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かんしょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

かんしょう』(ぐかんしょう)は、鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき史論しろんしょ作者さくしゃ天台宗てんだいしゅう僧侶そうりょ慈円じえんぜん7かん承久じょうきゅうらん直前ちょくぜん朝廷ちょうてい幕府ばくふ緊張きんちょうたかまった時期じきうけたまわひさし2ねん1220ねんごろ成立せいりつしたが、らん修訂しゅうていくわえられている。北畠きたばたけ親房ちかふさの『かみすめらぎ正統せいとう』と双璧そうへきす、中世ちゅうせい日本にっぽんもっと重要じゅうよう歴史れきししょひょうされる。かんとは私見しけん謙譲けんじょう

概略がいりゃく

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初代しょだい神武じんむ天皇てんのうからだい84だい順徳天皇じゅんとくてんのうまでの歴史れきしを、貴族きぞく時代じだいから武士ぶし時代じだいへの転換てんかんとらえ、末法まっぽう思想しそうと「道理どうり」の理念りねんとにもとづいて、かり名文めいぶんべたもの。慈円じえん朝廷ちょうていがわ一員いちいんであるが、みなもと頼朝よりとも政治せいじ道理どうりにかなっていると評価ひょうかしている。また、慈円じえん自身じしんちちである藤原ふじわらただしどおりちち慈円じえんにとっては祖父そふ藤原ふじわら忠実ちゅうじつ不仲ふなかであったことあん批判ひはんしたり、同母どうぼ兄弟きょうだいであるきゅうじょうりゅうげて異母いぼ兄弟きょうだいである近衛このえりゅう非難ひなんするなど、摂関せっかん一員いちいんとして慈円じえん本人ほんにん複雑ふくざつ事情じじょう垣間見かいまみこと出来でき記事きじ存在そんざいする。

構成こうせい

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かんしょう』の内容ないよう性格せいかくことなるさん部分ぶぶんからっており、まき1からまき2までは神武じんむ以来いらい天皇てんのう年代ねんだいまき3からまき6までは道理どうり推移すいい中心ちゅうしんとする歴史れきしじゅつじょ、そしてまき7は道理どうりについての総括そうかつとなっている。鈴木すずき正道せいどうによると当初とうしょまき3からはじめられ、最後さいご天皇てんのう年代ねんだいがれたとする。まき7にいたり、一切いっさいほう道理どうりであり、道理どうりもとづいてなおかた方法ほうほう論述ろんじゅつしている。

版本はんぽん

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参考さんこう文献ぶんけん

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