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藤原ふじわらよりゆきちょう

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藤原ふじわら よりゆきちょう
藤原ふじわらよりゆきちょうぞう(『公家くげれつかげ』より)
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき
生誕せいたん 保安ほあん元年がんねん1120ねん5月
死没しぼつ もと元年がんねん7がつ14にち1156ねん8がつ1にち
改名かいめい 菖蒲しょうぶわか幼名ようみょう)→よりゆきちょう
別名べつめい あく左府さふ宇治うじ左大臣さだいじん
墓所はかしょ 京都きょうと京都きょうと上京かみぎょう今出川いまでがわとおる烏丸からすまひがしいれ相国寺門前そうこくじもんぜんまち相国寺しょうこくじ
官位かんい したがえいち左大臣さだいじんおくせいいち太政大臣だじょうだいじん
主君しゅくん たかしとく上皇じょうこう
氏族しぞく 藤原ふじわらきた御堂みどうりゅう
父母ちちはは ちち藤原ふじわら忠実ちゅうじつはは藤原ふじわらもりみのるむすめ
兄弟きょうだい 泰子やすこちゅうどおりよりゆきちょう女子じょしくしげ殿どの
つま 藤原ふじわら幸子さちこ徳大寺とくだいじ実能さねよしむすめ
みなもとしゅんむすめ
源信みなもとのまことみやびむすめ
師長もろながけんちょうりゅうおさむはんちょう養女ようじょ多子おいご
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藤原ふじわら よりゆきちょう(ふじわら の よりなが)は、平安へいあん時代じだい末期まっき公卿くぎょう藤原ふじわらきた摂政せっしょう関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわら忠実ちゅうじつ三男さんなん官位かんいしたがえいち左大臣さだいじんおくせいいち太政大臣だじょうだいじん

通称つうしょう宇治うじ左大臣さだいじんあに関白かんぱくちゅうどおり対立たいりつし、ちち忠実ちゅうじつ後押あとおしにより藤原ふじわら長者ちょうじゃ内覧ないらんとしてきゅう復興ふっこう綱紀こうき粛正しゅくせいんだが、その苛烈かれつ妥協だきょうらない性格せいかくによりあく左府さふ(あくさふ)の異名いみょうった[1]のち鳥羽とば法皇ほうおう信頼しんらいうしなって失脚しっきゃく政敵せいてき美福門院びふくもんいんちゅうどおり信西しんぜいらにめられ、もとらんはいした。男色なんしょくはじ当時とうじ風俗ふうぞく克明こくめいしるした日記にっきたい』でも有名ゆうめい

生涯しょうがい

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摂関せっかん才子さいし

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幼名ようみょう菖蒲しょうぶわか(あやわか)。大治おおはる5ねん(1130ねん)、藤原ふじわらあつしこう持参じさんした複数ふくすう名字みょうじなかから中御門なかみかど宗忠むねただが「御堂みどう道長みちなが宇治うじ殿どの頼通よりみち名字みょうじなり」という理由りゆうえらび、「よりゆきちょう」と命名めいめいされた(『ちゅう右記うき正月しょうがつ3にちじょう)。元服げんぷくしてせいじょせられ侍従じじゅう近衛このえ少将しょうしょう権守ごんもり任官にんかん同年どうねんみぎ近衛このえけん中将ちゅうじょうてんうけたまわ元年がんねん(1131ねん)にしたがえさん翌年よくねん参議さんぎずにけん中納言ちゅうなごん昇進しょうしんながうけたまわ2ねん(1133ねん)には8さい年上としうえ徳大寺とくだいじ実能さねよしむすめ幸子こうじめとった。ながうけたまわ3ねん(1134ねん)、けん大納言だいなごんとなる。また、あね泰子やすここういん)が鳥羽とば上皇じょうこう皇后こうごう冊立さくりつされると皇后こうごうみや大夫たいふねる。のべ2ねん(1136ねん)には内大臣ないだいじんみぎ近衛このえ大将たいしょうねる。のべ5ねん(1139ねん)、東宮とうぐうでんとなりひだり近衛このえ大将たいしょう兼任けんにんする。

多子おいごてい入内じゅだい競争きょうそう

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白河しらかわ上皇じょうこう院政いんせいした逼塞ひっそくしていた摂関せっかんは、鳥羽とば院政いんせい開始かいしされるとよりゆきちょう異母いぼあね泰子やすこ鳥羽とば上皇じょうこう皇后こうごうとなりいきかえした。ちゅうどおり後継こうけいしゃめぐまれなかったため、てん2ねん(1125ねん)によりゆきちょう養子ようしむかえた[注釈ちゅうしゃく 1]。しかし康治こうじ2ねん(1143ねん)に実子じっしもとまれると、ちゅうどおり摂関せっかん地位ちいみずからの子孫しそん継承けいしょうさせようとのぞみ、忠実ちゅうじつよりゆきちょう対立たいりつすることになる[注釈ちゅうしゃく 2]久安ひさやす3ねん(1147ねん)に左右さゆうりょう大臣だいじん不在ふざいによって内大臣ないだいじんよりゆきちょういちじょうとなると朝廷ちょうてい政務せいむ掌握しょうあくし、摂政せっしょうちゅうどおり圧倒あっとうしている。久安ひさやす5ねん(1149ねん)、左大臣さだいじんすすんだ。

