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源義朝みなもとのよしとも

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みなもと よしあさ
源義朝みなもとのよしとも(『平治へいじ物語ものがたり絵巻えまき』より)
時代じだい 平安へいあん時代じだい後期こうき-末期まっき
生誕せいたん 保安ほあん4ねん1123ねん
死没しぼつ 平治へいじ2ねん1がつ3にち1160ねん2がつ11にち
享年きょうねん38
別名べつめい 上総かずさ御曹司おんぞうしひだりてんうまやあたま殿どのだいぼくきょう
戒名かいみょう かつじょう寿ことぶきいん
墓所はかしょ 愛知あいちけん知多ちたぐん美浜みはままち野間のま大坊だいぼう
官位かんい したがえよんしたひだり馬頭めず下野げやもり播磨はりまもり
おくせい内大臣ないだいじん[注釈ちゅうしゃく 1]
主君しゅくん 鳥羽とばいん後白河天皇ごしらかわてんのう白河しらかわいん)→藤原ふじわら信頼しんらい
氏族しぞく 河内かわうちはじめ清和せいわはじめ義親よしちかりゅう
父母ちちはは ちち源為義みなもとのためよしはは藤原ふじわら忠清ただきよむすめ
兄弟きょうだい あさ義賢よしかた義憲よしのりよりゆきけんよりゆきなかためむね
ためなり為朝ためともためなかくだり鳥居とりい禅尼ぜんに
つま 正室せいしつ由良ゆら御前ごぜん藤原ふじわらはんむすめ
側室そくしつ常盤御前ときわごぜん三浦みうら義明よしあきむすめ波多はた野遠のとおよしむすめ遠江とおとうみこく池田いけだ宿やどゆうおんな青墓あおはか長者ちょうじゃ大炊おおい[注釈ちゅうしゃく 2]
義平よしひら朝長ともなが頼朝よりとももんまれよしはんよりゆき
阿野あのちょんしげる義円ぎえん義経よしつね坊門ぼうもんひめ女子じょし[注釈ちゅうしゃく 3]
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みなもと よしあさ(みなもと の よしとも)は、平安へいあん時代じだい後期こうきから末期まっきにかけての武将ぶしょう河内かわうちはじめろく代目だいめ棟梁とうりょう

概要がいよう

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東国とうごく下向げこう在地ざいち豪族ごうぞくおおくは坂東ばんどうたいら)を組織そしきして勢力せいりょくばし、ふたたもどって下野げやもりにんじられる。東国とうごく武士ぶしだんひきいてもとらん戦功せんこうげ、ひだり馬頭めずにんじられてげるが、3ねん平治へいじらん藤原ふじわら信頼しんらいかたくみして敗北はいぼくし、びる道中どうちゅう尾張おわりこく家人かじん裏切うらぎられ謀殺ぼうさつされた。みなもと頼朝よりともはんよりゆき義経よしつねらのちち

生涯しょうがい

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上総かずさ御曹司おんぞうし

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保安ほあん4ねん1123ねん[注釈ちゅうしゃく 4]源為義みなもとのためよし長男ちょうなんとしてまれる。はは白河しらかわいん近臣きんしんである淡路あわじもり藤原ふじわら忠清ただきよむすめ乳母うばきょく

かつて武者むしゃとしてせた河内かわうちはじめ曾祖父そうそふ八幡やはた太郎たろう死後しご、そのおとうとしん三郎さぶろう義光よしみつ発端ほったんとする一族いちぞく内紛ないふんによってでの地位ちい凋落ちょうらくさせていた。このころちちため自身じしん問題もんだい行為こういによって白河しらかわいん信頼しんらいうしない、官位かんい低迷ていめいして逼迫ひっぱくしている状況じょうきょうにあった。

あさ少年しょうねんから東国とうごく関東かんとう地方ちほう)へ下向げこうし、ちちためつてりょうしていた安房あわこくあさえびすぐんまる御厨みくりや移住いじゅうした。その上総かずさこくうつって当地とうち有力ゆうりょく豪族ごうぞくであった上総かずさ後見こうけんけ、「上総かずさ御曹司おんぞうし」とばれた。まる安西あんざい坂東ばんどうたいら一部いちぶ三浦みうら上総かずさ千葉ちばなど)からも連携れんけいして庇護ひごされた。

