(Translated by https://www.hiragana.jp/)
上総広常 - Wikipedia コンテンツにスキップ

上総かずさ広常ひろつね

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
上総かずさ 広常ひろつね
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき
死没しぼつ 寿ことぶきひさし2ねん12月20にち1184ねん2がつ3にち
別名べつめい かいはちろう平広常たいらのひろつねひろつね[1]
墓所はかしょ 横浜よこはま金沢かなざわ朝比奈あさひなまち五輪ごりんとう?
官位かんい 上総かずさけんかい
氏族しぞく 桓武かんむたいら良文よしふみながれ房総ぼうそうたいら上総かずさ
父母ちちはは ちちひらめ上総かずさ常澄つねずみ
兄弟きょうだい 伊西いにしつねけいしるしひがしつねしげる匝瑳そうさ常成つねなり佐是さぜえんおもねだいしいおもんみつね埴生はぶつねえき天羽あもうしげるつね広常ひろつね相馬そうまつねきよし臼井うすいちかしつね時田ときたためつね金田かねだよりゆき
のうつね平時へいじしつ小笠原おがさわらちょうきよししつりょう岑高なりしつ
テンプレートを表示ひょうじ

上総かずさ 広常ひろつね(かずさ ひろつね、きゅう字体じたい上總かずさ 廣常ひろつね)は、平安へいあん時代じだい末期まっき武将ぶしょう豪族ごうぞく上総かずさ上総かずさけんかい平常へいじょうきよしはちなん嫡男ちゃくなん)。上総かずさ かい広常ひろつね(かずさのすけひろつね、きゅう字体じたい上總かずさ かい廣常ひろつね)の呼称こしょうひろもちいられるが、上総かずさかい官位かんいであり、本名ほんみょうたいら 広常ひろつね(たいら の ひろつね)である。

房総ぼうそうたいら惣領そうりょういえ頭首とうしゅであり、みなもと頼朝よりとも挙兵きょへい呼応こおうして平家へいけとのたたかいにのぞんだ。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

生年せいねん不明ふめい通称つうしょうは「かいはちろう」といったことからはちなんだったとされる[2]ちち常澄つねずみ確実かくじつ史料しりょうには「まえけんかい」としかみえないが、しょ系図けいずには「上総かずさかい」とみえる[2]。12世紀せいきまつ上総かずさこくおおやけりょう庄園しょうえん上総かずさがそのほとんどを所領しょりょうしており、広常ひろつねはかかる一族いちぞく家督かとく惣領そうりょうとして、かつ上総かずさ国衙こくがさい有力ゆうりょく在庁ざいちょうたる「けんかい」として、ほぼいちこく規模きぼ封建ほうけんてき軍事ぐんじ体制たいせい確立かくりつしつつあった[3]

平治へいじらん家督かとくあらそ

[編集へんしゅう]

広常ひろつねは、鎌倉かまくら本拠ほんきょとする源義朝みなもとのよしとも郎党ろうとうであった。もと元年がんねん1156ねん)のもとらんではあさぞくし、平治へいじ元年がんねん1159ねん)の平治へいじらんではあさ長男ちょうなんみなもと義平よしひらしたが活躍かつやく義平よしひらじゅうなないちかぞえられた。平治へいじらん敗戦はいせん平家ひらか探索たんさくをくぐって戦線せんせん離脱りだつし、領国りょうごくもどる。

あさやぶれたのち平家へいけしたがったが、ちち常澄つねずみくなると、嫡男ちゃくなんである広常ひろつねと庶兄のつねけいつねしげるとのあいだ上総かずさ家督かとくめぐ内紛ないふんこり、この兄弟きょうだいあいだこうそう頼朝よりとも挙兵きょへいころまでつづいている。