久安ひさやす6ねん(1150ねん正月しょうがつ4にち近衛天皇このえてんのう元服げんぷくしきげ、同月どうげつ10にちよりゆきちょう養女ようじょ多子おいご入内じゅだい、19にち女御にょうごとなる。しかし2がつになるとちゅうどおり藤原ふじわらどおりむすめてい養女ようじょむかえ、鳥羽とば法皇ほうおうに「摂関せっかん以外いがいものむすめ立后りっこうできない」と奏上そうじょうする(『たい』2がつ12にちじょう)。てい美福門院びふくもんいん養女ようじょであり、ちゅうどおり美福門院びふくもんいんとの連携れんけい摂関せっかん地位ちい系統けいとう保持ほじはかったとかんがえられる[注釈ちゅうしゃく 3]鳥羽とば法皇ほうおうはこの問題もんだいへの深入ふかいりをけ、多子おいご皇后こうごうてい中宮ちゅうぐうとすることでことおさめようとしたが、忠実ちゅうじつよりゆきちょうちゅうどおり対立たいりつはもはや修復しゅうふく不可能ふかのうとなった。

藤原ふじわら長者ちょうじゃ

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9月26にち立腹りっぷくした忠実ちゅうじつ摂関せっかんせいてい東三条ひがしさんじょう殿どの宝物ほうもつしゅだいばん接収せっしゅうし、長者ちょうじゃ地位ちい剥奪はくだつしてよりゆきちょうあたえ、ちゅうどおり義絶ぎぜつした。さらによく仁平にだいら元年がんねん(1151ねん正月しょうがつ3にち忠実ちゅうじつちゅうどおり譲渡じょうとしていた藤原ふじわら藤原ふじわらどおり日記にっき正本しょうほん没収ぼっしゅうし、これもよりゆきちょうあたえた(『たい久安ひさやす7ねん正月しょうがつ3にちじょう)。さら忠実ちゅうじつ宇治うじ殿どのりょううちちゅうどおり譲渡じょうとしていた京極きょうごく殿どのりょう奪還だっかん没収ぼっしゅうしたうえで、これもよりゆきちょうあたえられたが、ただしあずかところ補任ほにんなどはつづ忠実ちゅうじつおこなうなど、京極きょうごく殿どのりょう事実じじつじょう支配しはいけん忠実ちゅうじつ手中しゅちゅうにあった。またちゅうどおり同母どうぼあね泰子やすここういん)までもが異母弟いぼていよりゆきちょううしたてとなり、所有しょゆうする摂関せっかん拠点きょてんひと土御門つちみかど殿どのよりゆきちょうゆずった。この状態じょうたいでしかし鳥羽とば法皇ほうおうさき入内じゅだい問題もんだいおなじように曖昧あいまい態度たいど終始しゅうしし、ちゅうどおり関白かんぱくめたままよりゆきちょう内覧ないらん宣旨せんじくだす。ここに兄弟きょうだい関白かんぱく内覧ないらん並立へいりつするという異常いじょう事態じたいとなった。ただしこの内覧ないらん宣下せんげについては、近衛天皇このえてんのう疎遠そえんなやまされた鳥羽とば法皇ほうおうは、その原因げんいんとして天皇てんのう補佐ほさするちゅうどおり原因げんいんであるとうたがって、よりゆきちょうてることでちゅうどおり牽制けんせいさせる動機どうきがあった、とするせつされている[注釈ちゅうしゃく 4][8]

ちゅうどおり慈円じえん著作ちょさくかんしょう』のしるすところによると、かつてちゅうどおり息子むすことしてそだてられたおんわすれられないよりゆきちょうは、宮中きゅうちゅうちゅうどおり出会であったさい丁重ていちょう会釈えしゃくするとうれいくすことで関係かんけい改善かいぜん糸口いとぐちさぐったが、ちちあにかたくなな態度たいどまえに(周囲しゅうい同情どうじょうあつめたものの)失敗しっぱいわっている。