あさ東国とうごく下向げこうについては、従来じゅうらいあさため嫡子ちゃくしとみなされていたが、近年きんねんではためから廃嫡はいちゃくされた結果けっかとするせつもある。川合かわいやすし見解けんかいによれば、のべ5ねん1139ねん)のからだじん親王しんのう近衛天皇このえてんのう)の立太子りったいしおとうと義賢よしかた東宮とうぐう帯刀たいとうにんじられていた時点じてんでは、あさいま無位むい無官むかんであり、この段階だんかいすであさすでため嫡男ちゃくなんからはずされていたとする[1]最近さいきんでは官位かんい問題もんだいとうあさため嫡子ちゃくしであったのかうたがわしいとの見解けんかいしめされている[注釈ちゅうしゃく 5]

東国とうごく成長せいちょうしたあさは、南関東みなみかんとう[注釈ちゅうしゃく 6]勢力せいりょくばし、東国とうごく主要しゅよう武士ぶしだん統率とうそつして河内かわうちはじめ主要しゅよう基盤きばんとなるにいたった。三浦みうら義明よしあき大庭景義おおばのかげよし在地ざいちだい豪族ごうぞく傘下さんかおさめた。相馬そうま御厨みくりや大庭おおば御厨みくりやなどの支配しはいけんをめぐって在地ざいち豪族ごうぞくあいだあらそいにも介入かいにゅうした。それまでの居館きょかんがあった鎌倉かまくらぐんぬまはま現在げんざい神奈川かながわけん逗子ずし沼間ぬまま)から高祖父こうそふ頼義よりちか以来いらいゆかりのある鎌倉かまくらかめだにたて亀谷かめたに殿どの)をうつした。

長男ちょうなん義平よしひら生母せいぼ三浦みうらともされ、相模さがみだい豪族ごうぞくである波多野はたのよしどおりいもうととのあいだには次男じなん朝長ともながもうけるなど、在地ざいち豪族ごうぞく婚姻こんいん関係かんけいむすんだ。また、六男むつおはんよりゆき生母せいぼ遠江とおとうみこく池田いけだ宿やど現在げんざい静岡しずおかけん磐田いわた)の遊女ゆうじょとされ、義平よしひら生母せいぼ同国どうこく橋本はしもと宿やど遊女ゆうじょとする『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』のせつ、『平治へいじ物語ものがたり』に登場とうじょうする摂津せっつこく江口えぐち宿やど現在げんざい大阪おおさか大阪おおさか東淀川ひがしよどがわ)の遊女ゆうじょむすめとみられる「江口えぐちはらむすめ」など、遊女ゆうじょとのあいだもうけたとする記述きじゅつおおいが、これらの宿場しゅくばはいずれも交通こうつう要衝ようしょうであり、「遊女ゆうじょ」としょうしても実際じっさいにはたんなる芸能げいのうみんではなく地元じもと有力ゆうりょくしゃ子女しじょであったとするせつがある[5]

あさ勢力せいりょく伸張しんちょうは、下野げやこく足利あしかがぐん足利あしかが本拠ほんきょ大叔父おおおじである義国よしくに勢力せいりょく武蔵むさしこくなどで競合きょうごうすることとなり対立たいりつんだが、その同盟どうめいしめ盟友めいゆうとなることで解消かいしょうされ、義国よしくに嫡男ちゃくなん義康よしやすあい婿むことなるなど連携れんけいつよめた。通説つうせつでは、あさ勢力せいりょく拡大かくだいため嫡男ちゃくなんとして東国とうごく武士ぶし組織そしきのためにおこなわれてきたと説明せつめいされてきたが、廃嫡はいちゃく下向げこう原因げんいんもとめるせつではむしろちちためとの対立たいりつ対抗たいこうじょうおこなわれたものと解釈かいしゃくされている[1]

あさは20だい前半ぜんはん南関東みなみかんとう武士ぶしだん統率とうそつする地位ちい確立かくりつし、その活躍かつやくにもられるようになったことで、中央ちゅうおう進出しんしゅつへの足掛あしがかりをつかんだ。

きょうでの躍進やくしん

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長男ちょうなん義平よしひら東国とうごくまかせてもどったあさは、久安ひさやす3ねん1147ねん)に正室せいしつ由良ゆら御前ごぜん熱田あつた大宮おおみやつかさ藤原ふじわらはんむすめ)とのあいだ嫡男ちゃくなん三男さんなん)の頼朝よりとももうけた。いん近臣きんしんであるつま実家じっかうしだてて、鳥羽とばいん藤原ふじわらただしどおりにも接近せっきんし、仁平にだいら3ねん1153ねん)、31さいしたがえした下野げやもりにんじられ、翌年よくねんにはみぎすけねた。河内かわうちはじめ受領じゅりょう就任しゅうにん祖父そふ義親よしちか以来いらい50ねんぶりであり、あさ検非違使けびいしぎなかったちちため立場たちば超越ちょうえつすることになった。この急激きゅうげき抜擢ばってきは、寺社じしゃ勢力せいりょく鎮圧ちんあついんりょう支配しはいのため、東国とうごく武士ぶしだんひきいるあさ武力ぶりょく必要ひつようとする鳥羽とっぱいんとのむすびつきによるものとられ、それは摂関せっかんうしたてとするためらとの対立たいりつ意味いみしていた。