うけたまわ3ねん1179ねん)11月、平家へいけ有力ゆうりょく家人かじん伊藤いとう忠清ただきよ上総かずさかいにんぜられると、広常ひろつね国務こくむめぐって忠清ただきよ対立たいりつし、平清盛たいらのきよもり勘当かんどうされた。

頼朝よりとも挙兵きょへい広常ひろつね(および又従兄弟またいとこ千葉ちば常胤つねたね)のさんじん挙兵きょへいは、まった在地ざいち状況じょうきょう打開だかいするための主体しゅたいてき行動こうどうであり、平家ひらかとの関係かんけいり、実力じつりょくによってりょうそうたいら族長ぞくちょうとしての地位ちい確立かくりつした[2]

みなもと頼朝よりとも挙兵きょへい

[編集へんしゅう]

うけたまわ4ねん1180ねん)8がつ打倒だとうたいらへいげ、9月の石橋いしばしさんたたかやぶれたみなもと頼朝よりともが、安房あわこく再挙さいきょはかると、広常ひろつね隅田川すみだがわ布陣ふじんする頼朝よりとものもとに2まんひきいて参上さんじょうした。頼朝よりとも大軍たいぐんひきいた広常ひろつね参向さんこうよろこぶどころか、ぎゃく遅参ちさんとがめたので、その器量きりょうかんじて頼朝よりともじゅんしたとされる[4]。なお『吾妻あづまきょう』には2まんとあるが『のべけいほん平家ひらか物語ものがたり』では1まん、『源平げんぺい闘諍とうじょうろく』では1せんである[5]

だが、野口のぐちみのるは『吾妻あづまきょう』の広常ひろつねかんする記述きじゅつ詳細しょうさい分析ぶんせきした結果けっか広常ひろつね当初とうしょから頼朝よりともがわだったと結論けつろんけている。頼朝よりとも挙兵きょへい以前いぜん頼朝よりともからの使者ししゃたいする広常ひろつね返答へんとう早速さっそく了承りょうしょうであり、ただふね都合つごうで8がつ下旬げじゅんまでの参向さんこう無理むりとしている[6]。このことから9がつ19にち隅田川すみだがわでの頼朝よりともへの参向さんこう、これは広常ひろつねによる平家へいけかた勢力せいりょく掃討そうとう意味いみしているのであり[2]頼朝よりともへの参向さんこう上総かずさないし上総かずさ国府こくふかんがえるのが妥当だとうである[2]呉座ござ勇一ゆういち広常ひろつねはじめから頼朝よりともがわであったからこそ、頼朝よりとも何事なにごともなく安房あわから上総かずさ経由けいゆして下総しもうさかえたとし、広常ひろつねひきいたとされる大軍たいぐん上総かずさ国内こくないから平家へいけがわ勢力せいりょく一掃いっそうしたことによって動員どういん可能かのうになったものとして、野口のぐち見解けんかい肯定こうていしている[7]

同年どうねん11がつ富士川ふじかわたたかでは、平維盛たいらのこれもり大将たいしょうとする頼朝よりとも追討ついとうぐん従事じゅうじしていたあにしるしひがしつねしげるたした。これにより房総ぼうそうたいら広常ひろつねもと統一とういつされることとなった。

富士川ふじかわたたかいでの勝利しょうりは、上洛じょうらく目指めざ頼朝よりともたいし、常陸ひたちはじめ佐竹さたけ討伐とうばつ主張しゅちょうした。広常ひろつねはその佐竹さたけとも姻戚いんせき関係かんけいがあり、佐竹さたけ義政よしまさ秀義ひでよし兄弟きょうだい会見かいけんもうれたが、秀義ひでよしは「すぐには参上さんじょうできない」とって金砂きんしゃじょうきこもる。あに義政よしまさはやってきたが、たがいに家人かじん退しりぞけて2にんだけではなそうとはしうえ義政よしまさび、そこで広常ひろつね義政よしまさころす。その頼朝よりともぐん金砂きんしゃじょう秀義ひでよしめ、これを敗走はいそうさせる(金砂きんしゃじょうたたか)。