執政しっせい孤立こりつ

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執政しっせいについたよりゆきちょう意欲いよくえ、学術がくじゅつ再興さいこう[注釈ちゅうしゃく 5]弛緩しかんした政治せいじ刷新さっしん目指めざした。その信条しんじょう聖徳太子しょうとくたいしじゅうななじょう憲法けんぽうにより天下てんかばちらんはんせい[注釈ちゅうしゃく 6]することにあった(『たい康治こうじ2ねん10がつ22にちじょう)。勢力せいりょくつよめていた奥州おうしゅう藤原ふじわら藤原基衡ふじわらのもとひらにも、自身じしん荘園しょうえん年貢ねんぐ増徴ぞうちょう要求ようきゅうして、仁平にだいら3ねん(1153ねん)に妥結だけつした。しかし律令りつりょう儒教じゅきょう論理ろんり重視じゅうしして、実際じっさい慣例かんれい無視むしするよりゆきちょう政治せいじ周囲しゅうい理解りかいられず、いん近臣きんしんであるなか下級かきゅう貴族きぞく反発はんぱつまね孤立こりつしていった。また、近衛天皇このえてんのうよりゆきちょうをあからさまにきらうようになった[注釈ちゅうしゃく 7]

そのよりゆきちょう周囲しゅうい衝突しょうとつかえ問題児もんだいじたいをなす。すなわち、仁平にだいら元年がんねん(1151ねん)9がつ家人かじんめいじて鳥羽とば法皇ほうおう寵臣ちょうしん藤原ふじわらなり邸宅ていたく破壊はかいするという事件じけん仁平にだいら2ねん(1152ねん仁和寺にんなじ境内けいだい検非違使けびいしおく僧侶そうりょ騒擾そうじょう仁平にだいら3ねん(1153ねん)5がつ石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうんだ罪人ざいにん強引ごういんついしようとしての流血りゅうけつ事件じけん同年どうねん6がつ上賀茂かみがも神社じんじゃ境内けいだい興福寺こうふくじそう捕縄とりなわするさわぎ、などである。これらの一連いちれん出来事できごとは、よりゆきちょう自身じしん綱紀こうき粛正しゅくせい意味いみもあったが、かえって、寺社じしゃ勢力せいりょくとも対立たいりつふかめ、仁平にだいら4ねん(1154ねん)4がつ延暦寺えんりゃくじそうたちによる満山まんざん呪詛じゅそしょうじせしめた[14]。こうして、よりゆきちょう対立たいりつ勢力せいりょくいきおいづけ、ひいては徐々じょじょ法皇ほうおうからの信頼しんらいうしなっていくことになる。

久寿きゅうじゅ2ねん(1155ねん)7がつ23にち近衛天皇このえてんのう崩御ほうぎょした。後継こうけい天皇てんのうめる王者おうじゃ議定ぎてい参加さんかしたのは久我くがまさじょう三条さんじょうこうきょうで、いずれも美福門院びふくもんいん関係かんけいふか公卿くぎょうだった。候補こうほとしてはじゅうじん親王しんのうさい有力ゆうりょくだったが、美福門院びふくもんいんのもう一人ひとり養子ようしまもり仁王におう二条天皇にじょうてんのう)が即位そくいするまでの中継なかつぎとして、そのちちまさひとし親王しんのう立太子りったいししないまま29さい即位そくいすることになった(後白河天皇ごしらかわてんのう)。まもり仁王におうはまだ年少ねんしょうであり、存命ぞんめいするちちまさひとし親王しんのうえての即位そくい如何いかなものかとのこえがったためだった。突然とつぜんまさひとし親王しんのう擁立ようりつ背景はいけいには、まさひとし親王しんのう乳母うばおっとである信西しんぜい策動さくどうがあったと推測すいそくされる。この重要じゅうよう時期じきよりゆきちょうつま服喪ふくものため朝廷ちょうてい出仕しゅっししていなかったが、すでに世間せけんには近衛天皇このえてんのう忠実ちゅうじつよりゆきちょう呪詛じゅそしたためといううわさながされており、内覧ないらん停止ていしされて事実じじつじょう失脚しっきゃく状態じょうたいとなっていた。口寄くちよによってあらわれた近衛天皇このえてんのうれいは「何者なにものかが自分じぶんのろうために愛宕山あたごやまてんおおやけぞうくぎった。このため、自分じぶんびょうわずらい、ついにくなるにおよんだ」とべ、調しらべてみるとたしかにくぎちつけられていた。住僧じゅうそうたずねてみると「5〜6ねんまえ夜中よなかだれかがけた」とこたえたという。よりゆきちょうはそもそもそんなぞうがあるとはらなかったからできるはずがないと記述きじゅつしている(『たい久寿きゅうじゅ2ねん8がつ27にちじょう)。歴史れきし研究けんきゅうしゃ事件じけんちゅうどおり信西しんぜいによる謀略ぼうりゃくであるとている[15]忠実ちゅうじつよりゆきちょう謹慎きんしんさせ連絡れんらくやくであるこういんつうじて法皇ほうおう信頼しんらいもどそうとしたが、12月にこういん薨去こうきょしたことでそののぞみをたれた。

