承久じょうきゅうらん

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承久じょうきゅうらんうけたまわひさへん

瀬田せた唐橋からはし朝廷ちょうていにとって宇治川うじがわとともに瀬田川せたがわ鎌倉かまくら幕府ばくふぐんたいする防衛ぼうえい要衝ようしょうで、現在げんざい滋賀しがけん大津おおつ瀬田せた一帯いったい戦場せんじょうとなった[1]
戦争せんそう承久じょうきゅうらん
年月日ねんがっぴ:(旧暦きゅうれきうけたまわひさし3ねん6がつ
ユリウスれき1221ねん6がつ (802ねんまえ) (1221-06)
場所ばしょ平安京へいあんきょう周辺しゅうへん北陸ほくりくどう東山ひがしやまみち東海道とうかいどう
結果けっか鎌倉かまくら幕府ばくふ勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
鎌倉かまくら幕府ばくふ 朝廷ちょうてい
指導しどうしゃ指揮しきかん
北条ほうじょうよしとき
北条ほうじょうやすしとき
北条ほうじょうぼう
北条ほうじょうちょう
武田たけだ信光のぶみつ
三浦みうらよしむら
後鳥羽上皇ごとばじょうこう
順徳じゅんとく上皇じょうこう
藤原ふじわら秀康ひでやす
三浦みうらたねよし
大内おおうち惟信いしん
山田やまだ重忠しげただ
戦力せんりょく
やく190,000(吾妻あづまきょう やく19,000(諸説しょせつあり)

承久じょうきゅうらん(じょうきゅうのらん)は、1221ねんうけたまわひさし3ねん)に、後鳥羽上皇ごとばじょうこう鎌倉かまくら幕府ばくふ執権しっけんである北条ほうじょうよしときたいしてこした、貴族きぞく政権せいけんひきいる後鳥羽上皇ごとばじょうこう鎌倉かまくら幕府ばくふ対立たいりつ抗争こうそう[2]鎌倉かまくら時代じだい初期しょき幕府ばくふ貴族きぞく政権せいけんてんあいだ存在そんざいした緊張きんちょう融和ゆうわなどのしょ関係かんけいがもたらす政治せいじの、ひとつの帰結きけつであったとされる[2]あらそいの呼称こしょううけたまわひさへん、またはうけたまわひさし合戦かっせんともいう[3]

日本にっぽん史上しじょうはつ朝廷ちょうてい武家ぶけ政権せいけんあいだきた武力ぶりょくによるあらそいである[4]鎌倉かまくら幕府ばくふにおいて、初代しょだい将軍しょうぐんみなもと頼朝よりともから3だいじつあさまでの3にん清和せいわ天皇てんのう源氏げんじ将軍しょうぐんであり、朝廷ちょうていにとって身内みうちともいえる[5]。しかし、2だい将軍しょうぐんよりゆきつづき3だい将軍しょうぐんじつあさ暗殺あんさつされて鎌倉かまくらから源氏げんじ将軍しょうぐん途絶とだえると、鎌倉かまくら幕府ばくふ朝廷ちょうていからかたちだけの4だい将軍しょうぐんむかれ、実際じっさい将軍しょうぐん補佐ほさやくである執権しっけん北条ほうじょうよしとき幕府ばくふ実権じっけんにぎるようになった。これにより後鳥羽上皇ごとばじょうこうとの関係かんけい悪化あっかしていき、2ねん上皇じょうこう追討ついとう院宣いんぜん発布はっぷ挙兵きょへいしたが幕府ばくふぐん敗北はいぼく隠岐おき配流はいるされた[6]以後いご鎌倉かまくら幕府ばくふは、朝廷ちょうてい権力けんりょく制限せいげんし、京都きょうと朝廷ちょうてい監視かんしするろく探題たんだいき、皇位こうい継承けいしょうひとしにも影響えいきょうりょくつようになった。

なお、承久じょうきゅうらんの150ねんほどまえ11世紀せいき後半こうはん鎌倉かまくらみなもとまもがみ神社じんじゃとして創建そうけんされ、それ以来いらい鎌倉かまくら武士ぶし守護神しゅごじんとなった鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうには末社まっしゃ今宮いまみやがあり、承久じょうきゅうらん敗者はいしゃとなった後鳥羽上皇ごとばじょうこう順徳じゅんとく上皇じょうこう土御門つちみかど上皇じょうこうの3にんまつられている[7]

概要がいよう[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい末期まっきもとらん平治へいじらんといった朝廷ちょうてい内部ないぶこうそうなどにはしはっする貴族きぞく階級かいきゅう衰退すいたい武士ぶし階級かいきゅう飛躍ひやくてき台頭たいとうのち1185ねんはじめての武家ぶけ政権せいけんとなる鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつしたが、東日本ひがしにっぽん勢力せいりょくにおいた鎌倉かまくら幕府ばくふと、西日本にしにほん支配しはいたもった朝廷ちょうていによる2とう政治せいじとなり、朝廷ちょうていでは新興しんこう武家ぶけ政権せいけんへの反感はんかんつのっていったが、源氏げんじ将軍しょうぐん鎌倉かまくら幕府ばくふひきいているあいだ挙兵きょへいとはならなかった。しかし、鎌倉かまくら幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐんみなもと頼朝よりとも病死びょうしし、2だい将軍しょうぐんよりゆきと3だい将軍しょうぐんじつあさ次々つぎつぎ暗殺あんさつされて源氏げんじ将軍しょうぐん断絶だんぜつじつちょう暗殺あんさつされた1219ねん以降いこう北条ほうじょう執権しっけんしょくにもかかわらず鎌倉かまくら幕府ばくふ実質じっしつてき手中しゅちゅうおさめるにいたり、朝廷ちょうてい武家ぶけ政権せいけん打倒だとう日本にっぽん全土ぜんど統治とうち回復かいふく目指めざすこととなり、その2ねん承久じょうきゅうらん勃発ぼっぱつした。

背景はいけい[編集へんしゅう]

うけたまわ寿ことぶきひさしらん過程かていで、鎌倉かまくら本拠ほんきょみなもと頼朝よりとも武家ぶけ棟梁とうりょうとして東国とうごく武士ぶし中心ちゅうしん樹立じゅりつされた鎌倉かまくら幕府ばくふでは、東国とうごく中心ちゅうしんとして諸国しょこく守護しゅご地頭じとう設置せっちして警察けいさつけん掌握しょうあくしていた。一方いっぽう西国さいこくへの支配しはい充分じゅうぶんではなく、依然いぜんとして朝廷ちょうていちからつよく、幕府ばくふ朝廷ちょうていげん政治せいじ状態じょうたいにあった。

後鳥羽上皇ごとばじょうこう多芸たげい多才たさいで『しん古今ここん和歌集わかしゅう』をみずかせんするなど学芸がくげいすぐれるだけでなく、武芸ぶげいにもつう狩猟しゅりょうこの異色いしょく天皇てんのうであった。それまでの北面ほくめん武士ぶしくわえて西にしめん武士ぶし設置せっちし、軍事ぐんじりょく強化きょうかはかった。後鳥羽上皇ごとばじょうこう財源ざいげん長講ちょうこうどうりょうはちじょういんりょうなどの諸国しょこくかれた膨大ぼうだい荘園しょうえんぐんにあった。ところが、これらの荘園しょうえんおおくに幕府ばくふ地頭じとうかれるようになると、しばしば年貢ねんぐ未納みのうなどがこり、荘園しょうえん領主りょうしゅである後鳥羽上皇ごとばじょうこうやその近臣きんしん紛争ふんそうこすようになった。

うけたまわひさし元年がんねん1219ねん)1がつ幕府ばくふ将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねともおいおおやけあかつき暗殺あんさつされた[ちゅう 1]じつあさ急死きゅうしにより、鎌倉かまくら殿どの政務せいむじつあさははである北条ほうじょう政子まさこ代行だいこうし、執権しっけんであるおとうと北条ほうじょうよしがこれを補佐ほさすることとなった。また、あらたな京都きょうと守護しゅごとしてよしつまあに伊賀いがひかりと、幕府ばくふ宿老しゅくろう大江広元おおえのひろもと嫡男ちゃくなんかつむすめ婿むこみなもととおるおや猶子ゆうしとして朝廷ちょうていふかいつながりのあった大江おおえちかしひろ派遣はけんした。