吾妻あづまきょううけたまわ5ねん(1181ねん6月19にちじょうでは、頼朝よりとも配下はいかなかで、けておおきな兵力へいりょくゆうする広常ひろつね無礼ぶれいいがおおく、頼朝よりともたいして「公私こうしどもさんだいあいだ、いまだそのれいさず」と下馬げばれいをとらず、また御家人ごけにんたいしても横暴おうぼう態度たいどで、頼朝よりともからあたえられた水干すいかんのことで岡崎おかざき義実よしざねなぐいの喧嘩けんかおよびそうにもなったこともあるとかれる。ただし、『吾妻あづまきょう』は鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき編纂へんさんであり、どこまで正確せいかくなものかは不明ふめいである。

誅殺ちゅうさつ

[編集へんしゅう]
広常ひろつね願文がんもん玉前たまさき神社じんじゃ

寿ことぶきひさし元年がんねん1182ねん)になると頼朝よりともとの対立たいりつはげしくなったとされているが、対立たいりつはげしかったのは寿ことぶきひさし元年がんねん以前いぜんであり、寿ことぶきひさし元年がんねんになるとむしろ両者りょうしゃ関係かんけい改善かいぜんされたとする指摘してきがある[8]

寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)12月、謀反むほんくわだてがあるとのうわさから頼朝よりともうたがわれた広常ひろつねは、頼朝よりともいのちけたさむらいしょ所司しょし梶原かじはら景時かげとき鎌倉かまくら御所内ごしょうち暗殺あんさつされた。景時かげとき双六すごろくきょうじていた最中さいちゅう景時かげとき突然とつぜんばんをとびこえて広常ひろつねくびったとされる(『かんしょう』)[9]嫡男ちゃくなん上総かずさのうつねおなじくたれ、上総かずさ所領しょりょう没収ぼっしゅうされ千葉ちば三浦みうらなどに分配ぶんぱいされた。寿ことぶきひさし3ねん1184ねん正月しょうがつ広常ひろつねよろいから願文がんもんつかったが、そこには謀反むほんおもわせる文章ぶんしょうはなく、頼朝よりとも武運ぶうんいの文書ぶんしょであったので、頼朝よりとも広常ひろつねころしたことを後悔こうかいし、即座そくざ広常ひろつね又従兄弟またいとこ千葉ちば常胤つねたねあずかりとなっていた一族いちぞく赦免しゃめんしたとされる。もっとも、願文がんもん発見はっけん逸話いつわ広常ひろつね粗暴そぼう振舞ふるまいの逸話いつわ同様どうよう鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき編纂へんさんの『吾妻あづまきょう』にしかられず、信憑しんぴょうせい不明ふめいである。広常ひろつね死後しご千葉ちば房総ぼうそうたいら当主とうしゅ継承けいしょうした。