久寿きゅうじゅ2ねん1155ねん)、ため意向いこうけて東国とうごく下向げこうし、勢力せいりょくばしていたおとうと義賢よしかた義平よしひらたせ(大蔵おおくら合戦かっせん)、対抗たいこう勢力せいりょく排除はいじょして坂東ばんどうにおける地位ちいかためた。こののち義賢よしかた復仇ふっきゅうのため信濃しなのこくくだってきたよんおとうとよりゆきけん合戦かっせんになりかけるなど、ためとの対立たいりつ修復しゅうふく不可能ふかのう事態じたいとなった。大蔵おおくら合戦かっせんでは問題もんだいにされておらず、その背景はいけいには武蔵むさしもりであった藤原ふじわら信頼しんらい黙認もくにんがあり、摂関せっかんぞくするためへの抑圧よくあつがあったともられている[6]

坂東ばんどう勢力せいりょくばすさいあさ当初とうしょちちつかえていた摂関せっかんりの姿勢しせいせていたが、あさ基盤きばんである相模さがみこくとう鳥羽とばいん知行ちぎょうこくになるなど、東国とうごくにおいて勢力せいりょくばすにはあさ鳥羽とば法皇ほうおう接近せっきんする必要ひつようがあり、それが摂関せっかんつかえるちちとは距離きょりくという結果けっかつながったとのせつもある[2]。そのため、あさ東国とうごくでのうごきを牽制けんせいするためにつかわされたのがおとうと義賢よしかたであるといわれる。やがて義賢よしかたため嫡男ちゃくなんわれ、わってそのおとうとよりゆきけん嫡男ちゃくなんについていたとの見解けんかいもある[7]

もとらん

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もと元年がんねん1156ねん)7がつもとらんでは崇徳院すとくいんかたについたちちためよしおとうとよりゆきけん為朝ためともらとたもとかち、後白河天皇ごしらかわてんのうかたとして東国とうごく武士ぶしだんひきいてさんじんした。平清盛たいらのきよもりとも作戦さくせんされたあさ先制せんせい攻撃こうげき夜襲やしゅう主張しゅちょうし、あたまをかきむしりながら信西しんぜいとも躊躇ちゅうちょする関白かんぱく藤原ふじわらただしどおりたいして決断けつだんせまった。攻撃こうげきいのちくだると、あさは「(坂東ばんどうでの)わたし合戦かっせんでは朝家ちょうかとがめをおそれ、おもうようにならなかったが、今度こんどせん追討ついとう宣旨せんじけ、心置こころおきなくたたかうことができる」と官軍かんぐんとしてたたかえることによろこいさんで出陣しゅつじんし、戦況せんきょう逐一ちくいち報告ほうこくするなどみかどかた中核ちゅうかくとなってたたかった。

らん後白河天皇ごしらかわてんのうかた勝利しょうりし、敗者はいしゃとなったためあさもと出頭しゅっとうした。7がつ30にちあさふね岡山おかやまむらあたりでためおとうとらを処刑しょけいした。ちちころしたあさは「ヲヤノクビきりツ」とせいそしりをけたという[8]。『もと物語ものがたり』では、あさ自身じしん戦功せんこうえてちち助命じょめいうったえたが、信西しんぜいによって却下きゃっかされ、ちちおさなおとうとたちることになったとしている。

らん恩賞おんしょうとしてみぎけんあたまにんじられることになったが、不足ふそくもうてたためひだり馬頭めず[注釈ちゅうしゃく 7]への任官にんかんとなった。

恩賞おんしょうたいするあさ不満ふまんについての議論ぎろん

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ただしこの任官にんかんでも、清盛きよもり平家ひらか一門いちもんへの待遇たいぐうくらべて相当そうとう見劣みおとりしていたことからおおいに不満ふまんったともわれていた。[だれによって?]しかし清盛きよもり少年しょうねんころより親王しんのうにもひとしい待遇たいぐうけ、11さい元服げんぷく同時どうじ叙爵じょしゃくされてしたがえ、17さいにしてすでしたがえよんしたにまで官位かんいげ、もとらんの10ねんまえせいよんしたとなり公卿くぎょう地位ちいいち手前てまえにまでたっしており、たいしてもとらん直前ちょくぜん叙爵じょしゃくされてしたがえ下野げやもりとなりようやく受領じゅりょうきゅうとなったあさ地位ちいにはもともとおおきなひらきがあり、恩賞おんしょう不満ふまんいたというせつはあまり妥当だとうとはいえない[注釈ちゅうしゃく 8]

