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伊勢いせこく

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伊勢いせこく

-伊勢いせこく
-東海道とうかいどう
別称べっしょう いきおいしゅう(せいしゅう)[ちゅう 1]
所属しょぞく 東海道とうかいどう
相当そうとう領域りょういき 三重みえけんきた中部ちゅうぶ愛知あいちけん弥富やとみ一部いちぶ愛知あいちけんあい西市さいち一部いちぶ岐阜ぎふけん海津かいづ一部いちぶ
しょもと
国力こくりょく 大国たいこく
距離きょり 近国きんごく
ぐんさとかず 13ぐん84さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
伊勢いせ国府こくふ 三重みえけん鈴鹿すずか伊勢いせ国府こくふあと
伊勢いせ国分寺こくぶんじ 三重みえけん鈴鹿すずか伊勢いせ国分寺こくぶんじあと
伊勢いせ国分こくぶ尼寺あまでら推定すいてい三重みえけん鈴鹿すずか
一宮いちのみや 椿つばきだい神社じんじゃ三重みえけん鈴鹿すずか
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伊勢いせこく(いせのくに)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。東海道とうかいどうぞくする。

伊勢いせ」の名称めいしょう由来ゆらい[編集へんしゅう]

語源ごげんは「りょぜい(=おとうと)」であり、出雲いずも分派ぶんぱとしての機能きのうから発達はったつしたというせつがある。また、うみちかいことから「イソ」がてんじたとするせつもある。

表記ひょうきれいとしては、「こく」もられる(『ぞく日本にっぽん天平てんぴょうかちたから4ねん10がつ8にちじょう)。

領域りょういき[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしん直前ちょくぜん領域りょういきは、現在げんざい下記かき区域くいき相当そうとうする。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

日本書紀にほんしょき』などのやまとひめいのち伝説でんせつではうつくこく(うましくに)としょうされた。

伊勢いせこく風土記ふどき逸文いつぶんによると、神武じんむ東征とうせいさい派遣はけんされた天日てんじつ別命べつめいが、国津くにつしん土着どちゃく勢力せいりょく)の勢津せいづ(イセツヒコ)を追放ついほうして伊勢いせ平定へいてい復命ふくめいし、これをよろこんだ神武じんむ天皇てんのうかみ「イセ」にちなんで命名めいめいしたとされる。大和やまと政権せいけん勢力せいりょくがこの地域ちいきにまでおよんだことを神格しんかくしたものとかんがえるせつがある[1]

たから寿男としおは、勢津せいづ後裔こうえい国造くにのみやつこ一族いちぞく動向どうこうから、弥生やよい時代じだい後期こうき神武じんむ天皇てんのう勢力せいりょくわれて東国とうごくのがれたかみせまいのち史実しじつがその実態じったいであると主張しゅちょうした[2]。なお天日てんじつ別命べつめい伊勢いせ国造くにのみやつこになったとされる。

7世紀せいき孝徳天皇こうとくてんのう時代じだいに、島津しまつ国造くにのみやつこ伊賀いが国造くにのみやつこけんづくり逢県づくり川俣かわまたけんづくりいちしむらけんづくり飯高ひだかけんづくり阿野あのけんづくり領域りょういきふくんだ伊勢いせ国造くにのみやつこ領域りょういき中心ちゅうしん成立せいりつした。

天武天皇てんむてんのう9ねん680ねん)7がつ伊賀いがこくぶんおけした。

8世紀せいきはじめまでに志摩しまこく分立ぶんりつしたが、その正確せいかく時期じき不明ふめいである。分立ぶんりつ当初とうしょ熊野灘くまのなだめんした沿岸えんがん現在げんざいみなみ伊勢いせまちにあたる地域ちいき)は志摩しまこくぞくしていたが、天正てんしょう10ねん1582ねん)、伊勢いせ国司こくし北畠きたばたけ信雄のぶお紀伊きいしん宮城みやぎおも堀内ほりうちぜん荷坂峠にざかとうげさかいとして、伊勢いせこく度会わたらいぐん紀伊きいこく牟婁むろぐん編入へんにゅうしたため、志摩しまこく現在げんざい鳥羽とっぱ志摩しまだけの地域ちいきとなった。

