(Translated by https://www.hiragana.jp/)
守護 - Wikipedia コンテンツにスキップ

守護しゅご

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

守護しゅご(しゅご)は、日本にっぽん鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふいた武家ぶけ職制しょくせいで、くに単位たんい設置せっちされた軍事ぐんじ指揮しきかん行政ぎょうせいかんである。れいそとかんであるつい使つかい守護しゅご原型げんけいであって、こう白河しらかわ上皇じょうこうみなもと頼朝よりとも守護しゅご地頭じとう設置せっち任免にんめんけんみとめたことによって、幕府ばくふ職制しょくせいまれていった。将軍しょうぐんにより任命にんめいされ、設立せつりつ当時とうじおも任務にんむは、在国ざいこく地頭じとう監督かんとくであった。

鎌倉かまくら時代ときよ守護しゅごじん奉行ぶぎょうしゅごにんぶぎょうといい、室町むろまち時代ときよには守護しゅごしょくしゅごしきといった。

制度せいどとしては室町むろまち幕府ばくふ滅亡めつぼうゆたか政権せいけん成立せいりつにより守護しゅごかれなくなり守護しゅご制度せいど自然しぜん消滅しょうめつするまでつづいた。

鎌倉かまくら時代ときよ

[編集へんしゅう]
鎌倉かまくら守護しゅご配置はいち

平安へいあん時代じだい後期こうきにおいて、国内こくない治安ちあん維持いじなどのために、国司こくし有力ゆうりょく在地ざいち武士ぶし国守くにもりまもるじん守護しゅごじん)に任命にんめいしたとする見解けんかいがあり、これによれば平安へいあん後期こうき国守くにもりまもるじん鎌倉かまくら守護しゅご起源きげんかんがえられている。

鎌倉かまくら守護しゅごはつは、1180ねんうけたまわ4ねん)10がつ富士川ふじかわたたか直後ちょくごに、みなもと頼朝よりとも甲斐かいはじめ武田たけだ信義のぶよし駿河するが守護しゅご安田やすだよしじょう遠江とおとうみ守護しゅごにんじたとする『吾妻あづまきょう』10がつ21にちじょうである。この段階だんかいでは頼朝よりとも勢力せいりょく足柄あしがら以西いせいにはおよんでいないため編者へんしゃによる曲筆きょくひつおもわれるが、頼朝よりとも勢力せいりょくけんである関東かんとう南部なんぶには早期そうき設置せっちされていたとられる[注釈ちゅうしゃく 1]。その頼朝よりとも政権せいけん勢力せいりょく西上にしがみするにしたがって、守護しゅご設置せっち西国さいこくへと拡大かくだいしていった。当時とうじ守護しゅごそうおい使つかいそうついぶしともばれ、国内こくないへい粮徴はつ兵士へいし動員どういんなどをおも任務にんむとしていた。梶原かじはら景時かげとき土肥どい実平さねひら播磨はりま美作みさく備前びぜん備中びっちゅう備後びんご5ヶ国かこくそうおい使つかい補任ほにんされ(『吾妻あづまきょうもとこよみ元年がんねん2がつ18にちじょう)、源範頼みなもとののりよりぐんともたいら追討ついとう参加さんかした。1185ねんもとこよみ2ねん)にたいら滅亡めつぼうして追討ついとう終了しゅうりょうすると、頼朝よりともこう白河しらかわ法皇ほうおう諸国しょこくそうおい使つかい停止ていし奏上そうじょうしている(『百錬ひゃくれんしょう』6がつ19にちじょう)。

