりょうせいにより直接ちょくせつ統治とうちすることとした(豪族ごうぞく国造くにのみやつこ支配しはい廃止はいし)。また、中央ちゅうおう政府せいふ統率とうそつするだい規模きぼぐん軍団ぐんだん)をつくることとした。また日本にっぽん君主くんしゅごう天皇てんのうとし、諸国しょこくうえ君臨くんりんすることを明確めいかくした(「くに」のおうではなく、また、日本にっぽんくにではない位置付いちづけ)。

ただし、大化たいか改新かいしんのちに、これらの改革かいかくみな急速きゅうそく実施じっしされたわけではないとかんがえられている。

20世紀せいきちゅう後期こうきごろまでは、大化たいか改新かいしん日本にっぽん律令制りつりょうせい導入どうにゅうだったと理解りかいされていたが、1967ねん12月、藤原ふじわらきょう北面ほくめん外濠そとぼりから「おのれとしじゅうがつうえ捄国阿波あわひょう松里まつざと□」(おのれ亥年いどし西暦せいれき699ねん)とかれた木簡もっかんされぐん評論ひょうろんそう決着けっちゃくけられたとともに、改新かいしんみことのり文章ぶんしょうは『日本書紀にほんしょき編纂へんさんさいえられたことが明白めいはくになり、大化たいか改新かいしんしょ政策せいさく後世こうせい潤色じゅんしょくであることが判明はんめいかならずしも律令制りつりょうせい史上しじょうとはなされなくなってきた。たとえば、改新かいしんだいいち方針ほうしんおおやけ公民こうみんせい確立かくりつしたものとして評価ひょうかされてきたが、これは王土おうどおうみん理念りねん宣言せんげんしたのみにぎず、改新かいしんおおやけ公民こうみんせいという制度せいど構築こうちくされなかったとする見解けんかい有力ゆうりょくとなりつつある。大化たいか改新かいしんは『日本書紀にほんしょき』にえがかれるほどの画期的かっきてき改革かいかくではなく、その改革かいかくへのうごきは停滞ていたいしたとする見解けんかい広範こうはん支持しじあつめている[3][4]

終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

当初とうしょ制度せいど終焉しゅうえん衰退すいたい、もしくは修正しゅうせいされて存続そんぞくした。

  • 戸籍こせきもとづき、一人ひとりいちにん把握はあくもとづくしょ制度せいどはんでんおさむせいいさお調ちょう中央ちゅうおう朝廷ちょうていへの納税のうぜい軍団ぐんだんせいなど)は、維持いじ困難こんなんもしくは効率こうりつなされるようになり、おおきくあらためられた(8世紀せいき後期こうき以降いこう)。
  • 田畑たばた開墾かいこんなど)にたいする耕作こうさくけん私有しゆう世襲せしゅうを、一般人いっぱんじんへも一部いちぶみとめるようになった(8世紀せいき後期こうき以降いこう)。
  • 領地りょうち私有しゆうせいは、本来ほんらい制度せいどでも高位こうい身分みぶんおよびだい寺社じしゃ限定げんていされみとめられたが、墾田こんでん世襲せしゅうわされ荘園しょうえんせいとして中世ちゅうせいいたるまで発展はってんした。しかし室町むろまち時代じだい中期ちゅうき以降いこう全国ぜんこくてきに、大名だいみょうたちの実力じつりょくによる隣接りんせつする土地とち不法ふほうな押領(土地とちうば行為こうい)が常態じょうたいし、朝廷ちょうてい将軍家しょうぐんけ制止せいしできなくなった。
  • 太政官だじょうかんせいは、1885ねん明治めいじ18ねん)に廃止はいしされた。

基本きほん理念りねん[編集へんしゅう]

日本にっぽん律令制りつりょうせいは、中国ちゅうごく理想りそうとされてきた「土地とち人民じんみんおう支配しはい服属ふくぞくする」という理念りねんれた(王土おうどおうみん思想しそう王土おうどおうしんともう)。

中国ちゅうごく律令りつりょう古代こだい中国ちゅうごく西にしすすむからからあさの800年間ねんかんをかけて整備せいびされた)と統治とうち技術ぎじゅつとを、日本にっぽん[注釈ちゅうしゃく 7]へ、白村はくそんこうせん大敗たいはいにそれまでの国家こっか体制たいせいあらためるかたち移植いしょくした(一部いちぶ修正しゅうせいした)。

からあさ律令りつりょうれたが、伝統でんとうおよび実情じつじょうわせ国家こっかうごかすために調整ちょうせい修正しゅうせいした(空文くうぶんとなったものもおおい)[5]。このため、律令制りつりょうせい氏族しぞくせいとの2げん国家こっか体制たいせいとした[6]たとえば、郡司ぐんじ中央ちゅうおう官僚かんりょうではなく古来こらい地方ちほう豪族ごうぞく任用にんようされ、伝統でんとうてき村落そんらくたいする地方ちほう行政ぎょうせいおこなわれた(くにぐんさとせい)。また中国ちゅうごくでの皇帝こうてい権力けんりょく集中しゅうちゅうする科挙かきょ制度せいどや、側近そっきん政治せいじのための宦官かんがんせいれなかった[7]

中国ちゅうごくでは、皇帝こうてい新法しんぽう制定せいていしゃ最終さいしゅうてき権威けんいしゃ律令りつりょう超越ちょうえつできる(めいれいりつ18じょう非常ひじょうさいには律令りつりょうしたがわず裁断さいだんできる」とある)。これにたいして、日本にっぽんでは養老ようろう律令りつりょうめいれいりつ考課こうかれいかんじん犯罪はんざいじょうどう規定きていがあるが、実際じっさい天皇てんのう律令りつりょう拘束こうそくされ、律令りつりょう運用うんよう中心ちゅうしんは、太政官だじょうかん政官せいかんなどの貴族きぞくそうにあった[8]

日本にっぽん律令制りつりょうせいでは、とうれい皇帝こうてい土地とち支配しはいあらためて、土俗どぞくてき伝統でんとうてき氏族しぞくせい地方ちほう支配しはいみとめ、地方ちほう国造くにのみやつこからの朝廷ちょうてい大王だいおうへの宗教しゅうきょうてき祭祀さいしによるささげもののミツキによるみつぎおさめを、国家こっかによる地方ちほう支配しはい根幹こんかんとしている。中国ちゅうごく租庸調そようちょうとは性格せいかくおおきくえている。日本にっぽんでは、地方ちほう行政ぎょうせい機関きかんひょう制定せいてい民衆みんしゅう把握はあく戸籍こせきつくり、はんでんおさむ授法農地のうち調しら徴税ちょうぜい労役ろうえきすることが重視じゅうしされた。[9]

先行せんこう律令制りつりょうせい[編集へんしゅう]

高句麗こうくり百済くだらしんにはそれぞれの律令制りつりょうせいがあり、初期しょき日本にっぽん部民ぶみんせいれいせいこくれいせい)はこれらにならっていたことがうかがえる。 から王朝おうちょうは、律令りつりょう天下てんか君臨くんりんする中国ちゅうごく皇帝こうてい制定せいていすべき帝国ていこくほうであると、周辺しゅうへん諸国しょこく律令りつりょう編纂へんさんみとめなかったとするせつ有力ゆうりょくとなり[10]古代こだいひがしアジアくにでは施行しこうされておらず、とうせいならった体系たいけいてき法典ほうてん編纂へんさん施行しこうしたことが実証じっしょうされるのは日本にっぽんだけである[11]唐国からくにがわ律令りつりょう日本にっぽんでの受容じゅようらず、遣唐使けんとうし朝貢ちょうこうひん織物おりものへの「調布ちょうふ」との律令りつりょうてき記載きさいいぶかいただしたれいがある(『きゅうとうしょ 日本国にっぽんこくでん』)[12]

日本にっぽんでは律令りつりょう体制たいせい律令りつりょう国家こっかばれるが、当然とうぜん中国ちゅうごくにはこのような呼称こしょう存在そんざいしない[13]中国ちゅうごくにおいて「律令りつりょう」という言葉ことばはたからあきらまで長期ちょうきにわたって使つかわれており、そのあいだにその内容ないよう位置いちづけはおおきな変遷へんせんをみている。そのため、日本にっぽん律令制りつりょうせい直接的ちょくせつてきモデルとなったずいとう国家こっか体制たいせいをもって「律令制りつりょうせい」と定義ていぎすることは、中国ちゅうごく律令りつりょう変遷へんせん実情じつじょう無視むしすることとなり、またしんからあかりまでのおよそ1800年間ねんかんりつのみ存在そんざいしたきよしくわえれば2100年間ねんかん)の制度せいどいちくくりにすることにはあまり意味いみがないとするかんがえもある[14]

