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応永の乱 (越後国) - Wikipedia コンテンツにスキップ

おうながらん (越後えちごこく)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

おうながらん(おうえいのらん)は、室町むろまち時代じだいおうひさし30ねん1423ねん)からおうなが33ねん1426ねん)にかけて、越後えちご守護しゅご上杉うえすぎよりゆきかた守護しゅごだい長尾ながおくにけい越後えちごこく全体ぜんたいんであらそった事件じけんである。越後えちごおうなが大乱たいらんばれる。

幕府ばくふ鎌倉かまくら対立たいりつにおける越後えちごこく地理ちりてき条件じょうけんや、守護しゅご領国りょうごく支配しはいたいする国人くにびとそう抵抗ていこう[1]幕府ばくふ管領かんりょう畠山はたけやま細川ほそかわ対立たいりつ起因きいんする上杉うえすぎ内訌ないこう[2]といった要因よういんかさなってこった。

背景はいけい

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おうひさし23ねん1416ねん)にこった上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらん戦後せんご処理しょりめぐって幕府ばくふ鎌倉かまくら関係かんけい急激きゅうげき悪化あっかしていた。そんななかおうなが28ねん1421ねん)に越後えちご守護しゅご上杉うえすぎぼうかた死去しきょし、ぼうかたあといだ上杉うえすぎ朝方あさがたよく29ねん1422ねん)10がつ死去しきょした。朝方あさがたのあとにはわずか2さい遺児いじさいわいりゅうまる上杉うえすぎぼうあさ)がのこされたが、あらたに越後えちご守護しゅごとなったのは朝方あさがたおとうと上杉うえすぎよりゆきかただった。この背景はいけいには管領かんりょう畠山はたけやま満家みついえまえ管領かんりょう細川ほそかわみつるもと対立たいりつがあった。

よりゆきかた越後えちご守護しゅごとなったおうひさし29ねんから30ねんにかけて関東かんとう公方くぼう足利あしかが持氏もちうじ京都きょうと扶持ふちしゅ討伐とうばつおこなっており、幕府ばくふ鎌倉かまくら対立たいりつさら深刻しんこくなものとなっていた。これより以前いぜんよりゆきかたおとうと憲実のりざね山内やまうち上杉うえすぎ養子ようしはいっていたことから、よりゆきかた将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちから関東かんとう内通ないつううたがいをかけられた。おうなが30ねん1423ねん)9がつには義持よしもちによるよりゆきかた討伐とうばつうわさながれ、よりゆきかたはあわや切腹せっぷくかという状況じょうきょうまでいつめられたが、よりゆきかた支援しえんしゃである細川ほそかわみつるもとらの必死ひっし説得せっとく赦免しゃめんされた。

一方いっぽう上杉うえすぎぼうかただいから守護しゅごだいつと越後えちご支配しはい実権じっけんにぎっていた長尾ながおくにけい鎌倉かまくらつうじていた。よりゆきかた自身じしんにかけられたうたがいをらすためにもくにけい討伐とうばつのぞんだ。おうなが30ねん1423ねん)11がつ初旬しょじゅん幕府ばくふたよかた越後えちご国人くにびとたちにくにけいばつ御教書みぎょうしょ発給はっきゅうしたことで越後えちごおうなが大乱たいらんはじまった。

らん経過けいか

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このらん経過けいかは、一貫いっかんして守護しゅごかたとしてたたかったあげきたしゅ中条ちゅうじょうぼうしるしている[3]動乱どうらん様子ようすつたえる史料しりょうがないためあげきたしゅ様子ようす中心ちゅうしんとなる。

だい1

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守護しゅごかた勢力せいりょくは、よりゆきかた実家じっか山浦やまうら地方ちほう拠点きょてんとする山浦やまうら上杉うえすぎ上杉うえすぎよりゆきふじや、長尾ながおちょうけい幕府ばくふからいのちけた中条ちゅうじょうぼう黒川くろかわはじめ本庄ほんじょう色部いろべ加地かじ新発田しばたといったあげきたしゅだった。

それにたい守護しゅごだい長尾ながおくにけい上杉うえすぎ一族いちぞく三宝さんぼうてら大将たいしょう対抗たいこうした。

守護しゅごかたあげきたしゅ護摩堂ごまどう大面おおも陣取じんど三条さんじょうじょうこめ山吉やまよしめたが、黒川くろかわ加地かじ新発田しばたらが突如とつじょじんし、ぼうがいた笹岡ささおかじん退路たいろことわった。よりゆきふじ三条さんじょうじょうへの攻撃こうげき中断ちゅうだんじんき、堀越ほりこし要害ようがいとしてから黒川くろかわじょう三宝さんぼうてらとももる黒川くろかわはじめめた。

このときよりゆきふじあさけい伊達だてむねにも援軍えんぐんもとめていた。よりゆきふじ伊達だて軍勢ぐんぜい5000あまりが黒川くろかわしろめ、やがてもとじつ降参こうさんした。それにいで加地かじ新発田しばた守護しゅごかた降参こうさんしたのでらん一旦いったん収束しゅうそくした。こののち、「謀叛ぼうほん張本人ちょうほんにん」である黒川くろかわはじめじつ伊達だてぐん夜討ようち切腹せっぷくしている。