頼朝よりとも宣旨せんじくだって東国とうごく行政ぎょうせいけん国家こっかてき承認しょうにんされるにおよび、元来がんらい頼朝よりともにとっての最大さいだい武力ぶりょく基盤きばんであった広常ひろつねがかえってその権力けんりょく確立かくりつ妨害ぼうがいしゃとなっていたことが謀殺ぼうさつつながったといえる[10][11]頼朝よりとも政権せいけん内部ないぶでは、東国とうごく独立どくりつろん主張しゅちょうする広常ひろつね有力ゆうりょく関東かんとう武士ぶしそうと、頼朝よりとも中心ちゅうしんとする朝廷ちょうていとの協調きょうちょう路線ろせんとの矛盾むじゅん潜在せんざいしており、前者ぜんしゃ以仁王もちひとおう令旨れいし東国とうごく国家こっかのよりどころとしようとし、後者こうしゃ朝廷ちょうていとの連携れんけいあるいは朝廷ちょうてい傘下さんかはいることで東国とうごく政権せいけん形成けいせいはか立場たちばであった。寿ことぶきひさしねんじゅうがつ宣旨せんじにより頼朝よりとも政権せいけんたい朝廷ちょうてい協調きょうちょう路線ろせん度合どあいをつよめ、宣旨せんじ直後ちょくご東国とうごく独立どくりつろんつよ主張しゅちょうしていた広常ひろつね暗殺あんさつされたことは、頼朝よりとも政権せいけん路線ろせん確定かくていあらわすものとかんがえられている[12]。また、広常ひろつね以仁王もちひとおう令旨れいしとともにかれ遺児いじである北陸ほくりくみやようしようとしたてんでは「はん中央ちゅうおう」「はん朝廷ちょうてい」ではなかったが、北陸ほくりくみやようする木曾きそ義仲よしなかとの接近せっきん頼朝よりとも警戒けいかいされ、頼朝よりとも義仲よしなか関係かんけい破綻はたんするとともに「おや義仲よしなか」とみなされた広常ひろつね誅殺ちゅうさついたったとする見方みかたもある[13]

慈円じえんの『かんしょう』(まきろく)によると、頼朝よりともはじめてきょう上洛じょうらくしたたてひさ元年がんねん1190ねん)、こう白河しらかわ法皇ほうおうとの対面たいめんかたったはなしとして、広常ひろつねは「なぜ朝廷ちょうていのことにばかり見苦みぐるしくつかうのか、我々われわれがこうして坂東ばんどう活動かつどうしているのを、一体いったいだれ命令めいれいなどできるものですか」とうのがつねで、たいら政権せいけん打倒だとうすることよりも、関東かんとう自立じりつのぞんでいたため、ころさせたとべたことをしるしている。

広常ひろつねかんあと

[編集へんしゅう]

上総かずさ広常ひろつねかんあと正確せいかく位置いちいまもって不明ふめいであるが、1990年代ねんだい千葉ちばけん夷隅いすみぐん大原おおはらまちげんいすみ)や御宿おんじゅくまち一帯いったい中世ちゅうせいじょうかん調査ちょうさおこなわれ、検討けんとうすすめられた[14]

布施ふせ殿台とのだい

房総ぼうそうこころざしりょう」は、布施ふせむらげんいすみ下布施しもぶせ上布施かみふせ御宿おんじゅくまち上布施かみふせ)にかんがあったとのせつとなえている。むらないやまにした「殿台とのだい」とばれる平坦へいたん土地とちがあり、ここが広常ひろつねかんあとであるという。また同書どうしょは、かつてむらないかわをせきめるものがあり、村民そんみんがこれをたところ、巨大きょだいなカニがちかづいてきたので、恐怖きょうふしてげたとの伝承でんしょう広常ひろつねれいであると説明せつめいしている。

日本にっぽん伝説でんせつ叢書そうしょ 上総かずさまき」でも、『吾妻あづまきょう』の内容ないようかんがえるに、安房あわくに東條とうじょう旅館りょかんから広常ひろつねかんおくられた使者ししゃが2にちほどでたどりける場所ばしょとして、布施ふせむら以外いがいにないとしている。ただし、村民そんみんなかには伝承でんしょう上総かずさけいきよし混同こんどうしているものもいるほか、むらない実際じっさいにはないはずの頼朝よりとも経過けいかしめ伝承でんしょうがあるなど、混乱こんらんられるという。

千葉大ちばだい系図けいず」では、一宮いちのみや柳沢やぎさわじょう広常ひろつねかんがあったとしている。一宮いちのみやまちでは、これを町内ちょうない高藤たかとう山城やましろのことだとしており、城内きうち一宮いちのみや藩主はんしゅ加納かのうひさちょう広常ひろつね功績こうせきをたたえてつくった石碑せきひがある。一方いっぽう、「柳沢やなぎさわ」を一宮いちのみやちかい「大柳おおやなぎ」の誤記ごきととらえ、睦沢むつざわまち大柳おおやなぎかんのことだとかんがえるきもある。