幕府ばくふあたらしい鎌倉かまくら殿どのとして、後鳥羽上皇ごとばじょうこう皇子おうじであるまさしげる親王しんのうろくじょうみや)かよりゆきじん親王しんのう冷泉れいせんみや)をむかえたいと後鳥羽上皇ごとばじょうこうもうる。これにたいし、後鳥羽上皇ごとばじょうこう近臣きんしん藤原ふじわら忠綱ただつな鎌倉かまくらおくり、愛妾あいしょうかめきく所領しょりょうである摂津せっつこく長江ながえそうむくきょうそう地頭じとうしょく撤廃てっぱいいんちか御家人ごけにん仁科にしな盛遠もりとお西にしめん武士ぶし)への処分しょぶん撤回てっかい条件じょうけんとして提示ていじした。はこれを幕府ばくふ根幹こんかんるがすとして拒否きょひする。おとうと北条ほうじょうぼうに1000あたえて上洛じょうらくさせ、武力ぶりょくによる恫喝どうかつ背景はいけい交渉こうしょうこころみるが、朝廷ちょうてい態度たいど強硬きょうこう不調ふちょうわる。ただし後鳥羽上皇ごとばじょうこうは、皇子おうじでさえなければ摂関せっかん子弟していであろうと鎌倉かまくら殿どのとしてくだしてかまわないと渋々しぶしぶながらも妥協だきょうあんしめした。このため皇族こうぞく将軍しょうぐんあきらめ、摂関せっかんから将軍しょうぐんむかえることとし、同年どうねん6がつ九条くじょう道家どうかさんとら九条くじょうよりゆきけい)を鎌倉かまくら殿どのとしてむかえ、執権しっけん中心ちゅうしんとなって政務せいむ執権しっけん体制たいせいとなる。将軍しょうぐん継嗣けいし問題もんだい後鳥羽上皇ごとばじょうこうにも、にもしこりがのこった。ここで、将軍しょうぐん継嗣けいし問題もんだいについてかたじょう問題もんだいとされているのは、じつあさ生前せいぜんからすで自己じこ後継こうけいしゃとして皇族こうぞく将軍しょうぐんむかれを検討けんとうしていたとするせつである。うえ横手よこてまさたかしとなえたもので、たてたもつ4ねん1216ねん)の9がつじつあさ大江おおえ広元ひろもとかたったとされる「みなもと正統せいとうこのときちぢまり、子孫しそんはこれをぐべからず。しかればあくまで官職かんしょくたいし、家名かめいげんとほっす」(『吾妻あづまきょう』)を、しかるべき家柄いえがら皇室こうしつ)から後継こうけいもとめ、それ(皇族こうぞく将軍しょうぐんちち)に相応ふさわしい官位かんいもとめたとし、後鳥羽上皇ごとばじょうこうもこれを承諾しょうだくしたためにじつあさ昇進しょうしんさせたというせつである[ちゅう 2]。また『かんしょう』によればけん6ねん1218ねん)2がつ政子まさこやまいがちなじつあさ平癒へいゆねがって熊野くまの参詣さんけいしたさいに、きょう後鳥羽上皇ごとばじょうこう乳母うばきょう藤原ふじわら兼子かねこ)と対面たいめんしたが、そのさいじつあさ後継こうけいとして後鳥羽上皇ごとばじょうこう皇子おうじひがしくださせることを政子まさこきょう相談そうだんし、きょう養育よういくしていたよりゆきじん親王しんのうして、2人ふたりあいだ約束やくそくわされたという。

同年どうねん7がつ大内おおうち守護しゅごみなもとよりゆきしげる源頼政みなもとのよりまさまご)が後鳥羽上皇ごとばじょうこういのちによって在京ざいきょう武士ぶしめられ、内裏だいりじん寿ひさし殿どのこもって自害じがいするという事件じけんきた。理由りゆうは『吾妻あづまきょう』ではよりゆきしげる後鳥羽上皇ごとばじょうこうそむいたためとし、『かんしょう』『れきあいだ』などによるとよりゆきしげる将軍しょうぐんしょくくことをくわだてたため、在京ざいきょう武士ぶしたちがそれを後鳥羽ごとばうったえ、後鳥羽ごとばよりゆきしげる召喚しょうかんしたがおうじなかったため追討ついとう院宣いんぜんはっせられたとされている。幕府ばくふ問題もんだいのために後鳥羽上皇ごとばじょうこう朝廷ちょうてい兵力へいりょくうごかすのは不自然ふしぜんで、よりゆきしげる後鳥羽上皇ごとばじょうこうによる鎌倉かまくら調伏ちょうぶく加持かじ祈祷きとうおこなっていたうごきをったためとするせつもあり、そのためか事件じけん直後ちょくご後鳥羽上皇ごとばじょうこう祈願きがん使つかっていたさいかち四天王してんのういんこわされている[ちゅう 3]。また『かんしょう』にはよりゆきしげる藤原ふじわら忠綱ただつなあいだあやしい共謀きょうぼうがあったとし、忠綱ただつなじつあさ暗殺あんさつ九条くじょうはじめ次期じき将軍しょうぐんにしようと画策かくさくしたため、よりゆきしげ誅殺ちゅうさつよく8がつ後鳥羽上皇ごとばじょうこうによってかいかん所領しょりょう没収ぼっしゅうされており、その赦免しゃめんねがっていたのがきょうだったとしるされている。そのことから、きょうよりゆきじん親王しんのう将軍しょうぐん就任しゅうにん後鳥羽上皇ごとばじょうこうによって拒絶きょぜつされ、きょう政敵せいてき西園寺さいおんじこうけい外孫そとまごさんとら有力ゆうりょく将軍しょうぐん候補こうほとなったため、きょうなんらかの妨害ぼうがいたくら発覚はっかくしたのがよりゆきしげ謀反むほん真相しんそうで、後鳥羽上皇ごとばじょうこう在京ざいきょう武士ぶしうったえでよりゆきしげ捕縛ほばくこころみたが召喚しょうかんおうじず討伐とうばついたったとして、承久じょうきゅうらんいた公武こうぶ対立たいりつ図式ずしきではなく後鳥羽ごとば院政いんせいにおける権力けんりょく闘争とうそういちコマとして位置付いちづけるせつもある[11][12]

よりゆきしげる自害じがいするさいはなったことで大内裏だいだいり焼失しょうしつするという事件じけん発生はっせいし、大内裏だいだいり焼失しょうしつをうけて後鳥羽上皇ごとばじょうこう幕府ばくふふくかく方面ほうめん再建さいけんのための賦課ふかもとめた。しかし公家くげ寺社じしゃ武士ぶしのいずれも協力きょうりょくてきであり、後鳥羽上皇ごとばじょうこう幕府ばくふたいする不満ふまんつのらせた。朝廷ちょうてい幕府ばくふ緊張きんちょう次第しだいたかまり、うけたまわひさし2ねん1220ねん)に焼失しょうしつした宮城みやぎ造営ぞうえいおこなうなかで後鳥羽上皇ごとばじょうこう挙兵きょへい態度たいどかためたとされるが、土御門つちみかど上皇じょうこうはこれに反対はんたいし、摂政せっしょう近衛このえやそのちちもとどおりをはじめおおくの公卿くぎょうたちも反対はんたいまたは消極しょうきょくてきであった。順徳天皇じゅんとくてんのう討幕とうばく積極せっきょくてきで、うけたまわひさし3ねん1221ねん)4がつ20日はつか彗星すいせい出現しゅつげん理由りゆうなつけなり親王しんのう仲恭天皇ちゅうきょうてんのう)に譲位じょうい[13]自由じゆう立場たちばになって協力きょうりょくする。また、近衛このえ退しりぞけられて、新帝しんてい外戚がいせき九条くじょう道家どうか摂政せっしょうとなった。さらに、寺社じしゃひそかにめいじて調伏ちょうぶく加持かじ祈祷きとうおこなわれた。討幕とうばく流説るせつながれ、朝廷ちょうてい幕府ばくふ対決たいけつ不可避ふかひ情勢じょうせいとなった。

上皇じょうこう挙兵きょへい[編集へんしゅう]

後鳥羽上皇ごとばじょうこう

うけたまわひさし3ねん(1221ねん)4がつ下旬げじゅん後鳥羽上皇ごとばじょうこう城南寺じょうなんてら仏事ぶつじ守護しゅご[ちゅう 4]口実こうじつ諸国しょこくへいあつ[14]、28にちには北面ほくめん西にしめん武士ぶし近国きんごく武士ぶし大番おおばんやく在京ざいきょう武士ぶし1000後鳥羽ごとばいん御所ごしょであるこういんあつまった。そのなかには有力ゆうりょく御家人ごけにん尾張おわり守護しゅご小野おのもりつな近江おうみ守護しゅご佐々木ささきひろつな検非違使けびいし判官ほうがん三浦みうらたねよしふくまれていた。5月14にち幕府ばくふ出先でさき機関きかんである京都きょうと守護しゅご大江おおえちかしひろ大江広元おおえのひろもと)はきょうかたくわわり、おなじく京都きょうと守護しゅご伊賀いがひかり招聘しょうへいこばんだ。同時どうじおやまく大納言だいなごん西園寺さいおんじこうけいみのる父子ふし幽閉ゆうへいされた。よく15にちきょうかたたね藤原ふじわら秀康ひでやす近畿きんきやその近国きんごく6かこく[ちゅう 5]守護しゅご大内おおうち惟信いしんら800ひかりてい襲撃しゅうげきひかりはわずかなへい奮戦ふんせんして討死うちじにしたが、下人げにんびさせ変事へんじ鎌倉かまくららせた。