同年どうねん11がつ北条ほうじょう時政ときまさ奏請そうせいにより、源義経みなもとのよしつねみなもとこう追討ついとう目的もくてきとして畿・山陰さんいん山陽さんよう南海なんかい西海にしうみ諸国しょこくくに地頭じとうくにじとう設置せっちすることが勅許ちょっきょされた(文治ぶんじ勅許ちょっきょ)。くに地頭じとうには荘園しょうえん国衙こくがりょうからの段別たんべつしょうへい粮米の徴収ちょうしゅう田地でんち知行ちぎょうけん国内こくない武士ぶし動員どういんけんなど強大きょうだい権限けんげんあたえられたが、荘園しょうえん領主りょうしゅ反発はんぱつけて翌年よくねん3がつには停止ていしされ、時政ときまさ軍事ぐんじけんだん関係かんけい職務しょくむとするそうおい使つかい地位ちいのみ保持ほじした(『吾妻あづまきょう』3がつ1にち、2にち、7にちじょう)。やがてくだり義経よしつね与党よとう次々つぎつぎたれたことから、6がつには畿内きない近国きんごくにおけるそうおい使つかい停止ていしされた(『吾妻あづまきょう』6がつ21にちじょう)。朝廷ちょうていそうおい使つかいについて「世間せけん落居おちいせざるのあいだ」(『吾妻あづまきょう』3がつ7にちじょう)と留保りゅうほ条件じょうけんけており、この時期じき守護しゅご戦時せんじ緊急きんきゅうにおける臨時りんじ軍事ぐんじ指揮しきかんで、平時へいじもどれば停止ていしされるのが当然とうぜんという認識にんしきがあったと推察すいさつされる。頼朝よりとも諸国しょこく守護しゅごけん公式こうしきみとめられた1191ねんたてひさ2ねん)3がつ22にちたてひさ新制しんせいにより恒久こうきゅうてき制度せいどわり、諸国しょこくごとに設置せっちするしょく守護しゅご荘園しょうえん国衙こくがりょう設置せっちするしょく地頭じとうとして区別くべつされ、鎌倉かまくら守護しゅご地頭じとう制度せいど本格ほんかくてきはじまることとなった。当初とうしょ頼朝よりとも政権せいけん実質じっしつてき支配しはいおよんだ地域ちいき日本にっぽんのほぼひがし半分はんぶん限定げんていされており[注釈ちゅうしゃく 2]畿内きない以西いせい地域ちいきでは後鳥羽上皇ごとばじょうこう中心ちゅうしんとした朝廷ちょうてい寺社じしゃ勢力せいりょくつよく、後鳥羽上皇ごとばじょうこういのち守護しゅごしょく停止ていしされたり、大内おおうち惟義これよし平賀ひらがちょうみやび実兄じっけい)が畿内きない周辺しゅうへん7ヶ国かこく守護しゅご補任ほにんされるなどの干渉かんしょう政策せいさくおこなわれつづけた。こうした干渉かんしょう排除はいじょ出来できるようになるのは、承久じょうきゅうらん以後いごのことである。

その守護しゅご職務しょくむ内容ないよう次第しだい明確めいかくされていき、1232ねんさだなが元年がんねん)に制定せいていされた成敗せいばい式目しきもくにおいて、守護しゅご職掌しょくしょうは、軍事ぐんじ警察けいさつてき職務しょくむであるだいはんさん箇条かじょうけんだん御家人ごけにん義務ぎむである鎌倉かまくら京都きょうとでの大番おおばんやく催促さいそく謀反むほんひと捜索そうさく逮捕たいほ殺害さつがいじん捜索そうさく逮捕たいほ)と大番おおばんやく指揮しき監督かんとく限定げんていされ、国司こくし職権しょっけんである行政ぎょうせいへの関与かんよ国衙こくがりょう支配しはいきんじられた。しかし、守護しゅご国内こくない地頭じとう在庁ざいちょうかんじん被官ひかん家臣かしん)にしようとするうごき(被官ひかん)は存在そんざいしており、こうした守護しゅごによる在地ざいち武士ぶし被官ひかんは、つぎ室町むろまち時代じだい一層いっそう進展しんてんしていくこととなる。

鎌倉かまくら中期ちゅうき以降いこうは、北条ほうじょう一門いちもんによる守護しゅごしょく独占どくせんすすんだ。これは、北条ほうじょうよりゆきころから北条ほうじょう本家ほんけとくむね)による政治せいじ専制せんせい、すなわちとくむね専制せんせい確立かくりつしていったことにともなうもので、北条ほうじょう一門いちもん守護しゅごこくは、鎌倉かまくら初期しょき1200ねんころに2こく36こく守護しゅご設置せっち4こく[注釈ちゅうしゃく 3])、1250ねんころに17こく24こく設置せっち5こく[注釈ちゅうしゃく 4])、1285ねんころに33こく18こく設置せっち5こく[注釈ちゅうしゃく 5])、鎌倉かまくらさい末期まっき1333ねんには38こく15こく設置せっち5こく[注釈ちゅうしゃく 6])と鎌倉かまくらちゅうさかい一気いっき増加ぞうかしていた。こうした事態じたいは、御家人ごけにんらの不満ふまん潜在せんざいさせることとなり、鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう遠因えんいんとなったとかんがえられている。