もとらん

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もと元年がんねん(1156ねん)7がつ2にち鳥羽とば法皇ほうおう崩御ほうぎょすると事態じたい急変きゅうへんする。7月5にち、「上皇じょうこう左府さふ同心どうしんしてぐんはっし、国家こっかかたむたてまつらんとほっす」という風聞ふうぶん対応たいおうするため、きょうちゅう武士ぶしうごきを停止ていしする措置そちられ(『へいはん』7がつ5にちじょう)、法皇ほうおうはつななにちの7がつ8にちには、忠実ちゅうじつよりゆきちょう荘園しょうえんから軍兵ぐんびょうあつめることを停止ていしする後白河天皇ごしらかわてんのう御教書みぎょうしょ綸旨りんじ)が諸国しょこくくだされると同時どうじに、蔵人くろうど高階たかしな俊成としなり源義朝みなもとのよしともずいへい東三条ひがしさんじょう殿どの乱入らんにゅうして邸宅ていたくぼつかんするにいたった。ぼつかん謀反むほんじんたいする財産ざいさん没収ぼっしゅうけいであり、よりゆきちょう謀反むほんつみがかけられたことを意味いみする。長者ちょうじゃ謀反むほんじんとされるのは前代未聞ぜんだいみもんで、摂関せっかんいえ平信へいしんはんはその日記にっきへいはん』に「子細しさい筆端ひったんくしがたし」と慨嘆がいたんねんしるしている(『へいはん』7がつ8にちじょう)。この前後ぜんご忠実ちゅうじつよりゆきちょうなんらかの行動こうどうこした様子ようすはなく、武士ぶし動員どういん成功せいこうして圧倒的あっとうてき優位ゆういったのち白河しらかわまもりじん陣営じんえいがあからさまに挑発ちょうはつ開始かいししたとかんがえられる。忠実ちゅうじつよりゆきちょうめられ、もはやへいげて局面きょくめん打開だかいする以外いがいみちはなくなった。

謀反むほんじん烙印らくいんされたよりゆきちょう挙兵きょへい正当せいとうせいるため、たかしとく上皇じょうこうかつぐことを決意けついする。上皇じょうこうかた拠点きょてんとなった白河しらかわきた殿どのには貴族きぞくでは上皇じょうこう側近そっきん藤原ふじわらきょうちょうよりゆきちょう母方ははかた縁者えんじゃである藤原ふじわらもりけんけいけん兄弟きょうだい武士ぶしでは平家ひらかひろし源為義みなもとのためよし平忠正たいらのただまさなどが集結しゅうけつするが、その戦力せんりょく摂関せっかん私兵しへい集団しゅうだん限定げんていされ、はなは弱小じゃくしょう劣勢れっせい明白めいはくだった。ぐん源為朝みなもとのためとも高松たかまつ殿でんへの夜襲やしゅう献策けんさくしたが、よりゆきちょうはこれをしりぞけて、信実しんじつひきいる興福寺こうふくじ悪僧あくそう集団しゅうだんなど大和やまとからの援軍えんぐんつことにけっした。

天皇てんのうかたは「これにちらい風聞ふうぶん、すでに露顕ろけんするところなり」(『へいはん』7がつ10日とおかじょう)として武士ぶし動員どういんし、11にち未明みめいしろ河北かわきた殿どの夜襲やしゅうをかける。白河しらかわきた殿どの炎上えんじょうし、たたかいはかずまさ天皇てんのうかた勝利しょうりわった。上皇じょうこうかた総崩そうくずれとなるなかよりゆきちょういえ藤原ふじわらしげるたかしかかえられ騎馬きば御所ごしょから脱出だっしゅつするが、みなもと重貞しげさだはなったが頸部にさり重傷じゅうしょうった。出血しゅっけつによる衰弱すいじゃくくるしみながら、12にち嵐山あらしやま方面ほうめん、13にちにはふね大井川おおいがわげん桂川かつらがわ)をわたきょむく木津きづへと逃亡とうぼうつづけ、最後さいごのぞみとして奈良ならのがれていた忠実ちゅうじつ対面たいめんのぞむがこばまれ、14にちに、失意しついうちに頸部のきず原因げんいんで、絶命ぜつめいした(『もと物語ものがたり』によればよりゆきちょうした自害じがいしたという)。享年きょうねん37[注釈ちゅうしゃく 8][注釈ちゅうしゃく 9]遺骸いがい奈良なら般若はんにゃ埋葬まいそうされたが、信西しんぜいいのちによってあばかれ、検視けんしされるという恥辱ちじょくける羽目はめになった[16]。なお、よりゆきちょう所有しょゆう名義めいぎとなっていた京極きょうごく殿どのりょう忠実ちゅうじつによってふたたちゅうどおり所有しょゆうとして朝廷ちょうていによるぼつかんまぬかれたが、よりゆきちょう個人こじん所領しょりょうぼつかんされて後白河天皇ごしらかわてんのうのちいんりょうにあてがわれ、だい荘園しょうえんぐんである長講ちょうこうどうりょう基軸きじくとなった。