このほか、千葉ちばけん東金とうがね松之郷まつのごう新山しんやま」としろざか」にまたがしたじょう台地だいちに「新山しんやまじょうがあり、広常ひろつねかんがあったとつたわっている。近隣きんりん宮ノ谷みやのたに広常ひろつね家臣かしん末裔まつえいしょうするいえがあるほか、岡谷おかやには、広常ひろつね家臣かしんかたなきたえたとされる製鉄せいてつ工房こうぼうあと伝承でんしょうのこ[15]

鎌倉かまくらにおける広常ひろつね屋敷やしきあとは、朝比奈あさひなどお沿いにあり、近隣きんりんには大刀洗たちあらいみず上総かずさかいとう上總かずさかいとう)などの関連かんれん史跡しせきがある。

評価ひょうか

[編集へんしゅう]

歴史れきし学者がくしゃ京都女子大学きょうとじょしだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ野口のぐちみのる広常ひろつねのことを「いささかだい風呂敷ふろしき露骨ろこつ大言壮語たいげんそうごくが、ちいさい、やさしい性格せいかく」と評価ひょうかしている[2]

画像がぞうしゅう

[編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん

[編集へんしゅう]
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ れきあいだ
  2. ^ a b c d e f 野口のぐちみのる平家ひらか打倒だとうちあがった上総かずさ広常ひろつね」(『千葉ちば史学しがく』20ごう、1992ねん
  3. ^ 野口のぐちみのる上総かずさ所領しょりょう復元ふくげん」(『千葉ちばけん歴史れきし』10ごう、1975ねん
  4. ^ 野口のぐちみのるみなもと頼朝よりとも房総半島ぼうそうはんとう経略けいりゃく過程かていについて」(『房総ぼうそう史学しがく』25ごう、1985ねん
  5. ^ 上杉うえすぎ et al. 2007, p. 79.
  6. ^ 福田ふくだ豊彦とよひこ千葉ちば常胤つねたね』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1973ねん)152ぺーじ
  7. ^ 呉座ござ勇一ゆういち頼朝よりともよしとき 武家ぶけ政権せいけん誕生たんじょう講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2021ねん ISBN 978-4-06-526105-7 pp. 60-63.
  8. ^ 岩橋いわはし直樹なおき上総かずさかい広常ひろつね誅殺ちゅうさつかんする覚書おぼえがき―-とくに『吾妻あづまきょう所収しょしゅう広常ひろつね願文がんもんをめぐって―」(『明治大学めいじだいがく文学部ぶんがくぶ文学ぶんがく研究けんきゅう学術がくじゅつ研究けんきゅう論集ろんしゅう』9ごう、2019ねん
  9. ^ 一宮いちのみやまち』(1964ねん3がつ3にち発行はっこう)46ぺーじ
  10. ^ 野口のぐちみのる豪族ごうぞくてき領主りょうしゅ上総かずさについて」(『ふみとも』6ごう、1974ねん
  11. ^ 野口のぐちみのる東国とうごく政権せいけん千葉ちば」(千葉ちばけん郷土きょうど研究けんきゅう連絡れんらく協議きょうぎかいへん論集ろんしゅう論集ろんしゅう せんよう研究けんきゅうしょ問題もんだい千秋せんしゅうしゃ、1977ねん
  12. ^ 佐藤さとう 2007, §だい2しょう 鎌倉かまくら幕府ばくふ.
  13. ^ 保立ほたて 2015, pp. 179–182, §だい3しょう 日本国にっぽんこく惣地そうちあたまみなもと頼朝よりとも鎌倉かまくら初期しょき新制しんせい.
  14. ^ 加藤かとう晋平しんぺい上総かずさかい広常ひろつね居館きょかんはどこか」( 潮見しおみひろし先生せんせい退官たいかん記念きねん事業じぎょうかいへん考古こうこ論集ろんしゅう潮見しおみひろし先生せんせい退官たいかん記念きねんろん文集ぶんしゅう-』広島大学ひろしまだいがく文学部ぶんがくぶ考古学こうこがく研究けんきゅうしつ、1993ねん
