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藤原ふじわらただしどおり

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藤原ふじわら ただしどおり
藤原ふじわらただしどおりぞう(『天子てんし摂関せっかん御影みかげ』より)
時代じだい 平安へいあん時代じだい後期こうき - 末期まっき
生誕せいたん 永長ながおさ2ねんうるう1がつ29にち1097ねん3月15にち
死没しぼつ ちょうひろし2ねん2がつ19にち1164ねん3月13にち[1]
改名かいめい ちゅうどおりえんかん法名ほうみょう
別名べつめい 法性寺ほっしょうじ殿でん法性寺ほっしょうじ入道にゅうどうぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん小倉おぐらひゃくにんいちしゅ
官位かんい したがえいち摂政せっしょう関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
主君しゅくん 堀河ほりかわ天皇てんのう鳥羽天皇とばてんのう崇徳天皇すとくてんのう近衛天皇このえてんのう後白河天皇ごしらかわてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきた御堂みどうりゅう
父母ちちはは ちち藤原ふじわら忠実ちゅうじつははみなもとみなもと顕房あきふさむすめ
兄弟きょうだい 泰子やすこちゅうどおりよりゆきちょう女子じょしくしげ殿どの
つま 正室せいしつ藤原ふじわら宗子むねこ藤原ふじわらはじめどおりむすめ
みなもと信子のぶこみなもと国信くにのぶむすめ)、みなもと俊子としこみなもと国信くにのぶむすめ
みなもと俊子としこみなもとあらわしゅんむすめ)、加賀かがきょく藤原ふじわらなかひかりむすめ)、藤原ふじわらはじめしんむすめ五条ごじょうみなもともりけいむすめ
恵信えしんさとしただし聖子せいこ近衛このえはじめまつ殿どのもとぼう育子いくこ九条くじょうけんみことただしみちえんしんえん兼房かねふさ慈円じえんさいちゅう
養子ようしてい
特記とっき
事項じこう
さとしほう法親王ほうしんのう異父いふけいにあたる。
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藤原ふじわら ただしどおり(ふじわら の ただみち)は、平安へいあん時代じだい後期こうきから末期まっきにかけての公卿くぎょう歌人かじん藤原ふじわらきた関白かんぱく藤原ふじわら忠実ちゅうじつ次男じなん官位かんいしたがえいち摂政せっしょう 関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん通称つうしょう法性寺ほっしょうじ関白かんぱく(ほっしょうじ かんぱく)。小倉おぐらひゃくにんいちしゅでは法性寺ほっしょうじ入道にゅうどうぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん[注釈ちゅうしゃく 1]

生涯しょうがい

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かんかず5ねん1103ねん)、大江匡房おおえのまさふさ名付なづけにより「ちゅうどおり」としょうする。よしみうけたまわ2ねん1107ねん)、元服げんぷく白河しらかわ法皇ほうおう猶子ゆうしとなる[注釈ちゅうしゃく 2]永久えいきゅう2ねん1114ねん)、白河しらかわ法皇ほうおう意向いこうにより法皇ほうおう養女ようじょ藤原ふじわら璋子あきこ閑院りゅう藤原ふじわらこうむすめ)との縁談えんだんがるが、璋子あきこ素行そこううわさがあったこともあり、ちち忠実ちゅうじつはこの縁談えんだん固辞こじ破談はだんとなる。保安ほあん2ねん1121ねん)、法皇ほうおう勅勘ちょっかんこうむ関白かんぱく辞任じにんした忠実ちゅうじつわって藤原ふじわら長者ちょうじゃとなり、25さいにして鳥羽天皇とばてんのう関白かんぱく就任しゅうにん保安ほあん元年がんねん政変せいへん)。そのたかしとく近衛このえこう白河しらかわの3だいわたって摂政せっしょう関白かんぱくつとめる。摂関せっかんれき37ねん高祖父こうそふ頼通よりみちの50ねんぐ。また大治おおはる4ねん1129ねん)、正妻せいさいはらむすめ聖子せいこ崇徳天皇すとくてんのう後宮こうきゅう女御にょうごとして入内じゅだいさせ[注釈ちゅうしゃく 3]よく5ねん1130ねん)、聖子せいこ中宮なかみや冊立さくりつされた。たかしとくみかど聖子せいことの夫婦ふうふなか良好りょうこうだったが子供こどもまれず、のべ6ねん1140ねん)9がつ2にち女房にょうぼう兵衛ひょうえきょくたかしとくみかどだいいち皇子おうじじゅうじん親王しんのうむと、聖子せいこちゅうどおり不快ふかいかんいたという[2]もとらんたかしとく上皇じょうこうじゅうじん親王しんのう敵視てきししたのもこれが原因げんいん推察すいさつされる。

