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藤原 ふじわら 実方 じつかた (ふじわら の さねかた)は、平安 へいあん 時代 じだい 中期 ちゅうき の貴族 きぞく ・歌人 かじん 。左大臣 さだいじん ・藤原 ふじわら 師 し 尹 いん の孫 まご 、侍従 じじゅう ・藤原 ふじわら 定時 ていじ の子 こ 。官位 かんい は正 せい 四 よん 位 い 下 か ・左 ひだり 近衛 このえ 中将 ちゅうじょう 。中古 ちゅうこ 三 さん 十 じゅう 六歌仙 ろっかせん の一人 ひとり 。
父 ちち ・定時 ていじ が早 さ 逝したため、叔父 おじ で大納言 だいなごん ・藤原 ふじわら 済 わたる 時 とき の養子 ようし となる。
左 ひだり 近衛 このえ 将 すすむ 監 かん を経 へ て、天 てん 禄 ろく 4年 ねん (973年 ねん )従 したがえ 五 ご 位 い 下 か に叙爵 じょしゃく し、天 てん 延 のべ 3年 ねん (975年 ねん )侍従 じじゅう に任 にん ぜられる。その後 ご は、右 みぎ 兵衛 ひょうえ 権 けん 佐 さ ・左 ひだり 近衛 このえ 少将 しょうしょう ・右 みぎ 近衛 このえ 中将 ちゅうじょう と武官 ぶかん を歴任 れきにん する傍 かたわ らで、天元 てんげん 5年 ねん (982年 ねん )従 したがえ 五 ご 位 い 上 じょう 、永観 えいかん 元年 がんねん (983年 ねん )正 せい 五 ご 位 い 下 か 、寛和 ひろかず 2年 ねん (986年 ねん )従 したがえ 四 よん 位 い 下 か と順調 じゅんちょう に昇進 しょうしん する。
正 せい 暦 こよみ 4年 ねん (993年 ねん )従 したがえ 四 よん 位 い 上 じょう 、翌 よく 正 せい 暦 れき 5年 ねん (994年 ねん )には左 ひだり 近衛 このえ 中将 ちゅうじょう に叙任 じょにん され公卿 くぎょう の座 ざ を目前 もくぜん にするが、長 ちょう 徳 いさお 元年 がんねん (995年 ねん )正月 しょうがつ に突然 とつぜん 陸奥 むつ 守 まもる に左遷 させん される。同年 どうねん 3月 がつ から6月 がつ にかけて、養父 ようふ ・済 すみ 時 じ を始 はじ めとして、関白 かんぱく の藤原 ふじわら 道隆 みちたか と道 みち 兼 けん の兄弟 きょうだい 、左大臣 さだいじん ・源 みなもと 重信 しげのぶ 、大納言 だいなごん ・藤原 ふじわら 朝光 ともみつ 、大納言 だいなごん ・藤原 ふじわら 道 みち 頼 よりゆき ら多数 たすう の大官 たいかん が疫病 えきびょう の流行 りゅうこう 等 とう により次々 つぎつぎ と没 ぼっ するが、養父 ようふ ・済 すみ 時 じ の喪 も が明 あ けた9月に陸奥 みちのく 国 こく に出発 しゅっぱつ した。なお、赴任 ふにん の奏上 そうじょう に際 さい して正 せい 四 よん 位 い 下 か に叙 じょ せられている。
左遷 させん を巡 めぐ っては、一条天皇 いちじょうてんのう の面前 めんぜん で藤原 ふじわら 行 こう 成 なり と和歌 わか について口論 こうろん になり、怒 おこ った実方 じつかた が行 くだり 成 なり の冠 かんむり を奪 うば って投 な げ捨 す てるという事件 じけん が発生 はっせい [2] 。このために実方 じつかた は天皇 てんのう の怒 いか りを買 か い、「歌枕 うたまくら を見 み てまいれ」と左遷 させん を命 めい じられたとする逸話 いつわ がある[3] 。しかし、実方 じつかた の陸奥 みちのく 下向 げこう に際 さい して天皇 てんのう から多大 ただい な餞別 せんべつ を受 う けた事 こと が、当 とう の口論 こうろん 相手 あいて の行 くだり 成 なり の日記 にっき 『権 けん 記 き 』に克明 こくめい に記 しる されている事 こと から、左遷 させん とは言 い えないとの説 せつ もある。