同日どうじつ後鳥羽上皇ごとばじょうこうは「畿七どう」の御家人ごけにん守護しゅご地頭じとう特定とくてい人々ひとびと対象たいしょう追討ついとうかん宣旨せんじはっした。また三浦みうら小山こやま武田たけだなどの有力ゆうりょく御家人ごけにんたいして、追討ついとう院宣いんぜんはっしている[ちゅう 6]同時どうじそなえとして、近国きんごく関所せきしょかためさせた。きょうかた士気しきがり、「朝敵ちょうてきとなった以上いじょうは、さんじるものせんにんもいないだろう」と楽観らっかんてきだった。これにたいして東国とうごく武士ぶししょう家定いえさだは「かた武士ぶしまんくだるまい。自分じぶん関東かんとうにあったなら味方みかたしていた」と楽観らっかんろんいましめ、後鳥羽上皇ごとばじょうこう不興ふきょうった。

きょうかた院宣いんぜん効果こうか絶対ぜったいしており、諸国しょこく武士ぶし味方みかたすると確信かくしんしていた。前述ぜんじゅつとおり、後鳥羽上皇ごとばじょうこう三浦みうらよしむらをはじめ幕府ばくふ有力ゆうりょく御家人ごけにんには格別かくべつ院宣いんぜんえて使者ししゃ鎌倉かまくらおくった。とく三浦みうらよしむらについてはおとうとたねが「(じつあさ後継こうけいの)日本にっぽんそうおい使つかいにんじられるなら味方みかたする」と約束やくそくしており、期待きたいされていた。

鎌倉かまくらへは、伊賀いがひかり下人げにん西園寺さいおんじこうけいいえ三善さんぜんちょうから上皇じょうこう挙兵きょへいほうが19にち[18]とどけられ、大江おおえちかしひろ寝返ねがえり、西園寺さいおんじ父子ふし幽閉ゆうへいひかり討死うちじにつたえられた。きょうかた使者ししゃである押松はそのすこ到着とうちゃくし、警戒けいかいしていた幕府ばくふかたらえられた。たねからの密書みっしょけたよしむら使者ししゃかえし、密書みっしょ幕府ばくふとどけた。

上皇じょうこう挙兵きょへいほう鎌倉かまくら武士ぶし動揺どうようしたが、北条ほうじょう政子まさこ上皇じょうこう挙兵きょへい鎌倉かまくら幕府ばくふ全体ぜんたいへの攻撃こうげきであるとして御家人ごけにんたち鎌倉かまくら創設そうせつ以来いらい頼朝よりとも恩顧おんこうったえ、「讒言ざんげんもとづいた理不尽りふじん追討ついとう綸旨りんじしてこの鎌倉かまくらほろぼそうとしている上皇じょうこうかたをいちはや討伐とうばつして、じつあさ遺業いぎょういでゆく」ようめいじたことで、動揺どうようしずまった。

うけたまわひさ』には、政子まさこかん庭先にわさき御家人ごけにんたちをまえ演説えんぜつおこなったことでかれらのしんうごかされ、北条ほうじょうよし中心ちゅうしん鎌倉かまくら武士ぶし結集けっしゅうさせることに成功せいこうしたという記述きじゅつがある。一方いっぽう、『吾妻あづまきょう』では、御家人ごけにんまえすす政子まさこかたわらで安達あだち景盛かげもり政子まさこ声明せいめいぶん代読だいどくしたとしるされている。

みなしんいちにしてたてまつるべし。これ最期さいごなり。みぎ大將軍だいしょうぐん朝敵ちょうてきせいばっし、關東かんとう草創そうそうしてより以降いこう官位かんいうんひ俸祿とうんひ、おんすで山嶽さんがくよりもたかく、溟渤よりもふかし。報謝ほうしゃこころざしこれあさからんや。しかるにこん逆臣ぎゃくしんの讒に綸旨りんじくださる。しむのぞくは、はや秀康ひでやすたねとう討取うちとさんだい將軍しょうぐん遺蹟いせきまっとうすべし。ただいんちゅうまいらんとよくするものは、只今ただいまもうるべし。 — 吾妻あづまきょううけたまわひさし三年辛巳五月十九日壬寅条(原文げんぶん変体へんたい漢文かんぶん

もっとも、鎌倉かまくら武士ぶしはこの演説えんぜつしんたれて安易あんい鎌倉かまくらかたについたとみるべきではなく、むしろ打算ださんてきであった。慈光寺じこうじほんうけたまわひさ』には、政子まさこ演説えんぜつこころうごかされた甲斐かいこく武田たけだ信光のぶみつ出陣しゅつじん隣国りんごく小笠原おがさわらちょうきよしたいして「鎌倉かまくらてば鎌倉かまくらにつき、きょうかたてばきょうかたにつく」のが武士ぶしならわしであると公言こうげんし、北条ほうじょうぼうから恩賞おんしょう約束やくそくをする書状しょじょうとどけられると積極せっきょくてき進軍しんぐんはじめる姿すがたえがかれている。鎌倉かまくら武士ぶしはどちらに味方みかたをすればてるかという状況じょうきょう分析ぶんせきや、一族いちぞくない利害りがい関係かんけい勝利しょうりすれば、てきかたについた一族いちぞく所領しょりょううばうことが出来できる)なども検討けんとうしたうえで、そのおおくが損得そんとく勘定かんじょうもとづいて鎌倉かまくらへの支持しじめたのであった[19]

らん経過けいか[編集へんしゅう]

承久じょうきゅうらん幕府ばくふぐん進路しんろ

5月19にち北条ほうじょうよし北条ほうじょうやすしとき北条ほうじょうぼう大江おおえ広元ひろもと三浦みうらよしむら安達あだち景盛かげもりらによるぐんでは、箱根はこね足柄あしがら徹底てってい抗戦こうせんをする迎撃げいげきろん有力ゆうりょくであったが、広元ひろもと逡巡しゅんじゅんして幕府ばくふかた団結だんけつがくずれるおそれがあるという理由りゆう即時そくじきょうへの積極せっきょくてき出撃しゅつげき主張しゅちょうした。政子まさこ広元ひろもと賛成さんせいして武蔵むさしこく軍勢ぐんぜい到着とうちゃく次第しだい上洛じょうらくするようにめいじた。ところが武蔵むさしこく軍勢ぐんぜいっているうちに、21にちいん近臣きんしんでありながら挙兵きょへい反対はんたいしていた一条いちじょうよりゆき鎌倉かまくらのがれてきて、西園寺さいおんじ父子ふし拘禁こうきん伊賀いがひかり自害じがいのくわしい様子ようすつたえると再度さいど慎重しんちょうろんかえしてきた。広元ひろもとは「武蔵むさしぜいつのも上策じょうさくではない。たいいちにんでも出発しゅっぱつされたら、勇士ゆうしたち続々ぞくぞくついてくでしょう」とべ、政子まさこ病床びょうしょう寝込ねこんでいた三善みよし善信よしのぶ意見いけんもとめると広元ひろもとどう意見いけんだったので、たい早速さっそく鎌倉かまくら発向はっこうした。したがもの子息しそくどき以下いか18[ちゅう 7]ぎなかった(『うけたまわひさ』によれば慎重しんちょうろんしゃならぬやすしであったとされる。うえ横手よこてまさたかしたい主張しゅちょうとおされた場合ばあい幕府ばくふがわ団結だんけつくずれたことはありた。このときたい態度たいどかれ生涯しょうがいにおける最大さいだい過誤かごであったとしている)。

5月22にち東海道とうかいどうぐんだいいちじん鎌倉かまくら出発しゅっぱつ、25にちには東海道とうかいどうぐん10まん東山ひがしやまみちぐん5まん北陸ほくりくどう4まん編成へんせいがなされた[18]たい途中とちゅう鎌倉かまくらかえし、上皇じょうこうみずかへいひきいた場合ばあい対処たいしょたずねた。は「きみ輿こしにはゆみけぬ、ただちによろいいで、ゆみつるって降伏ごうぶくせよ。からへいだけをおくってくるのであればちからかぎたたかえ」とめいじたとう(『ぞうきょう』)。幕府ばくふぐんみち々で徐々じょじょ兵力へいりょくし、『吾妻あづまきょう』によれば最終さいしゅうてきには19まんふくがった。