近世きんせい以降いこう沿革えんかく[編集へんしゅう]

国内こくない施設しせつ[編集へんしゅう]

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国府こくふ[編集へんしゅう]

長者ちょうじゃ屋敷やしき遺跡いせき伊勢いせ国府こくふあと
三重みえけん鈴鹿すずか

和名わみょうしょう』によれば伊勢いせ国府こくふ鈴鹿すずかぐん所在しょざいした[3]奈良なら時代じだいなかごろの国府こくふ前期ぜんき国府こくふ)は長者ちょうじゃ屋敷やしき遺跡いせき鈴鹿すずか広瀬ひろせまち西富田にしとみだまち北緯ほくい3453ふん3.85びょう 東経とうけい13629ふん50.47びょう / 北緯ほくい34.8844028 東経とうけい136.4973528 / 34.8844028; 136.4973528 (長者ちょうじゃ屋敷やしき遺跡いせき奈良なら時代じだい伊勢いせ国府こくふあと))とされ[4]同地どうちは「伊勢いせ国府こくふあと」としてくに史跡しせき指定していされている[5]発掘はっくつ調査ちょうさでは政庁せいちょうおよび官衙かんが遺構いこう発見はっけんされているが、国府こくふとしての整備せいび完成かんせいのまま機能きのうえたとられる[6]

初期しょき国府こくふ後期こうき国府こくふ奈良なら時代じだい前期ぜんき奈良なら時代じだい後期こうき-平安へいあん時代じだい)にかんしては、鈴鹿すずか国府こくふまち付近ふきんにある可能かのうせい非常ひじょうたかいとされる[4]同地どうちでは三宅みやけ神社じんじゃ遺跡いせき天王山てんのうざん西にし遺跡いせきなどで関連かんれん遺構いこうつかっているが、中心ちゅうしん施設しせついま検出けんしゅつされていない[6]

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら[編集へんしゅう]

なお国分寺こくぶんじあと国分こくぶ寺跡てらあとそばでは、白鳳はくほう寺院じいん遺構いこうである南浦みなみうら廃寺はいじあと大鹿おおしか廃寺はいじあと)や、河曲かまがりぐん衙跡(狐塚きつねづか遺跡いせき)の立地りっちられる[7]

神社じんじゃ[編集へんしゅう]

延喜えんぎ式内しきないしゃ

延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ189しゃ小社しょうしゃ235223しゃけい253232しゃ記載きさいされている(「伊勢いせこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ9しゃ以下いかしめすもので、そのうち2しゃ名神めいしん大社たいしゃである。

総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか

中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』にもとづく一宮いちのみや以下いか一覧いちらん[3]

なお、岐神しゃ鈴鹿すずかいちみやまち)にかんしても『だい日本国にっぽんこく一宮いちのみや』をもと一宮いちのみやとするせつられる。しかしこれは、椿つばきだい神社じんじゃかんして「椿つばきみや」を「チングウ」とまれないように「椿つばきみや<岐神しゃ>」としるされたのが、岐神しゃとの混同こんどうまねいたことによるとされる[3]

安国寺あんこくじ利生りしょうとう[編集へんしゅう]

地域ちいき[編集へんしゅう]

ぐん[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいはん[編集へんしゅう]

伊勢いせこくはん一覧いちらん
はんめい 居城いじろ 藩主はんしゅ
はん じょう

富田とみたしんだか(7まんせき、1600ねん-1608ねん)。伊予いよ宇和島うわじま12まんせきうつりふう
藤堂とうどう(22まん950せき→27まん950せき→32まん3950せき→27まん3950せき→27まん950せき、1608ねん-1871ねん