さらにこの逸話 いつわ では、口論 こうろん に際 さい して取 と り乱 みだ さず主 しゅ 殿 しんがり 司 し に冠 かんむり を拾 ひろ わせ事 こと を荒立 あらだ てなかった行 くだり 成 なり が、一条天皇 いちじょうてんのう に気 き に入 い られて蔵人 くろうど 頭 あたま に抜擢 ばってき されたとされるが、実際 じっさい の任官 にんかん 時期 じき は同年 どうねん 8月 がつ 29日 にち と実方 じつかた の任官 にんかん と8ヶ月 かげつ も開 ひら きがあり、さらにその任官 にんかん 理由 りゆう は源 みなもと 俊 しゅん 賢 けん の推挙 すいきょ ともされる事 こと から[4] 、逸話 いつわ と事実 じじつ に不 ふ 整合 せいごう がある。これらの事 こと から、後世 こうせい 都 と 人 じん の間 あいだ に辺境 へんきょう の地 ち で客死 かくし した実方 じつかた への同情 どうじょう があり、このような説話 せつわ (後述 こうじゅつ の死後 しご 亡霊 ぼうれい となった噂 うわさ や、雀 すずめ に転生 てんせい した話 はなし も含 ふく め)の形成 けいせい に繋 つな がったと考 かんが える説 せつ がある[5] 。
『今昔 こんじゃく 物語 ものがたり 集 しゅう 』[6] にある、鎮守 ちんじゅ 府 ふ 将軍 しょうぐん ・平維茂 たいらのこれもち と藤原 ふじわら 諸 しょ 任 にん との合戦 かっせん は、実方 じつかた が陸奥 むつ 守 まもる 在任 ざいにん 中 ちゅう の事 こと とされる[7] 。
長 ちょう 徳 とく 4年 ねん 12月(999年 ねん 1月 がつ )任国 にんごく で実方 じつかた が馬 うま に乗 の り笠島 かさじま 道祖神 どうそじん の前 まえ を通 とお った時 とき 、乗 の っていた馬 うま が突然 とつぜん 倒 たお れ、下敷 したじ きになって没 ぼっ した(名取 なとり 市 し 愛島 めでしま に墓 はか がある)。没 ぼつ 時 じ の年齢 ねんれい は40歳 さい ほどだったという。最終 さいしゅう 官位 かんい は陸奥 むつ 守正 もりまさ 四 よん 位 い 下 か 。また横浜 よこはま 市 し 戸塚 とつか 区 く にも伝 つて 墓所 はかしょ (実方 じつかた 塚 づか )がある。
当時 とうじ 、陸奥 むつ 守 まもる に期待 きたい された職務 しょくむ として宋 そう との貿易 ぼうえき 決済 けっさい で用 もち いる砂金 さきん を調達 ちょうたつ して中央 ちゅうおう に献上 けんじょう する事 こと であった。砂金 さきん の未 み 進 すすむ 問題 もんだい は980年代 ねんだい には深刻 しんこく になっていたが、実方 じつかた はその職務 しょくむ を全 まった く果 は たす事 こと なく急死 きゅうし したため、後任 こうにん の源 みなもと 満 みつる 政 せい 、更 さら にその次 つぎ の橘 たちばな 道 みち 貞 さだ の責任 せきにん までが追及 ついきゅう される事 こと になった。最終 さいしゅう 的 てき に寛弘 かんこう 5年 ねん (1008年 ねん )になって満 まん 政 せい が絹 きぬ によって実方 じつかた が残 のこ した未 み 進 すすむ 分 ぶん を補填 ほてん する事 こと になった[8] 。一方 いっぽう 、陸奥 みちのく から朝廷 ちょうてい を介 かい して決済 けっさい 用 よう の砂金 さきん を受 う けられなくなった大宰府 だざいふ では代金 だいきん を受 う けられなくなった宋 そう の商人 しょうにん らとのトラブル解消 かいしょう に苦慮 くりょ し、結果 けっか 的 てき に中央 ちゅうおう に送 おく る筈 はず であった官 かん 物 ぶつ (あるいはそれで調達 ちょうたつ した硫黄 いおう や材木 ざいもく 等 とう の宋 そう 側 がわ の希望 きぼう 商品 しょうひん )で決済 けっさい を行 おこな うようになった[9] 。