一般いっぱんにはちち忠実ちゅうじつおとうとよりゆきちょう寵愛ちょうあいするあまり、摂政せっしょう関白かんぱくおとうとゆずるように圧力あつりょくをかけられたようにわれているが、実際じっさいにはながあいだ摂関せっかんぐべき男子だんしめぐまれず[注釈ちゅうしゃく 4]てん2ねん1125ねん)に23さい年下とししたよりゆきちょういち養子ようしむかえている。だが、40さいぎてからよんなんもとはじめとして次々つぎつぎ男子だんしめぐまれるようになったちゅうどおり実子じっし摂関せっかん相続そうぞくさせるため、よりゆきちょうとの縁組えんぐみ破棄はきした[注釈ちゅうしゃく 5]

ちゅうどおり忠実ちゅうじつよりゆきちょう近衛天皇このえてんのう後宮こうきゅう政策せいさくにおいても対立たいりつし、久安ひさやす6ねん1150ねん正月しょうがつよりゆきちょう養女ようじょ多子おいご入内じゅだいさせ、皇后こうごう冊立さくりつさせたのにたいし、ちゅうどおりもその3ヵ月かげつにやはり養女ようじょてい入内じゅだいさせて、中宮ちゅうぐう冊立さくりつさせた。このてい立后りっこうにとうとう忠実ちゅうじつよりゆきちょうごうやし、ちゅうどおりちちから義絶ぎぜつされてよりゆきちょう長者ちょうじゃしょくゆずらされるが、多子おいご天皇てんのう接触せっしょく妨害ぼうがいすることなどで対抗たいこうする。

仁平にだいら3ねん1153ねん)9がつ近衛天皇このえてんのう一時いちじ失明しつめい危機ききおちいるほどの重病じゅうびょうとなったさいちゅうどおり天皇てんのうから譲位じょうい意思いしげられ(『たい仁平にだいら3ねん9がつ23にちじょう)、これをけたちゅうどおり鳥羽とば法皇ほうおうまさひとし親王しんのう後白河天皇ごしらかわてんのう)のいきわらわまごおうまもりじん親王しんのう二条天皇にじょうてんのう)への譲位じょうい奏請そうせいするが、法皇ほうおうからは幼主ようしゅ擁立ようりつしてせいけんせんらにしようとする謀略ぼうりゃくとみなされ[注釈ちゅうしゃく 6]忠実ちゅうじつからも「関白かんぱくきょうへるか。ちちまさひとし親王しんのうだまっているはずがない」などと非難ひなんされる。

久寿きゅうじゅ2ねん1155ねん)の後白河天皇ごしらかわてんのう践祚せんそ忠実ちゅうじつよりゆきちょう近衛天皇このえてんのう呪詛じゅそ嫌疑けんぎ失脚しっきゃくしたことにより復権ふっけん。それら一連いちれん対立たいりつもとらん原因げんいんひとつとなった。らん長者ちょうじゃ地位ちい回復かいふくされたが、そのさいまえ長者ちょうじゃであるよりゆきちょう罪人ざいにんでかつ死亡しぼうしていることを理由りゆうとして、宣旨せんじによって任命にんめいおこなわれ、藤原ふじわらによる自律じりつせい否認ひにんされた。さら忠実ちゅうじつよりゆきちょう所有しょゆうしていた摂関せっかん伝来でんらい荘園しょうえんおよ個人こじん荘園しょうえんすべぼつかんりょうとして剥奪はくだつされることになったが、ちゅうどおり忠実ちゅうじつ摂関せっかん伝来でんらいのものと忠実ちゅうじつ個人こじん荘園しょうえん宇治うじ殿どのりょう」を自分じぶん譲与じょうよするようにせまり、ようやちゅうどおり所領しょりょうとしてみとめられて没収ぼっしゅう回避かいひした[注釈ちゅうしゃく 7]。しかしよりゆきちょうりょうぼつかんまぬかれられなかった[注釈ちゅうしゃく 8]