室町むろまち時代ときよ

[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう成立せいりつした後醍醐天皇ごだいごてんのうによるたてたけし新政しんせいにおいても、守護しゅごは、国司こくし併置へいちされるかたち制度せいどのこされた。ただし、新政しんせいがわずかすうねん終了しゅうりょうしたため、たてたけし守護しゅごについて詳細しょうさいあきらかでない。

つぎ成立せいりつした室町むろまち幕府ばくふも、守護しゅご制度せいど継承けいしょうした。当初とうしょ守護しゅごおおくは在地ざいち有力ゆうりょくしゃにんじられていたが、次第しだい足利あしかが一門いちもん交代こうたいさせられて、その地位ちい保持ほじしていたのは、播磨はりま赤松あかまつ赤松あかまつ則村のりむら)などごくわずかだった。これは、鎌倉かまくらとくむね専制せんせいいだものである。

職権しょっけんについても鎌倉かまくらおなじく、はじめはだいはんさんヶ条かじょうとされていたが、国内こくない統治とうち一層いっそう安定あんていさせるため、1346ねん貞和さだかず2ねん)、刈田かりた狼藉ろうぜきけんだんけん使節しせつ遵行けんあらたに守護しゅご職権しょっけんくわえられた。刈田かりた狼藉ろうぜき武士ぶしあいだ所領しょりょう紛争ふんそうともなって発生はっせいする実力じつりょく行使こうしであり、使節しせつ遵行とは幕府ばくふ判決はんけつ内容ないよう現地げんち強制きょうせい執行しっこうすることである。この両者りょうしゃにより、守護しゅごは、国内こくない武士ぶしあいだ紛争ふんそう介入かいにゅうする権利けんりと、司法しほう執行しっこう権利けんりの2つを獲得かくとくした。

1352ねん文和ふみかず元年がんねん)には、軍事ぐんじへい粮の調達ちょうたつ目的もくてきに、国内こくない荘園しょうえん国衙こくがりょう年貢ねんぐ半分はんぶん徴収ちょうしゅうすることのできる半済はんせい権利けんり守護しゅごあたえられた。当初とうしょは、戦乱せんらんはげしい3こく近江おうみ美濃みの尾張おわり)に限定げんていして半済はんせいみとめられていたが、守護しゅごたちは半済はんせい実施じっし幕府ばくふきそって要望ようぼうし、半済はんせい恒久こうきゅうされるようになる。1368ねんおうやす元年がんねん)の半済はんせいれい寺社じしゃ本所ほんじょ領事りょうじ)は、年貢ねんぐだけでなく土地とち自体じたいはん分割ぶんかつみとめる内容ないようであり、守護しゅごによる荘園しょうえん国衙こくがりょうへの侵出しんしゅついちじるしくなっていった。さらに、守護しゅご荘園しょうえん領主りょうしゅらと年貢ねんぐ納付のうふ契約けいやくむすび、実質じっしつてき荘園しょうえんへの支配しはいつよめる守護しゅごしゅごうけおこなうようになった。また、ぜい一種いっしゅであるだんぜにむねべつぜに徴収ちょうしゅうなどもおこなうなど、経済けいざいてき権能けんのうをますますつよめていったのである。

守護しゅごはこのように強化きょうかされた権限けんげん背景はいけいに、それまで国司こくし管轄かんかつしていた国衙こくが組織そしき吸収きゅうしゅうすると同時どうじに、つよまった経済けいざいりょく背景はいけいに、国内こくない地頭じとう在地ざいち領主りょうしゅ当時とうじ国人くにびとばれた)、さらに有力ゆうりょく名主なぬしらを被官ひかん家臣かしん)にしていった。このうごきを被官ひかんというが、こうして守護しゅごは、土地とちめんでも人的じんてきめんでも、国内こくない領域りょういきてきかつ均一きんいつ影響えいきょうりょく次第しだいおよぼしていく。こうした室町むろまち守護しゅごのありかたは、軍事ぐんじ警察けいさつてき権能けんのうのみをゆうした鎌倉かまくら守護しゅごのそれとおおきくことなることから、室町むろまち守護しゅごして守護しゅご大名だいみょうしょうして区別くべつする。また、守護しゅご大名だいみょうによる国内こくない支配しはい体制たいせい守護しゅご領国りょうごくせいという。ただし、守護しゅご大名だいみょうによる領国りょうごく支配しはいかならずしも徹底てっていしたものではなく、畿内きない中心ちゅうしんに、国人くにびとそう守護しゅご被官ひかんとなることを拒否きょひしたれいは、じつおおられる。