よりゆきちょう死後しご長男ちょうなん師長もろなが次男じなんけんちょう三男さんなんりゅうおさむよんなんはんちょうはみな配流はいるとなり、師長もろながのぞく3めいはそれぞれの配所はいしょにて死去しきょした[注釈ちゅうしゃく 10]唯一ゆいいつのこってもどることができた師長もろながは、のち太政大臣だじょうだいじんにまで昇進しょうしんするものの、今度こんど平清盛たいらのきよもりによってふたた配流はいるされる波乱はらん生涯しょうがいおくっている。

もとらん終結しゅうけつしてしばらくのあいだは、よりゆきちょう罪人ざいにんとしてあつかわれた。よりゆきちょう罪人ざいにんとする朝廷ちょうてい認識にんしきは、よりゆきちょう師長もろなが帰京ききょうゆるされのち白河しらかわいん側近そっきんになってもわることはなかった。しかし21ねん安元やすもと3ねん(1177ねん)、延暦寺えんりゃくじ強訴ごうそ安元やすもと大火たいか鹿しかだに陰謀いんぼうといっただい事件じけん連発れんぱつするにおよんで、朝廷ちょうていもとらん怨霊おんりょうによるたたりと恐怖きょうふするようになる。同年どうねん8がつ3にち怨霊おんりょう鎮魂ちんこんのため、たかしとく上皇じょうこう当初とうしょ追号ついごう讃岐さぬきいん」を「崇徳院すとくいん」にあらため、よりゆきちょうにはせいいち太政大臣だじょうだいじん追贈ついぞうされた(『百錬ひゃくれんしょう』)。

人物じんぶつ

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少年しょうねんころ忠実ちゅうじついのちしたがわずうまにまたがって山野さんやめぐったが、落馬らくばして一命いちめいうしないかねないほどのい、しんえて学問がくもんはげむようになったという(『たい康治こうじ元年がんねん12がつ30にちじょう)。以降いこう膨大ぼうだい和漢わかんしょみ、だれもがみとめる博識はくしきとなった[注釈ちゅうしゃく 11]おいにあたる慈円じえんは『かんしょう』で「日本一にっぽんいち大学生だいがくせい[注釈ちゅうしゃく 12](だいがくしょう)、和漢わかんざい(ざえ)にむ」とその学識がくしきたかさを賞賛しょうさんしている。康治こうじ元年がんねん(1142ねん)11月の大嘗祭だいじょうさいのときは、みそぎ調査ちょうさ徹夜てつやおこない、終了しゅうりょうは10日間にちかんかけて膨大ぼうだい式典しきてん記録きろくのこしており、事務じむてき能力のうりょくにもすぐれていた。また、ふつそうくらしゅん因明いんみょうまなび、『左府さふしょう』という因明いんみょうしょのこしている[19]儒学じゅがくこのんだが、意外いがいにも文学ぶんがく不得手ふえてとしており、「和歌わかみちこたえず」と公言こうげんして漢詩かんし得意とくいではなかったという。

よりゆきちょう苛烈かれつ他人たにんきびしい性格せいかくは、「腹黒はらぐろく、よろずにきわどきひと」ともひょうされ、「あく左府さふ」の異名いみょう有名ゆうめいだが、この「あく」も現代げんだいでいう「わるい」という意味いみではなく、むしろ性質せいしつ能力のうりょく行動こうどうなどが型破かたやぶりであることを畏怖いふした表現ひょうげんである[注釈ちゅうしゃく 13]。ただし私的してき報復ほうふく記録きろくおおく、太政官だじょうかんかんじん殺害さつがいした犯人はんにん恩赦おんしゃ釈放しゃくほうされたことにいかり、はたこうはるめいじてこれを暗殺あんさつさせ「てんわってこれちゅうするなり」とみずからの日記にっき明記めいきすることもあるほどだった(『たい久安ひさやす元年がんねん12がつ17にちじょう)。