この影響えいきょうから、白河しらかわ院政いんせい以来いらいきょう上皇じょうこう存在そんざいしない状況じょうきょうにもかかわらず摂関せっかん政治せいじ再興さいこうとはならず、政治せいじ信西しんぜい筆頭ひっとうとするのち白河しらかわ側近そっきん主導しゅどうした。こう白河しらかわから二条天皇にじょうてんのうへの譲位じょういは、関白かんぱくちゅうどおりいて信西しんぜい美福門院びふくもんいん二人ふたり出家しゅっけしゃによる「ふつふつ評定ひょうじょう」で決定けっていされている。

もと3ねん1158ねん)の賀茂かもさいさいこう白河しらかわ寵臣ちょうしん藤原ふじわら信頼しんらいとの対立たいりつこしたことからこう白河しらかわより閉門へいもんしょせられて事実じじつじょう失脚しっきゃく同年どうねん関白かんぱくしょく嫡男ちゃくなんもとゆずった。ちゅうどおり信頼しんらいみをはかり、信頼しんらいいもうともとしつむかえている。しかし、平治へいじらんでは信頼しんらい見限みかぎってはん信頼しんらい陣営じんえい父子ふしくみしている。らん信西しんぜい信頼しんらいたれ、つづいて実権じっけんにぎった藤原ふじわらけいむね藤原ふじわらおもんみかた配流はいるされ、朝廷ちょうていにはすで退位たいいしたのち白河しらかわ上皇じょうこう二条天皇にじょうてんのう対立たいりつ政務せいむ担当たんとうしゃのいない状態じょうたいだけがのこされた。そんななかで「大殿おおいどの」としょうされたちゅうどおり一時いちじてき復権ふっけん[8]いん天皇てんのう大殿おおいどの関白かんぱくらの協議きょうぎ体制たいせいとなり、1161ねん天皇てんのういん近臣きんしん6めいかいかんしたのち天皇てんのう大殿おおいどの合意ごうい政治せいじ決定けっていがなされるようになった。そのおう2ねん1162ねん)に法性寺ほっしょうじ別業べつぎょう出家しゅっけしてえんかんごうした。ちゅうどおり晩年ばんねん身近みぢかつかえていた女房にょうぼう五条ごじょういえみなもともりけいむすめ)を寵愛ちょうあいしていたが、ちょうひろし元年がんねん1163ねんまつ翌年よくねん年初ねんしょごろ五条ごじょう兄弟きょうだいみなもとけいこう密通みっつう、これを目撃もくげきしたちゅうどおりただちにけいこうした(『明月めいげつ』)ものの、精神せいしんてき衝撃しょうげきもありまもなく薨去こうきょしたという[9]享年きょうねん68。