室町むろまち中期ちゅうきまでに、幕府ばくふにおける守護しゅご大名だいみょう権能けんのう肥大ひだいし、幕府ばくふはいわば守護しゅご大名だいみょう連合れんごう政権せいけん様相ようそうていするようになる。当時とうじ有力ゆうりょく守護しゅごには、足利あしかが将軍家しょうぐんけ一族いちぞくである斯波しば畠山はたけやま細川ほそかわをはじめ、外様とざま勢力せいりょくである山名やまな大内おおうち赤松あかまつなど数ヶ国すうかこく支配しはいするものがいた。これら有力ゆうりょく守護しゅごは、幕府ばくふ出仕しゅっしするため継続けいぞくして在京ざいきょうすることがおおく、領国りょうごくはなれる場合ばあいや、おおくのぶんくにかかえる場合ばあいなどに、国人くにびと守護しゅご代官だいかんとしたり、直属ちょくぞく家臣かしんなかから守護しゅごだいいた。さらにその守護しゅごだいしょう守護しゅごだいいて、じゅうさんじゅう支配しはい構造こうぞう形成けいせいしていった。なお、東国とうごく守護しゅご京都きょうとではなく、鎌倉かまくらのある鎌倉かまくら出仕しゅっししていた。これをざいくらせいしょうする。

守護しゅご恩典おんてんには、将軍しょうぐんいみなからいちをもらういち拝領はいりょうなどがあった。また、守護しゅご格式かくしきとしてしろかさぶくろ毛氈もうせんくらくつがえゆるされ、守護しゅごだいにはからかさぶくろ毛氈もうせんくらくつがえぬり輿こし免許めんきょされた。また、守護しゅご守護しゅごだいともにぬり輿こし使用しよう免許めんきょされ、有力ゆうりょく武士ぶしとしての権威けんいせいみとめられていた。管領かんりょう探題たんだいたっするもの有力ゆうりょく守護しゅごにのみゆるされた特典とくてんとしては、屋形やかたごうしゅ采配さいはい免許めんきょがあり、屋形やかたごうもの家臣かしん烏帽子えぼし直垂ひたたれ着用ちゃくようすることがゆるされた。とく鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかがでは関東かんとう有力ゆうりょく武士ぶしのうち、8いえ屋形やかたごうさづ関東かんとうはち屋形やかたなどといわれた。

戦国せんごく大名だいみょう出現しゅつげん戦国せんごく守護しゅご

[編集へんしゅう]

応仁おうにん文明ぶんめいらん前後ぜんごから、各地かくち守護しゅご同士どうし国人くにびとなどの地域ちいき勢力せいりょくとのこうそう守護しゅごにおける内訌ないこう発生はっせいし、それに歩調ほちょうわせるように、在地ざいち領主りょうしゅである国人くにびとくにしゅ)の独立どくりつ志向しこう国人くにびと一揆いっきなど)がられ、自立じりつてき国人くにびと守護しゅご同様どうよう独自どくじ領域りょういき支配しはいおこなった。こうした動向どうこう守護しゅご権威けんい低下ていかまねいたが、一方いっぽう守護しゅごによる国人くにびとへの支配しはい強化きょうかへとつながっていった。そして、1493ねんあかりおう2ねん)のあかりおう政変せいへん前後ぜんご契機けいきとして、低下ていかした権威けんい復活ふっかつ失敗しっぱいした守護しゅごは、守護しゅごだい国人くにびとなどにその地位ちいうばわれることになり、ぎゃく国人くにびと支配しはい強化きょうか成功せいこうした守護しゅごは、領国りょうごく支配しはい一層いっそうつよめていった。

こうして、鎌倉かまくら室町むろまち以来いらい守護しゅごのうち領国りょうごく統一とういつ支配しはい強化きょうか成功せいこうした守護しゅごや、守護しゅごわって台頭たいとうし、守護しゅご同様どうよう領域りょういき支配しはいおこなった守護しゅごだい国人くにびと戦国せんごく大名だいみょうへと変質へんしつ成長せいちょうし、戦国せんごく大名だいみょう出現しゅつげん消滅しょうめつをもって「戦国せんごく時代じだい」の時代じだい区分くぶんもちいられる。戦国せんごく大名だいみょう定義ていぎには諸説しょせつあるが、おおむねぐん規模きぼからいちこく以上いじょう領域りょういき支配しはいし、朝廷ちょうてい室町むろまち将軍しょうぐん鎌倉かまくら公方くぼうなどの伝統でんとうてき権力けんりょく以外いがい主従しゅうじゅう関係かんけいをもたないがかならずしも中央ちゅうおう政権せいけんによって保証ほしょうされた権力けんりょくではなく、独自どくじ外交がいこう軍事ぐんじおこなっているなどの要素ようそ指摘してきされる。

