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みなもととおる

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みなもと とおる
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき - 前期ぜんき
生誕せいたん ひろしひとし13ねん822ねん
死没しぼつ 寛平かんぺい7ねん8がつ25にち895ねん9月17にち
別名べつめい 河原かわはら左大臣さだいじん
官位かんい したがえいち左大臣さだいじんおくせいいち
主君しゅくん 仁明天皇にんみょうてんのう文徳ふみのり天皇てんのう清和せいわ天皇てんのう陽成ようぜい天皇てんのう光孝みつたか天皇てんのう宇多天皇うだてんのう
氏族しぞく 嵯峨さがはじめとおるりゅう
父母ちちはは ちち嵯峨天皇さがてんのうはは大原おおはら全子まさこ
兄弟きょうだい 嵯峨天皇さがてんのう#系譜けいふ参照さんしょう
つま 藤原ふじわらそうつぎむすめ
じんとまりのぼりもちふく
テンプレートを表示ひょうじ
みなもと とおる
小倉おぐらひゃくにんいちしゅだい14ばん河原かわはら左大臣さだいじん

みなもと とおる(みなもと の とおる)は嵯峨天皇さがてんのうだいじゅう皇子おうじ [1]嵯峨さがだいじゅう源氏げんじ)。平安へいあん時代じだい初期しょきから前期ぜんきにかけての貴族きぞく嵯峨さがはじめとおるりゅう初代しょだい河原院かわらのいん河原かわはら大臣だいじんばれた[2]

経歴けいれき

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仁明にんみょうちょううけたまわ5ねん838ねん元服げんぷくしてせいよん直叙ちょくじょされ、うけたまわ6ねん839ねん侍従じじゅうにんぜられる。仁明にんみょうちょうまつうけたまわ15ねん848ねんみぎ近衛このえ中将ちゅうじょうにんぜられると、よしみさち3ねん850ねん正月しょうがつしたがえさんじょせられ、29さい公卿くぎょうれっす。文徳ふみのり天皇てんのう即位そくい同年どうねん5がつみぎ衛門えもんとくにんぜられてつづ武官ぶかんつとめ、ひとし3ねん856ねん参議さんぎのぼった。

清和せいわちょうはいっても、てんやす4ねん859ねんせいさんさだかん6ねん864ねん中納言ちゅうなごん順調じゅんちょう昇進しょうしんする。同年どうねん3がつからさだかん11ねん869ねん)1がつまでは陸奥むつ出羽でわ按察使兼任けんにんした。このころ異母いぼけい左大臣さだいじん源信みなもとのまこと大納言だいなごんばん善男よしお不和ふわ状況じょうきょうにあったが、同年どうねんふゆには源信みなもとのまこととおるつとむ兄弟きょうだい反逆はんぎゃくはかっているとのぶんがあり、さわぎになったという[3]。そのさだかん8ねん866ねんおうてんもんへん発生はっせいして、ばん善男よしお失脚しっきゃく源信みなもとのまこと籠居ろうきょして出仕しゅっしめてしまい、結局けっきょくさだかん10ねん868ねん)に源信みなもとのまこと事故死じこししてしまった。くわえて、このあいださだかん9ねん867ねん)には右大臣うだいじん藤原ふじわら良相りょうしょう大納言だいなごん平高棟たいらのたかむねといった大官たいかん相次あいついでぼっしたこともあってとおる急速きゅうそく昇進しょうしんする。さだかん12ねん870ねん大納言だいなごんのぼると、さだかん14ねん872ねん)には太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわらりょうぼう薨去こうきょともない、とおる太政官だじょうかん首班しゅはんって左大臣さだいじんにんぜられた[2]

しかし、さだかん18ねん876ねんみずか東宮とうぐうでんとしてつかえた貞明ていめい親王しんのう陽成ようぜい天皇てんのう)が即位そくいすると、やく15さい年下としした太政官だじょうかん席次せきじ下位かい右大臣うだいじんであったにもかかわらず、藤原基経ふじわらのもとつね天皇てんのう外戚がいせきとして摂政せっしょうにんじられたため、とおる上表じょうひょうして自宅じたく引籠ひきこももった[4]