人物じんぶつ

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  • ちゅうどおり長者ちょうじゃとなったときすで摂関せっかん政治せいじ形骸けいがいし、さらにちちおとうととの対立たいりつかかえ、男子だんしをもうけたのもおそほうであったが、そのようなわる状況じょうきょうなかでも本来ほんらい対抗たいこう勢力せいりょくである鳥羽とば法皇ほうおうたいらひとし院政いんせい勢力せいりょくたくみにむすびつき、もとらんつづく、平治へいじらんでも実質じっしつてき権力けんりょくしゃ信西しんぜいとは対照たいしょうてきび、かれ直系ちょっけい子孫しそんのみが五摂家ごせっけとして原則げんそくてき明治維新めいじいしんまで摂政せっしょう関白かんぱくしょく独占どくせんすることとなった。もっとも、もと後継こうけいしゃとして藤原ふじわら信頼しんらいいもうとんだ近衛このえはじめどおりではなく、むすめすめらぎ嘉門かもんいん聖子せいこ)の猶子ゆうしとなっていた庶子しょし六男むつお)のけん後継こうけいしゃにすることを意図いとしたものの、もと急死きゅうしによる挫折ざせつ五男いつおもとぼう関白かんぱく任命にんめいたいら一族いちぞくによるもとどおり後見こうけん成立せいりつなどの事態じたい急変きゅうへん)がその摂関せっかん分裂ぶんれつ原因げんいんとなったとするせつもある[10]。また、けんではなく、ちゅうどおり日記にっき相続そうぞくして後白河天皇ごしらかわてんのういん)の外戚がいせきである閑院りゅうからつまめとっていたもとぼうこそがちゅうどおり意中いちゅう後継こうけいしゃであったとするせつされている[11]
  • 悪辣あくらつ陰謀いんぼうとするせつがあるが(角田つのだ文衛ふみえなど)、異論いろんもある(元木もとき泰雄やすおなど)。
  • 詩歌しかにもながじ、書法しょほうにも一家いっかをなして法性寺ほっしょうじさまといわれた。漢詩かんししゅうに『法性寺ほっしょうじ関白かんぱくしゅう』、家集かしゅうに『民治たみじしゅう』がある。日記にっきに『法性寺ほっしょうじ関白かんぱく』がある。
  • ちゅうどおりりょう性愛せいあいしゃだったとかんがえられる[12]
  • おとうとよりゆきちょうとは不仲ふなかであったのにたいし、父兄ふけいさとしほう法親王ほうしんのうちち白河しらかわ法皇ほうおう)との関係かんけい良好りょうこうで、法親王ほうしんのう死去しきょしたさいにはちゅうどおりは「おとうと」としてふくしている(『へいはん仁平にだいら3ねん12月6にちじょう[13]

歌人かじんとして

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小倉おぐら百人一首ひゃくにんいっしゅ76ばん法性寺ほっしょうじ入道にゅうどうぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん

きむようしゅう以下いか勅撰ちょくせんしゅうに58しゅいれしゅうしているが、そのうたについて『こんかがみ』では「柿本人麻呂かきのもとのひとまろにもじないのではないか、と人々ひとびともうげている」とあり、また漢詩かんしをつくれば菅原すがわら道真みちざねよりすぐれているといわれた。これは鳥羽天皇とばてんのうから後白河天皇ごしらかわてんのうの4だいにわたって関白かんぱくとなり、摂政せっしょう太政大臣だじょうだいじん各々おのおの2ずつなっている人物じんぶつであるため、美辞麗句びじれいくちたものになったとかんがえられる。

小倉おぐらひゃくにんいちしゅから。

わたのはら こぎいでてみれば 久方ひさかたくもいにまがふ おき白波しらなみ 法性寺ほっしょうじ入道にゅうどうぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん

なお、この直前ちょくぜん直後ちょくごうたびとは、いずれもちゅうどおりとの政争せいそうやぶれた人物じんぶつ藤原基俊ふじわらのもととし崇徳天皇すとくてんのう)である。

書家しょかとしての評価ひょうか

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藤原ふじわらただしどおりひつ書状しょじょうあん京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう国宝こくほう)25つうのうち
  • 法性寺ほっしょうじりゅうひらいた。肉太にくぶとで、丸味まるみ力強ちからづよさをそなえた生々せいせいしたものである。
  • 藤原基衡ふじわらのもとひら毛越寺もうつじ伽藍がらん建立こんりゅうしたさい金堂こんどう円隆寺えんりゅうじ(のちに兵火へいか焼失しょうしつ)にかかげるがく揮毫きごうちゅうどおり依頼いらいした。しかし、奥州おうしゅう藤原ふじわら京都きょうとからすれば俘囚ふしゅう係累けいるいであり、身分みぶんかして依頼いらいしてもおうじられるはずがないため、実際じっさい依頼いらい仁和寺にんなじとおしておこなわれた。のちにしん依頼いらいしゃったちゅうどおりがくかえそうとしたが失敗しっぱいわった(『吾妻あづまきょう』には「円隆寺えんりゅうじがく関白かんぱくちゅうどおりふで色紙いろがみがた藤原ふじわらきょうちょう」とある)。