久居ひさいはん
はんささえはん
久居ひさい陣屋じんや

藤堂とうどう(5まんせき→5まん3000せき→5まん8700せき、1669ねん-1871ねん

桑名くわなはん くわ名城めいじょう

本多ほんだ(10まんせき、1601ねん-1617ねん)。播磨はりま姫路ひめじはん15まんせきうつりふう
松平まつだいら久松ひさまつ(11まんせき→11まん7000せき→11まんせき、1617ねん-1635ねん伊予いよ松山まつやまはん15まんせきうつりふう
松平まつだいら久松ひさまつ(11まん3000せき、1635ねん-1710ねん)。越後えちご高田たかだはん11まん3せんせきうつりふう
松平まつだいら奥平おくだいら (10まんせき、1710ねん-1823ねん武蔵むさしにんはん10まんせきうつりふう
松平まつだいら久松ひさまつ (11まん3000せき→(1868年取としとつぶし)→6まんせき、1823ねん-1871ねん

伊勢いせ亀山かめやまはん 伊勢亀いせがめ山城やましろ

せき一政かずまさ(3まんせき、1600ねん-1610ねん)。伯耆ほうき黒坂くろさかはん5まんせきうつりふう
松平まつだいら忠明ただあき(5まんせき、1610ねん-1615ねん)。摂津せっつ大坂おおさかはん10まんせきうつりふう
天領てんりょう(1615ねん-1619ねん
三宅みやけ(1まんせき→1まん2せんせき、1619ねん-1636ねん)。三河みかわ挙母ころもはん1まん2せんせきうつりふう
本多ほんだ俊次しゅんじ(5まんせき、1636ねん-1651ねん)。近江おうみ膳所ぜぜはん7まんせきうつりふう
石川いしかわ憲之のりゆき(5まんせき、1651ねん-1669ねん)。山城やましろよどみはん6まんせきうつりふう
松平まつだいらじょう(6まんせき、1669ねん-1717ねん)。山城やましろよどみはん6まんせきうつりふう
板倉いたくら(5まんせき、1717ねん-1744ねん)。備中びっちゅう松山まつやまはん5まんせきうつりふう
石川いしかわ(6まんせき、1744ねん-1871ねん

長島ながしまはん 長島ながしましろ

菅沼すがぬま(2まんせき、1601ねん-1621ねん)。近江おうみ膳所ぜぜはん3まん1せんせきうつりふう
松平まつだいら久松ひさまつ(1まんせき、1649ねん-1702ねん)。改易かいえき
増山ますやま(2まんせき、1702ねん-1871ねん

神戸こうべはん 神戸こうべじょう

一柳いちりゅう直盛なおもり(5まんせき、1601ねん-1636ねん)。伊予いよ西条さいじょうはん6まん8せんせきうつりふう
天領てんりょう(1636ねん-1651ねん
石川いしかわ(1まんせき→2まんせき→1まん7せんせき、1651ねん-1732ねん)。常陸ひたち下館しもだてはん2まんせきうつりふう
本多ほんだ(1まんせき→1まん5せんせき、1732ねん-1871ねん

菰野こものはん 菰野こもの陣屋じんや

土方どかた(1まん2000せき、1600ねん-1871ねん

田丸たまるはん 田丸たまるしろ

稲葉いなば(4まん5700せき、1600ねん-1616ねん)。摂津せっつ中島なかじまはん4まん5700せきうつりふう
久野くの(1まんせき、1619ねん-1871ねん)。ただし、紀伊きい和歌山わかやまはん家老がろう