らえていた上皇じょうこう使者ししゃ押松に宣戦せんせん布告ふこく書状しょじょうたせてきょうかえす。鎌倉かまくら武士ぶしたちが院宣いんぜんしたがい、は討滅されるであろうとしんじきり、幕府ばくふぐん出撃しゅつげき予測よそくしていなかった後鳥羽上皇ごとばじょうこうきょうかた首脳しゅのう狼狽ろうばいした。とりあえず、藤原ふじわら秀康ひでやすそう大将たいしょうとして幕府ばくふぐんむかつこととして、1まん7500美濃みのこくける。きょうかた美濃みの尾張おわり国境こっきょう尾張おわりがわ布陣ふじんするが、すくない兵力へいりょく分散ぶんさんさせるおかしていた。一方いっぽう幕府ばくふかた東海道とうかいどうぐん東山ひがしやまみちぐん尾張おわりこく一宮いちのみや合流ごうりゅうぐんひらいた。

6月5にち甲斐かいはじめ武田たけだ信光のぶみつ小笠原おがさわらちょうきよしひきいる東山ひがしやまみちぐん5まんは、大井戸おおいどわたり布陣ふじんする大内おおうち惟信いしんひきいるきょうかた2000撃破げきはした[ちゅう 8]藤原ふじわら秀康ひでやす三浦みうらたねよし佐々木ささきひろつなささえきれないと判断はんだんし、宇治うじ瀬田せたきょうまもるとして早々そうそう退却たいきゃくめる。惟信いしんはそのまま行方ゆくえをくらました。6にちたいときぼうひきいる主力しゅりょく東海道とうかいどうぐん10まん尾張おわりがわ渡河とかし、墨俣すのまたじんめかかったときにはもぬけのから山田やまだ重忠しげただのみがくい瀬川せかわ奮戦ふんせんするが、きょうかた総崩そうくずれになり、大敗たいはいきっした。

北条ほうじょうちょうひきいる北陸ほくりくどうぐん4まんも5月30にちには宮崎みやざきじょうはんまも蒲原かまはら難関なんかん突破とっぱ同日どうじつゆうには宮崎みやざきじょうとしてえつ中国ちゅうごく乱入らんにゅう[22]、『吾妻あづまきょう』によると6がつ8にちにはえつ中国ちゅうごく般若はんにゃそう一帯いったいでのたたかいをせいして林次郎りんじろう石黒いしぐろ三郎さぶろう[ちゅう 9]きょうかた武将ぶしょう投降とうこうせしめた。一方いっぽう、『うけたまわひさ』は砺波となみさんけるくろざか志保しほふたつのみち戦闘せんとうひろげられたとし[ちゅう 10]、この砺波となみさんでの戦闘せんとう[ちゅう 11]せいした北陸ほくりくどうぐん加賀かがこくきょうをめざした[ちゅう 12]

当初とうしょ見込みこんでいた鎌倉かまくらかた離反りはんがなく、予想よそうがい防御ぼうぎょせんいられたきょうかたは、西国さいこく武士ぶしたいする公権力こうけんりょくによる動員どういん発動はつどうまれた。実際じっさい兵力へいりょく動員どういんじょうきょうからは京都きょうと周辺しゅうへん地域ちいきからの兵力へいりょく確保かくほ成功せいこうしていたものの、鎌倉かまくらかた進撃しんげき予想よそう以上いじょうはやく(鎌倉かまくらかた出陣しゅつじんからきょうまでの進軍しんぐんに22日間にちかん)、西国さいこく武士ぶしなかには上皇じょうこういのちけてきょうかた参戦さんせんするため上洛じょうらくするまえ勝敗しょうはいけっしてしまった事例じれいもあったとみられている[19]

美濃みの尾張おわりでの敗報はいほうきょうかた動揺どうようして洛中らくちゅうだい混乱こんらんとなった。後鳥羽上皇ごとばじょうこうみずか武装ぶそうして比叡山ひえいざんのぼり、僧兵そうへい協力きょうりょくもとめるが、上皇じょうこう寺社じしゃ抑制よくせいさくわざわいしたか、比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ衆徒しゅと微力びりょくではひがしつよふせがたいとしてこれを拒絶きょぜつした。やむなく、きょうかたのこぜん兵力へいりょくをもって宇治うじ瀬田せた布陣ふじんし、宇治川うじがわ幕府ばくふぐんふせぐことにめ、公家くげ坊門ぼうもん忠信ちゅうしん一条いちじょうしんのう高倉たかくらはんしげるそうみことちょう大将軍だいしょうぐんとしてさんじんした。

6月13にちきょうかた幕府ばくふぐん衝突しょうとつした。きょうかた宇治川うじがわはしとし、あめのようにかけ必死ひっし防戦ぼうせんする。幕府ばくふぐん豪雨ごううによる増水ぞうすいのためかわわたれずめあぐねたが、よく14にち佐々木ささき信綱のぶつな先頭せんとうとして強引ごういん敵前てきぜん渡河とかし、多数たすう溺死できししゃしながらも敵陣てきじん突破とっぱ成功せいこうした[ちゅう 13]。そのきょうかた潰走かいそうし、大江おおえちかしひろ逢坂おうさかせきひがしせきてら付近ふきん行方ゆくえをくらました。

吾妻あづまきょう』によると、15にち藤原ふじわら秀康ひでやす三浦みうらたねらが四辻よつつじ殿どの参上さんじょうして宇治うじ瀬田せたでの敗戦はいせん鎌倉かまくら武士ぶし大挙たいきょ入京にゅうきょうする形勢けいせいであることを奏聞そうもんした。一方いっぽう慈光寺じこうじほんうけたまわひさ』によると、14にちよるには敗走はいそうしたきょうかた三浦みうらたねよし山田やまだ重忠しげただらは最後さいごいちせんをせんと御所ごしょけつけるが、後鳥羽上皇ごとばじょうこうもんかたじてかれらをかえしてしまう。山田やまだ重忠しげただは「だい臆病おくびょうきみかたられたわ」ともんはた憤慨ふんがいした。幕府ばくふぐんきょう雪崩なだみ、寺社じしゃきょうかた公家くげ武士ぶし屋敷やしきはなち、略奪りゃくだつ暴行ぼうこうはたらいた。

15にち後鳥羽上皇ごとばじょうこう幕府ばくふぐん使者ししゃおくり、このたびらんはかりごとしんくわだてであったとして北条ほうじょうよし追討ついとう院宣いんぜんし、藤原ふじわら秀康ひでやす三浦みうらたねらの逮捕たいほめいじる院宣いんぜんくだす。後鳥羽上皇ごとばじょうこう見捨みすてられた三浦みうらたね東寺とうじもって抵抗ていこうし、あに三浦みうらよしむら軍勢ぐんぜい決戦けっせんいどんで、奮戦ふんせん自害じがいした。山田やまだ重忠しげただ幕府ばくふぐんはげしくたたかったのちびたさき嵯峨さが般若寺はんにゃじさん自害じがい藤原ふじわら秀康ひでやす逃亡とうぼうし、10月に河内かわうちこくにおいて幕府ばくふぐん捕虜ほりょとなった。

戦後せんご処理しょり[編集へんしゅう]

7がつ首謀しゅぼうしゃである後鳥羽上皇ごとばじょうこう隠岐島おきのしま順徳じゅんとく上皇じょうこう佐渡さどとうにそれぞれ配流はいるされた。討幕とうばく計画けいかく反対はんたいしていた土御門つちみかど上皇じょうこうみずかのぞんで土佐とさこく配流はいるされた(のち阿波あわこくうつされる)。後鳥羽上皇ごとばじょうこう皇子おうじまさしげる親王しんのうろくじょうみや)、よりゆきじん親王しんのう冷泉れいせんみや)もそれぞれ但馬たじまこく備前びぜんこく配流はいるされた。仲恭天皇ちゅうきょうてんのうきゅうじょう廃帝はいてい仲恭ちゅうきょうおくおくりな明治めいじ以降いこう)ははいされ、後鳥羽ごとば同母どうぼけいくだりじょ入道にゅうどう親王しんのうまもりさだ親王しんのう皇子おうじ即位そくいした(こう堀河ほりかわ天皇てんのう)。おやまく後鳥羽上皇ごとばじょうこう拘束こうそくされていた西園寺さいおんじこうけい内大臣ないだいじんにんじられ、幕府ばくふ意向いこうけて朝廷ちょうてい主導しゅどうすることになる。