ひだり馬頭めずへの任官にんかんはその位階いかい以上いじょう武門ぶもんにとってはそれこそ武家ぶけ棟梁とうりょうにもされるほどの重要じゅうよう役職やくしょくである[注釈ちゅうしゃく 9]から、それへの任官にんかん妥当だとう、むしろ破格はかく恩賞おんしょうであるという意見いけん近年きんねんでは提示ていじされている。[だれによって?]また、ため処刑しょけいはあくまでもかれらを謀反ぼうほんじんだんじた朝廷ちょうてい裁決さいけつであり、清盛きよもりもまたてきがわについた同族どうぞく朝命ちょうめいにより処刑しょけいしており、このことへのあさ不満ふまん平治へいじらんにつながったという見方みかたにも疑問ぎもんていされている[2]

その一方いっぽうで、平将門たいらのまさかどらんにおける藤原ふじわらしげるきょうぜんきゅうねんやくにおける高祖父こうそふ頼義よりちかなどのれいから、謀反むほん鎮圧ちんあつたいする武家ぶけへの恩賞おんしょう現在げんざい本人ほんにん官位かんいにかかわらず「えつかい」「希望きぼうするくに受領じゅりょうへの任命にんめい」「子弟してい郎党ろうとうたいする官位かんい授与じゅよ」とするのが先例せんれいとして成立せいりつしており、あさもその先例せんれいならってよんへのえつかいゆたかなくに受領じゅりょうへの任命にんめい長男ちょうなんたいらにたいする任官にんかん期待きたいしていたはずで、それらをなにられなかった以上いじょう、むしろ冷遇れいぐうされた恩賞おんしょうであったとする反論はんろんされている[9]

平治へいじらん

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源義朝みなもとのよしともみぎじょうゆみっている人物じんぶつ歌川うたがわかおるとらげん平治へいじ合戦かっせん源義朝みなもとのよしとも白河しらかわ殿どの夜討ようち東京とうきょう都立とりつ図書館としょかんくら

平治へいじ元年がんねん12月9にち1160ねん1がつ19にち)、あさは、みなもと光保みつやす重成しげなり[注釈ちゅうしゃく 10]らととも藤原ふじわら信頼しんらいんでこう白河しらかわいん信任しんにんあつ信西しんぜいらがいるとされた三条さんじょう殿どの襲撃しゅうげきした。

平治へいじらん原因げんいんとして旧来きゅうらいせつではさきれたような『平治へいじ物語ものがたり』の記述きじゅつもとに、もとらん清盛きよもりとの恩賞おんしょう格差かくさあさ不満ふまんいたという源氏げんじ平家へいけ因縁いんねんせつ縁談えんだん不成立ふせいりつなどによる信西しんぜいへの冷遇れいぐう怨恨えんこんせつ[注釈ちゅうしゃく 11]、その結果けっかおなじく信西しんぜいにくんでいた信頼しんらいんだなどとあさ動機どうき中心ちゅうしん説明せつめいされることがおおかった。また信頼しんらいも「ぶんにもあらず、たけにもあらず、のうもなく、またげいもなし。ただ朝恩ちょうおんにのみほこりて」と『平治へいじ物語ものがたり』で酷評こくひょうされており、『かんしょう』でも同様どうようである。しかし、そのような通俗つうぞくてき理解りかい竹内たけうちさん元木もとき泰雄やすお研究けんきゅうにより見直みなおされている[注釈ちゅうしゃく 12]。 また、信頼しんらいしたがった武士ぶしたちあさのみではなく、独立どくりつしてかく権門けんもんつかえるそれぞれの武家ぶけ自分じぶん意志いし信頼しんらいくみしたのであって、あさ指示しじ信頼しんらいかたについたわけではない。

平治へいじらん原因げんいん実際じっさいにはこう白河しらかわ院政いんせい二条天皇にじょうてんのう親政しんせい対立たいりつ、そしてその両派りょうはどもはん信西しんぜいグループがいたこと、それらをこう白河しらかわいんがまとめきれなかったことにあるとされる。[だれによって?]

