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上杉うえすぎぼうあさ

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上杉うえすぎぼうあさ
時代じだい 室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん おうひさし28ねん1421ねん
死没しぼつ ぶんやす6ねん2がつ27にち1449ねん3月21にち
改名かいめい さいわいりゅうまる幼名ようみょう)→ぼうあさ
別名べつめい 通称つうしょう五郎ごろう
戒名かいみょう 常春とこはるいんけん幢常しょう
官位かんい ひだりすけみん大輔だいすけ兵庫ひょうごあたま
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 越後えちご守護しゅご
主君しゅくん 足利あしかが義教よしのり義勝よしかつ
氏族しぞく 越後えちご上杉うえすぎ
父母ちちはは ちち上杉うえすぎ朝方あさがた
兄弟きょうだい ぼうあさあさじょう
養子ようしぼうじょう上杉うえすぎ清方きよかた
テンプレートを表示ひょうじ

上杉うえすぎ ぼうあさ(うえすぎ ふさとも)は、室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき守護しゅご大名だいみょう越後えちごこく守護しゅご越後えちご上杉うえすぎ5だい当主とうしゅ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

おうひさし28ねん1421ねん)、上杉うえすぎ朝方あさがたとして誕生たんじょうおうなが28ねん1421ねん)に祖父そふぼうかた死去しきょし、いでおうなが29ねん1422ねん)10がつちち朝方あさがた死去しきょすると、さいわいりゅうまるぼうあさ)の叔父おじよりゆきかたさいわいりゅうまる幼少ようしょうであることを名目めいもく越後えちご守護しゅごとなった。よりゆきかた守護しゅごだい長尾ながお対立たいりつおうなが大乱たいらんとよばれるたたかいをまねいたが戦果せんかおもわしくなく、さらにちをかけるようにおうなが31ねん1424ねん)12月に管領かんりょう畠山はたけやま満家みついえが「上杉うえすぎ惣領そうりょうとしててる」として、よりゆきかたかんからぼうあさうばるという事件じけんこった。こののちぼうあさ家臣かしんらはたよかた対立たいりつする長尾ながおくにけいむすびついていった。やがておうながらんよりゆきかた敗北はいぼくわり、よりゆきかた没落ぼつらくぼうあさ正式せいしき越後えちご守護しゅごとなった。

しかしくにけいはその守護しゅご存在そんざいなか無視むしして室町むろまち幕府ばくふとの関係かんけい維持いじし、幕府ばくふくにけいへの国政こくせい委任いにん容認ようにんしていた。しかし鎌倉かまくら滅亡めつぼうと6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのりによって状況じょうきょう一転いってんし、くにけい専断せんだんされていた越後えちご支配しはいぼうあさおおきくかかわるようになった。叔父おじ憲実のりざねぼうあさ次男じなんりゅうはる保護ほごたのみ、ぶんやす3ねん1446ねん)にはみずか現地げんちくだ佐橋さはし刑部おさかべしょう輔を討伐とうばつするなど守護しゅごとしてのちから誇示こじするまでになったが、たからいさお元年がんねん1449ねん)2がつ27にち京都きょうとかん急死きゅうしした。享年きょうねん29。あと従弟じゅうていぼうじょういだ。

なお、ぶんやす4ねん1447ねん)には万寿まんす王丸おうまる足利あしかが成氏しげうじ)の関東かんとう帰還きかん実現じつげんした。通説つうせつではぼうじょう幕府ばくふはたらきかけたためだとしているが、ぼうじょうはまだ守護しゅご就任しゅうにんしていないため、ぼうあさがその役割やくわりたしたとるべきというせつもある。