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ふみ (律令制りつりょうせい)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ふみ(し)とは、日本にっぽん律令制りつりょうせいにおいて神祇官じんぎかん太政官だじょうかんべんかんきょく)に設置せっちされただいしょう総称そうしょう四等官しとうかんの4番目ばんめであるしゅてん(さかん)に相当そうとうする。官位かんい相当そうとう神祇官じんぎかんだいせいはちどうしょうしたがえはちじょうであるのにたいして、太政官だじょうかんだいせいろくじょうどうしょうせいななじょうとそれよりもたか位置いちづけられている。定員ていいん神祇官じんぎかんだいしょうかく1めいぜん2めい)、太政官だじょうかん左右さゆうべんかんきょくだいしょうかく2めいぜん8めい)。

概要がいよう

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ふるくから文筆ぶんぴつてのひらかんを「ふみ(ふひと/ふみひと)」とび、このしょくいた氏族しぞくたいしてふみせいさづけられることがあった。律令制りつりょうせいにおいては、上級じょうきゅうしゃ命令めいれいけて公文書こうぶんしょ記録きろく作成さくせいてのひらり、公文書こうぶんしょ内容ないよう吟味ぎんみして上級じょうきゅうしゃ判断はんだんあおぎ、読申することを職掌しょくしょうとした。

太政官だじょうかんかん)はべんかんひきいるべんかんきょくぞくしているが、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以降いこうべんかんには公卿くぎょうまたは公卿くぎょうへの昇進しょうしんコースにった上流じょうりゅう貴族きぞくおおにんぜられ、かつべんかん繁忙はんぼう官職かんしょく兼帯けんたいするものおおかったことから、べんかんきょく実務じつむによって処理しょりされるようになった[1]

べんかんきょく左右さゆうかれていることから、ふみ左右さゆうかれ、ひだりだいみぎだいひだりしょうみぎしょうかく2めいわせて8めい存在そんざいすることからはち(はちし)ともばれた。にんぜられるものは、式部しきぶろくみんろくかんかいよしぬしてん検非違使けびいし道志どうし文章ぶんしょうせいもの諸道しょどう成業せいぎょうしゃいちじょう推挙すいきょもの一院いちいん判官ほうがんだい出納すいとうであり[2]かくかんから有能ゆうのう人材じんざいあつめていたとみられる[3]一方いっぽうで、べんには姓氏せいしぞくにんぜられおおくが公卿くぎょういたるのにたいして、任官にんかんするもの源平げんぺいふじたちばな以外いがいの卑姓氏族しぞくかぎられて[4]すえ諸国しょこく受領じゅりょうまり、おなべんかんきょくにありながらべんあいだ人事じんじてき交流こうりゅうはなかった[5]

はじみぎしょうにんぜられるとひだりしょうみぎだいひだりだいじゅん昇進しょうしんし、すくなくとも9世紀せいき以降いこうはこの原則げんそく遵守じゅんしゅされている(いきなりひだりだいにんぜられるしょうけやきのぞく)[3]ひだりだいまでのぼると、ろく蔵人くろうど式部しきぶすすむみんすすむそと近衛このえすすむかん検非違使けびいし衛門えもんじょうなどと同様どうよう正月しょうがつ叙位じょい叙爵じょしゃくわくがあり、毎年まいとしじょう﨟者(在職ざいしょく年数ねんすうながもの)1めいしたがえじょされた(めぐ)。また官職かんしょく叙爵じょしゃくしたもの同様どうように、からじょされたもの受領じゅりょうにんじられる資格しかくがあり、まいはる1めいにんじられた(ふみじゅん)。一方いっぽうで、有能ゆうのう人材じんざいたいしては叙爵じょしゃく転出てんしゅつさせずひだりだい留任りゅうにんさせ、これをとく大夫たいふふみ大夫たいふ)とんだ。そのため、有望ゆうぼう人材じんざいつづくと大夫たいふめいになることもあった一方いっぽうで、いったんわきまえかんきょくから転出てんしゅつしたもの大夫たいふ登用とうようされることはなかった。

大夫たいふ設置せっちかんつとむ成立せいりつ

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ひだりだい奈良なら時代じだい後期こうきからられるが[6]平安へいあん時代じだい中期ちゅうきてんのべ3ねん975ねんごろだい春日しゅんじつ良辰りょうしんじょせられて以降いこう[7]大夫たいふ常置じょうちされるようになる。恒常こうじょう要因よういんとしては、政務せいむ形態けいたい変化へんかにより大夫たいふ重要じゅうようせいたかまったことによると推測すいそくされる[8]