政情せいじょう変化へんか

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一方いっぽう在京ざいきょうしていた守護しゅご上杉うえすぎよりゆきかた状況じょうきょうわりつつあった。おうなが31ねん1424ねん)2がつには幕府ばくふ鎌倉かまくら和睦わぼくし、同年どうねん12がつにはよりゆきかたのもとにいていたさいわいりゅうまる上杉うえすぎぼうあさ)も管領かんりょう畠山はたけやま満家みついえうばられてしまった。満家みついえは「さいわいりゅうまる上杉うえすぎ惣領そうりょうであるからてる」と主張しゅちょうしており、よりゆきかたは「面目めんぼくうしな没落ぼつらくした」とうわさされるまでの状況じょうきょうおちいった。 満家みついえ支援しえんさいわいりゅうまる側近そっきんたちはくにけいむすびつき、越後えちごこくでは「さいわいりゅうまるくにけい」ラインと「よりゆきかたよりゆきふじあさけい」ラインというふたつの公権力こうけんりょくから恩賞おんしょう安堵あんどじょう乱発らんぱつされる事態じたいとなった。さいらん必定ひつじょうであった。

だい2

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おうなが33ねん1426ねんあきふたた越後えちご動乱どうらんこる。

守護しゅごよりゆき藤方ふじかたであるあげきたしゅ軍勢ぐんぜい三条さんじょうじょう山吉やまよし久盛ひさもりめた。しかし落城らくじょう間近まぢかかとおもわれたときに、加地かじ新発田しばたらはふたた府中ふちゅうくにけいかた)に寝返ねがえったのである。ぼうはなんとか江上こうじょうかんもどったが、長尾ながおじょうけい実景じっけい加地かじ新発田しばたらの大軍たいぐんせたため、10月にはかん脱出だっしゅつして河間こうましろもった。11月、ふゆおとずれをまえてき軍勢ぐんぜいってったが、守護しゅごかた完敗かんぱいであることは明白めいはくだった。

らん終結しゅうけつ

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こうして「いちこく大乱たいらんおよんだ」としるされるおうながらん守護しゅごかた敗北はいぼくわった。幕府ばくふくにけい討伐とうばつれいむすんだ。細川ほそかわみつるもとすで死去しきょしており、うしたてうしなったよりゆきかた守護しゅごしょく罷免ひめんされさいわいりゅうまるあらたに越後えちご守護しゅごとなった。

危機きき実力じつりょくった長尾ながおくにけい鎌倉かまくらりだった姿勢しせいあらため、急速きゅうそく幕府ばくふ接近せっきんしていった。

よりゆきかたらん直後ちょくごから赦免しゃめんもうてており、えいとおる4ねん1432ねん)におとうと上杉うえすぎ憲実のりざねつうじて要請ようせいしたときには幕府ばくふもこれをゆるすが、くにけいはなお不満ふまんがあったことがうかがえる[4]よりゆきかたはほどなく死去しきょした。

一方いっぽう長尾ながおくにけいうしたてとなっていた畠山はたけやま満家みついええいとおる5ねん1433ねん)に病死びょうしする。将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのり自分じぶん不信ふしんかんいているのをかんじていたくにけいは、よく6ねん1434ねん)に急遽きゅうきょ上洛じょうらく献上けんじょうひん持参じさんして将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのり会見かいけんをして信任しんにんた。

また、越後えちご国人くにびとたちにおよぼした影響えいきょうおおきなものがあった。らん過程かてい中条ちゅうじょう黒川くろかわはそれぞれ惣領そうりょう庶子しょしあいだ分裂ぶんれつこし、おなじく三浦みうら和田わだ関沢せきざわ守護しゅご被官ひかんとなった。このことから、おうなが大乱たいらん越後えちご国人くにびとそう惣領そうりょうせい完全かんぜん解体かいたいをもたらし、守護しゅご支配しはいあげきたまでおよ契機けいきになったものと評価ひょうかされている。

しかし、たからいさお元年がんねん1449ねん)に、京都きょうと越後えちご往来おうらいして守護しゅご権力けんりょく回復かいふくはかろうとしていたぼうあさ急逝きゅうせいする[5] と、越後えちごふたた不安定ふあんてい状況じょうきょうむかえることになった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 佐藤さとう(2006)、48-50ぺーじ (「越後えちごおうなが内乱ないらん長尾ながおくにけい初出しょしゅつ1976ねん)。
  2. ^ 新潟にいがたけん 通史つうしへん2』、208-212ぺーじ従来じゅうらいこの大乱たいらん対立たいりつしたのはぼうあさくにけいとされていたが、『けん』において歴代れきだい越後えちご守護しゅご朝方あさがたぼうあさのあいだによりゆきかたがいることが論証ろんしょうされてからはたよかたくにけい対立たいりつとみられることがおおい。ほんこうも『けん』にしたがう。
  3. ^ 中条ちゅうじょうしげる叟記ろく」 (『新潟にいがたけん 資料しりょうへん 中世ちゅうせい』No.1316)
  4. ^ まんすみじゅんきさき日記にっき同年どうねん3がつ18にち・29にちじょう
  5. ^ 上越じょうえつ 通史つうしへん2』。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 佐藤さとう博信ひろのぶ越後えちご中世ちゅうせい世界せかい岩田いわた書院しょいん、2006ねん
  • 山田やまだ邦明くにあきおうなが大乱たいらん」 『新潟にいがたけん 通史つうしへん2 中世ちゅうせいだい2しょうだい2せつだい1こう新潟にいがたけん、1987ねん
  • 田村たむらひろし越後えちごおうなが大乱たいらん」 『上越じょうえつ 通史つうしへん2』だい1だい5しょうだい3せつ上越じょうえつ、2004ねん