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黒川くろかわ

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黒川くろかわ(くろかわし)は、日本にっぽん氏族しぞく起源きげんことなるいくつかの系統けいとうがある。

  1. 陸奥むつ黒川くろかわ河内かわうちはじめ足利あしかがながれ斯波しば一門いちもん最上もがみ一族いちぞく
  2. 越後えちご黒川くろかわ坂東ばんどうたいら三浦みうらながれ和田わだ一族いちぞくあげきたしゅ
  3. 信濃しなの黒川くろかわ木曾きそりゅう信濃しなのこく木曾きそたに国人くにびと
  4. 黒川くろかわ越智おちせい河野こうの一族いちぞく
  5. 周防すおう黒川くろかわ大内おおうち一族いちぞく

陸奥むつ黒川くろかわ

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黒川くろかわ
本姓ほんせい 清和せいわはじめ最上もがみながれ[1]
いえ 黒川くろかわ氏直うじなお[1]
種別しゅべつ 武家ぶけ
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

斯波しば一門いちもん大崎おおさき分家ぶんけ最上もがみ一族いちぞく[1]陸奥みちのくこく黒川くろかわぐん国人くにびと領主りょうしゅ家紋かもん足利あしかがおなじ「ふたつ引両」および「さんきり」。

黒川くろかわ初代しょだい氏直うじなお出自しゅつじについては、以下いかさんせつがある。

  1. 最上もがみ初代しょだい兼頼かねより(1315ねん-1379ねん)の[1]ぼつ年月日ねんがっぴしょう。(「報恩寺ほうおんじきゅうぞう黒川くろかわ系図けいず」)
  2. 最上もがみだい2だい直家なおいえ[1]おうひさし26ねん1419ねん)6がつ28にち死去しきょみつる。(『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかまき80所収しょしゅう最上もがみ系譜けいふ」)
  3. 最上もがみだい3だい満直みつただ文明ぶんめい3ねん1471ねん)6がつ18にち死去しきょ。(「水沢すいたく大衡おおひら系図けいず」)

最上もがみ系譜けいふ」と「水沢すいたく大衡おおひら系図けいず」とでは、氏直うじなお没年ぼつねんはん世紀せいきちかがあり、また黒川くろかわ歴代れきだい位牌いはいには氏直うじなおものわりに、文明ぶんめい4ねん1472ねん)8がつ15にち死去しきょけい(6だいけいとは別人べつじん。「最上もがみ系譜けいふ」にえるみつるか)のもの存在そんざいするなど、かなりの混乱こんらんられる。

斯波しばの庶流すじであることから、長禄ちょうろく年間ねんかんには将軍しょうぐんより直接ちょくせつ古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ討伐とうばつめいじる御内おんうちしょくだされるなど、大崎おおさき麾下きか国人くにびと領主りょうしゅとしておもきをなした。16世紀せいき初期しょき伊達だて稙宗勢力せいりょく伸張しんちょうすると、伊達だて庶流の飯坂いいざかからけい養子ようしとしてはい伊達だて服属ふくぞくしたものの、けい・稙国以降いこう、稙家・はれ月舟げっしゅうとき)とさんだいにわたって将軍しょうぐんよりへんいみなたまわっている。はれ伊達だてはれはじめ三男さんなん留守るす政景まさかげむすめとつがせる一方いっぽうで、大崎おおさき義直よしなお義康よしやす養子ようしむかえるなど、大崎おおさき伊達だて双方そうほう配慮はいりょかさなかった。

しかし伊達だてまさしむねだい伊達だて一門いちもん斯波しば一門いちもん対立たいりつ深刻しんこくすると、はれ大崎おおさき合戦かっせんにおいて伊達だてより離反りはんし、中新田なかにいだじょうめていた伊達だてぐん潰走かいそうさせた。またこのとき婿むこ政景まさかげすくうために和睦わぼく斡旋あっせんした。その2ねん黒川くろかわ豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる小田原おだわら征伐せいばつへのさんじん命令めいれい無視むししたために、奥州おうしゅう仕置しおきにおいて改易かいえきされ、きゅう黒川くろかわりょうせいむね支配しはいすることとなった。せいむね旧年きゅうねん報復ほうふくのためにはれころそうとしたが、政景まさかげ嘆願たんがんもあって助命じょめいされ、はれ政景まさかげ保護ほごにて余生よせいごした。