もとけい8ねん884ねん陽成ようぜい天皇てんのう譲位じょういによって皇嗣こうしめぐ論争ろんそうきたさいに「いかがは。ちかすめらぎたねをたづねば、とおるらもはべるは」(自分じぶんすめらぎたね一人ひとりなのだから、候補こうほはいる)と主張しゅちょうしたが、みなもとくだったのち即位そくいしたれいはないとして、もとけい退しりぞけられたという逸話いつわが『だいかがみ太政大臣だじょうだいじんもと経伝けいでんのこ[2]。しかし当時とうじとおるわたしこめちゅうであり、史実しじつであるかどうかは不明ふめいである。なお、光孝みつたか天皇てんのう即位そくいするととおる政務せいむ復帰ふっきした。その光孝みつたか天皇てんのう崩御ほうぎょすると、天皇てんのうすべ臣籍しんせき降下こうかしてみなもととなっていたが、もとけいみなもとくだっていたみなもとじょうしょうすめらぎせき復帰ふっきさせて即位そくいさせている(宇多天皇うだてんのう[5]

仁和にわ3ねん(887ねんしたがえいちじょされた[2]宇多うたちょう寛平かんぺい3ねん891ねん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん藤原基経ふじわらのもとつねぼっし、とおるふたた太政官だじょうかん首班しゅはんった。寛平かんぺい7ねん895ねん)8がつ25にち薨去こうきょ[2]享年きょうねん74。最終さいしゅう官位かんい左大臣さだいじんしたがえいち没後ぼつごせいいち贈位ぞういけた[2]

人物じんぶつ

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紫式部むらさきしきぶ源氏物語げんじものがたり』の主人公しゅじんこう光源氏ひかるげんじ実在じつざいモデルの有力ゆうりょく候補こうほといわれる。

みなもととおる河原院かわらのいん

陸奥むつ出羽でわ按察使任官にんかんしたとおる京都きょうとろくじょう河原院かわらのいん現在げんざいわたるなりえん)に塩竈しおがま[注釈ちゅうしゃく 1]風景ふうけいした庭園ていえんつくらせたという故事こじは、伊勢物語いせものがたりなどの文学ぶんがくにも登場とうじょうし、世阿弥ぜあみさくのうとおる」のもとにもなった。のうとおる」では、陸奥みちのく塩竈しおがまのことをみみにしたとおる難波なんばうら大阪おおさかわん)から毎日まいにち海水かいすいんできょうまではこばせ、しおかせたとされる。ふるくから塩竈しおがまではしおづくり(藻塩もしおき)がおこなわれており、ここではとおるがそれを再現さいげんしようとした様子ようすえがかれている。『古今ここん和歌集わかしゅう』に収録しゅうろくされている紀貫之きのつらゆきの「きみまさでけむりたえにししおがまのうらさびしくもみえわたるかな」は、とおる死後しごしおけむりえてしまったことをうたったものである。

とおる邸宅ていたくのあったあたりは現在げんざい京都きょうと下京しもぎょう本塩竈もとしおがままちおよび塩竈しおがままち周辺しゅうへんであるとされ、付近ふきんには「塩竈しおがまさん(えんそうざん)」の山号さんごう上徳寺じょうとくじがある。またとおる死後しご河原院かわらのいん息子むすこのぼり相続そうぞく、さらに宇多うた上皇じょうこう献上けんじょうされており、上皇じょうこう滞在たいざいちゅうとおる亡霊ぼうれいあらわれたという伝説でんせつが『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』『こうだんしょうとうえる[2]嵯峨さがにあった別邸べっていの栖霞かん今日きょう嵯峨さが釈迦堂しゃかどう清凉寺せいりょうじである。また、宇治うじいとなんだ別邸べっていはのちに平等院びょうどういんとなった。

勅撰ちょくせん歌人かじんとして、『古今ここん和歌集わかしゅう』『こうせん和歌集わかしゅう』にかく2しゅずつの和歌わか作品さくひん採録さいろくされている[2][6]小倉おぐらひゃくにんいちしゅでは河原かわはら左大臣さだいじんられる。

大江匡房おおえのまさふさの『本朝ほんちょう神仙しんせんでん』には河原院かわらのいん大臣だいじんさむらいで、仙人せんにんになりそこねた人物じんぶつとして収録しゅうろくされている[7]仙道せんどうまなんでいるという近習きんじゅに「自分じぶんはもうすぐ仙人せんにんなれるが、とおるには仙骨せんこつがあるので一緒いっしょ仙境せんきょうこう」とさそわれるが、妻子さいしことわってからくと返答へんとうしたところ、妻子さいし愛情あいじょうをかけるようではとても仙道せんどう達成たっせいできない、と見限みかぎられる物語ものがたりとなっている。

