藤原 忠 通
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生涯
[この
人物
[忠 通 が氏 長者 となった時 は既 に摂関 政治 は形骸 化 し、さらに父 や弟 との対立 を抱 え、男子 をもうけたのも遅 い方 であったが、そのような悪 い状況 の中 でも本来 対抗 勢力 である鳥羽 法皇 や平 氏 等 の院政 勢力 と巧 みに結 びつき、保 元 の乱 に続 く、平治 の乱 でも実質 的 な権力 者 ・信西 とは対照 的 に生 き延 び、彼 の直系 子孫 のみが五摂家 として原則 的 に明治維新 まで摂政 ・関白 職 を独占 する事 となった。もっとも、基 実 の後継 者 として藤原 信頼 の妹 が生 んだ近衛 基 通 ではなく、娘 ・皇 嘉門 院 (聖子 )の猶子 となっていた庶子 (六男 )の兼 実 を後継 者 にすることを意図 したものの、基 実 の急死 による挫折 (五男 ・基 房 の関白 任命 や平 氏 一族 による基 通 後見 の成立 などの事態 の急変 )がその後 の摂関 家 分裂 の原因 となったとする説 もある[10]。また、兼 実 ではなく、忠 通 の日記 を相続 して後白河天皇 (院 )の外戚 である閑院流 から妻 を娶 っていた基 房 こそが忠 通 の意中 の後継 者 であったとする説 も出 されている[11]。悪辣 な陰謀 家 とする説 があるが(角田 文衛 など)、異論 もある(元木 泰雄 など)。詩歌 にも長 じ、書法 にも一家 をなして法性寺 様 といわれた。漢詩 集 に『法性寺 関白 集 』、家集 に『田 多 民治 集 』がある。日記 に『法性寺 関白 記 』がある。忠 通 は両 性愛 者 だったと考 えられる[12]。弟 の頼 長 とは不仲 であったのに対 し、異 父兄 覚 法 法親王 (父 は白河 法皇 )との関係 は良好 で、法親王 が死去 した際 には忠 通 は「弟 」として喪 に服 している(『兵 範 記 』仁平 3年 12月6日 条 )[13]。
歌人 として
[![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/da/Hyakuninisshu_076.jpg/220px-Hyakuninisshu_076.jpg)
『
わたの
原 こぎいでてみれば久方 の雲 いにまがふ沖 つ白波 (法性寺 入道 前 関白 太政大臣 )
なお、この
書家 としての評価
[![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d0/Draft_Letters_by_Fujiwara_no_Tadamichi_1.jpg/200px-Draft_Letters_by_Fujiwara_no_Tadamichi_1.jpg)
法性寺 流 を開 いた。肉太 で、丸味 と力強 さを兼 ね備 えた生々 したものである。藤原基衡 が毛越寺 に伽藍 を建立 した際 、金堂 円隆寺 (のちに兵火 で焼失 )に掲 げる額 の揮毫 を忠 通 に依頼 した。しかし、奥州 藤原 氏 は京都 からすれば俘囚 の係累 であり、身分 を明 かして依頼 しても応 じられるはずがないため、実際 の依頼 は仁和寺 を通 して行 われた。のちに真 の依頼 者 を知 った忠 通 は額 を取 り返 そうとしたが失敗 に終 わった(『吾妻 鏡 』には「円隆寺 の額 は関白 忠 通 の筆 、色紙 形 は藤原 教 長 」とある)。
荘園
[官 歴