基本きほん制度せいど[編集へんしゅう]

日本にっぽん律令制りつりょうせいは、下記かき制度せいど統治とうち根幹こんかんとなっていた。大化たいか改新かいしん起点きてん律令りつりょう国家こっか目指めざし、制度せいど整備せいびおこなわれた。

一律いちりつてき耕作こうさくはんきゅうする土地とち制度せいど
はんでんおさむ授制はん田制たせい)として施行しこうされた。国家こっか保有ほゆうするから、さだめられた面積めんせき耕作こうさくけんぜん人民じんみん貸与たいよした(はんきゅう[15]
租税そぜい制度せいど
租庸調そようちょうせいとして施行しこうされた。はん給田きゅうでんからの収穫しゅうかくぶつは、国衙こくがおさめるぜい(租)とみずからの食料しょくりょうとへてた。
また一人ひとりいちにんてられたいさお調ちょう中央ちゅうおう朝廷ちょうていおさめられた。律令制りつりょうせい以前いぜん地方ちほう族制ぞくせいによるチカラ・ミツキ・タチカラの慣行かんこううえ成立せいりつした[16][17]
兵役へいえきせられる軍事ぐんじ制度せいど
軍団ぐんだんせいとして施行しこうされた。国司こくし選定せんていした人民じんみん兵役へいえき義務ぎむった(いちにつきおよそ一人ひとり)。ただし、東国とうごく関東かんとう)ばかりが防人さきもり兵役へいえき義務ぎむっていたなど、一律いちりつてき兵役へいえきされていないという実態じったいがあった。
地方ちほう行政ぎょうせい制度せいど
中央ちゅうおう中級ちゅうきゅう貴族きぞくかんじんなかから任命にんめいされた国司こくしもりかいじょう共同きょうどう責任せきにん)がれいせいこく行政ぎょうせいのために派遣はけんされた(4ねん交代こうたい)。
国司こくし重要じゅうよう任務にんむひとつは、その国内こくないから徴税ちょうぜいされたなかから、さだめられた中央ちゅうおうかんじん[18]寺社じしゃへの給与きゅうよとどこおりなく各々おのおのおさめることであり、任期にんき終了しゅうりょうにはきびしく考課こうかされた(違反いはんがあれば弁済べんさいもとめられた)。
その国内こくないでは、古代こだいからの地方ちほう豪族ごうぞく郡司ぐんじとして世襲せしゅう任命にんめいした。古代こだい村落そんらくたいする支配しはいをそのままかし、そのかく一人ひとりいちにんへのはんきゅう課税かぜい徴兵ちょうへい戸籍こせきけいとばり作成さくせい綿密めんみつになわれた。これが中央ちゅうおう朝廷ちょうてい財源ざいげんであるいさお調ちょうささえた。
官僚かんりょうせいくにせい組織そしき
国家こっか組織そしきとしては2かん8しょうせいだった。国家こっか権力けんりょくを5以上いじょう畿内きない貴族きぞくそう掌握しょうあくし、地方ちほう豪族ごうぞく支配しはい伝統でんとうてき大和やまと政権せいけん構成こうせい継承けいしょうしていた[19]
太政官だじょうかんれい権限けんげんつよく、太政官だじょうかん発議はつぎし、政官せいかんとの合議ごうぎのち上奏じょうそう裁可さいかされた。天皇てんのう権力けんりょくへも制約せいやくくわえるものだった[20]
位階いかい
位階いかいかんじんあたえられたくらい身分みぶん)をす。これはかんじん官職かんしょくよりも重要じゅうようされた[21][22]
族制ぞくせいてき要素ようそつよく、5以上いじょうかんじんは、畿内きない中央ちゅうおう氏族しぞく地方ちほう伝統でんとうてき有力ゆうりょく氏族しぞく独占どくせんした[23]
くわえて、5以上いじょう貴族きぞく子弟していへは21さい自動的じどうてき継承けいしょうする官職かんしょくあたえられた(かげせい)。
律令りつりょう法典ほうてん
制度せいど実施じっしするための律令りつりょう法典ほうてん整備せいびされた(中国ちゅうごく律令りつりょうから一部いちぶ改訂かいていしてれた)。社会しゃかい規範きはん規定きていする刑法けいほうてきりつ社会しゃかい制度せいど規定きていする行政ぎょうせいほうてきれい中心ちゅうしんてき位置いちめ、律令りつりょう不足ふそくおぎな改正かいせいほうとしてのかくおよび律令りつりょうかく施行しこう細則さいそくとしての性格せいかくしきひとつの法体ほうたいけいすなわ律令りつりょう法典ほうてん構成こうせいしていた。
駅伝えきでんせい
中央ちゅうおう地方ちほう情報じょうほう伝達でんたつ遅滞ちたいなくおこなうための交通こうつう制度せいど駅伝えきでんせい)がさだめられた。
貨幣かへい制度せいど
すめらぎあさじゅうぜに発行はっこうされたが、後述こうじゅつのとおり、日本にっぽんにおいては定着ていちゃくしなかった。

周辺しゅうへんひがしアジア諸国しょこくでは、中国ちゅうごく服装ふくそう役職やくしょく制度せいどれたが固有こゆうほうのままで、かつて654ねん導入どうにゅうされたとされていたしんでも律令りつりょう参照さんしょうして、独自どくじ国法こくほう整備せいびするかたちであった[24]

経緯けいい変遷へんせん[編集へんしゅう]

律令制りつりょうせい前身ぜんしん[編集へんしゅう]

大化たいか改新かいしん[編集へんしゅう]

645ねん難波なんばみやおこなわれた大化たいか改新かいしんとき日本にっぽんという国号こくごうとも最初さいしょ元号げんごうである大化たいか正式せいしきさだめられた。

近江おうみれい庚午こうごねんせき[編集へんしゅう]

律令制りつりょうせい導入どうにゅううごきが本格ほんかくしたのは、660年代ねんだいはいってからである。660ねん百済くだら滅亡めつぼうと、663ねん百済くだら復興ふっこう戦争せんそう白村はくそんこうたたか)での敗北はいぼくにより、とうしんとの対立たいりつ関係かんけい決定的けっていてき悪化あっかし、やまと朝廷ちょうてい深刻しんこく国際こくさいてき危機きき直面ちょくめんした。そこで朝廷ちょうていは、まず国防こくぼうりょく増強ぞうきょうはかることとした。危機きき意識いしき共有きょうゆうした支配しはい階級かいきゅう団結だんけつ融和ゆうわへとかい、当時とうじ天智天皇てんぢてんのう豪族ごうぞくさい編成へんせいするとともしに、挙国きょこくてきくにせい改革かいかく精力せいりょくてきすすめていった。その結果けっか大王だいおう天皇てんのう)へ権力けんりょくつよまった。この時期じき編纂へんさんしたとされた近江おうみれいは、くにせい改革かいかくすすめていく個別こべつ法令ほうれいぐん総称そうしょう体系たいけいてき編纂へんさん施行しこうはされていないとかんがえられている[25]天智天皇てんぢてんのうによる法令ほうれい官位かんい26かいせい各氏かくしとそのみんをさだめる軽易けいいなものである。重要じゅうようなのは、天智てんじ9ねん(670ねん)に、日本にっぽん史上しじょう最初さいしょ戸籍こせきとされる庚午こうごねんせき作成さくせいされた。せいがつけられその律令制りつりょうせい基礎きそともなった[26]

飛鳥あすかきよしはられい[編集へんしゅう]