前述ぜんじゅつとおり、大夫たいふろくから有能ゆうのうもの叙爵じょしゃくわきまえかんきょくいて任命にんめいしており、べんかんきょくから転出てんしゅつしたもの大夫たいふ登用とうようされることはなかった。しかし、寛弘かんこう8ねん1011ねん藤原ふじわら道長みちなが自己じこいえろく叙爵じょしゃく受領じゅりょう転出てんしゅつしていたただしなみたてまつおや前例ぜんれい無視むしして強引ごういん大夫たいふ就任しゅうにんさせる。これにより、政権せいけん担当たんとうしゃ意中いちゅう人物じんぶつ大夫たいふ就任しゅうにんさせやすくなり、寛仁かんじん3ねん1019ねん摂政せっしょう藤原ふじわら頼通よりみちしょうけやき貞行さだゆきにんじて以降いこう摂関せっかんいえつとめていた小槻おおづくおもんみむね両氏りょうし交替こうたい大夫たいふつとめるようになった。

そのかんかず4ねん1102ねん)『政事せいじ要略ようりゃく』を白河しらかわいんられるなど[9]おもんみそう十分じゅうぶんかん文書ぶんしょ蓄積ちくせきができないなかで、しょうけやきはますます存在そんざいかんたかめていく。かんかず5ねん1103ねん)にはしょうけやきゆうしゅん堀河ほりかわ天皇てんのう許可きょか養子ようしもりなか大夫たいふゆずってしょうけやき大夫たいふ世襲せしゅうはじ[10]久安ひさやす5ねん1149ねんごろおもんみ宗孝むねたかちゅう大夫たいふると、しょうけやき独占どくせんてき大夫たいふめるようになった。しょうけやき壬生みぶ大宮おおみや)は代々だいだいにわたってひだりだい史上しじょうくびかんつとむ)をつとめたため、「かんつとむ」としょうされ、太政官だじょうかん記録きろく文書ぶんしょつてりょう保存ほぞんにんにあたるようになる。

ひだりだい辞令じれいくちせんあん)のれいちょうきょう宿禰すくね
うえきょう 中御門なかみかど中納言ちゅうなごん
文明ぶんめいじゅうはちねんなながつじゅうにち 宣旨せんじ
したがえじょう小槻おおづくもと
むべにんひだりだい
藏人くろうどあたまひだりちゅうべん藤原ふじわら元長もとながたてまつ
訓読くんどくぶんじょうきょう 中御門なかみかど中納言ちゅうなごん中御門なかみかどせんたね 45さい したがえけん中納言ちゅうなごん文明ぶんめい18ねん(1486ねん)7がつ12にち 宣旨せんじ したがえじょう小槻おおづくもと大宮おおみやもと 18さいよろしくひだりだいにんずべし、蔵人くろうどあたまひだりちゅうべん藤原ふじわら元長もとなが甘露かんろ寺元てらもとちょう 31さい せいよんじょうたてまつ(うけたまは)る

構成こうせい

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  • ひだりだいせいろくじょうめい
  • みぎだいせいろくじょうめい
  • ひだりしょうせいななじょうめい
  • みぎしょうせいななじょうめい
  • ひだりせい じゅうめい
  • みぎせい じゅうめい
  • 左官さかんてのひら めい
  • みぎかんてのひら めい
  • 召使めしつかい めい
  • ひだり使 はちじゅうめい
  • みぎ使 はちじゅうめい

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 橋本はしもと義彦よしひこかんつとむ小槻おおづく成立せいりつとその性格せいかく-下級かきゅう官僚かんりょう氏族しぞく典型てんけいとして-」『しょりょう紀要きよう』11、宮内庁くないちょうしょりょう、1959ねん
  2. ^ こう次第しだいだいよん除目じもく、『除目じもく申文もうしぶみしょう
  3. ^ a b 曽我そが[1983: 4]
  4. ^ そとにん四姓しせい源平げんぺいふじたちばな」『官職かんしょくしょう
  5. ^ 遠藤えんどう[2002: 3]
  6. ^ 天平てんぴょうたから8ねん(764ねんそとしたがえ麻田あさだ金生きんせいひだりだい任官にんかん
  7. ^ 類聚るいじゅうせんしょう』8
  8. ^ 井上いのうえ[2012: 208]
  9. ^ ちゅう右記うきかんかず4ねん9がつ11にちじょう
  10. ^ ちゅう右記うきかんかず5ねん2がつ30にちじょう

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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