よりゆきちょうりょう性愛せいあいしゃだったとかんがえられる[20]私生活しせいかつでは男色なんしょくこのんだことがその日記にっきたい』にしるされたすうおおくの出来事できごとからうかがえる。東野とうの治之はるゆき五味ごみ文彦ふみひこ研究けんきゅうでその詳細しょうさいあきらかにされ、男色なんしょく相手あいてとしては随身ずいじんはたこうはるはた兼任けんにんのほか、公家くげでは藤原ふじわらただしみやび藤原ふじわらためどおり藤原ふじわらこうのう藤原ふじわらたかし藤原ふじわらあきら藤原ふじわらしげるおやみなもとしげるみやび特定とくていされている。五味ごみはこのうち4めいまでがいん近臣きんしんとして権勢けんせいほこった藤原ふじわらなり親族しんぞくであることを指摘してきしている。

その『たい』に、少年しょうねんころねこ病気びょうきになったさい千手せんじゅぞうえがいて祈念きねんしてなおしてやったり、そのねこじゅうさいまで長生ながいきしてんだので、ころもつつひつれてほうむってやったむね記述きじゅつがある。

かんれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき

  • 保安ほあん元年がんねん(1120ねん)5がつ誕生たんじょう
  • 大治おおはる5ねん(1130ねん
  • 大治おおはる6ねん(1131ねん
  • ながうけたまわ元年がんねん(1132ねん
  • ながうけたまわ2ねん(1133ねん正月しょうがつ2にちしたがえ
  • ながうけたまわ3ねん(1134ねん
  • ながうけたまわ4ねん(1135ねん)2がつ8にちみぎ近衛このえ大将たいしょう兼任けんにん
  • のべ2ねん(1136ねん
  • のべ5ねん(1139ねん
    • 8がつ17にち東宮とうぐうでん兼任けんにん皇太子こうたいしからだじん親王しんのう
    • 12月16にちひだり近衛このえ大将たいしょう兼任けんにん
  • のべ6ねん(1140ねん)(21さい
    • 2がつ22にちひだり近衛このえ大将たいしょう辞任じにん
  • 永治えいじ元年がんねん(1141ねん)12月7にち東宮とうぐうでん辞任じにん近衛天皇このえてんのう即位そくい
  • 久安ひさやす3ねん(1147ねん)3がつ29にちたちばなじょう兼帯けんたい
  • 久安ひさやす4ねん(1148ねん
    • 12月14にち養母ようぼによりふくかい
    • 12月28にちふくにん
  • 久安ひさやす5ねん(1149ねん)7がつ28にち左大臣さだいじんしたがえいち
  • 久安ひさやす6ねん(1150ねん)9がつ26にち::ふじ長者ちょうじゃ兼帯けんたい
  • 久安ひさやす7ねん(1151ねん
    • 正月しょうがつ16にち内覧ないらん宣下せんげ
    • 正月しょうがつ24にち随身ずいじん兵仗ひょうじょうたまわ
  • 仁平にだいら3ねん(1153ねん)4がつ11にち兵仗ひょうじょう辞退じたい上表じょうひょう
  • 久寿きゅうじゅ元年がんねん(1154ねん)12月25にち随身ずいじん兵仗ひょうじょうもとごとたまわ
  • 久寿きゅうじゅ2ねん(1155ねん
    • 4がつ27にち左大臣さだいじん内覧ないらん兵仗ひょうじょう辞退じたい上表じょうひょう
    • 5月2にち兵仗ひょうじょう辞退じたい上表じょうひょう
    • 5がつ10日とおか左大臣さだいじん辞退じたい上表じょうひょう
    • 7がつ24にち内覧ないらん停止ていし
  • 久寿きゅうじゅ3ねん(1156ねん
    • 2がつ2にち左大臣さだいじん留任りゅうにん宣旨せんじ
    • 改元かいげんしてもと元年がんねん7がつ10日とおか宇治うじより新院しんいん御所ごしょ白河しらかわきた殿どの)にまい
    • 7がつ11にち合戦かっせん流矢ながれやが頸にあたる
    • 7がつ14にち逃亡とうぼうさき奈良ならざか死亡しぼう
  • うけたまわ元年がんねん(1177ねん)8がつ3にちせいいち太政大臣だじょうだいじん追贈ついぞう