後鳥羽上皇ごとばじょうこうしたにあった膨大ぼうだい荘園しょうえんぐん没収ぼっしゅうされ、あらたにてんとしてのち堀河ほりかわ天皇てんのう院政いんせいることになったこうじょ入道にゅうどう親王しんのうこう高倉たかくらいん)にあたえられた。ただしその支配しはいけん幕府ばくふにぎっていた。

討幕とうばく計画けいかく参加さんかした上皇じょうこうかたの「合戦かっせん張本ちょうほん公卿くぎょう」と名指なざしされた一条いちじょうしんのう葉室はむろこうおやみなもとゆうみやび葉室はむろ宗行むねゆき高倉たかくらはんしげる公卿くぎょう鎌倉かまくらおくられる途上とじょう処刑しょけいされ、坊門ぼうもん忠信ちゅうしんらそのいん近臣きんしん各地かくち流罪るざいまたは謹慎きんしん処分しょぶんとなった。また藤原ふじわら秀康ひでやす藤原ふじわらしげるきよし後藤ごとうはじめきよし佐々木ささきけいだか河野こうの通信つうしん加藤かとうひかりいん御家人ごけにんふくきょうかた武士ぶし多数たすう粛清しゅくせい追放ついほうされた。大江おおえちかしひろ逢坂おうさかせきひがしせきてら付近ふきん行方ゆくえれずとなり、そこで死去しきょしたとも、またちち広元ひろもと嘆願たんがんもあり赦免しゃめんされて所領しょりょう出羽でわこく寒河江さがえそうくだってぼっしたともわれる[ちゅう 14]

らんいんにも動員どういんけんがあった在京ざいきょう御家人ごけにん支配しはいは、すべてろく探題たんだいゆだねられ、国家こっか軍事ぐんじりょくがほぼ完全かんぜん幕府ばくふすることになったことは重要じゅうようである[24]。また没収ぼっしゅうされたさんせんカ所かしょおよきょうかた所領しょりょうおおくには東国とうごく御家人ごけにん地頭じとうとして入部にゅうぶすることになった[25]

事件じけん[編集へんしゅう]

承久じょうきゅうらん院政いんせい存続そんぞくし、幕府ばくふがそのした諸国しょこく守護しゅごけん行使こうししたてんではわりはない[26]。これにたい平安へいあん後期こうき以来いらい院政いんせいおわりめつとして承久じょうきゅうらん意義いぎたか評価ひょうかする研究けんきゅうしゃ存在そんざいする[27]

らんによって、具体ぐたいてきなにわったかについては、北条ほうじょう嫡流ちゃくりゅう朝廷ちょうてい存続そんぞくさせながら、皇位こうい継承けいしょうしゃ決定けっていけん摂関せっかん以下いか公卿くぎょう人事じんじけん掌握しょうあくすることになったのである[28][ちゅう 15]幕府ばくふ朝廷ちょうてい監視かんしして皇位こうい継承けいしょう管理かんりするようになり、朝廷ちょうてい幕府ばくふをはばかって細大さいだいらさず幕府ばくふうかがいをてるようになった。院政いんせい財政ざいせいてき基盤きばんであったはちじょういんりょうなどの所領しょりょう一旦いったん幕府ばくふ没収ぼっしゅうされ、てん管理かんりもどされたのちもその実質じっしつてき所有しょゆうけん幕府ばくふ帰属きぞくした。承久じょうきゅうらんには鎌倉かまくら京都きょうとげん政治せいじわらせて武家ぶけ政権せいけん確立かくりつする意義いぎがあったとする指摘してきもある[31]

鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにん源氏げんじ一門いちもん門葉もんよう)の重鎮じゅうちんだった大内おおうち惟信いしんてきかたである後鳥羽上皇ごとばじょうこう味方みかたして敗北はいぼく逃亡とうぼうして10ねんちか潜伏せんぷくつづけたがひろし2ねん1230ねん)にらえられて西国さいこく配流はいるとなり、みなもと頼朝よりとももっと信頼しんらいいていた平賀ひらが大内おおうち没落ぼつらくすることになる。

処刑しょけいされたいん近臣きんしんおおくは後鳥羽上皇ごとばじょうこう支持しじけて家格かかく上昇じょうしょう目指めざした家々いえいえだったが、らんによってぎゃく衰退すいたいあるいは没落ぼつらくすることとなり、いん近臣きんしんそうにも変化へんかられるようになった。これはちちはじめて大臣だいじんとなり、自身じしん昇進しょうしん類似るいじした経歴けいれきをたどっていた反対はんたい西園寺さいおんじこうけい挙兵きょへい坊門ぼうもん忠信ちゅうしんのそれぞれの後裔こうえい浮沈ふちんが、このらん契機けいきおおきくかれることが物語ものがたっている。

また西国さいこくきょうかた公家くげ武士ぶしからおおくの没収ぼっしゅうて、これを戦功せんこうがあった御家人ごけにん大量たいりょう給付きゅうふした。このためおおくの東国とうごく御家人ごけにん西国さいこく所領しょりょう獲得かくとくし、幕府ばくふ支配しはい畿内きない西国さいこくにもつよおよぶようになる。

承久じょうきゅうらん翌年よくねんまれた日蓮にちれんは、この事件じけんを「先代せんだい未聞みもん下剋上げこくじょう」としてとらえた。このとき朝廷ちょうていにはすで国家こっか統治とうちするちからがなかったとし、「王法おうほうすでにつきぬ」と解釈かいしゃくした。日蓮にちれん実質じっしつてき武家ぶけ指導しどうしゃである鎌倉かまくら北条ほうじょうとく宗家そうけこそがしんの「日本にっぽん国主こくしゅ国王こくおう)」であるとかんがえていた。このため数々かずかず弾圧だんあつにもかかわらず国家こっか諌暁の対象たいしょう鎌倉かまくら幕府ばくふにのみおこない、京都きょうと朝廷ちょうていたいする自己じこおしえの布教ふきょうには消極しょうきょくてきあるいは否定ひていてきであったとする見方みかたがある[32]

承久じょうきゅうらん武士ぶし貴族きぞく階級かいきゅう打倒だとうする一種いっしゅ革命かくめいとみなす意見いけんもあった。しかし実際じっさいには民衆みんしゅうから支配しはい階級かいきゅう公家くげから武家ぶけへとうつわるひとつのとされ、承久じょうきゅうらんのち協調きょうちょうてき公武こうぶ関係かんけい構築こうちくはかられた。

参戦さんせん武将ぶしょう[編集へんしゅう]

幕府ばくふぐん

朝廷ちょうていぐん

うけたまわひさの「らん」と「へん[編集へんしゅう]

安田やすだ元久もとひさ[33]によると、ほん事件じけんについての呼称こしょうは、鎌倉かまくら幕府ばくふがわ文献ぶんけん吾妻あづまきょう』では「うけたまわひさし兵乱へいらん」「うけたまわひさしぎゃくらん」「うけたまわひさしさんねん合戦かっせん」「うけたまわひさしさんねん大乱たいらん」といった表記ひょうきもちいた。南北なんぼくあさ時代じだいには、きた朝方あさがた武士ぶしによると推定すいていされる『れきあいだ』では「うけたまわひさしらん」「うけたまわひさしこと」、みなみ朝方あさがた北畠きたばたけ親房ちかふさかみすめらぎ正統せいとう』でも「承久じょうきゅうらん」と表記ひょうきされた。こうして、大正たいしょう中期ちゅうきまで「承久じょうきゅうらん」の表記ひょうき主流しゅりゅうとなり、いで「うけたまわひさやく」が使つかわれることもあった。

江戸えど時代じだいになると尊王そんのうろんもとづく『だい日本にっぽん』が「うけたまわひさなん」と表記ひょうきし、後鳥羽上皇ごとばじょうこう逆臣ぎゃくしん北条ほうじょうよし被害ひがいしゃとして主張しゅちょうまれた。『だい日本にっぽん編纂へんさんたずさわった安積あさか澹泊たんぱくは、『だい日本にっぽんさんやぶ』で「らん」「なん」とともに、はじめて「うけたまわひさへん表記ひょうきもちいた。

さらに大正たいしょう時代じだいになると、皇国こうこく史観しかんから「うけたまわひさへん」の表記ひょうき積極せっきょくてき使つかうようになり、国定こくてい教科書きょうかしょでも大正たいしょう9ねん1920ねんばん尋常じんじょう小学しょうがく国史こくし』から「へん表記ひょうきになった。これは、上皇じょうこうこしたのだから「反乱はんらん」ではないという思想しそうからである。その学界がっかいでは「らん」「やく」「合戦かっせん表記ひょうき使つかわれたが、昭和しょうわ10年代ねんだい後半こうはん太平洋戦争たいへいようせんそうになると、専門せんもんしょでも「うけたまわひさへん表記ひょうきにほぼ統一とういつされるにいたった。しかし、「へん」はおも不意ふい政治せいじてき社会しゃかいてき事件じけんに、「らん」はおも武力ぶりょくともな事件じけん使つかわれていることから、安田やすだ戦乱せんらん発生はっせいしたほん事件じけんを「らん」と呼称こしょうすべきことは疑問ぎもん余地よちもないとしている。

