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そと

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

そと(げき)は、律令制りつりょうせいにおいて朝廷ちょうてい組織そしき最高さいこう機関きかん太政官だじょうかんぞくしたしょくひとつである。四等官しとうかんなかしゅてん(さかん)に相当そうとうする。

唐名とうみょう外史がいし門下もんか起居ききょろう門下もんかれい

和訓わくんは「とのおおいしるすつかさ」。

職掌しょくしょう

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少納言しょうなごんしたかれ、中務なかつかさしょう内記ないき作成さくせいした詔勅しょうちょく校勘こうかんし、太政官だじょうかんから天皇てんのうげるそうぶん作成さくせいした。また太政官だじょうかんうえきょう指示しじしたがって朝廷ちょうてい儀式ぎしき公事こうじ奉行ぶぎょうおこない、必要ひつようおうじて関係かんけいする先例せんれい調査ちょうさ上申じょうしんしてその円滑えんかつ遂行すいこうつとめた。さら人事じんじ案件あんけん手続てつづき一端いったんになった。その重要じゅうようせいからのべれき2ねん(783ねん)5がつ11にちには官位かんい相当そうとうげられ、またひろしひとし6ねん(815ねん)1がつ23にちには、それまでは内記ないきおこなっていた天皇てんのう日々ひび動静どうせいしる御所ごしょ記録きろく職務しょくむ分担ぶんたんするようになった。さらに蔵人くろうどかれて少納言しょうなごん権限けんげん形骸けいがいするとその職務しょくむ権限けんげん一部いちぶそとうつされた。

このように職務しょくむ多忙たぼうであったことからそと地位ちい上昇じょうしょうし、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきには昇進しょうしんするだいそとあらわれるようになった。これを大夫たいふがい(たいふげき)とんた。のち大夫たいふがい筆頭ひっとうきょくつとむ(きょくむ)ともぶようになる。のち人数にんずうおぎなうためにけんかんけんしょうそともうけられた。

平安へいあん時代じだい中期ちゅうきから末期まっきにかけて、そときょくは、だいそと2めいうち1めい大夫たいふがい)、しょうそと2めいけんしょうそと1めいけい5めい構成こうせいされた。そとは、ろく蔵人くろうど式部しきぶすすむみんすすむふみ近衛このえすすむかん衛門えもんじょうなどと同様どうよう正月しょうがつ叙位じょい叙爵じょしゃくわくがあり、毎年まいとし在職ざいしょく年数ねんすうながうえ﨟者1めいしたがえじょされた(めぐ)。ろくそとだいそと1めいしょうそと2めいけんしょうそと1めいけい4めいであるため、けんしょうそとにんじられたものしょうそとだいそと昇進しょうしんし、そとけい4年間ねんかんつとめて叙爵じょしゃくされることになる。ろく蔵人くろうど式部しきぶすすむみんすすむ検非違使けびいし衛門えもんじょうなどから叙爵じょしゃくしたもの同様どうようそとからじょされたもの受領じゅりょうにんじられる資格しかくがあり、叙爵じょしゃく一定いってい待機たいき期間きかんのち受領じゅりょうにんじられた。

文治ぶんじ3ねん(1187ねん)12月4にちには最大さいだい定員ていいんだいしょうわせて6めいとすることになった。本来ほんらい顕官けんかんの1つとしてふみとともに儒学じゅがく文筆ぶんぴつすぐれた下級かきゅうかんじんにんじられて昇進しょうしんへのあしがかりとする役職やくしょくだったが、鎌倉かまくら時代ときよ以後いごにはあかりけいどう家柄いえがらだった舟橋ふなばし清原きよはら嫡流ちゃくりゅう)と押小路おしこうじ中原なかはら)の世襲せしゅうとなり、さらにそれまでは公卿くぎょうにんじられていた穀倉こくそういん別当べっとう任命にんめいされるものもあらわれた。室町むろまち時代ときよはいると舟橋ふなばし代々だいだい天皇てんのう侍読じどくとしてそとずに少納言しょうなごんのぼることになったために、きょくつとむ押小路おしこうじのみによる世襲せしゅうとなり、同家どうけきょくつとむ(きょくむけ)とばれるようになった。江戸えど時代じだいには押小路おしこうじきょくつとむ権限けんげんとして史生ふみおのみならず各省かくしょう地下ちかかんじん動員どういんして朝廷ちょうてい儀式ぎしき公事こうじ遂行すいこうつとめた。こうした地下ちかかんじんたちをそとかた(げきかた)とび、60いえ以上いじょう存在そんざいしたとわれている。

そとははじめ少納言しょうなごん事務所じむしょである少納言しょうなごんきょく構成こうせいしていたが、やがてそとちょう、さらにのちにはそときょくばれる独自どくじ事務所じむしょつにいたった。そとちょう内裏だいりけんはるもん東側ひがしがわ位置いちしてぶん殿どのなどが併設へいせつされた。なお当初とうしょ太政官だじょうかんちょうおこなわれていた太政官だじょうかん会議かいぎかんせい)は時代じだいくだると内裏だいりによりちかそとちょう施設しせつもちいておこなわれるようになるが、これをそとせいぶようになった。

そとはその職務しょくむ日記にっきとしてそと日記にっききこれを後日ごじつ参考さんこうとしたが、平安へいあん時代じだい後期こうきになると律令制りつりょうせい弛緩しかんくわえ、そと職務しょくむかんする事項じこう個人こじん日記にっきしるして外部がいぶすことでそと世襲せしゅう公的こうてき権威けんい付与ふようながしたために衰微すいびした。これを憂慮ゆうりょした藤原ふじわらよりゆきちょうそと日記にっき励行れいこうめいじたものの失敗しっぱいわっている。

職員しょくいん

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関連かんれん項目こうもく

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