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 大殿おおいどの若君わかぎみ摂政せっしょう殿どの御子みこたまう」[2]のべ2ねん(1136ねん)の内大臣ないだいじん任命にんめい宣命せんみょうでも、ちゅうどおりの「長男ちょうなん」としてぐうされている[3]。ところが、近年きんねんになって樋口ひぐち健太郎けんたろう当時とうじちゅうどおり年齢ねんれいはまだわかく(29さい)、のちになってから男子だんし誕生たんじょうする可能かのうせい否定ひていできず、よりゆきちょうはあくまでも「中継なかつぎ」(ちゅうどおり男子だんしまれれば、その子孫しそん摂関せっかんゆずる)であったとするせつしている[4]
  2. ^ 前述ぜんじゅつとい口説くぜつによれば、現実げんじつちゅうどおり男子だんしまれたことで危機ききかんいたよりゆきちょうみずからのけんちょうちゅうどおり養子ようしとするようにせまり(これによってけんちょうもとの「あに」となるため摂関せっかんちゅうどおり-(よりゆきちょう)-けんちょう継承けいしょうされ、ちゅうどおり実子じっし摂関せっかん継承けいしょうから事実じじつじょう排除はいじょされる)、これが両者りょうしゃ対立たいりつのきっかけになったとする[4]。また、樋口ひぐちべつ論文ろんぶん忠実ちゅうじつ政界せいかい復帰ふっき以降いこう摂関せっかん家政かせい職員しょくいんちゅうどおり(-もと)につかえるもの忠実ちゅうじつよりゆきちょう(-けんちょう)につかえるもの分裂ぶんれつし、それもそれぞれの主人しゅじんあいだ対立たいりつ拍車はくしゃをかけたとする。つまり、もとじつ誕生たんじょうまえから両者りょうしゃ対立たいりつ萌芽ほうが存在そんざいしたことになる(当時とうじ公卿くぎょう家政かせい職員しょくいん父子ふし共有きょうゆうするのがれいであり、よりゆきちょう公的こうてきにはちゅうどおりとされながら実際じっさいには忠実ちゅうじつとして生活せいかつしていたとえる)[5]
  3. ^ だい相国しょうこく張本ちょうほんす。あるいはいわく、美福門院びふくもんいん張本ちょうほんす。法皇ほうおうまたこれをゆるし、いつわりってだいしょうをもって張本ちょうほんす」との記述きじゅつがある[6]
  4. ^ よりゆきちょう法皇ほうおう三条さんじょうこうきょうたいして「左大臣さだいじんよりゆきちょう内覧ないらんごとした入道にゅうどう忠実ちゅうじつ奏請そうせいいちもとうえこれいずるちんいち関白かんぱくちゅうどおりきょうみかど不孝ふこういちちん心太ところてんあくした此宣むねいち」とべたと記録きろくしている[7]
  5. ^ よりゆきちょう儒教じゅきょう教育きょういくとしてだい学寮がくりょう再興さいこうつとめたが、その一方いっぽうだい学寮がくりょうちくかき修造しゅうぞうした藤原ふじわらけんこう成功せいこうによって文章ぶんしょうせい合格ごうかくさせたり[9]みずからが推挙すいきょする菅原すがわらのぼるせんのために給料きゅうりょうせい試験しけんおこない、菅原すがわらのぼるせん藤原ふじわら光範みつのりの2めいだけが合格ごうかくしたのをけて落第らくだいしゃには今後こんごのぞみをつよう書状しょじょうおくったりして[10]学界がっかいへの勢力せいりょく拡大かくだいはかっている。ただし、出題しゅつだい内容ないよう式部しきぶ大輔だいすけ藤原ふじわらひさしはんらが当日とうじつになって複数ふくすうあん提出ていしゅつしたうえ蔵人くろうどあたまくじ決定けっていし、詩文しぶん採点さいてんには鳥羽とば法皇ほうおういのちけたつう憲法けんぽう信西しんぜい)も参加さんかするなど、よりゆきちょう諸道しょどうかんじんたちへの影響えいきょうりょく拡大かくだい意図いとして試験しけんおこなったとしてもその結果けっかにまでは介入かいにゅうできなかったとする見解けんかいもある[11]
  6. ^ みだれをおさめ、ただしいなかもどすという意味いみ[12]
  7. ^ 仁平にだいら2ねん(1152ねん)、近衛天皇このえてんのう方違かたたがえ行幸ぎょうこうにおいて、輿こしからりる天皇てんのうすそよりゆきちょうろうとしたところ、天皇てんのう拒絶きょぜつしてみずかすそってりた。よりゆきちょうはこの天皇てんのう態度たいどを「自分じぶんにくんでいるためであり、関白かんぱく讒言ざんげんによるのだろう」としるしている[13]
  8. ^ よりゆきちょう負傷ふしょうについては、主要しゅよう武将ぶしょう戦死せんししゃがいないことから不慮ふりょ突発とっぱつごととするせつ河内かわうちさち)、新手あらて軍勢ぐんぜい投入とうにゅうされ放火ほうか戦術せんじゅつまでられていることからはげしい戦闘せんとう裏付うらづけるものとするせつ元木もとき泰雄やすお)がある。
  9. ^ 興福寺こうふくじそうげんあらわによる朝廷ちょうていへの申告しんこくでは、母方ははかた叔父おじ興福寺こうふくじにいたせんさとしぼうかつまれ死去しきょしたという。
  10. ^ 一般いっぱんにはけんちょう長男ちょうなん師長もろなが次男じなんとみなされているが、実際じっさいには師長もろながほうが3かげつはや誕生たんじょうし、またよりゆきちょう師長もろながけんちょうたかしちょうきそわせて後継こうけいしゃさだめる意向いこうしめしていることから、大手前おおてまえ大学だいがく非常勤ひじょうきん講師こうし古代こだいせんもん樋口ひぐち健太郎けんたろうは、出生しゅっしょうじゅん師長もろなが長男ちょうなんとするのがただしいといている[17]
  11. ^ 白河しらかわ鳥羽とば両院りょういん近臣きんしん博学はくがく多才たさいうたわれた信西しんぜいも「かくよりゆきちょう)のざい千古せんこぢず。かんちょうおとずれぬるにまた比類ひるいすくなし。すでにしてあさ中古ちゅうこ先達せんだつちょうゆ」[18]激賞げきしょうしている。
  12. ^ ここでう「学生がくせい」は、現代げんだいにおける学生がくせいとはことなり、学者がくしゃという意味いみである。
  13. ^ 悪僧あくそう」「悪党あくとう」のこう参照さんしょうされたい。