だい世界せかい大戦たいせんこうは、「らん表記ひょうき主流しゅりゅうになっている。しかし、田中たなかたくの『教養きょうよう日本にっぽん』をはじめ、明成めいせいしゃ高等こうとう学校がっこうよう教科書きょうかしょ最新さいしん日本にっぽん』、あたらしい歴史れきし教科書きょうかしょをつくるかい中学校ちゅうがっこうよう教科書きょうかしょあたらしい歴史れきし教科書きょうかしょ』など、保守ほしゅには「へん」の表記ひょうき一部いちぶられる。

上皇じょうこうがわ承久じょうきゅうらん目的もくてき[編集へんしゅう]

今日きょうにおいて、承久じょうきゅうらん後鳥羽上皇ごとばじょうこう鎌倉かまくら幕府ばくふ打倒だとうするために挙兵きょへいしたとする見方みかた通説つうせつ[ちゅう 16]となっているが、じつはこの見方みかたにはいくつもの問題もんだいがある。

  • 後鳥羽上皇ごとばじょうこう北条ほうじょうよし討伐とうばつするためにされた院宣いんぜんおよびつづいて朝廷ちょうていからされたかん宣旨せんじにおいてしめされた討伐とうばつ対象たいしょうがいずれも北条ほうじょうよしとき個人こじんであること。
  • その討伐とうばつ理由りゆうとして次期じき将軍しょうぐんであるきゅうじょうさんとらよりゆきけい)をかるんじていること、をげているが、院宣いんぜんには討伐とうばつまえ鎌倉かまくら幕府ばくふ内部ないぶ北条ほうじょうよし幕政ばくせい奉行ぶぎょう」の停止ていし政治せいじてき引退いんたい)を説得せっとくさせようとしていること(もし討幕とうばく目的もくてきであればさんとらまたはその後見人こうけんにんである北条ほうじょう政子まさこ追討ついとうめいじる文言もんごんふくまれるはずである)。
  • それらの文書ぶんしょ送付そうふされた対象たいしょうなか鎌倉かまくら幕府ばくふ機関きかん末端まったんである守護しゅご地頭じとう御家人ごけにんふくまれていること、
  • 京都きょうと守護しゅごである大江おおえちかしひろ在京ざいきょう御家人ごけにんらがこの命令めいれいほうじて鎌倉かまくら北条ほうじょうよし討伐とうばつかっていること。

など、鎌倉かまくら幕府ばくふ討幕とうばく目的もくてきとするのであれば矛盾むじゅんする内容ないようになっている。そのため近年きんねん研究けんきゅうしゃあいだでは承久じょうきゅうらん討幕とうばく目的もくてきではなく、北条ほうじょうよし幕府ばくふから排除はいじょする目的もくてきであったとするせつ有力ゆうりょくだが、通説つうせつえるにはいたっていない[35]

京都きょうと京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかん学芸がくげいいん中世ちゅうせい公武こうぶ関係かんけいせんもん長村おさむらさち研究けんきゅうによれば、この「承久じょうきゅうらん」が討幕とうばく目的もくてき認識にんしきされるようになった背景はいけいには、北条ほうじょうよし実質じっしつじょう首班しゅはんとする鎌倉かまくら幕府ばくふが「後鳥羽上皇ごとばじょうこう討幕とうばく目的もくてきとしてへいげた」とみなしたからである。このことがきっかけとなり、承久じょうきゅうらんが「京都きょうとたい坂東ばんどう」のたたかいであるとしょうされるようになり、幕府ばくふ御家人ごけにん招集しょうしゅうするようになった。その、その影響えいきょうけた鎌倉かまくら幕府ばくふ編纂へんさんの『吾妻あづまきょう』や『うけたまわひさ』の一部いちぶほんがこの鎌倉かまくら幕府ばくふがわから視点してんもとづいて「承久じょうきゅうらん」をえがいた。さらに『太平たいへい』や『梅松うめまつろん』などもこれをかたち承久じょうきゅうらんれるというかたちひろまりをせた。

これにたいして『百錬ひゃくれんしょう』『すめらぎだいれき』など京都きょうと編纂へんさんされた歴史れきししょなかには、院宣いんぜんかん宣旨せんじ内容ないようけて北条ほうじょうよし討伐とうばつたたかいとして承久じょうきゅうらんえがいたしょ存在そんざいしていたが、室町むろまち時代じだいはいると京都きょうとでも朝廷ちょうてい事務じむかたになそとのトップであった清原きよはらぎょうただしおよび養子ようしせんけんが『成敗せいばい式目しきもく』の注釈ちゅうしゃくにおいて『吾妻あづまきょう』の解釈かいしゃくもとづいて「後鳥羽上皇ごとばじょうこう挙兵きょへいは「関東かんとう」・「武家ぶけ」の「退治たいじ」が目的もくてきであった」とする解釈かいしゃくおこなった。

吾妻あづまきょう』および清原きよはらによる『成敗せいばい式目しきもく』の注釈ちゅうしゃく戦国せんごく時代じだい知識ちしきじんあいだひろまれており、承久じょうきゅうらん討幕とうばく目的もくてきとする見方みかた一般いっぱんおおきな影響えいきょうあたえた。こうして、14世紀せいきから16世紀せいきにかけて承久じょうきゅうらん実在じつざい文書ぶんしょから裏付うらづけられる事件じけん実態じったいから乖離かいりした討幕とうばく事件じけんとして変容へんようさい構成こうせいされたとかんがえられ、それがそのにおいてもおおきな影響えいきょうあたえているとみられている。

また倒幕とうばくせつ採用さいようした場合ばあい疑問ぎもんとしてのこされるのは、「何故なぜきゅうじょうさんとらよりゆきけい)の鎌倉かまくら下向げこう後鳥羽上皇ごとばじょうこうみとめたのか?」というてんである。仲恭天皇ちゅうきょうてんのうはは九条くじょう立子たつこさんとら伯母おばであり、何事なにごともなければ仲恭天皇ちゅうきょうてんのう治世ちせい祖父そふである後鳥羽上皇ごとばじょうこう外戚がいせきである九条くじょうがこれをささえ、九条くじょう出身しゅっしん将軍しょうぐんようした鎌倉かまくら幕府ばくふもその影響えいきょうかれるからである。つまり、後鳥羽上皇ごとばじょうこうかれ頂点ちょうてんとする「王家おうけ」は外戚がいせき政策せいさくかいして鎌倉かまくら幕府ばくふ包括ほうかつかってすすんでいたとえる[36]のに倒幕とうばくせつはこのながれに矛盾むじゅんすることになり、この説明せつめいもとめられることになる[ちゅう 17]

一方いっぽうで、承久じょうきゅうらんきた当時とうじは、“鎌倉かまくら幕府ばくふ”というような武家ぶけ政権せいけん表現ひょうげんする言葉ことば日本にっぽんにはまだなく、討伐とうばつ対象たいしょうとしては個人こじんめいげるのが自然しぜんである。平安へいあん末期まっき以仁王もちひとおう令旨れいしにおいても討伐とうばつ対象たいしょうとしては平清盛たいらのきよもり個人こじん名前なまえげられており、鎌倉かまくら末期まっき後醍醐天皇ごだいごてんのう綸旨りんじにおいても北条ほうじょうだか個人こじん名前なまえ討伐とうばつ対象たいしょうとしてげられている。だからといって以仁王もちひとおう後醍醐天皇ごだいごてんのう清盛きよもりこう排除はいじょのみを目指めざし、たいら政権せいけん鎌倉かまくら幕府ばくふ打倒だとう目指めざしていなかったとはかんがえられない。また幼児ようじさんとら女性じょせい政子まさこ討伐とうばつ対象たいしょうとしては適当てきとうであり、当時とうじ幕府ばくふ最高さいこう権力けんりょくしゃであることはあきらかなため(後醍醐天皇ごだいごてんのう綸旨りんじにも、実権じっけんまったくなかった当時とうじ幕府ばくふ将軍しょうぐんまもりくに親王しんのう成人せいじん男性だんせいであるにもかかわらずげられていない)、北条ほうじょうよし打倒だとう倒幕とうばくかんがえるのが自然しぜんだとする反論はんろんもある[38][39]