松坂まつさかはん 松坂まつさかしろ

古田ふるた(5まん5せんせき、1600ねん-1619ねん)。石見いわみ浜田はまだはん5まん4せんせきうつりふう領地りょうち紀州きしゅうはんりょう

伊勢いせ上野うえのはん 伊勢いせ上野うえのじょう

分部わけべ(2まんせき、1600ねん-1619ねん)。近江おうみ大溝おおみぞはん2まんせきうつりふう領地りょうち紀州きしゅうはんりょう

八田はったはん 東阿倉川ひがしあくらがわ陣屋じんや

加納かのう(1まんせき→1まん3000せき、1726ねん-1826ねん)。であった上総かずさ一宮いちのみやはん陣屋じんやうつ

伊勢いせ西条さいじょうはん 菊間きくま陣屋じんや

有馬ありま(1まんせき、1727ねん-1737ねん(1745ねん))。南林崎みなみはやさき陣屋じんやうつ

南林崎みなみはやさきはん 南林崎みなみはやさき陣屋じんや

有馬ありま(1まんせき、1737ねん(1745ねん)-1781ねん)。上総かずさ五井ごいはん陣屋じんやうつ

はやしはん はやししろ

織田おだ信重のぶしげ(1まんせき、1600ねん-1615ねん)。改易かいえきはいはん

雲出くもいではん

蒔田まきたひろじょう(1まんせき、1600ねん-1603ねん)。備中びっちゅう浅尾あそおはんに1まん3せんせきうつりふう領地りょうちはんりょう

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

国司こくし[編集へんしゅう]

伊勢いせまもる[編集へんしゅう]

伊勢いせかい[編集へんしゅう]

室町むろまち時代ときよ伊勢いせ国司くにじ[編集へんしゅう]

室町むろまち幕府ばくふ成立せいりつも、南朝なんちょう重臣じゅうしん北畠きたばたけ親房ちかふさ子孫しそん伊勢いせ国司くにじとなってみなみ伊勢いせ勢力せいりょくほこり、きた伊勢いせおさめる幕府ばくふ守護しゅご対立たいりつした。5だい国司こくし伊勢いせ北畠きたばたけとしては4だい北畠きたばたけ教具きょうぐだい幕府ばくふ和睦わぼくし、伊勢いせ守護しゅごねるようになった。

武家ぶけ官位かんいとしての伊勢いせまもる[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい以前いぜん[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

守護しゅご[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら幕府ばくふ[編集へんしゅう]

室町むろまち幕府ばくふ[編集へんしゅう]

志摩しまこく守護しゅご兼任けんにん

戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

伊勢いせこく合戦かっせん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ しゅう」は伊賀いがこく別称べっしょうまれにだが、近鉄きんてつ特急とっきゅうばん特急とっきゅうめい特急とっきゅうのように「」とりゃくしている事例じれいもある。
  2. ^ いずれも1880ねん明治めいじ13ねん)に尾張おわりこく移管いかん
  3. ^ 1880ねん明治めいじ13ねん)に尾張おわりこく移管いかん
  4. ^ いずれも1883ねん明治めいじ16ねん)に美濃みのこく移管いかん
  5. ^ 伊勢神宮いせじんぐう首位しゅいほこらみや度会わたらいぶんけい
  6. ^ うるう4がつ25にち(1868ねん6月15にち)とする資料しりょうもあるが、ここでは「角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん」の記述きじゅつによった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 稲本いなもと紀昭のりあき駒田こまだ利治としはる勝山かつやま清次せいじ上野うえの秀治しゅうじ西川にしかわひろし三重みえけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 2000ねん
  2. ^ たから寿男としお『「神武じんむ東征とうせい」のはらぞう青垣あおがき出版しゅっぱん、2017ねん
  3. ^ a b c 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』(岩田いわた書院しょいん、2000ねん)pp. 82-89。
  4. ^ a b 伊勢いせ国府こくふあと19』 鈴鹿すずか、2017ねん、p. 1(リンクは奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ全国ぜんこく遺跡いせき報告ほうこく総覧そうらん」)。
  5. ^ 伊勢いせ国府こくふあと - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  6. ^ a b 国史こくしあと伊勢いせ国府こくふあと -三重みえけん鈴鹿すずか長者ちょうじゃ屋敷やしき遺跡いせき発掘はっくつ調査ちょうさ-」 (PDF)鈴鹿すずか考古こうこ博物館はくぶつかん)。
  7. ^ a b c 国史こくしあと伊勢いせ国分寺こくぶんじあと (PDF)鈴鹿すずか考古こうこ博物館はくぶつかん)。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]