はれ後継こうけい義康よしやすはのちにせいむねつかえ、一家いっか家格かかくれつして宮城みやぎぐん西田中にしたなかげん仙台せんだいいずみ西田中にしたなか)で150せき知行ちぎょうしたが、寛永かんえい3ねん1626ねん)に義康よしやす死去しきょして断絶だんぜつとなった。

歴代れきだい当主とうしゅ

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  1. 黒川くろかわ氏直うじなお
  2. 黒川くろかわもと
  3. 黒川くろかわあらわ
  4. 黒川くろかわぼう
  5. 黒川くろかわのり
  6. 黒川くろかわけい - 飯坂いいざかきよしむね
  7. 黒川くろかわ稙国 
  8. 黒川くろかわ稙家
  9. 黒川くろかわ晴氏はるうじ
  10. 黒川くろかわ義康よしやす - 大崎おおさき義直よしなお
  11. 黒川くろかわ

系図けいず

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黒川くろかわ氏直うじなお1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
もと2あらわ3
 
 
 
ぼう4
 
 
 
のり5
 
 
 
けい6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稙国7飯坂いいざかじょう大衡おおひらそう細川ほそかわ重定しげさだ八森はちもりじょうただし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稙家8はれ9
 
 
 
義康よしやす10
 
 
 
11

※「水沢すいたく大衡おおひら系図けいず」をもと作成さくせい

報恩寺ほうおんじきゅうぞう黒川くろかわ系図けいず」では以下いかのようにしるす。
最上もがみ兼頼かねより黒川くろかわ氏直うじなおじゅう重朝しげとも重隆しげたか隆景たかかげどき足利あしかが高基たかもと)-やすし康清やすきよ清里きよさとけい-稙国-はれえき

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 大和やまとまち上巻じょうかん宮城みやぎけん黒川くろかわぐん大和やまとまち、1975ねん

越後えちご黒川くろかわ

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黒川くろかわ
本姓ほんせい 桓武かんむたいら和田わだながれ[2]
いえ 和田わだ義治よしはる[2]
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 越後えちごこく沼垂ぬったりぐん黒川くろかわむら[2]
おも根拠地こんきょち 黒川くろかわしろ[2]
古館ふるだて村城むらしろ[2]
著名ちょめい人物じんぶつ 黒川くろかわためもり[2]
黒川くろかわひかりよりゆき[2]
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

ひらせい桓武かんむたいら三浦みうらながれ和田わだ一族いちぞく[2]越後えちごあげきたしゅひとつ。越後えちご和田わだともばれる。

うけたまわ寿ことぶきひさしらん源平げんぺい合戦かっせん)において功績こうせきげた和田わだ義茂よしもち奥山おくやまそう地頭じとうとなったのが、越後えちご和田わだはじまりであり、和田わだ合戦かっせん和田わだのほとんどが没落ぼつらくしたのちも、幕府ばくふかたとして活動かつどうした和田わだ重茂おもえ高井たかい重茂おもえ)の子孫しそんのこり、その重茂おもえ子孫しそんたからおさむ合戦かっせんにおいて三浦みうら味方みかたしやはり没落ぼつらくするが、重茂おもえであるどきしげるき、その子孫しそん越後えちごこく奥山おくやまそう土着どちゃくした。

和田わだしげるちょうだい分割ぶんかつ相続そうぞく結果けっかしげちょう子孫しそん黒川くろかわしろ居城きょじょう黒川くろかわ名乗なのった[2]

鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき黒川くろかわ茂実しげみ新田にった義貞よしさだぞくして鎌倉かまくらめに従軍じゅうぐん。そのこうによりたてたけし政権せいけんより奥山おくやまそうしょう中条ちゅうじょう金山かなやまあたえられたが、越後えちご和田わだ嫡流ちゃくりゅう同族どうぞく中条ちゅうじょう領土りょうどであったため、以降いこう戦国せんごく時代じだいまで中条ちゅうじょうとは領土りょうど問題もんだいなどをめぐりあらそいがえず、越後えちごにおける内乱ないらんさいにはしばしばてき味方みかたかれ対立たいりつした。

