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和田わだとうげ (長野ながのけん)

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和田わだとうげ
旧道きゅうどう和田峠わだとうげトンネル(和田わだ宿やどがわ坑口こうこう
2004ねん8がつ撮影さつえい
地図
和田わだとうげ位置いち
所在地しょざいち 長野ながのけん小県ちいさがたぐん長和おさわまち諏訪すわぐん下諏訪しもすわまち
座標ざひょう 北緯ほくい368ふん42びょう 東経とうけい1388ふん38びょう / 北緯ほくい36.14500 東経とうけい138.14389 / 36.14500; 138.14389座標ざひょう: 北緯ほくい368ふん42びょう 東経とうけい1388ふん38びょう / 北緯ほくい36.14500 東経とうけい138.14389 / 36.14500; 138.14389
標高ひょうこう 1,531 m
山系さんけい 筑摩ちくま山地さんち
通過つうか 国道こくどう142ごう和田峠わだとうげトンネル)
新和田しんわだトンネル有料ゆうりょう道路どうろ新和田しんわだトンネル)
和田わだとうげ位置いち諏訪湖すわこきた北東ほくとうやく10km、長野ながのけん
プロジェクト 地形ちけい
テンプレートを表示ひょうじ

和田わだとうげ(わだとうげ)は、中山道なかせんどう中仙道なかせんどう)のとうげで、長野ながのけん小県ちいさがたぐん長和おさわまち諏訪すわぐん下諏訪しもすわまちあいだにある。最大さいだい標高ひょうこう1,531m。

地理ちり

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筑摩ちくま山地さんちえるとうげひとつ。中央ちゅうおう分水ぶんすいかいにあり、とうげ北側きたがわ千曲川ちくまがわ信濃川しなのがわ水系すいけいみず日本海にほんかいそそぎ、とうげ南側みなみがわ諏訪湖すわこ天竜川てんりゅうがわ水系すいけいみず太平洋たいへいようそそぐ。

地質ちしつ

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縄文じょうもん時代じだいには黒曜石こくようせき産出さんしゅつとして利用りようされ、石鏃せきぞく加工かこうされた[1]黒曜石こくようせき加工かこうしてつくられた鏃(やじり)が、和田わだとうげから直線ちょくせん距離きょりで650kmはなれた北海道ほっかいどう木古内きこないまち遺跡いせきからも発見はっけんされており、縄文じょうもん時代じだいにはとうげ付近ふきん交易こうえき出発しゅっぱつてんであったことがしめされている[2]現在げんざいでも黒曜石こくようせき地元じもと名産めいさん石材せきざいやアクセサリーの材料ざいりょうとうとしてあつかわれている[3]まん柘榴ざくろせき産地さんちでもあるが、乱獲らんかく防止ぼうしのために現在げんざい採集さいしゅう禁止きんしである[4]

交通こうつう変遷へんせん

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江戸えど時代じだい歴史れきし

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中山道なかせんどうは、江戸えど幕府ばくふによって整備せいびされた街道かいどうであり、平均へいきんすると2さと程度ていど間隔かんかく宿場しゅくばまちかれていたが、この和田峠わだとうげけわしいやまなかにあり、とうげ江戸えどがわ和田わだ宿やど京都きょうとがわ下諏訪しもすわ宿やど間隔かんかくじつに5さとはんじゃくながい。冬季とうき降雪こうせつおおく、中山道なかせんどう最大さいだい難所なんしょとされていた。このため、途中とちゅうなん箇所かしょ旅人たびびとのための避難ひなんしょ茶屋ちゃやもうけられていたほどである。これらの茶屋ちゃやは「西にし餅屋もちや下諏訪しもすわ宿やどがわ)」「ひがし餅屋もちや和田わだ宿やどがわ)」「接待せったい和田わだ宿やどがわ)」などとばれ、いまでも地名ちめいにそののこしている。

1864ねん12月18にち元治もとはる元年がんねん11月20にち)、和田わだ宿やどから下諏訪しもすわ宿やどかってとうげ通過つうかした水戸みと浪士ろうし天狗てんぐとう高島たかしまはん松本まつもとはん連合れんごうぐんがこの交戦こうせんし、天狗てんぐとう勝利しょうりした(和田わだとうげたたかい)。

明治めいじ昭和しょうわ時代じだい戦前せんぜん

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江戸えど時代じだい中山道なかせんどう徒歩とほどうであり、くに史跡しせきとしての指定していけ、一部いちぶ散策さんさくとして整備せいびされている。国道こくどう142ごう旧道きゅうどうは、徒歩とほどうとは微妙びみょうことなるルートをとおっている(最大さいだい300mほどはなれている)。

1876ねんに、旧来きゅうらい街道かいどうわって現存げんそんするトンネルの真上まうえ経由けいゆする紅葉こうようきょう新道しんどう開削かいさくされ、交通こうつうはそちらにうつった。これがほぼ国道こくどう142ごう旧道きゅうどうのルートにまで踏襲とうしゅうされることになる。