荘園しょうえん

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かんれき

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括弧かっこない西暦せいれき換算かんさんれきの11月まつから12月は西暦せいれきでは翌年よくねんの1がつから2がつ対応たいおうすることがある)

系譜けいふ

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関連かんれん作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ みは「ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん)」
  2. ^ 殿しんがりれきよしみうけたまわ2ねん6がつ11にちじょう。なお、ちゅうどおりけん日記にっきたま』には、ちゅうどおり法皇ほうおういもうとである篤子あつこ内親王ないしんのう堀河ほりかわ天皇てんのう中宮ちゅうぐう藤原ふじわらじつ養女ようじょ)の養子ようしになったとする(うけたまわやす5ねん7がつ26にちじょう)が、ちゅうどおり自身じしんはかつて白河しらかわ法皇ほうおうと「父子ふしちぎり」をむすんだとかたっている(『ちゅう右記うき大治おおはる4ねん7がつ17にちじょう)。
  3. ^ 摂関せっかんからは藤原ふじわら寛子ひろこ頼通よりみちむすめ以来いらいやく80ねんぶりの入内じゅだい。なお、養女ようじょふくめると、堀河ほりかわ天皇てんのう中宮なかみや篤子あつこ内親王ないしんのう藤原ふじわら養女ようじょ後三条ごさんじょう天皇てんのう皇女おうじょ以来いらいで38ねんぶりとなる。
  4. ^ 正妻せいさい藤原ふじわら宗子むねことのあいだには男子だんしまれたが夭折ようせつ。また、妾腹しょうふく男子だんし恵信えしん永久えいきゅう元年がんねん1113ねんせい)・さとしちゅう元永もとなが元年がんねん1118ねんせい)がいたが、いずれも出家しゅっけしている。この2人ふたりたいしては、正妻せいさい宗子むねこ感情かんじょういていなかったようであり(『こんかがみ』)、2人ふたり出家しゅっけについては宗子むねこへの配慮はいりょまたは彼女かのじょ自身じしん意図いとるものであることをうかがわせる。ただし、樋口ひぐち健太郎けんたろうは、ちゅうどおり宗子むねこ婚姻こんいん元永もとなが元年がんねん10がつ26にちであることはちち忠実ちゅうじつの『殿しんがりれき』にしるしており、同年どうねんまれのさとしちゅうふくめて、正式せいしき婚姻こんいんをしていないのに子供こどもをもうけたことをちゅうどおりはばかって出家しゅっけさせたもので、『こんかがみ』の記述きじゅつ根拠こんきょのないぎぬとしている[3]
  5. ^ 樋口ひぐち健太郎けんたろう元々もともとよりゆきちょうとの縁組えんぐみ将来しょうらい男子だんし誕生たんじょうしたときにはちゅうどおり成長せいちょうするまでの中継なかつぎになる性質せいしつのものであったが、実際じっさいもと誕生たんじょうするとちち忠実ちゅうじつうしたて背景はいけいとしたよりゆきちょう実子じっしけんちょう養子ようしにするようにせまってもと後継こうけいしゃから排除はいじょしようとしたためにちゅうどおりよりゆきちょう対立たいりつしたとき、むしろ縁組えんぐみ約束やくそくちがえたのはよりゆきちょうがわであったとみている。なお、ちゅうどおりけんちょう縁組えんぐみ久安ひさやす4ねん(1148ねん)にちゅうどおりけんちょう春日しゅんじつさい使派遣はけんたいする協力きょうりょく拒否きょひしめした(『たい久安ひさやす4ねん11月11にちじょう)ことで事実じじつじょう破綻はたんした[4]樋口ひぐちべつ論文ろんぶんもとちゅうどおりあねである藤原ふじわら泰子やすここういん)の養子ようしになったのは、実際じっさいけんちょう摂関せっかんとしての後継こうけいしゃとして決定けっていされ、わりにもと彼女かのじょ養子ようしとして所領しょりょう継承けいしょうして没後ぼつご仏事ぶつじおこなめになったとしている[5]
  6. ^ 元木もとき泰雄やすおによると、ちゅうどおり奏上そうじょうけた鳥羽とば法皇ほうおう忠実ちゅうじつたいして「わたしとあなたがくなったのち皇位こういめぐ天下でんかみだれるだろう」とべたとされる[6]樋口ひぐち健太郎けんたろうによると、この当時とうじとく忠実ちゅうじつによる義絶ぎぜつは)近衛天皇このえてんのう面会めんかい出来できるのは関白かんぱくとして内裏だいり内部ないぶ仕切しきちゅうどおりらごく一部いちぶ人間にんげんかぎられ、天皇てんのう健康けんこう情報じょうほうちゅうどおりによって独占どくせんされていたため、法皇ほうおう近衛天皇このえてんのう病気びょうきちゅうどおりいつわりではないかとうたがっていたという[7]
  7. ^ 宇治うじ殿どのりょううちこういんりょう50箇所かしょ泰子やすこ猶子ゆうしとなっていたちゅうどおりよんなんもとじつ相続そうぞくされ、近衛このえりょう一部いちぶとなった。ただし、前述ぜんじゅつとい口説くぜつによれば、彼女かのじょ所領しょりょう元々もともとよりゆきちょう圧力あつりょくもと廃嫡はいちゃくされた一種いっしゅ見返みかえりであるため、本来ほんらい摂関せっかん所領しょりょうとはなるべきものではなかったとされる。
  8. ^ よりゆきちょうりょうは、ちちとり所領しょりょうをほとんど相続そうぞくできなかった後白河天皇ごしらかわてんのうのちいんりょうあてがわれ、長講ちょうこうどうりょう基軸きじくとなった。