天智天皇てんぢてんのう死後しごみずのえさるらんにより政権せいけん奪取だっしゅした天武天皇てんむてんのうは、軍事ぐんじ政治せいじさい優先ゆうせん項目こうもくき、専制せんせいてき政治せいじ推進すいしんしていった。主要しゅよう政治せいじポストには従来じゅうらい豪族ごうぞくではなくもろ皇子おうじをあてて、そのしたはたら官僚かんりょうたちの登用とうよう考課こうかせんじょなどかんじん統制とうせいかんする法令ほうれい整備せいびしていった。こうしたながれは、体系たいけいてき律令りつりょう法典ほうてん制定せいていへと帰着きちゃくすることになり、681ねん天武天皇てんむてんのう律令りつりょう制定せいていめいずるみことのり発出はっしゅつした。天武天皇てんむてんのう生前せいぜん律令りつりょう完成かんせいしなかったが、689ねんもちすべ天皇てんのう時代じだいれい完成かんせい施行しこうされた。これが飛鳥あすかきよしはられいである。このれいは、律令制りつりょうせい本格ほんかく施行しこうではなく先駆せんくてき施行しこうしたものとかんがえられている。れい原文げんぶん現存げんそんしていないので、詳細しょうさい判明はんめいしていないが、戸籍こせきを6ねんに1かい作成さくせいすること(ろくねん一造いちぞう)、50を1さととする地方ちほう制度せいどはんでんおさむ授にかんする規定きていなど、律令制りつりょうせい骨格こっかくがこのれいにより形成けいせいされたとかんがえられている。また、現在げんざい判明はんめいしている範囲はんいではきよしはられい官制かんせいなどの制度せいどは、南北なんぼくあさ時代じだいずい中国ちゅうごく制度せいど百済くだらしんなどの朝鮮半島ちょうせんはんとう制度せいどぜられたものとかんがえられている。

りつ制定せいていされなかった。その理由りゆうとしては、高度こうど体系たいけいせい必要ひつようとし、またずいりつあるいはからりつはまだ日本にっぽん伝来でんらいせず準備じゅんび不足ふそくだったとかんがえられている[注釈ちゅうしゃく 8]

日本にっぽんりつ編纂へんさんされるようになるには、とうとの関係かんけい改善かいぜんによってとうからのりつ法典ほうてん招来しょうらいされ、それを理解りかいして日本にっぽん国情こくじょうわせて改編かいへんできる人材じんざい確保かくほから留学生りゅうがくせい帰国きこく唐人とうじん来日らいにち)をたねばならなかったと推定すいていされている[27]

大宝たいほう律令りつりょう[編集へんしゅう]

その701ねんに、大宝たいほう律令りつりょう制定せいてい施行しこうされた。大宝たいほう律令りつりょうは、日本にっぽん史上しじょう最初さいしょ本格ほんかくてき律令りつりょう法典ほうてんであり、これにより日本にっぽん律令制りつりょうせい確立かくりつすることとなった。大宝たいほう律令りつりょう施行しこうは、当時とうじとしても非常ひじょう画期的かっきてきかつ歴史れきしてき一大いちだい事業じぎょうめられている。 大宝たいほう律令りつりょう制定せいてい過程かていで、しゅうあやじゅんじた正方せいほう中心ちゅうしんみやいき形式けいしきつくられた藤原ふじわらきょうが、北宮きたみやいき長方形ちょうほうけい長安ながやす見聞けんぶんした遣唐使けんとうしにより相違そういすると指摘してきされ、平城京へいじょうきょうが、9ねん歳月さいげつ建設けんせつされ遷都せんとされた[28][29]律令りつりょう編纂へんさん中心ちゅうしんてき役割やくわりたした藤原不比等ふじわらのふひとは、その大納言だいなごん右大臣うだいじん昇進しょうしん平城京へいじょうきょう遷都せんとにもおおきな役割やくわりをして、政府せいふ中枢ちゅうすうにおいて最大さいだい権力けんりょくしゃとなり、藤原ふじわら繁栄はんえい基盤きばんつくった。律令りつりょう制定せいていともなって、正史せいし日本書紀にほんしょき編纂へんさん風土記ふどきせんじょう度量衡どりょうこう制定せいていぜに鋳造ちゅうぞうなどがおこなわれた。これらは律令りつりょう直接ちょくせつ根拠こんきょつものではないが、いずれも律令制りつりょうせい不可欠ふかけつ構成こうせい要素ようそであった。

大宝たいほう律令りつりょうは、とうえい徽律れい(えいき-、651ねん制定せいてい)をもとにつくられた。しかし、から律令りつりょうには、日本にっぽん社会しゃかい情勢じょうせい適合てきごうしない箇所かしょもあったため、おおくの箇所かしょ日本にっぽん国情こくじょうわせた改変かいへんがなされている。大宝たいほう律令りつりょう制定せいていも、日本にっぽん国情こくじょう適合てきごうさせるよう律令りつりょう撰修せんしゅうつづけられ、聖武天皇しょうむてんのう時代じだい文化ぶんかにはきたたかし影響えいきょうつよいとされているが、その成果せいか養老ようろう律令りつりょうとしてまとめられ、757ねん施行しこうされた。

8世紀せいき初頭しょとう[編集へんしゅう]

はんせいなどがこうそうし、農業のうぎょう生産せいさんりょう増大ぞうだいともな人口じんこう増大ぞうだいした。反面はんめんはんきゅうすべき口分田くもで不足ふそくはじめた。

桓武かんむ天皇てんのう律令制りつりょうせい[編集へんしゅう]

8世紀せいきまつごろになると、いくつかの制度せいど実効じっこうせいうすれ、運用うんようされなくなったものもあらわれ、問題もんだいされるようになった。またそれらをそのまま放置ほうちすることは、財政ざいせいてきかつ人的じんてき負担ふたんおよび浪費ろうひとみなされるようになった。地方ちほうでは、郡司ぐんじつとめていた古来こらい地方ちほう豪族ごうぞく没落ぼつらく伝統でんとうてき村落そんらく解体かいたいすすみ、単位たんいとした人民じんみんいちにん一人ひとり把握はあく困難こんなんとなっていた。

そのため桓武かんむ天皇てんのうはこうした制度せいど廃止はいしし、簡素かんそかつ実効じっこうてき制度せいど置換ちかんするというだい規模きぼ改革かいかくおこなった。この改革かいかくは、律令制りつりょうせい理念りねんまもりながら、さい編成へんせい意図いとしたものであり、桓武かんむ天皇てんのうは、長岡京ながおかきょう平安京へいあんきょうへの遷都せんとや、たい蝦夷えぞ戦争せんそうへの積極せっきょくてき遂行すいこう実施じっしした。またそれらの中断ちゅうだん中止ちゅうしおこなわれた。これらは従来じゅうらいとは異質いしつ統治とうち体制たいせいきずこうとするものであり、律令制りつりょうせいさい編成へんせいであるとるのがおも見解けんかいであるが、律令制りつりょうせい中核ちゅうかくおおきくうしな桓武かんむ天皇てんのう時代じだい律令制りつりょうせい実質じっしつじょう終焉しゅうえんとする論者ろんしゃもいる。

ただし軍団ぐんだん兵士へいしせい廃止はいし治安ちあん悪化あっかさせ、軍事ぐんじ警察けいさつ組織そしきとして検非違使けびいしがおかれるようにはなったものの、結果けっかとして戦国せんごく時代じだいまでおよそ7世紀せいき日本にっぽん列島れっとう混乱こんらんまねくこととなった。

また奈良なら時代じだいの783ねんからは朝廷ちょうてい貨幣かへい鋳造ちゅうぞうしはじめたが、インフレーション対策たいさくとして度々どど改鋳かいちゅうおこなわれており、すめらぎあさじゅうぜに改鋳かいちゅうのたびに目方めかたしつ低下ていかしたため(デノミネーション)、信用しんよう低下ていかぜにばなれがしょうじ、平安へいあん時代じだい終期しゅうきには物々交換ぶつぶつこうかん経済けいざいへの逆戻ぎゃくもどりがられた[30]

国司こくし受領じゅりょうへの権限けんげん委譲いじょうすすんだ。

かくしきへの移行いこう律令制りつりょうせい衰退すいたい[編集へんしゅう]

その9世紀せいき前期ぜんきから中期ちゅうきにかけて、律令制りつりょうせいさい整備せいびしようとするうごきが活発かっぱつとなる。律令りつりょう修正しゅうせいほうであるかく(きゃく)と律令りつりょうかく施行しこう細則さいそくであるしき(しき)が、大宝たいほう律令りつりょう施行しこう以後いごおおのこされていたが、820ねんにそれらを集成しゅうせいしたひろじん格式かくしき編纂へんさんされた。さら830ねんには、てんちょう格式かくしき撰修せんしゅうされ、834ねんにはれい官製かんせい逐条ちくじょう解説かいせつである『れいかい』(りょうのぎげ)が施行しこうされた。これらは、律令制りつりょうせい実質じっしつ維持いじしていこうとする意思いしあらわれだった。しかし、律令制りつりょうせい弛緩しかん換言かんげんすればべつ統治とうち体制たいせいへの移行いこうは、時代じだいうたびに進展しんてんし、とくはん田制たせい崩壊ほうかいいちじるしかった。こうした状況じょうきょうで、870ねん前後ぜんこうさだかん格式かくしき編纂へんさん頒布はんぷされるとともに、868ねんには、律令りつりょう条文じょうぶん多様たよう解釈かいしゃく集成しゅうせいした私的してき律令りつりょう解説かいせつほんの『れいしゅうかい』(りょうのしゅうげ)がおもんみ宗直むねなおほんによりしるされた。