南北なんぼくあさ時代じだいには北朝ほくちょうかたとして中条ちゅうじょう色部いろべらとともにみなみ朝方あさがた小国おぐにっている。かんおう擾乱じょうらんでは足利尊氏あしかがたかうじしたがったが、正平しょうへい7ねん1352ねん足利あしかが直義ただよしかた上杉うえすぎ憲顕のりあき大軍たいぐん黒川くろかわしろ包囲ほうい落城らくじょう降伏ごうぶくした。以降いこう越後えちご守護しゅご上杉うえすぎおよ守護しゅごだい長尾ながおしたがい、加治かじ四郎しろう討伐とうばつ佐渡さわたり征伐せいばつ活躍かつやくした。

室町むろまち時代ときよはいったおうひさし30ねん1423ねん)、守護しゅごだい長尾ながおくにけい挙兵きょへいによるおうながらんで、黒川くろかわ加地かじ新発田しばた北条ほうじょう安田やすだらととも越後えちご守護しゅご上杉うえすぎぼうあさ背反はいはんして黒川くろかわじょうり、ぼうあさ自害じがい寸前すんぜんんだが上杉うえすぎよりゆきふじ援軍えんぐんにより守護しゅごかた優勢ゆうせいとなり降伏ごうぶく。その守護しゅごかたすべりさわによりかん夜討ようちをかけられ黒川くろかわはじめ胎内川たいないがわ河畔かはん並槻なみつき河原かわらたたかったが奮戦ふんせんむなしく自害じがいした。もとわたる福丸ふくまる黒川くろかわ)は、伯父おじ中条ちゅうじょうぼうたすけられ出羽でわ大宝寺だいほうじじょうあるじ武藤むとうのもとに逃がれた。黒川くろかわ旧領きゅうりょう守護しゅご編入へんにゅうされたが、長尾ながおくにけい斡旋あっせん越後えちごもどったじつ中条ちゅうじょうぼうらととも守護しゅご上杉うえすぎしたが失地しっち回復かいふく奔走ほんそうした。しかしおうなが33ねん1426ねん)、守護しゅごだいかた三条さんじょうじょうあるじ山吉やまよし攻撃こうげきちゅう長尾ながおじょうけい長尾ちょうびだかけい山吉やまよし援軍えんぐんとしてはっすると、じつ守護しゅごだいかた寝返ねがえ中条ちゅうじょうぼう攻撃こうげきとり坂城さかきとす。ぼう河間こうまじょう退却たいきゃくしたがその攻勢こうせいてんじ、最終さいしゅうてきじつ守護しゅごかた降伏ごうぶく。しかしその黒川くろかわ度々どど守護しゅご上杉うえすぎたいして叛乱はんらんこしている。

戦国せんごく時代じだいになり、上条かみじょう定憲さだのり挙兵きょへいした上条かみじょうらんでは守護しゅごだい長尾ながお為景ためかげしたがい、為景ためかげ没後ぼつご長尾ながおはるけい景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん)とつかえた。謙信けんしん御館みたてらんでは、黒川くろかわ清実きよみ上杉うえすぎ景虎かげとら加担かたん上杉うえすぎ景勝かげかつかた中条ちゅうじょうめて鳥坂とりさかじょう占領せんりょうしたが、ぎゃくにその間隙かんげきいて中条ちゅうじょう一族いちぞく築地つきじゆたかめられている。翌年よくねんには景勝けいしょうによって黒川くろかわじょう落城らくじょうらん景勝けいしょう勝利しょうりし、清実きよみ伊達だてあきらむね仲介ちゅうかい景勝けいしょう降伏ごうぶく以降いこう景勝けいしょうしたがった。

子孫しそんつづ上杉うえすぎつかえ、上杉うえすぎ陸奥みちのく会津あいづてんふうされるとこれにしたがい、子孫しそん米沢よねざわはんとなった。

信濃しなの黒川くろかわ

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高遠こうえん集成しゅうせい』(『木曽福島きそふくしままち』)によると、信濃しなのこく木曾きそたに木曾きそ領主りょうしゅ木曾きそ家村いえむら義仲よしなかななせいまごしょうする)のおい木曾きそにん家定いえさだ)が木曽きそぐん黒川くろかわ土着どちゃくしたことからはじまるという。