出典しゅってん

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  1. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 19ぺーじ
  2. ^ ちゅう右記うき目録もくろくてん2ねん4がつ13にちじょう
  3. ^ たい』12月9にちじょう
  4. ^ a b 樋口ひぐち健太郎けんたろう ちょ藤原ふじわらただしどおりもとみのる院政いんせい摂関せっかんのアンカー―」、元木もとき泰雄やすお へんもと平治へいじらんたいら栄華えいが清文せいぶんどう出版しゅっぱん中世ちゅうせい人物じんぶつ きょう鎌倉かまくら時代じだいへん だい1かん〉、2014ねん /所収しょしゅう:樋口ひぐち 2018, pp. 169–170
  5. ^ 樋口ひぐち 2018, pp. 102–127, 「もとらん前後ぜんこう摂関せっかん家政かせい職員しょくいん」.
  6. ^ たい』2がつ11にちじょう
  7. ^ 『宇槐しょう久安ひさやす7ねん正月しょうがつ10日とおかじょう
  8. ^ 樋口ひぐち健太郎けんたろう中世ちゅうせい前期ぜんき摂関せっかん天皇てんのう」618ごう日本にっぽん研究けんきゅう、2014ねん /所収しょしゅう:樋口ひぐち 2018, pp. 29–30
  9. ^ たい仁平にだいら4ねん6がつ20日はつかじょう
  10. ^ 本朝ほんちょう世紀せいき』6がつ3にちじょう・『宇槐しょう仁平にだいら3ねん6がつ8にち・21にちじょう
  11. ^ 戸川とがわてん院政いんせいだい学寮がくりょう学問がくもんじょうきょう」(初出しょしゅつ:ふくふじ早苗さなえ へん王朝おうちょう権力けんりょく表象ひょうしょう』(もりはなししゃ、1998ねん)/所収しょしゅう:戸川とがわ平安へいあん時代じだい政治せいじ秩序ちつじょ』(どうなりしゃ、2018ねん)) 2018ねん、P47-49・52-54.
  12. ^ 春秋しゅんじゅうこうひつじでんあいこう14ねん
  13. ^ 『宇槐しょう』10がつ1にちじょう
  14. ^ 元木もとき 2004, pp. 48–49.
  15. ^ 久留島くるしまはじめ天狗てんぐ説話せつわ展開てんかい――『愛宕あたご』と『がいぼう」(2015)、92p
  16. ^ 元木もとき 2004, p. 121.
  17. ^ 樋口ひぐち健太郎けんたろう藤原ふじわら師長もろなが政治せいじてき位置いち-よりゆき長流ちょうりゅう復権ふっけん貴族きぞく社会しゃかい-」『古代こだい文化ぶんかだい57かんだい10ごう、2005ねん /増補ぞうほ改稿かいこう:樋口ひぐち健太郎けんたろう藤原ふじわら師長もろながろん」『中世ちゅうせい摂関せっかんいえ権力けんりょく校倉あぜくら書房しょぼう、2011ねんISBN 978-4-7517-4280-8 
  18. ^ たいてんやしなえ2ねん6がつ7にちじょう
  19. ^ 茂樹しげき公開こうかい講演こうえん 因明いんみょう研究けんきゅう現状げんじょう課題かだい」『佛教ぶっきょうがくセミナー』だい109かん大谷大学おおたにだいがく佛教ぶっきょう学会がっかい、2019ねんhttp://id.nii.ac.jp/1374/00009317/ 56ぺーじ
  20. ^ 高橋たかはし秀樹ひでき中世ちゅうせいいえせい』p.82

参考さんこう文献ぶんけん

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