藤原公任 ふじわらのきんとう ・源 みなもと 重之 しげゆき ・藤原 ふじわら 道信 みちのぶ 等 ひとし と親 した しかった。風流 ふうりゅう 才子 さいし としての説話 せつわ が残 のこ り、清少納言 せいしょうなごん と交際 こうさい 関係 かんけい があったとも伝 つた えられる。他 ほか にも20人 にん 以上 いじょう の女性 じょせい との交際 こうさい があったと言 い われ、『源氏物語 げんじものがたり 』の主人公 しゅじんこう ・光源氏 ひかるげんじ のモデルの一人 ひとり とされる事 こと もある。
『拾遺 しゅうい 和歌集 わかしゅう 』(7首 しゅ )以下 いか の勅撰 ちょくせん 和歌集 わかしゅう に64首 しゅ が入 いれ 集 しゅう [10] 。家集 かしゅう に『実方 じつかた 朝臣 あそん 集 しゅう 』がある。
雀 すずめ に化身 けしん した実方 じつかた の怨念 おんねん (月岡 つきおか 芳年 よしとし 『新形 しんがた 三 さん 十 じゅう 六 ろく 怪 かい 撰 せん 』)
当時 とうじ 、五月 ごがつ の節句 せっく には菖蒲 しょうぶ を葺 ふ く風習 ふうしゅう があった。実方 じつかた が陸奥 みちのく 守 もり として下向 げこう した際 さい 、人々 ひとびと が節句 せっく にもかかわらず菖蒲 しょうぶ を葺 ふ かないのを見 み て、国府 こくふ の役人 やくにん に理由 りゆう を尋 たず ねたところ、陸奥 みちのく にはそのような習慣 しゅうかん はなく、菖蒲 しょうぶ も生 は えていないとの事 こと であった。すると実方 じつかた は、浅香 あさか の沼 ぬま [11] の花 はな かつみというものがあるのでそれを葺 ふ くように命 めい じた事 こと から、陸奥 みちのく では節句 せっく に菰 こも を葺 ふ くようになったという[12] 。
死後 しご 、賀茂川 かもがわ の橋 はし の下 した に実方 じつかた の亡霊 ぼうれい が出没 しゅつぼつ するとの噂 うわさ が流 なが れたとされる[13] 。また、死後 しご 、蔵人 くろうど 頭 あたま になれないまま陸奥 みちのく 守 もり として亡 な くなった怨念 おんねん により雀 すずめ へ転生 てんせい し、殿上 てんじょう の間 あいだ に置 お いてある台 たい 盤 ばん の上 うえ の物 もの を食 た べたという(入内雀 にゅうないすずめ )[14] 。
『中古 ちゅうこ 歌仙 かせん 三 さん 十 じゅう 六 ろく 人伝 ひとづて 』による。
以下 いか については、各種 かくしゅ 系図 けいず に記載 きさい が見 み られるが、事実 じじつ かどうかには疑問 ぎもん がある。
^ a b 『亀井 かめい 家 か 譜 ふ 』東大 とうだい 史料 しりょう 編纂 へんさん 所蔵 しょぞう
^ 当時 とうじ は常 つね に(就寝 しゅうしん 時 じ 、入浴 にゅうよく 時 じ であっても)烏帽子 えぼし や冠 かんむり など被 かぶ りものを着 つ けるのがマナーとされ、被 かぶ り物 もの のない頭 あたま を晒 さら すのは大変 たいへん な恥 はじ とされた
^ 『古事 ふるごと 談 だん 』による。陸奥 みちのく 国府 こくふ ・多賀城 たがじょう 近辺 きんぺん を初 はじ め、陸奥 みちのく に歌枕 うたまくら が多 おお くあるため、「歌枕 うたまくら 」が陸奥 みちのく の代名詞 だいめいし となっている(『仙台 せんだい 市 し 史 し 』通史 つうし 編 へん 2 古代 こだい 中世 ちゅうせい )。
