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とり坂城さかき

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とり坂城さかき
新潟にいがたけん
鳥坂山
鳥坂山とっさかやま
別名べつめい 白鳥はくちょうじょう鶏冠けいかんじょう
城郭じょうかく構造こうぞう 山城やましろ
築城ちくじょうぬし しろもり
築城ちくじょうねん 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
おも改修かいしゅうしゃ 中条ちゅうじょうぼう
おも城主じょうしゅ じょう中条ちゅうじょう
はいじょうねん 1598ねん
遺構いこう 曲輪くるわ堀切ほりきりだんきり
指定してい文化財ぶんかざい くに史跡しせき(「奥山おくやまそうじょうかん遺跡いせき」)
地図ちず
鳥坂城の位置(新潟県内)
鳥坂城
とり坂城さかき
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とり坂城さかき(とっさかじょう)は、新潟にいがたけん沼垂ぬったりぐん中条ちゅうじょうまち鳥坂山とっさかやま現在げんざい新潟にいがたけん胎内たいない奥山おくやまそうじょうかん)にあった日本にっぽんしろ別名べつめい白鳥はくちょうじょう」「奥山おくやまそうじょう」「中条ちゅうじょうじょう」など。頚城くびきぐんにあった上杉うえすぎささえじょうは「とりざか(とりさか)しろ」でみがことなる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

最初さいしょしろきずかれた時期じき不明ふめいだが、平安へいあん時代じだい末期まっきうけたまわ4ねん1180ねん)にしろなが越後えちごもりにんじられ、奥山おくやまそう周辺しゅうへん支配しはいし、有事ゆうじ要害ようがいとしててられたとのせつもあるが確実かくじつ記録きろくはない。

そのてくるのは鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきたてひとし元年がんねん1201ねん)の「たてひとしらん」で、『吾妻あづまきょうたてひとし元年がんねん5がつ14にちじょうに「しろ小太郎こたろうもり朝憲ちょうけんはかたてまつらんとほっし、城郭じょうかく越後えちご国鳥こくちょうざかかまう」とあるのがはつである。ただし、この時代じだいの「城郭じょうかく」とは「かいだてをき、さかもぎをいて」というバリケードとかけるためのであり、常設じょうせつしろではない。さかがく御前ごぜんは「童形どうぎょうごとじょうかみせしめ、腹巻はらまき矢倉やぐらうえて、おそいたるのやから」ていたところを「後山あとやままわり、高所こうしょよりのうくこれをうかがつ。そのけんおんな左右さゆうまた射通いとおす。すなわたおれるのところ清親きよちか郎等ろうどうせいとりこる」というような状態じょうたいであり、てき騎馬きばかるみちふさむか臨時りんじ陣地じんちである。三浦みうら和田わだ和田わだ義茂よしもち奥山おくやまそう地頭じとう任命にんめいされたのは鎌倉かまくら時代ときよはじめであるが、建治けんじ3ねん(1277ねん)に北条ほうじょう中条ちゅうじょう南条なんじょう分割ぶんかつされ、中条ちゅうじょう相続そうぞくした地頭じとう子息しそく中条ちゅうじょう名乗なのる。北条ほうじょう黒川くろかわ名乗なのる。

とおるとく2ねん(1453ねん)、中条ちゅうじょうとりざかじょう再興さいこうしているが、それは「いちひゃくねん」ぶりであるとべている(『三浦みうら和田わだ中条ちゅうじょう文書ぶんしょ』)[1]

つぎてくる記録きろくとおるとく3ねん(1454ねん)にこの領主りょうしゅ中条ちゅうじょうぼうが、子孫しそんのこした11ヶ条かじょう文書ぶんしょであり、そのなかでしろもりつぎしろとして使用しようしたのはぼう曾祖父そうそふ三浦みうら和田わだしげる(もろすけ)とあり、しげるしたこくしたのは貞和さだかず2ねん(1346ねん)であるので、しげるとり坂城さかき鶏冠けいかんじょう)にこもったのは南北なんぼくあさ時代じだいかんおう擾乱じょうらんころとなる。