  15. ^ 松之郷まつのごう編纂へんさん委員いいんかい松之郷まつのごう総集編そうしゅうへん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 上杉うえすぎ和彦かずひこ; 小和田こわだ哲男てつお; せき幸彦さちひこ; もりこうあきら源平げんぺい争乱そうらん吉川弘文館よしかわこうぶんかん戦争せんそう日本にっぽん, 6〉、2007ねん3がつISBN 9784642063166NCID BA80755348OCLC 675726904全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:21192095 
  • 佐藤さとう進一しんいち日本にっぽん中世ちゅうせい国家こっか岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ ; 学術がくじゅつ〉、2007ねん3がつISBN 4006001738NCID BA8129768XOCLC 137334032全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:21215442 
  • 保立ほたて道久みちひさ中世ちゅうせい国土こくどだかけん天皇てんのう武家ぶけ校倉あぜくら書房しょぼう歴史れきし科学かがく叢書そうしょ〉、2015ねん8がつISBN 9784751746400NCID BB19298124OCLC 927172345全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:22635808 
  • 千野ちのはらやすしかたえびすひかりさち郷土きょうど叢書そうしょ01 上総かずさ広常ひろつね房総ぼうそう最大さいだい武力ぶりょくきずいたもうしょう生涯しょうがいえびすひかりさち出版しゅっぱん、2022ねん4がつ
  • 野口のぐちみのるなぞ上総かずさ系図けいず」(『歴史れきし研究けんきゅう』80ごう、1967ねん
  • 野口のぐちみのる豪族ごうぞくてき領主りょうしゅ上総かずさについて」(『ふみとも』6ごう、1974ねん
  • 野口のぐちみのる上総かずさ所領しょりょう復元ふくげん」(『千葉ちばけん歴史れきし』10ごう、1975ねん
  • 野口のぐちみのる東国とうごく政権せいけん千葉ちば」(千葉ちばけん郷土きょうど研究けんきゅう連絡れんらく協議きょうぎかいへん論集ろんしゅう論集ろんしゅう せんよう研究けんきゅうしょ問題もんだい千秋せんしゅうしゃ、1977ねん
  • 野口のぐちみのるみなもと頼朝よりとも房総半島ぼうそうはんとう経略けいりゃく過程かていについて」(『房総ぼうそう史学しがく』25ごう、1985ねん
  • 野口のぐちみのる平家ひらか打倒だとうちあがった上総かずさ広常ひろつね」(『千葉ちば史学しがく』20ごう、1992ねん
  • 野口のぐちみのる「『玉藻たまもまえ』と上総かずさかい三浦みうらかい」(『しゅ』44ごう、1995ねん
  • 福田ふくだ豊彦とよひこ千葉ちば常胤つねたね』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1973ねん
  • 岩橋いわはし直樹なおき上総かずさかい広常ひろつね誅殺ちゅうさつかんする覚書おぼえがき―-とくに『吾妻あづまきょう所収しょしゅう広常ひろつね願文がんもんをめぐって―」(『明治大学めいじだいがく文学部ぶんがくぶ文学ぶんがく研究けんきゅう学術がくじゅつ研究けんきゅう論集ろんしゅう』9ごう、2019ねん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]
先代せんだい
しるしひがしつねしげる
房総ぼうそうたいら歴代れきだい当主とうしゅ
-
次代じだい
千葉ちば常胤つねたね
先代せんだい
しるしひがしつねしげる
上総かずさ歴代れきだい当主とうしゅ
-
次代じだい
さかいつねしゅう