宇多天皇うだてんのうもとはたらいていた菅原すがわら道真みちざねおなじく宇多天皇うだてんのう側近そっきん藤原ふじわらひらた障害しょうがいとなり、ときたいら道真みちざね遣唐使けんとうしとしてとうおくってしまおうとした。しかし道真みちざね宇多天皇うだてんのうからの遣唐使けんとうし要請ようせい拒否きょひし、894ねん遣唐使けんとうし廃止はいしした。これにより日本にっぽん独自どくじ文化ぶんかである国風くにぶり文化ぶんか時代じだいがやってくることになる。律令制りつりょうせいとうくに見習みならったものであったこともあったのでとうとの交流こうりゅうがなくなってしまったことも衰退すいたい一因いちいんといえる。907ねんとうほろぶとその要因よういんつよくなった。

901ねん道真みちざね藤原ふじわらたいら陰謀いんぼう醍醐天皇だいごてんのうへの謀反むほんぎぬせられて太宰府だざいふ左遷させんされ(あきらたいへん)、同地どうち903ねんぼっした。道真みちざねから6ねん藤原ふじわらひらたが39さいわかさで病死びょうしする。その京都きょうとでは道真みちざね怨霊おんりょうだとわんばかりの天候てんこう不順ふじゅん役人やくにん醍醐だいご上皇じょうこうが930ねんほうずるあたりまでつづく。

朱雀すざく天皇てんのう時代じだい律令りつりょう国家こっか衰退すいたい象徴しょうちょうする事件じけん東西とうざいこった。律令制りつりょうせいもとでの政治せいじ不満ふまん人々ひとびとひきいて関東かんとうでの平将門たいらのまさかど瀬戸内海せとないかいでの藤原ふじわらじゅんとも朝廷ちょうてい打倒だとう反乱はんらんである(うけたまわひらてんけいらん)。これには平将門たいらのまさかどらん平貞盛たいらのさだもりひきいるたいらが、藤原ふじわらじゅんともらん源経基みなもとのつねもとひきいるみなもと鎮圧ちんあつにあたった。これによりみなもと平二へいじ進出しんしゅつするきっかけになって、時代じだいはやがて律令りつりょう国家こっかから武家ぶけ社会しゃかいへと移行いこうすることになった。

967ねんには、最後さいご格式かくしきとなる延喜えんぎしき施行しこうされた。しかし、律令制りつりょうせいはこの時期じきにほぼ実態じったいうしなってしまう。おおくの論者ろんしゃが、律令制りつりょうせいおそくとも10世紀せいきすえまでに死滅しめつしたとしている。律令制りつりょうせいもとづく律令りつりょう国家こっかから請負うけおい統治とうち依拠いきょする王朝おうちょう国家こっか前期ぜんき王朝おうちょう国家こっか)へ転換てんかんしたとする見解けんかい広範こうはん支持しじている。ただし、律令制りつりょうせい死滅しめつは、律令りつりょうもしくは律令りつりょうほう死滅しめつかならずしも意味いみしていないので、律令りつりょう名目めいもくじょう完全かんぜん終焉しゅうえん時期じき重要じゅうようであるが、制度せいどとしての律令制りつりょうせい崩壊ほうかいしたことに注意ちゅういする必要ひつようがある。11世紀せいき以降いこうも、律令りつりょう一部いちぶ条文じょうぶん効力こうりょく保持ほじしていたからである。

武家ぶけ社会しゃかい成立せいりつ律令制りつりょうせい終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

みなもと鎌倉かまくら幕府ばくふもうけて平家ひらか道教どうきょう影響えいきょうりょくうすまったのち、平安へいあん時代じだい公家くげ寺社じしゃ領地りょうちには地頭じとうかれるようになった。さらに、みなもとほろんだ2ねん承久じょうきゅうらん朝廷ちょうていがわちから武家ぶけ政権せいけんより弱体じゃくたいであることをしめすものであり、朝廷ちょうていがわはあっけなく敗北はいぼくする。ちなみに、初期しょき地頭じとうにはしょができないものもいたという。

鎌倉かまくら幕府ばくふたおれた直後ちょくご律令制りつりょうせいへの回帰かいきもとめるうごきもすくなからずなん出現しゅつげんしていた。これをけて、後醍醐天皇ごだいごてんのう律令りつりょう国家こっかもどすことを理想りそうかかげたたてたけし新政しんせいおこない、土地とち五摂家ごせっけなどとつながる新興しんこう公家くげあたえ、また旧来きゅうらい武士ぶし資産しさん政略せいりゃく結婚けっこんなどにより新興しんこう公家くげ吸収きゅうしゅうしていった。しかしながら、律令制りつりょうせい根幹こんかん王土おうどおうみん思想しそういちくん万民ばんみん思想しそう武家ぶけ政治せいじ根幹こんかん封建ほうけんてき君主くんしゅせいとは相容あいいれない存在そんざいであり、たてたけし新政しんせいわば時代遅じだいおくれの政治せいじ体制たいせいであったことはいなめなくなっていた。結果けっかたてたけし新政しんせい武士ぶし不満ふまんつのりわずか3ねん失敗しっぱいする。

このように、鎌倉かまくら時代ときよから江戸えど時代じだいになるまでの時代じだい律令制りつりょうせい完全かんぜんわったと做されているが、律令りつりょうなかには明治維新めいじいしんまで有効ゆうこうとされていたものもある。れいとして太政官だじょうかんせいがあり、1885ねん明治めいじ18ねん)に廃止はいしされるまでつづいた。

制度せいど[編集へんしゅう]

天皇てんのう[編集へんしゅう]

養老ようろう律令りつりょうには、制令せいれい天皇てんのう君主くんしゅごうとして天子てんし皇帝こうていならべて規定きていする[31]天皇てんのうはっする命令めいれいやその手続てつづきについては、律令りつりょう規定きていがあり、天皇てんのう行為こうい律令りつりょう制約せいやくけていた。さらとうせいのように天皇てんのう三省みつよしろく相当そうとうするしょ機関きかんかんはちしょう)を直接ちょくせつ統括とうかつしておらず、政務せいむには太政官だじょうかんあいだはいかたちとなったために、太政官だじょうかんによってその権限けんげん制約せいやくされていた。

また、皇位こうい生前せいぜん譲位じょういしたしゃ太上天皇だじょうてんのう上皇じょうこうともいう)と規定きていされていたが、これは中国ちゅうごく律令りつりょうにない独自どくじ地位ちいである。律令りつりょうじょう太上天皇だじょうてんのう天皇てんのう同等どうとう地位ちい解釈かいしゃくすることが通例つうれいとされており、実際じっさいには太上天皇だじょうてんのう天皇てんのうよりも上位じょういとされることもおおかった。たとえば、奈良なら時代じだいひじりたけし太上天皇だじょうてんのうは、実質じっしつてきこうけん天皇てんのうよりも上位じょういしゃとされていたし、平安へいあん後期こうきはじまる院政いんせい同様どうようである。

統治とうち機構きこう[編集へんしゅう]

律令りつりょうさだめる統治とうち機構きこうは、祭祀さいし所管しょかんする神祇官じんぎかんと、政務せいむ一般いっぱん統括とうかつする太政官だじょうかんかんおおきくけられていた。中国ちゅうごく律令りつりょうでは、祭祀さいし所管しょかんちょう通常つうじょう官庁かんちょう同列どうれつかれていたが、日本にっぽん律令りつりょうは、神祇官じんぎかんくことで祭祀さいし政務せいむ明確めいかく分離ぶんりした。太政官だじょうかんしたには、実際じっさい行政ぎょうせい担当たんとうするはちしょうかれ、さら各省かくしょうした個々ここ事務じむ分掌ぶんしょうするしょくりょうつかさしょなどのしょ官庁かんちょうかれた。この機構きこう総称そうしょうしてかんはちしょうという。

