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越後えちごこく

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越後えちごこく

-越後えちごこく
-北陸ほくりくどう
別称べっしょう こししゅう(えっしゅう)[注釈ちゅうしゃく 1]
所属しょぞく 北陸ほくりくどう
相当そうとう領域りょういき 新潟にいがたけん本州ほんしゅう部分ぶぶんおよび粟島あわしま
しょもと
国力こくりょく うえこく
距離きょり 遠国おんごく
ぐんさとかず 7ぐん34さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
越後えちご国府こくふ 新潟にいがたけん上越じょうえつ
越後えちご国分寺こくぶんじ推定すいてい新潟にいがたけん上越じょうえつ
越後えちご国分こくぶ尼寺あまでらしょう
一宮いちのみや 彌彦やひこ神社じんじゃ新潟にいがたけん西蒲原にしかんばらぐん弥彦やひこむら
神社じんじゃ新潟にいがたけん上越じょうえつ
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越後えちごこく(えちごのくに)は、かつて日本にっぽん行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。北陸ほくりくどうぞくする。

沿革えんかく

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越後えちごこく細見さいけん天保てんぽう13ねん(1842ねん)、池田いけだ東籬とうりていへん

前身ぜんしん4世紀せいきだい設置せっちされた久比くび岐国づくり高志こうし深江ふかえ国造くにのみやつこ、その豪族ごうぞく領域りょういきで、律令制りつりょうせい施行しこうともなってそれらかく領域りょういき統合とうごうされた。

7世紀せいきまつ文武ぶんぶ天皇てんのう元年がんねん697ねん以前いぜんのいずれかのとしになされたえつこくこしのくに)のいわせん(いわふね)・渟足(ぬたり)のぐん分割ぶんかつによって成立せいりつした。当初とうしょ領域りょういきは、現在げんざい新潟にいがたけん本州ほんしゅう部分ぶぶん北部ほくぶ阿賀野川あがのがわ以北いほくか)から山形やまがたけん庄内しょうない秋田あきたけん方面ほうめんで、日本海にほんかいがわ蝦夷えぞ領域りょういきせっする辺境へんきょうこくであった。

蝦夷えぞ政策せいさく拠点きょてんこくとして大宝たいほう2ねん702ねん)3がつに、えつ中国ちゅうごくからしん不知ふち以東いとう、すなわち頸城ぐん古志こしぐん魚沼うおぬまぐん蒲原かまはらぐんよんぐんゆずけた。和銅わどう元年がんねん708ねん)に、きた領域りょういきばして出羽いずはぐんあたらしく設置せっちななぐん体制たいせいとなった。出羽いずはぐんてるのと前後ぜんごして出羽でわしがらみ築造ちくぞうしがらみ移住いじゅうおこなわれた。さらに、和銅わどう5ねん712ねん9月23にち に、出羽いずはぐん出羽でわこくとして分離ぶんりしたことで、後々あとあとまでつづ越後えちごかたちができあがった。天平てんぺい16ねん743ねん2がつ11にち佐渡さどこくわせたが、天平てんぴょうかちたから4ねん752ねん11月3にちもとふくした。その沼垂ぬったりぐん蒲原かまはらぐん統合とうごうされたり、古志こしぐんから三嶋みしまぐん(みしまぐん、のちの刈羽かりわぐん)、ついで三島みしまぐん(さんとうぐん)が分立ぶんりつするなどぐん変動へんどうがあった。

大和やまと政権せいけん蝦夷えぞにおける版図はんと拡大かくだいしろしがらみもうけて、みなみ地域ちいき人民じんみん移民いみんし、開発かいはつむらづくりにたらせ公民こうみんとし、ぐん設置せっちした。越後えちご設置せっちされたしろしがらみは、647ねん大化たいか3ねん)渟足しがらみ新潟にいがたか)、648ねん大化たいか4ねんいわぶねしがらみ新潟にいがたけん村上むらかみか)である。

近代きんだい以降いこう沿革えんかく

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天保てんぽうこく絵図えず越後えちごこく高田たかだ長岡ながおか天保てんぽう9ねん(1838ねん)。国立こくりつ公文書こうぶんしょかんデジタルアーカイブより。
越後えちご高田たかだじょうさんじゅう新潟にいがたけん上越じょうえつ

国内こくない施設しせつ

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国府こくふ

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国府こくふ頸城ぐんにあった。10世紀せいきごろまでの国衙こくが上越じょうえつ今池いまいけせつ有力ゆうりょくされる[1]。11世紀せいき以降いこう中世ちゅうせい国衙こくがには諸説しょせつあるが、近年きんねんでは上越じょうえつ直江津なおえつ地区ちくにあったとかんがえられている[1]

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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尼寺あまでらあとしょう

神社じんじゃ

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延喜えんぎ式内しきないしゃ
延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ11しゃ小社しょうしゃ5553しゃけい5654しゃ記載きさいされている(「越後えちごこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ1しゃ以下いかしめすもので、名神めいしん大社たいしゃである。
総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか
中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』にもとづく一宮いちのみや以下いか一覧いちらん[2]

なお、一宮いちのみや天津てんしん神社じんじゃ糸魚川いといがわ)とするせつもある。

地域ちいき

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江戸えど時代じだいはん

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人物じんぶつ

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国司こくし

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越後えちごもり

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守護しゅご

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鎌倉かまくら幕府ばくふ

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室町むろまち幕府ばくふ

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武家ぶけ官位かんいとしての越後えちごもり

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名誉めいよ称号しょうごうとしての越後えちご朝廷ちょうていから芸術げいじゅつ職人しょくにんへの受領じゅりょう

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  • 藤原ふじわら貞勝さだかつ(のちの都万つま大夫たいふ) 浄瑠璃じょうるり太夫たゆう家元いえもと寛文ひろふみ3ねん1663ねん)にせいろく[注釈ちゅうしゃく 3]越後えちご(えちごのさかん)を受領じゅりょう[注釈ちゅうしゃく 4]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 別称べっしょうこししゅう」は、越前えちぜんこくえつ中国ちゅうごくとあわせて、または単独たんどくでの呼称こしょう
  2. ^ 山東さんとう(さんとう)ぐんからてんじたため。
  3. ^ 本来ほんらいは、律令りつりょううえこくしゅてん(さかん)は、したがえはち
  4. ^ 江戸えど時代じだい武家ぶけ官位かんい下限かげんは、大名だいみょうしたがえしょ大夫たいふ旗本はたもとせいろく布衣ふいたいらでもせいななである。はち以下いか受領じゅりょうまれとなった。

出典しゅってん

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  1. ^ a b 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』(岩田いわた書院しょいん、2000ねん)p. 370。
  2. ^ 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』(岩田いわた書院しょいん、2000ねん)pp. 364-370。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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