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藤原ふじわら豊成とよしげ

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藤原ふじわら 豊成とよしげ
藤原ふじわら豊成とよしげ(『だかじゅうしゅ』より)
時代じだい 奈良なら時代じだい
生誕せいたん 大宝たいほう4ねん704ねん
死没しぼつ 天平てんぺい神護かんご元年がんねん11月27にち766ねん1がつ12にち
別名べつめい 難波なんば大臣だいじんよこ大臣だいじん
墓所はかしょ 奈良ならけん奈良なら井上いのうえまち高林たかばやしてら
官位かんい したがえいち右大臣うだいじん
主君しゅくん 聖武天皇しょうむてんのうこうけん天皇てんのう淳仁天皇じゅんにんてんのうしょうとく天皇てんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみ
父母ちちはは ちち藤原ふじわら武智たけち麻呂まろはは阿倍あべさだひめ阿倍あべ貞吉さだきちまたは阿倍あべしんとらむすめ
兄弟きょうだい 豊成とよしげなか麻呂まろおつ麻呂まろ巨勢こせ麻呂まろ南殿なんでん
つま みちちゅう麻呂まろむすめ藤原ふじわら房前ふさざきむすめ藤原ふじわらひゃくのう藤原ふじわら麻呂まろむすめ)、 むらさきまえ藤原ふじわらひゃくのう同人どうじんまた品沢しなざわ親王しんのうむすめ
たけりょうつぎなわおつなわなわ麻呂まろ中将ちゅうじょうひめ
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前賢ぜんけん故実こじつ』より

藤原ふじわら 豊成とよしげ(ふじわら の とよなり)は、奈良なら時代じだい貴族きぞく藤原ふじわらみなみ左大臣さだいじん藤原ふじわら武智たけち麻呂まろ長男ちょうなん官位かんいしたがえいち右大臣うだいじん別名べつめい難波なんば大臣だいじんよこ大臣だいじん(よこはぎのおとど)。

経歴けいれき

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うち舎人とねりけん兵部ひょうぶだいすすむて、かみひさし元年がんねん724ねん聖武天皇しょうむてんのう即位そくいまもなくせいろくからかい昇進しょうしんしてしたがえ叙爵じょしゃくし、兵部ひょうぶしょう輔ににんぜられる。天平てんぺい元年がんねん729ねんちち武智たけち麻呂まろらが主導しゅどうした長屋王ながやおうへん発生はっせいするが、へん昇叙しょうじょにはあずからず、天平てんぴょう3ねん731ねん藤原ふじわらよん兄弟きょうだい全員ぜんいん公卿くぎょうとなり藤原ふじわらよん政権せいけん確立かくりつさせると、よく天平てんぴょう4ねん732ねん)に豊成とよしげしたがえじょうじょせられている。

天平てんぺい9ねん737ねん)2がつかい昇進しょうしんしてせいじょうじょせられる。同年どうねん天然痘てんねんとう猖獗しょうけつによって8がつまでにちち左大臣さだいじん武智たけち麻呂まろをはじめ藤原ふじわらよん兄弟きょうだい急死きゅうしして藤原ふじわら公卿くぎょう不在ふざい状況じょうきょうになると、豊成とよしげ藤原ふじわらじょうふじ長者ちょうじゃ前身ぜんしん)となり、9月にしたがえよんじょせられ、12月には参議さんぎけん兵部ひょうぶきょうとなり一躍いちやく公卿くぎょうれっす。こののち、ひじりたけしあさ後半こうはん橘諸兄たちばなのもろえ政権せいけんで、豊成とよしげ藤原ふじわら代表だいひょうとしてぐうされるとともに、諸兄しょけいから信任しんにんけて政権せいけんのなかで有力ゆうりょく存在そんざいとなっていたとられ[1]天平てんぴょう11ねん739ねんせいよん天平てんぴょう15ねん743ねんしたがえさん中納言ちゅうなごん天平てんぴょう20ねん748ねんしたがえ順調じゅんちょう昇進しょうしんするとともに、なかまもる大将たいしょうねた。このあいだ聖武天皇しょうむてんのう頻繁ひんぱん行幸ぎょうこうおこなっているが、豊成とよしげ都合つごうよんわたって平城京へいじょうきょう留守るすつとめており、聖武天皇しょうむてんのう信頼しんらいあつかったことが想定そうていされる[2]ひじりたけしちょうまつ天平てんぴょうかんたから元年がんねん749ねん)4がつには右大臣うだいじんにんぜられ、橘諸兄たちばなのもろえとともに左右さゆう大臣だいじんとして太政官だじょうかん主導しゅどうした。