それでも高地こうち冬期とうき通行つうこう困難こんなんであることはわりなく、大正たいしょう時代じだい以降いこう自動車じどうしゃ通行つうこう可能かのうとする程度ていど整備せいびはかられるようになり、1933ねんには現存げんそんする和田峠わだとうげトンネルが開通かいつうしている。

昭和しょうわ時代じだい戦後せんご以後いご

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新和田しんわだトンネル(下諏訪しもすわがわ

1953ねんには和田わだとうげふく前後ぜんご区間くかん国道こくどう142ごう指定していされた。和田峠わだとうげトンネルは戦前せんぜん戦後せんごつうじ、坑口こうこうコンクリートおおいを延伸えんしんするなどの対策たいさく積雪せきせつとうへの対処たいしょはかられてきたが、幅員ふくいん自動車じどうしゃ1だいぶんきょうせまいままで、現在げんざい信号しんごう設置せっちして交互こうご通行つうこうするようにされている。

国道こくどう142ごう昇格しょうかくしてからの和田わだとうげは、対向たいこう2車線しゃせん確保かくほできない狭隘きょうあいぶりから、年々ねんねん増加ぞうかする自動車じどうしゃ交通こうつうさばききれなくなった。そのため、代替だいたいとしておおきくルートをえ、ひく標高ひょうこう新和田しんわだトンネルで貫通かんつうする新和田しんわだトンネル有料ゆうりょう道路どうろ(2022ねん無料むりょう)が1978ねん開通かいつうしたことで、旧道きゅうどう幹線かんせん道路どうろとしての役割やくわりえた。旧道きゅうどう国道こくどう指定してい解除かいじょされていないものの、現在げんざい幹線かんせん自動車じどうしゃ交通こうつう大半たいはんしんトンネル経由けいゆ新道しんどうまかなわれている。

また、尾根おねどうビーナスラインきゅう霧ヶ峰きりがみね有料ゆうりょう道路どうろ)がきゅう中山道なかせんどうまじわるかたちでかよっており、旧道きゅうどうのトンネルの長和おさわがわ出口でぐち付近ふきん接続せつぞくされている(ビーナスラインが有料ゆうりょうだったころ料金りょうきんしょ設置せっちされていた)。この連絡れんらくもあって、旧道きゅうどう観光かんこう道路どうろとしての性格せいかくつよくなっている。

史跡しせきどころ

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  • 唐沢からさわ一里塚いちりづか和田わだ宿やどから和田わだとうげへの途中とちゅうきゅう唐沢からさわむら街道かいどうえによりのこされるかたちになった中山道なかせんどう当時とうじのままのりょうづかのこる。日本橋にほんばしから51番目ばんめ[5]
  • 広原こうげん一里塚いちりづか和田峠わだとうげひがし餅屋もちや江戸えどかたりょうづかのこる。接待せったいからこの一里塚いちりづかまでを長坂ながさかという。日本橋にほんばしから52番目ばんめ[6]
  • ひがし餅屋もちや
  • 永代ながよ人馬じんば施行しこうしょ
  • 湧水わきみずくろ耀のみず」(新和田しんわだトンネル長和おさわがわ出口でぐちちかく)
  • 浪人ろうにんづか水戸みと浪士ろうしはか

その

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ワダソウのはな福島ふくしまけんにて撮影さつえい

ナデシコ多年草たねんそうである「ワダソウ」(和田わだくさ)は、長野ながのけん和田わだとうげおおられることから名付なづけられた[7]

となり宿やど

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中山道なかせんどう 和田わだ宿やど - (和田峠わだとうげ) - 下諏訪しもすわ宿やど

出典しゅってん

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  1. ^ 黒曜石こくようせき研究けんきゅう動向どうこう・3 - 6せつ
  2. ^ 長野ながのさん黒曜石こくようせき北海道ほっかいどう出土しゅつど 650キロはなれた縄文じょうもん遺跡いせき”. 共同通信きょうどうつうしん (2018ねん12月14にち). 2018ねん12月16にち閲覧えつらん
  3. ^ 地域ちいき資源しげん全国ぜんこく展開てんかい支援しえん事業じぎょう黒曜石こくようせき物語ものがたり
  4. ^ 和田わだとうげ柘榴ざくろせき(ガーネット)
  5. ^ 八木やぎ牧夫まきお「ちゃんとあるける中山道なかせんどうろくじゅうきゅう(西にし)」やま渓谷社けいこくしゃp.124
  6. ^ 八木やぎ牧夫まきお「ちゃんとあるける中山道なかせんどうろくじゅうきゅう(西にし)」やま渓谷社けいこくしゃp.126
  7. ^ コトバンク 和田わだくさとは(デジタル大辞泉だいじせん解説かいせつ”. 2018ねん5がつ9にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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