太政官だじょうかんは、国政こくせい意思いし決定けっていおこなもっと重要じゅうよう機関きかんであり、太政大臣だじょうだいじん左大臣さだいじん右大臣うだいじん大納言だいなごんのち中納言ちゅうなごん参議さんぎくわわる)による政官せいかん組織そしきとそれを実務じつむめん補佐ほさする少納言しょうなごん左右さゆうべんかんきょくそときょくから構成こうせいされていた。

政官せいかん政務せいむ重要じゅうよう案件あんけん審議しんぎし、最終さいしゅうてき裁可さいか天皇てんのうおこなうとされていた。重要じゅうようでない案件あんけん場合ばあいは、政官せいかん審議しんぎのみとされた。このように政官せいかん任務にんむ非常ひじょう重要じゅうようであり、実質じっしつてき国政こくせい意思いし決定けってい左右さゆうする組織そしきであった。天皇てんのう裁可さいか、もしくは政官せいかん審議しんぎして決裁けっさいされた案件あんけんは、べんかん回付かいふされ、べんかん太政官だじょうかん作成さくせいして実行じっこううつされた。べんかん国政こくせい中枢ちゅうすう実務じつむになっていたため、これも重要じゅうよう官職かんしょくられていた。また、天皇てんのう案件あんけん提起ていきする場合ばあいは、天皇てんのうから中務なかつかさしょうめいじて詔書しょうしょ作成さくせいされ、中務なかつかさしょう起案きあんした詔書しょうしょ文案ぶんあんは、そときょく点検てんけんけて天皇てんのうまたはべんかん回付かいふされており、そときょく重要じゅうよう部署ぶしょ認識にんしきされていた。決裁けっさいされた政策せいさく実行じっこうするのがはちしょうであり、ひだりべんかんみぎべんかんよんしょうずつ担当たんとうしていた。

以上いじょう太政官だじょうかん組織そしき形態けいたいは、から律令りつりょうのそれをおおきく改変かいへんしたものである。から律令りつりょうでは、国政こくせい意思いし決定けってい機構きこうは、天子てんしいのちけて政策せいさく企画きかく立案りつあんする中書ちゅうしょしょう中書ちゅうしょ立案りつあん審議しんぎする門下もんかしょう門下もんかしょう同意どういした政策せいさく実行じっこうする尚書しょうしょしょうから構成こうせいされていた。このうち、中書ちゅうしょしょう天子てんしとのつながりがつよかったが、門下もんかしょう貴族きぞくそう意思いし代表だいひょうする機関きかんであり、中書ちゅうしょ門下もんかちから拮抗きっこうしていた。日本にっぽん比較ひかくしてみると、中書ちゅうしょしょう中務なかつかさしょう門下もんかしょう政官せいかん尚書しょうしょしょう左右さゆうべんかんおよびそのしたはちしょうたる、日本にっぽんでは太政官だじょうかん門下もんか尚書しょうしょ両省りょうしょうねてさら中書ちゅうしょしょうである中務なかつかさしょう指揮しきするなど強力きょうりょく権限けんげんゆうし、とりわけ門下もんかしょうたる政官せいかんすなわ貴族きぞくそう役割やくわり非常ひじょうおおきかったことがわかる。

地方ちほう統治とうちは、中央ちゅうおうちか大和やまとこく山城やましろこく河内かわうちこく和泉いずみこく摂津せっつこくこく畿内きないとし、その東海道とうかいどう東山ひがしやまみち北陸ほくりくどう山陽さんようどう山陰さんいんどう南海なんかいどう西海にしうみみちななつのみち(どう)に区分くぶんした。これを畿七どうという(1869ねん北海道ほっかいどう新設しんせつされてから畿八どうばれる)。行政ぎょうせい単位たんいとしては、くにぐんさとさとさんそうけて、くにには国司こくしぐんには郡司ぐんじさとにはさとちょうさとちょう)をいた。このうち、国司こくしには中央ちゅうおうから派遣はけんされたが、郡司ぐんじさとちょうはかつての在地ざいち首長しゅちょうである地域ちいき豪族ごうぞくそう終身しゅうしんかんとして任命にんめいされ、実質じっしつじょう自分じぶん支配しはい地域ちいき行政ぎょうせい単位たんいとしてみとめられていた。これについては、日本にっぽん律令制りつりょうせいが、律令りつりょうもとづく国家こっかによる人民じんみん支配しはい並行へいこうして、在地ざいち首長しゅちょうによる氏族しぞくせいてき人民じんみん支配しはいをも内包ないほうしていたとする見解けんかいがある。

重要じゅうよう地域ちいきには特別とくべつ機関きかんかれた。首都しゅとであるきょういき管轄かんかつするひだり右京うきょうしょく首都しゅと外交がいこう窓口まどぐちである難波なんば管轄かんかつする摂津せっつしょく国家こっか外交がいこう窓口まどぐちである西海さいかいどう管轄かんかつする大宰府だざいふである。

中央ちゅうおう地方ちほう情報じょうほう伝達でんたつ迅速じんそく円滑えんかつおこなうために駅伝えきでんせい実施じっしされ、この駅伝えきでんせいもとで、中央ちゅうおう諸国しょこくとをむす道路どうろもう整備せいびされていた。道路どうろもうは、幅員ふくいんひろなが直線ちょくせん区間くかん古代こだい日本にっぽんのハイウェイであり、現代げんだいまでその痕跡こんせきのこっている。

以上いじょう統治とうち機構きこうぞくする官僚かんりょうは、それぞれ官職かんしょく位階いかいあたえられていた。官職かんしょくとは官庁かんちょうにおける役職やくしょくで、べて官庁かんちょうないでは役職やくしょくよんかいきゅうすなわ長官ちょうかん(かみ)・次官じかん(すけ)・判官ほうがん(じょう)・しゅてん(さかん)に区分くぶんされていた。これを四等官しとうかんせいという。また、位階いかいとは官僚かんりょう序列じょれつあらわ等級とうきゅうである。律令りつりょうにおいて、すべての官職かんしょく相当そうとうする位階いかいさだめられており、これを官位かんい相当そうとうせいという。たとえば、べんかんきょく次官じかんである左右さゆうちゅうべんせいじょうさだめられ、せいじょうものなかから左右さゆうちゅうべん選任せんにんされていた。位階いかいのうち以上いじょうものには位田いでんくらいふうくらいろくぶんじん使用人しようにん)が給与きゅうよされるなどおおくの特権とっけんあたえられており、特別とくべつ身分みぶん階層かいそう形成けいせいしていた。これを貴族きぞくという。

人民じんみん統治とうち[編集へんしゅう]

日本にっぽん律令制りつりょうせいにおいては、人民じんみん統治とうち基盤きばんとして、戸籍こせき世帯せたいごとに人民じんみん詳細しょうさい記載きさい登録とうろくしたもの)とけいとばり調しらべいさおぜい徴収ちょうしゅうするための台帳だいちょう)が作成さくせいされ、毎年まいとし更新こうしんされていた。

はんでんおさむ授制[編集へんしゅう]

くには、戸籍こせきもとにして、一定いってい資格しかくものたい一律いちりつおな面積めんせき口分田くもでとしてはんきゅうし、そのものねば口分田くもでおさむこうしていた。これをはんでんおさむ授制はん田制たせいという。律令りつりょうでは、口分田くもでおおやけではなくわたし規定きていされていた(これにより従来じゅうらいおおやけ公民こうみん概念がいねん否定ひていされつつある)。 口分田くもでほかには、以上いじょうものはんきゅうされた位田いでん天皇てんのうから特別とくべつあたえられたたまものとく功績こうせきのこしたものあたえられたこう官職かんしょくおうじてはんきゅうされたしょく仏教ぶっきょう寺院じいん維持いじ運営うんえいにあてられた寺田てらだ神社じんじゃ維持いじ運営うんえいにあてられた神田かんだ以上いじょうはんきゅうのこりの乗田のりたがあった。また、宅地たくち園地えんちはんきゅう対象たいしょうとされたが、おさむおおやけはされず、自由じゆう売買ばいばいできた。

税制ぜいせい租庸調そようちょう[編集へんしゅう]