さらに上皇じょうこうぐん主力しゅりょく西国さいこく守護しゅご中心ちゅうしんとする在京ざいきょう御家人ごけにんで、なおかつ戦略せんりゃくとして三浦みうらよしむらなど幕府ばくふ内部ないぶ有力ゆうりょく御家人ごけにん寝返ねがえりが勝利しょうりには不可欠ふかけつだったため、幕府ばくふ廃絶はいぜつなどを公言こうげんすることはできなかったとする推測すいそくもある[17]。また、慈円じえん西園寺さいおんじこうけいさんとら外祖父がいそふ)にてた書状しょじょうで「じつ後鳥羽ごとばいん大変たいへんにご立腹りっぷくである。さんとら下向げこう本心ほんしんでは納得なっとくせず反対はんたいしていたのを、自分じぶんがいろいろと工作こうさくしてようや下向げこうぎつけた。やはりいん自分じぶん武士ぶしおもうようにできないのは、不本意ふほんいだとおもっておられるようだ」(『門葉もんよう』)とべており、上皇じょうこうさんとら鎌倉かまくら下向げこうにも反対はんたいだったが慈円じえん説得せっとく渋々しぶしぶ同意どういしたものであって、慈円じえん後鳥羽ごとば挙兵きょへい動機どうき将軍しょうぐん擁立ようりつ問題もんだいたいする不満ふまんにあると認識にんしきしている[12]

史料しりょう[編集へんしゅう]

歴史れきししょ[編集へんしゅう]

  • かんしょう』:慈円じえんちょ一説いっせつ慈円じえんはこのしょをもって後鳥羽上皇ごとばじょうこう討幕とうばくおもいとどまらせようとしたという。
  • 吾妻あづまきょう』:編纂へんさんぶつ鎌倉かまくら幕府ばくふはん公式こうしき記録きろく

軍記ぐんきぶつ[編集へんしゅう]

  • うけたまわひさ』:ぜん2かん承久じょうきゅうらんしるした軍記ぐんきぶつらん原因げんいん後鳥羽上皇ごとばじょうこう不徳ふとくであるとしるしている。異本いほんおおい。これをもと江戸えど時代じだいえがかれた『うけたまわひさ絵巻えまき』が個人こじんぞう現存げんそんしている[8]

歴史れきし物語ものがたり[編集へんしゅう]