同年どうねん7がつこうけん天皇てんのう即位そくいすると、おとうと藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ参議さんぎから一挙いっきょ大納言だいなごん昇進しょうしんしてむらさきほろれいなかまもる大将たいしょうね、光明皇后こうみょうこうごうこうけん天皇てんのう信頼しんらい背景はいけい急速きゅうそく台頭たいとうし、なか麻呂まろ権勢けんせいりょう大臣だいじんである諸兄しょけい豊成とよしげしのぐほどになる。このころなか麻呂まろあに豊成とよしげ中傷ちゅうしょう讒言ざんげんしようとしていたが、豊成とよしげ天性てんせい資質ししつひろあつく、人々ひとびと衆望しゅうぼうあつめていたため、じょうずるすきられなかったとつたわる[3]

天平てんぴょうかちたから8さい756ねん左大臣さだいじん橘諸兄たちばなのもろえ讒言ざんげん理由りゆう致仕ちししたことから、豊成とよしげ太政官だじょうかん首班しゅはんつが、なか麻呂まろ大臣だいじんかくむらさきほろ内相ないしょう就任しゅうにんする。天平てんぴょうかちたから9さい757ねん)3がつ道祖どうそおう皇太子こうたいしはいされ、4がつ皇嗣こうし選定せんてい協議きょうぎおこなわれると、豊成とよしげ中納言ちゅうなごん藤原ふじわらひさししゅとともに藤原ふじわら塩焼しおやきおうすが、結局けっきょくなか麻呂まろ私邸してい田村たむらだい)に居住きょじゅうしていた大炊おおいおう淳仁天皇じゅんにんてんのう)が立太子りったいしされる[4]豊成とよしげ塩焼しおやきおうしたことについて、塩焼しおやきおうなか麻呂まろ関係かんけいわるくなかったことを考慮こうりょしたなどすぐれた政治せいじてきバランス感覚かんかくとする評価ひょうかがある一方いっぽう[5]、かつて塩焼しおやきおう聖武天皇しょうむてんのうによって流刑りゅうけいしょされたことがあり、選定せんていにその理由りゆう適格てきかくとなっていることから、バランス感覚かんかく否定ひていてきとらえる意見いけんもある[6]

同年どうねん5がつせい昇進しょうしんするものの、同年どうねん7がつ橘奈良麻呂たちばなのならまろらんにおいて、こたえほん忠節ちゅうせつから謀反むほんくわだてにかんする報告ほうこくけながらこうけん天皇てんのうへの奏上そうじょうおこなわず[7]謀反むほん露見ろけん小野おのひがしじんかんといにあたるも自白じはくさせられずに担当たんとうはずされるなど[8]事件じけん究明きゅうめいつとめなかったことを理由りゆうに、右大臣うだいじん罷免ひめんされだいおさむ員外いんがいそちとされた[9]。また、小野おのひがしじん反乱はんらん計画けいかくではえきすず御璽ぎょじ奪取だっしゅ豊成とよしげして指揮しきらせこうけん天皇てんのう廃位はいいおこな予定よていであったことを白状はくじょうしており、豊成とよしげ謀叛ぼうほんがわかんじんから好意こういてきおもわれていたことによる影響えいきょう指摘してきされている[10]。いずれにしても、太政官だじょうかん首班しゅはんめる豊成とよしげ対抗たいこう意識いしきやしていたなか麻呂まろ[5]おりあらば豊成とよしげおとしいれようとえずその機会きかいうかがっていたなか[11]なか麻呂まろ暗殺あんさつふく謀叛ぼうほん計画けいかくりながら最高さいこう責任せきにんしゃ右大臣うだいじんとして上奏じょうそうおこなわずなん対策たいさくらなかったという政治せいじてきなミスをおかしたことがひだりくだという結果けっかつながったと評価ひょうかされている[12]。なお、普段ふだんより橘奈良麻呂たちばなのならまろこのみつうじていた豊成とよしげ三男さんなん藤原ふじわらおつなわらんくみしたとされ、日向ひなたじょう左遷させんされた[3]