田地でんちはんきゅうけたものは、原則げんそくとして田租でんそ納税のうぜいする義務ぎむったが、なかには納付のうふ義務ぎむ免除めんじょされる田地でんちもあった。田租でんそ賦課ふか対象たいしょうとなる田地でんち輸租といい、田租でんそ免除めんじょされた田地でんち輸租というが、口分田くもで位田いでんたまものでんこうでん郡司ぐんじへのしょくが輸租とされ、郡司ぐんじ以外いがいしょくでん寺田てらだ神田かんだのみが輸租とされた。

  • は、てられた口分田くもで収穫しゅうかくりょうのうち3%をいねたばおさめた。国衙こくがせいくらたくわえられ、地方ちほう行政ぎょうせい財源ざいげんとなった。

当時とうじきょという貸借たいしゃく制度せいどがあったが、国司こくし郡司ぐんじ田租でんそいねなか強制きょうせいてき百姓ひゃくしょうけて、利子りしいねていた。これはおおやけきょまたはせいぜいばれ、田租でんそならんで地方ちほう貴重きちょう財源ざいげんとなった。

百姓ひゃくしょうは、田租でんそ以外いがいにも調しらべいさおなどを負担ふたんする義務ぎむせられていた。

  • いさおは、元来がんらいでの労役ろうえき従事じゅうじすることだったが、その代替だいたいとしてぬのべいしおなどを中央ちゅうおう納付のうふする内容ないようとなっていた。
  • 調しらべは、男性だんせい賦課ふかされたもの納税のうぜいであり、きぬぬのしおかみ染料せんりょう海草かいそうあぶらなどの地域ちいき特産とくさんひんおさめられた。調ちょう中央ちゅうおう財源ざいげんであり、直接ちょくせつみや納付のうふすることとされていた。そのため、百姓ひゃくしょうなかから運搬うんぱんするものうんあしという)がえらばれ、まで運送うんそうしていった。この時期じきに、はつみなもとてき運送うんそうぎょう発生はっせいしていたとする見解けんかいもある。
  • 租・いさお調ちょう詳細しょうさいについては、租庸調そようちょうこう参照さんしょう
ざつ[編集へんしゅう]

ざつは、国司こくしいのちしたがって、その国内こくない土木どぼく工事こうじ政府せいふ機関きかんでの雑用ざつよう従事じゅうじする労役ろうえき義務ぎむである。また、やといやくばれる給与きゅうよ支払しはらわれる労役ろうえきもあった(きょう庶民しょみんには調しらべいさお免除めんじょするわりにやとえやくした)。

中国ちゅうごくではざつ徭とはべつばれる労役ろうえき義務ぎむ存在そんざいしており、たいするざつ徭の位置付いちづけについては諸説しょせつがある。

仕丁じちょう[編集へんしゅう]

仕丁じちょうは、いち(50)ごとに2人ふたりが3年間ねんかんはたらぜい生活せいかつ自己じこ負担ふたんであったが、調しらべいさおざつ徭は免除めんじょされた。[32]

兵役へいえき[編集へんしゅう]

以上いじょう租税そぜい負担ふたんのほか、百姓ひゃくしょう兵役へいえき義務ぎむっていた。律令制りつりょうせいにおける軍事ぐんじ制度せいど基本きほん軍団ぐんだんせいだった。成年せいねん男性だんせいなかから徴兵ちょうへいされ、3〜4ぐんごとにかれた軍団ぐんだん兵士へいしとして配属はいぞくされた。軍団ぐんだん訓練くんれんけた兵士へいしは、中央ちゅうおうたる畿内きない配転はいてんされて衛士えじとして1年間ねんかん王城おうじょう周辺しゅうへん警備けいびたった。また、関東かんとう兵士へいしは、北九州きたきゅうしゅう防人さきもりとして3年間ねんかん配属はいぞくされ、沿岸えんがん防備ぼうびなどに従事じゅうじした。

身分みぶん制度せいど[編集へんしゅう]

日本にっぽん律令制りつりょうせいにおける身分みぶんは、良民りょうみん賤民せんみん大別たいべつされる。良民りょうみんは、高級こうきゅう官僚かんりょうである貴族きぞくはじめ、下級かきゅうかんじん一般いっぱん百姓ひゃくしょう公民こうみんばれることもあった)、雑色ざっしょくじんしなざつという工芸こうげい技術ぎじゅつはん自由じゆうみん)があった。賤民せんみん五色ごしきの賤われ、りょう天皇てんのう皇族こうぞく陵墓りょうぼ代々だいだいまも家系かけい)、かんしょ官庁かんちょうぞく公用こうよう従事じゅうじ)、おおやけ奴婢ぬひ官有かんゆう奴隷どれい)、家人かじん貴族きぞく有力ゆうりょくしゃぞく雑用ざつよう従事じゅうじ)、わたし奴婢ぬひ私有しゆう奴隷どれい)があった。

賤民せんみんのうち、おおやけ奴婢ぬひわたし奴婢ぬひ売買ばいばい対象たいしょうとされるなど、奴隷どれいとして位置いちづけられていた。このように、律令制りつりょうせいでは奴隷どれいせい存在そんざいしていた。

中国ちゅうごくにおける律令りつりょう[編集へんしゅう]

概要がいよう[編集へんしゅう]

律令制りつりょうせいがたは、ふるはたかんまでさかのぼるともいわれているが、当時とうじ単行たんこう法令ほうれいあるいは必要ひつようおうじてそれらを集成しゅうせい整理せいりしたものにぎず、まとまった法典ほうてん形式けいしきっていなかったとかんがえられている。中国ちゅうごく史上しじょうでは、西にしすすむからとうにかけての王朝おうちょう顕著けんちょである。とう同様どうよう体系たいけいてき法典ほうてん編纂へんさん施行しこうしたことが実証じっしょうされるのは日本にっぽんだけである[11]律令りつりょう制定せいていできるのは中国ちゅうごく皇帝こうていだけであり、中国ちゅうごくからさつふうけたくににはゆるされないことだった[10]律令制りつりょうせい中国ちゅうごくすすむ南北なんぼくあさ時代じだいにおいて出現しゅつげんし、徐々じょじょ形成けいせいされていった。こうかん末期まっきから戦乱せんらん時代じだいながつづき、中国ちゅうごく社会しゃかい混乱こんらんきわめ、ほとんど崩壊ほうかいいたっていた。こうした社会しゃかい再建さいけんのため、たかしつづしょ王朝おうちょうは、王土おうどおうみん理念りねんによる統治とうち指向しこうするようになった。王土おうどおうみん思想しそうもっと反映はんえいしていたのがひとし田制たせいである。おうみずからの支配しはいする土地とちを、みずからが支配しはいする人民じんみん百姓ひゃくしょう)へ直接ちょくせつ中間なかま支配しはいしゃである豪族ごうぞくかいさずに)はんきゅうするというものであり、儒教じゅきょうてき理想りそう多分たぶんふくんでいた。中国ちゅうごくでは、土地とちはんきゅうよりも租税そぜい確保かくほ重視じゅうしされていた。

7世紀せいき初頭しょとうにおいて、世界せかいかんたる公法こうほう体系たいけいといわれているとう律令制りつりょうせい形成けいせいには、北朝ほくちょうにおいて鮮卑漢人かんど支配しはいしたこと、すなわち民族みんぞく漢人かんど統治とうちほう必要ひつようであったことがおおきな契機けいきとなったとかんがえてよいという[33]

個人こじん課税かぜい対象たいしょうとする体系たいけいてき租税そぜい制度せいど
中国ちゅうごくでは租庸調そようちょうせいとして施行しこうされた。人民じんみん耕作こうさくはんきゅう代償だいしょうとして納税のうぜい義務ぎむった。土地とちはんきゅう人民じんみんいちにん一人ひとりたいしておこなわれたので、課税かぜい個人こじんたいしてなされた。これは、律令りつりょう国家こっかによる人民じんみん支配しはい非常ひじょう徹底てっていしていたことを物語ものがたっている。また、課税かぜい恣意しいせい介入かいにゅう排除はいじょして、だれたいしてもおなじように一律いちりつおこなわれた。
一律いちりつてき兵役へいえきせられる軍事ぐんじ制度せいど
中国ちゅうごくでは兵制へいせいとして施行しこうされた。耕作こうさくはんきゅう代償だいしょうとして兵役へいえき義務ぎむった。ただし、とうだい江南こうなん地方ちほうでは兵役へいえきがほぼ免除めんじょされていて、かならずしも一律いちりつてき兵役へいえきされていないという実態じったいがあった。
人民じんみん把握はあくするための地方ちほう行政ぎょうせい制度せいど
中国ちゅうごくでは郷里きょうりせい採用さいようした。支配しはい貫徹かんてつするために、末端まったんちかくまで官僚かんりょう体系たいけいてき配置はいちされていた。この制度せいどもとで、はんきゅう課税かぜい徴兵ちょうへい台帳だいちょうとなる戸籍こせきけいとばり作成さくせい可能かのうとなった。ぎゃくえば、戸籍こせきけいとばり作成さくせいによって、上記じょうきさん制度せいど実施じっし可能かのうとなった。