  • ろくだいかちごと』:承久じょうきゅうらん後鳥羽上皇ごとばじょうこう不徳ふとくの「あくおう」であったことに原因げんいんがあるとしている。
  • ぞうきょう』:前述ぜんじゅつ北条ほうじょうよしたい逸話いつわ後鳥羽上皇ごとばじょうこう隠岐おきでの様子ようすつたえる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ うけたまわひさ』など旧来きゅうらいせつでは、これは「かんち」(身分みぶん不相応ふそうおうくらいにのぼると不幸ふこうになるというかんがえ)などの呪詛じゅそ調伏ちょうぶく効果こうかであり、後鳥羽上皇ごとばじょうこうじつあさいて喜悦きえつしたとしている。しかしうえ横手よこてまさたかしは、後鳥羽ごとば武士ぶし臣従しんじゅう前提ぜんていとした公武こうぶ融和ゆうわ路線ろせんすすめており、かんせつるにらぬ俗説ぞくせつとし、幕府ばくふ後鳥羽ごとばあいだで、けん6ねん(1218ねん)の政子まさこ上洛じょうらくに、後鳥羽ごとば皇子おうじじつあさ養子ようしとし、将来しょうらい将軍しょうぐんとしてひがしくださせる密約みつやく成立せいりつしたとした。近年きんねんでは、後鳥羽上皇ごとばじょうこう武家ぶけ政権せいけんとの対立たいりつではなく、当初とうしょ公武こうぶ融和ゆうわによる政治せいじはかっており、そのためにじつあさ官位かんいすす優遇ゆうぐうしていたとの見方みかたつよ[8]
  2. ^ このせつ弱点じゃくてんとして、じつあさ暗殺あんさつ後鳥羽上皇ごとばじょうこう皇族こうぞく将軍しょうぐん拒絶きょぜつしたことに説明せつめいがつかなくなることがげられる。これについて河内かわうちさちは、現職げんしょく将軍しょうぐんであるじつちょう暗殺あんさつされたことで、じつあさ皇子おうじ猶子ゆうしなどのかたち後継こうけい指名しめいして将軍しょうぐん地位ちいゆずじつあさはその後見こうけんとなる構想こうそう破綻はたんしてしまったことと、しん将軍しょうぐん反対はんたいする勢力せいりょくによる皇子おうじ暗殺あんさつ危惧きぐされる状況じょうきょうとなったために、後鳥羽上皇ごとばじょうこう皇子おうじ安全あんぜんはかるさらなる保障ほしょう河内かわうちはこれを幕府ばくふ機構きこうおよび北条ほうじょう以下いか主要しゅよう御家人ごけにん鎌倉かまくらから京都きょうとへの移転いてんとみる)をもとめて幕府ばくふがわ拒絶きょぜつしたとしている。ぎゃくにこのときに、皇族こうぞく将軍しょうぐんのみならず摂家せっけ将軍しょうぐん擁立ようりつ後鳥羽上皇ごとばじょうこう拒絶きょぜつすれば、まれるのはおも目処めどうしなってしまう幕府ばくふがわである。河内かわうちは、後鳥羽上皇ごとばじょうこうかならずしも倒幕とうばく目指めざしていたわけではなかったためさんとら鎌倉かまくら下向げこう容認ようにんしたのであり、承久じょうきゅうらんにおける最終さいしゅう目的もくてきも「鎌倉かまくらにおける現行げんこう幕府ばくふ体制たいせい」の打倒だとうであって、後鳥羽上皇ごとばじょうこう影響えいきょう京都きょうとにおいて「幕府ばくふ」が存続そんぞくすることまでは反対はんたいしていなかったと[9]。また、これらとはべつ白根しらねやすしだいは、後鳥羽上皇ごとばじょうこうてんとしての政治せいじりょく背景はいけいとして家格かかく上昇じょうしょうのぞ中級ちゅうきゅう公家くげそう自己じこ支配しはいき、さらに後鳥羽ごとば院政いんせいもと摂関せっかんじゅんじた家格かかく上昇じょうしょうれていた(公家くげ社会しゃかいてき見方みかたからすれば軍事ぐんじ家職かしょくとする新興しんこう公家くげである)鎌倉かまくら将軍家しょうぐんけ源氏げんじ将軍しょうぐんへの影響えいきょうりょく強化きょうかはかったとする。だが、後鳥羽上皇ごとばじょうこう将軍しょうぐん後継こうけい問題もんだいにおいて、北条ほうじょう公家くげ社会しゃかい認識にんしきでは、鎌倉かまくら将軍家しょうぐんけいえ筆頭ひっとうしょ大夫たいふ名家めいかきゅう中級ちゅうきゅう公家くげぎないとみなされるしゃ)によってその介入かいにゅうたせなかったことにより、北条ほうじょう排除はいじょかんがえるようになったとする。
  3. ^ 百錬ひゃくれんしょううけたまわひさし元年がんねん7がつ19にちじょう根拠こんきょとするが、おなじ『百錬ひゃくれんしょう』のうけたまわひさし2ねん10がつ18にちじょうに「今日きょうさいかち四天王してんのういん上棟じょうとう」とあり、通常つうじょう事始ことはじめから上棟じょうとうまで2~3かげつであるため、うけたまわひさし2ねん1220ねん)7がつ19にち事始ことはじめがあったとすれば無理むりなく理解りかいでき、さいかち四天王してんのういん解体かいたい移築いちくうけたまわひさし2ねんの7がつから10がつにかけてとるべきだとする指摘してきもある[10]
  4. ^ 慈光寺じこうじほんうけたまわひさ』による。活字かつじほんうけたまわひさ』では流鏑馬やぶさめそろとする。
  5. ^ 伊勢いせ伊賀いが越前えちぜん美濃みの丹波たんば摂津せっつ
  6. ^ 慈光寺じこうじほんうけたまわひさ』には武田たけだ小笠原おがさわら小山こやま宇都宮うつのみや長沼ながぬま足利あしかが三浦みうらおよ北条ほうじょうぼうたいしてはっしたとする。の『うけたまわひさしょほんには武田たけだ小笠原おがさわら千葉ちば小山こやま宇都宮うつのみや三浦みうら葛西かさいたいしてされたとする。慈光寺じこうじほん成立せいりつ一番いちばんふるうえに『うけたまわひさ』のなかただいち追討ついとう院宣いんぜん本文ほんぶん採録さいろくされていること、その内容ないよう現存げんそんする後鳥羽上皇ごとばじょうこうほかの(追討ついとう以外いがいの)院宣いんぜん類似るいじ形式けいしきられることから、慈光寺じこうじほんしるされたよし追討ついとう院宣いんぜん実際じっさい発給はっきゅうされたもののうつしであった可能かのうせいたかいとするせつがある[15]一方いっぽう実物じつぶつ現存げんそんする追討ついとうかん宣旨せんじたいして、どう時代じだい史料しりょう後鳥羽ごとば追討ついとう院宣いんぜん発給はっきゅうしたとしるすものがないうえに、追討ついとうかん宣旨せんじ院宣いんぜん両方りょうほうされたとしる史料しりょう軍記ぐんきぶつふくめていちてんもなく、慈光寺じこうじほんうけたまわひさ』は院宣いんぜんにのみれて、実在じつざいするかん宣旨せんじにはれていない(一方いっぽう前田まえだほんうけたまわひさ』は現存げんそんするかん宣旨せんじのみを引用いんようしている)ことから、慈光寺じこうじほんうけたまわひさ』は実在じつざいするかん宣旨せんじから院宣いんぜん創作そうさくしたとするせつもある[16][17]
  7. ^ 吾妻あづまきょう』に記載きさいされる18は、たいどき北条ほうじょうゆうときよんなん)、北条ほうじょうみのるよしろくなん)、尾藤びとう景綱かげつな左近さこん将監しょうげん)、せきみのるただし判官ほうがんだい)、ひらもりつな兵衛ひょうえじょう)、南条なんじょういん安東あんどうふじない左衛門尉さえもんのじょう)、伊具いぐ盛重もりしげ武村たけむら次郎じろう兵衛ひょうえじょう)、佐久間さくまもり葛山かつらやま小次郎こじろう勅使河原てしがわらのりじき横溝よこみぞおも安藤あんどう左近さこん将監しょうげん塩河しゅうが中務なかつかさすすむ内島うちじま忠俊ただとし
  8. ^ 吾妻あづまきょう』では、このほか小山こやま朝長ともなが結城ゆうき朝光ともみつ大将軍だいしょうぐんにんじられたとしている[20]。しかし、『うけたまわひさ』ではこの二人ふたり記載きさいはなく、遠山とおやまけいあさ諏訪すわ信重のぶしげ伊具いぐみぎうままこと入道にゅうどうぐん検見けんみやくとしてくわわっている[20]実際じっさい東山ひがしやまみちぐんくわわった武士ぶし整理せいりすると、出身しゅっしん判明はんめいする御家人ごけにんは、一人ひとりのぞいてすべてが甲斐かい信濃しなの出身しゅっしんしゃである[21]。『甲府こうふ』では、このことから、小山こやま朝長ともなが結城ゆうき朝光ともみつ大将軍だいしょうぐんになっていたとしても軍事ぐんじ指揮しきかんというよりも、ぐん監視かんしやくのような役割やくわりをしていたものと推測すいそくしている[20]。なお、らん論功行賞ろんこうこうしょう甲斐かいはじめ一族いちぞく畿内きない西国さいこく所領しょりょうあたえられており、承久じょうきゅうらん契機けいき甲斐かいはじめ一族いちぞく西国さいこく進出しんしゅつしている。
  9. ^ 越中えっちゅう中世ちゅうせい研究けんきゅうしゃ久保くぼ尚文なおふみは、「宮崎みやざきもとむぞう文書ぶんしょ所収しょしゅう石黒いしぐろ系図けいずえる石黒いしぐろ左衛門さえもん入道にゅうどうきよしさとしこそ石黒いしぐろ三郎さぶろうそのひとであろうとする。なお、その息子むすこ左衛門さえもん三郎さぶろうしゅんつなは「おや先立さきだってんだ(さき親父おやじ死去しきょ)」としるされるが、おそらく承久じょうきゅうらん戦死せんししたのではないかと推測すいそくされる[23]
  10. ^ 吾妻あづまきょうとうで8にち越中えっちゅう般若はんにゃいたとされるあさぐんよくがた砺波となみさんはいった(「しきぶのせいいまだあけがたのことなるに、うんがのせいをもてをしよせときをどつとつくりければ」云々うんぬん)とする『うけたまわひさぐん物語ものがたり』や夜通よどおしかけてやまえた(「よをこめて、いがらしとうをさきとして、やまをこえけれハ」云々うんぬん)とする『うけたまわひさし兵乱へいらん』の記載きさいから、砺波となみさんたたかいを6がつ9にちとするせつがある[よう出典しゅってん]
  11. ^ このたたかいできょうかた糟屋かすや有久ありひさゆうちょう仁科にしな盛遠もりとお宮崎みやざきじょうはんらが戦死せんししており、激戦げきせんであったことが裏付うらづけられる。
  12. ^ ただしは『だい日本にっぽん史料しりょうしょ引の現地げんち指揮しきかん市河いちかわ六郎ろくろう刑部おさかべ御教書みぎょうしょ(『市河いちかわ文書ぶんしょ所収しょしゅう)で「たしかにやまふみをして、めしとらるへくこう、おひおとしたれはとて、うちすてゝなましひにてきょうへいそきのほることあるへからす」と、山狩やまがりをして一人ひとりのこらずるようめいじており、けっして入京にゅうきょういそぐことがないようねんしもしている。そのためか、北陸ほくりくどうぐん入京にゅうきょうたしたのは、慈光寺じこうじほんうけたまわひさ』では6がつ17にち、『ひゃくねりしょう』では20日はつか、『武家ぶけ年代ねんだい』では24にちと、いずれにしてもたたかいの帰趨きすうけっしたのちとなっている。
  13. ^ ただし幕府ばくふかたのこうむった損害そんがい甚大じんだいで、この戦闘せんとうにおいて桃井ももい義助よしすけ伊佐いさためむね熊谷くまがいただしこく津々しんしんちゅうしょうちゅう安保あぼみのるこうせき政綱せいこうといったしょしょう犠牲ぎせいとなっている。
  14. ^ そのきょうかたでは、藤原ふじわらちょうしゅんひらきょうらの廷臣ていしん多田ただはじめつな佐々木ささき高重たかしげ大内おおうちおもんみただし八田はったともなお小野おのしげるときらの武将ぶしょう各地かくち戦死せんし山田やまだしげるつぎ佐々木ささき勢多せたとぎまる戦後せんご処刑しょけいされている。またそうみことちょうは、こののち6ねんおよ潜伏せんぷくのち幕府ばくふかた発見はっけんされ自害じがいはか死去しきょしている。
  15. ^ ただし、鎌倉かまくら幕府ばくふえども個々ここの「皇位こうい継承けいしょうには関与かんよできても、てんきみ保持ほじする「皇統こうとう継承けいしょう決定けっていには関与かんよできなかったという見方みかたもある。松薗まつぞのひとしは、鎌倉かまくら幕府ばくふこう白河しらかわ法皇ほうおうさだめて源義仲みなもとのよしなか軍事ぐんじてき要求ようきゅうたいしても変更へんこう拒絶きょぜつした高倉天皇たかくらてんのう子孫しそん皇統こうとう継承けいしょうさせる方針ほうしん維持いじし、後鳥羽ごとばけい有力ゆうりょく皇族こうぞくおそらくはせんもんいん覲子内親王ないしんのうか)の意見いけん聴取ちょうしゅしたうえ即位そくいしたことのないまもりさだ親王しんのうてんきみかつ構想こうそうてたのではないかとしている[29]鎌倉かまくら幕府ばくふ皇統こうとう制御せいぎょおこななかったことは鎌倉かまくら中期ちゅうき以降いこうてんきみによる皇統こうとう決定けってい異議いぎされた結果けっかとして両統りょうとう迭立はかられ、そのたび鎌倉かまくら幕府ばくふ仲介ちゅうかいはいらざるをなくなったことからもかる[30]
  16. ^ たとえば『新版しんぱん 日本にっぽん辞典じてん[34]には「後鳥羽上皇ごとばじょうこう鎌倉かまくら幕府ばくふをうつためにおこした兵乱へいらん」と定義ていぎされている。
  17. ^ 河内かわうちさち輔のように後鳥羽上皇ごとばじょうこう摂家せっけ将軍しょうぐん廃止はいしする意思いしがあり、それが慈円じえんの『かんしょう』における後鳥羽ごとば批判ひはんにつながっているとするせつもある[37]が、河内かわうち承久じょうきゅうらん倒幕とうばくせつではなく親王しんのう将軍しょうぐんへの交代こうたい目的もくてきとする見地けんちっているため、倒幕とうばくせつ観点かんてんからの反論はんろんではない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]