戦国せんごく大名だいみょうのうち畿内きない西国さいこく室町むろまち幕府ばくふぶんこくであり守護しゅご出自しゅつじをもつ戦国せんごく大名だいみょうおおく、一方いっぽう東国とうごくでは駿河するが今川いまがわ甲斐かい武田たけだなど守護しゅご出自しゅつじ戦国せんごく大名だいみょうのみならず、守護しゅごでありつつも拡大かくだい領国りょうごく達成たっせいした相模さがみ北条ほうじょうや、関東かんとう東北とうほく地方ちほうではぐん規模きぼ支配しはいおこな地域ちいき勢力せいりょく分立ぶんりつするなど、地域ちいきてき特徴とくちょうをもつ。

戦国せんごく大名だいみょう」にかんする研究けんきゅう戦後せんご実証じっしょう主義しゅぎ史学しがくにおいて深化しんかするが、それにともな戦国せんごくにおける守護しゅご位置いちづけについてもさい検討けんとうおこなわれ、戦国せんごく大名だいみょう権力けんりょく背景はいけいには戦国せんごく大名だいみょうによる戦国せんごくほう制定せいていとともに守護しゅご公権こうけん存在そんざい指摘してきされ、勝俣かつまた鎮夫しずおらによって戦国せんごく大名だいみょう領国りょうごく支配しはいをひとつの「地域ちいき国家こっか」としてみなすこころみもおこなわれた。

一方いっぽうで、戦国せんごく大名だいみょう研究けんきゅうたい矢田やた俊文としふみ今岡いまおか典和のりかずかわおかつとむらは戦国せんごく大名だいみょう領国りょうごくの「地域ちいき国家こっかせつ否定ひていし、戦国せんごくにおいても室町むろまち将軍しょうぐん体制たいせい守護しゅご権威けんい存在そんざいし、「戦国せんごく」の概念がいねんを15世紀せいきなかばから開始かいしされた室町むろまち幕府ばくふ解体かいたい過程かていとして位置いちづけ、16世紀せいき初頭しょとうには守護しゅご権力けんりょく変質へんしつにより「戦国せんごく大名だいみょう」が出現しゅつげんするがあくまでも戦国せんごく大名だいみょう室町むろまち将軍しょうぐん体制たいせいわくないまると評価ひょうかし、戦国せんごく守護しゅごを「戦国せんごく守護しゅご」として位置いちづけている。

戦国せんごく大名だいみょう研究けんきゅうおも東国とうごくを、戦国せんごく守護しゅごろん畿内きない西国さいこく中心ちゅうしんとした研究けんきゅう展開てんかいされているため、現在げんざいいたるまで戦国せんごく大名だいみょう戦国せんごく守護しゅご認識にんしきにはへだたりが存在そんざい戦国せんごくにおける守護しゅご位置いちづけにも議論ぎろんがあるが、おおむね戦国せんごくには室町むろまち将軍しょうぐん体制たいせい一定いってい影響えいきょうおよぼしつつも、戦国せんごく大名だいみょう守護しゅご公権こうけんかならずしも必要ひつようとしない独自どくじ大名だいみょう権力けんりょくゆうしていたてん指摘してきされる。

なお、出羽でわこく戦国せんごく大名だいみょうである安東あんどうでは当初とうしょ蝦夷えぞ管領かんりょうとして蝦夷えぞきたしゅう)にも勢力せいりょくち、奥州おうしゅうじゅうさんみなとほん将軍しょうぐん、または東海とうかい将軍しょうぐんしょうして北海道ほっかいどう南部なんぶ渡島ととう)に土着どちゃくした安東あんどう庶家蠣崎かきざき松前まさき)をうえこく守護しゅごしょくしたこく守護しゅごしょく松前まさき守護しゅごしょくなどにふうじているなど、幕府ばくふ以外いがいにも守護しゅごしょく独自どくじ設置せっち任免にんめんされた事例じれい例外れいがいてき確認かくにんされる。

江戸えど時代じだい

[編集へんしゅう]