だが、豊成とよしげ抗議こうぎめて「病気びょうき」としょうして難波なんばにあった自分じぶん別荘べっそうこもったことから、大宰府だざいふきは期限きげん延期えんき状態じょうたいとなり、そこで8年間ねんかん隠遁いんとん生活せいかつおくった[3]天平てんぴょうたから8ねん764ねんなか麻呂まろ道鏡どうきょう排斥はいせき失敗しっぱいしてはいすると(藤原仲麻呂ふじわらのなかまろらん)、橘奈良麻呂たちばなのならまろらんにおける豊成とよしげ罪状ざいじょうは、なか麻呂まろによるいつわりの中傷ちゅうしょうとみなされ[13]豊成とよしげつみゆるされてしたがえいち右大臣うだいじんとして政権せいけん復帰ふっきした。同時どうじ三男さんなんおつなわ復権ふっけんよく天平てんぺい神護かんご元年がんねん766ねん1がつ)11月27にち薨去こうきょ享年きょうねん62。最終さいしゅう官位かんいみぎだい臣従しんじゅういち

かんれき

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注記ちゅうきのないものは『ぞく日本にっぽん』による。

系譜けいふ

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注記ちゅうきのないものは『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 木本きもと[2017: 3]
  2. ^ 木本きもと[2017: 4]
  3. ^ a b c ぞく日本にっぽん天平てんぺい神護かんご元年がんねん11がつ27にちじょう
  4. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょうたから元年がんねん4がつ4にちじょう
  5. ^ a b 栄原さかえはら[2015]
  6. ^ a b 木本きもと[2017: 5]
  7. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょうたから元年がんねん7がつ4にちじょう
  8. ^ 結局けっきょく豊成とよしげわって担当たんとうした藤原ふじわらひさししゅによって小野おのひがしじん自白じはくおよんだ。
  9. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょうたから元年がんねん7がつ12にちじょう
  10. ^ 木本きもと[2017: 6]
  11. ^ きし俊男としお藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1969ねん、216ぺーじ
  12. ^ 木本きもと[2017: 7]
  13. ^ ぞく日本にっぽん天平てんぴょうたから8ねん9がつ29にち
  14. ^ a b c d 公卿くぎょう補任ほにん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 宇治谷うじたにはじめぞく日本にっぽんうえ)』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、1992ねん
  • 宇治谷うじたにはじめぞく日本にっぽんなか)』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、1992ねん
  • 公卿くぎょう補任ほにん だいいちへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1982ねん
  • 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく だいへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1987ねん
  • 栄原さかえはら永遠えいえんおとこ藤原ふじわらゆたかしげる : 軍事ぐんじ仏教ぶっきょう」(栄原さかえはら永遠えいえんおとこ へん平城京へいじょうきょう落日らくじつ所収しょしゅう清文せいぶんどう出版しゅっぱん古代こだい人物じんぶつ 3〉、2005ねん)。
  • 大友おおとも裕二ゆうじ藤原ふじわらゆたかなりについて : 栄原さかえはら論文ろんぶんにふれて」(『皇学館大学こうがくかんだいがく史料しりょう編纂へんさんしょほう』230ごう、2011ねん6がつ)。CRID 1520853833737439104
  • 木本きもと好信よしのぶ藤原ふじわらゆたかなりについて : 奈良なら時代じだい中期ちゅうき政治せいじいち動向どうこう」(『甲子園短期大学こうしえんたんきだいがく紀要きよう』35ごう、2017ねん3がつ)。doi:10.24699/koshient.35.0_1