[嘉 承 2年 (1107年 )嘉 承 3年 (1108年 )天 仁 3年 (1110年 )天 永 2年 (1111年 )天 永 3年 (1112年 )3月 18日 -正 二 位 に昇叙 、権 中納言 ・右 近衛 中将 は元 の如 し永久 3年 (1115年 )元永 2年 (1119年 )2月 6日 :左 近衛 大将 を兼任 保安 2年 (1121年 )3月 5日 -関白 宣下 、藤 氏 長者 宣下 、内大臣 は元 の如 し、従 一 位 行 右大臣 源 雅実 の次 座 保安 3年 12月17日 (1123年 1月 )-従 一 位 に昇叙 、左大臣 に転任 、関白 ・藤 氏 長者 は元 の如 し、依然 従 一 位 太政大臣 源 雅実 の次 座 保安 4年 (1123年 )1月 28日 -関白 を止 め、摂政 宣下 、左大臣 は元 の如 し、源 雅実 より上座 となる(ただし一座 宣下 の記録 を欠 く)大治 3年 12月17日 (1129年 1月 )-太政大臣 宣下 、摂政 は元 の如 し大治 4年 (1129年 )- 4
月 10日 -太政大臣 を辞 す - 7
月 1日 -摂政 を止 め、関白 宣下
- 4
永治 元年 12月 7日 (1142年 1月 )-関白 を止 め、摂政 宣下 久安 5年 (1149年 )10月 25日 -太政大臣 宣下 、摂政 は元 の如 し久安 6年 (1150年 )- 3月13
日 -太政大臣 を辞 す - 9月26
日 -藤 氏 長者 を止 む(頼 長 が藤 氏 長者 となる) - 12月8
日 -摂政 を止 め、関白 宣下
- 3月13
保 元 元年 (1156年 )7月 11日 -藤 氏 長者 宣下 (同日 頼 長 が敗 死 したため)保 元 3年 (1158年 )8月 11日 -関白 を辞 す応 保 2年 (1162年 )6月 8日 -出家 、法名 は円 観 長 寛 2年 (1164年 )2月 19日 -薨去 、享年 68
系譜
[父 :藤原 忠実 母 :源 師 子 -源 顕房 の娘 正室 :藤原 宗子 -藤原 宗 通 の娘 (1090-1155)妻 :源 信子 -源 国信 の娘 、従 二 位 ・典侍 妻 :源 俊子 [15] -源 国信 の娘 妻 :源 俊子 -源 顕 俊 の娘 妻 :家 女房 加賀 局 -藤原 仲 光 の娘 (?-1156)妻 :藤原 基 信 の娘 長男 :恵信 (覚 継 、伊豆 僧正 )(1114-1171)-興福寺 別当 (1157-1164)、1167年 伊豆 配流
妻 :家 女房 五 条 -源 盛 経 の娘 七 男 :尊 忠 (1150-?)
生母 不明 の子女
関連 作品
[映画
- テレビドラマ
脚注
[注釈
[- ^
読 みは「ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん)」 - ^ 『
殿 暦 』嘉 承 2年 6月 11日 条 。なお、忠 通 の子 ・兼 実 の日記 『玉 葉 』には、忠 通 は法皇 の実 の妹 である篤子 内親王 (堀河 天皇 中宮 ・藤原 師 実 養女 )の養子 になったとする(承 安 5年 7月 26日 条 )が、忠 通 自身 はかつて白河 法皇 と「父子 契 」を結 んだと語 っている(『中 右記 』大治 4年 7月 17日 条 )。 - ^
摂関 家 からは藤原 寛子 (頼通 の娘 )以来 約 80年 ぶりの入内 。なお、養女 を含 めると、堀河 天皇 中宮 ・篤子 内親王 (藤原 師 実 養女 、後三条 天皇 皇女 )以来 で38年 ぶりとなる。 - ^
正妻 の藤原 宗子 との間 には男子 が生 まれたが夭折 。また、妾腹 の男子 に恵信 (永久 元年 (1113年 )生 )・覚 忠 (元永 元年 (1118年 )生 )がいたが、いずれも出家 している。この2人 に対 しては、正妻 宗子 が良 い感情 を抱 いていなかったようであり(『今 鏡 』)、2人 の出家 については宗子 への配慮 または彼女 自身 の意図 に依 るものであることを窺 わせる。ただし、樋口 健太郎 は、忠 通 と宗子 の婚姻 は元永 元年 10月 26日 であることは父 ・忠実 の『殿 暦 』に記 しており、同年 生 まれの覚 忠 も含 めて、正式 な婚姻 をしていないのに子供 をもうけたことを忠 通 が憚 って出家 させたもので、『今 鏡 』の記述 は根拠 のない濡 れ衣 としている[3]。 - ^