あさ信頼しんらい関係かんけい信西しんぜいにくしのいちてんむすびついたという通説つうせつ理解りかいしやすいものの、あさ信頼しんらいしたがったのは信頼しんらいあさ南関東みなみかんとう勢力せいりょく拡大かくだいしていたとき武蔵むさしもりで、その知行ちぎょう国主こくしゅであり、あさ武蔵むさしこくへの勢力せいりょく拡大かくだい突然とつぜんしたがえ下野げやもりへの除目じもく信頼しんらいらの支援しえんがあってのこととおもわれる。信頼しんらいはそうした武蔵むさしこく中心ちゅうしんとした地盤じばんから、もとらんにより摂関せっかん家政かせい機構きこう武力ぶりょく解体かいたいしたのちにおいてはそれにわって関東かんとう武士ぶしたちきょう公家くげ社会しゃかい供給きょうきゅうできる立場たちばにあった。

三条さんじょう殿どの襲撃しゅうげきのがれた信西しんぜいたおして以降いこう信頼しんらい政局せいきょく中心ちゅうしんった。信西しんぜい追討ついとう恩賞おんしょうとしてあさ播磨はりままもり任官にんかん[注釈ちゅうしゃく 13]し、嫡男ちゃくなん頼朝よりともみぎ兵衛ひょうえにんじられた。しかし信西しんぜいたおしたことによって元々もともと信西しんぜいにくしのいちてんだけでむすびついていたのち白河しらかわ院政いんせい二条天皇にじょうてんのう親政しんせい[よう出典しゅってん]結束けっそくする理由りゆうもなくなり空中くうちゅう分解ぶんかいはじめる。そして今度こんど信頼しんらい二条天皇にじょうてんのう親政しんせいとの反目はんもく発生はっせいした。はなれらくしていた清盛きよもり信頼しんらい臣従しんじゅうするそぶりをせてもどるがその二条天皇にじょうてんのうおや政派せいはらの策謀さくぼうによって二条天皇にじょうてんのう清盛きよもりろくやしき脱出だっしゅつ形勢けいせい不利ふりさっしたのち白河しらかわいん仁和寺にんなじ脱出だっしゅつした。この段階だんかいあさすべての梯子はしごはずされたかたちとなった。

当初とうしょ信頼しんらいらに同心どうしんしていたみなもと光保みつやす元々もともと二条天皇にじょうてんのう親政しんせいであったため信頼しんらいかたから離反りはん源頼政みなもとのよりまさ信頼しんらい陣営じんえいから距離きょり廷臣ていしんたちも続々ぞくぞくろく出向でむいたため清盛きよもり官軍かんぐん地位ちい獲得かくとくした。こうして一転いってん賊軍ぞくぐんとなった信頼しんらいよしちょうらは討伐とうばつ対象たいしょうとなり、ついに12月27にち2がつ6にち)にきょうちゅう戦闘せんとう開始かいしされる。平家へいけらにへいすう大幅おおはばおとっていたよしちょうぐん壊滅かいめつした。

敗走はいそう最期さいご

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襲撃しゅうげきされた湯殿ゆどのあと愛知あいちけん美浜みはままち法山寺ほうざんじ
野間のま大坊だいぼう境内けいだいにあるあさはか

その信頼しんらい見捨みすてたあさ義平よしひら朝長ともなが頼朝よりとも大叔父おおおじ義隆よしたか陸奥むつ六郎ろくろう)・平賀ひらが義信よしのぶみなもと重成しげなり佐渡さわたり重成しげなり)、家臣かしん乳兄弟ちきょうだい鎌田かまたまさしきよし斎藤さいとうみのるもり渋谷しぶやきん王丸おうまるらをともな東国とうごく勢力せいりょく挽回ばんかいはかるべく東海道とうかいどうくだるが、その途上とじょう度重たびかさなる落武者おちむしゃへの追討ついとうたいとの戦闘せんとうで、朝長ともなが義隆よしたか重成しげなり深手ふかでいのちとした。またいちぎょうからはぐれた頼朝よりともらえられ、義平よしひらべつ行動こうどう北陸ほくりくまたはひがし山道さんどう目指めざして一旦いったん離脱りだつするがふたたきょうもどって潜伏せんぷくし、生存せいぞんしていたあさ郎党ろうとうこころざしないけいきよしとも清盛きよもり暗殺あんさつこころみるが失敗しっぱいした。

うまうしなったあさ裸足はだし尾張おわりこく知多ちたぐん野間のま現在げんざい愛知あいちけん知多ちたぐん美浜みはままち)にたどりき、せいきよししゅうと年来ねんらい家人かじんであった長田ながたただしとそのけいのもとにせた。しかし恩賞おんしょう目当めあての長田ながた父子ふし裏切うらぎられ、入浴にゅうよくちゅう襲撃しゅうげきけて[注釈ちゅうしゃく 14]殺害さつがいされた[10]享年きょうねん38。せいきよしさけまされ殺害さつがいされた。きょう脱出だっしゅつして3にちことであった。『かんしょう』によれば長田ながた父子ふし陰謀いんぼう察知さっちしたあさせいきよしみずからのくびつようめいじ、斬首ざんしゅされたのちせいきよし自害じがいしたとされる。としけた正月しょうがつ9にち両者りょうしゃくび獄門ごくもんにかけられた。