^ 『大 だい 鏡 かがみ 』第 だい 3巻 かん 24
^ 竹鼻 たけはな 績 『今 いま 鏡 きょう (下 した )』講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 、1984年 ねん 、530頁 ぺーじ
^ 『今昔 こんじゃく 物語 ものがたり 集 しゅう 』巻 まき 第 だい 25第 だい 5
^ a b c 『尊卑 そんぴ 分脈 ぶんみゃく 』による。
^ 『御堂 みどう 関白 かんぱく 記 き 』寛弘 かんこう 5年 ねん 3月 がつ 27日 にち 条 じょう
^ 渡邊 わたなべ 誠 まこと 「平安 へいあん 期 き の貿易 ぼうえき 決済 けっさい をめぐる陸奥 みちのく と大宰府 だざいふ 」(初出 しょしゅつ :『九州 きゅうしゅう 史学 しがく 』140号 ごう (2005年 ねん )/所収 しょしゅう :渡邊 わたなべ 『平安 へいあん 時代 じだい 貿易 ぼうえき 管理 かんり 制度 せいど 史 し の研究 けんきゅう 』、思文閣出版 しぶんかくしゅっぱん 、2012年 ねん )
^ 『勅撰 ちょくせん 作者 さくしゃ 部類 ぶるい 』
^ 岩代 いわしろ 国 こく 安積 あさか 郡 ぐん にあった沼 ぬま で、歌枕 うたまくら であった。
^ 『今 こん 鏡 かがみ 』第 だい 10 363段 だん 、『無名 むめい 抄 しょう 』、『和歌 わか 童蒙 どうもう 抄 しょう 』等 とう 。
^ 『枕草子 まくらのそうし 』
^ 『今 こん 鏡 かがみ 』第 だい 10 364段 だん 、『古事 ふるごと 談 だん 』第 だい 2 臣 しん 説 せつ 、『十 じゅう 訓 くん 抄 しょう 』第 だい 8等 とう 。
^ a b 『小 しょう 右記 うき 』
^ 『権 けん 記 き 』
^ 『後 こう 拾遺 しゅうい 和歌集 わかしゅう 』雑 ざつ 2-915(北村 きたむら [1979: 67])
^ 『熊野 くまの 別当 べっとう 系図 けいず 』による。
^ a b 熊野 くまの 別当 べっとう 家 か は熊野 くまの 別当 べっとう 職 しょく を重代 じゅうだい 職 しょく とすることの正統 せいとう 性 せい を示 しめ すため、熊野 くまの 別当 べっとう 家 か を貴種 きしゅ に連 つら なる家系 かけい であると主張 しゅちょう する「熊野 くまの 別 べつ 当代 とうだい 々次第 しだい 」なる系譜 けいふ 図 ず を作成 さくせい した。しかし、そうした主張 しゅちょう は同 どう 時代 じだい には受 う け入 い れられたわけではなかった(宮家 みやけ 準 じゅん 『熊野 くまの 修験 しゅげん 』〈吉川弘文館 よしかわこうぶんかん (日本 にっぽん 歴史 れきし 叢書 そうしょ )、1992 ISBN 4642066497 〉、pp.18-19)。
^ 藤原 ふじわら 南 みなみ 家 か 、能登 のと 守実 もりざね 房 ぼう の娘 むすめ の混入 こんにゅう か(北村 きたむら [1979: 65])
保坂 ほさか 弘司 ひろし 『大 だい 鏡 かがみ 全 ぜん 現代 げんだい 語 ご 訳 やく 』講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 、1981年 ねん
北村 きたむら 杏子 きょうこ 「藤原 ふじわら 実方 じつかた 雑考 ざっこう 」『青山學院女子短期大學 あおやまがくいんじょしたんきだいがく 紀要 きよう 33』青山学院女子短期大学 あおやまがくいんじょしたんきだいがく 、1979年 ねん
宝 たから 賀 が 寿男 としお 『古代 こだい 氏族 しぞく 系譜 けいふ 集成 しゅうせい 』古代 こだい 氏族 しぞく 研究 けんきゅう 会 かい 、1986年 ねん