出典しゅってん

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  1. ^ 藤原ふじわらただしどおり』 - コトバンク
  2. ^ こんかがみだいはちはら々の御子みこ
  3. ^ 樋口ひぐち健太郎けんたろう ちょ藤原ふじわらただしどおりもとみのる院政いんせい摂関せっかんのアンカー―」、元木もとき泰雄やすお へんもと平治へいじらんたいら栄華えいが清文せいぶんどう出版しゅっぱん中世ちゅうせい人物じんぶつ きょう鎌倉かまくら時代じだいへんだい1かん〉、2014ねん /所収しょしゅう:樋口ひぐち 2018, pp. 166–167
  4. ^ 樋口ひぐち 2018, pp. 168–170, 「藤原ふじわらただしどおりもとみのる院政いんせい摂関せっかんのアンカー―」.
  5. ^ 樋口ひぐち 2018, pp. 188–189, 「摂関せっかんきゅうじょうりゅう形成けいせい女院にょいん」.
  6. ^ 元木もとき泰雄やすおもと平治へいじらんなおす』〈NHKブックス〉2004ねん、67ぺーじ 
  7. ^ 樋口ひぐち 2018, pp. 27–30.
  8. ^ 佐伯さえき智広ともひろじょう親政しんせい成立せいりつ」『日本にっぽん研究けんきゅう』505ごう、2004ねん /所収しょしゅう:佐伯さえき智広ともひろ中世ちゅうせい前期ぜんき政治せいじ構造こうぞう王家おうけ東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2015ねんISBN 978-4-13-026238-5 
  9. ^ 角田つのだ文衛ふみえ平安へいあんはる』〈講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉1999ねん、226ぺーじ 
  10. ^ 山田やまだあやおこり中世ちゅうせい前期ぜんき女性じょせいいんみや研究けんきゅう思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2010ねん、222-223・256・263ぺーじぺーじ 
  11. ^ 樋口ひぐち 2018, pp. 176–179.
  12. ^ 高橋たかはし秀樹ひでき中世ちゅうせいいえせい』p.82
  13. ^ 海野うみの泰男やすおこんかがみぜんしゃく のぼる福武書店ふくたけしょてん、1983ねん、P489-490.
  14. ^ 大治おおはる2ねん4がつ9にちせい同年どうねん11がつ13にちそつ。『ちゅう右記うき
  15. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』『系図けいず纂要』による。『こんかがみ』ではみなもと国子くにことする。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 樋口ひぐち健太郎けんたろう中世ちゅうせい王権おうけん形成けいせい摂関せっかん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2018ねんISBN 978-4-642-02948-3