伝承でんしょうによれば、あさ入浴にゅうよくちゅう襲撃しゅうげきけたさい最期さいごに「わがれに木太刀きだち一本いっぽんなりともあれば」と無念むねんさけんだとされる。あさはかはその終焉しゅうえんである野間のま大坊だいぼう境内けいだい存在そんざいし、上記じょうき伝承でんしょうにちなんで多数たすう木刀ぼくとうそなえられている。また、境内けいだいにはあさくびあらったとされるいけがある。

平賀ひらが義信よしのぶ斎藤さいとうみのるもり無事ぶじびることに成功せいこうした。義信よしのぶのち頼朝よりとも挙兵きょへいしたがって鎌倉かまくら幕府ばくふ有力ゆうりょく御家人ごけにんとして生涯しょうがいまっとうし、一方いっぽうじつもり平家へいけかたについてみなもとかたたたかうことになる。

ちちおとうとたちをほろぼし、河内かわうちはじめないでの優位ゆうい確立かくりつしてからわずか3ねんむかえた[11]が、あさ東国とうごくきずいた地盤じばん嫡男ちゃくなん頼朝よりともあたえたたか身分みぶんは、頼朝よりともによる挙兵きょへい成功せいこう、ひいては鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつへのいしずえとなった[12][注釈ちゅうしゃく 15]

また、むすめである坊門ぼうもんひめ女系じょけい子孫しそん鎌倉かまくら幕府ばくふ摂家せっけ将軍しょうぐんみや将軍しょうぐん宗尊親王むねかたしんのうのぞく)、持明院じみょういんみつる最初さいしょ天皇てんのうである後深草天皇ごふかくさてんのう[注釈ちゅうしゃく 16]がいる。

年譜ねんぷかんれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき年齢ねんれいかぞどし

系譜けいふ

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みなもと頼朝よりとも系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 源義家みなもとのよしいえ
 
 
 
 
 
 
 
8. みなもと義親よしちか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. みなもとたかしちょうむすめ
 
 
 
 
 
 
 
4. 源為義みなもとのためよし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 源義朝みなもとのよしとも
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10. 藤原ふじわら忠清ただきよ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 藤原ふじわら忠清ただきよむすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 鎌倉かまくら幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん
みなもと頼朝よりとも
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 藤原ふじわらみのるはん
 
 
 
 
 
 
 
12. 藤原ふじわらけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 小野おのどおりむすめ
 
 
 
 
 
 
 
6. 藤原ふじわらはん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 尾張おわりいんしょく
 
 
 
 
 
 
 
13. 尾張おわりしょく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 由良ゆら御前ごぜん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