みなもととおる塩竈しおがま関連かんれん

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さだかん6ねん864ねん陸奥むつ出羽でわ按察使任官にんかんされたとおる国府こくふ多賀城たがじょう赴任ふにんし、塩竈しおがまらしたという伝説でんせつが、宮城みやぎけん塩竈しおがま中心ちゅうしん根強ねづよのこっており、塩竈しおがまいずみおか塩釜しおがま高校こうこう周辺しゅうへん)はかつてみなもととおる邸宅ていたくかまえたといういいつたえから「とおるおか」ともばれている。

とおる多賀城たがじょう国府こくふみずか赴任ふにんしたとする伝承でんしょうについて、当時とうじ上層じょうそう貴族きぞく地方ちほうかん任官にんかんされた場合ばあいには、代理だいりもの現地げんち派遣はけんするはるかつとむ通例つうれいであったことにくわえ、要職ようしょくである中納言ちゅうなごんとの兼任けんにんであることや、天皇てんのう息子むすこであるとおる自身じしん地方ちほう赴任ふにんするというのはかんがえにくいことからも、実際じっさいはるかつとむであったとかんがえるのが妥当だとうとされる(斎藤さいとう善之よしゆき)。

いずれにせよ、とおる塩竈しおがまおよび周辺しゅうへん地域ちいきにゆかりのある人物じんぶつであり、塩竈しおがま本町ほんちょうのまちかど博物館はくぶつかんきゅうゑびや旅館りょかん)にはとおるぞう展示てんじされているほか、多賀城たがじょう浮島うきしま神社じんじゃ境内けいだいには、とおるを「おくせい一位源朝臣融卿」としてまつ大臣だいじんみや神社じんじゃ(おとどのみやじんじゃ)が存在そんざいする。また、塩竈しおがま菓子かしてん梅花ばいかどう」では、とおるにちなんだ商品しょうひんくろきなこクッキーとおる(ゆう)」を販売はんばいしている。

みなもととおるまつ神社じんじゃ

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とおるまつ神社じんじゃとして、滋賀しがけん大津おおつ鎮座ちんざするとおる神社じんじゃのほか、兵庫ひょうごけん尼崎あまがさき鎮座ちんざする琴浦ことうら神社じんじゃ宮城みやぎけん多賀城たがじょう鎮座ちんざする浮島うきしま神社じんじゃ境内けいだいしゃ大臣だいじんみや神社じんじゃ(おとどのみやじんじゃ)、京都きょうと京都きょうと鎮座ちんざするにしき天満宮てんまんぐう境内けいだいしゃ塩竈しおがま神社じんじゃなどがある。

かんれき

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ろく国史こくし』による。

系譜けいふ

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尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。

のぼり子孫しそん地方ちほうくだって武家ぶけとなり、渡辺わたなべ松浦まつうら蒲池かまちなどの子孫しそんつたえている。詳細しょうさい嵯峨さがはじめ参照さんしょう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 当時とうじの「塩竈しおがま」は現在げんざい松島湾まつしまわん一帯いったいし、「塩竈しおがまうら」「千賀せんがうら」「ませ(まがき)のしま」など、当地とうち歌枕うたまくらとした和歌わかおお存在そんざいすることからも、じんあこがれのであったことがわかる。

出典しゅってん

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  1. ^ …棲霞てら嵯峨天皇さがてんのうだい12皇子おうじ左大臣さだいじんみなもととおる(とおる)(822―895)…|清涼寺せいりょうじ コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h 日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかい日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくだい辞典じてんだい5かん岩波書店いわなみしょてん、1984ねん12月、630ぺーじ 
  3. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん10ねんうるう12がつ28にちじょう
  4. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくおよび『ちゅう右記うき
  5. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろく仁和にわさんねんはちがつ廿にじゅうにちへいとらはちがつ廿にじゅうろくにちちょうしげるりょうじょう
  6. ^ 勅撰ちょくせん作者さくしゃ部類ぶるい[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  7. ^ 吉元よしもと昭治しょうじ不老ふろう長寿ちょうじゅへのたび:ニッポン神仙しんせんでん集英社しゅうえいしゃ 1998 ISBN 4-08-781139-5 pp.124-125.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 公卿くぎょう補任ほにん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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