戦国せんごく時代じだいになると中条ちゅうじょう越後えちご守護しゅご上杉うえすぎつかえた。おうひさし33ねん1426ねん)、中条ちゅうじょうぼうあげきたしゅとも守護しゅごだい長尾ながおくにけいかた三条さんじょうじょうしゅ山吉やまよし攻撃こうげきちゅう加地かじ新発田しばたらは守護しゅごだいかた寝返ねがえぼう攻撃こうげき長尾ながおじょうけい長尾ながお実景じっけい山吉やまよし援軍えんぐんとして築地つきじ着陣ちゃくじんすると、ぼうみずからの居館きょかんはら河間こうまじょうこもった。このときもふくめて鳥坂とりさかじょう舞台ぶたい登場とうじょうしない。中条ちゅうじょうぼう文書ぶんしょにはその三浦みうら和田わだしげる籠城ろうじょう以来いらいあいだひゃくねん」の期間きかんとおるとく2ねん(1453ねん)に「再興さいこう」。それも「このとき鶏冠けいかんじょうをこしらえる」と新規しんききずいたようなかたがしてあり、かつ「子孫しそんにおいてもてるべからざるものなり」といている。この段階だんかいにおいて「しろ」は臨時りんじのものでなく、いま我々われわれるような常時じょうじ維持いじされる施設しせつとなっている。なお、このしろきずかれた鳥坂山とっさかやま佐竹さたけ金砂きんしゃじょう同様どうよう山岳さんがく信仰しんこうむすびついており、中世ちゅうせい武士ぶし籠城ろうじょうする場所ばしょのひとつの典型てんけいにもなっており、古代こだいから中世ちゅうせいへのしろ変遷へんせんかたられるときにはかならずとってよいほどれられるしろである。

中条ちゅうじょうはその上杉うえすぎしたがい、上杉うえすぎ謙信けんしんときには当主とうしゅふじ家臣かしん筆頭ひっとうとなる。謙信けんしん急死きゅうしにより勃発ぼっぱつした御館みたてらんで、中条ちゅうじょうけいやすし上杉うえすぎ景勝かげかつくみし、上杉うえすぎ景虎かげとらかた黒川くろかわふたた攻撃こうげきされ落城らくじょうしたが、らん景勝けいしょうかた勝利しょうりわった。

そのけいけいやすし景勝けいしょうしたがうが、けいやすし出身しゅっしん吉江よしえけいやすし婿養子むこようし)ととも守備しゅびあたっていたえつ中国ちゅうごく魚津うおづじょうにて柴田しばた勝家かついえひきいる織田おだぐん攻撃こうげきされ自害じがい[2]中条ちゅうじょうけいたい長子ちょうしいち黒丸くろまる中条ちゅうじょう三盛みつもり)がまましいだが、慶長けいちょう3ねん1598ねん)、景勝けいしょう会津あいづうつりふうしたがはいじょうとなった。

遺構いこう復元ふくげん建造けんぞうぶつ[編集へんしゅう]

  • 曲輪くるわ堀切ほりきりだんきり
  • 武者むしゃだまあと虎口ここう
  • 本丸ほんまるあと - 「くに指定してい史跡しせき 奥山おくやまそうじょうかんあと石碑せきひと「鳥坂とりさか城跡じょうせき白鳥しらとり城跡じょうせき)」案内あんないばん
  • 展望てんぼうろう - 日本海にほんかい胎内たいない街並まちなみが遠望えんぼうできる。「鳥坂とりさかじょう櫛形山脈くしがたさんみゃく乃事」案内あんないばん

周辺しゅうへん施設しせつ参考さんこう資料しりょうなど[編集へんしゅう]

  • 白鳥しらとり公園こうえん入口いりくち - 公園こうえんつづ石段いしだんわき鳥坂とりさかじょうふく周辺しゅうへん登山とざんどう案内あんない
  • 洞窟どうくつ - じょう天然てんねん要害ようがいとして利用りようしたとも考察こうさつされている(中条ちゅうじょうまち洞窟どうくつ案内あんないばん)。
  • とり坂城さかき縄張なわばり」 - 胎内たいない教育きょういく委員いいんかい所蔵しょぞう

アクセス[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 竹井たけい英文ひでふみ戦国せんごくしろ一生いっしょう―つくる・こわす・よみがえる―』吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2018ねん、151ぺーじ 
  2. ^ 上杉うえすぎ文書ぶんしょ魚津うおづざいしろしゅじゅうめい連署れんしょじょう」では一番いちばんまえ署名しょめいしている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 齋藤さいとう慎一しんいち中世ちゅうせい武士ぶししろ吉川弘文館よしかわこうぶんかん歴史れきし文化ぶんかライブラリー〉、2006ねんISBN 4-642-05618-1 
  • 佐藤さとうしん; 五味ごみ文彦ふみひこ へんしろかんる・古代こだいから中世ちゅうせいへ』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1994ねんISBN 9784634616301 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]