たかし[編集へんしゅう]

は、戦乱せんらんによって耕作こうさくしゃがいなくなった田地でんち人民じんみん支給しきゅうしてぐんかて徴収ちょうしゅうする屯田とんでんせいと、兵役へいえき義務ぎむつのはへいでありほか一般いっぱん区別くべつするへいせい採用さいようしていた。また、税制ぜいせいとしては、土地とち面積めんせきごとに一定いっていがく田租でんそ賦課ふかする定額ていがく田租でんそと、ごとに物納ぶつのうする調ちょうおこなっていた。これらの制度せいどは、そのしょ王朝おうちょう継承けいしょうしてゆき、律令制りつりょうせい基礎きそ形成けいせいすることとなった。あかりみかど時代じだいしんりつ編纂へんさんされてはじめてりつ法典ほうてん実施じっしされたものの、れいかんしてはしゅうぐんれい尚書しょうしょぐんれいぐんちゅうれいかれており法典ほうてんとしては不完全ふかんぜんなものであった[14]

西にしすすむ[編集へんしゅう]

つぎ西にしすすむは、土地とち制度せいどうらない田制たせいあらたにき、兵制へいせい税制ぜいせい前代ぜんだいへいせい調ちょうせいおおむ継承けいしょうした。西にしすすむ268ねんにはやすしはじめ律令りつりょう制定せいていされ、これが最初さいしょ律令りつりょう法典ほうてんだとされている。

きたたかし北朝ほくちょう[編集へんしゅう]

そのえびすじゅうろくこく時代じだいて、中国ちゅうごく北部ほくぶ統一とういつして北朝ほくちょう最初さいしょ王朝おうちょうとなったきたたかしは、律令制りつりょうせい形成けいせいおおきく貢献こうけんした。きたたかしはまず、人民じんみん体系たいけいてき支配しはいするためにさんちょうせいという地方ちほう行政ぎょうせい制度せいど実施じっしした。これにより、租税そぜい徴収ちょうしゅう戸籍こせき作成さくせい一律いちりつてきおこなうことができるようになった。だい6だい皇帝こうてい孝文たかふみみかどは、さんちょうせい成果せいか前提ぜんていとして、ひとし田制たせいひとしせい実施じっしした。これは、一律いちりつ耕作こうさく支給しきゅういちりつ基準きじゅん徴税ちょうぜいおこなうというもので、これにより律令制りつりょうせい基礎きそ形成けいせい完了かんりょうしたとされている。なお、ひとしせい夫婦ふうふたいして課税かぜいすることとしていたため、課税かぜい単位たんい中心ちゅうしん単位たんいから夫婦ふうふ単位たんいへと移行いこうした。きたつぎ西にしたかしでは、へいせいわって兵制へいせいというへいのう一致いっち原則げんそくとするあらたな兵制へいせいまれ、そのつぎきたあまねは、儒教じゅきょう教典きょうてんしゅうあやもとづいて三省みつよしろく官制かんせい整備せいびし、租庸調そようちょうばれる税制ぜいせい開始かいしした。その北朝ほくちょうしょ王朝おうちょうもまた、これらの制度せいど継承けいしょうした。律令制りつりょうせい形成けいせい北朝ほくちょうおも舞台ぶたいとしていた。北朝ほくちょうはこれらの制度せいど背景はいけい国力こくりょく増強ぞうきょうしていき、次第しだい南朝なんちょう圧迫あっぱくしていった。

ずい[編集へんしゅう]

589ねんずいやく270ねんぶりに中国ちゅうごく統一とういつたした。中国ちゅうごく統一とういつ先立さきだ581ねんずいぶんみかどひらきすめらぎ律令りつりょう制定せいてい施行しこうしているが、非常ひじょう体系たいけいてき内容ないようゆうしており、これにより律令制りつりょうせい完成かんせいしたとされている。りつでは、残虐ざんぎゃく刑罰けいばつ廃止はいしされ、わかりやすい内容ないよう簡素かんそされている。官制かんせい整備せいびされ三省みつよしろくだいかれ、官僚かんりょう登用とうようたっては、幅広はばひろ門戸もんこひら科挙かきょはじめた。またひとし田制たせいいて給付きゅうふ課税かぜい対象たいしょうがそれまでの夫婦ふうふ単位たんいから男性だんせい個人こじん単位たんいちょうちゅうおとこ)へと移行いこうしている。これは、統一とういつされたことにより給付きゅうふ対象たいしょう大幅おおはばえ、そのことから土地とち不足ふそく原因げんいんおもわれる。つぎ煬帝だいには、その改正かいせいである『大業おおわざ律令りつりょう』が頒布はんぷされたが、『ひらきすめらぎ律令りつりょう』と大差たいさがなかった。

とう[編集へんしゅう]

ずいこく反乱はんらんしゃ代表だいひょうとう初代しょだい皇帝こうていである高祖こうそは、『ひらきすめらぎ律令りつりょう』にもとづいて『武徳ぶとく律令りつりょう』を頒布はんぷした。その代々だいだい改正かいせいくわえられ、げんむねあさひらきもと25ねん737ねん)に頒布はんぷされた『ひらけもとじゅうねん律令りつりょう』は、ひがしアジア諸国しょこくでも踏襲とうしゅうされた。ただし、実情じつじょう律令りつりょう規定きてい現実げんじつ社会しゃかいとは乖離かいりしつつあり、律令りつりょうおぎな格式かくしき重視じゅうしされるようになった。よって、律令りつりょう本文ほんぶんはやくに散逸さんいつしたが、りつについてははやしはじめらによる注釈ちゅうしゃくしょからりつ疏義』がのこり、れいについては、1933ねん日本にっぽん中国ちゅうごく法制ほうせい学者がくしゃである仁井田にいだが、和漢わかん典籍てんせきより逸文いつぶんを輯逸し、『とうれい拾遺しゅうい』をあらわしている。

とう律令制りつりょうせいは、ずい律令制りつりょうせいをほぼそのまま継承けいしょうしたものであった。律令制りつりょうせいにより国力こくりょく充実じゅうじつしたとうだい帝国ていこくをきずきあげ、ひがしアジア諸国しょこくおおきな影響えいきょうあたえた。

中国ちゅうごく律令制りつりょうせい最盛さいせいは、とうはつ中期ちゅうきとされているが、かならずしも律令制りつりょうせい厳密げんみつ施行しこうされていたわけではなかった。たとえば、ずい以前いぜんひとし田制たせい北朝ほくちょうのみで施行しこうされており、南朝なんちょうでは実施じっしされていなかったので、から初期しょきにおいてひとし田制たせいは、おそらく華北かほく中心ちゅうしん施行しこうされたにとどまっただろうとかんがえられている。律令りつりょうわくないでも様々さまざま名目めいもくだい土地とち所有しょゆう可能かのうとなっており、貴族きぞくそう中心ちゅうしん荘園しょうえん存在そんざいしていたという事実じじつもある。また、から中期ちゅうきには「江南こうなん地方ちほう裕福ゆうふくになったのは、この地方ちほう百姓ひゃくしょうへい負担ふたん免除めんじょされているからだ」とする記録きろくもあり、兵制へいせい実施じっし徹底てっていしていなかったことが判明はんめいしている。

崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

から中期ちゅうきまでは律令制りつりょうせい統治とうち機能きのうたしていたが、8世紀せいきなかごろのげんむねになると律令制りつりょうせい徐々じょじょ崩壊ほうかいはじめる。まず兵制へいせい機能きのうしなくなり、募兵ぼへい中心ちゅうしんとする募兵ぼへいせい節度せつど使導入どうにゅうされた。ひとし田制たせい根幹こんかんとなる百姓ひゃくしょうへの耕作こうさく支給しきゅうは、次第しだい実施じっしされなくなり、それにともなって租庸調そようちょうせいかなくなったため780ねん税制ぜいせいりょう税制ぜいせいへと移行いこうした。また、758ねんには困窮こんきゅうする国家こっか財政ざいせいあらたな財源ざいげんとして、しおてつ専売せんばいせい開始かいししている。律令制りつりょうせい運営うんえいする官僚かんりょう制度せいどおおきく変容へんようし、律令りつりょう規定きていのないれいそとかん非常ひじょう多数たすうまれていた。こうした変化へんか背景はいけいには、地方ちほう新興しんこう地主じぬしそうによるだい土地とち所有しょゆう官僚かんりょう進出しんしゅつ進展しんてんがあった。これにより、社会しゃかいおおきく変動へんどうはじめたため、従来じゅうらい統治とうち制度せいどである律令制りつりょうせい機能きのう不全ふぜんおちいり、崩壊ほうかいすすんでいった。から後期こうきになると、律令制りつりょうせいびうるものはほぼ消滅しょうめつした。律令りつりょうそうにおいても編纂へんさんされ、モンゴルけいもとによる中断ちゅうだんはさんであきらでもおこなわれた。しかし、次第しだいとき皇帝こうていみことのりあらたに編纂へんさんされたかいてん影響えいきょうおおきくなると、律令りつりょう役割やくわり縮小しゅくしょうし、きよしではりつのみが編纂へんさんされるようになった。

朝鮮半島ちょうせんはんとうにおける律令りつりょう[編集へんしゅう]

高句麗こうくり高句麗こうくり集団しゅうだん部族ぶぞくにより、しんしんろくの6地域ちいきと17等級とうきゅう官位かんいにより、百済くだらは、うちしんうちあたま内法うちのり衛士えじ朝廷ちょうていへいかんろく佐平さへいかんじゅうせい(ぶしせい)によって、くに経営けいえいおこなわれていた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 貢物みつぎもの定期ていきてきけ、中華ちゅうか帝国ていこくてき秩序ちつじょならった立場たちば位置いちづけた。律令制りつりょうせい以前いぜんしんたいしてにん調しらべもとめた。
  2. ^ 指定していした土地とち収穫しゅうかくぶつから直接的ちょくせつてき収入しゅうにゅうることがみとめられた。
  3. ^ 公務こうむじゅんずる活動かつどうみとめられたたか身分みぶん第一人者だいいちにんしゃが、実際じっさいてき日本にっぽん公務こうむ全般ぜんぱんになうように移行いこうして、律令制りつりょうせい王朝おうちょう国家こっか時代じだい移行いこうし、江戸えど時代じだいまでその原則げんそくつづいた。
  4. ^ たとえば明治維新めいじいしん(の前後ぜんご)にともない、武家ぶけから統治とうちけん領主りょうしゅけんなどが返上へんじょうされた。
  5. ^ 人口じんこう増大ぞうだい日本人にっぽんじん体格たいかく向上こうじょう頭打あたまうちとなった。
  6. ^ 気象きしょう条件じょうけん原因げんいんかんがえられている。
  7. ^ 社会しゃかい発展はってん段階だんかい実態じったい当時とうじおおいにことなる。
  8. ^ 平安へいあん時代じだい著作ちょさくになるが、『日本にっぽん国見くにみざい書目しょもくろく』のなかずいれい存在そんざい確認かくにんできる一方いっぽうで、ずいりつ存在そんざい確認かくにんできないため、ずいりつ日本にっぽんにはつたわらなかったとみられている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 大津おおつとおる 2020, p. 7, 「はじめに」.
  2. ^ 井上いのうえ光貞みつさだかんむりじゅうかいとその史的してき意義いぎ」(『日本にっぽん歴史れきし』176ごう、1963ねん)283ぺーじ
  3. ^ 木下きのした正史せいし藤原ふじわらきょう』「藤原ふじわらきょう出土しゅつど木簡もっかんが、ぐん評論ひょうろんそう決着けっちゃくさせる」(中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2003ねん p64)
  4. ^ 大樹たいじゅ飛鳥ひちょう木簡もっかん』「大化たいか改新かいしんはあったのか」(中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2012ねん p49)
  5. ^ 大津おおつとおる 2020, pp. 57、76-77.
  6. ^ 大津おおつとおる 2020, p. 80.
  7. ^ 村井むらい康彦やすひこ律令りつりょう虚実きょじつ』<講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ> 2005ねん、pp.13-16
  8. ^ 大津おおつとおる 2020, pp. 77–79.
  9. ^ 大津おおつとおる 2020, pp. 80-82、90-91.
  10. ^ a b 坂上さかがみかんしゅん大宝たいほう律令りつりょう制定せいてい前後ぜんこうにおけるにちちゅうあいだ情報じょうほう伝播でんぱ池田いけだあつしりゅう俊文としふみへんにちちゅう文化ぶんか交流こうりゅう叢書そうしょ法律ほうりつ制度せいど大修館書店たいしゅうかんしょてん、1997ねん、p.49
  11. ^ a b 山内やまうち昌之まさゆき古田ふるた博司ひろし近代きんだい日本にっぽんにおけるひがしアジア共通きょうつう文化ぶんかろん軌跡きせき
  12. ^ 石井いしい正敏まさとしへん) 2011, p. 54、もりこうあきら朝鮮ちょうせんさんこく動乱どうらん倭国わのくに
  13. ^ 菊池きくち秀明ひであきにちちゅう政治せいじ社会しゃかい構造こうぞう比較ひかくp8 (にちちゅう歴史れきし共同きょうどう研究けんきゅう報告ほうこくしょ p153)
  14. ^ a b 廣瀬ひろせかおるつよしはたかん律令りつりょう研究けんきゅう2010ねん汲古書院しょいんだい一部いちぶだいいちしょう律令りつりょう時代じだい區分くぶんについて」
  15. ^ 死後しごおさむこうした。
  16. ^ 地方ちほう豪族ごうぞく天皇てんのう祭祀さいし宗教しゅうきょうてきちから期待きたいしてささげものとしておさめ、祖先そせんかみ々に奉納ほうのうして収穫しゅうかく感謝かんしゃし、今後こんご豊作ほうさくいのり、国家こっか安寧あんねいいのったものである。
  17. ^ 大津おおつとおる 2020, pp. 88–91.
  18. ^ 給与きゅうよがく位階いかい官職かんしょくなどにおうじてさだめられた。
  19. ^ 大津おおつとおる 2020, pp. 98–100.
  20. ^ とうでは皇帝こうてい命令めいれいはつみことのりした。
  21. ^ 位階いかい秩序ちつじょとして天皇てんのうとの距離きょりとして位置いちづけられた。
  22. ^ これは官職かんしょくくらい重視じゅうしされる中国ちゅうごくおおきくことなる。
  23. ^ 大津おおつとおる 2020, pp. 95–98.
  24. ^ 大津おおつとおる 2020, p. 57.
  25. ^ 青木あおき和夫かずお日本にっぽん律令りつりょう国家こっか論攷ろんこう岩波書店いわなみしょてん、1992ねん、p.77「きよしはられい古代こだい官僚かんりょうせい
  26. ^ 大津おおつとおる 2020, pp. 43–45.
  27. ^ 榎本えのもと淳一じゅんいち「〈ひがしアジア世界せかい〉における日本にっぽん律令制りつりょうせい」(大津おおつとおる へん律令制りつりょうせい研究けんきゅう入門にゅうもん名著めいちょ刊行かんこうかい、2011ねん
  28. ^ 広瀬ひろせ和雄かずお考古学こうこがく基礎きそ知識ちしき』KADOKAWA <角川かどかわ選書せんしょ> 2007 p.337-338
  29. ^ 金子かねこ裕之ひろゆき平城京へいじょうきょうにおける長安ながやすじょう影響えいきょう」『ひがしアジアの都市とし形態けいたい文明ぶんめいだい21しゅう国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター 2004ねん
  30. ^ 東野とうの 1997, p. 70.
  31. ^ 大津おおつとおる 2020, p. 16.
  32. ^ 黒田くろだ日出男ひでお監修かんしゅう帝国ていこく書院しょいん編集へんしゅうへん図説ずせつ 日本にっぽん通覧つうらん帝国ていこく書院しょいん、2014ねん、64ページ
  33. ^ 佐伯さえき, とみ羽田はた, あきら山田やまだ, 信夫しのぶ ほか へん東洋とうよう大学だいがくゼミナール』法律文化社ほうりつぶんかしゃ、1990ねん1がつ1にち、75ぺーじISBN 4589004747 

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