樋口 健太郎 は元々 頼 長 との縁組 は将来 男子 が誕生 した時 には忠 通 の子 が成長 するまでの中継 ぎになる性質 のものであったが、実際 に基 実 が誕生 すると父 ・忠実 の後 ろ盾 を背景 とした頼 長 が実子 の兼 長 を養子 にするように迫 って基 実 を後継 者 から排除 しようとしたために忠 通 と頼 長 は対立 したと説 き、むしろ縁組 時 の約束 を違 えたのは頼 長 側 であったとみている。なお、忠 通 と兼 長 の縁組 は久安 4年 (1148年 )に忠 通 が兼 長 の春日 祭 使 派遣 に対 する協力 拒否 を示 した(『台 記 』久安 4年 11月11日 条 )ことで事実 上 破綻 した[4]。樋口 は別 の論文 で基 実 が忠 通 の姉 である藤原 泰子 (高 陽 院 )の養子 になったのは、実際 に兼 長 が摂関 家 としての後継 者 として決定 され、代 わりに基 実 が彼女 の養子 として所領 を継承 して没後 の仏事 を行 う取 り決 めになったとしている[5]。 - ^
元木 泰雄 によると、忠 通 の奏上 を受 けた鳥羽 法皇 が忠実 に対 して「私 とあなたが亡 くなった後 は皇位 を巡 り天下 が乱 れるだろう」と述 べたとされる[6]。樋口 健太郎 によると、この当時 (特 に忠実 による義絶 後 は)近衛天皇 に面会 出来 るのは関白 として内裏 内部 を仕切 る忠 通 らごく一部 の人間 に限 られ、天皇 の健康 情報 も忠 通 によって独占 されていたため、法皇 は近衛天皇 の病気 を忠 通 の偽 りではないかと疑 っていたという[7]。 - ^
宇治 殿 領 の内 、高 陽 院 領 50余 箇所 は泰子 の猶子 となっていた忠 通 の四 男 基 実 に相続 され、近衛 家 領 の一部 となった。ただし、前述 の樋 口説 によれば、彼女 の所領 は元々 頼 長 の圧力 で基 実 が廃嫡 された一種 の見返 りであるため、本来 は摂関 家 の所領 とはなるべきものではなかったとされる。 - ^
頼 長 領 は、父 鳥 羽 の所領 をほとんど相続 できなかった後白河天皇 の後 院 領 に宛 がわれ、後 の長講 堂 領 の基軸 となった。
出典
[- ^ 『
藤原 忠 通 』 - コトバンク - ^ 『
今 鏡 』第 八 、腹 々の御子 - ^
樋口 健太郎 著 「藤原 忠 通 と基 実 ―院政 期 摂関 家 のアンカー―」、元木 泰雄 編 『保 元 ・平治 の乱 と平 氏 の栄華 』清文 堂 出版 〈中世 の人物 京 ・鎌倉 の時代 編 第 1巻 〉、2014年 。/所収 :樋口 2018, pp. 166–167 - ^
樋口 2018, pp. 168–170, 「藤原 忠 通 と基 実 ―院政 期 摂関 家 のアンカー―」. - ^
樋口 2018, pp. 188–189, 「摂関 家 九 条 流 の形成 と女院 」. - ^
元木 泰雄 『保 元 ・平治 の乱 を読 み直 す』〈NHKブックス〉2004年 、67頁 。 - ^
樋口 2018, pp. 27–30. - ^
佐伯 智広 「二 条 親政 の成立 」『日本 史 研究 』505号 、2004年 。/所収 :佐伯 智広 『中世 前期 の政治 構造 と王家 』東京大学 出版 会 、2015年 。ISBN 978-4-13-026238-5。 - ^
角田 文衛 『平安 の春 』〈講談社 学術 文庫 〉1999年 、226頁 。 - ^
山田 彩 起 子 『中世 前期 女性 院 宮 の研究 』思文閣出版 、2010年 、222-223・256・263頁 頁 。 - ^
樋口 2018, pp. 176–179. - ^
高橋 秀樹 『中世 の家 と性 』p.82 - ^
海野 泰男 『今 鏡 全 釈 上 』福武書店 、1983年 、P489-490. - ^
大治 2年 4月 9日 生 、同年 11月 13日 卒 。『中 右記 』 - ^ 『
尊卑 分脈 』『系図 纂要』による。『今 鏡 』では源 国子 とする。
参考 文献
[樋口 健太郎 『中世 王権 の形成 と摂関 家 』吉川弘文館 、2018年 。ISBN 978-4-642-02948-3。