関連かんれん作品さくひん

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主題しゅだい作品さくひん

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戯曲ぎきょく
小説しょうせつ

登場とうじょう作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただしおくせいおく内大臣ないだいじんは『平家ひらか物語ものがたり』のみの記載きさい文献ぶんけんどう内容ないよう見当みあたらない。
  2. ^ こうほんの『平治へいじ物語ものがたり』によると美濃みのこく青墓あおはか宿やどあさつま延寿えんじゅとなっているが、成立せいりつ年代ねんだいふるい『平治へいじ物語ものがたりほんにおいては「大炊おおい」となっている。また『吾妻あづまきょう』にもひだりてんうまやちょうしゃ大炊おおい」と記載きさいされている。
  3. ^ 江口えぐちはらむすめ夜叉やしゃ御前ごぜんという二人ふたりむすめが『平治へいじ物語ものがたり』ののちほん登場とうじょうする。しかし両者りょうしゃともほんにのみ記述きじゅつられ、成立せいりつ年代ねんだいふるい『平治へいじ物語ものがたり』やその文献ぶんけんには登場とうじょうしない。『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』には女子じょし(一条いちじょうのうしつ)のとなりに「女子じょし」とのみしるされその女子じょし詳細しょうさい不明ふめいである。
  4. ^ 白河しらかわ院政いんせい時代じだい崇徳天皇すとくてんのう即位そくいしたとし
  5. ^ 元木もとき泰雄やすおは、あさおとうと義賢よしかたさき任官にんかんしていたのにあさ無位むい無官むかんであったため、廃嫡はいちゃくされて東国とうごくくだったとている[2]高橋たかはし典幸のりゆき元木もとき同様どうよう見解けんかいあさ嫡子ちゃくしでないと主張しゅちょうしている[3]永井ながいすすむはその著書ちょしょあさための庶長子ちょうし記載きさいしている[4]
  6. ^ 房総半島ぼうそうはんとうないくわえて相模さがみこくなど。
  7. ^ みぎすけ兼任けんにんえ。『へいはん』ではみぎけんあたまにして昇殿しょうでんを聴される。
  8. ^ 従来じゅうらい通説つうせつでは、あさ清盛きよもり対等たいとう武家ぶけ棟梁とうりょう認識にんしきされていたが、近年きんねん研究けんきゅうではかならずしもそうではなく、両者りょうしゃあいだおおきな格差かくさたもてもと以前いぜん存在そんざいしていたことが指摘してきされている。清盛きよもりあさとのあいだ官位かんい格差かくさ元々もともとあったことがべられているが、もとらん大内裏だいだいり造営ぞうえいにおいて両者りょうしゃあいだおおきな経済けいざい格差かくさ存在そんざいしていたことが指摘してきされている。この造営ぞうえいにおいて清盛きよもりじん寿ひさし殿どのよりゆきもりさだかん殿どのきょうもりかげあかりもんけいもりよしけいしゃ重要じゅうよう建物たてもの造営ぞうえいしたのにたいして、あさきたろう担当たんとうしたにぎない[7]
  9. ^ あさひだり馬頭めずとなることによって、東国とうごく武士ぶしとのあいだ主従しゅうじゅう関係かんけい強化きょうかすることが可能かのうとなったという見方みかたもある[7]
  10. ^ 従来じゅうらい源氏げんじ」としょうする武士ぶしたちはあさ従属じゅうぞくするものとみなされていた。だがじつ光保みつやす二条天皇にじょうてんのう側近そっきん立場たちばとして独自どくじ意志いし信頼しんらい与力よりきし、光保みつやす参戦さんせんにはあさ意向いこうはたらいていたわけではない。また、重成しげなりあさ同族どうぞく支配しはいにあるものではなくあさ同盟どうめいしゃであった。武門ぶもん源氏げんじすべ河内かわうちはじめ当主とうしゅ従属じゅうぞくするのが当然とうぜんという見方みかた鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ以降いこう観念かんねんである[2]
  11. ^ かんしょう』の記述きじゅつもとあさ縁組えんぐみもうれにたいして信西しんぜいが「学者がくしゃであるので、武門ぶもんいえむこには相応ふさわしくない」と拒否きょひしながらおな武家ぶけである平家へいけ縁組えんぐみしたことなど、あからさまな冷遇れいぐうけたことにたいしてあさ不満ふまんつのらせたといわれるせつ
  12. ^ 縁談えんだんかんしては、いん近臣きんしんとしてよんくらいの地位ちいにいた信西しんぜいと、祖父そふだいから順調じゅんちょう昇進しょうしんかさみずからは公卿くぎょういち手前てまえで、そのおとうとたち子供こどももそれなりの官位かんいている清盛きよもりいえではいがれているのにたいして、ためはずっと受領じゅりょうにもなれずもとらん直前ちょくぜんみずからが受領じゅりょうそれもしたこく下野げやもりとなったあさいえでは信西しんぜいとは家格かかくてき釣合つりあいがれない(清盛きよもりあさいえ同等どうとうをみなされるのは鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ以降いこう視点してん当時とうじ清盛きよもりあさ家格かかく同等どうとうのものではなかった)。その観点かんてんからするとあさ縁談えんだん申入もうしいれはかなりの無理むり承知しょうちもうれたもので、信西しんぜいあさむすめとの婚姻こんいん成立せいりつ清盛きよもりむすめとの縁談えんだん成立せいりつ信西しんぜいへの遺恨いこん発展はってんすることはない。