黒川くろかわ

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越智おちながれ河野こうの支流しりゅう一族いちぞく戦国せんごく時代じだい伊予いよこくしゅうじきぐん小松こまつ丹原たんばら東予とうよ一部いちぶ)の旗頭はたがしらとなり、やく50ねんここをおさめた。

うけたまわ寿ことぶきひさしらん源平げんぺい合戦かっせん)における奥州おうしゅう合戦かっせん(1189ねん)において功績こうせきをあげた、河野こうの宗家そうけ河野こうの通信つうしん河野こうのとおるつな黒川くろかわ信綱のぶつな)がはじまりである。つうつなは、奥州おうしゅう黒川くろかわさと宮城みやぎけん三迫みさこ)を拝領はいりょうしたところから、黒川くろかわ名乗なのった。

ところが、承久じょうきゅうらん(1221ねん)において、河野こうの通信つうしん官軍かんぐんかたくも、幕府ばくふぐん北条ほうじょうかた敗北はいぼくして奥州おうしゅう平泉ひらいずみ配流はいるされ、河野こうの所領しょりょうじゅうさん箇所かしょ公田くでんろくせん町歩ちょうぶ没収ぼっしゅうされ一族いちぞくひゃくよんじゅうななにん所領しょりょうほとん没収ぼっしゅうされた。ただいち幕府ばくふぐんについた河野こうのとおるひさはその阿波あわこく富田とみたしょう拝領はいりょうしていたが、没収ぼっしゅうされた宗家そうけ領地りょうちだった伊予いよこく幕府ばくふもう再度さいど河野こうのゆうするところとなる(河野こうのとおるひさはは河野こうの通信つうしんしつ)は北条ほうじょう時政ときまさおんなとあり、この特例とくれい処置しょちわからなくはい)。承久じょうきゅうらん混乱こんらんにより、黒川くろかわ信綱のぶつな黒川くろかわきょうひそかに潜伏せんぷくしたのではないかとおもわれる。そのぶん永年えいねんあいだひそかに伊予いよかえじゅうしたが、ぶん永年えいねんちゅうぼっした。

とおるろく元年がんねん黒川くろかわ元春もとはるつうたかし剣山けんざんじょう築城ちくじょう黒川くろかわじゅうよんだい総領そうりょう初代しょだい周布すふぐん旗頭はたがしら)の黒川くろかわ元春もとはるつうたかし)ははじ長宗我部ちょうそかべはた元春もとはる長宗我部ちょうそかべ元親もとちか叔父おじ)とう。もとはるじゅうさんだい黒川くろかわとおるのりたよってた、つうのりもとはる面構つらがま眼光がんこうてこの乱世らんせい必要ひつよう人物じんぶつとみて、修行しゅぎょうわるのをって、いもうと婿むこむか黒川くろかわせい名乗なのった。つうのりもとはる千足せんぞくさん黒川くろかわひろししろゆずり、みずからは明河みょうが赤滝あかたきじょううつった。このときから黒川くろかわりょうはしる。

子孫しそん陸軍りくぐん中将ちゅうじょう男爵だんしゃく貴族きぞくいん議員ぎいんつとめた黒川くろかわとおるがいる。

じょう 剣山けんざんじょうひろししろ山城やましろ中森なかもりじょうまぼろしじょう松尾城まつおじょう大熊おおくまじょう鉢森はちもりじょう赤滝あかたきじょうえのき木城きじょう大曲おおまがりとりで黒川くろかわ本陣ほんじん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e 太田おおた 1934, p. 2213.
  2. ^ a b c d e f g h i 太田おおた 1934, p. 2211.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 太田おおたあきら国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 黒川くろかわ クオカハ」『姓氏せいし家系かけいだい辞典じてんだい2、上田うえだ萬年かずとし三上みかみさん監修かんしゅう姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん刊行かんこうかい、1934ねん、2211-2214ぺーじ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/199 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション  閲覧は自由