室町むろまち幕府ばくふ滅亡めつぼうゆたか政権せいけん江戸えど幕府ばくふなどの統一とういつ権力けんりょく戦国せんごく大名だいみょう地域ちいき勢力せいりょく服属ふくぞくさせ、主従しゅうじゅう関係かんけいきずいた。江戸えど幕府ばくふひらいた徳川とくがわ室町むろまち将軍家しょうぐんけおなじく征夷大将軍せいいたいしょうぐん世襲せしゅうしているが、近世きんせい統一とういつ権力けんりょく主従しゅうじゅう関係かんけいをもった大名だいみょう守護しゅご任官にんかんさせることなく所領しょりょうあたえ、まくはん体制たいせいによる支配しはいととのえた。

幕末ばくまつには会津あいづはん藩主はんしゅである松平まつだいら容保かたもり朝廷ちょうていつうじて江戸えど幕府ばくふより京都きょうと守護しゅごしょくにんぜられている。過去かこにも「京都きょうと守護しゅご」の職名しょくめい存在そんざいしたが、この場合ばあいは「京都きょうと守護しゅごしょく」としょうするのが正式せいしきであり、守護しゅごしょくみも室町むろまち時代じだいの“しゅごしき”にたいして“しゅごしょく”とむ。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 1209ねんうけたまわもと3ねん)に守護しゅご職務しょくむ緩怠かんたい問題もんだいとなり、幕府ばくふ調査ちょうさのため鎌倉かまくら近国きんごく守護しゅご補任ほにんぶん提出ていしゅつめいじた。このさい千葉ちばしげるたね祖父そふ常胤つねたね三浦みうらよしむらちち義澄よしずみあたえられた頼朝よりともしもぶん提出ていしゅつしており、千葉ちば常胤つねたね三浦みうら義澄よしずみ頼朝よりともにより下総しもうさ守護しゅご相模さがみ守護しゅごにんじられたことがうかがえる(『吾妻あづまきょううけたまわもと3ねん11がつ20日はつか、12月15にちじょう)。『源平げんぺい盛衰せいすい』には富士川ふじかわたたかいののちに、広常ひろつね常胤つねたね上総かずさ下総しもうさ頼朝よりともからたまわったとする記述きじゅつがあり、上総かずさ広常ひろつね上総かずさ守護しゅごにんじられていたと推測すいそくされる。
  2. ^ 保立ほたて道久みちひさは『吾妻あづまきょう』の文治ぶんじ2ねん6がつ21にちじょう畿内きない西国さいこく守護しゅごそうおい使つかい完全かんぜん停止ていしされたこと意味いみし、たてひさ新制しんせい移行いこうもその状態じょうたい継続けいぞくした結果けっか頼朝よりとも最終さいしゅうてき守護しゅご設置せっちしたのは「東国とうごくじゅうはちヶ国かこく」に限定げんていされたとする。その守護しゅご設置せっちされた「東国とうごくじゅうはちヶ国かこく」は『吾妻あづまきょうたてひとし3ねん8がつ27にちじょうにおいて、みなもとよりゆき息子むすこいちはたゆずろうとした国々くにぐに合致がっちするとするとみる(保立ほたて道久みちひさ中世ちゅうせい国土こくどだかけん天皇てんのう武家ぶけ』(校倉あぜくら書房しょぼう、2015ねんだい6しょう 鎌倉かまくら前期ぜんき国家こっかにおける国土こくど分割ぶんかつはら論文ろんぶん:2008ねん))。
  3. ^ 山城やましろ京都きょうと守護しゅごろく探題たんだい)、大和やまと興福寺こうふくじ支配しはい)、和泉いずみ後鳥羽上皇ごとばじょうこう支配しはい)、越前えちぜん紀伊きい後鳥羽上皇ごとばじょうこう支配しはい
  4. ^ 山城やましろ京都きょうと守護しゅごろく探題たんだい)、大和やまと興福寺こうふくじ支配しはい)、相模さがみさむらいしょ政所まんどころ管掌かんしょう)、
  5. ^ 山城やましろ京都きょうと守護しゅごろく探題たんだい)、大和やまと興福寺こうふくじ支配しはい)、摂津せっつろく探題たんだい)、丹波たんばろく探題たんだい)、肥前ひぜん鎮西ちんぜい探題たんだい兼補けんぽ
  6. ^ 山城やましろ京都きょうと守護しゅごろく探題たんだい)、大和やまと興福寺こうふくじ支配しはい)、播磨はりまろく探題たんだい)、肥前ひぜん鎮西ちんぜい探題たんだい兼補けんぽ

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]