また、信頼しんらいたいする酷評こくひょう敗者はいしゃとしてのものであり、信頼しんらい能力のうりょく実際じっさいひくいわけではなく、官位かんい上昇じょうしょう当時とうじ人事じんじかんして発言はつげんりょくのあった信西しんぜい了承りょうしょうのもとおこなわれていた可能かのうせいもあり、また信頼しんらい官位かんい昇進しょうしん停止ていし原因げんいんはその上位じょういしゃ官位かんいきがなかったことであり、信西しんぜい一人ひとり妨害ぼうがいによるものではない、ひとし指摘してきされている[2]。ただし、縁談えんだん問題もんだいたいしては、あさ婿むこにしようとしたけん信西しんぜいなかでも昇進しょうしんおくれており(もと3ねんまつ段階だんかいで30さい前後ぜんこうであったにもかかわらずしたがえ少納言しょうなごんけん信濃しなのまもる)、官位かんいいとしてはまった問題もんだいはなく、縁談えんだん不成立ふせいりつ原因げんいんよしちょうがわではなく信西しんぜいがわもとめるのが妥当だとうとする反論はんろんもある[9]
  13. ^ よんニシテ播磨はりままもるニナリテ云々うんぬん[8]
  14. ^ まごよりゆき入浴にゅうよくちゅう襲撃しゅうげきされている。
  15. ^ ただし、山田やまだ邦和くにかず論文ろんぶんなかあさ無能むのう人物じんぶつであるときびしい評価ひょうかくだしている[13]。そのなかもとらんにおける後白河天皇ごしらかわてんのうかた最終さいしゅう目的もくてきたかしとく上皇じょうこう藤原ふじわらよりゆきちょう生死せいしわず確保かくほすることであったのに、まった見当けんとうちがいの場所ばしょ捜索そうさくした結果けっか崇徳院すとくいんよりゆきちょう平安京へいあんきょう中心ちゅうしんとおって脱出だっしゅつ成功せいこうし、挙句あげくてには戦闘せんとう終結しゅうけつにもかかわらず「王権おうけん」の象徴しょうちょうである法勝寺ほっしょうじはらおうとしたこと[14]などをげ、あさは10単位たんいでの小競こぜいにけている程度ていど人物じんぶつで、政治せいじてききが重要じゅうようとなるでのたたかいではその馬脚ばきゃくあらわしたとしている。
  16. ^ げん皇室こうしつ伏見ふしみみやけい(いわゆるきゅう皇族こうぞく)の共通きょうつう先祖せんぞにあたる。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 安田やすだ元久もとひさ武士ぶし世界せかい形成けいせい群像ぐんぞう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1986ねん 
  • 野口のぐちみのる武家ぶけ棟梁とうりょう源氏げんじはなぜほろんだのか』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1998ねん 
  • 元木もとき泰雄やすおもとらん平治へいじらんみなおす』〈NHKブックス〉2004ねん 
  • 元木もとき泰雄やすお河内かわうちはじめ』〈中公新書ちゅうこうしんしょ〉2011ねん 
  • 宮下みやしたげん清盛きよもりがもっともおそれたおとこ 源義朝みなもとのよしともみやたい出版しゅっぱんしゃ、2011ねん 
  • 川合かわいやすし鎌倉かまくら幕府ばくふ草創そうそう神話しんわ」『季刊きかん東北とうほくがく』27ごう東北芸術工科大学とうほくげいじゅつこうかだいがく東北とうほく文化ぶんか研究けんきゅうセンター、2011ねん /所収しょしゅう:川合かわいやすし院政いんせい武士ぶし社会しゃかい鎌倉かまくら幕府ばくふ吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2019ねん、258-261ぺーじ 
  • 高橋たかはし典幸のりゆきみなもと頼朝よりとも 東国とうごくえらんだ武家ぶけ貴公子きこうし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2010ねん 
  • 永井ながいすすむ河内かわうちはじめ摂津せっつ源氏げんじープロローグ」『鎌倉かまくらはじめさんだい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん 
  • 菱沼ひしぬま一憲かずのり総論そうろん あきらてと先行せんこう研究けんきゅう人物じんぶつ」『源範頼みなもとののりよりえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいいちよんかん〉、2015ねんISBN 978-4-86403-151-6 
  • 古澤ふるさわ直人なおと平治へいじらんにおける源義朝みなもとのよしとも謀反むほん動機どうき形成けいせい-勲功くんこうしょう官爵かんしゃく問題もんだい中心ちゅうしんに-」『経済けいざいこころざしりんだい80かんだい3ごう法政大学ほうせいだいがく経済学部けいざいがくぶ学会がっかい、2013ねん /所収しょしゅう:古澤ふるさわ直人なおと謀叛ぼうほんかかわる勲功くんこうしょうについて」「平治へいじらんにおける源義朝みなもとのよしとも謀反むほん動機どうき形成けいせい」『中世ちゅうせい初期しょきの〈謀叛ぼうほん〉と平治へいじらん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2019ねん 
  • 山田やまだ邦和くにかず ちょもとらん関白かんぱくちゅうどおり」、おぼろたにひさし; 山中やまなかあきら へん平安京へいあんきょうとその時代じだい思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2009ねんISBN 978-4-7842-1497-6 

関連かんれん項目こうもく

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