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諏訪すわはん

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諏訪すわはん(すわはん)は、信濃しなのこく諏訪すわぐん周辺しゅうへん領有りょうゆうしたはん高島たかしまはん(たかしまはん)ともばれる。はんちょう高島たかしましろ長野ながのけん諏訪すわ)。

はんれき[編集へんしゅう]

はんちょうかれた高島たかしまじょう復興ふっこう天守てんしゅなど)
小淵沢こぶちざわ付近ふきん上空じょうくうから諏訪湖すわこのぞむ。遠方えんぽう松本盆地まつもとぼんち
葛飾かつしか北斎ほくさい 富嶽ふがくさんじゅうろくけい 信州しんしゅう諏訪湖すわこ高島たかしまじょうえがかれている。
高島たかしましろ本丸ほんまるまるさんまる図解ずかいみぎの「4」の部分ぶぶん松平まつだいらただしてるあずか屋敷やしきのために増設ぞうせつされた「みなみまる部分ぶぶん以降いこう数々かずかず配流はいるしゃをここであずかった。

戦国せんごく時代じだい諏訪すわ諏訪すわ神社じんじゃだいしゅく(おおほうり)である名門めいもん諏訪すわ支配しはいにあった。しかし天文てんもん11ねん1542ねん)、武田たけだ信玄しんげん晴信はるのぶ)の侵攻しんこうけて諏訪すわよりゆきじゅう切腹せっぷくとなり、諏訪すわ宗家そうけ滅亡めつぼうした。しかしよりゆきじゅう従兄弟いとこたる諏訪すわよりゆきただしは、武田たけだ支配しはいなか神官しんかんとしてのこった。

天正てんしょう10ねん1582ねん)3がつ武田たけだ勝頼かつより織田おだ信長のぶなが徳川とくがわ家康いえやす連合れんごうぐんによって滅亡めつぼうし、さらに同年どうねん6がつ信長のぶなが本能寺ほんのうじへん横死おうしすると信濃しなの甲斐かいめぐ天正てんしょうみずのえうまらん発生はっせいし、その過程かていにおいてよりゆきちゅう自立じりつして諏訪すわ再興さいこうする。その信濃しなの侵攻しんこうしてきた家康いえやすぐんたたかったが、やがて家康いえやす和睦わぼくしその家臣かしんとなった。天正てんしょう18ねん1590ねん)、徳川とくがわ関東かんとううつりふうされると、よりゆきちゅう家康いえやすしたがって諏訪すわはなれ、武蔵むさしこく奈良梨ならなし(のち、上野うえのこく那波なばぐん惣社そうしゃうつりふう)に所領しょりょうあたえられた。

わって日根野ひねのひろこうきち諏訪すわうつった同年どうねんにゅうふうする。そしてこうきちよしあきら家督かとくいだが、慶長けいちょう6ねん1601ねん下野げや壬生みぶはんうつりふう一説いっせつにはげんふう)される。

同年どうねん諏訪すわよりゆきちゅう諏訪すわよりゆきすい旧領きゅうりょう高島たかしま復帰ふっきした。所領しょりょう当初とうしょは2まん7000せき、のち大坂おおさかじんさんじんしただい2だい藩主はんしゅちゅうつねはその功績こうせきにより元和がんわ4ねん1618ねん)に5000せき加増かぞうされ、3まん2000せきとなる。だい3だい藩主はんしゅ忠晴ただはる時代じだいちゅうつね遺言ゆいごんにより忠晴ただはるおとうとよりゆきかげよりゆきひさにそれぞれ1000せきぶんして3まんせきとなった。以後いご諏訪すわ支配しはい明治めいじ時代じだいいたった。

初代しょだい藩主はんしゅよりゆきすい流罪るざいとなった松平まつだいらただしてるだい5だい藩主はんしゅちゅうとらおなじく吉良きら義周よしちか身柄みがらあずかりをつとめた。高島たかしまじょうかくひと増設ぞうせつし、とも増設ぞうせつ義周よしちかときにも改装かいそう)された「みなみまるあずかり屋敷やしきまい、丁重ていちょうあつかわれた[1]

天保てんぽう7ねん1836ねん)の天保てんぽう騒動そうどうでは甲府こうふ勤番きんばんいのちけて、一揆いっき鎮圧ちんあつのために甲斐かいこく派兵はへいした。天狗てんぐとうらんでは元治もとはる元年がんねん1864ねん)11月に諏訪すわはんへい松本まつもとはんへい共同きょうどうして中山道なかせんどう和田わだとうげ天狗てんぐとう交戦こうせんしたが、敗北はいぼくしている(和田わだみね合戦かっせん樋橋とよはし戦争せんそう[2]明治めいじ元年がんねん1868ねん)の戊辰戦争ぼしんせんそうではしん政府せいふぐんくわわり、甲州こうしゅう勝沼かつぬまたたか北越ほくえつ戦争せんそう会津あいづ戦争せんそう参戦さんせんした。

明治めいじ4ねん1871ねん)の廃藩置県はいはんちけんにより高島たかしまけんとなった。その筑摩つかまけん長野ながのけん編入へんにゅうされた。諏訪すわ明治めいじ17ねん1884ねん子爵ししゃくとなり、華族かぞくれっせられた。

歴代れきだい藩主はんしゅ[編集へんしゅう]

日根野ひねの[編集へんしゅう]

外様とざま 2まん7000せき(1590ねん - 1601ねん) 

  1. こうきち天正てんしょう18ねん(1590ねん藩主はんしゅとなる。
  2. よしあきら慶長けいちょう5ねん(1600ねん藩主はんしゅとなる。

諏訪すわ[編集へんしゅう]

譜代ふだい 2まん7000せき→3まん2000せき→3まんせき (1601ねん - 1871ねん

  1. よりゆきすい 慶長けいちょう6ねん1601ねん藩主はんしゅとなる。
  2. ちゅうつね 寛永かんえい17ねん1640ねん藩主はんしゅとなる。 加増かぞうにより3まん2000せき
  3. 忠晴ただはる あかりれき3ねん1657ねん藩主はんしゅとなる。ぶんにより3まんせき
  4. ちゅうとら 元禄げんろく8ねん1695ねん藩主はんしゅとなる。
  5. ちゅうりん とおる6ねん1721ねん藩主はんしゅとなる。
  6. ちゅうあつ たかられき13ねん1763ねん藩主はんしゅとなる。
  7. ちゅう 天明てんめい元年がんねん1781ねん藩主はんしゅとなる。
  8. 忠恕ただひろ 文化ぶんか13ねん1816ねん藩主はんしゅとなる。
  9. 忠誠ちゅうせい 天保てんぽう11ねん1840ねん藩主はんしゅとなる。幕末ばくまつ混乱こんらん短期間たんきかんながら、幕府ばくふ老中ろうじゅうつとめた。
  10. ちゅうれい 慶応けいおう4ねん1868ねん藩主はんしゅとなる。

諏訪すわ家時いえときだい重臣じゅうしん[編集へんしゅう]

幕末ばくまつ領地りょうち[編集へんしゅう]

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  1. ^ 諏訪すわ文書ぶんしょ諏訪すわ御用ごようじょうとめちょう
  2. ^ 和田わだみね合戦かっせん樋橋とよはし戦争せんそうなんでも諏訪すわ百科ひゃっか

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
信濃しなのこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1590ねん - 1871ねん 高島たかしまはん高島たかしまけん
次代じだい
筑摩つかまけん